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◆会報第15号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆《歴探ウォーク》 東高野海道を歩く◆
◆八角堂地蔵尊の碑文を読む◆
◆長宗我部盛親が潜んだ家◆
◆シリーズ:“古歌に詠まれた南城山”⑤◆
◆シリーズ:“八幡の歴史の謎とは何か?”①◆


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by y-rekitan | 2011-06-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第15号より-01 東高野街道

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《歴探ウォーク》
東高野海道を歩く
― 2011年6月  東高野街道(八幡市) ―

 田中 良憲 (会員)


 6月19日(日)、探究する会6月例会「八幡歴史探訪」として表記の企画が実施された。
曇り模様の天気。雨の心配さえなければ却って曇り空はありがたい。
 午後1時集合だが、12時40分頃から参加者が集まり始めたので、15名の者が先発隊として出発。中ノ山墓地をスタートに、歴史探訪が始まった。ガイドのお一人である田中良憲さんには、資料作りで大変お世話になった。
 その資料の冒頭にある正平の役(1352年)関連碑の一つである「四条隆資(しじょうたかすけ)卿塔」や「三百人塚」がある頂上部に登り説明を受け、歌舞伎でおなじみの「引き窓」の主人公吾妻と与五郎の墓にも訪れる。但し、これは三宅碑の表示に従ったままである。f0300125_852460.jpg
 中ノ山墓地は、数多の石仏の林立する場所でもある。総計で65体も一地域に集中する墓地はそうあるまい。長い年月の風雪によってかなり風化されてはいるものの穏やかな表情に心洗われる。
 頂上部は眺望もよい。木津の流れから城陽方面、洞ヶ峠から京田辺方面へと視界が広がる。

 次に宝青庵を訪れる。苔の青が印象的。本堂では扉が開けられ、本尊である阿弥陀如来座像の他に閻魔十王像も庵主のご好意で見せて頂いた。ここに閻魔像があるのは、八幡広門にあった閻魔堂が取り壊された際、堂内にあった閻魔像十体をこの御堂が引き受けたからだということを聞いている。宝青庵正面右に見える「小野篁(たかむら)公作十王像閻魔堂」なる碑も三宅碑である。小野篁が閻魔大王の副王としてふるまったという伝承は、京都東山の六道珍皇寺に行った事のある人であればお馴染みのものであろう。
 信号を越え八角院をめざす。途中、「正平役血洗池古跡」碑にちなんで小さな池に案内された。「血洗い池」であるが、この辺り茅原(ちはら)であったとも言われる。4月例会で文化財保護課の大洞さんより、西車塚古墳の後円部の周囲が濠であったか不明との説明を受けたが、周濠があったとすれば、池はその名残なのかもしれない。
 西車塚古墳の後円部の頂上部に登る。むろん八角堂がある。昔、ここには元三大師堂もあったとか。元三大師堂は神仏習合時代には石清水八幡宮の三ノ鳥居近くにあった建物だが、八角堂と同時期に神仏分離令でこの地に移築させられたものである。脇にある地蔵堂と地蔵尊については、本号にある望月さんの原稿に詳しい。
 八角堂周辺は、環境ボランティア団体である八幡ルネッサンスが定期的に整備し、このほど島百合が植えられ、京都新聞でも報道された。花を植えることなどを通してさらに八角堂が注目され、文化財保護が具体化されることを望みたい。
 東高野街道を北上し、民家の塀内にある「橋本(樟葉)道」の道標をみつける。軽四輪一台がようやくにすり抜ける程の狭い道が昔の街道であったのだ。正平の役では、こんな狭路を南北双方の兵士が駆け抜けて行ったのかもしれない。いずれにせよ、正法寺までの抜け道は、昔の面影が残りのどかなたたずまいである。
 いよいよ正法寺へ入る。

