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◆会報第12号より-top

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◆《講演会》 神仏習合の実像に迫る◆
◆シリーズ:“古歌に詠まれた南城山”②◆


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by y-rekitan | 2011-03-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第12号より-01 神仏習合の実像

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《講 演 会》
神仏習合の実像に迫る
― 2011年3月  石清水八幡宮にて ―

現地案内 : 八幡市文化財保護課主幹 小森 俊寛
          講 演  : 石清水八幡宮 禰宜   西 中道


 3月12日(土)、探究する会の3月例会が開かれました。テーマは「石清水八幡宮における神仏習合」。昨年9月に始まり12月に終わった石清水八幡宮の遺跡調査をふまえた、文化財保護課主幹小森俊寛さんの案内による現地見学が第一部。第二部は、石清水八幡宮の禰宜(ねぎ)である西中道さんによる「石清水八幡宮と神仏習合」と題する講演です。
 正午40分頃から神馬舎前で受付を開始。事前に申し込みのあった方々が次々に訪れ、午後1時には70名近い参加者でふくれあがりました。大塔、護国寺、閑雲軒をめぐる簡単なオリエンテーションの後、小森さんの先導で私たちは本殿南西の大塔(だいとう)跡へ案内されました。

現地見学  「大塔、護国寺、閑雲軒をめぐる」
大塔
 大塔は、12世紀初頭、白河院の御願(ごがん)によって造立が画され天永2年(1111)に上棟された建造物です。f0300125_20421747.jpgそれは、空海が創案したとされる密教系の塔で、下重方(かじゅうほう)5間・上重(じょうじゅう)円形の「真言大塔」であったようです。一般に多宝塔と称される下重方3間の小型の塔は現存例も多いのですが、大塔はほとんど現存しておらず和歌山県根来寺(ねごろじ)の大塔が、室町時代以前の建立で唯一の例だとされます。根来寺大塔が国宝に指定されているのですから、より古く、規模的に匹敵する石清水の大塔が、明治初年に破却されなければ充分に国宝にされる値打ちがあったと小森さんは力説します。
 小森さんは、大塔の建っていた位置も問題にします。大塔は、本殿から一段下がった南西部の西谷を埋め 立てて造成した平坦地に建立されたものですが、そこは北側に弁財天(現存)をはさんで八角堂(現在、八幡大芝に移設)が傍近くにあったことからも、狩尾(とがのお)社で参拝をすませた、橋本方面からやってき た参詣者が、西門から八幡宮の境内に足を踏み入れた途端、八角堂と大塔という見上げるばかりの堂塔に圧倒され、その奥に八幡宮の本殿を臨むというシチュエーションとして設計されたものであろうと指摘するのです。まさに、石清水八幡宮寺が堂塔と社殿の位置関係からも神仏習合を深く意識した配置構成であったということでしょう。

護国寺
 次に案内されたのが護国寺跡。石清水八幡宮において、本殿に次いで造られた仏堂が護国寺です。f0300125_20493863.jpg神仏習合の宮寺(みやでら)として出発した石清水八幡宮の成立当初から、護国寺は本殿と一体で石清水八幡宮寺を構成していました。石清水の全山を治めた長官は護国寺の別当であり、全山を統括していたようです。
 明治維新後、神仏分離令によって廃されますが、本尊の薬師如来と十二神将は、淡路島の東山寺(とうざんじ)に現存しているそうです。なお、慶応2年(1866)に作成された「八幡山案内絵図」の護国寺傍に記される灯籠は現在地にそのままの形で残っています。
 また、江戸時代後期の本堂柱列の内側に、小坑(しょうこう)の底部に密教法具の「輪宝(りんぽう)」を置き、その中央の方形の小穴に「独鈷杵(とっこしょ)」を突き立て埋納した遺構を6基検出したとのこと。f0300125_2115255.jpg輪宝を下に置き、橛(けつ)という杭状の法具を突き立てる方法は、天台密教の修法だそうです。今回の出土例は、鎮護国家を祈念するもので、外国船が日本に来襲し始めた当時、予感される国難から国家を護る願いをより強いものにするために独鈷杵が用いられたとの推測が成り立つとか。天台密教と云えば延暦寺が想起されますが、その延暦寺が京都の鬼門(北東)を守護し、石清水八幡宮が裏鬼門(南西)を守護したことからいえば、天台密教の修法で、手を携えて王城(京都)を守護したということが云えそうです。

