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◆会報第14号より-top

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◆《講演会》 中世都市橋本を学ぶ◆
◆シリーズ:“古歌に詠まれた南城山”④◆


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by y-rekitan | 2011-05-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第14号より-01 中世都市橋本

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《講 演 会》
中世都市橋本を学ぶ
― 2011年5月  橋本公民館にて ―
 大山崎町歴史資料館  福島 克彦  

 5月13日(金)午後6時、福島克彦氏をお招きして5月例会を開きました。福島克彦さんの講演は、文献史料や絵図を駆使した専門的な内容であるにも関わらず大変わかりやすいもので、中世都市橋本のイメージが豊かになりました。
 これまで、講演の概要は事務局がしてきましたが、福島さんご自身「私がやりますよ」とおっしゃって下さり、お言葉に甘えますとお伝えしましたところ、二日後に原稿が送られてきました。従って以下に掲げる文章は、福島克彦氏ご自身によるものであります。但し、史料編の字体の変更やルビは事務局によるものです。(参加者38名)

中世都市橋本について
はじめに
 近年、畿内・近国では、都市的な集落について検討が進められている。ここで取り上げる橋本は橋、港、渡し場、街道など、非農業的色彩を持つ点で都市的な集落として注目される。以下、その前近代の歴史について紹介したい。

1.山崎橋の架橋
 橋本の名称は、古代の時期に山崎橋があったことから名付けられたという(『淀川両岸一覧』)。この山崎橋は、神亀2年(725)9月に行基が架橋した橋である。彼は、橋の北辺に山崎院、南辺に久修園院を置いており、隣接して集落があったものと思われる。ちなみに、当時久修園院(くしゅうおんいん)も「山崎」にあったとあり、奈良時代は南岸も含めた淀川両岸を「山崎」と呼んでいた(『行基年譜』)。
 長岡京が廃される要因となった藤原種継暗殺事件では、延暦4年(785)9月、事件の下手人2名が「山崎椅南河頭において」斬られており(『日本紀略』)、人々の往来が頻繁だったことが想像し得る。天安元年(857)4月には山崎橋の南北に橋守が設置されたが、下馬の立札を置き、乗馬したままの通行や牛の糞・土の清掃などが決められた(『類聚三代格』)。貞観16年(874)8月には「山埼橋南北四十余家流」(『三代実録』)という洪水に関する記事があり、山崎橋の南北に集落が密集しつつあった状況が理解できる。

2.石清水八幡宮、八幡の外港
 山崎橋は、平安中期には維持されなくなるが、替わって港としての橋本が史料上現れる。後三条院の天王寺参詣の際「橋本の津といふ所に下らせ給て御覧すれば、国ぐにの船どもゝ、御船どもゝ、目に遥に寄せわたしなり」と港の繁栄を記している(『栄花物語』38)。
 橋本津の発展は、当然集落化を伴うものであった。鎌倉期において、かつての架橋橋の様子を描いた『山崎架橋図』(和泉市立久保惣美術館所蔵)には、架橋の普請(ふしん)中と架橋後、さらに対岸の宝積寺と大山崎集落と手前の橋本集落が描写されている。集落には屋根が描かれており、複数の宅地があったことがわかる。中世前期の集落が描写される絵図は、基本的に少ないため、同図が成立した鎌倉期の絵画資料として検討する余地がある。
 石清水八幡宮には、全国各地に荘園があったが、このうち南北朝期に播磨に存在したのが、松原荘(姫路市)である。延文5年(1360)に、大山崎在住の井尻助吉がこの松原荘の預所(あずかりどころ)になっている。

[史料1]
「石清水別当家奉書」『井尻文書』(読み下し)
      (花押)
八幡宮御領播磨国松原庄預所職のこと、大山崎神人井尻弥四郎助吉忠節致すに依り、これを仰せ付けらるところなり、御神楽御供米拾壱石参斗、其外惣御年貢百弐拾石、未進懈怠なく、請文の旨を守り、橋本津においてその沙汰いたすべきなり
(中略)
延文五年四月廿三日     沙弥観如
                   沙弥道観

