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◆会報第23号より-top

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◆《講演会》古代の八幡を探る◆
◆シリーズ:“八幡文学碑巡り”②◆
◆シリーズ:“八幡神と神仏習合”③◆


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by y-rekitan | 2012-02-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第23号より-01 古代の八幡

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《講 演 会》
古代の八幡を探る
― 2012年2月  八幡市立生涯学習センターにて ―

会員  濱田 英子


 2月15日(水)、午後6時半より、八幡市立生涯学習センターにて2月例会を開きました。
 講師は、西山地区在住の濱田英子さん。京都府の小学校教員として永年勤務し、八幡市内でも教員をしていたとのことです。
 古代史に造詣があり、退職後はご夫妻で日本各所の古代遺跡を巡っているとのこと。そんな目で、八幡の古代史を学び、私たちに提起して下さいました。
 以下、その概要を簡単に要約します。

1、先史時代―八幡のあけぼの
 男山は、日本海、琵琶湖、巨椋(おぐら)池、宇治川、木津川、桂川、河内湾(湖)、瀬戸内海を結ぶ要の地にあり、いわば「水の回廊」といえる地点にある。このことが八幡の歴史を規定した。男山丘陵東南には高句麗系の狛氏、西は百済王氏、北は秦氏の居住地であるなど国際色豊かである。

2、旧石器・縄文時代
 1~2万年前、男山丘陵に人々が動物を追って姿を現した。金右衛門垣内遺跡からナイフ形石器がみつかった。男山周辺は水が得やすく展望がきく。けもの、木の実、魚介類が得やすかった。

3、弥生時代
 弥生時代は稲作と金属器の時代である。八幡市で最も古い弥生遺跡は平地部の内里八丁遺跡である。八丁遺跡から方形周墳墓が発見され、有力な指導者がいたと考えられる。近畿各地で生産されたと思われる土器が発見され、近江・生駒西麓、丹後・丹波などとの交流がうかがえる。弥生後期の稲株の痕跡を持つ水田が2層出土。これは全国的に数例しかない。
 弥生中期には美濃山丘陵で大規模な集落遺跡やその墓域がみつかった。他にも高地性集落が確認される。高地性集落は、「倭国大乱」に対応する逃げ城的集落でもあり、時には烽火(のろし)台も持つ。
 弥生後期の式部谷遺跡からは、現在定岡町の正木美術館が所蔵する銅鐸が出土。銅鐸は、農耕祭に用いられ、一般的に山深い谷沿いの土地に埋められた。銅鐸の発見場所の近くは『男山考古録』による「金振山」の比定地で、地名も銅鐸との関連が予想される。
 同じく弥生後期の幣原(しではら)遺跡(高地性集落)には、烽火(のろし)を上げる通信施設があったとされる。南から西にかけてきわめて眺望が良く、南山城の前線基地の役割をも担っていたと考えられる。

4、古墳時代
 出現期(3世紀半ば~4世紀初頭)の古墳は畿内でも、北の淀川水系、北河内、摂津の要所にある。つまり、そこにはある意味で、大和王権から独立した政治勢力が存在していたと考えられる。その反面、南の大和川水系では、大和盆地東南部に集中しているだけで、他には全く見られない。大和・河内勢力が完全に大和王権の支配下にあったと考えられる(白石太一郎『継体天皇の時代』)。
その後、大王墓は大和・河内に造られ、淀川水系の勢力は後退していく。淀川水系が水運・防衛・交易などの要地であったため、大和・河内勢力に押さえ込まれ、継体大王の出現まで、淀川水系は表舞台には立たなくなる。
 南山城の古墳の動向で見ると、出現期古墳の代表として、椿井大塚山古墳(全長85m)がある。最大の特徴は、36面の中国鏡を持ち、そのうち32面が三角縁神獣鏡である。それと同笵(どうはん)の鏡が全国から発見され、それの配布に重要な役割を果たした椿井大塚山古墳の被葬者は、大和王権の中枢にいた人物であったと思われる。
 しかし、その勢力は長続きせず、盟主権は他地域へと移っていく。つまり、次に、男山丘陵へ、さらに久津川水系へ、そして6世紀初めに突如として宇治川沿いに宇治二子塚古墳が出現する。継体大王出現とともに築造された宇治二子塚を最後に、その後木津川水系の大型の古墳築造は衰退してゆく。