 正法寺は慶長5年(1600)の知行高帳の数値がずば抜けている。八幡宮社務である田中家や禅法寺家がせいぜい百石程度なのに正法寺は五百石である。むろん尾張徳川家の篤い保護に支えられてのものであるが、七堂伽藍などその威容に圧倒される。f0300125_854494.jpg
 本堂、大方丈、小方丈などめぐる。書院様式のしつらえもさることながら、襖絵なども江戸初期の狩野派の絵師によって描かれたものであるとか。金箔で施された大方丈上段の間は、書院様式ながら、違い棚と付書院が対面しているという大変珍しいものである。
豪華絢爛たる大方丈に対し、小方丈は数寄屋の茶室を彷彿としたもので、禅画の掛け軸があるなど風雅な文化人の趣味が反映されているようだ。
 法雲殿に赴き、巨大な阿弥陀如来座像(重要文化財)を見上げる。鎌倉時代の作であるとか。もともと八角堂に鎮座していたものであるが、明治初期に移転させられ、その後10数年間京都国立博物館に収容され、昭和20年に建設された法雲殿に収蔵されたものである。
堂々とした体躯は平等院鳳凰堂の弥陀仏をも思わせるものであるが、永年の風雪によって胸から腰に至る彩色が剥落しており苦難の遍歴を想わずにいられない。
正法寺がこのような隆盛の時期を迎えるのは二つの画期があったと住職は語る。一つは後奈良天皇の帰依を受け勅願寺となった(1546年)こととお亀(相応院)が徳川家康の側室となり尾張藩祖義直の母となったことである。現在の伽藍は相応院の寄進によるもので寛永6年(1629)に建立されたとのこと。おもしろいのはその創建が文明年間(1469~86年)のものとされる地蔵堂が正門わきに控えていることである。それは鎌倉幕府御家人の高田忠国が当寺を開創したとき(1191年)の面影を伝えてくれているようでもある。
雨にたたられることなく歴史探訪ウオークは大きな収穫をのこして閉幕。参加者35名。ガイドしていただいた八幡観光ボランティアガイド協会の田中会長と大田友紀子さんに改めて感謝の気持ちをお伝えしたい。
 ありがとうございました。

 枚方のボランティアガイドの会の福島万喜子さんからお便りが届きました。紙上に掲載することを承諾して頂きましたので紹介します。
「前略 八幡の良さを今回もたっぷり味わわせていただきました。ありがとうございました。京都・奈良の寺々と比べても遜色ない正法寺、何よりも鮮やかだった苔の艶々しさ、タイムスリップの一時・・・。久々に会った友人も「来て良かった!」と。また、よろしくお願い致します。今、私達枚方のボランティアガイドの会にも八幡を研修で歩きたいと提案しております。 (後略)」   (文責 土井三郎)


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by y-rekitan | 2011-06-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第15号より-02 八角院地蔵尊

八角院地蔵尊の碑文を読む

会員:望月充郎
          
                                     


 八角堂(八幡大芝)の斜め前に御堂が建っている。中には、大きな石仏が祭られている。お地蔵様だ。台座の高さ95㎝、蓮台に乗ったそれは135㎝の高さだ。
実に穏やかな表情で、 右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうじゅ)を持っている。
        
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 この御堂については、数年前「八幡ルネ」が中心になって大掃除をして周囲の色あせた円柱を朱色に塗り替えた経緯がある。
姫路在住の一女性が、御堂のあまりの荒れ方に胸を痛めて、たまたま出会った「ルネ」の伊藤さんに塗り替えをお願いしたことがきっかけだった。
女性は八幡に嫁いだ娘さんの安産を祈って、何回もお参りしたところ、無事女児を授かったのでそのことへのお礼を込めて改装を思い立ったという。経費は全額女性が出費された。
 そして今度は八幡市内の女性がお参りしていて、台座(裏)に刻まれた文字が気になっていたが判読できない。そこで伊藤さんに依頼し、私のところへ回ってきた。
何回もお参りし、お祈りするこのお地蔵様には、二人の女性を引きつける何かがあったのだろうか。
 数日前、台座の碑文を見に行ったが、どうもはっきりしない。そこで拓本にとって読めた文字は次のようなものだった。