 これによれば、大山崎神人の井尻助吉が八幡宮に忠節を尽くしたことを賞され預所職に就いている。そして、彼は松原荘の「御神楽米」「惣御年貢」を橋本津陸揚げで、運送する仕事まで担っている。古代に存在した山崎津は、中世以降は史料上現れないが、橋本津は14世紀に入っても存在し、対岸の大山崎神人が年貢運送と陸揚げに従事している。まさに八幡の外港として機能していたことがわかる。

3.大山崎と結ぶ渡し場
 当時の大山崎との関係を示すのが、渡し場の存在である。橋が消滅した後、対岸を行き来する渡し舟があったことは、想像されるが、大山崎と橋本の場合、①日使頭祭(ひのとさい)の祭礼が渡河する、②八幡宮へ御灯油を納めるルートとして特別視されていた。しかし、単なる生活路だけでなく、広域の交通路としても使用された。

[史料2]
『石清水八幡宮史』5
石清水八幡宮他姓橋本次郎左衛門尉末満謹んで言上す、
境内橋本渡のこと、
右、この渡しは、当宮長日御灯油運送通路たるにより、他と異にするの処、近年非分を働きを作り、障りこれあるの状。去んぬる天文七年言上の趣、上聞に達せられ、御制札并御下知成らせられおわんぬ、然るに摂津の所々より八幡に至る商売の柴・薪等之儀、山崎の領中通るべからずの由申し、焼き捨てるの間、その相当をなし、山崎へ出入り商売人、八幡より相止まりの者なり、まさにまた、近来駄別と号して渡口に於いて山崎より役銭を取ること、新関をなすべきものか、かたがたもって、横渡し退転の儀、末満一身迷惑これにすぎざる、所詮、御制札の旨に任せ、自他違乱を停止せられ、先々のごとく、通路相違なくんば、忝く存ずべき者なり、
天文一三年一一月 日

 これは、天文13年(1544)11月に橋本末満が八幡宮に橋本渡について言上した史料である。これによれば①橋本渡が「御灯油運送通路」として認識されていたこと、②天文7年にも八幡宮に渡しに関わる障害を言上し「御制札并御下知」が出されたこと、③摂津から八幡方面へ柴、薪を商売活動する者に(大山崎側が)山崎の「領中」通行禁止を主張し、荷物を焼き捨てたので、その対処として大山崎に出入りの「商売人」を八幡に留めるようにした、④ また、大山崎側は「駄別」と号して渡口で「役銭」を取る「新関」をなすような対応をするようになった、⑤こうした横渡し「退転」は橋本末満にとって迷惑である、などが記されている。③④から摂津から八幡方面への商売人の活動に橋本渡しが使用され、役銭徴収や新関の契機となったこと、⑤地元の名字を名乗る橋本末満が、こうした渡し舟の権限を持っていたことなどが理解できる。
 こうした相論は永禄5年(1562)5月頃にも問題が惹起し、室町幕府奉行人による新関停止の制札(せいさつ)が出された(『石清水八幡宮史』5)。この地は、淀川流通路と西国、東高野、西高野街道などが結節する区域である。単なる対岸との渡し舟ではなく、水陸交通の要(かなめ)になっていた可能性がある。

4.豊臣期の橋本
 16世紀末、豊臣秀吉は京都にさまざまな施設を造成していった。具体的には聚楽(じゅらく)の構築、天正地割の設置、大仏殿の建設、御土居(おどい)の構築などが順次進められた。洛外でも、宇治川と巨椋池(おぐらいけ)との分離、太閤堤の造成、伏見城、城下町の普請など、大規模な土木事業を次々と展開している。その影響は、西岡・乙訓(おとくに)地域にも及び、朝鮮出兵との関わりで、西国街道の拡張(唐街道化)がなされた。この当時、作られたのが文禄元年(1592)8月9日に着工し、12月4日に竣工した「橋本橋」である(『惺窩先生文集』)。築造位置は明確ではないが、当時、京都から大坂へ向かう近衛信伊(このえのぶただ)が向日町(むこうまち)を過ぎた際「橋本ノ橋わたりこし乗船」したという(『三藐院記』)。この記述から勘案すると、淀川右岸から橋本に架けられていた可能性がある。前述したように、古代に山崎橋が見られたが、16世紀末の一時期に、同じような橋が架けられたのかもしれない(『山城名跡巡行志』)。
 なお、京都改造に伴い、その人口は急増した。『大中院文書』によれば、長右衛門、甚右衛門尉、甚右衛門尉という3名の橋本出身者が京都へ引越し、商いを営んでいた。彼らは「かわや」や塩商売を生業にしていたという。京都改造は橋本へも影響を与えていたのである。

