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◆会報第18号より-top

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◆《講演会》墓地で探る八幡の歴史(1)◆ 
◆《講演会》墓地で探る八幡の歴史(2)◆
◆「俄神人ニ成候」-石清水祭参加記◆


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by y-rekitan | 2011-09-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第18号より-01 八幡の墓地1

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《講 演 会》
墓地で探る八幡の歴史(1)

近世後期八幡神領の病・死・墓
― 社士史料と墓地 ―
2011年9月 松花堂美術館本館にて
京都府立大学  東 昇


 はじめに       

 京都府立大学は、ここ数年、地域貢献型の事業として府下の文化遺産をとりあげ情報化する取り組みを進めてきた。その一環として、昨年度3月に、文化遺産叢書の第4集「八幡地域の古文書・石造物・景観」を発行した。

 八幡を取り上げるのは第3集に続いてのものであるが、八幡の歴史を探究する会から増刷してほしいという要望が出され、それに応える形で100冊増刷した。この種のものは、図書館や研究機関などには配布できるのだが、市民の方々に頒布することがなかなかできず、今回、探究する会に印刷費の一部負担をしてもらい実現できた。こういう形で市民の皆さん方に広く読んで頂けるということは喜ばしいことである。(写真)

 ただし、今日の私の話は、文化遺産叢書の第1集「南山城・宇治地域を中心とする歴史遺産・文化的景観」に収録されているものである。

 1、息子の疱瘡

 社士の日記だが、プライベートな内容に関わるので名前等は伏せて紹介する。
 その日記には、天保3年(1832)に誕生した徳太郎の疱瘡発病までのことが書かれている。

 「午中刻男子出安産、母子共剛強可喜候、予去文政甲申春三月女子出産不幸ニ而夭、今年迄九年今日男子誕生可喜」とあるので、娘が夭折して9年ぶりに授かった子供で、その上男子であり、また母子ともに健康であることを喜んでいることがわかる。

 約1ヶ月後の4月26日には宮参り、翌日にかけて発節句のため粽を作っている。また、4月29日には京に出向いて端午の節供の具足錺物を購入し、5月5日から3日連続で親類縁者を招いて豪勢に発節句を祝っている。

 翌天保4年3月25日には誕生日の祝いをしており、同年9月には橋本の久修恩院へ箕加持の祈祷に連れて行っている。箕加持とは、多分、箕が穀物の殻などを選別することから、疱瘡の生死を選り分けるもの、また疱瘡神の依り代と見ているのではないか。徳太郎の場合も、この時期に流行していた可能性の高い疱瘡を予防するため、箕加持を行ったと思われる。だが、その疱瘡(痘瘡)にかかってしまう。

 罹患して以来のことは以下の史料1の通り。(…以下は講師東氏によるコメント。一部、編集担当の注釈も入る)
 

 《天保4年》
 11月4日 
徳太郎発熱ニ而臥居、神原靫負頼候而腹薬候事
 11月7日 
徳太郎痘瘡見点候事(・・・疱瘡の徴候である粒々が発見され、疱瘡であることが判明)
 11月8日 
清七見廻ニ来、徳太郎ニ一角服薬為致候事、目方壱匁ニ付代銀弐拾匁余也
(・・・一角というかなり高価な薬を飲まさせた)。一角というのは鯨の仲間でその牙は解毒剤に利用された。
 11月9日 
片岡へ惣代之衆集会候得共倅痘瘡故不参
 
 11月11日 
徳太郎痘瘡ニ而両眼共腫閉候事      
 
 11月17日 
痘瘡神送り致 (・・・疱瘡神とは一種の厄病神のことで、それを送りだすことで疱瘡を治すと信じられていた)。
 
 11月18日 
眼少々開候事(・・・眼が少々開く。これで、疱瘡=天然痘が山場を越えたことがわかる疱瘡はウイルスから感染するもので世界中に流行した。致死率が高かったが、日本では幕末に種痘が入り、恐ろしい病気と言われなくなった。今日、人類が絶滅させた唯一の感染病と言われる)。
 
