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◆会報第98号より-02 橋本家文書

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《講演会》
橋本家文書の連歌からみた
 里村紹巴じょうはと細川幽斎ゆうさい(藤孝)
―橋本等安との交流―

2020年6月 
八幡市文化センターにて
竹中 友里代(京都府立大学 文学部特任講師)

 6月27日午後2時より、八幡市文化センター第3会議室にて「講演と交流の集い」が表題のタイトルで行われました。以下に講演概要を講演会開催の担当がまとめて、講師の京都府立大学の竹中先生に確認をしていただきました。
 この春先からの新型コロナウィルの感染防止のために弊会では3月から5月までの行事は全て中止しましたが、政府から4月初めに出された非常事態宣言も5月末に解除されたので本講演会から活動を再開しました。事前の参加申し込みは20名未満でしたが、当日参加の方が多く参加者は30名でした。
 また、連歌研究の大家の鶴崎裕雄先生(帝塚山学院大学名誉教授)には、ご高齢にも拘わらす大阪狭山市から参加されて、講演後の質疑応答時に連歌に関して多方面にわたるご教授をいただき感謝します。

1.橋本家の文書調査

(1)地元有志による調査
 2017年1月より地元有志による調査が開始される。
 地元有志は既に古文書読解能力と資料整理に数々の実績を持ち、橋本家文書整理では更に進化した。番号付与、整理ラベル番号貼付、目録エクセルデータ化、写真撮影を行い総点数は810点に及んだ。古文書群の全体把握や文化財指定、史料公開には必須作業であった。

(2)概要
 慶長期から寛永期を中心とする史料群で、安居神事、狩尾社修復遷宮関係資料、八幡宮祭礼図、家康領知朱印状、橋本町自治資料(町定書・茶屋仲間定・旅籠病人届・捨子養子届)等、土地売買証文等、連歌など。

(3)以前の調査
 昭和63年から平成元年にかけて京都府古文書所在確認調査を実施。八幡市誌作成時の橋本家文書調査では、封筒による粗仕分けが行われた。
『八幡市誌』第2巻(1980年)では等安を紹介しているが、京都府教育会綴喜郡部会編『山城綴喜郡誌』明治41年刊からの人物引用がある。

2.石清水八幡宮神人 橋本家

(1)八幡宮領橋本町の社士
  慶長5年5月25日橋本等安宛、徳川家康領知朱印状所持、家康朱印状361通発給の内の1通で、寛文5年(1665)には安居本頭神人12人組に組織され、警固社士であった。中世橋本・山崎の渡しの管理で財力を蓄えた。(参考2011年会報14号福島克彦氏「中世都市橋本を学ぶ」)。
  近世も引き続き社士として橋本地域の自治を担い、狩尾社や毘沙門堂(米尾寺)などの祭祀をしていた。
  
(2)橋本地域の景観、橋本寺
 橋本の街道沿いには多くの寺庵があった。湯沢山茶久蓮寺(常徳寺)、西遊寺、慈眼院、米尾寺、西方寺、地蔵堂等。橋本寺とは「男山考古録」長濱尚次(嘉永元年1848)にあるが、法華宗にて、橋本当好(幕末の人)の先祖等庵が建立。落合利経(神宝所神人五郎右衛門)の隣地也と、山崎橋のたもとにある称ではなく、橋本氏が寺なれば橋本寺と称している。石清水八幡宮全図によれば、渡しより北に橋本寺の旧跡がある。元禄5年(1692)京都町奉行へ提出の「神社仏閣幷坊舎寺庵改帳」によると京都本国寺末寺(法華宗)で、開基は不詳であるが、天文2年(1533)橋本氏の一建立で創建された。等安(?~慶長18(1613))が建立したとは考えにくゝ、等安以前の世代の建立か。橋本寺は無年貢地で、朱印地を持たないため、橋本家の支援に拠った。寛保3年(1743)註進記中に橋本寺跡というカ所でたり(男山考古録)、石清水八幡宮全図(18C中頃)にも橋本寺跡と表示され橋本寺は18世紀初めころに退転したらしい。
  
