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◆《講演会》 淀屋の歴史をたどる!◆
◆シリーズ:“八幡の歴史を彩る文化”④◆


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by y-rekitan | 2010-11-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第8号より-01 淀屋の歴史

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《講 演 会》
淀屋の歴史をたどる!
― 2010年11月  志水公民館にて ―

 丹波 紀美子 (会員) 


 11月18日(木)、志水公民館にて探究する会11月例会が行われました。今回は、「淀屋と八幡について」と題して丹波紀美子さんが講演なさいました。丹波さんは、八幡観光ガイドボランティアでもあり、淀屋研究会の会員でもあります。長年その研究会で学んだことが披露されたのです。

 概要を紹介します。
 淀屋と云えば京阪電車淀屋橋で有名ですが、八幡とは大変関わりのある家柄です。どう関係があるのでしょうか?!

 まず、初代常安にはじまる淀屋の業績を簡潔にまとめた紙芝居から始まりました。良く通る声です。紙芝居では、淀屋常安(じょうあん)が伏見城普請の時に、豊臣秀吉に見出されたことが印象に残りました。

天下の台所の基を築いた淀屋
 初代常安の長男个庵言当(こあんげんとう)の系統が淀屋橋家で、この淀屋橋家の系統が淀屋と呼ばれている。淀屋と云えば贅沢な暮らしぶりから幕府によって取り潰しの憂き目にあったことで知られるが、それは5代辰五郎広当(こうとう)の代に当たる。初代常安(じょうあん)から5代目広当までの業績は以下の通り。

 初代常安・・・淀屋の創業者。京都・八幡・大坂で活躍。秀吉・家康にその才能を評価された。大坂の総年寄として大坂夏の陣後の大坂の復興に寄与。

 2代言当(げんとう)・・・淀屋を豪商に仕上げた。大坂を「天下の台所」といわれる日本一の経済都市にした最大の功労者。

 3代箇斎(こさい)・・・言当の弟、道雲(どううん)の子。若くして没。

 4代重当(じゅうとう)・・・淀屋の米市では、2時間で80万両(現在の価格で約640億円)の商いをして大福長者となる。大大名に匹敵する経済力を持ってきたために幕府の取り潰しが画策された。つまり、5代目辰五郎の闕所はすでに4代目の代に幕府によって目論まれていたことになる。後に大名になる米津田盛(よねつみちもり)の娘を妻とし、町の政治に参画。幕府の取り潰しを予期し、番頭の牧田仁右衛門(にえもん)を鳥取の倉吉に派遣。仁右衛門は倉吉で牧田淀屋を創業。のちに、牧田家3代目の四男は淀屋清兵衛として大坂淀屋橋の地で暖簾を揚げ淀屋を再興。木綿業を営む。それから5代、幕末に店を閉鎖し、資金を朝廷に献じたといわれる。

 5代広当(こうとう)・・・15歳で当主。取りつぶしが既成事実となったが、若年のため家内をまとめ切れずに贅沢と従業員の監督責任(謀書・謀判の罪)を問われ、闕所(けっしょ)(財産没収と追放)となる。八幡で隠遁の後に江戸に潜行。闕所(けつしょ)10年で恩赦となり、八幡の山林田地300石を返還された。八幡の神応寺に墓がある。

 淀屋闕所に関する資料の一つとして注目すべき文書がある。

淀屋闕所ヨリ當年五拾年ニ相成候ニ付、於御堂法事
相勤可申旨被為仰付、従江戸面銀百貫目如斯書付相
添、當所御堂ヘ被仰付。當八月十六日夜限、右法事相勤候事。
 其時御堂祐筆是ヲ冩取置候。講中衆内證ヲ以冩置候也

