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◆会報第22号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“八幡文学碑巡り”①◆
◆陣屋と鳥羽伏見の戦い◆
◆シリーズ:“八幡神と神仏習合”②◆


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by y-rekitan | 2012-01-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第22号より-02 八幡文学碑①

シリーズ「八幡文学碑巡り」・・・①
吉井勇歌碑(松花堂庭園)

やわた市民文化事業団常任理事  垣内 忠 


はじめに

 八幡市内には、市によって建立された文学碑が5基在ります。自治体が文学碑を建立することは、珍しいことではないかと思います。 
 昭和58年11月3日の文化センター開館に際し各界から市に計1,000万円余の祝金が寄せられました。   
市では、この祝金を文化振興に役立てるため、文化振興基金を創設しました。当時は預金利率が 良く、利息が年60万円余り付きました。
 文化行政を担当していた者として、せっかくの篤志を有効に活用するため、元金には手を付けず、利息の活用で実施可能な事業を模索しました。その中で、本市には古来、ゆかりの文学作品が多くあるのを知り、これを顕彰する「やわた文学碑建立事業」の実施を提案しました。当時の市長は、文学好きで、自らも短歌を詠まれていた故西村正男氏で、快く認めていただきました。
 昭和60年10月、松花堂庭園に吉井勇歌碑を建立以降、与謝蕪村句碑(さくら公園)、谷崎潤一郎「蘆刈」碑(男山展望台)、能蓮法師歌碑(さざなみ公園)、其角・荷兮(かけい)句碑(背割堤)が順次建立されました。

吉井勇歌碑(松花堂庭園)

        昭乗といへる隠者の住みし盧(いほ)
        近くにあるをうれしみて寝る

f0300125_236563.jpg 最初に取り上げるのは、「ゴンドラの唄」の作詞で知られ、男山地域の地名ともなっている吉井勇の短歌です。
 勇は、昭和20年10月から23年8月まで、月夜田の宝青庵に孝子夫人と共に寓居しました。終戦によって出版業界も息を吹き返し、勇の創作意欲は大いに高まり多数の著作を発表しました。中でも、歌集「残夢」は八幡の風景や人々の暮らしを詠んだ特筆すべきものです。歌碑の短歌は、この「残夢」に収められています。
 勇は、明治維新の功労により伯爵になった吉井幸助の孫として、明治19年10月8日に生まれました。42歳の時、父幸蔵の死により家督を相続し伯爵となっています。しかし、吉井家は幸蔵の事業破綻により没落の一途を辿り、勇は全国各地を転々とする「放浪の歌人」とも言われる状態でした。
 妻と離婚し、爵位を返上して世捨て人同然となり、四国の山奥に隠棲していた勇を甦らせたのは、再婚相手の孝子でした。孝子は、若い頃「浅草小町」と言われた美しく闊達な女性で、勇を支え続けました。
 歌碑の建立には、著作権者の承諾が必要なため、銀閣寺前の吉井邸に孝子夫人を訪ねました。夫人は快く歌碑建立を承諾のうえ、生前のままに保たれていた勇の書斎に案内し、八幡での思い出話しを聞かせてくださいました。
 宝青庵の所有者で、当時松花堂庭園に居住されていた西村大成氏夫人の静子さん(故人)の話では、大成氏は、勇に「元伯爵様といっても特別扱いはしません。」と言われたそうです。そのことが勇にとってはかえって嬉しかったようです。
 「お風呂が焚けると拍子木を鳴らして報せた。」と静子夫人が語ったように、宝青庵と松花堂庭園は200メートル弱しか離れていません。八幡在住の間、勇は頻繁に西村家を訪れて大成氏と酒を酌み交わしたそうです。勇は、歌碑の短歌が表すように、松花堂を見て昭乗の生き様を偲び、深く追慕したと思われます。
 歌碑は、奈良県の吉野石を使用し、文字は勇の書から拾い出して構成しました。ちなみに、末尾の「寝る」は、祇園の「かにかくに碑」から写しました。碑の除幕は、勇の誕生日に孝子夫人の手で行っていただき、完成記念に書斎にある遺品をお借りして「吉井勇展」を現松花堂美術館別館で開催しました。
 なお、明くる昭和61年に、勇ファンで組織された「吉井勇翁生誕百年記念会」により、宝青庵に次の歌碑が建立されています。

