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◆会報第9号より-top

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◆木津川・宇治川沿いの屋並を巡る◆
◆シリーズ:“八幡の歴史を彩る文化”⑤◆


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by y-rekitan | 2010-12-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第9号より-02 山上山下の町

木津川・宇治川沿いの屋並を巡る
―『山上山下のまち、八幡』刊行によせて―

関西古文化研究会 堀内明博


 盆地南部八幡、淀、大山崎は、京都の玄関口であり、淀川から大阪湾に通じる重要な水上交通や奈良、宇治、京都へ通じる陸路の要衝でした。そして近年の発掘調査で、弥生時代前期まで歴史が遡り、古墳時代桂川右岸に展開する木津川河床遺跡などの集落、山城地域でも特異な美濃山の横穴群、奈良時代以降の志水瓦窯、美濃山廃寺の区画施設や建物が新たに発見されています。
 長岡京遷都以降、当地域は水運・陸運の要衝として、注目されます。平安時代貞観二年(860)男山に平安京の南西、裏鬼門を守護する王城守護の神として八幡宮護国寺と称する神仏習合の宮寺が成立しました。以後源氏をはじめとする武門の氏神としても崇敬され信仰を集めました。
 山下の宿院には市が開かれ、桂川、鴨川、宇治川合流地点として水上交通においても繁栄し、周辺には石清水八幡宮領として庄園がおかれるなどこれまでの景観が一変します。そして南北朝の動乱期には激戦の舞台ともなります。豊臣秀吉が天下統一を果たす中で、淀城や伏見城を築城し全国の中心となる城造りが行われ、江戸時代徳川幕府もその重要性を継承し淀城を再建したと考え得られます。f0300125_9555265.jpg
 このような歴史的背景から、八幡一帯は各時代にわたり重要な役割を果たしてきた地域といえます。そのため市民の方々とともに私たちは現存する様々な文化遺産や文化的景観を構成する資源の発掘をはかり再評価してその原風景を探って地域の活性化に役立てられる材料になるための活動を行っています。その成果としてこのたび-木津川・宇治川沿いの屋並みを巡る『山上山下のまち、八幡』と題するリーフレットを作成しました。これが市民並びに周辺住民への八幡に対する関心を高める材料として人々に認識していただき、その趣旨を後世に伝えていく必要を痛感しながら今後も運動していく所存です。何卒皆様のご支援・ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。
 なお、本活動は、京都府地域力再生プロジェクト支援事業の一環として、八幡市の後援をいただき、行っています。   
     2010年12月

<豆知識、八幡のあゆみ>
725年 僧行基、橋本・山崎間に架橋と伝えあり
859年 僧行教、国家祈祷の為、宇佐から八幡神を男山に勧請
1063年 宿院河原(放生川右岸)で市が開かれる
1227年 この頃、放生川の右岸に家が建ち並ぶ
1307年 石清水八幡宮境内での樟葉住人の麹売買を禁止
1326年 石清水護国寺炎上
1333年 赤松則村、男山に城郭を構え兵を入れる
1352年 足利義詮、男山を攻撃
1405年 平谷町が焼ける
1424年 八幡4郷の神人など、護国寺薬師堂に閉籠する
1539年 三好政長、山城国八幡に徳政を施行する
1584年 豊臣秀吉、最初の八幡宮領検地を行う
1600年 安居祭復活
1634年 石清水八幡宮(現社殿)に正遷座
1708年 橋本町火災、38軒が類焼
1715年 奉行所、上奈良、内里両村に堤修築を命じ、3月14日に完成
1728年 生津村堤切れ1759年 男山橘本坊出火。新坊・井関坊など焼失
1870年 木津川堤改修
      (リーフレットの年表より抜粋)
by y-rekitan | 2010-12-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第9号より-03 八幡歴史文化⑤

シリーズ「八幡の歴史を彩る文化」・・・⑤
吉井勇の歌の魅力

土井 三郎 (会員)


