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◆会報第24号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“八幡文学碑巡り”③◆
◆シリーズ:“八幡神と神仏習合”④◆
◆「八幡椿は」何処に◆


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by y-rekitan | 2012-03-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第24号より-01 八幡文学碑③

シリーズ「八幡文学碑巡り」・・・③
谷崎潤一郎文学碑「蘆刈」(男山展望台)

やわた市民文化事業団常任理事  垣内 忠 


「わたしの乗った船が洲に漕ぎ寄せたとき男山はあだかもその絵にあるようにまんまるな月を背にして鬱蒼とした木々の繁みがびろうどのようなつやを含み、まだどこかに夕ばえの色が残っている中空に暗く濃く黒ずみわたっていた。」

f0300125_2455013.jpg  「やわた文学碑」第三基目となる谷崎潤一郎の「蘆刈」碑は、昭和61年7月24日、谷崎生誕百年の日に除幕しました。
 谷崎潤一郎(1886~1965)は、近代日本文学を代表する「文豪」と称される小説家です。東京生まれで、同い年の吉井勇は生涯の友人であり、八幡には松子夫人と共に吉井夫妻を訪ねて来たことがあります。
 谷崎は、関東大震災を機に、関西へ移住し上方文化に強く惹かれました。昭和7年に発表された小説「蘆刈」は、八幡にゆかりの謡曲「女郎花」の構成を意識したと思われます。昭和39年に廃止された「橋本の渡し」(橋本~島本町)は、途中に中洲があって船を乗り換えなければなりませんでした。その乗り換えの船を待ち時間に起きた夢幻の物語で、短編ですから読まれた方も多いと思います。「その絵」とは、江戸時代の「澱川両岸一覧・上り船之部(上)橋本」の絵だと考えます。小説の「お遊さん」の描写は、後に夫人となられた松子さんがモデルだと思われます。
 文学碑の建立には、著作権者の了解が必要なので、娘婿である東京の観世栄夫邸に居られた松子夫人を訪ね、ご快諾をいただきました。その上、「蘆刈」直筆本の挿絵(北野恒富画)を表装した掛軸を市に頂戴することになり、湯河原のご自宅まで受け取りに参りました。掛軸を収めた箱には、谷崎の肉筆で蓋表に「あしかりさしゑ並ニ歌」とあり、蓋内に
「北野恒富筆小説蘆刈挿画原図和歌   松子御寮人筆 
表装裂地ハ御寮人訪問服地契月図案也   潤一郎記㊞」
と書かれております。この箱書から、まだ他人の妻であった松子を、谷崎がいかに慕い恋していたかが分かります。現在、松花堂美術館にて収蔵しております。

 文学碑の文字は、昭和8年に発行された自筆本を出版社である創元社から借りて抜粋したものです。石材は文章のイメージに合わせて能勢黒といわれる花崗岩とし、上司であった高井輝雄氏とともに採石場まで探しに行きました。男山展望台の土地は、大阪の蒲鉾製造業「大寅」の所有で、社長のご了解をいただき、いざ施工となりましたが、展望台への道は途中から自動車が通行できない階段になっています。建立事業を意気に感じておられた石屋さんは、階段に丸太と板を敷詰めて自動車の通行を可能にし、見事に立派な碑を完成してくれました。
 除幕式には、松子夫人はご高齢のため、ご子息の妻である渡辺千萬子さんが、娘さんの高萩たをりさんと共に出席していただきました。千萬子さんは、谷崎の小説のモデルにもなった美しい女性で、谷崎の墓がある法然院前でレストランを営んでおられます。千萬子さんのご好意で、谷崎の遺品をお借りして現美術館別館で「谷崎潤一郎展」を開催、文化センターでは映画「細雪」の記念上映会を開催しました。


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by y-rekitan | 2012-03-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第24号より-02 神仏習合④

シリーズ「八幡神と神仏習合」・・・④
石清水八幡宮の創建

 土井 三郎 (会員) 