5.「神領」と傾城
 豊臣秀吉の時代、淀川沿岸に太閤堤が成立し、堤上には京都-大坂街道が付けられた。淀や枚方では、こうした堤防によって両側町の集落が嵩上げされたことが発掘で検出されており、橋本も、こうした影響を受けた可能性がある。京都・大坂間ということもあり、人々の往来が激しかった。慶長19年(1614)10月、大坂の陣の際、徳川方の板倉勝重は大坂方の牢人が八幡・橋本で兵粮や鉄砲用火薬を購入しようとしたため、「番」を置いて監視するよう命じている(『石清水文書』)。
 また、慶安2年(1649)正月には「傾城持家数廿間」とある如く、傾城(けいせい)屋が軒を並べていた様子がわかる。幕府は「盗人之出入これ有るにより」という理由から「傾城置き候者一人もこれなくよう、橋本年寄共に申し渡し」たという(『石清水文書』)。
橋本における傾城の存在が知れるが、これらは当時の、この周辺の集落でも見られた。淀と八幡の中間にあり、京都-大坂街道上の美豆村では、寛文元年(1661)7月に「一社中評議をもって箇条の趣を下知」されたが、そこでは「一夜旅人の外、勧進物もらひ、比丘尼ばいた女、所に宿仕事一夜という共、漏れ聞くにおいては、其の宿罪科にするべき」と記し、比丘尼(びくに)や「ばいた女」が宿泊することを禁じている(『石清水文書』)。明暦元年(1655)4月、大山崎「下之茶屋宗左衛門」が「これ以前は置候儀、これなきところ」で傾城を置いたことを、京都所司代らが咎(とが)め、これを禁じている(『離宮八幡宮文書』)。これらは、傾城を置く場所と、これを禁止する場所の確定に力点を置いているが、傾城の動きに敏感だった当時の様子が知れる。当時、大山崎などは「神領」であることが意識されていたため、こうした傾城を置くことについて、区域を強く認識していた。
 橋本では、当時の17~18世紀の絵画資料2点が残されている。まず『大坂市街・淀川堤図屏風』(17世紀前半~中葉 大阪城天守閣所蔵)では、河川から嵩上げされた街道集落の景観が見える。集落は河川側に開放された畳敷きの宅地があり、部屋とは別に床を設置する。なかには床のたもとに船が停泊している様子も見える。女性が男性を饗応している様子が描かれており、女郎屋(遊郭)を意識した書き方である。f0300125_2255477.jpg『淀橋本観桜図屏風』(18世紀 大阪歴史博物館所蔵)も街道の両側に店舗が描かれており、街道集落、一本街村状と認識されている。また、やはり屋敷や店舗が淀川に迫り出しており、女性が船舶上の男性に酒を授けている場面も見られる。橋本は、江戸期における京都-大坂街道上の歓楽街として絵画の題材となっていた。前述したような橋本、美豆、大山崎のような傾城の宿泊禁止のなかで、橋本のみが歓楽街として特化していく様相は注目される。

おわりに
 以上、前近代の橋本について、中世都市の視点から捉えなおしてきた。橋、港、街道といった交通施設を基本にして、都市を形成してきたことを改めて認識し、さらに史料の抽出に努めたい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 以下に例会の場で書いて頂いた「一口感想」と事務局より依頼した長文による感想を紹介します。