          建堂願主知教法尼
          出生楠葉俗姓山中
          是圓阿上人之姉也
          薙染嗣法聞阿上人
          聊営小堂以擬報恩
          仰冀
          伽藍安全法種増長
          師僧父母六親眷属
          外護擅信一歩結縁
          現當諸願皆令満足
          乃至法界均登覚岸

 願主は女性だったのだ。圓阿上人のお姉さんと言うことだが、どのような人だったのだろうか。また圓阿上人とはどのような人で、さらに仏門に入り法統の教えを授けてくれた聞阿上人とは?そして恩師、父母、兄弟、親戚の多くの人が結縁(けちえん)に近づくため、また彼岸を悟るために祈った知教法尼は、楠葉のどこかに眠っているのだろうか。
私も文字を読んだだけでまだ調べてはいない。正法寺のお上人に尋ねたら即座に回答を頂けることかも知れない。あるいは楠葉、その周辺の浄土宗、浄土真宗、時宗の寺を訪ねたら解決できそうな気がする。
 八幡のメジャーな歴史事実を探究することは勿論だが、町中に眠っている小さな歴史を探るのも、またおもしろいことだ。 (2011/06/10)
※この地蔵菩薩は、八角堂がこの地に移転してきた際、それを守護するためのものとして近隣の方が寄進したとのこと。また、「安産地蔵」の名がある通り、安産祈願の御利益があるとのことである。地蔵堂は、昭和37年に八角堂の修理がなされた折に建造されたそうである。地蔵菩薩の寄進者が碑文の願主なのかもしれない。
 
by y-rekitan | 2011-06-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第15号より-03 長宗我部盛親

長宗我部盛親が潜んだ家

会員:丹波紀美子


          
                                     
 長宗我部盛親が自分の家に潜んでいたと言う話を聞いたのは十数年前のことである。
 Tさんの家は一部だけが400年程前の慶長年間の建物で、盛親が隠れて寝起きした二部屋や外を窺う出窓も昔のまま残っている。
 T家は高知ではよく知られた家らしく、何度か高知新聞にも掲載されたと言う。
 長宗我部盛親は元親(もとちか)の四男で長兄の信親が戦死した為、家督相続をめぐり熾烈な争いがあった。父元親の強硬な後押しで長兄の娘を娶って世継に指名され、父の死後家督を継いだ。尚、盛親の母は斉藤利三の妹で、徳川家光の乳母お福(春日局)は姪に当たる。
 関ヶ原の合戦では西軍に属した為、土佐を没収された。剃髪して京都に寓居し、寺小屋の師匠をしていたとの記録も残っている。
 慶長19年9月、豊臣秀頼に招致され大坂城へ入った。夏の陣では木村重成らと共に主力軍勢で、藤堂・井伊軍と戦う。これが大坂の陣での屈指の激戦として名高い5月6日の八尾若江の戦である。
 この戦で盛親は敗れて大坂城に入り、翌5月7日京橋口の守備についたが敗北が決定的になると、夜に乗じて逃れ石清水八幡宮の麓の科手の民家に隠れた。
 T家の言い伝えによると、盛親は当家に潜みながら目前に広がる木津川河畔の葦原に家来を配し通りかかる徳川本軍に奇襲する機会を窺っていたと言う。
 西隣の井筒屋という餅屋が密告して東軍の蜂須賀至鎮(よししげ)の家来で長坂三郎左衛門の手で捕えられ5月11日伏見城へ送られた。
 元和元年(1615)5月15日、六条河原で五男一女の子女と共に斬首され、三条河原で梟首(きょうしゅ)された。亨年41歳。墓は五条の蓮光寺にある。
 T家には、盛親や家臣たちの甲冑の他遺品も数多くあったが、維新の際に大半を亡失し、明治の末には軍中用抹茶器や家来の和田勘兵衛の背幟、馬具、飯具の数点のみ残っていた。しかし、時代の変遷で、つい十何年か前迄は軍中用抹茶器だけがT家の手元にあった。それもTさんに話を聞く少し前に盗難にあい、持ち去られたしまった由。現在、T家に残っているものは、盛親が数日間を過ごしたと言われる朽ちかけた二部屋と出窓だけである。
f0300125_1449876.jpg 平成12年(2000)10月17日の高知新聞に載った、土佐山内家18代当主山内豊秋さん(当時89歳)らが来訪し明暗を分けた歴史の因縁の家を偲んでいる写真が、家の重さと歴史の証を示しているのかも知れない。
 それにしても、何故盛親は八幡に逃れてきたのか? 単なる偶然なのか? 或いは京都に上る途中に上れない程の包囲網が敷かれていたのか? それとも八幡の神人(じにん)との関係なのか? T家も神人であり、園のK家も盛親を匿ったと伝えられる神人の家だ。何か八幡宮と関わりがありそうな気もする。八幡宮は必勝祈願の神と伝わっている。再起を図る盛親の心の拠り所として八幡を選んだのかもしれない。
by y-rekitan | 2011-06-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第15号より-04 古歌の南山城⑤

