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◆会報第106号より-02 淀屋の歴史

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《会員研究発表》
淀屋の歴史を原点から学ぶ
―淀屋と八幡との関わり―

2021年10月例会 
八幡市文化センターにて

丹波 紀美子(会員)
 
10月8日午後2時より八幡市文化センター第3会議室において表題の会員研究発表がありました。「豪商淀屋」はどのような家であったか、豪商ぶりやその末路など淀屋研究会により解明された成果を中心に講演があり、八幡との関わりについても詳細に話されました。研究発表会の参加者は40名でした。
 
  ◆会報第106号より-02 淀屋の歴史_f0300125_15283524.jpg倉吉の大蓮寺境内に淀屋清兵衛と彫った供養塔があり、地元では長年清兵衛と名のる牧田家と大坂淀屋清兵衛との関係が取り沙汰されていて、地元の招きで倉吉を訪れていた大阪市立大の横山三郎先生が大蓮寺の牧田家の墓や位牌、戒名などを調査され同一人物と鑑定され、昭和54年(1979)6月5日の地方紙と全国紙の地方版に載る。それにより大阪大の宮本又次先生と作道洋太郎先生たちが調べられていた淀屋橋家(前期淀屋)との関連が分かった。
 新山通江さんが淀屋に関する本を昭和56年(1981)から平成15
年(2003)にかけて発刊。
 平成15年(2003年)4月八幡の神應寺で淀屋闕所300年忌の法要。
出席者に大豆葉町家12代当主岡本裕一氏など。 
 ◎平成15年(2003)5月淀屋研究会発足
※淀屋の出自
 岡本撫山(淀屋分家大豆葉町家7代当主)が明治時代に書いた『波華人物誌』によると「初代常安は今の宇治市岡本の庄司の子として生まれ、槙島の戦いで織田信長に追われ鳥羽に逃げ、鳥羽の小林忠房の娘と結婚、大和へ逃れる。豊臣になり大坂に出て材木商を営む」とある。

※淀屋の系図
 初代を常安として常安の長男言当の系統が淀屋橋家。5代広当の時、闕所で130年の歴史を閉じた・・墓は谷町筋大仙寺と5代広当は八幡の神應寺。
  ※闕所…全財産没収。
 常安の長女きいの系統が「常安町家」そこから各々分家して「大川町家」「斎藤町家」「大豆葉町家」と別れていく。
 現在残っているのが大豆葉家のみ。他の分家は、常安町家は元禄になる7~8年前に絶家。大川町家19世紀初頭に、斎藤町家18世紀中ごろに絶家となる。墓は谷町線夕陽ヶ丘「珊瑚寺」。

✤淀屋の系図とは
 淀屋は、初代を常安として、その長女きいの系統に分家の常安町家、大川町家、斉藤町家、大豆葉町家があり。
 淀屋橋家は、常安の長男の个庵言当の系統でいわゆる淀屋と言えば、この淀屋橋家を指している。
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淀 屋 橋 家

初代常安(1557年?~1622年)(岡本与三郎)

◎土木工事で秀吉の恩顧を得る ◆会報第106号より-02 淀屋の歴史_f0300125_15405157.jpg
○伏見城の工事…格安の値段で大石を除いて塀迄作った。『棠(からなし)大門屋敷』錦分流 宝永2年(1705)
○淀堤の工事…約5km強の土手を造るのに松を切り1本だけ残して、松の木に腰を下ろして工事の采配をふるう。後に松を植樹。『棠大門屋敷』
※秀吉は指月城を造るとき巨椋池と宇治川を分離させ伏見に宇治川が流れるようにした。現在、中書島、向島、上島など島のついている所は巨椋池の上に浮かんでいた島といわれる。
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◎徳川方につく
○『元正間記』によると、大坂の陣(冬、夏)では家康(茶臼山)、秀忠(勝山)に御陣を献上して戦後八幡に山林300石が下賜された。 ◆会報第106号より-02 淀屋の歴史_f0300125_15513178.jpg※『元正間記』作者不明 元禄、宝永、正徳の約30年弱のことが記された本
○中之島の開発…湿地帯であった中之島を元和3年(1617)から取り掛かり元和5年(1619)に竣工。常安は幕府より中之島に常安屋敷5000坪を下賜された。後に中之島には各藩の蔵屋敷が建ち並ぶ。

2代个庵言当(1576年~1643年)