「専門的内容であるにもかかわらず、大変わかりやすいお話でした。中世の水路・陸路について想像できました。」   I・H

「京・大阪(を結ぶ)重要な地、橋本の状況が少しなりとも知ることができました。」白石洵

「先生が熱心・正確で良かった。」 O・Y

「夜の企画というのは、昼間仕事を持っている者にとってはありがたいです。」安立昌治
「古文書・絵図と興味深い資料でおもしろかった。」秋津川忠弘

「最近努めに出ました。昼間の出席が困難になりました。そのため、日曜日・夜間の講演会は大賛成です。」      K・Y

「少し落ち着いて良かったと思います。今後、八幡宮が全国的に発展しているので、その方も教えて下されば有難いと思います。」 S・S 


橋本の街とまち    田坂 喜彦 
                 
 「橋本は中世都市であり、八幡の外港である」というお話を、私はたいへん興味深く聞きました。講師の福島克彦さんのそういった視点や指摘は、史実や資料に基づいているだけに、私には新鮮で、驚きでもありました。文献や山崎橋、屏風の絵図から、橋本が水陸交通の要として発展し、いろいろな利害関係を伴いながら都市や男山八幡宮の外港として機能していたことがよくわかりました。
 昨年4月、抽選で町内会三役の仕事が当たり、橋本地域(四区)の方々と接触するようになって、それまで通り道に過ぎなかった橋本のまちの様子や歴史に関心を持つようになりました。その中で、「橋本」という地名を好まない空気が住民の一部にあるという話を聞き、そういった見方を変える必要性を感じました
昨夏、たまたま遊郭があった通りで何年にもわたって写真に撮っているという中年の男性から「ここらの建物を文化財に指定すべきだ」という力説を聞き、私も、京街道と遊郭や渡し舟があった橋本一体を八幡市の歴史文化遺産としてもっと評価し、町並みを保存すべきだと考えるようになりました。
 今回の講演では、それぞれの時代の経済や文化とも関連させ、歴史の大きな視野から「橋本のまち」を見ることの大切さを教えられました。私も、点在する橋本の寺社や史跡を統一して考察していきたいと思います。
お隣の町とはいえ、川で隔てられている大山崎町の歴史資料館の学芸員である福島さんが、ここまで八幡や橋本の歴史をくわしく調査・研究しておられることには感心させられました。  (橋本意足在住)


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by y-rekitan | 2011-05-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第14号より-02 古歌の南山城④

シリーズ「古歌に詠われた南山城」・・・④
『古今』『新古今』と八幡・淀

八木 功 (会員)

『新古今集』には、臨時祭(3月、中の午の日に行われた)に因んだ歌があります。
       衣手(ころもで)の山井の水に影見えし
                 なおそのかみの春ぞ恋しき(1798)
 
 (臨時祭で、ともに舞人を努め、舞衣装の袖が山の井に写っていた春が、今でも恋しいです。) 

次の歌がその「返し」です。
       いにしへの山井の衣なかりせば
                忘らるる身となりやしなまし(1798)

(昔、山井の水で染めた舞衣装で一緒に舞わなかったならば、私は忘れ去られる身となったのでしょうか)
※二首とも、「山井」(男山から湧き出る水)と「山藍」(舞人の着る小忌衣を摺り染めにする染料)が「掛詞」として用いら れています。

 多少嫌みっぽい皮肉ですが、それが言えるほど心の通じ合う間柄なのでしょう。
 平安後期の歌謡集である『梁塵秘抄』(1169年頃)から、八幡宮に参詣する経路や八幡大菩薩という神仏習合の証しが伺える興味深い歌謡を紹介しておきます。

   八幡へ参らんと思へども 鴨川 桂川 いと遠し あな速しな
         淀の渡りに舟浮けて 迎へたまへや 大菩薩(261)

 (鴨川、桂川どちらも流れの速さは同じ。淀の渡しに舟浮かべて、お迎え下さい、大菩薩さま。)
※当時、都から八幡詣でをするには、鴨川、巨椋池の流出口(現在の淀城近辺)を渡るコースと、桂川、淀川本流ではなく橋本を渡るコースがありました。この歌には、「浮世の流れに翻弄されないよう、舟をさしむけていただき、どうか、お救いください」という庶民の現世及び来世への願いが含まれているように思えます。

