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◆会報第13号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆《講演会》 八幡の古墳とその特徴を学ぶ!◆
◆シリーズ:“古歌に詠まれた南城山”③◆


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by y-rekitan | 2011-04-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第13号より-01 八幡の古墳

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《講 演 会》
八幡の古墳とその特徴を学ぶ!
― 2011年4月  ふるさと学習館にて ―

 八幡市文化財保護課  大洞 真白 

       
 2011年度の4月例会は、ふるさと学習館を会場に実施されました。第一部は、展示室にある遺跡や遺物、古い農具などを展示室にて見学するというもの。第2部は会議室にて、八幡市教育委員会文化財保護課の大洞真白さんによる「八幡の古墳とその特徴」と題する講演会です。
 以下、講演会の概要を簡単に紹介します。

男山の東側に古墳が集中

 八幡の古墳には、明治年間に発掘調査されているものや最近掘りだされたばかりのものもあって形状や出土品などバラエティに富んでいる。他の市からも注目されているものが多い。

 八幡の古墳の特徴の一つとして、狭い地域に前方後円墳がわりに密集している。しかも男山丘陵の東側に集中していると云える。何故か。男山の東側は平地が広がっていて、そこに集落があったからではないのか。
 二つ目の特徴として、4世紀から5世紀にかけての古墳時代前期に属する古墳が多い。

それぞれの古墳とその特徴
 
f0300125_1518715.jpg石不動古墳
 NTTの電波塔が建っている所。山か古墳かよくわからない形状である。丘陵を利用して作ったと思われる。
刀子や鉄斧、鏡、管玉、鉄剣、甲冑などが出土されたが、その多くが京都大学に保管されている。

茶臼山古墳
 現在の男山第三中学校の辺りにあった古墳で、明治時代の地図にはくっきりとその形が残っていた。前方後方墳と云われている。埴輪も出土。
舟形石棺が京都大学文学部に保管されている。明治時代に古墳が発見された際に京都大学に預け、そのまま国の財産になったということである。阿蘇溶結凝灰岩で出来ている。今城塚古墳も同じ石からできている。首長クラスのものと推定できる。

西車塚古墳
 後円部に八角堂が建っているが、昔は竹に覆われていた。ボランティアの方々のご尽力により今は綺麗になり、八角堂の姿が見えるようになっている。
 八幡で唯一形が残っている古墳と云える。全長120メートルは、大型古墳と位置づけられ、前者同様首長クラスの古墳と云われる。
 東高野街道が傍を通る。古墳に合わせて後で道が作られたものと思える。周濠があったか不明。
 出土した副葬品が東京国立博物館に保存されている。直径が24・5㎝の獣文鏡も。アクセサリーの様な勾玉・管玉・ガラス小玉も。

東車塚古墳
 松花堂庭園の石垣の高さが古墳の高さをある程度示している。茶室と書院も古墳(後方部)の上に。三角縁神獣鏡が泉屋博古館に保管されている。

ヒル塚古墳
 一号線、一の坪交差点近くのゲームセンター近くの古墳。粘土槨の一部がふるさと学習館に展示されている。割竹形木棺で木棺自体は腐蝕しているが、水銀朱が残っているので紅くなっている。主体部が二つあり、渦巻き飾りのついた鉄剣が出土。日本に殆ど類例がないものである。

王塚古墳
 美濃山にある古墳。本尊の阿弥陀仏が山城郷土資料館に展示されている宝寿院が古墳の上に建っている。葺き石や埴輪も出土。日本製の鏡も。調査報告書が図書館にあるので見て頂きたい。
革綴式兜が出土。大変珍しいもので、朝鮮半島から出た兜と同じもの。兜の革が残っているのもある。
八幡の古墳の特徴
 
 大洞さんは、八幡の古墳の特徴として、あらためて次の3点を提示しました。
 その1、古墳時代前期(4世紀~5世紀初め)のものが多い。
 その2、ヒル塚古墳の渦巻き式刀剣と王塚古墳の革綴式兜は、朝鮮文化の影響が大きい。
 その3、大型古墳は中期~後期に消滅。中期以降に城陽などで大型古墳が現れていることから、八幡の首長層は彼らの支配に属したことが考えられる。
 但し、まだまだ謎が多いとして、今後の発掘調査の結果を待ってほしいことが告げられ講演が終わりました。参加者43名。
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一口感想より

 「身近な古墳の勉強が出来、面白かった。又、八幡の古墳の特徴も学ぶことが出来た。ふるさと学習館は初めて見学させていただきました。貴重な資料が集められ、つとに努力されている事を知りました。」 A

 「次々と企画をしていただいて感謝して居ります。講演会は時間が短く残念でした。資料はかなり充実していたと思うが、年のせいで聞いていてもすぐに忘れ又メモもとりにくく今後出来るだけ資料を充実したものにして欲しい。もちろん費用は当然負担します。」  A・T

 「空いている教室の壁を取り払い、一か所広い教室を作り活用されると使用頻度は多いと思われます。」 S.Y
 「興味深い講演、ありがとうございました。一度自転車で廻ってみたくなりました。」 H・K

 「八幡に住んでいながら、八幡の歴史や史蹟等をほとんど知らない現状ですので、今日はその勉強をさせていただきました。ありがとうございました。」 T    


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by y-rekitan | 2011-04-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第13号より-03 古歌の南山城③

シリーズ「古歌に詠われた南山城」・・・③
『古今集』『新古今集』と八幡

八木 功 (会員)

