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◆会報第5号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“八幡の祭りについて”①◆
◆シリーズ:“八幡の歴史を彩る文化”②◆


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by y-rekitan | 2010-08-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第5号より-02 八幡の祭り①

シリーズ「八幡の祭りについて」・・・①
高良(こうら)神社の太鼓祭り

是枝 昌一 (会員)


             
f0300125_1522974.jpg ご存知の通り、八幡市のお祭りは石清水八幡宮のお祭りが代表的であり、国家安泰、皇室、武家の守護神としての位が高く、日本の代表的な祭りとして有名である。別に、民衆に密着した氏神神社を中心とする町民、農民の素朴な熱気あふれる祭りが、それぞれ担当のご努力により続いており、民俗学的にも貴重な形態が見られる。
 いずれ機会があれば、祭りに関連する考古学上の遺物の展示を通じての勉強会も企画したいと思う。
 今(2010)年の太鼓祭りは、例年通り7月17日、18日に盛大に実施された。土日を含む三連休の影響もあり、約5,000人の人出となり例年にない活況が見られた。

 その歴史を辿れば、高良神社の神事として文政年間(1818~1830)に和太鼓を乗せた大きな屋形神輿が町内毎に作られ、勇壮な太鼓祭りに発展していった。三川合流(桂川・宇治川・木津川)の合流点であるこの地は、昔から水害と疫病に悩まされていた。そこで、太鼓の音で邪気を祓う「太鼓祭り」が、疫病がもっとも流行りやすい夏に行われてきた。近年は子ども神輿も加わり、参加の子ども達は次の担い手としての成長が期待され、継続につなげている。
 「よっさーよっさー」
町衆の元気良い掛け声に「ドンドンドン」と和太鼓の力強い響きが重なり、担ぎ手は多くの見物客が詰め掛けた参道を勇壮にねり歩く。
 準備は6月よりスタート。各地域の代表が集まり、本年度の概要を打合せ、休日を利用して進める。特に、当日の宮入りの段取りは慎重に決定し、巡行のルートの決定には、警察、行政も加わり、市としての大きな祭への意気込みが見られた。

高良神社の歴史について

 高良神社は、高良玉垂命(たまだれのみこと、船・航海の神)を祭る石清水八幡宮の摂社である。八幡神を九州の宇佐八幡宮から勧請した行教律師が貞観2年(860)6月15日に社殿を建立したと伝えられており、創建より1150年の歴史が刻まれている。この間、地域の氏神様として信仰を集め、色々の神事が続けられている。
 明治初年の戊辰戦争の影響により焼失したが、明治15年(1882)に再建され、同39年(1906)に現在地に移築されたもので、建物は一間社入母屋檜皮葺である。
 例祭として、太鼓祭りと共に提灯献灯が天明3年(1783)頃より始まり長らく続いたが、明治維新の混乱時に中止。明治12年(1879)頃に復活、新暦7月18日を祭日とした。本祭は一時途絶えていたが、昭和62年(1987)に八幡宮青年会や地元の方々により復興し、祭礼前7日間、毎夜点燈されている。
 次回は、10月に行われる御園神社のずいき祭りについて掲載したい。農村の代表的な収穫と感謝、次の豊作を願うお祭りで、素朴な中に伝統ある神事が見られる。秋には、京田辺が主催であるが、隼人踊り(南内里も関連する)があり、これも興味ある祭りである。関連する情報がありましたら教えて頂きたい。

一口メモ 太鼓の歴史

 その歴史は古く、紀元前3000年古代オリエントの彫刻に鋲締めの大太鼓が、また古代エジプト時代には腰鼓が見られる。日本の場合、太鼓という文字が使われているのは、雅楽が渡来した(453年)頃といわれている。その後、祭の主役である和太鼓に、鼓(つづみ、胴体がくびれている)と分化し、鼓は芸の世界(歌舞伎・雅樂)に発展した。打楽器は音楽の原点といわれており、最初は危険の伝達、仲間の選別、集団活動の徹底として木片で叩くことから始まり、次に木をくりぬき、動物の皮を貼り付け、反響する太鼓へと進化した。和太鼓は重厚な響きが特徴で叩く事により、神への願いを祈ったと伝えられる。また雨乞いの神事に使われたとも言われ、日本独特の重厚な響きが特徴といえる。この打楽器の原点は南アフリカといわれており、単純だが素朴な独特のリズムが今でも踊りと共に残っている。
 少し脇道にそれるが、京都寺町にコイズミというユニークな民族楽器店があり、アフリカ・東南アジアの音楽の原点に繋がる楽器が販売されている。この中に、南アフリカのジエンベという太鼓があり、この音が気に入り時々訪れる。また、鴨川沿いのウオーキングが好きで出かけるが、休日には若い夫婦がジエンベを叩いておられることがあり、鴨川の水の流れに調和し、音の原点を感じる。リズムは、人の鼓動と繋がるとも言われる。

一口メモ 祭について

 イベントと祭りとの違いは何だろう。共に人間社会の集団活動には違いがないが、イベントは個々の楽しみ、娯楽、ストレスの発散、商業ベースが主とされるが、祭りは、神事または仏事を基本に、反省、願望、祈り、絆、継続が中心になっている。農耕社会では、今年の収穫を反省し、来年の願望を共に祈り、その行為により相互の絆を深め、次の世代に継続していくとも言える。
 数学者として有名な八幡在住の森毅氏が7月24日に逝去された。数学者であるとともに、ユニークなエッセイを沢山残しておられ、八幡図書館では、その蔵書を特別展として展示している。良い機会なので、3冊ほどエッセイ集を読ませていただいた。その中で、祭りについてのエッセイの一部を紹介したい。
「お神輿を担ぐのは、体力のない僕にはつらい。さりとて二階桟敷から眺めているだけでは、傍観者的で熱気がもうひとつ、なろうことなら、神輿の周りを野次馬でチョロチョロし、時にはちょっとかついだふりだけして見る、そうした身のこなしがすきだ。」(「時代の寸法」)
 少しかかわりをもとうとする傍観者の気持ち、独特の軽いタッチの表現に共感を覚えた。見物だけではなく、何か参加したい気持ちを態度で示す事が、今日大事な情報の共有化に繋がるのではないか。