(3)橋本等安
 『山城綴喜郡誌』によると、橋本当好(高好の誤記)と称し、通称満介、老後等安と改む、別号不伯斎という、◆会報第98号より-02 橋本家文書_f0300125_1364966.jpg(当好とは12代目幕末から近代の人)和歌連歌を好み、紹巴の門に入り、豊臣秀吉の御連衆となる。ある日天主閣に召されし時「音するはいつこの駒の轡虫」という句に対して、その場の人々が付句に窮した時、等安が「霧の中ゆく逢坂の関」という句を詠んで秀吉からお褒めの言葉を賜ったことを記した紹巴の手紙がある、としているが書状の所在は不明である。連歌の妙手であった。

3.橋本家の連歌資料

(1)高好連歌と巻子3巻
◎横半帳 12.8×21.2
元亀2年(1571)から天正14年(1586)に22の高好・等安の独吟や主催の連歌をまとめて書き記す。巻子の連歌と重複している。
連続した連歌で天正7年11月11日高好、天正8年6月12日等安とあり、この間に出家をしたか、閑林院等安と改名している。
◎巻子3巻の連歌と書状
天正4年(1576)高好独吟百韻「何路連歌」に紹巴の講評と長点を記載、紹巴の書状1通あり。
天正7年(1579)高好・香澄・求道・玄巳の四吟 講評と長点を記載。
元亀4年(1573)から天正14年(1586)6回の連歌等と講評・長点を記載。紹巴の書状3通あり。

(2)紹巴の書状を読み解く-1(巻子①天正4年卯月)
     右御独吟近比珎重候、地連歌
     行やう已下うつくしきまゝ
     長句なく候、御心持如此候ハヽ
     弥面白成行候ハんとたのもしく候、
     奇妙なる句ハ候へ共、そろひ
     候ハねは、無曲候 猶以面候、かしく
                  (花押)
       橋本満介殿 まいる

     又申候、従来廿五日千句候、可有御出
     座候ハヽ、召悦と可被仰合候
     召悦ハ可有上洛之由候、但定日ハ
     上様御下国次第候、抑先日者大根
     廿八本受用珎味候キ、返々于今
     御養生と又寒天候条、千句
     長座昼夜之事候、御分別専一候
     取乱書中 如何
        十九

〇添削依頼に対する返書
 高好の連歌を拝見したが、近頃は上達している。地連歌(連歌の進行展開の上で基調となる)の部分は、長句はないが行き様(進行)は見事である。今のような志で取り組むと頼もしく期待できる。奇妙な良い句があったとしても全体のバランスが整わないと、まったく面白みがなくなってしまう。来る25日に千句連歌が興行されるので、召悦と共に観覧を勧める。召悦は、近々上洛との事だが、予定は上様(織田信長か)の下国次第である。千句連歌は、百韻を10回続けて行われ、昼夜にわたり長時間に及ぶので、それに備えるように。先日大根頂戴したが、大変美味であった。

◎連歌指導者としての紹巴の姿が垣間見える。
 連歌の講評だけでなく、千句連歌の参観を勧め、学ぶ機会を与えている。長時間のため体調管理などの配慮も促し、等安からは謝礼金だけでなく、大根や酒等も贈答し、その親しい関係が見えてくる。

(3)紹巴の書状を読み解く-2 (巻子③)
     従一昨日勝龍寺ニ参候て
     只今帰宅候、此御巻物
     到来之刻発足候キ、於
     御天守御両吟御興行
     重而懐紙可進候、明日
     早天ニ京上候、十四五日も
     江州ゟ返て滞留候たるへく候、
     渕可・貞勝へも此旨御
     伝達可希候、猶追而
     可申候、かしく
        林鐘((六月)六日       (花押)
       橋満介殿
             まいる
                 御宿所