 11月晦日 
暁徳太郎驚風ニ而気絶、色々介抱相加漸巳中刻正気ニ帰候事、然共泣声少茂不出
(…驚風とは癲癇の発作のことで、色々介抱した結果巳中刻(午前10時ごろ)にようやく正気になった。けれども少しも泣かない)。
 
 12月1日 
徳太郎大病故安居頭屋へ不行、昼後少々泣声発候事
(…安居というのは社士が勤める神事。本来なら勤めなければならない公務だが、徳太郎の病気が心配で行かなかった。11月9日の記事もそれに類したものである。
 12月6日 
徳太郎追々快気候事、昼後頭屋へ道具受取手伝ニ行
(…ようやく病気が快方に向かい、昼過ぎに安居神事のための道具を取りに行った)。
 12月21日 
京師へ歳暮ニ使遣ス、予伏見竹田医者へ徳太郎虫薬調ニ行
(…京師とは京都のこと)

 《天保5年》
 2月17日 
徳太郎召連片鉾村医師へ赴
(…片鉾は枚方にあった村のことか)。
 3月14日 
徳太郎召連京師へ行始久野玄好へ赴候得共他出故夜大和屋ニ止宿
(…久野玄好は『平安人物史』にも登場する小児科の医師)。
 4月2日 
徳太郎痘瘡湯懸ヶニ赤飯賦ル
(…湯懸ヶとはお酒を混ぜた湯を疱瘡の患者に浴びせる祝いの行事。赤飯はもちろん祝いのためのものであるが、同時に疱瘡には赤いものを与えると効くと言われているの でそのことを兼ねたものと思われる)。
次に、疱瘡対策として何をしたのかを見てゆきたい。

 徳太郎の場合、薬、医者、疱瘡神送り、箕加持を行っている。疱瘡神送りというのは、当時、疱瘡の神が人についたために疱瘡を発病すると考えられており、この神を送る神事のこと。弘化2年(1845)4月、同じ社士の息子の三次郎の疱瘡の際、「痘瘡神ヲ九反田四辻ヘ送ル」とある。隣の久御山町では近代でも、同種の神事が行われていた。
 また、近世のものと思われる疱瘡御守が旧社士家に現存し、「石清水八幡宮疱瘡御守」と彫られた版木も残っている。八幡宮において疱瘡御守を発行し、配札していたということであろう。

2、娘の死

 次に話すのは、徳太郎の妹田鶴の死についてである。田鶴は天保4年(1833)に生まれ、兄と同様に節句や誕生日の祝いがなされ、7歳で手習いに通わせ、大坂の四天王寺や住吉大社へのお参り、伏見の花火見物などにも連れて行っていることがわかる。だが、弘化2年(1845)に病気に罹った。病名がわからず、医者に診てもらったが、翌年4月3日から食を受け付けず、13日尿が出ない状態になった。以後は、次に記す史料2の通り。

 《弘化3年》
 4月18日 
巳上刻(午前9時頃)病気不愈卒去当年十四歳、悲嘆愁傷甚絶言語、天保四年巳十一月十八日丑刻出誕、橋本・谷村・片岡・松田・鵜殿等へ為知ニ遣、昼後尊兄・主税入来、主税帰去左馬宿、出入之男女止宿( ・・・出入りの男女とは中間や女中のことか)。
 4月19日 
雨降、出入中来、主税・左馬終日来万事世話致呉、平井豊之介来、酉之刻(午後6時頃)女郎花丘へ葬埋畢、溝口駿河・斎藤右京手伝ニ来呉ル、戌刻(午後8時頃)相済是迄微雨亥ノ刻(午後10時頃)ヨリ大雨、豊之介は駕ニ而帰去主税宿ス
 4月20日 
室内中墓参、武介・清七・留・そ代・みき来諸事片付物致ス、晩主税・お庵帰去
 4月21日 
墓参
 4月23日 
初七日待夜ニ逸山長老出入中男振廻
 4月29日 
今日予髪月代致し門口忌札安居札ノ張紙等取除、亮雅房尋訪
 端午  
穢中に而慎居三次郎・武助鵜殿へ尋訪ニ遣わす
 5月8日 
三七日待夜逸山長老出入中招請、曽心庵墓所へ手桶壱箇寄付
 5月9日 
橋本三軒へ忌明ニ参入他へ者不赴
 5月17日 
放生川浚宿院石橋・上地穢故不参(…忌明けは済ませたものの、放生川の浚え等は穢れがあるからとのことで参加していない)。
 閏5月6日 
玉容善女尽七々日法事相営、猷禅・逸山・叔主座・喜内・主税・左馬入来
(…四九日が済み、「玉容善女」という戒名をもらう)。
 6月28日 
玉容善女百ヶ日逸山和上招請