※2代から5代までを淀屋三郎衛門、淀屋辰五郎を名乗る
○三大市場を設立(天下の台所)
(1)青物市場を再開(石山本願寺跡の青物市場を再開(1616)天満に移るのは4代重当の時。
(2)靭海産物市場を開設(1622)…永代浜を造り干鰯や昆布など干物を扱う。
(3)淀屋の前での米市場(北浜の米市)…寛永時代になって(1624年以降)。

 淀屋の前では米の品質,規格、値段を統一し、旗振り信号で各地に値段が行き渡り全国の基準となった。俵は用いず全て各藩から振り出された米切手で売買された。米切手1枚が10石と定められた。それが先物取引の元となる。
○言当は文化人
 茶の湯、連歌(堺の源光寺祐心から古今伝授を受けている)、俳諧は奥を極め、書・絵画にも長じている。
 
✤松花堂昭乗のサロン仲間とは殆ど交友関係を持つ。
松花堂昭乗…八幡宮滝本坊住持、阿闍梨、寛永の三筆、生涯出自を言わない、煙草盆&絵具入れが後に松花堂弁当の発祥につながる。
小堀遠州…伏見奉行、作庭家、茶道家、昭乗の兄(中沼元知)の妻と遠州の妻は姉妹。
江月宗玩…津田宗及の子、大徳寺住持、紫衣事件に絡む。「松花堂吉野道の記」の同伴者です。
佐川田昌俊…淀藩永井尚政の家老、和歌・連歌の歌人としても名を成す、松花堂行状記著者。
沢庵宗彭…紫衣事件,木下長嘴子…寧々の甥、永井尚政…淀城主、林羅山…儒学者、里村昌琢(里村南家)…連歌師、近衛信尋安楽庵策伝石川丈山など他多数。

✤細川忠利との交流
 東京大学史料編纂所『細川家文書』の中の『細川忠利文書』には忠利が淀屋言当に送った書状が10通収められている。
※細川忠利…寛永9年(1632)加藤忠広改易により入城。熊本初代藩主。父細川忠興(三斎)、母玉(明智光秀秀の娘で洗礼名ガラシャ)の3男。

○八幡屋敷の庭に噴水を設置
 糸杉谷不動尊の下の〈ひきめの滝〉から居宅の庭に水を伏樋して水を引き入れ、 ◆会報第106号より-02 淀屋の歴史_f0300125_15585284.jpg手水鉢で噴水を楽しんだり、石を置き、その石が水の勢いでドンドンと鳴る音を楽しんだりした。砧(きぬた)をたたく音に似ていたことから「砧の手水鉢」と呼ばれた。現在は松花堂庭園へ移設。居宅前の横町は〈ドンド横町〉辻は〈ドンドの辻子〉と呼ばれている。
 手水鉢が設置されたころ、淀屋屋敷で里村昌琢、松花堂昭乗、小堀遠州たちが集まり連歌の会が開かれた。その一部が『男山考古録』の「ドンドの辻子」の項目に一部載っている。
 『山かせをかけ樋になかす木葉かな』…松花堂昭乗(発句)『水鳥馴む池このむ庭』…言当(脇句)残念ながらこの二句のみ。連歌は100句とかもっと沢山続けて詠まれるが最後は七七で終わり、最後の七七を揚句という。揚句の語源は連歌、連句から来ている。
※男山考古録…作者・長濵(藤原)尚次。寛政9年(1797)~明治11年(1871)石清水八幡宮宮大工、学者、嘉永元年(1848)半年かけて執筆。数十年かけて資料収集。読んだ文献300冊余。
『男山考古録』を八幡宮に寄贈。昭和22年(1947)2月八幡宮社務所火災の為灰燼に。しかし辻村豊夫、山本久兵衛の写本のおかげで現在に続く。
○淀屋橋の架橋
 米市に来る人の便宜のため土佐堀川に自費で架橋…淀屋が架けた橋、淀屋の橋、淀屋橋と現在もその名が残る。
○運輸面の御用
・寛永16年(1638)前田利常の命で加賀米の売捌(うりさば)きを委託され、兵庫の北風彦太郎と共に西回り航路の先鞭をつける。(後の「北前船」)
・淀屋の船の天井が現在、円福寺のお茶室の天井に使われている。 ◆会報第106号より-02 淀屋の歴史_f0300125_16040381.jpg円福寺は天明3年(1773)建立。
(大阪染料商の山田市治郎の寄付で昭和7年(1932)4月10日落成。一位堂の天井を円福寺茶室の天井とした。一位堂の天井は淀屋の船の天井だったと伝えた。)
○大坂の糸割賦の導入
 ポルトガル人が中国産生糸を独占購入、独占販売、高い生糸を購入していた為、幕府は慶長9年(1604)京都、堺、長崎の糸割賦商人に生糸の一括購入と価格決定をさせる。
 大坂は遅れること28年、寛永9年’1632)以後。大坂の糸割賦商人淀屋言当他4人。
○徳川家光の来坂
 寛永11年(1634)京都の帰りに大坂城へ。三郷の惣年寄り21人が来坂をもてなしたためか家光より大坂の地子銀(じしぎん)が永久に免除。当時の三郷の地子銀(固定資産税)179貫目(銀1貫目=100万円として)今のお金で1億7千9百万円。そのお金で時を知らせる鐘を造った。
 松平伊豆守より名字の申し出があったが淀屋言当は固辞。家光より公儀橋12橋を申し渡される。天神橋、天満橋、京橋、難波橋、高麗橋、日本橋、鴫野橋、本町橋、備前島橋、農人橋、長堀橋、野田橋
○永井尚政淀城へ
 寛永11年(1634)淀屋言当は永井尚政から木津川付け替え工事を命じられる…寛永14年(1637)~寛永15年(1638)。その一角に土地拝領。55年後、元禄6年(1693)領主になっていた石川憲之に召し上げられ、竹生島から勧請した弁財天が祀られた。