 以下、八幡に存在した古墳について、被葬者を中心に紹介することにする。

茶臼山古墳 (古墳時代前期)前方後方墳
 熊本地方産の舟形石棺があることから、被葬者は、九州方から瀬戸内海勢力と交流があり、淀川の水運を支配していた人物であると考えられる。
西車塚古墳 (古墳時代前期)前方後方墳
 南山城で最高の副葬品、木津川左岸最大の古墳から、椿井大塚山古墳の被葬者から木津川盟主権を引き継いだと思われる。
ヒル塚古墳 (古墳時代前期後半)方墳
 蕨手紋(わらびてもん)(渦巻き飾り付)鉄剣が出土。よく似た形のものは、朝鮮半島南部、古代の加羅国の古墳からみつかっている。
王塚古墳 (古墳時代中期前半)前方後円墳
 副葬品に武具が多いことから武人的要素の強い被葬者と考えられる。

 
 男山丘陵に築造された有力な古墳は二つの系列があり、二重の首長系譜があった考とえられる。前方後方墳系の茶臼山―ヒル塚-(大住東車塚)と前方後円墳系の西車塚-石不動・東車塚-(大塚)の二系列である。前者は九州・瀬戸内さらに朝鮮半島とつながりを持つ勢力、後者はヤマト王権と深い関係を持つ勢力である。

5、隼人
 隼人の地盤である南九州といっても様々な特性・個性をもった地域がある。墓制も一様ではない。但し、以下のような特徴をもつ。
名門の家がある、移住性に富む、畑作が得意、海産物の利用が上手、軍事的にたけている、等。
隼人の移住は6世紀、場合によっては5世紀後半にもさかのぼり、ヤマト王権によって移住させられた場合もあるが、様々な理由で自らの意思で移住してきたものもいると考えられる。天武朝になって、律令国家づくりが進められる中で、移配が進められた。畿内各地に移配されたが、八幡・大住と五条市が隼人の二大移住地となった。
八幡で隼人の存在を確認できるのは地名と地下式横穴墓群である。「内里」の「内」には、「ヤマト朝廷と隼人の移住地の堺で、隼人側の地」という意味があるそうだ。男山丘陵の南側の谷筋に横穴墓群があるが、自分たちのアイデンティティを持ち続けた隼人の人々の誇りを感じる。

6、継体大王と八幡
 継体大王は、近江、越前、美濃、尾張、北河内、摂津の有力な勢力を背景にヤマトに進出した。さらに、ヤマト王権中枢にいて、大きな勢力を持つ和邇(わに)氏の娘を妃とし、継体大王がヤマトに進出するきっかけとなった。その和邇氏の拠点の一つが南山城である。
 継体出現期の南山城の勢力として、宇治二子塚の被葬者と八幡の内里八丁集落の人々が考えられる。
 内里八丁遺跡は、弥生時代後期から近世初頭まで続いた集落遺跡である。弥生時代後期の2層の水田遺跡、古墳時代初頭の方形周溝墓、飛鳥~奈良時代の掘立柱建物跡5棟、竪穴住居1棟、墨書土器などが出土した。近くを山陰道が通っていたことから役所的な性格を持った集落と考えられる。
 継体大王は、樟葉宮・筒木宮・弟国宮と男山の周りを半周するように宮を移した。何故男山周辺なのか。次のことが考えられる。
 水運・陸路など、交通・防備・物流などの要所であった、和邇氏の存在、内里八丁に有能な技術者がいた、男山は情報発信の地(烽火台)である、北河内に官営の牧があり、馬の生産・訓練の場であった、などである。

7、瓦窯と古代遺跡
 樟葉・平野山瓦窯(がよう)は、7世紀前半から半ばごろまでの日本最古、最大規模の瓦窯である。寺の屋根の飾りである鴟尾(しび)片も樟葉側の灰原から出土した。
 八幡市には美濃山廃寺・志水廃寺・西山廃寺という古代寺院が三つも男山丘陵部に集中して建立されている。古代寺院は、信仰の対象というだけでなく、勢力を誇示し、防衛・情報伝達・収集の役割も担っていた。3つの古代寺院は、都に近く、木津川の水運、古代官道に面し、高地に建立された。古山陽道に沿って3寺院がほぼ等間隔に並び、見事な景観をなしていたと考えられる。

