<   2011年 12月 ( 4 )   > この月の画像一覧

◆会報第21号より-top

f0300125_1224528.jpg
この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆《講演会》高度経済成長期の八幡を語る◆
◆シリーズ:“八幡神と神仏習合”①◆


<< ひとつ新しい号へ   < TOPに戻る >   ひとつ古い号へ >>

ご意見は各記事下端のcomments欄をクリックしてお寄せください。

by y-rekitan | 2011-12-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第21号より-01 高度成長期の八幡

f0300125_273775.jpg
《講 演 会》
高度経済成長期の八幡を語る
― 2011年12月  生涯学習センターにて ―

会員  高井 輝雄


 12月7日(水)午後6時半より、会場を生涯学習センターに、連続学習会(2)を開催しました。今回は、時代を昭和30~40年代の高度経済成長期とし、八幡の町が市に変わる変革期を市の職員として奮闘なさった高井さんに登場して頂き当時の八幡のめまぐるしく変化する様を生々しく語っていただきました。その概略を報告します。

1、「再建団体」直前の町財政から脱却

 前回発表された会員アンケートの結果を見ていますと、「高度経済成長期の八幡」の項目に関心を示しておられる方もいらっしゃいまして、こんな問題に興味をお持ちの方々に今日お話できる事を光栄に思います。   
 私は昭和33年に市役所に就職し、38年間お世話になりました。いろいろ体験したことや学んだことを、自分だけの思い出にせず、地域で学んだことは地域に返すという探究する会のモットー通り、まさに地域にお返しす  積りでお話したいと思います。                                               
 
 昭和31年の「八幡町政だより」の創刊号のコピーを市の広報課の許しを得て持参しましたが、ここに「滞納2000万円」という見出しがあります。当時はまだ町の段階でしたが、町税の予算額4300万円に対し、その約半分に当る2000万円が滞納税額という異常な状態でした。昭和29年以降、町財政はどん底の状況だったのです。
八幡町は、昭和29年(1954)10月1日に、旧の八幡町に綴喜郡の都々城村と有智郷村が合併して出来ましたがその時期、滞納額が多いのには理由があります。もともとの八幡町自体裕福でなかったこともあります。貧困所帯が多かったのも事実ですが、これまでの腐敗による町政不信に起因していたことを挙げなければなりません。滞納による収入不足は借入金を生み、この返済がかさみ、極度の町財政の窮乏を招く結果となっていたのです
 そんな中、それまで町政を担ってきた町長がお辞めになり昭和31年に選挙が行われます。そこに登場したのが当時31歳の町長です。
保守から革新に変わったわけですが、新しい町長は何よりも財政再建を緊急の課題として取組みました。
具体的な手立ての一つが町税を確実に納めてもらうために、全国初めて町民税・固定資産税等をまとめて年10回の分割納入方式に変えるものでした。また、税金を集める際に、綴喜郡に属す他の町と「滞納整理組合」をつくり、他の町の職員に互いに入りこみ協力して税を徴収するというシステムの導入もしました。
それらのことで徴収率が徐々にあがりましたが、そこに至るまでは苦難の時期が続きました。職員の給与は遅配。業者からは八幡町に物資を納めても代金が払ってもらえないから物を納めるのはやめよう等といった声も聞かれたものです。
そんな中、ともかくも昭和33年には赤字が解消し、「再建団体」直前の町財政から脱却できたのです。

