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◆会報第11号より-top

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◆《講演会》 近代の門前町と三詣路を語り合う◆
◆シリーズ:“古歌に詠まれた南城山”①◆


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by y-rekitan | 2011-02-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第11号より-01 近代の門前町

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《講 演 会》
近代の門前町と三詣路を語り合う
―2011年2月 松花堂美術館本館にて―

 井口 博久 (走井餅 当主) 
  山上  喬 (鳩茶屋 当主) 


 2月17日(木)午後1時半より松花堂美術館本館において頭書のパネルディスカッションが開催されました。パネラーは次のお二人。 
 井口博久さん(走井餅9代目当主。1928年生まれ)
 山上 喬さん(鳩茶屋当主。1931年生まれ)
 コメンテーターとして堀内明博さんをお呼びしました。
 今回の例会はこれまでと趣向を変えまして、八幡に永い間お暮らしの方々から門前町と参詣路にまつわるお話をしていただき、近代八幡の発展・変遷を学びあい交流していこうとするものです。
 司会の石野さんは、冒頭コメンテーターの堀内さんを紹介。堀内さんは、数日前より、京都府立大学が委託された学術研究として岐阜の古代遺跡を調査中でしたが、リーフレット『石清水八幡宮 山上山下のまち、八幡』の発行元という関係もあって、岐阜から戻り今例会に出席してくださいました。
 「信仰と商いでにぎわった門前」との副題を持つ同書は、2011年1月31日の発行のできたばかりのものです。永い間をかけて学生たちと手弁当で八幡の遺跡関係を詳細に調査し、現在の八幡の地図に遺跡や街の景観をカラー写真や図版をはめこみコンパクト(10頁)にまとめたものです。
※販売価格は、1冊500円。お求めになりたい方は当会事務局―土井にご一報ください。
  堀内先生の自己紹介のあと、まず井口さんが店(走井餅老舗)の来歴から語ってくださいました。

井口博久さんの話
  創業は1764年。大津の追分で走井の名水を用いて初代が餡餅を作る。走井茶店は安藤広重の東海道五十三次の大津の絵にある。f0300125_2194350.jpg
  明治43年(1910)、六代目が八幡に店を引き継いだが、当時、京阪電車が開通した頃で、駅前の旅籠「千歳屋」(講宿(こうやど))が売りに出たのを買い取った。店のあった高坊は皇室関係の方の宿坊があったところで、廃仏毀釈の後は八幡小学校が建った。親父はその小学校に通っていた。当時の八幡は排他的な雰囲気が強く商売する上で随分苦労したことを聞いている。
  松花堂庭園は、西村さんのご家族が暮らしていたが、昭和30年頃に塚本総業が買い取り、別荘として改築。全国から珍しい竹を植えて外苑・内苑を整備した。そこにはお忍びで皇族関係者がよく来ており、土産物として走井餅の注文を受けた。行くと、必ず吉兆のキッチンカーが停まっていた。客人に出す料理を作っていたものだが、そこから松花堂弁当が始まった。
  松花堂弁当については、次の話もある。大正4、5年頃に松花堂昭乗の墓所を守るということで泰勝寺ができ、その落慶法要の際に、当時の住職が4つの仕切りのある煙草盆百個をこしらえ精進料理を入れて提供。京都の料理屋がそれをヒントに「祥華堂弁当」をこしらえ店で出したとのことである。但し、「松花堂弁当」として全国的に広めたのは吉兆である。
 昭和30年ごろは、木津川で遊泳場が賑わっていた。水はきれいで、多い時で一日に一万人もの人が遊泳を楽しんだ。八幡町の料飲組合が浜辺に店を出したのはもちろん、駅前には浮輪や水中メガネを商う店があって大層にぎわった。f0300125_1931577.jpg
  当時、背割堤は剣先と呼ばれ松並木であった。「山城の天の橋立」とも呼ばれ時代劇のロケも行われていた。ところが、昭和40年代に松枯病がまん延。松は松は枯れ、代わりに桜が植えられた。今日、花見の行楽地になっているのはみなさん御承知の通り。
  昭和47、48年ごろ、八幡駅前の住宅に事前の連絡が全くなしにブルドーザーが入り開発が進められた。これはいかんということで、市への交渉団体として3区の業者がまとまって石清水共栄会と高坊自治会が結成され、商工業者や地元の住民の要望を聞くように働きかけた。だが、駅前のロータリーの開発については、地元商工業者の要望が殆ど生かされなかった。
  いま、八幡市では第4次総合計画にもとづき、新たな駅前の整備事業が構想されているが、地元の意見が反映される様に、要望をふまえて進めてもらいたいと考えている。
      