閑雲軒
 最後に案内されたのが、新聞紙上で「空中茶室」の見出しで話題をさらった閑雲軒(かんうんけん)。松花堂 昭乗の住んだ瀧本坊(たきのもとぼう)の茶室として昭乗が小堀遠州と共に造ったとされるものですが、今回、平坦面下の崖面を点検すると、数多くの礎石がみつかりました。このことから、f0300125_2165651.jpg閑雲軒とその北の書院は、床面の多くが、5~6mの高い柱で支えられて崖の斜面に迫り出す「懸(か)け造り」の建物であったことが判明したというのです。
 茶室の在り方からすれば画期的なもので、空中に浮かぶ茶室の借景(しゃっけい)が京都と南山城の景観であったということです。実際にこの地に立つと樹木の間から南山城の風景が目に入り、角度的には京都 方面も視野に収まるようです。
 現地見学に際し、文化財保護課から松下知世(ちよ)さんもかけつけお世話下さいました。小森主幹ともどもありがとうございました。

講演会  「神仏習合の諸相を探る」

 続いて、研修センターに場所を移し、八幡宮の禰宜(ねぎ)である西中道(にしなかみち)氏による「石清水八幡宮と神仏習合」と題する講演を聴きました。
講演の概要を箇条書きにまとめてみました。
 まずもって、前日(3/11)の東北・関東の大地震に罹災された方々が一日も早く回復されるこ とを願う一方、祭祀を司る立場、中でも勅祭社(ちょくさいしゃ)の一つとして我々自身も責任を感じざるを得ない。
 昔からあった神仏習合を取り戻そうとの趣旨で、3年ほど前から神社界と仏教界が共催して神仏霊場会を組織し、国家の安泰と世界平和を祈願する 営みが行われるようになった。(1回目伊勢神宮、2回目高野山、3回目生田神社、4回目の今年は東大寺で祭典を行う予定)f0300125_2113370.jpg

 昨年の8月頃に、ロシアから東京外国語大学に留学していた一人の女子学生が八幡宮を訪ねてきた。彼 女は、片言の日本語でここは昔お寺であったのでしょうと云う。また、自分 は子どもの頃に日本には昔お寺であった神社があって、そこで何か重要な儀式を司っているのを何度も夢で見たという。それは京都の石清水八幡宮だと教えられたのでやってきたというのである。まだ、護国寺跡から「輪宝(りんぽう)」などが発掘される前のできごとである。
 護国寺跡から出た祭具は天台密教の修法で、鎮護国家のために用いられるものと聞いている。これから更に様々なことが解明されることが期待される。

神仏習合の真髄とその歴史
 神仏習合とは、異なる宗教が完全に混じり合って融合したものではない。神と仏、神事と仏事が区別され共存したものである。ところが、石清水八幡宮では、祭神(八幡大菩薩)が神と仏と分かちがたく結びついた特異な存在であり、信仰形態である。
 仏教が理を重んじ、男性的なものであるのに対し、神道(しんとう)は感情を重んじ、女性的である。日本の豊かな自然が育んだものであるからで、それが外国からやってきた仏教と交わり、神と仏の間に生まれてきたという見方もありうる。
 明治維新により、本来分かちがたく存在した八幡神の神仏を真二つに分断してしまったのが廃仏稀釈(はいぶつきしゃく)である。今日、それまで封印していた神仏習合の宝物類の封印を解き明らかにされるようになってきた。僧形八幡神像もその一つで、3月18日から始まる松花堂美術館での展示でも、善法律寺さんと正法寺さんの所有する神像が公開されると伺っている。

 神仏習合の歴史は古墳時代に遡る。昨年、奈良県の纏向遺跡から大量の桃の実が発見されたが、これは、神道と道教(神仙思想)が混淆したものと云える。飛鳥時代になると南都仏教が栄えるが、国東半島でも新羅仏教が入り込み宇佐八幡神の在り方に影響を与える。
 宇佐八幡神は託宣の神として知られ、聖武天皇の大仏造立を援ける旨を告げ南都にやって来る。東大寺を鎮守する手向山八幡宮がそれである。宇佐八幡神は、道鏡の野望を防ぐ託宣を出したことで知られ、朝廷と国家を守護する神として尊崇を受けることになる。
 平安時代になり、最澄と空海によって平安仏教が開かれ、朝廷から庇護を受けるが、その流れにそって石清水八幡宮が都近くに鎮座することとなる。南都大安寺の行教和尚が宇佐に赴き、八幡神の託宣を得て都近くのこの地に勧請するのである。貞観元年(859)に男山に入り、翌年正式に鎮座することとなった。時の天皇は清和天皇、政権の中枢を担っていたのは藤原良房である。それから昨年が1150年ということで、記念の事業が展開された。