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by y-rekitan | 2010-08-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第5号より-03 八幡歴史文化②

シリーズ「八幡の歴史を彩る文化」・・・②
『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』
「引窓(ひきまど)」余話


土井 三郎 (会員)


 今年の大相撲名古屋場所は異例尽くしであった。野球賭博に端を発し現役関取と親方が解雇され、優勝賜杯を返上するなどの事態に発展したのである。このような激震が角界を襲ったことはなかったであろう。
 問題は、日本相撲協会が旧態依然の姿から脱却できていないことにある。部屋を預かる親方衆をはじめとして反社会的な組織と絶縁できていないのだ。無論それは歴史的な背景をもっている。
 歌舞伎『双蝶々曲輪日記』に主人公格で登場する濡髪(ぬれがみ)長五郎も放駒(はなれごま)長吉もやくざな世界にすっぽり漬かった関取である。つまり、江戸期の相撲興行が任侠の世界に生きる人々に支えられ、関取衆はそんな興行主と昵懇であったのだ。
 芝居を観ながらそんなことを考えさせられた。
 また、そんなやくざ絡みの犯罪を取り締まる側の、もう一人の主人公である南与兵衛であるが、代々郷代官を勤める家柄の人物で、このほど「この辺りを治める領主が変わり」「七ヶ村の代官に取り立てられた」(解説版)とある。時代考証的にいえばこれがちょっと気になる。
 この芝居の人形浄瑠璃として初演されたのが寛延2年(1749)であるが、ちょうど100年前の慶安2年(1649)に、京都所司代が八幡の橋本町に「傾城(けいせい、遊女)を置く家が20軒ほどあり、だから盗人が出入りするのであるから傾城を置く者が一人もないよう橋本の年寄(町役)に申し渡しておいたので、社務家(石清水八幡宮統括者)からも厳重に申しつけるべきだ」との文書が残っている(『八幡市誌』第2巻)。つまり、橋本をふくめ八幡神領における検断権(刑事犯人に対する検察・断罪権)は石清水八幡宮の社務家が握っていたことになり、「七ヶ村の代官」云々とどう辻褄を合わせればよいのか気にかかるのである。「代官」などと書かれると幕府の天領地のような印象があり、八幡の神領地のイメージと異なるのである。
 それはさておき、「南邸跡」なる遺跡が京阪八幡市駅近くにあることをご存じであろうか。
 八幡市郷土史会が発行した『やわたの道しるべ』に詳しい。「八幡市駅の駅前通りから一筋南の道は、古くは八幡宮一の鳥居前から科手(しなで)町の岩神を経て、橋本町へ通じる山端の道であったと思われる。(中略)道に面してある引窓南邸跡は、この道が、かって八幡宮への参詣者の通り道であったことを示している。西へは大谷町入口の常昌院、南へ廻れば一丁で神応寺山門である。」とある。
 その南邸跡碑を見に行った。駅前裏通りという感のある佇まいで、ひっそりと「引窓南邸跡」なる石碑が建っている。昭和2年ごろに京都の三宅安兵衛による遺志で建立されたものである。但し、どんな根拠があって芝居に出てくる南邸をこの地に想定したのかの由緒が記されていない。そもそも「引窓」に出てくる「南邸」が現在の八幡市駅周辺に実在していたのであろうか。それとも当たり狂言であったため、八幡宮を訪れる参詣者の名所案内にいつの頃からか登場   するようになり、それを三宅氏ゆかりの者が石碑建立に結び付けたものか。謎が残るというものである。
 石碑にある「常昌院」に足を運んでみた。山上に昇るケーブルの高架下をくぐり抜けしばらく歩けば立派な山門が見え、「常昌禅院」と書かれた石碑が顔を覗かせている。やがてお勤めを終えられたであろう御住職が運転する軽四輪が現れ、不躾ながら寺の来歴などを伺うことにした。
 曹洞宗のお寺で、近くにある神応寺とは本末関係にあるとのこと。寺の来歴について詳しいことはわからぬが、創建以来300年の歴史はあるものの、もともとこの地にあったものではなく移転してきたものらしいこと。寺自体は大正時代に建て替えられたことなどお話していただいた。
 そんなことに興味を持ったのは他でもない。京都府立大学がこのほど刊行した『八幡地域の古文書と石清水八幡宮の絵図』に竹中友里代さんが執筆した「二つの石清水八幡宮神領絵図の景観」と題する論文があり、その中に、現在の八幡市駅周辺の絵図も克明に記載された二つの絵図が紹介されているのである。
 一つは元禄期(1688~1704年)に書かれたとされる「石清水八幡宮神領古図」でありもう一つは文化十一年(1814)と明記された「石清水八幡宮境内図」である。
 ところが、両方ともに神応寺はあっても常昌院なる寺はない。だが、別名の寺は数多くあり、現在の「引窓南邸跡」と思える辺りに町屋が形成されているのである。『やわたの道しるべ』にある「この道が、かって八幡宮への参詣者の通り道であった」ことが実感できるのである。   

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by y-rekitan | 2010-08-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第5号より-end

 
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by y-rekitan | 2010-08-28 01:00 | Comments(0)