 昨(2011)年の3月12日。この日は忘れられない日となりました。探究する会の例会日で、文化財保存課の小森俊寛さんに石清水八幡宮における仏教遺跡等の発掘現場を案内して頂き、その後会場を研修センターに移して八幡宮の西中道(にしなかみち)禰宜(ねぎ)に「石清水八幡宮と神仏習合」と題してご講演いただいた日です。だが、それにもまして、その前日、東北地方が大激震に見舞われ目を覆うような惨状が刻々テレビの画面から流れ、のん気に例会なんかやっていていいのかといった声も聞かれる中での開催であったのです。
 そんななか、登壇した西さんが、開口一番に東北・関東の大地震に触れ、罹災された方々が一刻も早い回復を願うと同時に、祭祀を司る者として責任を感じざるを得ないといった趣旨の発言をされたことも記憶に新しいところです。

平安新仏教の流れの中で

 その西氏の講演は、初めに神仏習合の歴史をひもとくものでした。その詳細は会報12号に概略を掲載していますが、石清水八幡宮の鎮座は「平安時代になり、最澄と空海によって平安仏教が開かれ、朝廷から庇護を受けるが、その流れにそった」ものであるという指摘は印象深いものでした。
どういうことなのか、空海と最澄の八幡神との関わりからみてゆきましょう。
 真言宗を開いた空海(774~835)は、804年の入唐に際して八幡宮に祈請したとされます。南北朝期に書かれた『大師御行状記』によれば、僧形の八幡が空中に現れ、東寺草創の時から帝都鎮護の儀があったとのことです。事実、京都の東寺に八幡大菩薩を勧請したのは弘仁元年(810)のことです。天台宗を開いた最澄(767~822)も、弘仁5年(814)に八幡宮を詣で法華経を講じたとされます。
 いずれにせよ彼らの行動もあって、宇佐に参詣する仏僧が多くなりました。つまり、平安新仏教が八幡大菩薩の信仰に意を注ぐ者が多くなったということです。そんな仏僧の一人に大安(だいあん)寺の行教(ぎょうきょう、生没年不詳)がいます。彼もまた入唐し、帰朝の時、宇佐宮に参詣し、一夏九旬(90日間)の参籠をなし、大同2年(807)に八幡宮を大安寺鎮守として勧請したというのです。

男山遷座にいたる経緯

 天安2年(858)10月頃に、行教は大僧都真雅(だいそうずしんが)の推薦により宇佐に派遣されることになりました。天皇即位に関してのことであるといわれています。太政大臣である藤原良房(よしふさ)は文徳(もんとく)天皇の第四皇子惟仁(これひと)親王(母親が藤原明子)が無事皇位継承できるように願っており、その祈念のためです。いわば私的な勅使でした。
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清和天皇は未だ9歳で、年上の惟喬(これたか)皇子(母親が紀静子)をさしおいて即位すれば非難されるので、道鏡事件以来、皇位継承では絶対的な権威をもつ八幡大菩薩の託宣が下されることを願ってのものだとされます。同年11月に惟仁親王は無事に即位。行教の宇佐派遣はその必要がなくなりました。
 但し、行教は翌年、別の目的で宇佐に派遣されます。幼少の天皇のために宇佐で祈請するよう宣旨(せんじ)を蒙ったのです。行教は再び一夏九旬の参籠(さんろう)を実施。そこで神託を得て、貞観(じょうがん)元年(859)7月20日に京に上り、8月23日に山崎離宮辺りに寄宿し、そこで示現(じげん)を得て石清水男山の峯に神体を安置するのです。
 朝廷の対応もすばやく、行教が示現を得て程なく朝廷から勅使が男山に向かい、ついで木工寮(もっこうりょう)が神殿の用材を調達し建設が始まります。翌貞観2年(860)には宝殿を造立し、御像を安置し祭祀祈祷が行われたといわれます。(※1)
 「石清水八幡宮の勧請は勅命とはいえ、太政大臣藤原良房が主体性をもち、宇佐宮がこれに呼応し、南都大安寺の行教がその間を調停してでき上がった」(※2)との解釈がありますが、妥当な見解だといえるでしょう。
 ところで、飛鳥時代に起源をもつ大安寺は、天武朝の時代に「大官大寺」と改称されます。天皇が寺の願主となる仏教興隆と統制を掌握する大寺の意味をもつ寺であったのです。そのため為政者との関わりも深く、藤原良房はこの寺の大僧都真雅を通じて行教に渡りを付け宇佐に派遣させたのでしょう。そして行教といえば紀氏出身の僧です。皇位継承を巡って、藤原氏とはいわばライバル関係にある紀氏出身の彼が、なぜ惟仁擁立に手を差し伸べたのか。疑問が持たれるところですが、古代の大豪族とはいえ藤原氏に圧倒され、何とか名門の命脈を保つためにあえて藤原氏に協力したという解釈も成り立つようです。