山上喬さんの話
  私の店は元々男山の裾である平谷(びょうたに)で油を商い男山四八坊に油を納めていたようだ。ところが、店の来歴を記した記録は鳥羽伏見の戦いで八幡が焼けた時に失われしまった。わかっていることは、文久年間(1861~1864年)末に八幡宮の湯茶接待の管理を依頼され、山上で商いを始めたことである。
  茶店を始めた頃の参拝者は、淀川水系を行き来する船を利用する者がほとんどで、当時の参詣ルートも橋本で降りて狩尾(とがのお)神社に先ず参ってから八幡宮にお参りする者が多かった。そこで、私の店も今研修センターがある場所から橋本よりにあった。また、当時三川合流する辺りの水は綺麗で川魚がよく捕れた。私の店もそれらの魚をさばいて出す料理が多かった。
  石清水八幡宮は、戦時中、「武運長久」を祈る参拝者が近畿一円から来られ店も繁盛した。だが戦後になると参拝者は激減。当時、私は学生であり、知人の紹介で大阪の某会社に入社し、サラリーマン生活が始まった。
  一の鳥居から山上までの参詣路の話をしたい。まず高良神社の話。これは『徒然草』で、仁和寺の和尚が八幡宮にやってきたのに山上まで登らずに高良神社を八幡宮と思って参ったという話で有名である。しばらく行くと駐車場の片隅に「頼朝手植の松」がある。私が子どもの頃は立派な松であったが昭和22年に雷が落ちて枯れてしまった。今あるのはその後のものである。下馬の石碑や馬を献納した社屋があった話など続く。
  七曲(ななまがり)と云って参詣路がぐねぐね曲がって登り切ったところに稲荷社があって、近くに「旧蹟かげきよ塚」がある。それには、源平の戦いで敗れた平景清(たいらのかげきよ)がここで頼朝を待ち伏せしたとの言い伝えがある。その時、頼朝が乗っていた馬が待ち伏せしている武将がいることに驚き後ずさりした。そこには昔橋があったので、その橋の事を「駒返し橋」という。現在もセメントで出来た橋があり、右側に駒返し橋と記して石標がある。
  表参道から離れたところに石清水社がある。石清水八幡宮が出来る前からここにあった神社で、これは古代の人々が太陽や山を神体としたように、ここでは水の出所を神として崇めたところである。
  鳩茶屋の「鳩」は石清水八幡宮のお使いが鳩ということで、当時の宮司さんか禰宜さんから鳩の名を頂いて鳩茶屋となった。
  三の鳥居近くの神馬舎には戦前、大砲が置かれていた。f0300125_19352015.jpgロシアの軍艦の大砲である。日露戦争の戦利品であるが、それは今の「せせらぎ路」を当時の小学校の高学年の子らが放課後毎日少しずつ運び上げて据えたものである。子どものころはそこが恰好の遊び場であった。三の鳥居であるが、昭和36年の第2室戸台風のときに折れて、上半分が飛んでしまった。今でこそ修復しているが上半分と下半分とを継ぎ足したものなのである。

(途中10分間の休憩)
司会「戦後の町の変化について教えてほしい。」
井口
「駅前にロータリーができたのは、昭和58年で、その前までは、バスはケーブルカーの駅前まで来ていて、そこでUターンしていた。駅前にはパチンコ・バー・料理旅館が建ち並びそれは流行っていた。また、大杉谷の不動堂に行く途中に八幡温泉があった。」
山上
「橋本界隈のことだが、橋本は今でこそ興正や新石など新興住宅地となっているが戦後しばらくの間は狩尾神社周辺は丘陵地帯であんなプリンのような形をしていなかった。その橋本であるが、戦後間もなくのころは京阪電車がよくストライキをしていて、大阪に行くには対岸まで船で渡り国鉄に乗らないといけなかった。朝早くに家を出て、藪の中の小路を歩いて橋本の渡し場に出た。渡し舟で対岸に渡るには、先程話に出た剣先(背割り堤)付近まで大舟を登らせ流れを利用しながら対岸に着く。中州に下り、歩いて桂川の渡し舟(小型)に乗り変えて山崎に着く。それと云うのも、剣先までの淀川は急流で船が頑丈でないといけなかったが、むこうの桂川は流れが緩やかで小舟でもよかったからである。」
(お二人の話は他にもあるが、紙数の関係で割愛せざるを得ません。ご容赦ください)

