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◆会報第16号より-top

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◆《講演会》地名で学ぶ八幡の歴史◆
◆シリーズ:“一枚の写真から”①◆
◆シリーズ:“八幡の歴史の謎とは何か?”②◆


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by y-rekitan | 2011-07-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第16号より-01 八幡の地名

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《講演会(会員研究発表)》
地名で学ぶ八幡の歴史
― 2011年7月  志水公民館 にて ―

 出口 修 


f0300125_1726316.jpg 7月13日(水)、志水公民館にて7月例会を開きました。出口さんには「会員研究発表」として依頼したものですが、内容的に専門家の講演に等しい熱のこもったものでした。 出口さんは、地名の成り立ちには様々な説があって、決めつけにくい面がある。従って、これから披露するものも一つの説として聞いて頂きたい旨の発言がありました。

 
1、はじめに―地名とは何か

 地名は古代人がある地域を知らせる一つの手段として、実用的意義を持って発生した。従って、古代の自然環境の特徴を表明し、当時の人々の思考・意識・感情を反映したものである。
 さらに、古くからの伝統や町が生まれたいきさつ、歴史、その土地に住んでいた人々の思いなど織り込まれている。

2、地名誕生の三つのポイント

 地名が生まれるには三つのポイントがある。

(1)自然地名―その土地の場所、形、特徴からつけられたもの

川……川上・大川・前川など
野……大野・小野・高野・大原など
山……山本・大山・小山

(2)文化地名―人の手が入ることで文化的・社会的な名称がつけられた

田(新田・中田・吉田)、 村(中村・大村・古田)、 井(新井・大井)、 神社(宮前・宮下)、市(四日市・五日市・八日市)、 関(関・霞ケ関)、 道路(四街道・六甲道)、橋や津(橋本・大津・今津・木津)

(3)地名の佳字化・嘉字化―元の地名を美化したり、めでたいものに変えたりした

 その例として、埋め田→梅田、葦野→吉野、二荒山(ふたらさんの音読か)→日光などがある。

3、古代の地名(略

4、八幡の地名

(1)古代の地名

大宝律令(702年)に国・郡・里の制定がなされる。

山背の国(平安遷都以前の国名)は、宇治・久世・綴喜・相楽・紀伊・乙訓・葛野・愛宕の郡で構成された。久世郡の竹淵郷・那羅郷、綴喜郡の有智郷が現在の八幡にあたる。つまり、八幡は那羅郷を南限とする久世郡と有智郷を北限とする綴喜郡にまたがる形で存在したということである。

(2)条里制との関わり

 条里制とは、古代の農村計画のもととなる区画法で、大化の改新での班田収授を円滑に実施するため全国的規模で実施されたと考えられる。その名残と考えられる小字(こあざ)として一ノ坪、五ノ坪、六ノ坪、十三、十そう、三十が現存している。

(3)内四郷と外四郷の成立

八幡(神領)は江戸時代以前より内四郷と外四郷によって構成される。各郷に属する町は以下の通り。

科手(しなて)郷(ごう)……橋本・大谷・科手・高坊。なお、平野山・西山村・足立寺村は橋本に属す。

常盤(ときわ)郷……常盤・紺座・高橋・田中・市場(庭)・家田

山路(やまじ)郷……山路・東山路・奥ノ町・壇所・森・柴座

金振(かなふり)郷……園・平谷・城ノ内・菖蒲池・山本・今田・馬場・茶畑・谷畑・的場・神原・志水。なお、幣原村・南山村・東村(東林)は志水に属す。

外四郷は次の通り

美豆郷(美豆村)、際目郷(際目村)、生津郷(生津村)、川口郷(川口村)

