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◆《講演会》 松花堂昭乗の出自を追う!◆
◆シリーズ:“八幡の歴史を彩る文化”①◆


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by y-rekitan | 2010-07-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第4号より-01 昭乗の出自

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《講 演 会》
松花堂昭乗の出自を追う!
―2010年7月  志水公民館にて―

 上田 聡子 (会員) 


 7月15日(木)、志水公民館にて7月例会が催されました。初めての会員研究発表です。講師は、上田聰子さん。松花堂美術館の建設構想を話し合う懇談会に市民委員として参加して以来、昭乗研究に勤しんでこられました。講演の概要を簡単に紹介しますが、その際、筆者(土井)を含めた会誌読者の理解を助けるために上田さんの了解を得て人物解説を適宜挿入させて頂きました。 

父親は誰か? 

 上田さんは、昭乗研究のきっかけとして、昭乗が何故その出自を隠し通さねばならなかったのかと問い、その答は、昭乗の青年期にあると推論します。また、昭乗が公武の仲介役として活躍したことに注目し、「八幡宮の一社僧とはいえども出自不明の人にできる事ではない」と結論づけます。つまり、貴種ではあるが、そのことが表沙汰になると具合の悪いことになる。昭乗はそんな人物なのであるということです。
 まず思い浮かぶのが関白秀次の隠し子説。だが、豊臣系の人物が徳川の世の公武関係で活躍することはあり得ず却下。
 そこで、「昭乗年表」をとりかかりに、昭乗の父親探しに迫ることになります。目の付けどころは昭乗との人的つながり。まず、小早川秀秋が目に付きます。
 1592年に8歳で奈良の一乗院から男山八幡宮の鐘楼坊に入った昭乗に対し、1598年に小早川秀秋が泉坊を寄進しているのです。
小早川秀秋(1582~1602年)
 豊臣秀頼の誕生後、小早川隆景の養子となり、筑前一国と築後の一部を相続。関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返り、東軍を勝利に導く。戦後、備前国岡山城主50万石。嗣子なく断絶。(なお、小早川家は吉川家とともに毛利氏勢力の一翼をになう。)
       (『日本史広辞典』山川出版社より)
 なぜ、秀吉の縁戚でもある大大名の小早川秀秋が昭乗に援助の手を差し伸べるのか。上田さんは、そこから昭乗と小早川家とを結ぶ線上に足利義昭の存在をおぼろげながらつかむのです。云わずと知れた室町幕府の最後の将軍、足利義昭です。
足利義昭(1537~1597年)
 12代将軍義晴の次男。はじめ興福寺一乗院に入室、覚慶と称して門跡となる。1565年兄義輝が殺害されると、細川藤孝らにたすけられ近江に逃れ、翌年還俗。68年、織田信長に迎えられ岐阜に移り入京。15代将軍となる。やがて信長と不和を生じ、73年山城国填島で挙兵するが敗れて将軍位を追われ、室町幕府は滅亡。その後、紀伊国由良に退き、ついで備後国鞆(とも)に移る。毛利氏に依頼して幕府再興をはかるが果たせなかった。88年帰京して出家、秀吉から1万石を与えられた。文禄の役(1592年)では肥前国名護屋に従軍。大坂で没した。(引用は前記『日本史広辞典』)
 下線を引いた箇所は松花堂昭乗と足利義昭とを結ぶ点で重要なポイントとなります。興福寺一乗院は義昭が覚慶と名乗っていた時代にその門跡であった寺院。そして昭乗はそこから男山に移ってくるのです。また、将軍家を追われた義昭が頼りにしたのが毛利家と小早川家。小早川隆景(秀秋の義父)には14年間の長きにわたって世話してもらうのです。その小早川家が昭乗を援助するのです。以上の点から、年齢的な差異も考え義昭と昭乗は父と子であったと推論するのは何の不思議もありません。義昭の「昭」は「昭乗」の「昭」であることも根拠の一つになります。
 さて、もう一か所「細川藤孝ら」ですが、一色藤長(ふじなが)(~1596年)がその一人。一色氏は、室町幕府後期に足利氏の家来衆となる一族です。
 松永久秀らが義輝を暗殺すると、藤長は、細川藤孝とはかって義輝の弟覚慶(のち義昭)を一乗院から脱出させ越前の朝倉氏のもとに随行するのです。藤長は、以後義昭には信長に追われた後も近臣として仕えます。そして、一色藤長の甥に一色傳三郎なる人物がいます。後の金地院崇伝(こんちいんすうでん)です。
金地院崇伝(1569~1633年)
 江戸初期の臨済宗の禅僧。紀伊の一色氏の出身。
1608年以来、徳川家康の諮問をうけ、公家諸法度・武家諸法度・外交文書の作成、寺院統制、キリスト教禁制など、幕府の中枢に関与し黒衣の宰相といわれた。(同)
 崇伝といえば、方広寺の鐘の銘文に徳川家滅亡を祈願しているとの言いがかりをつけ、豊臣家滅亡の筋道を企てた智略家であり、家康の片腕となる人物です。
 1612年、28歳?の昭乗は金地院崇伝に会いに行きます。上田さんは、その事実を崇伝の日記『本光国師日記』から見つけるのです。
 「八幡山の式部下ル。自分に五十匹持参候。八幡惣中
    九月廿一日之状来」  (式部は昭乗のこと、匹は貨幣の単位)
 一体何のために昭乗が八幡宮を下山して崇伝に会いに行ったのか。上田さんは、相国寺の末寺である慈照寺(銀閣)の近衛家からの返還を求めて、相国寺側の人間として接見したとします。一介の社僧が金地院崇伝という寺社奉行に会うというのも、将軍足利家の家来衆であった一色氏一族出身の一色傳三郎こと金地院崇伝と足利義昭の子である昭乗の関係でこそ理解できるものと言えるでしょう。
 さて、昭乗を巡る人脈は他にも後陽成・後水尾天皇、近衛家などの朝廷・公卿関係から徳川義直・藤堂高虎などの幕府関係まで幅広く、公武関係を調停した昭乗の業績も強調されます。ただし、その面は紙面の都合で割愛させていただきます。