2、代名詞となった「水害の町」を返上
f0300125_22373694.jpg
 会報17号にも載せましたが、昭和36年(1961)の水害は大変な惨状でした(写真)。東高野街道沿いの街並がほぼ水につかり、郊外の田畑も大半冠水という状態です。馬場のグラウンドは当時男山中学校がありましたが、その前の道路は上の写真の通り水につかったために通勤もままならず、町は和船を出しました。
上津屋出身の私は舟の扱いに慣れておりました関係で、和船の船頭役を命じられました。皆さん方を舟で送り迎えをしたり、陸の孤島となった集落に食糧を運んだりしたものです。
 水害は、昭和28年、34年、40年、47年にも続きます。これらの水害の主要な原因は何かといえば、内水がたまるという地形上の問題と、木津川へ水を排出できる施設や大川から逆流する水を防ぐ樋門の整備が不十分だったということに尽きます。
地形の問題でいえば、八幡は非常に勾配の少ない土地柄です。しかも、大谷川などの内水は上流の隣町、京田辺からも流れてくるというわけで、なかなかに解決しずらい問題をかかえていました。
 旧の橋本樋門は、八幡市内の内水を大川(淀川)へ流すためのものでした。ところが、大雨が続くと三川合流の水が逆に八幡に入り込む。だから樋門を閉めないといけないのですが、上流からの大型のごみ等が挟まり樋門が閉まらないという不具合が生じ、いっそう水害を増幅させてしまったのです。
f0300125_22294175.jpgご存知の通り、いま八幡森に排水機場ができ、排水施設が整う様になりました(写真)。例えば、昭和40年段階では毎秒6トンの水しか排出出来なかったのですが、昭和61年では毎秒56トンの水を排出できるようになり、橋本樋門も近代的なものに造り変えられました。その結果、大きな内水害がなくなったのです。
 もちろん道のりは平たんではありません。川の水は農業用水としての側面もあり、農家の方々の利害も絡みます。また、男山団地開発も関連した大型公共事業なのですから、特に国からの支援も必要としていました。そんな問題を一つ一つクリアして今日の姿になったのです。

3、難産の末に産まれた「男山団地」

(1)虫食い開発と硅砂の採掘

 八幡は大阪と京都の中間にあり、橋本の栗ヶ谷において開発の走りという現象が起きました。今プリン山とあだ名されている狩尾(とがのお)神社も、この開発によって周囲があのような形になったのです。
 当時はまだ、宅地開発に対する法的な規制や条例といったものがない上に、この開発を進めた業者が悪質でした。例えば勾配の強い所に狭い道を造るなどの問題点が浮き彫りになっている事実を見ても明らかでしょう。他にも、虫食い開発というべき乱開発が進められ、水道や下水路、ガスの整備など計画的な開発が進められなかったのです。

(2)立ち上った地主と市民、団地を誘致

 そんな折、今、北センターがある所(男山笹谷)を中心に男山一帯をかけて、ガラスの原料である硅石(けいせき)や硅砂(けいさ)が採れるということで、大阪のある業者が試掘権を持ち、当時の通産省に本格的な採掘の申請をしました(写真)。それを知った地権者や町は、今の(丘状になった)地形からもわかる通り山砂利公害が起こる事も目に見えているということで反対の声があがりました。地権者だけでなく市民の暮らしにも被害をもたらすということは明白で、町をあげての反対運動となったのです。
f0300125_22244263.jpg 地権者の集会では「我々の土地を守ろう」「鉱区設定を断固阻止しよう」「一万六千人の福祉か一業者の利益か」といった垂れ幕が下がりました。
当時、住民運動などという言葉も耳慣れない時代でしたので画期的な動きだったといえます。
 そんな中、通産省は、この鉱区設定の申請に対し、町なり公的な機関がそれを上回る公益の事業を打ち出さないと、この申請を却下することはできないとの見解でもありました。
その時、対岸の大山崎で住宅公団の進出計画がありながら駄目になったという経過があり、それならばその団地計画を男山へ誘致しようということになったのです。それというのも無秩序な乱開発が進められていた折でありますから、国の資金の入った公団住宅の誘致であれば計画的な町づくができるということもあり一石二鳥だったのです。 町の審議会でも正式に男山団地計画が決定され具体的な取り組みが始まり、業者による鉱区申請は、その結果保留になり立ち消えになりました。