(4)町場の地名

① 八幡

 「八幡」の地名は、貞観元年(859年)に八幡神が勧請されてからのものであり、応神天皇の称「広幡の八幡の大神」に由来との説がある(『続日本紀』天平勝宝元年)。
 また『男山考古録』には「当地は古のままにヤワタと云へり、或説はハチマムと字音をもて称えつる始ハ、八幡太郎義家朝臣より云り。こは神号を憚らせて、字音のまま云り」とある。さらに、天慶5年(942)4月27日、平将門・藤原純友追討の報賽として始められた石清水臨時祭の歌に「イノリクル ヤワタノミヤノイワシミツ ユクスヘトヲク ツカエマツラン」(『臨放記』)とあり、早くから「ヤワタ」の地名が登場する。

② 科手郷の町名

 科手山にかって科手寺が存し、集落も8世紀に存在していた。「シナ」とは水辺についた地名の意で、滋賀の志那(シナ)と同じ。また、「シナ」=山の肩下がり、「ナ」=~ノ方向の意もある。山科・信濃がその例。

大谷町……谷ふところを奥谷という。社士として、谷村・谷本などがいた。

橋本町……「往昔、山崎橋懸け渡されてより、此名を呼り」「橋本津とも古く云り」『男山考古録』。

平野山……「山城国久世郡平間山出名杉及霊竹」(『風土記』)、「野」は「間」の誤写か。元は平間山。

足立寺村……和気清麿伝説による。

指月(庵)……「足立寺村の北。近世造立。尼僧寺也」(『男山考古録』、以下同著の引用は『男』と略す)

③ 常盤郷の町名

 邑入口に往昔大門あり、その境内を分け示した。その辺戸際という。(『男』)

常盤町……字名消滅。口伝で残る。現八幡土井北部。

高橋町……「宿院放生川に高橋を渡されてより所の名に呼たり。土橋町に隣る」(『男』)

紺座町……または随市町。「紺掻職役座の者の住居するところ。嘉元元年(1303)駿河三昧堂修造人夫沙汰状に塩座・和布座・生魚座云々。」(『男』)他に、森町の麹座が知られている。

田中町……田中家の住居による。ここより北を常盤郷、南は山路郷である。

家田町……田中家屋敷家田殿があったことによる。

市場町……市庭町。「康平6年(1063年)3月晦日甲午始宿院川原市」。川原とあるのは、八幡宮宿院の対岸あたりの街並み。

④ 山路郷の町名

 山路は、男山へ登る山路(やまみち)に由来。

壇所町……安居神事の時、頭役を務める者(金振郷住人の場合)が、志水安居墳(安居塚)と称する所から芝土を運んでこの地に置く所からこの地名ができた。科手郷・常盤郷の住人が頭役を務めたときは狩尾山の柴土を取っていた。毎年11月11日(12月11日とも記されている)に行われていた。

森町……薬園寺を森堂という。当所居住の社人(神人)が森本・森元など称した。

柴座町……薪庄(現京田辺市)などを所領している八幡宮にとって、その売買商人としての柴座は有用なものであった。山柴も同じ。

⑤ 金振郷の町名

 金振は、式部谷遺跡出土の銅鐸からカナフリか?

園町……法園寺の門前として開けた。田中家祖勝清居住し、園殿と号した。

平谷町……山より山路に至る辺りに「いささか打ち明けたる谷ふところ成し故、此名あり」(『男』)

御馬所……「御馬所検校とて古よりこの職掌あり。神馬に係る役なり」(『男』)

城ノ内町……「楽家に山井・城内両家座し由。此人当地に在て城内と号せり。また山井昇清法印は城内の類族なる由」(『男』)

山本町……男山の麓。

菖蒲池町……菖蒲池とは、泪川(大谷川の支流、表川とも云う)から御馬所にあった池。

鍛治垣外……「名高い鍛治屋住けん。宮鍛治加助は豊公又は将軍家御代々御朱印賜う。御本宮の宮鍛治職也」(『男』) 

