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◆会報第6号より-top 

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◆《講演会》 石清水八幡宮の絵図を読み解く!◆
◆シリーズ:“八幡の歴史を彩る文化”③◆


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by y-rekitan | 2010-09-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第6号より-01 八幡宮の絵図

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《講 演 会》
石清水八幡宮の絵図を読み解く!
― 2010年10月  八幡市文化センターにて ―

京都府立大学准教授    東 昇 氏
元八幡市教育委員会学芸員   竹中 友里代 氏 


 9月27日(月)午後1時より八幡市文化センターにて、探究する会主催の「絵図と案内記で探る八幡の歴史」と題する講演と交流の集いを開きました。 講師は、京都府立大学准教授の東昇氏と元八幡市教育委員会学芸員の竹中友里代氏。 講演の内容を、当日配布されたレジュメと今年3月に刊行された『八幡地域の古文書と石清水八幡宮の絵図』所収のお二人の論文、そして筆者の若干のコメントをはさんで概略報告します。

石清水八幡宮の絵図と描かれた名所・戦利品

 東氏は、上記の演題を掲げ、まず、石清水八幡宮の絵図で刊行されたものを紹介します。
  ①享保8年「城州綴喜郡八幡山之図」
  ②安永9年「都名所図会」
  ③文政8年「細見男山放生絵図録」
  ④慶応8年「城州八幡山案内絵図」
  ⑤明治11年「男山八幡宮全山図」
  ⑥明治43年「官幣大社男山八幡宮全図」
 その中で、④と⑤の絵図を取り上げ、どんな変化が読み取れるのかを提示します。
 僅か12年間の隔たりですが、江戸と明治の変化は「小さな」ものではありません。それは、神主や参拝者、客商売の服装や乗り物の違いに表れています。④の絵図に僧侶や武士が描かれるが⑤にはそれがなくて、⑤に警官や洋装の人物が見られるのに④にはそれが見られない等の指摘は、今後、絵図を微細に見てゆき、読み取る際の参考になるものでした。

描かれた名所と描かれない名所
 次に、②、④、⑤、⑥の絵図の比較を通して、描かれた名所と描かれない名所についての話になりました。②には、上高良と下高良について文章で解説した箇所があります。そのことで、高良社の存在がわかります。④には高良社も頓宮も絵図に、その荘厳な社殿として描かれ、その存在がしっかり確認できます。
だが、⑤はどうでしょうか。頓宮の南面に社務所のような建物が見えるだけで、無残にも高良社跡地と頓宮跡地は空き地のように見えるだけです。前者は石垣だけが残り、後者は土塀こそ見えますが、跡地は草原の如くです。この間に一体何があったのでしょうか。鳥羽伏見の戦いです。私たちは、そのことを当時の記録や歴史書によって知っていますが、このような絵図によって具体的にイメージできるのです。また、面白いのは、⑤の頓宮南面に「高良社」と記した社殿が見えることです。元あった石垣で囲まれた場所ではなく、このような所に(仮の?)社殿を当時の人々が建てたということです。当時の人々の信仰の強さを思わずにおれません。
 さて、明治43年の絵図⑥ではどうでしょうか。高良社は④の社殿と比べれば規模を縮小した感じが窺えますが、石垣で覆われた元の場所に建てられています―あるいは⑤の社殿を移したものか。そして、頓宮域には南門や四囲の回廊こそ見えないものの荘厳な頓宮殿が見えます。そして⑥では、頓宮北西部と一の鳥居から二の鳥居を結ぶ参道に立派な松並木を見ることができます。官幣大社石清水八幡宮の荘厳さ、聖域性を演出する意図があっての植栽かもしれません。
 また、描かれない名所として本宮の金樋について触れました。当時の道中記にはさかんに触れられる本殿の金樋。それが絵図には全く出てきません。見えにくいというだけの理由なのか謎が残るというものです。