(3)紛糾続いた町政、幾つものハードル

 団地計画は、しかしなかなか前進しませんでした。それというのも、町の人口は2万6000人ぐらいに増えていましたが、そこに3万2000人が住める町を新たにつくるということですから大変な事業になるのです。
 当時、すでに千里ニュータウンが建設され近畿ではそれに次ぐ大規模のものでした。財政負担が膨大なものになることも見えていましたし、既に関東では大規模住宅の計画はお断りだという空気もあったのです。
 財政問題に関連して課題は山積していました。400人に及ぶ地主からの了解を取ること、離農対策、治水対策電気・上下水道・ガス、道路・学校など公共施設の設置などなどです。
昭和47年(1972)からいよいよ入居が始まりますが、その間、町長選挙が3回実施されその都度団地造成のことが争点になりました。
当時の議会は革新市長に対し与党議員は全くの少数でほとんど保守の議員で占められていましたから議会対策は大変で、町長が辛酸を舐める場面をたびたび見ました。もちろん、町長の方針に反対する議員も将来の町の行方を思い、財政問題を論じたわけですが、意図的に議会に混乱が持ちこまれ、紛糾する場面もあったのです。
 前に進まない理由として財政問題の他に排水問題がありました。八幡の内水害をいかに解消するのかということですが、これには土地改良区の同意が必要なのですが、許可をめぐって議会との間でやりとりがスムーズに進まないことがあったのです。
 しかし、議会でも町長提案に賛意を表す議員さんも増える一方、400人に及ぶ地主の方々も約9割の方々が町長に同意の委任状を提出するなど事態の打開が進み始めました。
 そんな中、財政問題の見通しが最大の焦点化となっていました。その際、実情を明確に市民に示し解決の方向も示すということで、町の広報紙がその役割を果たしていましたが、そんな広報活動に、住民による2紙の反対広報まで出されました。情報操作するために意図的に配布されるということが起こったのです。私自身は広報の責任者をしておりましたから、真実の報道を早くせよと町長から随分発破を掛けられたこともありました。

(4)財源問題に立替制度と「五省協定」の光明

 その財政問題ですが、立替制度と「五省協定」によってなんとかクリアすることができたのです。
立替制度というのは、開発業者に公共施設に対しても一定の財政負担をしてもらうというもので、五省協定とは、そもそも住宅建設は国の施策でもあるのですから、国が財政援助をするというものです。この場合の5省とは自治・文部・建設・通産・運輸の5つです。
幼稚園や小・中学校などの建設に際しては長期の起債をするのですが、10年間の無利子措置の制度を引出し、地方交付税の改善を国に迫り、これが認められもしました。制度が不備なものも随分ありましたので、町長・総務課長といっしょに東京に赴き、自治省など国の機関に働きかけをしたり陳情をしたりするなど、それは激しい必死の取組みでありました(写真)。

(5)一挙入居に「水際作戦」

 いよいよ入居が始まったのですが、私たちは「水際作戦」なるものを立てました。何しろ大量の入居なのですから、それらの人々が狭い町役場(現八幡市図書館脇の駐車場の場所)へ手続きに来られたら大変な事態になるのは間違いありません。そこで、入居の手続き時現地に私たち職員が出向き、入居案内や町政の相談・案内、転入の事前手続きなどをして、温かくスムーズに歓迎するように心しました。
 さて、当時入居される方々の勤め先といえばその65パーセントが大阪方面でした。そんな関係で
樟葉駅を利用する方が多く、バス路線は樟葉に向かうルートが圧倒的に多い計画なので、町長は、八幡駅を起点としたルートを大幅に増やすよう強力な働きかけをしました。若干の改善はありましたが、地形的な問題もありなかなかそうはならなかったということです。
 さて、当時の人口構成ですが、25歳から35歳までの働き盛りの年齢が多くを占め、60歳以上が男女とも6~8%でしかなかったのです。男山団地は、まさに若い世代で溢れかえっていたのです。ところが、今では60歳以上が29~32%を占めるまでになって、これは八幡だけの問題ではありませんが高齢化社会の町になっているのです。
 さて、市全体の人口は昭和50年に5万人の大台を越え、市制に移行するための要件を越え、昭和52年(1977)に八幡町から八幡市になりました。
f0300125_22231815.jpg
 市制に変換した記念に桜公園に竹を象(かたど)ったモニュメントを設置し、傍にタイムカプセルを埋めました。今そのことを知っている人はどれだけいるか知りませんが、皆さんにお知らせしておきます。
 その桜公園は、八幡の旧の住民と新の住民が交流できるようにとの願いであの場所につくったということもご承知おきください。そういう意味では松花堂美術館や庭園も新しいコミュニティづくりの拠点をめざす位置付けとしたのです。いずれにせよ、花見のシーズンに桜公園でみなさんが楽しみ、松花堂へ集い寛ぐ姿を見て、そんな願いが少しでも果たされているのかなと思うのです。