 要するに、闕所50年後に、江戸幕府より銀百貫を添えて辰五郎の法事をする様御堂にお達しがあったということである。幕府が淀屋の功績を認めていたことに他ならない。

淀屋と八幡の関わり
 初代常安は家康から八幡の山林田地300石を与えられ、八幡に家屋敷を持った。ちなみに、八幡柴座に「淀屋辰五郎旧邸跡」碑が建っている。三宅安兵衛の遺志による建碑であるが、この地に2代目以後の淀屋当主が別宅として暮らしていたらしい。 
 2代目个庵言当(こあんげんとう)は、男山の谷水を、安居橋の裏に筧を通し放生川を越えて邸の庭に引きいれた。筧を流れる水の音がドーンドーンと響き、それで「ドンドの辻」ないしは「ドンド横町」の地名がついたといわれる。
 个庵(こあん)は茶の湯、連歌の奥を極め、絵画にも長じていた。松花堂昭乗との交友が深く、昭乗のスポンサー的存在でもあった。連歌師里村宗匠や松花堂昭乗、小堀遠州たちが淀屋邸で連歌の会を張ったこともある。二人の連句が『男山考古録』に残っている。

      山かぜをかけ樋にながす木の葉かな   昭乗

      水鳥馴む池このむ庭     个庵

 また、个庵の甥二人が八幡宮にあがり松花堂昭乗の弟子になっている。むろん昭乗は八幡宮境内の僧坊に暮らしていた。
 八幡宮と云えば、淀屋代々は八幡宮の神人(じにん)として石清水社に奉仕していた。そのことの関わりでいえば、5代目辰五郎(広当)が闕所の罪に問われた際、獄門の刑もありえたと云う。その時に、辰五郎のために命乞いをする僧が現れた。八幡僧正である。何者か。
 神応寺19世廓翁鈎然(かくおうこうねん)(1650~1708)ではないか。なぜなら、神応寺は淀屋からかなりの額の援助を受けていたし、4代重当は扁額の寄進も行っている。そんなこともあり、廓翁鈎然は5代将軍綱吉の側室右衛門左局(えもんのすけのつぼね)を通じて広当の命乞いを働きかけたのではないか。ちなみに、水無瀬中納言兼俊の娘右衛門左局は京都在住の折廓翁鈎然に深く帰依し、和尚が浄財を募るために諸国を托鉢勧進する際の許可を得るために将軍に口添えしたことでも知られる。
 その神応寺境内に、淀屋の三基の供養塔が並んでいる。中央に2代言当、向かって右に言当の弟の道雲、そして左は3代箇斎である。そして、3基の墓の側にひときわ小さい墓がある。これが、5代辰五郎広当の墓。享保2年(1717)12月21日と刻まれている。戒名は「潜龍軒咄哉个庵居士(せんりゅうけんとっさいこあんこじ)」。「龍」を辰五郎の「辰」に読み換えれば「闕所という理不尽な処分を受け、今は軒の下に身を潜めているが、いずれ世にうって出てやる」と解釈できる。

倉吉淀屋の隆盛
 淀屋は、5代辰五郎をもって滅び去ったと伝えられてきたが、倉吉において「復活」がなされた。
 先に、4代重当が番頭牧田仁右衛門(にえもん)を倉吉に派遣し、淀屋の暖簾を継がせたことに触れたが、その牧田が大坂の元の場所を買い戻して再開するのにそう時間はかからなかった。淀屋清兵衛と公然と名乗ったのは、淀屋辰五郎が闕所になって59年目の明和元年(1764)で、牧田仁右衛門から数えて4代目であった。
 淀屋清兵衛と正式に名乗った時に、妻、岡本志加を淀屋から迎えている。志加は淀屋の分家の出かもしれないが、悲劇のヒーロー辰五郎広当の孫娘でも不思議ではない。
 いずれにせよ、牧田淀屋が大坂に復活したのは、倉吉牧田家が初代仁右衛門を初代として、米・木綿の商いで大いに隆盛したからである。特に、初代が中国山地の豊富で良質な鉄を使って稲こき千刃の生産普及に力を入れたことが大きい。そして、牧田淀屋はいつしか倉吉で豪商となっていたのである。
 そして幕末期、倒幕のための資金を朝廷方に献上して倉吉淀屋はその歴史を閉じるのである。
 いま倉吉にいくと、牧田淀屋の家屋を改装して観光客を呼び込める展示館としている。地域おこしの一つの目玉となっているのである。

