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◆会報第25号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆《歴探ウォーク》歴史探訪「男山参詣路を歩く」◆
◆《講演会》男山文化園の中心・八幡◆
◆発足以来、三年目を迎えて◆
◆シリーズ:“八幡文学碑巡り”④◆
◆シリーズ:“八幡神と神仏習合”⑤完◆


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by y-rekitan | 2012-04-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第25号より-01 男山参詣路1

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《歴探ウォーク》
歴史探訪「男山参詣路を歩く」
― 2012年4月  男山周辺にて ―



f0300125_1445918.jpg3月31日(土)は、「男山参詣路を歩く」と題する例会日でしたが、朝からあいにくの雨。雨模様の場合は会場を神応寺にして、住職の話や御仏の拝観を予定していたのでその連絡を参加希望者にしましたところ40名の皆様に集まっていただきました。
 住職による神応寺の来歴の話、そして国の重要文化財に指定されている行教律師坐像をはじめとして豊臣秀吉木像や障壁画、襖絵などを拝観した後本堂にもどり、ガイド3名(石瀬さん・丹波さん・土井)によって男山参詣路の名所案内をガイダンスしました。
 石瀬さんは、清水井古墓と昌玉庵忍澂(にんちょう)寺、石不動などを、丹波さんは金明孟宗竹や男山に自生する「山藍(やまあい)」の話、また神応寺の墓地にある墓の話をしました。ちなみに神応寺の墓地にある主な墓は以下の通りです。
 淀屋道雲、箇斎、言当、辰五郎(廣当)、二宮忠八、永井家先祖供養塔、長沢蘆雪(ろせつ)、山本官助孫正之、右衛門佐局、行教律師。
なお、3月24日から4月8日まで石清水八幡宮社務所書院にて「春の文化財特別公開展」が催されましたが、臨時祭などで着用される青摺袍が展示されていました。それは山藍(やまあい)で染めたものだとのことです。 

 土井は、巣林庵(そうりんあん)の往時の隆盛ぶりを『石清水八幡宮史』第1輯にあった古文書をもとに説明しました。大永三年(1523)四月三日幕府奉行奉書(ほうしょ)と称する文書で、内容は以下の通り。
「石清水八幡宮造営事、守先例於奉行者、被仰付善法寺興清、至納下(のうげ)者、有子細、巣林庵祖俊(そしゅん)首座令存知之、既過半造立之條、可有遷宮云々、早任御内書之旨、可被致奉加(ほうが)之由、所被仰下也、仍執達如件、    大永三年四月三日
近江前司(飯尾貞運)(花押)
       丹後 守 (松田秀俊)(花押)
伊達左京太夫(稙宗(たねむね))殿」
 要するに、1507年に社殿が炎上した石清水八幡宮の再建のために、室町幕府が善法寺興清を奉行(指揮者)に、巣林庵(そうりんあん)の祖峻首座を納下(出納)役にして、全国の守護クラスの者に「奉加金」を提出するよう命じたものです。宛先の「伊達稙宗」とは独眼竜で知られる政宗の曽祖父で、当時陸奥の守護をしていました。まさに、中世の八幡山下にあった寺院の性格を垣間見る思いです。
 「しおり」を制作してもらった石瀬さんに、今回の男山参詣路にとりくんだ思いを寄稿していただきました。