4、人口急増で急がれた都市施設の整備

f0300125_22171330.jpg 八幡市駅前の混雑した状態の写真を19号に載せましたが、男山団地の造成に伴いこんな混雑した駅で乗客がさばき切れるのかと問題提起のつもりもあって撮ったものです。
 右の駅前の仮のバスロータリーの写真を見ればわかる通り、線路近くにはまだ住居が残っています。まちの顔としての八幡の駅前の整備は緊急の課題でした。ところが用地買収の問題でなかなか解決しないという状況でした。
駅前開発を手掛けると最低でも10年はかかるといわれますが、八幡の場合14年かかりました。
f0300125_22153836.jpg長引いた理由は、むろん用地買収で折り合いがつかないということですが、利権問題も正直あったことは事実です。それでも紆余曲折があり最終的には事業主体を八幡市から京都府に移管し昭和58年に今の駅前広場になったのです。
 本当は、今のエジソン通りからケーブルの駅前までの一帯を整備する構想もありました。駅舎を2階にし、住民の代替スペースや商業施設、ビジネスホテルあるいは住居スペースも入れたものを考えていたのですが、なかなか実現には至らなかったということです。

5、八幡の未来の姿(都市像)とその課題

 今、市では第4次総合計画を立てて人口8万人の都市計画を定めております。人と環境との調和、全市域平準化のニーズに応えるなど様々な課題がありますが、八幡の魅力と個性を生かしたまちづくり、都市計画が住民本位で進むことを願ってやみません。

 参加者は21名。以下に「一口感想」を掲載します。

 「八幡市の新参者にとって、今回の八幡の歴史の話は、大変参考になりました。ありがとうございます。」   (T)

 「男山団地や楠葉ローズタウンが華やかに開発されていく姿を見ていただけに、公団団地が、大きな苦労の末に産まれた経過を聞き、驚きました。当時小さな町だったのに、人口が倍増するほどの大開発で、町の職員の方々も少人数でたいへんだったでしょう。入居者への歓迎の取り組みが熱意をこめて行われたことはいい話でした。」   (TA)

 「近代の八幡の来し方をお聞きして、歴史の重みを再認識いたしました。史実は重く、住民は良く理解し、将来に役立てなければと思いました。 高井さんは地元、市関係の方で、いろいろご苦労話もあり面白くお聞きしました。」  (Y)

 「ご苦労さまでした。学者の話は知識は広がる。地元の歴史家のお話は奥深い、味のある、歴史を生んだいとなみを感じ、知(だけ)ではなく、心血を見ることができます。」   (M)

「若い頃のことからの話をよく覚えておられるのに感心しました。楽しく聞くことが出来ました。 ありがとうございます。」    (N)

 「若い市長のリーダーシップとともに、それを支えた市の職員のご努力に頭が下がります。我々の暮らしは過去があり未来がある。過去から何を学び、それを未来にどう生かしていくか。そんな当たり前のことを今日、じっくり考えさせられました。」   (S)