   凩を聴きておもふはすでに亡き 友啄木がありし日のこと 

 吉井勇のこの歌を読んで意外な気がした。その境遇があまりにも違い、作風も随分異なる啄木を、勇が友と呼んでいることに。
 石川啄木は、岩手の寒村に生まれ、代用教員や地方記者として貧しい生活を余儀なくされ、やがて社会主義に傾倒し、貧しさに喘ぎながら26歳の若さで亡くなったことで知られる。それに比べ、吉井勇は鹿児島藩士出身の伯爵家の次男として生まれ、遊蕩な日々を過ごす時期があり、70余歳まで生きたのである。
 だが、生年を調べて驚く。二人はともに1886年(明治19)生まれである。共通点は他にもある。ともに「明星」派の詩人として注目を浴びた時代があり、その中身が違うかもしれないが、流離(さすらい)の歌人と称されたのである。

   たはれをの心のごとく流るるや 南し北す大阪の水

   陸奥に往きし芭蕉のかなしみと 長崎にゆくわれの愁(うれ)ひと

   身は雲に心は水にまかせべう 旅ゆくわれをとがめたまふな

   四国路へわたると云へばいちはやく 遍路ごごろとなりにけるかも

 流離は感傷を伴う。啄木は、孤愁と望郷とを歌に託したが、勇の感傷には自戒の念と自分を恥じるような息づかいが感じられる。伯爵家に生まれてきたことをうとましく思う気持ちがあるのだろうか。

   紅灯のちまたにゆきてかへらざる 人をまことのわれと思ふや

   眠られぬ小夜床さむし人の世の 恥の衾かづきてぞ寝る

 だが、勇の真骨頂は、感傷を突っ切ったような耽美であり、儚くも妖しい感性である。それは、竹久夢二の美人画の挿絵が相応しい小世界と云える。

   東京の秋の夜半にわかれきぬ 仁丹の灯よさらばさらばと

   宵闇はふたりをつつみ灯をつつみ しづかに街のなかをながるる

   はかな言云ふ舞姫の手にありて 蛍のひかりいよよ青しも

 そして、勇の耽美は、歌舞伎や市井の寄席情緒に傾斜し、芸人気質や町人文化への憧れが色濃く表れるようになる。

   秋のかぜ馬楽ふたたび狂へりと 云ふ噂などつたへ来るかな

   新内の唄のなかよりぬけ出でて きたりしごとく君はかなしき

   島原の角屋の塵はなつかしや 元禄の塵享保の塵

   提灯に一時に紅き灯ともれば 桟敷はとみになまめしきかな

   しんしんと雪の降る夜の団蔵の 仁木を照らす面あかりかな

 馬楽は落語家蝶花楼馬楽、団蔵は歌舞伎役者市川団蔵。仁木は、「伽羅先代萩」の舞台で、床下からせりあがる場面で、あかりに両の頬を照らされる敵役仁木弾正のことである。このような寄席通いが昂じたものか、勇は戯曲の作品も残しているという。
 一方で、吉井勇は、凩を聴けば啄木を思い起こすというように、人懐っこく情に篤い面が見られる。むろん、肉親への思いも強い。

  わがこころいたく傷つきかへり来ぬ うれしや家に母おはします

  吾子は寝ぬわれは眠らで夜を守らむ この恐ろしき更けがたき夜を

 吾子は勇の長男滋(しげる)のこと。関東大震災の夜、勇は二歳の吾子を徹夜しながら見守ったのであろう。  但し、滋の母、徳子夫人とはやがて離婚するのである。

  世を棄てむ心おこせど吾子のこと 思へばむげに棄てもかねつつ

  われは旅に妻は夜戸出に子はひとり 婢とあそぶあはれなる家

  母刀自の老のおもかげ夜目に見ゆ 酒な飲みそと云ひたまふごと


この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2010-12-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第9号より-end

 
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by y-rekitan | 2010-12-27 03:22 | Comments(0)