馬場町……馬場姓の八幡宮社士多く住んだ。

神原町……「旧は河原と書たり。古此地谷川なと流る所」(『男』)から河原崎。里俗はカワラという。神原姓の社士の所領。

志水町……源頼朝の代幣使である高田蔵人忠国が京極殿御局から一帯を買収。新清水と称したが、石清水を憚(はばか)り志水に改めた。

(5)カイト地名考

 八幡には、カイト(垣外・垣内)の地名が現在16箇所ある。これは、中世から近世にかけて一般化したものであるそれらは、①垣などを廻らし、外と区別する小規模な開墾地を指す場合、②開墾地に人が住み、集落を示す場合(八幡に多い)、③社会集団の名として残る場合とがある。

 八幡のカイトの成立を考えると次の5つの型に類別できる。

①集落+集落形

もともと集落があり、それに拡大する形で別の集落が形成された例。

上津屋の里垣内と浜垣内……石田神社を中心に集落を形成(里垣内)し、その拡大したものが浜垣内。

下奈良奥垣内と出垣内……最初、奥垣内に集落。その拡大が出垣内。

②集落+開墾地型

古代の集落が、集落の外に「垣内」または「垣外」を開墾した例。

下奈良竹垣内……田地のみ。川口・下奈良の集落から等距離にある耕作適地として開墾された。

内里の内垣内・蔵垣外・松ケ外……内里の集落の外に開墾地を開く。

③集落移転型

 水害による内水排除が困難なために、居住性のよい地域へ集落が移転した例

戸津の場合……元は「しょうじ」(天正14年差出検地帳)という小さな集落。だが、蜻蛉尻川の堤切れなどにより中垣外に移転。江戸時代には、さらに北小路と南小路に集落が移転。

④集落再編成型

 居住性と生産拠点としての価値の高さから古代、中世、近世にかけて集落が拡大、移転、再編成していった例。

上奈良の場合……奈良里が古代集落を形成。中世には御園神社をふくむ開墾移住地域として城垣内を形成。近世に再び奈良里に集中。

岩田の場合……竹網が古代集落。中世には石田神社を含む辻垣内を形成。その後、集落規模の拡大や木津川の決壊などによる分散で、東岩田・西岩田・巽岩田への移住が進んだ。

⑤集落最適地化

 居住空間をよくするために移転をせず、集落の周囲を土居で固めたり、環濠集落化したりした例。

野尻の場合……土井ノ内。周囲に土居(盛り土を築いた。

川口の場合……川口郷自体環濠集落である。中でも堀ノ内は蜻蛉尻川と木津川の接点なので、さらに周囲を堀状にした。

5、失われた地名

 八幡の現在の小字数は369である。現在の市域と異なり単純に比較することはできないが、慶長5年(1600)の差出検地帳では1160を数えていた。例えば、正法寺分の差出帳(45石5斗8升分)に限っていえば、29か所の地名を有していたが、現存する地名はカスカヘ・アラホリ・ツカノ本・ナカタイ・コモイケ・柿木垣内・フタイ・ワタリセ・小松の9か所である。以下の地名が消滅したことになる。

石山田・門田か内・車ツカ・南垣内・カマガ上・坊御門・ユウ田・ヒワガクビ・サケアシ・クシノ木・ハカカイト・ムカイハタケ・ヤフタ・ツキマワシ・大石・河ニハタ・カマカイケ・ハタノスソ・西フケ・七ノツホ計20ヵ所。

 参加者は45名でした。 (文責:土井三郎)

「一口感想」より
 「地名は世につれて変わってしまう。地名の由来は、その土地の歴史を物語っているのにさみしい限りと思っている。一方、歴史の生き字引である古老も少なくなっている。古いことを知り、民話的な内容で(学問的でなく)後世に伝える事は大事なことと思うので、本日の様な集まりに若い人の参加を求める事も必要と思います。
 塩釜公園辺りは、塩の精製地で、それ用の釜があったと地元の古老より聞きました。」  (M)
 ※「塩釜」には「塩垢離(ごり)」(神社参詣の前に塩をふりかけ身を清める)が訛ったものとの説もあります。