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戦後間もなくの頃の八幡駅前(『男山で学ぶ人と森の歴史』より)

 
質疑応答
  質疑応答では、以下の点について話題が提供され一定の議論がなされた。
①八幡の内四郷外四郷の構成について
②石清水八幡宮と油座の関係。八幡宮は信仰の対象であるとともに荘園領主であったこと。
③神応寺の山門に肉桂(にっけい)の木(楠の一種)があった。それは人工的に植えられたものであった。
④大寅が八幡駅前に進出した経緯。ケーブルカーの元の出資者は大寅で、展望台の名も大寅公園であった。
⑤平谷(びょうだに)にある「下馬」の石碑と、馬で参詣路を駆け上がったことは矛盾しているようだが、松花堂昭乗が書いたものを刻んだ「下馬」は江戸時代、頼朝が馬で駆けあがったのは鎌倉時代であって時代がちがう。
⑥石清水八幡宮の参詣ルートは一の鳥居からというよりも橋本からの方が主ではないのか。
 参加者47名。

 <事務局より>
お二人が語られたことや質疑応答で話題になったことに関わって、参考となる史料がありますので次に紹介します。
◯「旧蹟かげきよ塚」について
「石清水下り坂と表参道の合流にあるかげきよ塚は、石清水の下流禊谷が表参道を通る人の眼に触れる地点であるため、参詣人がこの流れに影をうつして、不浄を清めたあとを伝えている。元文二年(1737)
 三月、大坂住人の日野屋某が、景清塚と書いた石碑を仕丁座の取次で建てたという。」(部分)
   『やわたの道しるべ』(八幡市郷土史会発行)より
◯源頼朝は石清水八幡宮にいつ参詣しているか
「建久元年(1190)11月11日、12月5日
 建久6年(1195)3月9日、4月3日、4月15日」
 ※頼朝が建久6年に石清水八幡宮を参詣した際、室政子や息女、子息頼家を伴っている。―「石清水八幡宮への天皇行幸と武家参詣」(石清水八幡宮研究所・田中君於)
◯「1063年(康平6)宿院河原(放生川右岸)で市が開かれる」との記録あり。――このことは、石清水八幡宮への参詣ルートを考える際に、橋本からの参詣路もあったが、八幡側(一の鳥居方面)からの参詣路もあったことを示しているのではないか。

<一口感想>
「55年ほど前、寝屋川市の小学校から八幡の水泳場に来た思い出があります。初詣で八幡坂を登ったのもその頃です。今日のお話で、当日の様子が頭に浮かんできました。おもしろい話でした。」 T

「前回に続き、又八幡の事、歴史を学ばせていただきました。今回は歴史に詳しい御二人の身近な話題もあり、大いに学ばせていただきました。」 A

「市駅から山上までのお二人のお話を聴き、観光ガイドする時に大変役立つと思いました。(他の地域からの観光客に説明する時)」 T


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by y-rekitan | 2011-02-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第11号より-02 古歌の南山城①

シリーズ「古歌に詠われた南山城」・・・①
『万葉集』と八幡

八木 功 (会員)


 表題の「古歌」とは、主として『万葉集』(781~783年頃成立)、『古今和歌集』(905年)、『新古今和歌集』(1205年)などに見られる歌、「南山城」とは、巨椋(おぐら)池周辺から南に広がる木津川流域を指すものとして、5回にわけて述べてみたいと思います。なお、「山城」は、古代には「山代」、奈良時代には「山背」、平安遷都以後「山城」と変わりますが、引用文以外では「山城」に統一したことをお断りしておきます。

 『万葉集』には約4500首の歌が収められていますが、舒明(じょめい)朝(629~641)から淳仁(じゅんにん)朝(758~764)の宝字3年(759)までの約130年が本格的な「万葉歌の時代」であり、それ以前の「古代万葉時代」の歌として特定の個人の実作ではない歌が8首収められています。これは持統朝(690~697)の人々が、伝承をもとに作りあげた伝承歌謡であり、『古事記』(712)下巻(仁徳~推古)にも見られるものですが、この歌謡の中に、古代の八幡へと想像をかきたてる歌をみつけることが出来ます。

 『万葉集』には、「宇治」という地名は約20回現れますが、「八幡」という地名は皆無で、詠まれている南山城の地名の大部分は、現在の木津から宇治、木幡、山科を通り近江に向かう古北陸道に沿うもので、木津川の東側に偏在しており、西側では、平城京からほぼ近鉄京都線沿いに北上していた古山陰道沿いの田辺(筒城・筒木・綴喜)のみです。巨椋池に流入していた名木川の歌は5首ありますが、八幡の歴史を考える場合、その巨椋池の干拓や、三川合流、淀川という広大且つ壮大な治水工事の歴史を無視することは出来ません。しかし、本稿では詳述する余裕がありませんので、最小限の説明で往時を想像していただきたく思います。