宮寺の組織構成と坊のあり方
 石清水八幡宮は宮寺であり、僧侶と俗人(神官等)が並立する組織を構成していた。「僧」では、祠官として検校(社務)以下別当・権別当などの役職があり、それは紀氏の独占するところであった。その流れをくむのは田中家・善法寺家等であるが、祠官は僧侶でありつつ妻帯し子孫を残すという特徴を持っていた。祠官以下には、三綱・山上執行職、御殿司、衆徒などによって構成されている。
 「俗」のトップを占める、俗別当や神主などの神官も紀氏が独占し、その下に神人と称する階層があった。禰宜や社士、座を構成する者たちである。
 室町時代の記録によると、僧侶の数は150人に達した。俗の方も150人程いて、雑多な役職の人々をふくめると八幡宮寺に仕える者たちは常時5~600人いたと云われている。
 男山には、四十八坊と称せられる程数多くの坊が存在した。豊蔵坊は中でも大きく、徳川将軍家の祈願所として実質石高300石以上あったと云われている。家康の等身座像があったが、今等持院(京都)が保管している。橘本坊も足利将軍家祈願所として大きかった。源義家が着した甲冑があったが、今では個人蔵となっている。それらの坊は、例えば将軍家が石清水の参詣に訪れた際、家臣の宿坊になった。
 幕末の頃ある神官が書いた日記によれば、禁門の変(1864年)を起こした長州藩の一行が男山に来て軍 議を開き、家老などの非戦論に対し真木和泉守などに影響された藩士らが主戦論を展開したとのこと。また、法螺貝の曲を八幡宮に奉納すると称して、彼らは神官らに見送られ京都に進軍し、あえなく敗退したことが書かれている。天王山にある彼らの墓は当時のものである。

放生会から神仏習合を考える
 石清水八幡宮寺の儀礼として放生会がある。これは、明治初年の神仏分離令によって今の石清水祭に改変されたが、本来仏教色の濃い儀式である。
 神仏分離令と一般的にいわれるものは、明治元年に出された十二件に及ぶ太政官布告と「達」などである。それによって、これまでの「八幡大菩薩」の呼称が「八幡大神」とされたり、神殿の中にあった仏像・仏具 が取り払われたりした。精進類のお供え物であったものが魚肉も構わないとされたのもこの布告や「達」によってである。
 放生会は生きた魚や鳥を放つことで罪障滅却・追善供養を図るものである。かっての放生会の姿を再現する試みとして平成16年・17年に、比叡山延暦寺より渡辺座主20名ほどの僧侶を招いて約130年ぶりに執り行った。この取り組みは、近い将来、再び復活したいと思っている。
 放生会はすべてが仏事ということではない。神様がお神輿に乗って本殿から降りられ行列をなして山を下り、勅使参向のもと奉幣の儀が執り行われる。そこまでは神事であって、その後に放生会をふくめた仏事が展開されたのである。
 幕末になると、廃仏思想が広がり、例えば平田篤胤(あつたね)などは復古神道を標榜(ひょうぼう)し、石清水八幡宮で行われていた仏事としての放生会を茶番などとして批判するようになった。『男山考古録』を書いた長濱尚次(ひさつぐ)も仏教的なあり方を排除する意見を持っていた。

八幡信仰の展望を語る
 男山にあった太子堂が滋賀県大津市内の民間人の手で今も大切に保管されている。神仏分離令が出され、仏教関連施設の引き受け手を探した中で、そうしたものが地方の有力者の手にわたり今日まで保管さ れている一つの例である。
 開山堂にあった行教像が破却を免れるために烏帽子(えぼし)をかぶせ狩衣(かりぎぬ)などを着せ「神像」の姿に変えたものの新政府には認められず、結局、今は神応寺に移され保管されている。また、正法寺が管理する八角堂、松花堂庭園で保管されている泉坊なども八幡市内にあるが、数多くの仏教関連の建物や仏像・仏具類が海外も含め全国に離散してしまった。これら全国に散らばっている建造物・仏像の類を今の内に何とか保全する努力をしていかねばならない。
 それと共に、神仏和合を基調とする本来の八幡信仰を復興させたいと思う。そのためには、神職の立場からは、「八幡大菩薩」といった名称への抵抗感もあるが、そんな呪縛を自ら解き放たねばならない。
 天変地異をふくめ、今日の日本人が忘れ去っている深い精神性や道徳性を八幡信仰の新たな展開によって克服ないし広げてゆきたいと思う。