忍澂の取材から思ったこと
          
 石瀬 謙三 
私の生業が「美術」だった習性からか「見える物」にしか「リアル」を感知できない単純人間にとって、歴史という「時間軸」は「見えない物」という抽象的なものでした。それに具体性を与える歴史的事実をどんな文脈で読み込み、構成していけばいいのか。その手法を知らない私の今回の取材は不毛の連続でした。
しおりを読み返して、①から⑯までそれぞれに自分なりの「リアル」を盛り込む意気込みが、記事に濃淡・強弱・温度差の「ばらつき」と「ごった煮感」を露呈し、読まれた方にはその乱文に辟易されたことと平身低頭お詫び申し上げます。
素人の言い訳をお許し願えれば、男山周辺の魅力的な歴史的事跡の豊富さに溺れ、歴史探究2年生の私には「目移り、執着」の連続で「しおり」を纏めるのに荷が重すぎ、心潰れたと言う実感です。丹波さんや土井さんの助けがなかったら、「時間切れ」の体たらくで、どうなっていたことかと思うと恐ろしい経験、修羅場でした。
忍澂(にんちょう)上人が、どんな人だったのか「惹きつけられる」もの多く、思い入れの割にはしおりに表現できていないと今、反省します。過去の文献や伝承を読んでそれぞれの文脈に翻弄され、なにが事実か解らなくなり、それが歴史探究の醍醐味、迷宮と勝手に思い込んで、解らないことは「どうでもいいこと」と逃げてしまい後味の悪い「雨の日の結果発表」になったのかと自戒しています。
取材の感想として残ることは、法然院中興の祖「忍澂上人」にとって八幡が隠遁の地として生涯、「信仰の個性化・内在化」?に真剣に取り組まれた気概の地になったのでは、という思いです。
『男山考古録』、『忍澂上人行状記』、『行業記』ほかの材料の信憑性を判断する能力は私にはありませんが、温度差のあるそれらの表現、文意を通読して、上人の八幡の地に掛ける篤い思いを感じます。
これまで忍澂上人と言えば法然の浄土宗を引き継ぎ京都獅子が谷に法然院を再興し、今に伝わる浄土宗の各々の規律を立てた人くらいにしか記憶していませんでした。もちろんそれは大きな事績ですがそれを進めたバックボーンが隠遁の地この八幡にあったという事実を感知したとき、私の忍澂感は高揚しました。
男山の山上に薬師信仰の護国寺仮堂が再興され、長く行われなかった放生会が再興され神仏同体の八幡山が現世利益へと新たな一歩を踏みだした延宝年間、それを予見していたかのように若き忍澂は男山の麓、神原に残る弁天堂を隠遁の地と決めます。
f0300125_1395578.jpg後に山上の地蔵の頭部を貰い受け、補修した地蔵尊を昌玉庵本尊とします。「せいたか、こんがら童子」を脇に配し、四囲を四天王に護らせる本堂を再建。宗派にこだわらない寺、忍澂寺は布施の集まる寺だったようです。
また「山上の放生会」を補完する「月放生会」を立案し、御馬所神人「今橋安貞」に放生田を開かせ放生亭を営むよう勧め、放生会の民間化を図ります。
思いは死の床に伏して尚、放生会の進め方を気遣い、思いつく事を筆に認めてから涅槃に入ったとか。私の感じた忍澂上人は江戸時代の檀家制度が進める回向寺の堕落を感知して、一度は「律宗」にあこがれながらも阿弥陀に回帰し、阿弥陀信仰をより具体化、個性化して大衆化。地蔵・弁天信仰を振興し、庶民の信仰深化に多彩な展開を図った希有な宗教経営僧だったのではという思いです。
不断念仏の始祖と崇められる一方、膨大な印施出版活動や寺院経営の新機軸は枚挙に暇なく、その心は平成の法然院が芸術の癒しを仏心と捉え芸術振興に積極的で若い芸術家や志あるものにその発表の場を与え、宗教・観光都市京都の都市景観計画にその斬新な提案をされるなど、現代宗教の可能性を切り拓こうとするユニークさと共通すると思えます。
現代法然院の積極性は忍澂上人の気概が伝わっているからでは!と得心します。なにより、その法然院再興を推し進めた精神力がここ、八幡の地「インキュベーター昌玉庵忍澂寺」で充電されたのではと思うとなおさらです。
    ※ 写真は神原にある昌玉忍澂寺跡(弁天堂)


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by y-rekitan | 2012-04-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第25号より-02 男山文化園

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《講 演 会》
男山文化圏の中心・八幡
― 2012年4月  ふるさと学習館にて ―

市文化財保護課主幹 小森 俊寛
市文化財保護課係長 大洞 真白


 4月11日(水)、新年度初めての例会が、「石清水八幡宮の境内調査」と題して、ふるさと学習館を会場に開催されました。
初めに、文化財保護課文化財保護係長の大洞真白さんが、スライドを上映しながら境内調査の結果を簡単に紹介しました。
これまで現地見学会で何回か説明を受けた内容ですが、多数の石垣や往時の参詣路の存在、二の鳥居南側平坦部に広がる僧坊の跡など新しい知識もあり、意義深いものでした。

続いて同主幹小森俊さんが「男山文化圏の中心・八幡」と題してご講演なさいました。小森さんのレジュメに沿って概略を紹介します。                                                                      
 
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小森さんは、京都市内で長年土器の研究をされてきた方です。10年ほど前に八幡市上津屋遺跡の発掘調査や整理報告に関係して、京都側から見てきたこの地域の土器が、北河内や北摂津地域にまでその分布圏が大きく広がっていることを認識し、八幡を中心とした地域が、基本的な生活文化レベルの文化情報を共有する、「男山文化圏」と呼べる一つのまとまった地域と見なしう得ると結論づけました。その際、土器生産地としての「楠葉」の存在は重要である点にも触れ、男山文化圏の成立によって、摂津・河内・山城の境界、あるいは中間地点であったこの地域の古代前半期の土器の地域文化圏が、大きく変化したことを強調なさいました。又石清水八幡宮の発展、殊に、石清水神人とその家族、その地域の人々が文化圏の形成に大きな力となっているとのことです。                                                    質疑・討論では、土器の形状などの編年をどう見たら良いのかなど専門的な事柄にも触れましたが、何しろ時間が足りません。土器の基本的な見方など小森さんから直に教えてもらう等、今後の楽しみとするとして例会は終わりました。 参加者35名。          