 さて、『古事記』には、難波(なにわ)から淀川・木津川を遡り、筒木(現在の京田辺市)に現れた仁徳天皇と皇后磐姫の話がありますので、まず『万葉集』の「磐姫皇后、天皇を思ひて作らす歌四首」(巻第二 相聞)を紹介します。
 激しい愛情と嫉妬の持ち主として知られる磐姫の深い愛情が、「煩悶・興奮・反省・詠嘆」の順に詠い込まれている伝承歌謡です。

       君が行き日(け)長くなりぬ山尋ね
                 迎へか行かむ待ちにか待たむ(85)

(君の旅は日数が重なり長くなった 山を尋ねて迎えに行こうか それともここでずっと待っていようか)

       かくばかり恋ひつつあらずば高山の
                岩根し枕(ま)きて死なましものを(86)

   (このようにむなしく恋い続けていないで、いっそ高い山の上の岩を枕にして死んでしまいたい) 
           死人を高山に葬る当時の慣習をふまえている。


       ありつつも君をば待たむうち靡(なび)く
                   我が黒髪に霜の置くまでに(87)

     (このままいつまでも君を待っています 黒髪が白髪に変わるまで)

       秋の田の穂の上に霧(き)らふ朝霞
           いつへの方(かた)に我(あ)が恋やまむ(88)

  (秋の田の稲穂の上に立ちこめる朝霧のように いつになったら私の恋ははれるのだろうか)

 磐姫の愛情の起伏が、激しく、或いは抑制され、端的且つ率直に詠い込まれていますが、二人に関わる興味深い伝承が、「仁徳天皇の皇后磐姫が難波(なにわ)より山代河を遡る」及び「仁徳天皇難波より河を遡り、山代に行幸」(『古事記』)です。

 磐姫が紀の国へ出掛けて留守の間に天皇が浮気をしたと聞き、姫は難波宮(なにわのみや)には帰らず、山代河を遡り、奈良山から故郷である葛城を眺めた後、筒木まで引き返し、そこに住む百済国の人、奴理)能美(ぬりのみ)の家に住むことになりました。それと知った天皇は使者を遣わしたり、自ら訪れたりしますが、姫は天皇に会おうとせず、また天皇の浮気を許すこともなく、5年後にこの世を去りました。
 姫の激しい愛情と嫉妬、一本気な性格が窺われる話でありますが、現在、同志社大学の構内にあるように、継体天皇(507~531)が山城で開いた「筒城宮」と磐姫が住んだ「筒木の宮」(奴理能美の家)とが同じ場所にあったという確証はないようです。

 磐姫が遡上した頃の山代河は、古代地図を見て大体推測出来ますが、はっきりと堤防らしきものもない葦の生え茂る沼沢湿地帯を気ままに流れていたと思われます。その川辺の一齣を詠み込んだ歌謡があります。

 つぎねふや 山代河を 河上り 我が上れば 河の辺(へ)に
 生ひ立てる 鳥草樹を 鳥草樹の木 其(し)が下に 生ひ立てる
 葉広 ゆつ真椿 其が花の 照りいまし 其(し)が葉の 広りいますは
 大君ろかも (『古事記』58)
 つぎねふや=「山代」の枕詞、鳥草樹=ヒサカキに似た灌木、  ゆつ真椿=神聖な椿、其が花の以下は、「椿の花のように照り輝き、椿の葉のように広くゆったりくつろいでおられるのは、大君であるよ」の意。

 天皇を川辺に咲き輝く椿になぞらえた賛歌ですが、水草や葦の生い茂る茫漠とした流れの中で、時折目を引く椿はこの古歌の情趣を豊かなものにしています。

◎歴史短歌 三首
 ① 初春の雪は豊年瑞兆と 家持ことほぎ歌集をむすぶ
     (注)『万葉集』最後の歌は、大伴家持が石清水創建(859)の
          100年前(759)に作ったものです。

     ○新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(4540)
 ② 磐の姫筒木の宮まで尋ねきし 浮気の夫を毅然と拒む
 ③ 磐姫が詠みし真椿いまもなお 科手(しなで)の堤に生い立つ花か


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by y-rekitan | 2011-02-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第11号より-end

 
この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2011-02-28 01:00 | Comments(0)