描かれた戦利品
 最期に、描かれた戦利品として二の鳥居と三の鳥居近くにあった大砲について言及しました。概略を箇条書きに記します。
・⑥の絵図に見られる三の鳥居近くの大砲は日露戦争の戦利品であり、明治42年に陸軍省から献納されたロシア軍の45口径12㎝速射カノン砲である。
・この大砲は旅順要塞開城後に日本軍が戦利品として持ち帰ったものである。
・⑥の絵図では、二の鳥居傍に、上より小型の15cmカノン砲が見られる。これは明治40年に献納されたもう一つの戦利品である。
・二の鳥居脇にしかなかった小型のカノン砲は、破壊された大砲で、当時の宮司田中俊清は、これでは壮大さを欠き、大社の荘厳にもならず、参拝者の忠誠心も喚起しない旨を当時の陸軍大臣寺内正毅に訴えた。そこで、大型の45口径12㎝が陸軍省より下附され、それが三の鳥居近くに据え付けられたのである。
石清水八幡宮に限らず、戦時中の神社が担った役割について考えさせられたものです。東さんは、更に、京都府をはじめ各地の神社等に残る戦利品のいくつかを紹介して講演を終えました。

石清水八幡宮の絵図と地域文化遺産の情報化

 続いて立たれた竹中さんは、概略4つの話を具体的な絵図・資料をもとにお話しました。

現在の八幡市の風景
 八幡の特徴を次の4点にあります。市の北部で三川が合流していること。市街地の中に緑の男山がそびえていること。国指定の文化財が存在していること。京都府歴史的自然環境保全地域に指定されていること。日頃何気なく暮らしているわが八幡についての的を得た特徴点だと思われます。

川から眺める 北西からの景観
 次に、1765年(明和2)に円山応挙によって描かれた「淀川両岸図巻」と1861年(文久元)浮世絵師松川半山筆「淀川両岸一覧」を示し、神仏習合の男山の原風景を見せてくれました。

八幡の近世絵図
 さて、本日のメインとなる絵図の話として、近世の次の絵図が紹介されました。
  Ⅰ、石清水八幡宮神領古図 石清水八幡宮蔵
  Ⅱ、石清水八幡宮境内図 辻村家旧蔵 文化11年(1814)銘
  Ⅲ、八幡山上山下惣絵図 国立公文書館内閣文庫蔵
      ※市立図書館本館1Fロビー掲示のもの
  Ⅳ、石清水八幡宮山上山下八郷惣絵図 正法寺蔵

 竹中さんは、その内、ⅠとⅡの絵図の比較検討をして、Ⅰの絵図が従来、元禄期に作成されたものとされていたが、実はⅡの絵図とほぼ同時代に作られたのではないかと提起します。
 紙数の関係と筆者の能力の及ばないことから、その論拠についての詳細は割愛せざるをえませんが、結論的には次の点が決め手となりました。
ア、慶春庵、巣林庵、宝暦9年(1759)に類焼した
近隣する7ヶ坊、洞源庵がⅠ、Ⅱともに同じ場所に記されている。
イ、宝暦9年に焼失した七ヶ坊が文化年間(1804~1818)の再興後の位置に描かれている。
ウ、洞源庵が同所に再建された時の恵日和尚は、先代悟菴恵了が文政9年(1826)11月に示寂した後に、住持となっていることから、文政年間以降の景観といえる。
 以上の点から、Ⅰ、Ⅱの絵図ともに文政年間以降、明治維新前の景観を描いた絵図と考えられる。
 ではⅢ、Ⅳの絵図の制作年代はどうなのか。
 Ⅲ、Ⅳともに、山上坊の位置から、宝暦9年の7ヶ坊焼失以前の景観を示していること、だが、享保16年(1731)西谷の火災をはさんで、Ⅳは岩屋堂の存在が示されているのに、Ⅲは岩屋堂が旧跡の形で示されていることから新しいことがわかる。
 以上からⅠ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳの絵図の制作年代は、以下のように示されます。
   古← 18世紀……………19世紀     →新 
        Ⅳ         Ⅰ
         Ⅲ        Ⅱ
 ただし、四つの絵図ともに共通の構図を示しているとして、上部に男山があり、八幡宮を頂上に東斜面からの鳥瞰図・平面図である。そして、八幡八郷として内四郷[科手(しなで)・常盤・山路・金振]と外四郷[美豆(みず)・際目・生津・川口]が示されていること。神領四至として、東=木津川限、西=金川橋河州堺限、南=松井河原戸津堺限、北=狐川限があり、神領の堺を明示している。ちなみに、現在、伏見区に編入されている涼森神社にいわゆる「傍示杭」の立石があり、淀と神領の美豆との堺を表している。しかも、「守護不入所」の文字が刻まれていたことが確認できるとのこと。まさに中世的な面影を残す所が八幡なのだということを改めて感じたものでした。