シリーズ「古歌に詠われた南山城」・・・⑤
(最終回)庶民の生活

八木 功 (会員)

 4回にわたり八幡・淀についての古歌を概観してきましたので、この最終回では、風雅を楽しむゆとりなどなく、下積みの苦しい生活を強いられていた一般庶民、主として農民の生活を垣間見ることが出来る歌を、と思いました。しかし、王朝文学である『古今集』『新古今集』に庶民の生活の苦しさをさぐるのは、本来、無理な話であり、『万葉集』には「東歌(あずまうた)」や「防人歌(さきもりのうた)」など「民衆の歌」がありますが、愛や別離の歌が多く、日常生活の苦しさを詠んだ歌は見当たりません。「藤原の宮の役(えき)民(みん)の作る歌」(50)は、労苦に徴発された庶民の作った歌ではなく、高級官吏の作ですので、結局、「貧窮問答」として知られている山上憶良(660?~733)の「問答歌」(896)を、8世紀初期の庶民の生活を想像するよすがにしてみたと思います。

 「貧窮問答歌」は、下級官吏「貧者」とどん底の生活に苦しむ「窮者」との問答形式の長歌ですが、「貧者」の暮らし向きには、不遇時代の憶良自身の体験が投影されているようです。
どうしようもなく寒い冬の夜、酒粕を溶かした湯で暖をとり、有りったけの衣類を身にまとい寒さをしのぎつつ、「自分以外にはまともな人間はいるものか」というプライドに支えられ、世間に批判的である「貧者」は、飢えと寒さに苦しむ極貧の「窮者」にその暮らし向きを尋ねると、「窮者」は答えます。
幸いにも人間として生を受け、せっせと人並みに自分も耕作しているのに、綿もない袖なし衣で、海松(みる)みたいなよれよれの垂れ下がったぼろきれを肩にひっかけ、つぶれたような歪んだ掘立小屋の中に、地べたに藁をばらばら敷いて、父母は枕の方へ、妻子は足元に互いに身を寄せ合って、愚痴を言ったり、うめきあったりしているが、かまどには火の気もなく、蒸籠(せいろう)には蜘蛛の巣がかかって、飯を炊くことも忘れ、ぬえ鳥のような細々と弱々しい声をあげていると、「特別の短い木の端をさらに切る」というたとえのように、笞をかざし租税をとり立てる里長(さとおさ)の声が、寝所の戸口に聞こえてくる。こんなにもどうしようもないものであろうか、世の中を生きていくということは