<<< レポート一覧へ        次の《講演会》レポートは⇒⇒

by y-rekitan | 2011-12-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第21号より-02 神仏習合①

シリーズ「八幡神と神仏習合」・・・①
八幡神のルーツを探る

土井 三郎(会員)


 11月18日、国の文化審議会は石清水八幡宮を史跡指定にするよう文部科学相に答申しました。 文化審議会は、「古代以来の神社境内の趣きを今に伝えるとともに、神仏習合の宮寺として坊舎跡などの遺構も良好に残り、我が国の宗教史を理解する上で重要である」との評価を与えたとのことです(『広報やわた』12月号8面)。
 八幡市民として実に喜ばしいことであり、同時に、神仏習合の象徴的建造物としての八角堂等の修繕や保存がこれを期に抜本的に進むことを願わずにはいられません。
 ところで、石清水八幡宮はその創始から仏教的色彩が強く、明治時代の廃仏毀釈までは石清水八幡宮寺とよばれていました。日本では他に類例を見ないくらいに神仏習合が進んだ神社であったとのことです。
 一体「神仏習合」とは何か。いつ、どのような形でそれが形成されていったのか。そこで、八幡神と神仏習合について書かれた文献にあたってみました。その中で、一番要領よくこの疑問に応えてくれる論文に出合いました。
 中野幡能編の『八幡信仰』(昭和58年雄山閣刊)所収の「八幡神の習合的成長」(村山修一著)と題するものです。中野幡能氏の論考をふまえ、平易にして論旨明快な論文でした。但し、それを紙上に再掲するには分量が多すぎます。幸いなことに、同氏の主張をコンパクトにまとめた文章を旧版の朝日百科『日本の歴史』54号(特集「大仏建立と八幡神」昭和62年刊)から見つけました。題して「八幡神と神仏習合」。
 そこで、これから何回かにわたってこの小論を簡単に紹介しながら八幡神と神仏習合の問題を考えてみたいと思います。
「宇佐八幡宮は奈良朝の国家仏教が全盛であった頃、平城京に進出して初めて歴史の脚光をあびた(※1)が、その発祥は遥かに古い。そもそも周防灘に面する古代豊前(ぶぜん)の海岸地方には海氏(あまし)や宇佐氏などの豪族が割拠し、三角池(みすみいけ)の霊をまつった海氏の大貞(おおさだ)神の社や馬城(まき)峯の巨石をまつる宇佐氏の祖神の社があった。これらは共に農業信仰の基盤に立っていたことから、次第に統合され、豊前国南半を支配する宇佐神の信仰を形成していた。宇佐八幡宮の主要行事として古代、中世を通じ盛んであった行幸会(ぎょうこうえ)は三角池の薦(こも)をもって枕を調達し、六年ごとに宇佐宮へ納める儀式であって、そこに海氏・宇佐氏らのまつる農業神信仰の統合が象徴的に示されている。
 一方、四、五世紀に朝鮮から豊前国北半に、新羅系女性シャーマン(巫祝、ふしゅく)を中心とする祭祀集団、辛島(からしま)氏が進出した。香春(かわら)岳の銅山採掘を行い、政治経済的に支配圏を樹立した辛島氏は、次第に宇佐神信仰圏へ勢力を拡大していった。香春岳の採銅所には香春神をまつる社がつくられたが、この神は辛国息長大目命(からくにおきながおおめのみこと)といい、新羅の神で亀卜(きぼく)鍛治のシャーマンを神格化したものといわれている。やがて辛島氏による銅山シャーマンの信仰と宇佐神信仰の統合が進み、ここに八幡神信仰の初期形態がととのったと思われる。豊前の土俗的信仰と新羅や百済の仏教的陰陽道的色彩をおびた土俗信仰が習合したため、日本固有の神祇とは性格を異にした、仏教臭の強い独特の宗教が形成された。」
 神社の発生を考える際、三つのキーポイントをおさえると分りやすいといわれます。一つは、神がどこに発生したか。二つ目に祭祀(神主)集団は誰か。三つ目は、どんな神かということです。
 日本における自然崇拝を基調とした原始宗教を考えた場合、神の発生する場所は岩や山、池沼、海あるいは太陽などが考えられます。賀茂社や松尾社の場合ご神体は岩山(巖)であり、伊勢神宮は海や太陽である例を引き合いに出せば誰もが納得することでしょう。 原始八幡神の場合も同様です。豊前国南半(大分県側)の三角池(みすみいけ)であったり、同北半(福岡県側)の香春(かわら)岳であったりということです。三角池はむろん灌漑の池であって、故にそこに発生するのは農業神です。そして、灌漑用の池を造り農業生産をリードした海氏や宇佐氏といった豪族の存在が見えてきます。古代の神は、このような地方豪族が祭祀集団になることで成立した神社が少なくありません。但し、原始八幡神を考えた場合、宇佐氏は、その祖神が記紀神話に登場する程には活躍していません。豊前国宇佐郡を治める宇佐氏はやがて同国上毛(かみつみけ)・下毛(しもつみけ)郡に盤踞する海(あま)氏に圧倒されてしまうからです。やがて、海氏が支配する豊前国南半は「ヤマ国」(ヤマはアマの転訛)とよばれるようになるとのことです。