◆◆ 資 料 ◆◆

石清水八幡宮と男山文化圏

小森 俊寛・大洞 真白(八幡市教育委員会)

日本遺跡学会誌『 遺跡学研究』第8号(2011)抜刷

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by y-rekitan | 2012-04-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第25号より-03 発足3年目

発足以来 3年目を迎えて

本会 代表幹事  是枝 昌一



 平成22年4月に16名の賛同を得てスタートしました本会も、早いもので満2年が経過しました。                             
 1年目は試行錯誤、手探りの進行でしたが、会員の方々からの助言を頂きながら世話人会[後の幹事会]の組織化を行い、講演会の開催、市内探訪ウオーク、会員研究発表、そして毎月のニュースレ ターを中心に相互の情報の共有化を進めた結果、少し形が出来上がってきました。           
平成23年4月20日に第1回の総会を開催、簡略ながら会則の制定、幹事会の決定、業務分担と形を作り、2年目をスタートいたしました。2年度末には皆様の賛同を頂き会員数は92名にまで拡大す ることが出来ました。                                                 

 平成24年4月11日には第2回目の総会を開催、2年目の活動状況、決算関係、来期の方針、予算概略を承認頂きました。会則面では会計監査を会員より選任頂き、会計業務担当も選任し明確化いたしました。2年目の特徴としては連続学習会の開催をスタートし、今後の学習結果より会としての研究発表につなげる活動を開始、情報提供では会のホームページを開設、順次内容を蓄積出来る体制も作ることができました。特に出席会員から、今後の進め方への貴重な発言を頂き、2年間の経験を生かしより具体的な進め方を幹事会にて討議いたします。3月の教育委員会主催のシンポジュウムで奈良大学の坂井先生からのお言葉から 三位一体(専門家、行政、市民)についての討議が行われましたが、市民の立場から我々はどう動くべきか意義ある宿題を頂きました。                           

 発足以来3年目は大事な時と言われます。まず過去の貴重な体験を大事なリズムとし継続性を保ちつつ、新しいアドリーブを加え、新鮮味を加えていく事が大事と考えます。(マンネリ化に注意しつつ)アドリーブには個性が必要です。よく言われる会のカラーをどうつけるかとも言われます。まだ布石の段階ですが次のような事がポイントになると考えます。                             

□ 楽しい,ドキドキ、わくわく、ほっこりするような雰囲気での会合を              
□ 相互の情報交換を中心とした対話を大事に                          
□ 関連グループとの共同企画、活動の実現                           

  具体的な案として                                                 
    ・親子で学べる歴史の冊子制作                                      
    ・八幡かるたの編集                                             
    ・八幡地名の調査
    ・展示会の開催  等々
  いずれもハードルの高い課題ですが、よろしくご指導のほどお願いいたします。            

 4月12日 花見を通じて背割堤の歴史をご紹介したい。                        
今年は気候の関係から、桜の開花が遅れておりましたが、京都は総会(11日)の前後から一斉に固いつぼみが開花しました。総会の翌日、八幡の対岸の大山崎の美術館にて会合があり、男山をバックにした背割堤の遠景を楽しむことが出来ました。今年は辰年、背割堤の桜は三川合流の中で竜が泳いでいる姿に例えられ、素晴らしい景色を鑑賞することができました。堤は明治の初年に木津川の付け替え工事に続き実施された淀川改修増補工事として、大正7年から昭和5年までの工事の一環として形成されました。まさに字の通り瀬を割り、3つの大河の流れを淀川に流し込む大事業です。
 堤には最初「防風」と「護岸」のため松が植えられ(推定昭和5年頃)、当時は「山城の天の橋立」呼ばれる美しい景観だったそうです。その後、松くい虫の影響を受け被害が大きく、現在の桜に植えかられたそうです。桜はソメイヨシノ250本が中心でハナミズキも散見されます。今年は市の桜祭りは15日まで延長、船による周航も新たに加え、予想は20万人の方が参加されるとの予想です。今後の八幡の大切な観光祭りとして位置づけられます。八幡と川とのかかわり方については、水運の中心と同時に水害との戦いの歴史があり、また桜は琵琶湖、笠置、丹波の三川合流のミックス水ですくすく育ち、美しい花を咲かせている。
 このようなバックグランドを念頭に、年1度のお祭りを楽しみたいと思います。             

