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◆会報第17号より-top

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◆シリーズ:“「一枚の写真から」”②◆
◆シリーズ:“「八幡の祭りについて」”③完◆


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by y-rekitan | 2011-08-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第17号より-01 一枚の写真から②

シリーズ「一枚の写真から」・・・②
「水害のまち」返上

 八幡まちかど博物館「城ノ内」館長 : 高井 輝雄 

市街地を船が往く
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 上の写真の一コマは、一夜にして八幡の住宅街が湖水に化したものである。 今から50年前の昭和36年10月のことである。つい先頃の東北地方の豪雨被害で見た光景が彷彿と浮かんでくる。 
 秋雨前線豪雨によるもので、写真の手前の家並みは旧東高野街道の八幡市駅に近い八幡平谷、同城ノ内付近。中央右の白い大きな建物は、現在コノミヤがある所で当時の「八幡市場」。その右の建物は木造時の「八幡小学校」。上方は、園内から川口にかけてで収穫前の広大な稲田が冠水してしまっている。172戸が床上・床下浸水、約620haが冠水してしまった状況である。 
 この年は、同じ6月末に梅雨前線豪雨、9月に第二室戸台風の来襲にも遭い、甚大な被害を受けた大変な年であった。 
 入職して3年目、何も分らぬまま担当職を放って対策に幾日も当った記憶が甦ってくる。大きな和船を漕ぐことができたので、食料と水を陸の孤島となっている地域に運んだ。船等が入らぬ所へは、泥水の中、胸まで浸かって届けることもした。水が引けば、また大変。町中を伝染病予防の防疫対策、救援物資の調達にと、二十歳そこそこだったが昼夜を分かたぬ作業にクタクタだった。

代名詞は「水害のまち」

 近隣やマスコミから八幡は「水害のまち」という、有難くない代名詞を付けられていた。
近年、記録に残る水害(風害も伴う)だけでも数えられないくらい、災害を被ってきた。
 上の一コマの写真だけが凄かったのではなく、36年10月以外、特に昭和28年、34年、36年6月の各水害(風害)は、八幡の災害史上特筆されるものであると思う。 
 なぜ、これほどまで内水の被害に悩まされてきたのか。主な原因は幾つかの要因が重なりあっていたと言える。 市内に降った雨は平常時、旧1号線の大阪府境にある橋本樋門から淀川へと放流している。木津川・宇治川・桂川の三川が合流して一本の淀川となる辺りである。
 大雨や上流のダムの大量放水があり淀川の水位が高くなると、樋門から市内へ逆流するので樋門を閉めることになる―この樋門、以前は観音開きで十分に閉じないことがあった。―そうすると、雨水は出口をふさがれ市内一円に溜る一方になる。 
 溜った水を吐かすのに、旧市街地の中央を流れる大谷川の流末・八幡森に木津川へ排除(水)するための排水機場があるが、能力が不足していたり、動力が電気で停電が付きものの災害、全く機能しなくなったりすることが重なるからであった。また、ポンプ場へ流れ込む川(大谷川)も狭小で、十分に水を引き込まない。このパターンが再々「内水の被害」を起こしてきたのである。

長い人と水との闘い

 家屋への被害は八幡の地形にも原因がある。上下流の勾配が2kmで1mしか落差がなく、流れが極めて悪く内水が澱みがちなのである。 八幡における内水被害を克服する根本的な対策は、排水ポンプを増強し橋本樋門を完全改修して、大谷川の流れをスムーズにする改修を進めることであった。
 歴史は古く大正時代に始めて「排水機場」が今の地近くに設けられ、昭和以降、農家で組織する土地改良区が農作物被害対策として、運転経費を出し合い独自に排水対策を講じてきた。
 しかし、局地豪雨があると、とても耐えられず排水は追いつかず、低地は浸水する。そのうち、雨は何も農地だけのものでない、住宅地からも、上流の町からも流れ集まってくる。一般対策として排水機能を高めるべきとの声が大きくなってきた。
 町の最重要課題として、内水災害を防ぐ根本的な方策が急がれた。当局の粘り強い要請により、昭和41年に国費によるポンプが2基設置された(橋本樋門も広げられ電動式の完全なものに)。昭和30年後半頃から市内で住宅開発が始まり、この能力では十分ではなくなってきた。そこに、前稿で記した公団住宅開発の大規模計画が持ち上がってくると、排水対策は猶のこと喫緊の課題となってきた。
 (昭和38年あたりから40年頃にかけては、公団住宅誘致で町が二分し、議会が紛糾し続けていた頃である)。
 町政の紛糾、加えてオイルショックなど経済変動等により内水対策強化は遅れ、その後も被害を出したが、昭和63年に3台、平成4年に1台の排水ポンプが設置。今では合計8台で1秒間に63トン排水できる強力なものになった。平成12年には上流の上津屋にも自然排水ゲートが設けられ、下流への影響を防ぐ措置がとられた。
 長い人と水との闘いによって「代名詞」の汚名は返上され、今日に至っている。

台風13号の悪夢 (余話)