 丹波さんは、他にも米の先物取引のしくみ、世界で最初に先物取引をしたのが大坂であったこと、5代目辰五郎が闕所の罪を問われた背景(謀書・謀判のこと)、辰五郎の娘五百(いお)と二人の男の三角関係を描いた歌舞伎「城州妻敵討」のこと、幕末の尊王事件など熱っぽく語るのでした。ただし、紙数と筆者の能力をこえていますので、それらのことは割愛させていただきます。
 八幡―大坂―倉吉。この三者をつなぐ中で豪商淀屋の歴史を辿った丹波さんの歴史研究は、まだまだこれからも続くようです。その成果の発表は、次の機会を待つことにしましょう。参加者31名。 (文責 土井三郎)

一口感想
「新山初江の本を読んだだけの知識で参加しました。丹波さんの知識の広さと探究心に感心しています。
 ありがとうございました。」  O

「紙芝居はよかったと思う。そのあとは、まとまりがなかったと思う。しかし、仕方がないかもしれません。今後に期 待します。」  I

「内容も先生(講師)も大変よかった。ただし、椅子の部屋がよかった。大変苦しかった(腰・尻・足)。」 S

「知人の紹介で飛び入り参加。史実に裏打ちされた、すばらしい講演でした。紙芝居はよかった。淀屋の出生、淀の津と巨椋(おぐら)池での生活、秀吉との出会い、伏見城築城から大坂への進出など家康以前の活躍は気になるところです。」 K

「淀屋について大変深く研究されていて、その内容を観光案内に活用することは大変むずかしく感じました。なぜならば私がそこ迄勉強が出来ていないので・・・。」 T

「本日は大変ありがとうございました。米取引(堂島)の話には特に興味を覚える所でありました。」Y

「淀屋については名前は知っていたが、全く知識なし。ぼんやりとわかったが、これを機会に私なりに、理解を深めたいと思います。毎々新しい話ありがとうございます。」 S

「淀屋がどんなにすごい家だったかよくわかりました。こまかいことはわからないことが多いですが、とにかく淀屋の存在がはっきりとわかってきました。これから京阪に乗ったら、思いをはせてみようかと思います。この短時間によくぞここまで。ありがとうございます。(ところで)淀屋の八幡の土地はどの辺でしょうか?」 A     

※「淀屋の土地」が淀屋辰五郎邸跡のことを尋ねているのであれば、放生川にかかる安居橋からまっすぐ東の路地を単伝庵(らくがき寺)めざして歩くと左手に邸跡の碑が建っているのが見えます。

「資料のコピーがあれば理解が深くなったかと思います。」 N

「研究心でおいかけ分かりやすい語り口で、有名人と一味も二味もちがう発表でした。(ただし)一般人にも理解しやすくまとめて頂きたい。」 S

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by y-rekitan | 2010-11-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第8号より-02 八幡歴史文化④

シリーズ「八幡の歴史を彩る文化」・・・④
八幡時代の吉井勇

土井 三郎 (会員)


 第6号で、西村芳次郎氏の来歴について記した。三宅安兵衛碑に関連してである。その西村氏の縁者が八幡市内にご在住であると聞いて、会の仲間二人と連れだって宝青院(ほうしょういん)を訪ねたのは9月中旬、門前に萩の花がほころびていた頃であった。