幼帝護持というコンセプト

 藤原良房は辣腕の政治家でした。幼帝が出現してしばらく経った貞観8年(866)応天門の変が勃発します。平安宮大内裏に通じる応天門が何者かによって放火され炎上するのです。事件の真相は不明のまま結局大納言伴善男(とものよしお)父子が犯人であるとされ配流されます。
 古代の名門大伴氏が失脚するのです。翌年には、良房の義理の娘(良房の兄長良の娘)高子(たかいこ)が清和天皇のもとに入内し、後に貞明親王(後の陽成天皇)を生むことになります。「(応天門の変は)良房が仕組んだ事件であったと考えることも十分可能であろう」(※3)との見解は的を射たものでしょう。
 ところで、清和も陽成もともに9歳で即位した幼帝で知られています。これまでにないことです。奈良時代では、直系男子で天皇になれる資格をもつ親王が生まれても、幼い間は女帝が中継ぎをするのが慣例でした。天皇の位置づけが奈良時代と大きく様変わりしたといえるでしょう。位置づけだけでなく天皇の性格付けにも大きな影響を与えたとする考えがあります。「幼帝には、神聖・無垢、そして政治的に中立というイメージが付与され、引いては、天皇自体にも聖性がそれまで以上に付け加わった」(※4)というのです。
 つまり、石清水八幡宮の創建は、西氏が語るように「平安仏教の影響」と同時に、平安前期の幼帝の誕生=天皇制の変質という政治的な動向と関わって成立したと捉えられるのです。
八幡信仰の発展

 八幡大菩薩の信仰は宇佐に生まれたが、完成した所は石清水であるといわれます。その後、石清水は朝廷の崇敬ますます篤く、天下第二の宗廟(そうびょう)として発展していきます。その経過を追ってみましょう。
 貞観7年(865)に初めて正式奉幣(ほうへい)を受け、同12年(870)には賀茂・松尾・稲荷などの大社とともに新銭の頒布を受けます。そして、承平天慶の乱(935~941)に対して、石清水への祈祷は殊に深く、乱平定後の石清水の勢力は著しく増大しました。天慶5年(942)には臨時祭が始まります。石清水の臨時祭は賀茂神社の北祭に対し、これを南祭というほどのもので、様々な儀式が執り行われ大層にぎわったようです。
 天元2年(979)からは、一代一度の行幸が定例化され、延久2年(1070)には、それまでの放生会の神幸を行幸に擬し、勅祭として行われるようになります。このころから、石清水の体制が完備し、康保2年(965)の一六社奉幣では伊勢につぎ賀茂社の上位におかれるまでになるのです。
 更に、石清水と皇室の関係が強くなるのは白河天皇以後のことです。白河天皇は毎年行幸し、仏事・法施につとめ堂塔を造らせました。昨年秋、発掘で話題を呼んだ大塔は嘉祥元年(1106)白河上皇の御願と平正盛(清盛の祖父)の造営によって建立されたものとされます。そして、初めて鳥羽天皇の皇后宮に女房として石清水25代別当光清の娘(小侍従・美濃局)が出仕するのです。また、光清の頃から石清水八幡宮は、各地の宮・寺から荘園の本家職を寄進されて全国的な荘園領主になるのです。
 ここで指摘されることは、社領の増大が神事の充実につながっていることです。石清水の場合、臨時祭あるいは放生会など祭事の増大・拡充が神社としての経済的基盤の拡大と密接な関連を持っていたとのです(※5)。