3代箇斎(1606年~1648年)

 2代言当の弟「道雲(五郎右衛門)」の長男で、言当の娘・富士「妙恵」の婿養子。慶安元年(1648年)7月死去。享年43歳。

4代重当(1634年~1697年)

○重当14歳で家督相続
21歳の時〈町の政治に参加〉、大川町年寄との記録がある。
○寛文元年(1661)結婚
米津出羽守田盛の姫(日円)と結婚。重当27歳、日円14歳。(桑山左近養女)
○神社仏閣への寄進
佐田天神宮拝殿(守口市)および井筒。妙心寺の玉鳳院の唐門。妙心寺の一切経を収める輪蔵及び経蔵、東大寺二月堂梵鐘、福島天満宮改修、八幡神應寺の扁額及び莫大な金子の寄進。
○大名貸し。
西国大名に銀1億貫目、将軍家へ80万両、公卿へ13万両の記録あり。
【銀1貫目‥100万円、1両‥6万~10万円、(年代によって金の含有量が違う為値段が変わる)】
○闕所を予感
・天和2年(1682)牧田仁右衛門を倉吉に戻し、店を持たす。池田光仲侯に庇護をお願いする。
 ◆会報第106号より-02 淀屋の歴史_f0300125_16103216.jpg・元禄3年(1690)八幡の下村甚兵衛の土地を購入した関係でそのまま下村を名のった。(石清水では朱印状などが譲渡されたとき取得した家では宛所の名を変えて可)
○豪華なたたずまい
・『元正間記』には大書院、小書院は全て金張りの金襖に極彩色の草花の絵。
夏座敷はビードロの天井、障子を造り金魚を泳がした。

5代広当(1683年?~1717年?)