 《弘化4年》
 3月4日 
貞心大師墓参山田へ赴、玉容善女石牌彫刻申付ル、表七寸幅五寸高壱尺五寸台石壱尺弐寸四方、表田鶴女墓裏弘化丙午四月十八日卒ト自筆ニ而渡ス
(…墓は一周忌に間に合わせるように造らせるのだが、表には「田鶴女墓」と裏には「弘化」以下の文章を自筆にて書き、その通り彫らせる)。
 4月11日 
玉容善女石碑女郎花墓江内四人来橋本石屋ヨリ建之  
 4月18日 
麗光玉容善女一周忌、逸山和尚・喜内・左馬招請

3、八幡の墓地

 八幡の墓地は、橋本の焼野墓地、番賀墓地、中ノ山墓地(女郎花墓)などの外、田中家・善法寺家など社務の家の墓がある。その中で、古いものでは中ノ山墓地が関西で最も規模が大きいのではないか。

4、社士の墓

 社士の墓の特徴としては、百姓の墓がかまぼこ型のものが多いのに対し、角柱型のものが多く、戒名ではなく人名や生前の官職が刻まれていることが多い。そしてその人物の来歴を記した墓誌を記したものが多い。ちなみに番賀墓地には、「男山考古録」を書いた長濱尚次の墓があり、墓誌として彼の事績がかなり詳しく書かれている。

おわりに

 墓誌が多く記されている墓はそれ自体貴重な資料になる。同時に、それが信仰の対象であることをふまえて、管理者やお寺、各家の理解、同意が必要であることはいうまでもない。今後は、現地調査を続け、墓地・墓碑についての情報をデータ化し、文献史料とリンクさせ、近世の地域情報データーベースの構築をめざしたい。


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by y-rekitan | 2011-09-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第18号より-02 八幡の墓地2

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《講 演 会》
墓地で探る八幡の歴史(2)

中ノ山墓地の景観と庶民信仰

― 2011年9月 松花堂美術館本館にて ―
京都府立大学  竹中友里代


はじめに

 中ノ山墓地は、史料上は「上﨟墓(じょうろうはか)」や「万称寺山」の名称で出てくる。東高野街道からと幣原(しではら)道の二つの入り口には、それぞれ六体地蔵がある。墓地の中心には龕前堂(がんぜんどう)があり、石仏として十三仏・二十五菩薩・三十三観音が整然と並んでいる。

 概観すればそんな墓地であるが、昔はここに万称寺があった。また、個々の墓を見てゆくと、男山山上坊の主たちの墓が見られる。石清水の山上は聖域なので墓が造れなかったので、中ノ山にて埋葬されたと思われる。また、近代になって正平塚(四条隆資供養塔)、吾妻与五郎の墓も設置された。

1、万称寺

 墓地の東高野街道側からの入り口近くに三宅安兵衛の石碑があるが、そこには「万称寺跡 右正平塚半丁 左中ノ山1丁」と刻まれている。万称寺は今では住宅開発のために所在はわからなくなっているが、中ノ山墓地と寶青庵(ほうしょうあん)の間にあったと思われる(図1)。また、本来の中ノ山は墓地から南100mの所にある丘陵であった(図3)。そして、「八幡山上山下惣絵図」を見ると本堂や鐘撞堂を持ったお寺であったことがわかる。
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 山号は浄業山(じょうぎょうざん)、開創は1654年、即童和尚である。即童は正法寺の17世住職でもあった。つまり、万称寺は正法寺の末寺の一つであった。正徳3年(1713)大坂の二人の商人による多額の寄進によって梵鐘が鋳造され、そこには夥しい寄進者の法名が刻銘されていた。この寺が多くの人に支えられていたことがわかる。また、境内地は南北100m、奥行き50mの広さがあることもわかってきた。