 『古今集』は八幡宮創建より約50年後の905年に成立しましたので、いよいよ「男山」や「八幡宮」が「女郎花(おみなえし)」とともに登場してきます。歌集の冒頭にある「仮名序(かなじょ)」は、紀貫之が書いたと言われ、日本文学史における最初の和歌論でありますが、その中に「男山の昔を思ひ出でて、女郎花のひとときをくねる(皮肉る)にも、歌をいひてぞなぐさめける」という言葉があります。歌作りの心が生まれる例として、まさに、男山と女郎花が取り上げられていますので、それぞれに相当する歌を紹介いたします。ただし、この歌集の特徴である「掛詞(かけことば)」や「縁語(えんご)」についての説明は紙面の都合上、最小限にさせていただきます。

        今こそあれわれも昔は男山
                 さかゆく時もありこしものを(889)

(今でこそこんなに元気もなくなったが、昔は男山の坂など平気で上るくらい盛んな時もあったのだがなあ)
  ※「今こそあれ」の「あれ」の後に「衰えている」が省略されています。


 「読人知らず」の歌は、平安時代(794~1192)初期の和歌が多いので、作者は八幡宮創建以前に存在した石清水寺の僧侶であったかもしれません。
 次に、「女郎花」の歌は、『万葉集』には七首、『古今集』には十七首もありますが、『新古今集』には五首のみです。植物分布のせいでもなさそうで、選者あるいは時代の好尚の変化によるのでしょうか。それはさておき、「仮名序」にある男山の女郎花の歌を紹介します。

        秋の野になまめきたてる女郎花
                あなかしがまし花もひと時(1016)
 
(秋の野にいろっぽい様子で立っている女郎花よ。なんてうるさいことだ、花のいのちもひとときだというのに。)

 作者は僧正遍(そうじょうへん)昭(じょう)。儚(はかな)いいのちの女郎花が、口うるさくこびを売っていると、憎らしく無常観で皮肉った歌ですが、奈良に住む遍昭を訪れるために八幡に立ち寄った布留(ふるの)今道(いまみち)は、次のように歌っています。

        女郎花憂(う)しと見つつぞ行き過ぐる
                  男山にし立てりと思ヘば(227)

(女郎花はいやな花だと思いながら通り過ぎましたよ。場所もあろうに、女が男山に立って客引きしているようなものですから。)  ※「男山にし」の(し)は強調。

 女郎花を「憂し」と詠んだ今道の歌の前には、その花に心をひかれた遍昭のユーモラスな歌があります。
        名にめでて折れるばかりぞ女郎花
                我おちにきと人にかたるな(226)

(名前にひかれて手折っただけだ、女郎花よ、僧侶である私が堕落したなどと人にいわないでくれよ。)
    ※「名にめでて」 をみな(おんな)という名が隠れている「女郎花」という
     名前に感心して


 美名に心を引かれて女郎花を手折ってしまった遍昭と、いやな花だと思って通り過ぎた今道が、対照的に続いて取り上げられているのは興味深いことです。遍昭の歌は、『古今集』では「題しらず」ですが、『遍昭集』では「馬より落ちて」とあり、「仮名序」でも遍昭の歌風を評するのに、「嵯峨野にて馬よりおちてよめる」として、この歌を引き合いに出していますので、遍昭は嵯峨野の女郎花、今道は八幡の女郎花を見て作った歌であり、当時、この花は八幡、嵯峨野、大徳寺周辺などの秋の風物であったようです。いずれにせよ、「をみな(おんな)」「女郎花」や「落馬」「僧侶の堕落」などと巧みに「掛詞」として歌に仕上げた遍昭が、六歌仙の一人に数えられたのも不思議ではありません。

 八幡宮についての歌はどうでしょうか。『古今集』の異本(藤原定家が校訂した定家本には無い歌)から一首。

        祈りくる八幡の宮の石清水
              よろづ代までにつかへまつらむ(28)

(今までお祈りしてきた八幡宮の石清水が涸れることがないように、万代まで君にお仕えしよう。)

 八幡宮創建後約40年、宇多天皇の勅使が参拝・奉納した歌であり、『古今集』に見られる唯一の八幡宮の歌ですが、『新古今集』巻第十九「神祇歌(じんぎのうた)」には、伊勢、住吉、賀茂、春日とともに、八幡宮を詠んだ歌が二首見られます。

 
        ありきつつ見れどもいさぎよき人の
                   心をわれ忘れめや(1863)

 (この国にずっと住み、八幡宮へやって来るが、清廉潔白な人の心をわたしは忘れはしない。)
   ※「いさぎよき人」とは、和気清麻呂、あるいは一般に正直者。「石清水八幡宮は、
    正直者の頭に宿る」と考えられていました。


         榊葉にそのいふかひはなけれども 
                  神に心を掛けぬまぞなき(1887)

(榊葉に木綿(ゆふ)を結びつけるように歌をつけ、なさけない私ではありますが、
八幡様に心からお祈りをしないときはありません。)
   ※「ゆふ」 神事の際に榊に垂らし、幣(ぬさ)として用いた糸。
    「いふかひはない」 しょうがない、なさけない


 この歌は、「八幡宮の権官(ごんかん)(権別当(ごんのべっとう))にて年ひさしかりけることを恨みて、御神楽の夜まゐりて、榊に結び付け侍りける」と作者自らいうように、まことに「いふかひない」話ですが、気持ちはわからないでもありません。八幡宮を詠んだ歌は、次回に少し補足して、別の話に入りたく思います。

   
◎歴史短歌 三首
①古歌にきく「石清水」てふひびきには とはに浄らなる 言霊(ことだま)
  
やどる
②遍昭を落馬させたる女郎花 「憂し」ときめつけ立ち去る今道
③道鏡の野望くじきし清麻呂は 神が宿りしいさぎよき人


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by y-rekitan | 2011-04-28 10:00 | Comments(0)

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by y-rekitan | 2011-04-28 01:00 | Comments(0)