8~12世紀の国家と神社

 さて、男山に勧請されて以来の石清水八幡宮の発展ぶりをみてきましたが、ここで、8世紀の律令体制の確立から院政期(12世紀)にいたる、国家と神社の関係を概観してみたいと思います。朝廷が石清水など諸社に何を願ったのか。そんな中、神社がどのように変容していったのかをみておくことが重要だと思われるからです。中世以降に活躍する神人(じにん)が国家と神社の関わりからどのように発生してくるのかをとらえるためでもあります。
 以下の箇条書きは、山本信吉「神人の成立」の「むすびにかえて」を私なりにコンパクトにまとめたものです。
  ① 律令体制が確立する時期(701年~)
    官社の制度が確立
  ② 聖武天皇の時代(724年~)
    旱魃・疫病の流行―名神の選定、神位の授与
  ③ 清和・陽成天皇の時代(858年~)
    幼帝の安泰を願った藤原氏。神位の一斉授与。神職への大量
    叙位
  ④ 天慶の乱の平定(942年~)
    朱雀帝、円融帝、一条帝による神社行幸の常態化。神領・封戸
    の寄進
  ⑤ 神社の荘園領主化(10世紀末~)
    他の勢力(寺院・国司層)との摩擦が発生。
    神人身分(一般行政の枠外扱い)の成立
  ⑥「保元の新政」(1156年)―後白河天皇によって、有力神社・寺
    院の横暴の抑止を図らねばならないほど有力社寺が特権化し
    た。

※1、宇佐から男山への八幡遷座については、『石清水八幡宮境内調
   査報告書』(八幡市教育委員会編)を参照した。そこでは異説も
   紹介されている。
※2、『八幡信仰』中野幡能(はなわ新書)
※3、4『平安京遷都』河尻秋生(岩波新書)
※5、「神人の成立」山本信吉(『神主と神人の社会史』所収)

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by y-rekitan | 2012-03-28 11:00 | Comments(1)

◆会報第24号より-03 八幡椿

『八幡椿』は何処に

八幡まちかど博物館「城ノ内」館長 : 高井 輝雄


▇ 東高野街道に古椿・銘椿・巨椿あり
  昨(2011)年4月、旧東高野街道に開設した小館・「八幡まちかど博物館・城ノ内」では、本年の4月22日迄の間、第4回目の展示「東高野街道の椿たち」を開催しています。
 タイトルのとおり街道筋の社寺、旧家に所在する古花・名花・巨樹の椿を、楽しみ散策していただくのも我々の大事な活動の一環と考え、昨年撮った開花期の写真を展示し招介しています。
 今回の展示で紹介している椿は、松花堂庭園の古椿・胡蝶侘助始め約200種の椿、上村家の八重日光、正法寺の大木紅椿、林家の垣根椿、善法律寺の紅藪椿、常昌院の八幡随一の巨椿・日光、石清水八幡宮の群生と巨樹の椿・社殿椿彫刻・供花神饌などであります。 (各々の椿の開花期は3月中旬から4月上旬頃)

▇ 近世初頭屈指の椿の絵巻物『百椿図』
 ところで今回の展示では、近世初頭の椿ブームを知る屈指の代表作の一つ『百椿図』に関する史料を展示しています。
 百椿図の原本は、丹波篠山城主であった松平忠国が絵師狩野山楽に依頼したものと伝えられ、最近、根津美術館で初公開され、全貌が明らかになりました。
 優れた意匠で表現されている絵図2巻・68図で構成されていて、鼓や扇子、花籠、漆器、硯、懐紙、陶磁の水差、文具や調度品等に100余種の椿を配し、当時の暮しに溶け込んだ椿を見事に描いています。
 これらの椿画に皇族、門跡、公家、大名、文人、僧侶、儒者の、江戸前期から中期に活躍した多岐にわたる寛永の文化人が52首(49名)の画賛を寄せています。
 原本が世に出たのは、平成7年頃のことで、写本が発見されてから実に48年目、桃山期の画風というのが第一印象で、細部の粋な意匠に寛永文化の息吹を感じると、高く評価されています。