 宗教活動として「常(じょう)念仏(ねんぶつ)回向(えこう)」が延宝6年(1678)から安永8年(1779)までに5回にわたってなされている。「常念仏回向」とは、日時を定め間断なく念仏を唱え極楽往生を祈る仏事で、近郷近在から多くの信者が集まった。枚方にある津田村庄屋日記にも万称寺の回向の記事があり、それを読むと、芝居興行など娯楽を兼ねたイベントも行われていたようである。

 貞享4年(1687)の宗旨改証文には、正法寺末寺の住僧が記されているが、他の末寺が1名か2名で八幡か近在の出身者が多いのに対し、万称寺は9名も居住し大坂・京・奈良・河内など他郷出身者で占められている。

 特筆されることは、この万称寺が百姓・町人の集会の場になったことである。

 文化4年(1807)に、洪水による凶作がもとで、橋本町をはじめ八幡領内の百姓による打ちこわしが引き起こされたが、11月12日頃より百姓が年貢不納の相談に集会したのが、ここ万称寺である。

 文政12年(1829)、八幡宮の祠官家より橋本・志水の百姓・町人に用金の申しつけがなされた。神領の百姓・町人は万称寺に集結し、祠官家の役人が出張して百姓らの動きを見張るなどして捕縛されたものも出た。その中で、社士の一部が仲裁に動き、正法寺の旦那である尾張徳川家の家老志水・竹腰両家を頼み、解決を試みる作戦を行使。尾張徳川家の威光を巧みに利用した解決策である。

 弘化5年(1848)には、大雨・堤切れ・土砂崩れなどで修復に間に合わず、年貢納入日に万称寺で集会が行われている。そこで、10人の団体が社務や年貢納入先へ手分けして訴える作戦が行使された。時間をおいてまた訴える。そんな動きが神領各所に広がっていった。百姓町人の巧みな交渉術と統一した行動力によって、これまで百姓側に立っていた正法寺・社士らにとっても脅威に感じる存在に成長していた。

 そんな万称寺であるが、安政2年(1855)に無住となり、明治5年(1872)には廃寺となった。明治18年による陸軍の測量によれば寺跡は藪地になっている。

2、龕前堂と石仏群

 龕前堂を中心に、北(B区)に十三仏、南(C区)に二十五菩薩、そこから一段下がった北斜面(A区)に三十三観音の石仏が整然と並んでいる。 

 龕前堂は、文政5年(1822)百姓町人の願いにより、八幡志水の田町や勘ケ由垣内・神原町谷畑の百姓町人らが世話人となって建設されたものである。なお石仏はそれぞれに戒名や先祖代々と刻まれ、それ自体供養塔として建立された。

 B区の石仏十三仏は、死後初七日から七日毎の中陰(四十九日)迄と三十三回忌までの法要を司る仏を表現し、文政5年春に完成した。

 C区の二十五菩薩(C区)は、阿弥陀に従い、様々な楽器を奏で、勇躍しながら来迎する菩薩群である。文政6年(1823)春に完成。

 A区の三十三観音は、西国三十三所の各札所に祀る観音菩薩をかたどったと推定される石仏群である。天保3年(1832)に完成。

 これら石仏群の所有者は、明治の墓地台帳や墓石名から判断するとその身分のほとんどが百姓町人であり、これらの石仏群の墓地の広さは一定している(B・C区は4坪、A区は3坪)。