 「昔から伝わるものを残すために地名を残してきた、という言葉が印象に残りました。そう考えると自分の住む地域を大事にせねば、と思います。竹網、城垣内辺りのお話で、神社、垣内、中心となる集落、いろいろな条件がそろって発展してきたことや山崎橋のお話も面白かったです!」  (匿名希望、若い女性)

「金振郷=式部谷遺跡出土の銅鐸から?とありましたが、金振と式部谷とはかなり離れていますが、何故ですか?」    (T)
 ※金振は郷の名で、式部谷を含んだ広いエリアを指すと考えられます。

「質問」
①住所のつけ方として、一般では◯◯市△△町-丁目とつけるのに、なぜ八幡では「男山長沢番地」などと付けるのか。
②内里蜻蛉尻、下奈良蜻蛉尻、戸津蜻蛉尻とあるのは何故?
③飛び地が多い? あっちこっちに同じ地名が散在している。何故か。」(匿名希望)

※①八幡は、歴史的に小字によって細かく分割されたものが町名として残っているので丁目で分割する必要がないことと、橋本や男山などの新興の住宅地も旧地名をいかすということで今日の姿になった。②蜻蛉尻というのは今の防賀川のことで、それが内里・戸津・下奈良を流れている地点に地名がついたから。③木津川が明治初年に付け替えられて、神領(八幡庄)が分断されたから。また、内里と岩田の入会地として飛び地ができたから。上の①~③の質問については、出口さんとの相談の上で、編集担当の責任で回答させていただきました。

                                 

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by y-rekitan | 2011-07-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第16号より-02 一枚の写真から①

シリーズ「一枚の写真から」・・・①
第1回 男山団地の誕生

 八幡まちかど博物館「城ノ内」館長 : 高井 輝雄 


「一枚の写真から」の執筆にあたって

 戦後、特に昭和29年、3町村が合併し八幡町になる前後から今日の八幡市が形成されるまで、その時々の先人達の量り知れない苦労や活動があったこと、為政者始め要路の指導者が数々の難局に際して勇気と決断を求められたことを、今つくづく思い返している。
 振り返り「文字」で起こすのは比較的安易であるが、その時々の臨場感は伝わらない。今このまちに住む者として、まちの来し方を知り、その時々の思いや状況の一端に触れ少しでも理解することも、これからの地域づくり、まちづくりに活かすために大事と思う。   
 そんな思いで、些かの体験と各当事者の声を引用させていただく等、「一枚の写真から」シリーズの筆を執った次第です。まだまだ最近のことであるが、何かのお役にたてば幸甚であります。不十分さは賢兄のご指導ご指摘をお願いします。

男山団地の誕生
―市民運動が公団住宅を誘致―
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 この写真の一コマが、「男山団地誕生」の原点だと思う。写真は何かの事案に賛成の挙手をしているようだが、後ろの垂幕を良く見るとそうではない。
 八幡の西部丘陵一帯(今の男山団地地域)を対象に出願された硅砂鉱区の設定反対、つまり硅砂採掘のための山砂利採取による公害発生を阻止するために開かれた地権者等の集まりで、強い反対の意思を示された瞬間の光景なのである。 
 八幡から枚方への山間でガラスの原料となる硅砂の試掘をしていた大阪の業者が、当時の通産省に本採掘の為の正式の申請をしたのである。昭和34年初頭のことである。これを許すと、旧市街地はまさに頭の上で山が削られ山砂利公害が起きることは必至であり、その上、地権者の了解なく地上権まで侵されるとあって、この年の12月以来、町ぐるみの反対運動がおこったのである。
 『市民運動』。当時は未だ、そんな言葉が一般化していなかったとき、八幡における市民運動として、町ぐるみ起ち上がったのである 
 この業者による申請を阻止するのには、公益としてこれを上回る対抗措置が必要であるため、昭和35年6月、町の工場等誘致審議会で、いわゆる「公団住宅(男山団地)」の誘致が決定された。