質疑応答で論議されたこと

質疑応答の内容を簡単に紹介します。
①真言系から天台系への推移について
 八幡神を宇佐から石清水に勧請(かんじょう)した大安寺の行教(ぎょうきょう)をはじめ、当初の石清水八幡 宮寺は、真言系の僧侶が勢力を得ていた。開山堂も弘法大師(空海)像を祀り、初代検校(けんぎょう)である益信(やくしん)も真言系の僧侶であった。ところが3代目の義海(ぎかい)が登場する頃から天台系が台頭するようになった。大安寺のあった南都(奈良)よりも比叡山延暦寺に近いという地理的な関係かもしれないし、円仁・円珍以来の台密(たいみつ)(延暦寺を中心とした天台密教)の隆盛が背景にあるのかもしれない。いずれにせよ、東密(とうみつ)(東寺を中心とした真言密教)から台密へと宗派的に変遷したといえる。
②神人とは何か、石清水と神人との関わり
 神人(じにん)とは、石清水八幡宮に供奉(ぐぶ)する人、神の手足となって働く人の意で、遠方にある八幡宮の荘園から派遣されて来る人もいれば近在の人もいた。神人は、神に仕えるということでそれを誇りとする人が多かったが、やがて特権化するようになってきた。ストライキなど実力行使して自らの要求を押し通そうとしたり、大山崎の油座の神人のように経済力をもとに石清水と本家争いをするような者も現れたりした。神人になるために神人株を金で買うなどということも神人としての既得権が大きかったことを反映している。ただし、基本的に神人とは、神に仕え手足となって働く人のことである。
③神仏分離令が出された背景と経過
 幕末期に、復古神道(ふっこしんとう)などの隆盛があった。平田派の活躍はその一つであるが、神道原理主義とでもいえる思想、諸悪の根源は儒教や仏教、唐心(からごころ)、仏心にありとするもので、それが尊皇攘夷の動きとつながっていたという面がある。また、明治新政府を支えていた薩摩藩出身の人たちは葬儀も神道形式で行うなど神道に傾倒する人が多かったということを聞いている。また、神仏分離令は、特定の人の意思で行われたのではなく、太政官布告などによってなされたものである。
④石清水八幡宮の今後の展望、仏教とどう向き合うのか
 現在の田中宮司は、神仏和合の精神の持ち主である。神仏和合の歩みを徐々にではあるが進めて行きたいと思っている。
 (参加者、70名)

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by y-rekitan | 2011-03-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第12号より-03 古歌の南山城②

シリーズ「古歌に詠われた南山城」・・・②
『万葉集』と八幡

八木 功 (会員)


  今回も「『万葉集』と八幡」の話ですが、八幡宮創建以後何年か経って「八幡」という呼称が生まれたのですから、「八幡」は当然のことながら、さらに「淀川」という呼称が現れてほしいのですが、両方とも『万葉集』には現れません。
 古代万葉時代、なにかと女性に関する話題の多い仁徳天皇も、政治面では課税免除や山代河(淀川)などの治水土木事業に取り組む善政により「聖帝」と讃えられていました。例えば、洪水を防ぐための茨田(まむだ)堤(寝屋川近郊)の築堤、難波(なにわ)の堀江の掘削など数々あり、前者は記録に残る日本最初の堤防工事ですが、その後も、大雨毎に淀川の洪水氾濫はどこかで起こりました。
人々を苦しめたこの恐ろしい淀川に山崎橋を架橋し、楠葉に久修園院(くずおんいん)を開き仏の道を説いたのは僧行基(ぎょうき)(668~749)であり、いずれも725年、つまり八幡宮創建(859)より約130年前の事業でありました。

