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◆会報第104号より-06 歴史散歩⑤

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シリーズ「私の歴史さんぽ」・・・⑤

石田神社と算額

           岡村 松雄 (会員) 


 「四季彩館」と「流れ橋」の一帯にある、「石田神社」は城陽市上津屋を含めた、上津屋地区の産土神(生まれた土地の神)である。
 大宝2年(702)当地に鎮座。 文治4年(1188)源頼朝により土地を寄進される。◆会報第104号より-06 歴史散歩⑤_f0300125_09232244.jpg又、元弘の乱の折、楠木正成が願文を奉納している。
 御祭神は素盞鳴(すさのお)神、牛頭天王(ごずてんのう)である。祇園信仰(八坂神社の祇園祭が有名、疫病対応である)で、すぐ近くの木津川は源の山々が花崗岩で雨で崩れやすく、洪水が起こることが度々でその結果疫病の発生が多発し、それにたいして保護、治癒を願う「疫病対策」の信仰になっている。
 戦後すぐの航空写真では交流館や北方向の住宅地、木津川の堤手前まで敷地だったそうです。
 庄屋 伊佐政徽が明和2年(1765)18歳の時、考案した5個の問題を奉納した算額(和算問題を図入りで示す)を奉納した。当額は京都で2番目、全国で9番目(全国で975の算額がある)の古さである。◆会報第104号より-06 歴史散歩⑤_f0300125_09273948.jpg 元禄期から盛んとなった京都の和算学は中根派であり、宝暦,明和期(1760年前後)に再び隆盛した。当時貞享暦(じょうきょうれき)は宝暦5年(1755)に宝暦暦(ほうりゃくれき)に改暦された。この暦の記載する日蝕の予定日、時間等の検算、修正の議論が数学者間で盛んだった。
 算額には「自分は算学を好み、かっては京都にも遊学したが、今は才能の鈍りを感じたので算問5問を奉納する」との願文に続いて問題が彩色図付で記載されている。
 伊佐政徽は、寛延元年(1748)生まれで、算学に非常な興味と熱意を注ぎ、多くの算学の写本をし、自分で問題を作り雑問集を十数冊も書いている。24歳で庄屋を継ぎ、文政2年(1819)没した。

 日本の数学の起こりは不明だが、中国から数学と計算道具の「算木」(木の棒を縦横に置き計算を行う道具)が伝わっております。『万葉集』にも「九九」を記述した歌がある。
例として「若草乃 新手枕乎 巻始而 夜哉将間 二八十一不在国 (わかくさの にひたなくらを まきそめて よをやへだてむ にくくあらなくに) 若草のような妻と 初めて手枕をかわしそめて なんで一夜でも間が置けるか かわいくて仕方がないのに」下線をつけたように 9×9 =81 と「九九」で表現している。
 和算は江戸時代に大きく発展し、「算聖」と呼ばれたこともあった関孝和はよく貢献した。円周率、代数、幾何、行列、解析等々の広い分野の額や絵馬が描かれていて自己の数学能力向上を祈念して奉納したのが「算額」である。


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by y-rekitan | 2021-07-28 07:00
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