▇ 昭乗が近衛公に進上した『八幡椿』
 大変興味深いことに、この百椿図の中に『八幡椿』が描かれています。このことを知ったのは未だ年浅く、そのときは随分感銘を受けたものです。
 椿の花木を愛好する小生は、以前から松花堂昭乗が近衛信尋公に宛てた書状に八幡椿の記述があることは、「随筆松花堂」(井川定慶氏著)で知っていました。その書状には、
 「八幡椿之取木之事とくもたせ進上之申度存上れとも、あるは出かはり、あるはわつらひ候て、下部無く 御座、遅引、無念、御座候、云々」とあります。寛永6年8月12日の興味ある書状です。
 昭乗は「八幡椿の取木をお届けしようと思っているが、使いに出す下働きの者に出入りがあったり、病気のために遅延していることを無念である」と詫びているのです。
 文箱か、重ね合せた画帳の上に描かれている八幡椿は大輪の真赤な牡丹咲きの絵図です。 
因みに、この八幡椿には〈水無瀬中納言氏成〉が次のような画讃を寄せています。
       梓弓やはたときけは今も猶 
                  心ひかるゝ玉椿かな    氏成

玉椿」とは、美しく素晴しい花の形容であります。八幡椿に対する熱い思いが伝わってきます。

▇ 策伝の『百椿集』に八幡椿の来歴
 そもそも八幡椿の来歴について最初に記録されたのは、落語の祖として名高い安楽庵策伝が寛永7年に著した『百椿集』であります。
 八幡椿は、赤椿の22番にあり、そこには、「是は八幡山の麓、橋本と云ふ処に、卜意と云ふ花嗜みの出家ありし。天然この椿を持ち合はせたるが、世にひろがりて、八幡椿と云ひならわし、又は牡丹椿とも号す。勝れて赤き大輪のなかの大輪。八重九重に咲きて、内の方へ寄り、四処五処花の間を置き、黄蘂一村充て交じる」と、記されています。
 先の百椿図及び昭乗の書状と、この百椿集をみると、昭乗の居た石清水八幡宮と橋本は極めて近い所で、昭乗が早くに母樹の八幡椿を入手したことは、この策伝の情報から推測できます。また、卜意が昭乗の茶会に招かれている記録があることをみても、椿の交流があったことは想像に難くありません。
 寛永の三筆と称され、朝幕の融和に尽くした昭乗が、近世初頭の椿ブームを支えていた一人であったと言っても間違いないと思います。

▇ 何処へいったか、幻?の『八幡椿』
 さて、この『八幡椿』は、当時、昭乗が住持していた男山の坊近くに今もあるのか、或いは卜意が居た八幡山(男山)麓の橋本に存在するのか、2度にわたり調査したが、発見することは出来ずにいます。
 古典椿を研究している専門家によると、この品種(八幡椿)は現在の「紅麒麟」ではないかと言われています。 
 日頃何気なく、特に花期でないときは、気付かず散策している男山、よくよく見ると椿が群生し、所によってはトンネル状態を成しています。中には、400~500年も年輪を刻んでいる古椿も植生しています。 昭乗が慈しんだ寛永期の男山の椿のことを始め、先に記したその門前の東高野街道の社寺、旧家の古花・名花・巨樹の椿の存在からして、昔から八幡は風雅な椿の名所、宝庫であると言えます。
 それにしても『八幡椿』は、何処にいったのか、幻の椿だったのではあるまいし、引続き探索したいと思っています。

-【追記】-
▇ 百椿図の『桃椿』に昭乗が画讃
 百椿図に画讃を寄せる当代一流の文人に交じって、昭乗も着賛している椿があります。それは『桃椿』です。
 椿文化研究者によると「柿右衛門の水注に入れた桃色の小輪の椿はどれも雄蘂がなく、今の蘂なし侘助に似た園芸品種である。(中略)他にも白や赤色の侘助を見つけ、寛永期も盛んに太郎冠者(関西では「有楽」)の実生をして、これらの侘助を作ったのを初めて知った」と言われているのが桃椿です。
  この桃椿に寄せた昭乗の画讃は、
        みちとせややちよにそへてももといふ   
                つはきそ花のかきりしられぬ   昭乗 

 たぶん桃の名から、西王母(中国の神話にでてくる想像上の女仙)が、3000年に一度花が咲き実がなるめでたい桃を、漢の武帝に贈った故事にあやかり、それに荘子の八千代の椿を加えれば無限だと、長寿の椿を言祝いでいるのです。

(本稿の執筆に当り、椿文化研究家・渡邉光夫氏の文献等を参考にしています)
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by y-rekitan | 2012-03-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第24号より-end

この号の記事は終りです。

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by y-rekitan | 2012-03-28 01:00 | Comments(0)