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◆《講演会》 古代の遺跡から八幡の歴史を学ぶ◆



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by y-rekitan | 2010-05-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第2号より-01 古代の遺跡

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《講 演 会》
古代の遺跡から八幡の歴史を学ぶ
― 2010年5月  志水公民館にて ―

 大洞 真白 (八幡市文化財保護課係長) 

 5月11日(火)午後1時より、志水公民館にて、大洞真白さん(市教委社会教育課文化財保護課係長)を講師に招き、古代の八幡の歴史を学びあいました。司会は土井。開会のあいさつを述べた是枝さんは、講師紹介をする中で、「今日はスーツ姿ですが、発掘現場では作業衣に長靴姿で頑張っている姿を何度も拝見しています」と語りました。まさに、八幡の古代遺跡の発掘と調査・研究に長年打ち込んでこられた方です。講演のタイトルは、「古代の男山周辺と門前町の形成」。当日配布されたレジュメに沿って講演の内容を簡単に紹介します。 
 
八幡市域の地形の特徴と土地利用の形態について
 西の男山丘陵では墓地(古墳)や社寺、窯などで土器を製造するなどの生産地であるのに対し、東の平野では集落が形成され耕作地が広がっていった。また、男山の基盤地質として古くて固い岩盤である丹波帯と新しく柔らかい砂礫層で構成される大阪層群がせめぎ合う土地である。集落としての遺跡は男山より平野が古い。これは、弥生時代中期前半の内里八丁遺跡で見られる。男山周辺では、古墳時代以降に、南部に分布する大阪層群の周辺から宅地化が始まった。

石清水八幡宮が遷座される前の遺跡について
 古墳は、古墳時代の前期において男山の東麓に、後期では男山南部から美濃山丘陵にかけて出現している。その後、古代寺院が創建され、男山南部の東麓に志水廃寺、美濃山丘陵頂部に美濃山廃寺、そして男山西斜面に西山廃寺(足立寺)がそれぞれできる。そして、志水廃寺と美濃山廃寺とが在地的な寺であるのに対し、西山廃寺は、出土される遺物等を見ても中央的な寺であると考えられる。建立氏族として和気氏であるとの推測が成り立つが、それには否定的な見解もあって謎は残る。集落(宅地)は、東部平野の微高地や男山南部東麓に分布しているものの、男山北麓から北部東麓にかけて見られない。つまり、八幡宮門前町の中心地には遺跡が発見されていないのである。

門前町の形成過程について
 平安時代前期(860年)、石清水八幡宮寺の成立によって初めて門前町としての開発が進む。その際、男山北東の山麓部から町の形成が始まると見ている。山麓から低地側の微高地を切り開き、祠官家関係の邸宅や寺が形成されていく。
また、平安時代後期において、東高野街道の整備がなされ、それ以降南北に長い街道沿いの門前町が形作られていった。その場合、地形に即した自然発展的に町が形成されていったのではないか。つまり、排水路や土地造成などの大規模な整備を伴いながら町が形成されていったと考えられる。
木津川河床遺跡の第19次の調査(八幡山路)によって、平安時代後期の湿地状窪地や室町時代の大規模な排水路、安土桃山時代の分厚い整地層などが検出された。
 