   ※「海(み)松(る)」 緑藻の一種。 「里長」 五十戸を一里とする
     最小行政単位内で、農耕や賦役(ふえき)の管理をする者。

 
 この応答に、かなり具体的に当時の農民の生活が詠まれているのは、憶良が筑紫の国主を退任した翌年(732)(死の前年)に作った歌であり、目の当たりにしてきたばかりの農民の苦しい生活が詠み込まれているからです。さらに、この長歌の後に、憶良自身の感想の歌が添えられています。

   世間(よのなか)を厭(う)しと恥(やさ)しと思へども
                飛び立ちかねつ鳥にしあらねば(897)

    (この世に生きていくのは、厭なことだ、恥ずかしいことだと思うが、
       人間は鳥ではないから、自分はこの世を飛び立つことも出来ない。)
 

 諦念(ていねん)をせまるような、希望がもてないような感想を歌い、人間苦、生活苦そのものを主題とする歌を詠んだ憶良は、万葉歌人のなかで異彩を放つ極めて個性的な歌人であります。
 それはさておき、一般庶民はみずからの窮状を歌に詠むすべも心得なかった時代ですから、より上位にある人の傍観者的視点は免れませんが、当時の庶民の生活実態そのものはかなり把握できます。従って、この歌が詠まれた8世紀初期(平城京造都・遷都(710)後の財政難のため、租税の厳しい取り立てに苦しんでいた時期の庶民の暮らし向きを、同じく「8世紀初頭に、行基が山崎橋を架設し、山崎院や久修園院の建立などに奔走していた」という歴史的事実と重ね合わせることにより、歴史上の事実は活性化され、より豊かな血の通う事実として甦ってくることは確かです。
 そうなると、行基の活動の深い意義や、庶民と宗教の関係などへと疑問は拡大していきます。逆に、優れた歌は、時代の諸相の象徴的産物であり、雲上に聳える高峰でありますから、雲の下に広がる自然と人間のあらゆる営みを知ってはじめて、歌の全容、歌の価値もわかってくると思います。
 その第一歩として、伝承時代から奈良・平安へと時代が移るにつれ、主に八幡とその近辺がどのように詠まれてきたかを概観しましたが、さらに、宇治や木津川の東部地域を詠んだ歌と、それらの作品誕生の当時の政治、宗教の実態や地勢、交通、産業、経済の実情などを、いろんな資料により総合的・有機的に考察したいというのが私の目指すところであります。ほんの第一歩のみで貴重な紙面を汚し申し訳なく思っております。有難うございました。
 最後に②で取り上げました聖徳太子の歌の優れた英訳がありますので、ご参考までに紹介しておきます。訳者はリービ英雄氏です。

      家ならば妹(いも)が手まかむ草枕
              旅に臥(こ)やせるこの旅人(たびと)あはれ

If he were home he would be pillowed in his wife´s arms
but here on a journey
he lies with Grass for pillow traveler,alas!

   ※pillow 「枕」「枕にのせる、もたせかける」   Alas 「ああ 悲しや」

 「枕詞」を見事に訳しこんだ手法には感服させられますが、「無名の旅人に向けられた「かなしみ」は、日本語で記された最も根元的な感情のひとつであるある。「挽歌」の一つの原形はここにある。そして「あはれ」という千年のキーワードが、「死人に向けられているのだ」という訳者の深い洞察には、さらに感服せずにはおれません。

[主要参考書]
 テキストは「講談社学術文庫」および「角川ソフィア文庫」、中西進「古代史で楽しむ万葉集」、森浩一「万葉集に歴史を読む」、北山茂夫「万葉の時代」、リービ英雄「英語で読む万葉集」

◎歴史短歌 三首
① 「万葉集」古代の歴史いろどれり 喜怒哀楽を素直につたえ
② 「古今」捨て「万葉」に還れと唱へしは 「写生」重視の俳人子規なり
③ 美豆(みず)に立てば海と見まがふ巨椋池 葦辺のかなたに
  宇治の槙島
  