8、ヤマト王権(朝廷)と八幡・南山城
 南山城全域の古代伝承として「崇神(すじん)記」(建波仁(たけはに)と吾田姫(あたひめ)の乱)、「神功(じんぐう)・仲哀(ちゅうあい)記」(かご坂・忍熊(おしくま)王の乱)があるが、これらの伝承から南山城地域に強大な勢力が、ヤマト王権の対抗勢力として存在したことを窺わせる。また「仁徳記」にある磐姫の伝承から、難波から淀川を経て八幡を通り木津川から奈良坂を越えて大和に入るルートがあったことがわかる。
f0300125_9495220.jpg 最後に、濱田さんは、「夢・八幡市立歴史考古博物館」の展示構想と各コーナーの展示内容を、夫である博道さんは、八幡と同時代の中国や朝鮮の出来事、南山城や近畿の様子を比較した年表を紹介しました。
 質疑では、「隼人」についてはいつ、どこからやってきたのか等厳密に検討した方がいいのではないか。横穴墓と「隼人」を短絡に結び付けるのはどうかなどの疑問も出されました。参加者44名。

<一口感想より>

 「大変愉しい講演でした。八幡にこんなに深い古代史があることを知り嬉しくなりました。濱田さん有難うございました。」  (F)

 「本日は、ありがとうございました。今までで自分が一番知りたかったことです。これから、もっと先生のお話を詳しく学ばせて頂きたいと思います。ご主人様の年表比較は、とっても嬉しいです。(後略)」 (U)

 「非常に勉強になりました。講師の夢の博物館ができる事を願っています。素晴らしい講演でした。この内容を多くの市民に知ってもらう機会を継続してつくる必要があると思います。」  (N)

 「すごく細かく色々と調べてくださっていて、レジュメの量にも驚いた。また、夫婦で色々見に行ってらっしゃるのもステキだと思った。みんな八幡のことが大好きなんだというのも感じた。」  Y(学生)

 「内容・物量共すばらしい資料を頂き有難うございました。お話も玄人はだしで、ご自分で調べられた事がよく判ります。何よりも八幡への思い入れが随所に出ており感服しました。(後略)」  (M)


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by y-rekitan | 2012-02-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第23号より-02 八幡文学碑②

シリーズ「八幡文学碑巡り」・・・②
与謝蕪村句碑(さくら公園)

やわた市民文化事業団常任理事  垣内 忠 


      やぶ入や鳩をめでつゝ男山

f0300125_2405778.jpg  男山を望める「さくら公園」(男山美桜)のほぼ中央に、しだれ桜の木があります。その根元に、昭和61年1月18日に完成した「やわた文学碑建立事業」第2基目の与謝蕪村句碑が在ります。小さな自然石の句碑なので、気付く人は少ないかも知れません。
 与謝蕪村(1716~1783)は、大阪の毛馬で生まれ、江戸に出て俳諧を学びました。また、江戸を去ってからは画の修行にも励みました。1752年に京都に入って俳諧を続けるとともに、画家としても大成しています。俳諧は、蕪村によって再び芭蕉と同じく高い芸術性をもつようになったといわれています。
 句碑の句は、「夜半叟句集」に所収とされています。その内容は、「やぶ入時期、群れ遊ぶ神鳩を可愛く見つめながら、八幡宮に参拝するため男山に人々が上っていくよ」と解釈しました。「やぶ入」は、「正月と盆の16日前後に、奉公人が暇をもらって一日ほど実家へ帰る習慣」とあります。ただ、実家が奉公先の近くであれば帰ることができますが、遠方の場合は帰れないため、近くの社寺に参詣して休暇を楽しんだそうで、殊に大阪の商家に奉公する人達には、石清水八幡宮に参拝する人が多かったようです。句に詠われたのは奉公人でも、まだ歳若い少年少女かも知れません。実家に帰れないから、八幡さんにお参りに来て、境内の鳩と遊んでいる様子を、蕪村はやさしい同情の眼差しで見つめて詠んだ句なのではと考えます。
 句碑の石は、松花堂庭園に在った男山のイメージに近い石を利用し、文字は蕪村の書から拾い集めました。その過程でお世話になった池田市の逸翁美術館から資料をお借りして、現美術館別館に於いて記念の「蕪村書画展」を開催しました。