 講演は、パワーポイントを駆使したビジュアルな映像をもとに進められ、5分間の休憩をはさんで熱心な質疑応答がなされました。
質問は概略次の通り。
①山崎橋の位置や規模、その後のゆくえについて。
②丹波帯と大阪層群が入り組んでいると云われたが、それはどこで見ることができるか。
③宇佐より石清水に八幡神が遷座されたとのことであるが、八幡神はどんな神なのか。
 「やわた」と読むのか「はちまん」と読むのか。
④石清水の門前町の規模はどの程度のものか。他の門前町の規模と比べてどうなのか。
⑤信長・秀吉当時の八幡の遺跡はどんなものなのか。
⑥卑弥呼がもたらした銅鏡が八幡の古墳などにもあるのか。
⑦鳩ケ嶺に「国分寺跡」なる石碑があるが、あの狭い範囲に国分寺があったとは考えられない。三宅安兵衛によって建立された石碑には歴史的に見て信憑性の疑わしいものもあるのではないか。
紙面の都合上、大洞さんの応答は割愛して紹介します。
①……山崎橋の位置についてはよくわからないが、推定として今の久修園院近くに奈良時代の中ごろに架けられたとされる。その後何度も流され、11世紀の中ごろ、藤原道長が山崎から石清水に来る時、橋がないために船で渡ってきたと記されている。
②……今日配った資料にある地質図は厳密なものとはいえない。実際は、造山活動の結果、天王山と男山の北方に丹波帯がせりあがったもので、大阪層群はその上を覆うように広がっている所もある。おおむね石清水の境内域では丹波帯の堅い岩盤が見られる。
③……手に負えない質問で、一つの説として聞いてほしい。八幡の神は三柱(三神)とされ、それぞれが辛島氏などの氏族が祀っていた神とされる。宇佐は渡来系の氏族が多く、それらの氏族の神が合体されたとのこと。その中で、八つの幡(はた)を立ててシャーマンが託宣を述べる神がありそれが八幡の名のいわれとなったのだそうだ。詳しくは、『神仏習合の聖地』などの文献を参考にしてほしい。また、「やわた」なのか「はちまん」なのかであるが、地元八幡では、神様のことを「はちまん神」・「はちまんさん」などと呼び、地域名は「やわた」と呼ぶのが近世以降定着するのではないか。
④……正確なデーターがないが、『京都府誌』などに明治期の八幡の人口等が出ていたように思う。ただし、平安時代以降、内四郷だけでなく外四郷もふくめて発展した門前町としてめずらしい、すごいという指摘がある。これからの課題にしたい。
⑤……山路の発掘調査を正福寺北西で行なったが、その際に盛り土を確認した。それは桃山時代のもので、たくさんの土器が出土し、その中に京焼のルーツであるものがあった。
⑥……卑弥呼が配ったとの説がある銅鏡は八幡の古墳等からは出てきていないが、西車塚古墳からは三角縁の銅鏡がたくさん出てきている。被葬者としては今でいう市長クラスかも知れないが、遺物がすごい。西車塚から出た鏡は東京国立博物館の所蔵になっているが、勾玉などもあって大変貴重である。他に、ヒル塚古墳・王塚古墳では朝鮮半島でしか類例のないものもあって、ヒル塚から出た鉄剣も王塚古墳から出た皮綴じ式甲冑も大変珍しいものである。それらは京都大学が所蔵している。
(会場内からのヒル塚古墳の実物についての問いかけに対し)
 明治時代に発掘された西車塚古墳などの遺物は東京や京都に行ってしまったが、ヒル塚古墳は1980年代の発掘で、今は一ノ坪のゲームセンターになっているが、そこから粘土槨と言って、木の棺を粘土で覆ったものが発見され、その一部を切り取ってふるさと学習館に展示してある。まだご覧になっていない方は是非見てほしい。
⑦……ご指摘の通り、鳩ケ嶺の頂上にある「国分寺跡」は間違い。他にも、東高野街道沿いに「京街道」の碑があるがこれも間違いである。「京街道」は、木津川沿いにないとおかしい。ただし、昭和2、3年ごろに三宅安兵衛さん(実際は資金提供者)の建碑事業を見る時には民俗学的な視点が必要で、当時の歴史認識を知る上では大変に貴重なものである。だから、傍に解説板などがあればよいのだが。(参加者37名)

以下に紹介するのは、5月11日以降に、参加者の一人にお願いした感想文です。

f0300125_19105116.jpg「 私は、退職して3年になる者です。退職2、3年前から長い仕事人生が終わったら何か楽しみを持ちたいと考えていました。せっかく近畿地方に住んでいるし、歴史、とりわけ古代史を楽しもうと思い、近畿一円の講演会や歴史ウオークに参加してきました。
  ところが、八幡市については学ぶ機会がなく、残念に思っていました。最近、“八幡の歴史を探究する会”が出来、喜んで参加することにしました。一回目の講演者の大洞さんの話は、以前、枚方市で聴く機会があり、実践と見識の深さ、話の的確さに感心していました。今回も、八幡市が古代から豊かな歴史を持っている事を教えていただきました。
  私の日頃の散歩道にある和気公園の遺構、遺跡、八角堂や元勤務地の近く、ヒル塚や安居塚にあった古墳から出土した遺物が全国的に見ても大変貴重な物であることを知り、驚き、感動しました。
  こうした八幡の歴史をより多くの八幡市民に知ってほしいと思います。そのために、まず、子どもたちに知らせては、と考えます。まず、学校の先生方が八幡市の歴史を学び、学校教育のカリキュラムに“八幡の歴史”を位置付けていけば…という大きな夢を持ちました。 H・A  」
     (文責 土井三郎)

講演会の記録は以上です。     講演会記録一覧に戻ります

by y-rekitan | 2010-05-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第2号より-end

 
この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2010-05-28 01:00 | Comments(0)