                                     (2011.6)

この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>> 

by y-rekitan | 2011-06-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第15号より-05 八幡歴史の謎①

シリーズ「八幡の歴史の謎とは何か?」・・・①
原始・古代~中世篇

 八幡の歴史を探究する会 事務局 


 先日ある人から、昨年の探究する会発足の時に、「八幡の歴史の謎」を提起したとあるがそれは、どのようなものかと尋ねられたことがあります。
 一年以上経過したもので今となっては補充しなければいけないものもありますが、「初心忘れるべからず!」の譬えもあり、ここに再度掲載することにしました。これをベースの一つとしてまた追加する項目も附け加えながら、更なる探究を進めてゆきましょう。

原始・古代
  1. 八幡にはどんな遺跡があるのか? それらからどんなことがわかるのか?
  2. 八幡に人が住みつくようになったのは、いつごろ、何処で?
  3. 八幡の何処にどんな古墳があって、被葬者はだれか? 大和王権とどんな関わりがあるか?
  4. 八幡にある神社の祭神は? 記紀神話との関わりはどうか?
  5. 奈良から長岡・平安に遷都する過程で、八幡・樟葉はどんな関わりをもつのか。味(御)園神社と「那羅庄」を足がかりにしたとする説を検証する。
  6. 行基が対岸にある山崎と橋本界隈に橋を架けたといわれるが、そもそも行基はどんな人物なのか? 「行基年譜」からどんなことが見えてくるか。
  7. 美濃山、志水、西山にそれぞれある廃寺はいかなるものか? 何が出土され、どんなことがわかっているのか? 古代仏教史の中にどう位置づけられるのか?
  8. 八幡神はどんな神なのか? 誰がどんな意図のもとに石清水(男山)に勧請したのか?
  9. 八幡神が源氏の祖神とされるようになったのは何故か?
  10. 和気神社や足立寺にまつわる伝承および、宇佐八幡の託宣による道鏡皇位継承阻止事件の真相を探る。

中世
  1. 「八幡大菩薩」を祭神とする石清水の神仏習合の実態はどのようなものか? 山上にどんな寺があって、どのような構成であったのか? 僧と神官をめぐる構成はいかなるものか?
  2. 石清水八幡宮の祭祀には、どのようなものがあるか。特に、放生会と安吾祭は誰が担ったのか。安吾頭役とは何か?
  3. 石清水神宮の門前町は何時、どのように形成されていったのか。柴座などの座はどのようなものであったのか? 油座をめぐる離宮八幡と石清水八幡との関係は? 麹の販売をめぐる森(八幡)と樟葉の住人との争いの顛末は?
  4. 石清水に限らず神人による強訴が方々の神社で展開されるが、それはどのようなものなのか?―嘉禎元年(1235)における薪荘と大住荘との用水・堺相論、応永31年(1424)における神人強訴[護国寺薬師堂閉籠(へいろう)事件]からどんなことがわかるのか?
  5. 源頼朝は石清水に何回参詣したか? 頼朝上洛の目的と足跡を辿る。―正法寺創建との関わりは?
  6. 蒙古襲来にあたって、石清水八幡宮でいかなる祈祷がなされたのか。叡尊や律宗教団と八幡宮との関わりは?―「航海記念塔」はいつ、どのようにして建造されたのか?
  7. 『太平記』に八幡はどのように登場するのか―戦場は何処か? 南北朝の争乱の中で、八幡における戦い(「八幡炎上事」、「八幡合戦事付官軍夜討事」)はどのように位置づけられるか。
  8. 室町幕府は、八幡宮をどのように保護したのか?―善法律寺と室町将軍家との関わりを探る。
  9. 和歌や謡曲など古典の世界で八幡はどのように描かれたのか。

 以下、近世・近現代の八幡の謎は次回に掲載いたします。(事務局)


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by y-rekitan | 2011-06-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第15号より-end

この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2011-06-28 01:00 | Comments(0)