絵図と地誌等を使って調べてみると
 竹中さんは、最後に、絵図に見られる馬場町の道祖神社を取り上げました。これは、明治維新期に小社合祀令によって園町春日社に合祀されましたが、明治42年に町内一般有志によって元々あった所に返してもらえるよう働きかけ、翌年に遷座式が、大正13年には、鳥居奉納が行われたものです。また、天神社や諏訪社の存在にも触れ、それらの神社が『男山考古録』にはどのように記述されているのかの一端を示し、地域史研究の在り方を示してくれました。
 まとめとして、地域に眠る様々な資料(棟札・古文書・石造物等)に光を当て、それを地域文化遺産としてとらえなおし、地域の共有のものとし情報化することで、歴史認識が豊かになり、観光資源としても有意義なものになるということを指摘して講演を終えました。
 民間レベルとはいえ、私たちの歴史研究のあり方を示してくれたという点で、筆者は深い感銘を覚えたものです。

 質疑・交流は以下の通り。
①諏訪明神のことがとりあげられたが、本来この地にある石清水八幡宮とはその性格からいって合わないものなのではないか。
②東先生が示された「男山八幡宮全山図」(明治11年)に見られる三女神社はそれ以前に制作された「城州八幡山案内図」(慶応2)の弁天社にあたるものではないか。
③全体的にいって難しかった。例えば、私たち(市民レベル)にもわかる資料の提供があってもいいのではないか。
④石清水八幡宮の絵図は個々の場合はともかく、総じて誰が何のために作成されたものなのか。

①……古代の神のことは正直言ってわからないのだが、時代が下って、庶民レベルで神を信仰する時、日本人は結構いいとこどりする所があって、厳格にそれぞれの神をわけて考えるということはないのではないか。だから、様々な神が同居したり習合したりしたのではないか。
②……詳しいことはわからないが、ご指摘の通り、三女神社は弁天社を明治になって云い換えたということはありうることだと思う。
③……確かにもっと鮮明にコピーするなりすれば、もっとわかりやすい資料の提供になったと思う。
また、今日、歴史地理という分野が随分発展し、現在の地図にトレースしながら古図を当てはめてみるなどの工夫が図られている。今後の課題である。そして、もっと地元に張り付けばいいのだが、なかなか物理的に難しいこともあり、そういう点では地元の方々が地域を調べ発見したことを私たちに伝えたりして、市民レベルの研究と私どもの研究の交流を図っていきたいと思っている。
④……名所案内記は、参詣者のための名所案内であることがはっきりとしている。また、Ⅰの絵図は、今度の本の刊行で、研究対象としての神領景観をより身近にしたものとはいえ、その原本が不明なこともあり、作成の目的・年代等は良く分からないというのが実情である。一つ考えられるのは、神社に奉納したことも考えられるということである。掛図としての絵図もあるので、信仰の対象としての絵図という概念は大いに考えられることである。また、図書館に掲げられている絵図は、建物の修復に利用されたことが考えられ、絵図の用途、目的について更に研究していきたいと思う。全体の参加者は43名でした。(文責、土井)


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by y-rekitan | 2010-09-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第6号より-02 八幡歴史文化③

シリーズ「八幡の歴史を彩る文化」・・・③
三宅安兵衛依遺志建造碑と西村芳次郎

土井 三郎 (会員)