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by y-rekitan | 2012-02-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第23号より-03 神仏習合③

シリーズ「八幡神と神仏習合」・・・③
八幡大菩薩の誕生

土井 三郎 (会員) 


 前回、宇佐八幡宮が聖武天皇による大仏造立の祈願に対し、「われ天神地祇(あまつかみくにつかみ)を率いて必ず成し奉らん」との託宣を出すばかりか、大仏塗料に使う黄金が不足し、朝廷が唐に使いを遣わそうとすると「その必要なし」と予言し、陸奥から黄金がもたらされるなどして、大仏造立の事業を援けたことで、朝廷から深く崇敬されたことを紹介しました。また、道鏡が皇位を我がものにしようとした際にも、それを阻止する託宣を出すなどして皇統を守護する神として、いっそう宮廷人にその存在が知られるようになったことも述べました。
  一地方神の存在に留まらず、八幡神が中央にその名を轟かせることになったのです。そんな宇佐八幡の特性を田村圓澄は三つにまとめています。
   ① 仏教に対する親近性が強い。
   ② 在地性・土着性が希薄である。
   ③ 託宣をくだす神である。
        (『仏教伝来と古代日本』講談社学術文庫)
 その第一にあたる仏教への親近性では、八幡神が神の称号ではなくて、解脱して「八幡大菩薩」と名乗るようになったことによく表れています。
 その辺りの経過を例によって朝日百科・日本歴史『大仏建立と八幡神』の村山修一の論考「八幡神と神仏習合」から拾ってみたいと思います。
「奈良朝のはじめ、当時近江守であった藤原武智麻呂は、その伝記にこう記している。夢の中で越前国気比神宮の神託をうけて神宮寺を建てたが、夢のお告げでは、神が煩悩の神の身分を去って早く仏道に入りたいというものであった。同じころ、若狭比古神社に神宮寺が建てられたのも、神が神主和(やまと)朝臣赤麻呂に、神身の苦悩を離れ、解脱して仏法に帰依したいと託宣を発したのに基づくと『日本後紀』に記されている。神は、仏からみると人間と同じく遥かに劣った煩悩に苦しむ衆生とみなされ、読経、法会等を行うことによってその地位を高め、仏に近づくとされたことがわかる。」
仏になりたがる神

神宮寺と云えば、宇佐八幡宮でその成立が最も早く、会報22号で記した虚空蔵寺(こくうぞうじ)や法鏡寺は7世紀後半に創建されます。そして、それら神宮寺の住僧たちが、宇佐八幡と仏教との習合関係の設定について重要な役割を果たすのです。
ところで、左記にもあるように、8世紀から9世紀にかけて諸国の神社に神宮寺が併設されるようになります。それをまず概観してみましょう。

     神宮寺名        創建時期
   気比神宮寺(越前)    715年
   若狭比古神宮寺(若狭) 717-723年
   宇佐弥勒寺(豊前)    725年
   鹿島神宮寺(常陸)    749-756年
   多度神宮寺(伊勢)    763年
   伊勢大神宮寺(伊勢)   766年ごろ
   八幡比売神宮寺(豊前) 767年
   二荒山神宮寺(下野)   784年
   三輪神宮寺(大和)    788年
   高雄神願寺(山城)    782-806年