      ここに住みしかたみにせよと地蔵佛
      われに呉れたり洛南の友

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by y-rekitan | 2012-01-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第22号より-04 鳥羽伏見の戦い

陣屋と鳥羽伏見の戦い

田坂 喜彦 (会員)


 橋本公民館は昨年11月26日、歴史講座を開き、歴史愛好家の梶谷茂さんが「鳥羽伏見の戦い 最後の戦闘 橋本陣屋と樟葉台場」と題して講演された。
 鳥羽伏見の戦い4日目の慶応4年(1868)1月6日、鳥羽、伏見から敗走してきた幕府軍(会津藩・桑名藩)は、橋本陣屋を中心に戦線を立て直して新政府軍(薩摩藩等)を食い止めようと頑強に戦うが、淀川対岸の津藩(藤堂家)の裏切りもあって最後の防御線が破られ、大阪へ落ち延びていくことがよく知られている。
 この橋本関門(橋本陣屋・楠葉台場)での戦いの様子が、枚方市文化財研究調査会が2007年から翌年にかけて行った楠葉台場跡の発掘調査と史料調査でいっそう明らかになった。この調査は、1993年に京都府立総合資料館で資料主任の松田万智子さんが偶然発見した「楠葉台場の設計図(河州交野郡楠葉村関門絵図)」どおりに施工されていたかを確認するために行われたもので、堀の跡が今も畦道になって残っているのがわかり人々を驚かせた。台場跡は今年2月に国の史跡に指定された。
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 梶谷さんの講演は、これら最新の研究成果と独自の調査を元に行われ、橋本陣屋と楠葉台場の建設の経過や橋本での戦いの様子などを資料に基づいて話された。
 橋本陣屋は幕末の1860年に、淀川の警護のために7000坪もの土地を召し上げて設置された。1865年には楠葉台場も完成する。表向きは淀川をさかのぼり京都に侵入する外国船を阻むことが目的であったが、薩長などの尊攘派志士の京都侵入を取り締まる意図もあったので、京街道を台場内に引き込み、番所も設けた。当初の橋本陣屋詰めが楠葉台場を警護する体制は崩れるが、両所は相互に深い関連性をもっていた。
 橋本での戦闘について梶谷茂さんは、橋本の社士・山田直躬の日記や各藩士の当時の記録などの資料を紹介しながらリアルに紹介された。4時間にわたる大砲・小銃の撃ち合い、対岸の高浜船番所からの砲撃、橋本の家屋80軒の焼失などで幕府軍は総崩れになり、楠葉台場も素通りして大阪に敗走、午後4時前には長州勢が橋本陣屋を占拠した。前夜に幕府軍が軍議を行った橋本の山田家も、新政府軍の寄宿舎にされた。梶谷さんは、この戦いを決定したのは新政府軍の「錦の御旗」で、「西郷隆盛は幕府軍も官賊の汚名により士気をそぐことは間違いないと確信した」と述べられている。
 梶谷茂さんの資料を駆使した、迫力に満ちた講演の内容に、橋本も歴史の転換点の舞台になっていたことを実感させられた。八幡市は、2012年に橋本陣屋の発掘調査を行う予定をしている。

 《参考文献》
 八幡市誌第3巻、楠葉台場跡<調査報告書>(枚方市文化財研究
 調査会刊)、鳥羽伏見の戦い(中公新書)
by y-rekitan | 2012-01-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第22号より-05 神仏習合②

シリーズ「八幡神と神仏習合」・・・②
大仏建立と道鏡事件

土井 三郎 (会員)