 次は、隣接する淀の真菰(沼沢に生えるススキに似た多年草。実は食用に、葉は筵に織る)を詠んだ歌に移ります。大ざっぱにいえば、昔の巨椋池は、現在の淀の美豆に立てば、はるか宇治の槇島が見えるくらいの広大な沼沢地であり、宇治川は填島で、木津川(泉河)や、賀茂川と合流した桂川は現在の淀城あたりで、それぞれ南北から巨椋池に流入し、京阪電車の淀車庫あたりから淀川となって流れ出していたようです。淀あたりには、微高地が点在し、填島から淀に至る南岸にある名木川も、現在とは位置が異なっていたようですが、しばしば詠われています。しかし、何といっても、「淀」といえば「真菰」であります。「真菰刈る」は、真菰が沢山生えている地名、例えば淀、難波の堀江、奈良の大野川原などにつける「枕詞」となっています。真菰を詠んだ歌は『万葉集』にもありますが、歌枕になっていた「山城の淀」の真菰を詠んだ歌を『古今集』から二首紹介します。

       真菰刈る淀の沢水雨降れば
                 つねよりことにまさるわが恋(587)

     (淀の沢水が雨が降ると水かさが増すように、わが恋心も募ってくる。)

 「風景から心情へのスムーズな移行を好む」紀貫之の歌ですが、水かさ・恋心いずれもつねより高まってくる、という分かりやすい歌です。次の歌には地名と生活が詠み込まれています。
       山城の淀の若薦(わかこも)かりにだに
               来ぬ人たのむわれぞはかなき(759)

(淀の若薦をかりそめにさえ刈りに来ない人をあてにするわたしは、なんて儚いものなのだろう。)
  ※「かり」は「刈り」と「かりそめ」の「仮」の掛詞であり、すこし手の込んだ歌です。


『新古今集』からも二首。
      真菰刈る淀の沢水深けれど
                   まで月の影は澄みけり(229)

   ※淀は山城国の歌枕。「月の影」は月の光。貫之の歌(587)を踏まえた叙景歌。
      山城の淀の若薦かりにきて
              袖濡れぬとはかこたざらなむ(1218)

    (ほんのかりそめに訪ねて来て、涙で袖が濡れたなど愚痴をこぼさないで。)

 明らかに『古今集』の(759)を踏まえた歌であり、「若薦」は同じく「若い女」を連想させますが、このように有名な古歌の一部を借用して新しい歌を作る手法「本歌取り」は『新古今集』の特徴だと言われています。「淀の川霧」も山城国の歌枕です。

      都をば秋とともにぞ立ちそめし
                  淀の川霧いくよ隔てつ(876)

(都を秋が立つと同時に出立したけれど、淀の川霧はもう幾夜たってあなたとわたしを隔てたことでしょう。) 
        ※「立ち」は「川霧」と縁語(えんご)。1074年初秋七月ごろの作。


これは、よく知られている能因法師(998~没年未詳)の歌を意識して作ったのでしょう。
      都をば霞とともに立ちしかど 
               秋風ぞ吹く白河の関
 
    (霞たなびく春に都を出立したが白河の関ではもう秋風が吹いている。)

◎歴史短歌三首
  ① 民衆が渡りに舟を祈りしは 王城鎮護の八幡神か   
※民衆が現世利益を祈る神として、志(し)多良(たらの)神(かみ)が八幡宮に移座(945年)以後、男山は民間信仰のメッカとして賑わうようになりました。(『八幡史誌』第一巻)
    
  ② マコモ刈り恋の芽生えし巨椋池 いま心地よく電車行きかふ
  ③ 川霧は山城国の歌枕  池なくなりて風情やいかに

【豆知識】設楽神(しだらがみ)
 志多羅(良)神とも。古代の流行神の一つ。神格は不明だが、八幡神に類する面が認められる。945年(天慶8)志多良神の神輿が西国から群衆の歌舞とともに上洛し、託宣に従い京都の石清水八幡宮に到着した。富をもたらす神として民衆を熱狂させ、小祠も誕生した。シダラとは手拍子のことで、1012年(長和元)にも再度流行した。
               -『日本史広辞典』より一部略、事務局


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by y-rekitan | 2011-05-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第14号より-end

この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2011-05-28 01:00 | Comments(0)