母親は誰か?

 次に、昭乗の母親について語られました。これについても謎が多く、未だ識者によって解明されているわけではありません。f0300125_12165567.jpg
 上田さんは、二つの文書によって昭乗の母親を特定します。一つは、『茶道文化研究 第四輯』にある松花堂昭乗書状(慶長一八年五月九日)。これは、近衛家の当主近衛信尹(このえのぶただ)に送ったもので、書状の内容は、「信尹が幕府に昭乗を書道師範として、上覧用の書の手ほどきをした。信尹は推挙の事を昭乗の母親に話した。母親は昭乗に自分の決意をしっかり申し上げるように伝えた」(上田さんのレジュメから引用)ものです。 この中で、昭乗は「國母(くにはは)様」の名で自分の母のことを語っています。同時に「お試しもの」とも表記しています。
 國母とは、楊林院が國師(こくし)の称号を天皇から与えられたことに起因します。國師とは寺社を監督する高僧に与えられるもので、國師の母だから國母と呼んだと理解するのです。
 もうひとつの文書は『本光国師日記』(金地院崇伝の日記)慶長十八年五月二日から六日の記事です。その中にある「御前」とか「弓の事」とかと表記している人物が昭乗の母親であるとします。そして、「御前」と表記するのは、かって足利義昭と一色傳三郎(後の崇伝)とが主従関係にあったことから義昭室を「御前」と表すとし、「弓の名の事」は慈照寺近くに居住されている「楊林院」という女性にあたるとするのです。「弓」→「楊弓」→「楊林院」ということで、傍証についても触れます。
 昭乗と母親との関係では他に昭乗の性格や文芸など多角的な面からの論究が必要と思われ、他の点でも上田さんは更に研究を深め発表したい旨を述べ、今回の講演はひとまず終わりました。
 講演の後、昭乗の才能のこと、書の師匠のこと、楊林院に関すること等多岐にわたる質問がなされ、上田さんの昭乗研究の豊富さが披歴されました。参加者35名。 
  (文責 土井三郎)


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by y-rekitan | 2010-07-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第4号より-02 八幡歴史文化①

シリーズ「八幡の歴史を彩る文化」・・・①
『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』
「引窓」の巻


土井 三郎 (会員)