 前回、古代の宇佐地方に発生した八幡神は、朝鮮や中国との緊張関係の中で仏教的・道教的な宗教として成長しやがて応神天皇を祭神とするまでに至ったことを紹介しました。今回は、8世紀における八幡神の中央進出を大仏建立と道鏡事件を中心に述べてみたいと思います。
 前回と同様、村山修一著「八幡神と神仏習合」(『朝日百科、日本の歴史』54、昭62刊)の記述を引用します。
 「八幡神の特殊性は神に仕える神職が僧形をとり、巫尼巫僧(ふにふそう)が禰宜(ねぎ)をつとめることにも表れている。用明天皇2年(587)、天皇の看病に参内した豊国(とよくに)法師や雄略天皇の看病に招かれた豊国奇巫(きふ)はそうした神職団の人々と思われ、医療にもたずさわったシャーマンであった。道教の方術や陰陽道の卜占(ぼくせん)と結びついた密教は、宿曜(すくよう)道として人の運勢吉凶を判じ、加持祈祷の呪術や湯薬を用いて治療を行うものであったが、この宿曜道的神職が仕える八幡神の託宣は、いわば吉兆卜占の表示に他ならず、個人の行動や治療の指針となるばかりでなく、大仏造営・皇位継承など国家の大事についてもその成否を予告するものであった。大宝3年(703)医術を賞せられ、豊前国で40町の土地を賜った法蓮は巫僧を代表する人物であった。
 さて八幡神は天平3年(731)正月に初めて官幣に預り官社として朝廷の直接支配をうけるようになる。また神宮寺である法鏡寺・虚空蔵寺は合体して弥勒寺へと発展する。」

 ここに紹介される「豊国法師」は豊国地方の法師(僧侶)のことです。「豊国」は、690年頃に豊前・豊後に分かれる以前の国名で、法師=僧侶といっても、この段階では国家によって認定されない民間の私度僧を指します。用明天皇の看病に参内する云々は「日本書紀」によるもので、用明天皇が仏教受容を群臣に諮問した際、物部守屋と中臣勝海が反対し蘇我馬子が賛成するのです。その時、馬子の意を受けていたと思われる「皇弟皇子」が「豊国法師」を内裏に招き入れるのです。蘇我馬子は、旧文化を守ろうとする物部氏等を打倒するために渡来文化(道教・仏教等)を政治的に利用しようとしたとの指摘がありますが、まもなく物部氏は蘇我馬子や厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)によって滅ぼされてしまいます。宇佐に八幡神を祀る鷹居社が創建されるのはその頃です。
 それから約70年後、天智天皇2年(663)、百済救済に向かった日本軍は朝鮮の白村江(はくそんこう)で唐・新羅の連合軍に大敗します。日本は朝鮮攻略どころか自国の防衛に腐心しなければならなくなったのです。防人(さきもり)はその例の一つ。そんな頃に八幡神は小山田社に移され、神宮寺として法鏡寺や虚空蔵寺が創建されます。豊国法師以来の民間巫僧(ふそう)集団が新しい白鳳仏教の組織内に組み入れられたことになります。
 さらに約70年後の天平3年に宇佐八幡神は官幣社となり、神祇官の管轄下に入るのです。そして、法鏡寺と虚空蔵寺は弥勒寺に合体されます。
(※鷹居社、小山田社、現宇佐神宮、法鏡寺廃寺、虚空蔵寺跡の位置関係は『三大八幡宮-その町と歴史-』資料集(10頁、2009年11月発行)に詳しい。)
 興味深いことには、法鏡寺は薬師如来を本尊としていたとのことです。薬師信仰は仏教伝来以来日本では早くに信仰され、除病安楽・息災離苦・荘具円満などの現世利益が強調される信仰でした。これに対して弥勒信仰は、来世にも仏が出現し、釈尊の救済しきれなかった衆生をことごとく救うという信仰です。この信仰は朝鮮を経て6世紀に日本に入ったとのこと。奈良時代前期に人々は弥勒浄土への往生を願ったが後期には阿弥陀浄土への信仰に変わっていったのです。
 「天平15年(743)、聖武天皇は大仏造立の詔を出されたが、莫大な経費と人民の労力を要するため反対の空気も強く、そのため国家の宗廟である伊勢神宮や応神天皇をまつる八幡神に祈願と加護を求めた。いよいよ造営が進むと今度は仏体に塗る金が不足して天皇を憂慮させたが、天平21年(749)2月、陸奥国の国司百済王敬福が、同国小田郡産出の黄金九百両を献じて救った。これと前後して宇佐八幡神の、天地の諸神を率いて必ずこの造営を成就させようとの託宣が告げられた。これに力を得た朝廷は急ぎ八幡神を平城京に請来することになった。
 かくて上京した八幡神は、聖武天皇・光明皇后によって東大寺に迎えられ、神輿(しんよ)について上京した巫尼大神杜女(おおみわのもりめ)は従四位下、主神司大神田麻呂(おおみわたまろ)は従五位下に叙せられ、共に大神朝臣(おおみわあそん)の姓を授けられた。以後八幡神は平城京にまつられて手向山(たむけやま)八幡宮となった。」