★淀屋の闕所について
○闕所の理由
・5代淀屋辰五郎は、宝永2年(1705)に百万石の大大名をしのぐとまで言われる勢力に警戒心を抱いた幕府から、表向きは、倹約令に背き、町人の分限を越える驕奢(きょうしゃ)と謀書、謀判の罪をきせられ、全財産没収、所払い(大坂三郷、堺、京都、伏見、淀)という刑を受けて断絶した。
※謀書、謀判とはどのようなことか?『元正間記』
・祖母の死の後1年半の間に今のお金で100億円の浪費。辰五郎の金遣いが荒いため、心配して心ある店の者が準禁治産者(じゅんきんちさんしゃ)(心身耗弱者及び浪費者)にしてしまい、吾妻〈遊里の女性〉を身請けするお金2000両が工面できない。悪の取り巻き連中は偽書類と偽印鑑を作って天王寺屋からお金を借り、淀屋を保証人として借主を小西屋にした。返済期限の来る前に悪の仲間によって持ち逃げした事件。辰五郎は究明された。
・闕所になった時の淀屋の財産はどのくらいあったのか?… 伊勢松坂の小津清左衛門蔵の文書には約1億2千万両の記録も。その他、闕所の品物は百両以上のものは江戸で売却された。百両以下は大阪で売却された。
 小津清左衛門以外にも色々の人が書いている。闕所品目を書いた文書は44種類あるが正式文書は見つかっていない。
 闕所品目44種類以外に今までの通説と違って、近年見つかった須田家文書がある。 ◆会報第106号より-02 淀屋の歴史_f0300125_16181366.jpgその中に横浜の原三渓が持っている三渓園の臨春閣がある。須田家文書では「元は春日出新田にあった淀屋の下屋敷であった。屋敷の構造や襖絵欄間の内容(絵画やその作者)が三渓園にある臨春閣と一致している。」
何故須田家にこのような文書が有るかは不明であるがこの場所は江戸時代水運の要所で東北や西日本からの荷が着き、江戸への中継場所であった。
※原三渓…慶應4年(1868)~昭和14年(1939) 岐阜県生まれ、旧姓青木富太郎、横浜の豪商生糸貿易商・原家の養子、実業家、生糸貿易、製糸業で莫大な富を得る。茶人、古美術収集家。
・淀屋の闕所は大名を助ける徳政令の意図もあった。

○闕所にまつわる処分
・“辰五郎をそそのかした5人のものは千日前の刑場で獄門に。辰五郎と野田屋庄兵衛は、打ち首になるところを八幡僧正の命請により助命とされている。(「元禄宝永珍話」「淀屋顛末略記」など)
・辰五郎の命乞いをした八幡僧正とは誰か?
・5代辰五郎の闕所後の動静
 『元正間記』によると下村个庵として隠棲後、奈良の知り合いに吾妻としばらくいて八幡から、江戸へ赴く。宝永6年(1709)から正徳6年(1716)まで7年間米津出羽守政容の長屋に隠棲。隆光の主宰する蹴鞠興業にも何度も招かれたと護寺院日記に記されている。東照宮100年忌の恩赦で追放の罪が許され、八幡の山林300石が返還。1年後八幡に帰る。
 享保2年(1717)12月21日 墓を造って死亡?吾妻は享保5年(1720)死亡?
〇辰五郎は生きていた?
 辰五郎が描いたと思われる自画自賛画が見つかる。(三朝温泉・南苑寺に於いて)
〇城州八幡妻(じょうしゅうやわため)敵討(かたきうち)(神沢杜口・翁草)
 五百の父は辰五郎、母は遊離から身請けした吾妻で両親が亡くなった後、婿養子を貰う。名前を下村佐中と改名。佐中は無類の放蕩者で財産を枯渇するので、意見をすると離縁状の無いまま出奔し別れた。その後剣術指南の大野左門が来て五百の家を稽古場として借り、何時しか夫婦同然となった。噂を知った佐中は手下を連れて夜中に忍び込み2人を殺してしまう。役所に訴えたが離縁状の無いことから妻の不義の敵討ちで済まされた。
〇神應寺の過去帳
 下村佐中妻、法名「一法如電信女」元文2年(1737)丁巳十月九日(没)。
 因みに『翁草』では元文2年正月。岡本撫山の『難波人物誌』元文元年(1736)4月とある。
〇淀屋50年の法要
 幕府の命で銀100貫目(今の1億円)を用いて津村御堂で宝暦4年(1755)8月に法要の記録あり。