なお、龕前堂を中心にこのような石仏群の配置を考えた者は宝寿庵5世法誉義道良秀。良秀を筆頭に正法寺の末寺中が中心になって浄土の世界を教え導いたものと考えられる。

3、石清水の阿弥陀信仰

 阿弥陀如来は、神仏習合時代、八幡神の本地仏とされた。それほど八幡は阿弥陀仏ないし阿弥陀信仰と深い関係にある。そのことを歴史的にみてみたい。

 浄土思想は、源信が『往生要集』を撰述したことで画期をむかえた。末法の世の中にあっていかに極楽往生できるかということを分かりやすく説いたことでその教えが広まった。それは浄土美術にも現れ、彫刻では阿弥陀様、絵画では来迎図などが描かれるようになった。正法寺に、「浄土三部経」という経本があるが、極楽往生の根本的なテキストといえるものである。

 平安時代になって、阿弥陀信仰といえば、宇治の平等院鳳凰堂の阿弥陀如来が思い浮かぶが、これと石清水との関連が見られる。

 石清水八幡宮寺が創建されてから検校(今の宮司)は紀氏が世襲してきたが、紀氏以外の人が検校になっている。宇佐からやってきた栗林氏で、元命・清成という親子だが、彼らは藤原道長・頼通を背景に検校になったと言われている。そんな関係から平等院の影響が石清水に表れているのではないか。例えば、念仏寺にある釈迦如来像。これは元々阿弥陀如来であったものが近世になって釈迦如来に変えられたと言われている。しかも、(平等院鳳凰堂と同じ)定朝様式が地方に伝播した阿弥陀像である。

 鎌倉時代では、善法寺(ぜんぽうじ)祐清(ゆうせい)をとりあげたい。八角堂は今でこそ西車塚の上にあるが、男山山上にあったもので、それは慶長12年(1607)に豊臣秀頼が再建したとされる。以後、元禄期(1688~1703)に修繕が施され、今ある建物は元禄期のものとされる。別名阿弥陀堂といわれる八角堂であるが、建保年間(1213~1218)に善法寺祐清によって創建されたものである。八幡宮の史料によれば、「本尊丈六阿弥陀、金色也、長日供養法、供僧三口、新田有之」とある。現在、修復されて正法寺に安置されているが、巨大な金色の像が山上にあった様を想像してみたい。「山越阿弥陀」といえるものではないか。

 祐清の血縁に在る人に源智なる僧がいる。法然の有力な弟子で、元滋賀県玉桂寺の阿弥陀如来像を造立した。その胎内納入文書に、法然没後1周忌に際し結縁者5万人が記され、源頼朝や後鳥羽院の名があるが、その中に祐清の一族6名もあったのである。

 法然以降は、阿弥陀信仰が観想念仏から称名念仏へと転換する時代である。

 美濃山の宝寿院の阿弥陀様は現在山城郷土資料館が保管・展示しているが、その胎内墨書銘から、文暦2年(1235)、願主僧行範、仏師泉州別当定慶(慶派仏師)によって「奉造立阿弥陀如来像、右為志者一切衆生成仏也・・・」されたものであることがわかった。阿弥陀が来迎して往生者を極楽浄土へ導くという構図である。

f0300125_19182152.jpg さて、中ノ山墓地山上にある龕前堂は阿弥陀如来座像が鎮座するお堂である。阿弥陀様は西を背にした西方極楽浄土の教主である。左右に石仏群を従えたその様は、来迎の場面を立体的に墓地空間に再現したものといえる。信仰を通じて地域自治の力を得た庶民によって整然とした墓域整備が可能となった。石清水における阿弥陀信仰の昇華した姿といえるのではないか。


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by y-rekitan | 2011-09-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第18号より-03 石清水祭

「俄神人ニ成候」-石清水祭参加記

土井 三郎  (会員)