 聖武天皇による大仏造立の祈願を果たすべく天平19年に宇佐八幡宮に使いが遣わされました。その時の八幡の託宣は「神我天神地祀乎率伊左比天必成奉无」(かみわれあまつかみくにつかみをいざないてかならずなしたてまつらん)というものです。さらに天平21年になると、大仏鋳造に必要な黄金が不足し、使いを唐に遣わそうと八幡神宮に往還の平安を祈ったところ八幡宮はその必要なしと予言しました。果たせるかな、この年陸奥守(むつのかみ)敬福が金900両を献じてきたのです。天皇は喜び120両を神宮に奉ったとのこと。このように、八幡神は予知・予言の神でもあったのです。これにより聖武天皇の八幡神への崇敬は一層深くなったといわれます。
 引用した文章では聖武天皇ですが、天平勝宝元年(749)7月には孝謙(こうけん)女帝になっていました。その年の12月、八幡神は大和の平群(へぐり)郡に迎えられたのです。地域の守護神としての神祇が鎮護国家の神になったのです。12月25日、大神杜女は孝謙天皇、太上天皇(聖武)・光明皇太后と同行し東大寺大仏を拝しました。そして、八幡大神には一品、比咩神にはニ品が奉られ、杜女に従四位、田麻呂には外従五位下が授けられました。翌年には八幡大神と比咩神に莫大な封戸と位田が充てられました。これを期に八幡神は伊勢神宮に次いで国家第2位の宗廟(そうびょう)として崇敬の対象になったのです。
 だが、宇佐八幡宮の禰宜である大神杜女(もりめ)と主神司田麻呂(たまろ)は数年も経ぬうちに失脚してしまいます。天平勝宝6年(754)、大神田麻呂は薬師寺僧行信と「厭魅(えんみ)」(妖術で人を呪う)をしたということで朝臣(あそん)の姓は奪われ杜女・田麻呂ともに配流されるのです。この二人の失脚には、藤原仲麻呂をめぐる中央政界の暗闘に関係があろうといわれています。
 「その後杜女に代って辛島勝与曽女(かつよそめ)、田麻呂に代って宇佐公(きみ)池守(いけのかみ)が任ぜられ、仲麻呂後急速に進出した道鏡の支持を受けるようになる。宇佐氏は道鏡の野心に迎合して八幡神の一層の繁栄をはかるため、神護景雲3年(769)5月、道鏡即位の神託を上奏した。この信託はとりもなおさず道鏡の将来を占ったもので、宿曜(すくよう)道の運勢判断に近く、道鏡自身この道に堪能であったから、双方の間に諒解があったのであろう。しかし、これに反発する藤原氏をはじめとする貴族たちは、和気清麻呂を神託確認のために使いを立て、託宣の虚偽性を暴露させ、道鏡の野心を抑えた。
 やがて称徳天皇(孝謙重祚)が崩じ、道鏡の追放とともに清麻呂は豊前国司となって神託虚偽に関与した辛島勝与曽女、宇佐公池守を罷免し、さきに失脚した大神田麻呂一派の神官を復活させた。活発な神託活動による宇佐八幡宮の朝廷接近は、政局と結びついた神職団内部の対立抗争を激化させたが、これも八幡神の信仰が早くより仏教と習合し、大陸の先進文化をとりいれ、時代の思想思潮にリーダーシップをとっていたからであった。」
 次回は、8世紀以降における神仏習合の広がりについて紹介したいと思います。

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by y-rekitan | 2012-01-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第22号より-end

この号の記事は終りです。

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by y-rekitan | 2012-01-28 01:00 | Comments(0)