〇等安連歌の返書を認める
 端作に年紀はないが、天正5・6・14年度と続く。6月6日付の書状で、一昨日に勝龍寺に行き、帰宅したところへ、この巻物が到来し、天主において紹巴と細川藤孝ふたりの両吟連歌興行へでかけていた。この時の連歌懐紙を進呈するので、明日京に上がることを促し、紹巴はまた近いうちに近江に出立し、しばらく滞留するという。渕可・貞勝にも伝えるよう返書している。
 ちなみに紹巴・藤孝(幽斎)同席の連歌は弘治2年(1556)から慶長2年(1597)の間に30点が残る。勝龍寺での紹巴と藤孝の連歌は他に永禄12年(1569)8月7日の四吟が残る。元亀4年(1573)勝龍寺での両吟連歌は発句が藤孝で「花の時も風おやまたなむ夕すずみ」。6/5、6/6、6/24、6/26の諸本があり、高評価の作品で写しが多く伝来している。この書状の年紀は元亀4年で確定し、両吟連歌興行は6月5日である。

(4)勝龍寺城と天守
勝龍寺城
 永禄12年(1569) 頃、織田信長の命で細川藤孝が西岡支配の拠点として入城する。同年8/7紹巴と共に連歌を行う。元亀2年(1571)には城の大規模改修を行い、城郭として形を整えた。元亀4年(1573)藤孝・紹巴、両吟連歌を行う。◆会報第98号より-02 橋本家文書_f0300125_1430214.jpg城郭建築には天守や高石垣・構築物(礎石を据えた櫓の重層建物)・瓦葺などが条件となる、時代的には永禄10年(1567)の岐阜城(信長)→勝龍寺城(元亀2)→坂本城(明智光秀、元亀3)→安土城(天正4年・1576))の流れとなり、信長が城郭建築の職人を遣わした城として勝龍寺城がある。
 この等安連歌の紹巴書状は勝龍寺城の天主(天守)の存在を示す文献として貴重である。

勝龍寺に集う
 元亀2年5月から8月にかけて親族の公家や武家が勝龍寺城を訪れ、親しいものが訪問できる生活空間でもあったようだ。飯川治部少輔秋共(藤孝の母方の叔父)・清原国賢(母方のいとこの子)・京治(京極氏か)が訪問している。元亀3年紹巴による源氏物語の講釈があり、元亀4年に天主にて両吟連歌が、天正2年6月17日には殿主において、三条西実澄(実枝 さねき)から藤孝に古今集の伝授が行われている。
 天正4年吉田兼見が藤孝の古今伝授に関する「日本書紀」の疑問に答えるため訪問している。その後も勝龍寺城では度々連歌会などが興行されている。

〇連歌の会席
 室町時代、寝殿作りから書院作りへ変化した。畳を敷いた部屋・付書院・床の間・客座敷・床の間には天神の像(連歌神)を掛け、三っ具足(花瓶・香炉・燭台)を揃える。宗匠・執筆(懐紙・硯を備えた文台を据える)・連衆の人数収容の広間、山水の景色、眺めの良いところ、興趣をそそる庭や建物が出現する。勝龍寺城の天守は、それまで物見やぐらとしての軍事施設ではなく、文化的催しを行える空間構造をもった建物として発展していた。

(5)細川幽斎(藤孝)・紹巴両者の採点
巻子③ 等安独吟
 「御芳野の花やは夏に峯の雪 涼しさおくる月の朝風 阿波も高瀬の小船さしつれて・・・」  墨点と朱点、行間に墨と朱の講評(添削文)がある。
 奥書には「此百韻墨点事奥書玄旨真筆也、同朱点者紹巴写也、不伯斎等安慶長3年11月25日」とあり。墨は玄旨=幽斎(藤孝)、朱は紹巴を表している。
冊子の「高好連歌」に同じ連歌を記す。
 端作に「天正14年6月22日、越前北庄ニ知人在しを尋行、不思逗留せしかハ旅宿の従然候て相綴侍しを玄旨紹巴へ合点ヲ望畢」とある。
 天正8年藤孝は丹後へ国替え、天正14年5月19日丹後から吉田兼見へ書状を送っている。同8月11日再度上洛までの国元の丹後在国中に等安は、幽斎に講評を求めた。その後、紹巴の講評を受けて、等安が書き写した。二人の評価の違いは、幽斎31句(長1句)、紹巴25句(長2)の通りである。◎付墨は細川幽斎自筆の添削文か!。

藤孝・紹巴両者の評点 天正8年8月等安・香澄両吟
 藤孝(朱点)・紹巴(付墨) 等安10(13)・香澄10(12)、連歌研究の新局面か!