★石清水八幡宮と神応寺及び淀屋の関係
・淀屋2代言当(慶長5年・・1600)と4代重当が(元禄3年・・1690)八幡宮神人の知行朱印を取得した。
・2代个庵言当の弟の道雲の子ども2人が八幡宮のお寺に入っていること。滝本坊に入山した次男市兵衛、萩坊に入った3男乗円も共に松花堂昭乗の門人であった。乗円の書は松花堂流を継承、絵は佐田天神宮の拝殿に36歌仙の板絵また連歌台なども寄進。その他真言八祖像なども描いている。
※乗円の墓は泰勝寺に、師の松花堂昭乗と昭乗の師匠の実乗とともに3人で祀られている。
※泰勝寺の寺名は熊本細川候の菩提寺の名前を貰う。(細川候は明治に神道に宗旨替えをして廃寺になっていた)
◎淀屋は代々神応寺の大檀那であった ◆会報第106号より-02 淀屋の歴史_f0300125_16213940.jpg
・正保2年(1645)神應寺の本堂を再建しているが淀屋が再建したのでは?・・計画をしたのは寛永20年12月に死去した言当で、建立したのは妻の祖桂他3代箇斎と富士と考えられる(神應寺には誰が建立したかは一切書き残していない)
・神応寺には曹洞宗開祖の道元真筆の「正法眼蔵」の中の嗣書(16切)の1つを加賀屋治郎兵衛が寄進し2代言当の妻祖桂が表装して寄進。因みに永平寺は嗣書16切の内2切を持つ。
※「正法眼蔵」・・「嗣書」(16切)と「諸法実相」(12切)の巻で構成され合わせれば26切れが存在。
・淀屋は代々神應寺には莫大な寄進をしている(伽藍整備、資金援助や扁額の寄進etc)
・2代言当が八幡に家を持ったころから言当夫妻や子供の富士(妙恵)を連れ何度も参詣したと考えられる。そのことにより後年、重当の母妙恵は廓翁鉤然とも親しくなり、幕府の情勢も分かってきたと思われる。
(参考)『元正間記』4代重当はそろばんを持たずお金のことは無頓着、雨天でも長い衣装を着流して泥の中を引きずって歩き、汚い着物で座敷に上がる始末であった。
(このことは子どもを次々と失い妻は2人とも亡くし自暴自棄になっていた。神應寺の色々な寄進も全て母の妙恵の采配と思われる。)
◎廓翁鉤然(かくおうこうねん)の働き
・宝永2年(1705)5月、5代辰五郎が闕所追放の身になって、あわや死刑という経緯の裏に八幡僧正の助命嘆願が出されてるが、その八幡僧正とは19世住職の廓翁鈎然(かくおうこうねん)ではないかと考えられる。
(太西坊の覚運では?と新山先生の本にはあるが覚運は大石内蔵助の弟の專貞の後を受けて僧侶になり未だ20才前後であった。覚運は内蔵助の従兄弟で内蔵助の猶子…墓は善法律寺)
※何故そういえるのか・・
①淀屋が神應寺の大旦那であること
②19世廓翁鉤然が常法幢地という最も高い寺格を得るため努力している折に淀屋は表には出ていないが伽藍整備や資金援助をしていると思われる。
〇常法幢地(じょうほうどうち)をすることにより最も高い寺格を得る、(本山の永平寺に次ぐ寺格が与えられる。)
※常法幢地(じょうほうどうち)・・・一定期間幡を立て雲水を集めて修行参禅する道場
〇大奥総取締役右衛門佐局について
・高い寺格を得る常法幢地や浄財を募るため諸国托鉢勧進の許可を得るには大奥総取締役(1000石の扶持)右衛門佐局による5代将軍綱吉への口添えがあった。
・右衛門佐局は5代将軍徳川綱吉の御台所、鷹司信子の推挙で大奥へ入った。元は霊験天皇の中宮鷹司房子の侍女で彼女は水無瀬中納言氏信の娘で常磐井と称していた。京都にいたときから廓翁鉤然に帰依をしていた。
・神應寺には廓翁鉤然に宛てた右衛門佐局の手紙が9通ほどあり、中には将軍綱吉が廓翁鉤然の祈祷で治った喜びの礼状などがある。
・廓翁鉤然は念願かなって元禄12年(1699)4月永平寺から常法幢地の官許を得た。
・右衛門佐局はそのお祝いに神應寺に将軍綱吉の羽織や御台所の打掛を仕立て直して袈裟と厨子、戸張にして贈っている。(打掛は痛みが激しく表にはでない)
・廓翁鉤然は感謝のために右衛門佐局の卒後(宝永3年(1706)供養塔を建て愛用の鏡を収め、後々まで供養するようにと神應寺に20両を供えた。
(廓翁鉤然は宝永5年(1708)59歳で示寂。高槻霊松寺で荼毘。(霊松寺は神應寺13世の九天翔鶴和尚が開山)
〇淀屋が寄進した扁額
・元禄6年(1693)淀屋重当は曹洞宗の宗統復古運動の先駆者であった独庵玄光が山城地方に来遊していたので「大雄殿」「神應禅寺」「唯蔔室」他数点を揮毫してもらい扁額を寄進。
〇淀屋の供養塔と辰五郎と新山通江さんお墓
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・淀屋の供養塔三基(五郎衛門道雲、个庵言当,箇斎)は別々に建碑されていて、向かって右の道雲の供養塔は3回忌に孝子建立となっていることから息子の箇斎と結婚したばかりの富士夫婦と思われる。个庵言当の供養塔は妻の祖桂と富士。固斎の供養塔は夫であるため妙恵と祖桂が建碑したと思われる。その時に供養塔の整備。言当を中心にして灯篭を両脇に設置しその横に道雲と箇斎の供養塔を並べたと考えられる。
・辰五郎の墓はその3基の墓の横にひと際小さな墓で辰五郎の隣には平成26年に逝去された新山通江氏が辰五郎の側で眠りたいとの遺言により大木住職の計らいで墓が建立された。
〇大豆葉町家の7代岡本撫山が著した『浪速人物誌』では不明とされていた4男の仙甫は八幡に在住か?
2代言当翁が買った土地壌渡證文を仙甫がその土地の證文売却。佐田天神宮での連歌の会に出席。
〇岡本右膳について
・神應寺の床(とこ)の下張りから「寄付証文」が出ている。右膳が寄進した華厳寺の寄付証文である。
・神應寺の過去帳には岡本古庵の子、右膳と書かれて享保4年2月に亡くなっている。
・淀屋橋家の系図では右膳は5代辰五郎と吾妻の子供のように記してあるが、辰五郎とは兄弟と思われる。
右膳の死亡年は享保4年。5代辰五郎は享保2年。お寺を寄付する息子が親子にしてはおかしい。
右膳は4代重当の子供で祖母の妙恵が神應寺の廓翁鉤然に預け僧侶になっていたのでは?
尚、華厳寺(八幡大谷廃寺)は珪州伊璠和尚のために右膳が寄進したものであり、珪州伊璠和尚は神應寺21世の住持でいつ華厳寺に移ったのかは不明。