 一方、豊前北半を支配する辛島氏とはどんな豪族なのでしょうか。「辛」は「韓」「加羅」であることでおわかりのように韓国、しかも新羅系の渡来人のようです。韓の銅採掘技術をもたらし、そのことで政治経済的にこの地を支配するようになるのです。同時にこの祭祀集団は、霊界と交感することで知られるシャーマン(巫祝)の信仰を携えてきたのでした。八幡神は託宣の神として知られますが、その兆しが見られるという事です。
また、豊前国南半を「山国」とよぶのに対し、北半は「豊国」と呼ばれるようになります。そして、豊国を支配する辛島氏は、やがて海氏の支配する山国を統合してしまうのです。豊国と山国の政治的統一が実現すればその中心になる神は「山豊神」となります。
 筆者の村山氏は、『八幡信仰』所収の論文で、八幡神の語源の問題に言及し、「山豊国はけだし邪馬台国かもしれず、山豊神=ヤマトヨ神は「ヤマタイ」、「ヤバタイ」「ヤバタ」と転訛した八幡神であろうと考えることによってここに八幡神の原形が想定される」と論を展開します。これは中野幡能の見解でもありますが、何と大胆な、しかもあり得る所論でありましょうか。
 尤も、「八幡」の語源が確定しているわけではありません。同じ中野幡能編『八幡信仰』には西郷信綱著「八幡神の発生」が収録され、西郷は、『日本書紀』推古紀31年条にある「新羅と任那が来朝し「仏像一具及び金塔、併て舎利、また大きなる潅頂幡(かんじょうばた)一具、小幡十二条を貢る」をとりあげ、その中の「潅頂幡」を八幡の語源としています。それは布製の仏具で、『和名抄』が「仏法ノ幡ヲ菩薩幡ト名ヅク」としているものと同義であるとし、まさに八幡神が仏教的な神である所以を語るものです。ついでにいえば、西郷は宇佐神の「比売神」(比咩(ひめ)神※2)を問題にする中で、それが母子信仰に根ざしたもので所謂ヒメ・ヒコ制であるとし、「(姉)妹が祭祀を、兄(弟)が政治をつかさどる原始的複式酋長制をヒメ・ヒコ制と呼ぶ」と述べています。いうまでもなく邪馬台国の卑弥呼と男弟との関係がこれにあたり、その意味でも八幡神と邪馬台国の親近性が考えられるというものです。
 さて、原始八幡神の祭神について触れたいと思います。
 辛島氏が創始した香春(かわら)神=「辛国息長大目命」は「息長帯比売(おきながたらしひめ)」(神功皇后、じんぐうこうごう)を思わせる名で、神功皇后神話が投影されているのかもしれません。ただし、香春神は『風土記』に「新羅神」とありますので、この時期、神功皇后を祭神としていたわけではありません。いずれにせよ、原始八幡神には、応神天皇が未だ登場していないのです。
「その後6世紀の後半には、任那日本府滅亡の国際情勢から、朝廷は北九州の政治的宗教的強化をはかる必要に迫られた。そこで、大和国三輪のシャーマン大神比義(おおみわなみよし)を宇佐の神官として古代の最有力君主とみられた応神天皇の神霊をもちこみ、辛島氏を抑えて八幡神を皇室関係のものへと転換させた。」
f0300125_1720175.jpg
 6世紀以降の朝鮮半島は、新羅が台頭する中で高句麗・百済との三国鼎立のバランスがくずれ、それが日本にも影響を及ぼすという緊張に満ちたものでした。538年に、百済斉明王が仏像と経論を日本に送ってきた(仏教公伝)のも、百済が日本との軍事同盟を築こうとしたものとして理解されます。
 百済からの要請を受けて日本の朝廷はたびたび援軍を送ります。しかし、段々に圧倒され、新羅によって任那は滅亡(562年)。やがて百済も新羅・唐の連合軍に滅ぼされてしまう(660年)のです。
 そんな国際関係の緊張の中、「蘇我氏は、帰化人と仏教文化によって保守派の物部(もののべ)氏を打倒し、半島と密接な関係にある豊前地方の八幡神を傘下に収めようとして神功・応神信仰を持つ大神比義を宇佐に送ったのであろう」。これは、「八幡神の習合的成長」で村山が述べていることです。これに対して西郷は「八幡神の擁立は古代国家の、つまり支配階級全体の要求にかかわることがらであって、ひとり蘇我氏などの策謀によるものではあるまい」(前掲論文)としています。いずれにせよ、大神氏が中央から宇佐に差遣わされたことは、「(宇佐地方の)土豪のいつく神を国家レベルの神にきりかえ再編成しようととられた」(同)施策であることは明らかなようです。
 そして、応神天皇とその祭祀集団(大神氏)の登場は、八幡神が単に北九州の土着の神でないことの証左でもあります。
次回は、八幡神の中央進出、ことに大仏建立と道鏡事件に八幡神がどう関わったのかについて考えてみたいと思います。  