4.連歌ネットワーク

(1)連衆 大村由己
 天正11年卯月の三吟(由己・香澄・等安)に臨江斎紹巴書状の写しがあるが、「由己・等安なと連衆此度は不出来」と厳しい評価を率直に述べる関係になっている。
 宮本坊まいる御同宿中宛、の記述から、宮本坊等の宿坊が連歌会場か。天正11年5月7日の五吟(等安・由己・召悦・超尹・香澄)にも「由己」が登場する。大村由己(1536頃~1596)とは、豊臣秀吉の御伽衆、祐筆、軍記物作者・謡曲・和歌・連歌・俳諧・狂歌等の多彩な才能を発揮したスポークスマン的人物。秀吉と等安との親交を示す資料は確認できないが、秀吉の御連衆であるという『山城綴喜郡誌』の記述の由来はここにあったのかも知れない。

(2)石清水神人等との連歌
 天正5年(1577)10月19日 東寺遍昭新院貞海・等安等14名の連衆参加の連歌から。
新善法寺賢心とは新善法寺家は当主照清(天正18年没)で、清の通字がなく、直系ではなく家臣であろうか。
奥村禅右衛門尉入道宗白は小禰宜座神人かと推定できる。
橘本坊春誉・宮本坊重祐は男山山上宿坊の僧侶、連歌会場か。
永椿庵宗栄は神應寺の末庵で朱印状1石3斗6升を所持、田中町に住す。
公文所宮内卿院興・同法眼院慶は「公文所歴代」にその名あり、院慶は天正17年秀吉朱印状あり。公文所とは所司(寺務)、八幡宮公文書発給・宮寺印の管理、祭礼・遷宮儀式の奉行、神人出勤命令書の交付等をおこなう。
八幡住人のイロコカタヤ某、とは「慶長5年指出帳」にもイロコカタヤ(鱗形屋)の名がある。
石清水八幡宮領内でも連歌興行は盛んであり、連歌の妙手等安を輩出する素地があったといえる。
(取りまとめ 谷村勉)空白

『一口感想』より  
・本祥寺の題目塔は、西遊寺の東、橋本駅のホームの北端を少し上がったところにあります。「やわたの道しるべ」の西遊寺境内地というのは違うと思いました。
・橋本等安が信長政権とどのような関係にあって、細川などをどのように支えていたのかがわかればよかったのにな、と思いました。
・細川藤孝が出てきたのなら、明智光秀との関係を示す史料、文書が出て来ればいいなと思いました。 (A・M)
連歌から広がる歴史の面白味を感じた。
 新型コロナが終息していない中、細心の留意と配慮をしていただき、スタッフの皆さんに感謝。 (O・S)
秀吉と家康の歌(短歌)を比較すると、作品は秀吉の方が上手であると現代の歌人は評価されている。
家康の方が秀吉に較べると高い教養をうけているはずであるのにこの差はどこにあるか、また秀吉は連句もそれなりに強かったとの由。  (K・H)
紹巴とはどんな人か連歌師というだけしか分からなかったのですが、今回分かりやすく説明していただき有難かったです。  (N・K)
本日は久方振りの出逢いで、嬉しく思いました。
“連歌”の意味も改めて知りました。私も俳句を学んでおりますので、今後の参考にしてゆきたいと思っております。
ありがとうございました。 (N・M)
・織豊時代の文化人の交流の姿が目に浮かぶようで興味ある講演でした。
・八幡の歴史の一部が垣間見えましたのはよかったです。  (Z・Z)
◆会報第98号より-02 橋本家文書_f0300125_15342510.jpg



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by y-rekitan | 2020-07-28 11:00
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