 それらの神社の神々は、おしなべて仏教帰依の願いを表明し、故に神社の境内や周辺などに仏堂や三重塔、釣鐘堂などが建つようになったものと思われます。
伊勢の多度(たど)大神も次のような託宣を下しました。
「我れは多度の神なり。吾れ久劫(きゅうごう、長い時間)を経て、重き罪業(ざいごう)をなし、神道の報いを受く。いま冀(こいねがわく)ば永く神の身を離れんがために、三宝(仏教)に帰依せんと欲す。」
 この神の告白は一体何を表しているのでしょうか。何故神であることの苦痛を語り、仏教に救済されることを願うのでしょうか。
 義江彰夫は「多度大神の願いは(多度神社の神主クラスの)地方豪族たちの願いであり、・・・多度大神が下した託宣じたい、彼ら豪族たちがしくんだ可能性がきわめて高い」と述べています(『神仏習合』岩波新書)。
以下、同書第1・2章の叙述に依拠しながら、8~9世紀の神仏習合の諸相を紹介します。
多度神以外でも、常陸国鹿島大神では、鹿島郡の郡司の長官が鹿島の宮司を抱き込み、修行僧に働きかけて神宮寺の創建にいたり、若狭国若狭比古大神の場合は、それを祀る豪族和(やまと)赤麿が神の願いを聞き入れて仏道に入り、神宮寺を建立したといいます。
 つまり、仏になろうとする神々の願いは、神々を祭祀する地方豪族の願いに他なりません。いずれにせよ、彼らがこのような動向を示す背景は何でしょうか。
義江は、奈良時代半ばまでの村の祭りのありさまから解きほぐします。それまでの村ごとの神祭りは、村人全員が一丸となって共通に祭る神々の霊力を浴び、その霊力で共同体をくりかえし再生し、村人すべてがそれにとけこむことで、生産と社会活動を維持してゆくものであったとします。そして、村の祭りをとりしきる神主は、通常村長であり、村政をとりしきるとともに、祭り場に国・郡・郷などの下級役人を呼びいれて律令法にある租税法の意義を初穂の延長に捉えて説明させていたというのです。
 ところが、8世紀の後半、奈良時代の半ば頃から村の構造的な変化が起きました。
 律令国家の組織力が発揮され、条里制の整備、用水路の確保、山野の開発などが推進され村内部に余剰が生じ、村長や富農層による私富形成につながったと述べるのです。8世紀半ばからの生産力の向上は史料的にも明らかなことです。
 その中で、共同体的司祭者から私的領主に変貌しつつある当時の地方支配者に価値観の変動が生まれてきたのです。
 それは罪の意識と呼べるものです。
 彼らは、長きにわたって神を祭る者としての立場を最大限利用してきました。だが、その勢いがあまりに急速なため、このギャップにとまどい、私腹を肥やすという自らの行為が神の道に背く罪であり、神と村人の報復を受けて当然であるという自覚が芽生えてきたというのです。
 私的な欲望に目覚めた者のジレンマを救う新たな価値観、それが「三宝に帰依する」ことでした。三宝=仏教こそが彼らの苦悩を癒(いや)し新しい支えを与えてくれる論理であり価値観だったというのです。しかも、当時の大乗系仏教は、贖罪のための苦行と悟りという究極の課題を出家した僧侶の課題に限定し、この僧侶を供養し布施さえすれば贖罪と救済が保障されるというものでした。私的領主化しはじめた地方の豪族にとってなんと都合のよい論理と価値観であったことでしょう。ちなみに「三宝」とは仏像・僧侶・仏法(仏の教え)との解釈もあります。仏像を拝み、僧侶に布施をし、お経を唱えさえすれば罪の意識から解放されるというのです。
 尤も、そのような解釈が成り立つ前提として、8世紀半ばには、仏教の理念やその具体的な様相が彼ら地方豪族にまで認識されるようになったという社会的背景があります。律令体制は、神の存在をアピールする神祇イデオロギーだけでなく、鎮護国家を標榜する国家仏教によって支えられていたという側面を見ないといけないと思うのです。聖徳太子が活躍した飛鳥時代の寺院数がわずか46なのに、律令法が準備された天武・持統天皇の白鳳期にはその10倍の480余の寺が建つのです。(田村圓澄、前掲書)美濃山廃寺もその一つなのかもしれません。いずれにせよ爆発的な寺院数の増加です。
 国家的な仏教文化と思想が社会に広がるなかで、地方豪族の「罪の意識」が芽生え、だが仏教それ自体が彼らの悩みを払拭してくれるという論理構造の中で、仏教が村の鎮守の社にまで浸透してきたという事なのでしょう。