 9月15日午前0時40分。暗闇の中、白装束をバッグに詰め、近所の方が運転する車で石清水八幡宮に向かう。途中、会のメンバーでもあるOさんやMさんも乗り込む。
 体育研修センターにて神事の衣装に着替える。日頃着つけないものなので時間が少しかかったが、帯を締めると神人(じにん)になった気になる。 本殿前に集合。童子・童女を含め大勢の人々が集まってくる。五百人程の数になるとのこと。
 待つこと1時間余り。ようやく宮司以下の参進がはじまる。f0300125_223359100.jpg
 御前(みさき)神人を先頭に、火長陣衆(かちょうじんしゅう)、火燈(かとう)陣衆等が続き、御弓(おゆみ)・御幡(みはた)・御鉾(みほこ)を携えた神人が厳かに歩み始める。私たち1対の真榊(まさかき)を担ぐ(奉舁)神人は計10名。五色絹をつけた大榊は結構重い。
 ことに、三ノ鳥居を過ぎて石段をそろりそろり降りて行くところは、提灯の灯りだけが頼りなのでよほど注意しないといけない。二ノ鳥居を過ぎたあたりから平坦な道となり、ほっとする。
 篝火に照らされた参道を歩む内に後の方から典雅な雅樂が聞こえてきた。やがて、行列が絹屋殿に到着。真榊を参道脇に降ろし汗を拭う。そして、未明にも拘わらず参集した見物客とともに、里神楽を眺めた。
 頓宮神幸の儀に則して真榊を頓宮本殿の脇に降ろして一日目の供奉(ぐぶ)を終えた。時刻は午前五時。そろそろ夜明けである。
 労いの品を受け、家に帰りシャワーを浴びる。冷えたビールが旨い。そのまま寝入ってしまった。午前八時から始まる放生行事を観に行こうと思っていたが、気がつけば午前九時過ぎ。
 写真はJさんに撮ってもらった。今年は、延暦寺の僧侶が放生行事に参列したとのことである。
 石清水祭に参列するよう勧められたのは数日前であった。百聞は一見に如かずということで、「俄(にわか)神人」を引き受けたのである。
 歴史のある石清水祭。明治以前では「放生会(ほうじょうえ)」と言われた。その名の通り仏教的な色彩の濃い祭礼である。f0300125_22365993.jpg
 『広辞苑』(第四版)には、「石清水八幡宮放生会」を720年(養老4)の創始としている。だが、これは変だ。石清水八幡宮寺が男山に勧請されたのは859年(貞観元)だから、それをさかのぼること140年も前ということになる。尤も、720年という年は、宇佐八幡宮において初めて放生会が行われたとされるので、根拠がないわけではない。
 ところで、宇佐八幡宮における放生会の来歴には諸説ある。宇佐八幡神が隼人征伐に赴き殺生をしたことを悔い、それで放生会を執り行ったというものである(『宮寺縁事抄』)。
 また、この時期(和同~養老年間)、「国家的体制の思想的基礎が固められ」、都に興福寺や法興寺・薬師寺等を遷すなど「政治が仏教の助けを借りようとした」との指摘がなされる(中野幡能著『宇佐宮』)。宇佐八幡の神宮寺としての弥勒禅院が建立したのもこの時期である。

     和銅元年(708) 武蔵国が和銅を献ずる。和同開珎を鋳造。
                伊勢神宮に平城宮造営を告ぐ 
         2年(709) 蝦夷征討。隼人来貢 
         3年(710) 平城遷都
         5年(712) 『古事記』を撰進 
         6年(713) 『風土記』の編纂を諸国に命ず
     養老 4年(720) 『日本書紀』を撰進

 八幡宮が神仏習合の神社であったという歴史的経緯は国家の施策と関わって興味深い。 さて、15日は夕刻より還幸の儀が執り行われる。私たちは白装束姿で頓宮に集合。夕闇の中、御鳳輦(ごほうれん)発御に供奉する。
 今度は登りである。ようやくにして登り切り、本殿前に真榊を納めた時はさすがに安堵したものである。汗びっしょりになったが一仕事成し遂げた爽快感があったこと云うまでもない。

          祭礼の篝火映える参道に 
                 進む鳳輦月も清かに   幸春

by y-rekitan | 2011-09-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第18号より-end

この号の記事は終りです。

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by y-rekitan | 2011-09-28 01:00 | Comments(0)