 先号の会誌に、「引窓」にちなんで「引窓南邸跡」と刻んだ石碑が京阪八幡市駅前裏通りにあることを紹介した。この碑に限らず、八幡市には、三宅安兵衛の遺志によって建造された石碑が実に多い。その詳細は、郷土史会が発行した『やわたの道しるべ』に譲るが、一体、三宅安兵衛とはいかなる人物なのか。何故数多くの石碑を八幡市内に建造したのか。
 会員の一人であるOさんがそれを考えるためのヒントを教えてくれた。「京都民報」2004年4月11日号に中村武生氏(現在、立命館大学・京都女子大学非常勤講師)が寄稿した「『三宅安兵衛遺志』碑と西村芳次郎」と題した記事がある。また同氏による論文が『花園史学』第22号に所収されている。それらを読むと三宅碑が成立した事情がよくわかる。

 
三宅安兵衛の遺志

 三宅安兵衛(1842~1920)は、若狭出身の京都の博多織商人である。大正8年(1919)に、長男清次郎(1872~1940)に1万円(現在の約5千万円)を託し、「私の死後、京都のため公利公益の事に使用せよ。今日まで恩沢を受けたお礼の気持ちである。」と遺言したそうである。清次郎は、生前父が京都の名所に強い憧れを持っていたことを知っていたので、石碑の建造を思い立つたのである。大正10年から昭和4年までに京都府下全域に総額2万円(約1億円)を投じ、約4百基を建立した。清次郎自身もその半額は出費したのに、自分の名は出さず「三宅安兵衛依遺志」と記したものが多い。

 
西村芳次郎という人

 八幡市にはその三宅碑が実に多い。夥しい数のその石碑について三宅清次郎がすべて指示したとすれば八幡の歴史に相当精通していたはずであるが、そうではない。八幡では、「清次郎自身が碑の選択をせず、実業家で郷土史家の西村芳次郎(1868~1939)に委託」(『花園史学』第22号、中村武生論文より)したのである。
 西村芳次郎とはいかなる人物か。京都民報の記事には次のように記されている。
「西村の自宅は、……松花堂昭乗の旧宅「泉之坊」客殿と茶室「松花堂」を移築したものだった。その上、その敷地内には東車塚古墳が立地しており、彼は常々その顕彰に尽くしていた。いわば史蹟のなかに暮らしていたわけである。だから古社寺にとどまらず史蹟への理解も深かったわけである。またその環境から、京都帝国大学の歴史学、考古学関係者が多く訪問し、その影響により一般にはなかなか意識されにくい史蹟への建碑もあり得たというわけである。」
 引用が長くなったが、郷土八幡にとって西村氏はその歴史と文化財顕彰に多大な功績を残してくれた恩人とも云える人物なのである。
 八幡市図書館の郷土コーナーに『西村閑夢翁追悼集』なる文献がある。徳富蘇峰や井川定慶、重森三玲など西村芳次郎氏と親交を温めたことのある当代一流の文人や学者が寄稿したもので、生前の氏の業績や人柄を知るには格好の書籍である。その中に、閑夢居士(芳次郎)の経歴を記したものがあるので簡単に紹介したい。
・八幡町戸長で国学者であった井上忠継の次男に生まれ、若くして京都に出て豪商西村嘉助の店員になり、その商才を見込まれ西村家の養子となる。
・生糸商を営み大いに隆盛し、第一絹糸紡績会社、京都製糸会社を起こし、わが国「絹糸紡績事業に一新紀元を画」す。
・北米に渡り、大統領ルーズベルトと会見。また、フランスにも行き、「パリ博物館」(万博?)を巡覧。
f0300125_15473148.jpg・日露戦争後の「財界パニック」に遭い、第百三十銀行の倒産を契機に実業界を引退。故郷八幡に帰り、松花堂遺蹟に隠棲する。

 巻末に「病床日記」と題する書簡があり、そのしみじみとした文章に心打たれる。筆者は西村静子氏。芳次郎氏のご息女である。
 月夜田の宝青院(ほうしょういん)に静子さんの娘さん、つまり芳次郎氏のお孫さんが住んでおられることを人から聞いた。 本来、然るべき人を立てて紹介の便を図って貰うべきであるが、向こう見ずを顧みず直に宝青院を訪ねたものである。 

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by y-rekitan | 2010-09-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第6号より-end

 
この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2010-09-28 01:00 | Comments(0)