雑密から大乗密教へ

 その際、密教が重要な働きをするようです。罪の意識に悩む地方豪族の動きを積極的に受けとめて、彼らを仏教の世界に誘ったのは、民間を遊行する密教僧侶でした。
 そもそも密教は、呪術的な修法と修業によって、僧みずからが超越的な神通力を身につけ、その力で贖罪を行い、悟りに到達する宗教です。インドで紀元前2-1世紀に大成されたものですが、価値観が異なる世界の諸民族のなかに拡げるために極端なまでの具体的な累積を行い、そのため、悟りの道を示す論理は逆に極度に普遍化され抽象化されたといいます。
 その密教は、日本では基層信仰(神祇)のゆきづまりを仏教化された秘儀で強化、再生させる面に力点が置かれ、大乗仏教が達成した普遍性や抽象性は逆に後退していったとのこと。これが一般に雑密と呼ばれるものです。
 そんな遊行僧の一人として満願禅師がいます。彼は多度神宮寺の基礎を築き、常陸国鹿島神宮寺も建てており、箱根三所権現も彼の建立になるとのことです。満願はまさにこの道のパイオニアとして、全国各地を巡り、ゆきづまった神々を仏教の世界に誘ったとされます。
 但し、地方の神宮寺が地方の豪族層や民衆に支えられるだけで満足することはありませんでした。神宮寺の多くは、9世紀半ばごろまでに、延暦寺や東寺、石清水八幡宮寺、興福寺といった国家的規模の大寺院の別院=末寺となるという動きをとります。多度神宮寺は、当初(839年)、天台延暦寺の別院となることを朝廷から認められますが、翌年解消。849年(嘉祥2)には真言東寺に接触し、東寺別院の地位を得ます、神宮寺みずからが鎮護国家の寺院東寺の別院になって鎮護国家の働きをすると宣言したに等しいことです。 
 一地方の神宮寺が鎮護国家の大寺院に結びつく。それは朝廷自身が大いに望むところでした。何より地方豪族の心を国家の側に繋ぎとめることになるからです。そして、そんな働きを自ら担った僧侶がいます。空海(774~835)その人です。
 空海は、唐に渡り大乗真言密教のすべてを伝授され帰国します。帰国後嵯峨天皇に接近し、大乗真言密教を護国の教えとさせ、神宮寺などの動きを自身の教理と教団(真言宗)のもとに編成することを認めさせようとします。そのことは直ぐに認められることはありませんでしたが、高野山の金剛峯寺を拠点に教団を育成し、やがて嵯峨帝から東寺が与えられ、淳和天皇によって東寺が真言専修の護国寺となるのです。
神宮寺を統轄しようとする真言密教は、王権鎮護の教団となることで、王権の保護を求める諸国神宮寺をさらに強く引き入れる条件を整えるのです。そんな意味で空海が、「雑密の大乗密教化と王権による庇護と王権擁護という課題を実現した、まさに日本宗教史上の巨人というにふさわしい」と義江が評価するのも尤もだと思われます。

8~9世紀における諸国の神仏習合の動きを見てきましたが、ここで、再び宇佐八幡宮に戻り、八幡神が「八幡大菩薩」と呼ばれるようになった事情を先の村山論文から確認し、今回は筆を擱くこととします。
「宇佐八幡宮では託宣が下ったとして、延暦2年(783)、神を「護国霊験威力神通大自在王菩薩」と称することになった。これは神が人間の迷いの世界に化身して現れ、衆生(すじょう)を救済すべくこの号を名のると告げたことによるもので、人間を救う程に八幡神は解脱して菩薩に上昇したことを示したのである。おそらくこの神託を考えたのは宇佐の神宮寺の社僧である。神号に使われた「神通」や「自在」の文字は、法華経の文句からとったもので、末法の世に入っても融通自在に衆生救済の神通力を発揮する霊験すぐれた神である、という意味をこめている。一般にはこれを八幡大菩薩と呼ぶ慣例になった。」

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by y-rekitan | 2012-02-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第23号より-end

この号の記事は終りです。

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by y-rekitan | 2012-02-28 01:00 | Comments(0)