 さて、「山崎より淀川を渡り、交野を経て、茨田堤より淀川を下り、難波の堀江」に到達されたのは、他でもない聖徳太子(574~622)であります。これは、山崎橋架橋の約100年前(619)の真冬の一月、太子薨去(こうきょ)(622)の3年前の話ですが、磐姫にとり単なる通過点であった八幡の地を、太子が実際お進みになったということは非常に興味深い事実です。どのような様子で、何のために、この地を・・・と想像は展開します。40歳を越えられてからの太子は、政治的な動きは殆どなく、専ら夢殿にこもり、国史編纂や仏典に関する著述に専念されていたので、山崎巡行の目的は政治的なものより、むしろ宗教的な意図があったのではないかと想像したくなります。
 616年に、太子は新羅からの献上仏像を、信任の厚かった京・太秦(うずまさ)の豪族秦川勝(はたのかわかつ)に下賜され、川勝は蜂岳の宮を寺とし、そこに安置していたので、太秦を訪れようとされたが、真冬のことで体調をくずされ、山崎から引き返されたのでは、と想像したりしています。ちなみに、621年12月に太子の生母である穴穂部真人(あなほべのはしひと)大后が薨去、翌622年1月22日に太子病臥、妃の膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)も看護の疲労、心労で病臥され、2月21日には妃が、そして翌日には太子が亡くなられました。さらに、約20年後の643年11月、斑鳩を襲った蘇我入鹿により太子の子孫は絶滅しました。これが、後世、仏教の「聖者」として敬慕されるようになった太子の悲劇の現実でありました。

 『万葉集』には、太子が大和の竜田山(たつたやま)で、死人を見て詠われた歌一首のみ見られます。

    家ならば妹(いも)が手まかむ草枕
          旅に臥(こ)やせるこの旅人(たひと)あはれ(418)

    (家だったら愛の手を交わすであろうに、旅路で死んでいるあわれな旅人よ)

 同じく、飢え死にしそうな旅人を憐れむ太子の歌。
 しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こや)せる 
   その旅人(たひと)あはれ
    親無しに 汝(なれ)生(な)りけれめや さす竹の 君はや無き
     飯に飢て 臥せる その旅人あはれ  (『日本書紀』104)
 

 ・しなてる 片岡山の枕詞、 汝生りけれめや 親があればこそ
  生まれてきたのであろう、
 ・さす竹の 君(ここでは領主)にかかる枕詞
 ・君はや無き お前には面倒をみてくれる主君はいないのか
 
 いずれも、路傍の生き倒れの人への、自然な人間愛の歌でありますが、仏教の聖者の面影が浮かんできます。氏族制の厳しい時代に、太子が社会から無視されているような庶民に上着を与え、歌を読まれるという行為は、氏族的秩序を乱すという批判もありましたが、太子の深い慈愛の自然な発露であったと思います。
 今回も、「『万葉集』と八幡」と題しながら、八幡を通過、あるいは八幡の地を進まれた「聖帝」「聖者」の、八幡とは明確な関係のない歌の紹介に終わりましたことを申し訳なく思っています。幸い、是枝さんがお書きになった「御薗神社のずいき祭り」(会報第7号)の中に、「久世郡奈良園」への言及があります。天皇家の野菜畠である山城の奈良御園が上奈良(那羅郷(ならごう)の御園神社の近くにあったとして、考古学者森浩一氏は『京都の歴史を足元からさぐる』(宇治・筒木・相楽の巻)の中で、京野菜の話を交え、興味深く推論され、「妖艶な歌」と評し次の歌を引用されていますので、紹介させていただきます。

  つぎねふ 山代女の 木鍬持ち 打ちし大根(おほね)の
     根白の白腕(しろただむき) 枕(ま)かずけばこそ 
       知らずとも言はめ   (『古事記』61 『日本書紀』58)

(木鍬で耕した畑で取れた根の白い大根のような腕を枕としなかったら、私を知らないといってもよかろう)

 磐姫がどうしても会おうとしない時、仁徳天皇が詠まれたとされている伝承歌謡であります。

◎歴史短歌 三首
  ① 民草のかまどのけむりなきを見て 免税なされし「聖帝」仁徳
  ② み仏に帰依ふかかりし太子なれど 不運重なり王家絶滅
  ③ 僧行基仏ごころを活かさんと 近畿各地に足跡残せり 


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by y-rekitan | 2011-03-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第12号より-end

 
この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2011-03-28 01:00 | Comments(0)