終わりに寄せて

淀屋橋家(前期淀屋)は5代広当の娘五百(いお)の死を以て完全に子孫は途絶える。
倉吉に帰った4代重当の番頭牧田仁右衛門の3代目の末息子が嘗ての淀屋の跡地に淀屋清兵衛として店を構え、妻は岡本志加。
大坂3代目清兵衛が倉吉に大きな供養塔を建立。文政9年(1826)
淀屋清兵衛家は5代で後継者がいなく、4代清兵衛の娘に養子を貰っていて、養子が牧田利兵衛として5代清兵衛の跡地及び財産を継承。現在その子孫は神戸に在住する。
一方倉吉牧田淀屋は8代で明治を迎え,9代の時(明治末頃)大阪へ。現在その子孫は宝塚に在住する。

一 口 感 想

淀屋の話には以前から興味を持っていました。 ◆会報第106号より-02 淀屋の歴史_f0300125_17033208.jpg前回の後期淀屋も講演会で倉吉の供養塔と牧田家の話で少し消化不良を覚えていました。今回は淀屋橋家の5代の事柄をその歴史的背景資料で示されとても良く理解が出来ました。特に2代言当について文化人であり商売でも広いネットワークがあり名字を固辞したこと、志の高い人と窺える。どうして財を成したか?なぜ闕所に至ったか、その後は?知りたかった事がよくわかりました。ありがとうございました。あっと云う間の時間でした。 (I・T)
淀屋の神社仏閣への寄進や大名貸し等の善行をしているにもかかわらず闕所に至ることになった理由として、五代辰五郎の金に対する姿勢の甘さを感じ残念である。
淀屋が継続していれば三菱・住友を凌駕する事業体となっていたと思う。 (O・T)
淀屋については殆ど知識が無かったが、本来ならば何日もかかるような歴史を2時間に手際よくまとめてお話くださり概要を知ることができた。丹波様のあふれるばかりの知識に2時間では全然足りない様子なので、また、同テーマで続編を期待しております。(T・M)
膨大な資料とそれに伴うお話し、すっかり聞き入りました。
これは大河ドラマになるのじゃないかしら。「”妙恵”さん」の語りでどうでしょうか? (F・N)
時間が短い中で、なめらかな口調で話しかつ、説明のスクリーン(図表、説明文)も見やすかったです。 (M・S)
淀屋辰五郎(2代言当)は商人より実業家で先物取引をするなど先見の明があり、莫大な財をなした。松花堂昭乗のサロン仲間で文化人でもあり、凄い人だと思った。 (Y・A)


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by y-rekitan | 2021-11-23 11:00
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