親より生まれる子が大きい

 それからが大変であった。何せ親(元の人口2万5千人)より大きい子供(男山団地の計画人口3万2千人)を産もうとする計画には、難題が多すぎたのである。400人に及ぶ地権者の協力と用地の買収価格から始まり、町の財政は大丈夫か、排水による内水害(5回のシリーズで扱う)の対策は、上水道の水源は、下水は何処で処理するのか、農地を失う農家の離農対策は、等々。また、団地計画の内容や在来地域との行政バランス等のソフト面のこと、公団住宅計画を実現するための前段階のハードルをクリアすることに議会たんびに議論は紛糾し、足踏みを重ねた。 
 限られた紙数のため深く記すことはできないが、何分町の将来を左右する大問題だけにあるときは町を二分するほど世論も沸立ち、これを纏めていくのに口には言い表せない当局の苦労が続き、「どうなるのかと案じて、眠れなかった夜の数は数えようもない」と、当時団地問題担当の幹部職員は後述されている。
 これら難問題は、所謂町の政局にも及ぶこと度々であったが、当局の粘り強い努力で、国や府から有利な財政制度の改善を引出し、内水害から町を守る施設増強を国によって主に施工できる等、実現に向け大きく前進し、一つ一つ解決の目途をつけられたのである。簡単な表現で全く片付けられないくらい長期にわたる出来事であった。
 地権者の同意を始め、当時の町当局の総力を挙げての努力、議会、市民の理解と協力あってのことである。また、団地開発に関する国の財政制度(地方交付税等)を何としても是正されるよう、町長と共に町の財政担当者が非常に重いタイガー計算機を東京の自治省まで持参、担当官の目の前で計算機を回し正論を主張、制度改正の実現に到ったエピソードもある。

高齢者人口今や4人に1人

 こうして、公団住宅(男山団地)の誘致決定以来10年目の昭和44年、漸く初めて開発工事の手が入れられた。この男山団地の計画概要は、面積56万坪(186㌶)、戸数8120戸、32000人(公共施設等省略)が予定計画であった。(事業実施にあたっては、多少変動した)。千里ニュータウンに次ぐ西日本2番目に大きい団地造成計画である。 
 男山団地の中央に建つ集合住宅の入居は、昭和47年から南部のA地区から始まった。その春、一挙に何と2150戸、6000人の新住民を迎え、団地の区画整理事業が終了する昭和52年迄、毎年多くの入居者迎えた。
 小さな町だけに、受入れ準備には大変なものがあった。<水際作戦>と銘打って、入居説明会から始まる手続き会のたびに役場の窓口は出前し、町の状況や入居手続き等について詳細に説明し、不安のないよう「温かく迎えよう」と毎日忙殺されていたことが、この間のように鮮明に思い返すことができる。このときの町には活気があり、「まちは動いていた」
 当時、男山団地は、年齢別人口の構造は、三角形が二つ重なるように20代から40代の親と0歳から10才位までの若年層が圧倒的に多い、若々しい世帯で溢れていた。それが約40年経った今はどうか、この3月末現在、65歳の人の占める割合は実に22、6%、凡そ4人に1人が高齢者なのである。
 
 新旧住民の憩いの場、交流の場にと設けられた「さくら公園」では、桜の季節に多くの人々を見るにつけ、何か安堵した気持ちになる。公園内にある竹のモニュメントの下へ完成記念(昭和52年)に埋めたタイムカプセル。いつか出されたとき、何と言うだろう。