 門内に入ると広い庭一面に苔が絨毯のごとく広がり、紅葉前のもみじ葉が滴るように繁っていた。見れば庭の片隅に持仏堂がひっそりと建っている。

 初対面にも拘わらず、西村氏のお孫さんであるYさんは私達に気さくに対応して下さった。
奥の座敷に通され、和卓に書類が置かれているのが目についた。西村芳次郎氏に関する資料である。八幡市教委からの一定の調査もあったらしい。ただし、おじい様のことは余りにも幼少であったこともあり殆ど記憶がないとのことである。

「こんなことがあるんやったら、母からきちんと聞いといたらよかったですけどねえ・・・。」

と、私達にむかって申し訳なさそうに相好を崩される。

「そんなことはありません。資料のリストがあるということを確認できただけでも来た甲斐がありました。」

Yさんは、その代わり吉井勇のことはよくおぼえていますよと、身を乗り出して話してくださった。


 歌人吉井勇とその夫人が宝青庵(ほうしょうあん)を寓居としていたのは、戦後間もなくの頃である。

 山城の八幡の庄の月夜田の 里居わびしく妹(いも)の痩せたる

 勇の歌集「残夢」の冒頭に勇自身が当時の境遇について語っている文章がある。
「昭和二十年十月、越中の国八尾(やつお)の町の流寓を去って、京に近き山城の国八幡の里に居を移しぬ。ここは無住の僧院にして、境内楓樹極めて多く、閑庭苔深くして寸余に及べり。隠逸以て世の推移を見むとす。」

 座敷の窓外に、楓の木に交じって枝葉を大きく伸ばす樹木があった。かりんだと傍らのK氏が教えてくれた。

 思ふことやうやく同じわが愛(め)ずる かりんの花を妹も愛づらく

 妹(いも)は妻のこと。勇は、「残夢」の中に妹を数多く登場させている。

 妹のため風邪薬買ひとぼとぼと 往けばいよいよ寒き逵(つむじ)

 妹と二人昨夜(よべ)の残りの味噌汁を温めて食(は)む朝がれひかな

 自身の伴侶をこのように愛おしく書く詩人はそういない。戦後まもなくの頃のひもじく寒々とした世相の中に夫婦二人、ひっそりと暮らしていたようである。

「お風呂どきになりましたら、家で拍子木をパンパンと鳴らすんですわ・・・。すると勇さんご夫妻がおいでになって お風呂に入って行かれますのや。」

 拍子木を鳴らすのが、小学生の高学年になったYさんの仕事だったようである。
 当時、西村家は今の松花堂庭園内にある、石垣で囲まれた書院辺りに住んでおられたとのこと。そこで拍子木を鳴らせば月夜田の宝青院まで届くのであるから辺りはよほど閑静な所だったのであろう。

「それは静かでしたわ。まわりは田圃や畑しかなかったんでっさかい。」

 座敷の鴨居には、彼の寓居を訪ねてきた文人たちの色紙のおさまる額が掛かっていた。見れば谷崎潤一郎、志賀直哉の名前も見える。

 八幡時代の勇は閑雅で文字通り「隠逸」なる暮らしぶりであったのかもしれないが、それは彼のそれまでの流離(さすらい)の人生を経て到達した境地なのであろう。老生の域に達した詩人の感慨は、だが、彼の若かりし時代の作風を味わってこそ理解できるもののようである。

 勇は自らを「戯(たは)れ男(お)」と称し、デカダンで遊興の日々を送る時代があった。一方で、そんな自身を覚めた目で見る感覚も併せ持っている。若き日の勇の歌の魅力の一つである。すべて「酒ほがひ」より。

 かにかくに祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕の下を水のながるる

 ゆるやかに「だらり」の帯のうごく時 はれがましやと君の言う時

 ゆゑ知らず涙ながれぬ閉(とざ)されし 歌舞練場のまへを過ぐれば

 少女言ふこの人なりき酒甕(かめ)に 凭りて眠るを常なりしひと 
                


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by y-rekitan | 2010-11-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第8号より-end

 
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by y-rekitan | 2010-11-28 01:00 | Comments(0)