  昨年の夏、会員であるEさんから上記の歌舞伎が大阪の日本橋にある国立文楽劇場で上演されているということを紹介されたので観に行った。若手俳優陣による芝居であったが、八幡を舞台にしていることもあって興味深く観たことを覚えている。
 それが好評であったかどうか知らないが、この夏大阪松竹座で『双蝶々曲輪日記』の「井筒屋」「米屋」「難波裏」「引窓」が一挙に公演されることを知った。これは観ないわけにはいかない。

 『双蝶々曲輪日記』は1749年7月に大坂の竹本座で初演された人形浄瑠璃で、翌月、京都で初めて歌舞伎として初演され、その後大坂でも江戸でも上演されて好評を博し、今日まで上演を繰り返されてきたとのことである。
 「双蝶々」は、主要登場人物である相撲取りの濡髪長五郎(ぬれがみちょうごろう)と放駒長吉(はなれごまちょうきち)の名にある「長」の音に由来し、「曲輪日記」は二組の恋人同士の廓での色模様を描いていることに拠ったと言われている。

 あらすじは以下の通り。遊女都と吾妻は二人ともそれぞれ末を誓った相手がいるのだが、横恋慕した商人と侍がいて、強引に身請け話をもちかける。
 そして吾妻と恋人与五郎が久しぶりの逢瀬を愉しんでいるところに強欲の侍平岡郷左衛門が現れ、権柄づくで吾妻を意に従わせようとする。そこに現われたのが関取の濡髪長五郎(下の写真、市川染五郎)。与五郎に頼まれ、吾妻の身請けに必要な手付けの金を払い、この場に駆け付けたのである。すると郷左衛門は、放駒長吉を呼び出し、関取どうしの対決でことの決着を図ろうとした。二人の対峙はひとまず持ち越され、米屋の場面へ。ここでは、長五郎がやくざな仲間といるから身を持ち崩しているのだと長吉に意見し、二人の遺恨が消え義兄弟の杯を交わすのであった。
 遊女吾妻を諦めきれない平岡郷左衛門は三原なる同僚の手を借り吾妻を連れ出した。知らされた長五郎は難波裏に追いつき吾妻を救い出す。すると、郷左衛門たちは吾妻を思いきったと嘘をついて長五郎をだまし討ちしようとするのが、かえって長五郎に討たれてしまうのである。
 急変を知らされた長吉がやってきて、人を殺めてしまった言い訳に切腹しようとする長五郎に身を隠すよう勧める。長五郎は、母の住む八幡の里に落ち延びて行くのであった。

 続いて「引窓」の場面。八幡が舞台である。
 八幡の里。明日は石清水八幡宮で放生会が行われるので、南与兵衛の義理の母は嫁のお早とその支度に勤しんでいるのである。
 与兵衛の家は代々郷代官を勤める家柄であったが、与兵衛の父の没後、職も召し上げられていた。そんな折、新町の廓の傾城で都と名乗っていたお早を女房としたが、折から、この辺りを治める領主が変わり、与兵衛は役所へ呼び出された。
 訳あって5歳の折に養子に出された長五郎は、凶状持ちとして追われる身となって母の元を訪れたのである。偶然とはいえ、そこに旧知の都あらためお早がいて晴れて与兵衛と夫婦になった経緯を聞かされる。長五郎は、暇乞いをして立ち去ろうとするが、引きとめられ二階座敷に案内される。
 そこへ与兵衛が登場。(写真、片岡仁左衛門)代官に取り立てられ十手持ちの身となったのである。お早と義母は喜ぶのも束の間、なんと、濡髪長五郎の召し取りを仰せつかってきたのである。
 ここから三人の葛藤が始まる。母は義息に手柄をたてさせたい。だが、それは実子を召し取ると云うもの。やがて、そんな事情を与兵衛は気づく。引窓(明かりとり)が偶々二階座敷から顔を覗かせた長五郎の顔を手水鉢に映させたからである。義理と人情の間に苦しんだ末、与兵衛は、樟葉・橋本は危ないと告げ、河内への抜け道を長五郎に教えて逃がすのであった。  

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by y-rekitan | 2010-07-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第4号より-end

 
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by y-rekitan | 2010-07-28 01:00 | Comments(0)