 「余話」で済まされる出来事ではない。昭和28年9月の台風で、水害を伴う木津川の氾濫危機一髪という話である。風の被害はさほどでなかったが、水であった。「『水』は『火』より手ごわかった。それほど昔の八幡は水害に苦しめられてきた。木津川が溢れ て、高い堤防の上を水が越えたことがある。川口の人達が堤防上を男山へ避難する途中に溢水を見つけ速報してくれ、消防団員総出動して、事なきをえた(後略)」
 当時の元消防団長の話である。八幡駅近くや低地、山麓の人も、男山や高い場所に逃げたそうだ。
小生、中学生の時の体験である。産まれて初めて自然の驚異に、それは恐ろしく感じた覚えがある。流れ橋の近くに住まいしていたので、木津川が溢れ、近くの堤防が決壊寸前という状態であった。逃げるにも直ぐに高い安全な場所はない。その堤防に避難するのである。「前と後ろからも切れたらどうなるのか」、怖かった。
 消防団や住民総出で木津川の内側の堤防の崩れに筵を何枚もあてる。外の住宅地側の吹き出し場所を土のうで防ぐ。決死の活動により、決壊は免れた。小生、息をこらし見るしかなかったように今もって思う。地域の道路はブヨブヨになり消防自動車が入ってきても、填って動きがとれないし、各家の床下から水が吹き上げる状況にまでなっていた。
 この台風で府内各地も甚大な被害があり、多くの犠牲者がでた町があった。幸い八幡では犠牲者がなかったものの、家屋5戸が全壊、床上浸水268戸、600haの田畑冠水の大被害であった。あの時、堤防が決壊していればと思うとゾッとする。今は上流にダムが出来、洪水調節をするので心配はないと思う。
 この堤防危機の折の夜、祖母が米を大きな風呂敷に入れて堤防へ避難。朝に水が引き皆が自宅へ戻る道すがら、ずっとこぼれた米が続いていた。いざというとき、家族の為を思ってのことだったのだろう。水害の話が出るとこの祖母の話になる。

《お断り》
 「水禍の町」の歴史を克明に記すにはとても紙が足りない。それほど八幡にとって水との闘いは、長く長く、苦労と負担の大きい問題であった。当然、小生の知り得ない事も一杯あり、書ききれていない。この間の市民、議会、上流の町との葛藤、当局、議会、市民が死力を尽くした具体の対策、取組み、そして、全て知らせたかった災害の詳細などである。
 本稿により少しでも、水と闘った八幡の先人等のご苦労が伝われば幸甚です。
        (元八幡市職員、前松花堂美術館館長)

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by y-rekitan | 2011-08-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第17号より-03 八幡の祭り③

シリーズ「八幡の祭りについて」・・・③
―太鼓祭り2回目―

是枝 昌一 (会員)

 昨年ご紹介した高良神社の太鼓祭り。今年も京都祇園祭巡行の翌日、7月18日に実施されました。台風の影響で突然の激しい雨の中、境内は地道のため、神輿担ぎも大変な環境でしたが、屋形太古と呼ばれる七基の神輿が「ヨッサー、ヨッサー」の掛け声勇ましく、150人の町衆による宮入りが行われました。

f0300125_21395339.jpg京都の祇園祭りとは異なる、郷土町衆の意気込みと雨も楽しむ風情を実感しました。行政面でも、商工観光課も企画に参画、市長も元気あるご挨拶があり、官民の溶けあう歴史ある民俗行事として継続されることを願います。
 余談ですが、大阪天満ではギャル神輿が町おこしに成功したとのニュースもあり、時代にあった新しい企画も加え、八幡駅前の活性化につながれば嬉しいです。

祇園祭りの八幡山の山鉾について

f0300125_2154283.jpg 太鼓祭りの前日は、恒例の京都の祇園祭りの巡行が行われた。
f0300125_21471222.jpg美しい山鉾には海外の方々も多数見学参加され、国際的な行事となっている。宵宮88万人(14日~16日)、17日は6年ぶりの日曜巡行となり、20万人の方々が参加された。
今年は特に石清水八幡宮の山鉾を宵宮にて鑑賞。鳩のお守りを授かった。八幡山のご神体は運慶作応神天皇御乗馬像で、鳥居の上の二羽の鳩は左甚五郎の作と伝えられている。雌雄一対の鳩は夫婦和合の印として、今日まで厚く信仰されてきた。
 また、江戸時代の後祭巡行と還幸祭を描いた屏風「紙本金地著色祇園祭礼図」のデジタル複製がこの度出来上がり展示されていた。江戸時代初期の絵師海北友雪が描いたとされる。10基の山鉾と3基の神輿が描かれており、素晴らしい文化財といえる。今後、原本は京都国立博物館にて大事に保管される予定です。

ずいき祭りの予定
 今年の上奈良のずいき神輿の祭りが10月9日(日)午前10時より上奈良御薗神社境内で開催されます。穀類、野菜類の豊作祈願と豊作感謝のため、野菜類で飾った神輿を御薗神社に奉献し区内および境内をねり歩きます。ご都合が良ければご見学ください。(四季彩館から徒歩10分)

この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2011-08-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第17号より-end

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by y-rekitan | 2011-08-28 01:00 | Comments(0)