《追記》
 もう一面の公団団地誘致の起因は、昭和30年代初頭から橋本地域で始まった民間による宅地開発にあった。 
 宅地開発に関する規制の法律のない時代で、大阪のドーナツ化により急に開発が市内に進行しかけ、無秩序な開発に町が対応しなければならなくなった。そんな宅地造成は雨が降るたび水害等の問題が発生し、道路や水道等の公共施設は継ぎ接ぎの整備で効率悪く、地元自治体の対応と負担は難儀を極めていた。 
 京阪間の八幡は、遅かれ早かれ今以上の激しく苦しい、開発の対応に迫られる。だとしたら、政府の資金が投入される公共施設の整った開発が見込める公団住宅を誘致して、計画的なまちづくりをしようと考えていたのが、先に述べた公団団地誘致の起因をなす同時期であったのである。 
            (元八幡市職員、前松花堂美術館館長)


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by y-rekitan | 2011-07-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第16号より-04 八幡歴史の謎②

シリーズ「八幡の歴史の謎とは何か?」・・・②
近世~近現代篇

 八幡の歴史を探究する会 事務局 


近世
  1. 延暦寺を焼き討ちした織田信長が何故石清水に寄進したり保護したりしたのか? 
  2. 「洞ケ峠」を巡る明智光秀と筒井順慶の動向を探る。誤伝は何故生またのか。
  3. 豊臣秀吉は、八幡宮とどのように関わったのか? 八幡における太閤検地の実態は
  4. 家康による朱印状とはいかなるものか? 幕藩体制の中で八幡はどんな存在であったのか? 「内四郷外四郷」の支配の在り方を探る。 
  5. 淀屋辰五郎の墓及び屋敷跡が何故八幡にあるのか。淀屋の出自と闕所後の動向を探る。
  6. 正徳四年(1714)の蜻蛉尻川(防賀川)の堤切事件の顛末を探る。
  7. 近世八幡の商人・職人の動向から何が見えてくるか? 八幡における綿や菜種等商品作物の生産と流通過程を探る。 
  8. 八幡で生糸生産が行われた時期があるのか? 美濃山の茶と神戸貿易との関わりは
  9. 『上津屋村諸事記録』などから村の日常生活が再現できないか?
  10. 近世八幡の水運や舟運はどのようなものであったか? 何故橋でなくて渡し舟なのか? 橋本や上津屋の渡し舟はどのように運営されたのか?
  11. 「八幡八景」(俳諧・和歌)はどのような文化環境の中から生まれたのか? 
  12. 松花堂昭乗(1584~1639年)の出自は? 昭乗の文化的土壌を探る。 
  13. 南山焼を大成したとされる浅井周斉(?~1800年)とはいかなる人物なのか。 円福寺との関わりは? 
  14. 宿場町橋本はどのように形成され、発展していったのか? 遊郭はいつごろできたのか?
    慶安2年(1649)の京都所司代からの通達をどう見るか?
  15. 幕末期における社務と社士の抗争は何故起きたのか、どのような展開をみせたのか?
  16. 鳥羽・伏見の戦いはどのように展開され、八幡・橋本はどんな被害を蒙ったのか? 橋本の陣屋はどのような規模で、どのように形成されていったか?

近現代
  1. 明治初年、木津川はどのように付け替えられたのか?
  2. 学校がどのように編成されていったのか?
  3. 八幡における小作争議はいかなるものであったか?
  4. 鉄道や近代産業がどのように根付いて行ったのか? 京阪電車開通に至る経過は?
  5. 八幡宮の境内にエジソン記念碑があるのは何故か? エジソンがフィラメントに使用した竹は八幡のものなのか?
  6. 谷崎や吉井など近代文人と八幡の関わりを探る。
  7. 戦時中の八幡の人々の暮らしはどのようなものであったのか? 八幡出身の兵士の動向を探る。
  8. 高度経済成長期、八幡はどのように変貌したか。

全体として、その他
  1. 三川合流の歴史を探る。
  2. 八幡の地名の謂れを探る。
  3. 八幡の寺院(所在、宗派、本尊、来歴など)を探究する。
  4. 八角堂とその保存について。
  5. 八幡の竹について歴史的に考察する。

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by y-rekitan | 2011-07-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第16号より-end

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by y-rekitan | 2011-07-28 01:00 | Comments(0)