※1、「(宇佐八幡宮が)平城京に進出」
 聖武天皇による大仏造立の願いを叶えるために、八幡神は「われ天神地祇を率い、必ず(大仏造立を)成し奉らん」との託宣を出した。八幡神はその後京に向かい、平城京の南、梨原宮に着座するのである。それが現東大寺の鎮守である手向山八幡宮の前身に他ならない。
大仏造立が成った際、朝廷は、八幡神に一位、比咩(ひめ)神には二位を奉り、八幡神に計1400戸の封戸を充てた。これは、伊勢神宮をしのぎ全国社中第一といわれる。

※2、「比咩神」
 「比咩神」は多義的な神である。宇佐氏の祖神である「菟狭津媛(うさつひめ)」を含め、神武天皇の御母である「玉依姫(たまよりひめ)」説、「三女神」(宗像)説、応神天皇伯母説等いくつもある。だが、昭和15年の柳田国男『妹の力』の「玉依姫考」により、比咩神とは、「八幡と称する王子神の御母、即ち天神(あまつかみ)の御妻と信じて祀り始めたものと思っている」といい、または「巫女の開祖である」といっている。この論文が出てから比咩神に対する新しい見解は殆どなくなったといってもよい。要するに、八幡神に奉仕して託宣に当たる女神そのものであったと解してよい。以上は、中野幡能の見解である。(『八幡信仰』はなわ新書) 

<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2011-12-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第21号より-end

この号の記事は終りです。

<<< TOPに戻る      ひとつ古い次の号へ >>>

by y-rekitan | 2011-12-28 01:01 | Comments(0)