 来年の総会での報告、成果を期待しつつ、来年の春のお祭りも楽しみたいと思います。      


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by y-rekitan | 2012-04-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第25号より-04 八幡文学碑④

シリーズ「八幡文学碑巡り」・・・④
能蓮法師歌碑(さざなみ公園)

やわた市民文化事業団常任理事  垣内 忠 


        石清水きよき流れの絶えせねば
        宿る月さへ隈なかりけり

f0300125_2494935.jpg 「やわた文学碑」四基目は、平安時代末期の歌僧といわれる能蓮法師が石清水を詠んだ歌です。昭和62年10月7日、中秋の名月の日に完成しました。人事異動により、これ以降の文学碑建立事業は、後任者が担当してくれました。
 能蓮法師については、詳しいことがわかっていません。歌が所収されている「千載和歌集」は、1183年に後白河法皇が藤原俊成に編纂を命じたものです。平安時代後期の約200年間の歌から選ばれたとあります。大河ドラマ「平清盛」の時代です。       
 ちなみに、「源平」というと八幡宮を詠んだ歌に「嬉しとも中々なれば石清水神ぞ知るらむ思う心は 平忠盛(清盛の父)」、「石清水たのみをかくる人はみな久しく世にもすむとこそ聞け 源頼朝」があります。
 歌碑は、放生川に優雅に架かる安居橋の畔に立っています(写真上)。男山の清水も流れそそぐ放生川が、清らかな水を湛え、曇りのない月を川面に映す川であって欲しいと願っています。

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by y-rekitan | 2012-04-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第25号より-05 神仏習合⑤

シリーズ「八幡神と神仏習合」・・・⑤
庶民信仰と八幡大菩薩

 土井 三郎 (会員) 


菩薩号の意味するもの

 八幡神が「八幡大菩薩」と号することは、神が仏法の菩薩を称することです。それは、「画期的ともいうべき神祇界の宗教改革」であり、「大菩薩が為政者のみならず、「衆生(すじょう)」ということを絶えず意識していることもこの神の特徴である」との評価があります(※1)。
 そもそも「菩薩」とは何か。仏教辞典には「菩薩は悟り(仏)の世界から人間界に降りてきて、人々と共歓同苦しながら衆生救済に努める存在」とあります。観音菩薩や地蔵菩薩に対する日本人の信仰をみれば菩薩がいかに広く深く人々に親しまれ頼りにされているかがわかります。今でも例えば「西国三三箇所観音霊場巡り」が静かなブームであることは周知の事実です。神仏習合の時代、今以上に八幡大菩薩の鎮座する石清水八幡宮寺は庶民信仰のメッカであり得たのでしょう。
 今回は、庶民信仰の上で八幡大菩薩がどのような存在であったのかを、いくつかの事例で見てゆきたいと思います。

道俗男女の集会

 『類聚(るいじゅう)三代格』(※2)の貞観18年(876)8月13日の太政官符によれば、八幡大菩薩が男山に移ってから、「道俗男女」が集会して「祈祝」するようになり、いずれの場合も霊験のない集会はなかったというのです。「道俗男女」は衆生そのものであり、まさに庶民がここに集い「祈祝」することでご利益が得られたというのです。彼らに有難い御利益を授ける祈祷が行われたのかもしれません。
 それにしても、貞観18年とは、男山に八幡神が鎮座してから10数年しか経っておらず、八幡菩薩に対する庶民信仰が早くから起こったということでしょう。

東国庶民の信仰

 『将門記』は、平将門(?~940)が自ら新皇と称し関東に威を振い、やがて平貞盛・藤原秀郷に討たれてから100年以上経て成立した軍記物語ですが、ここに八幡大菩薩が登場するのはよく知られています。
 天慶2年(939)12月15日、将門は上野(こうづけ)の国府を攻略し新皇と称して除目(じもく、関東諸国の国司を任命すること)を行いますが、その時「八幡大菩薩の使ひなり」と口走る「一昌妓(かむなぎ)」が現れ「八幡大菩薩、八万の軍(いくさ)を起こして、朕の位を授け奉る」と託宣を述べます。将門は再拝し兵たちも大いに慶び「伏して拝す」状況が呈されるのです。
 平将門は朝廷からすれば謀反人ですが、東国の庶民からすれば英雄の如く慕われていたのかもしれません。そして、ここに八幡大菩薩が登場することの意味を考えて見るべきでしょう。「昌妓」は娼妓(遊女)でありまた巫女でもあります。神の意思を人々に伝える女性です。要するに東国の一昌妓までが天位と八幡神の関係を認識し、八幡神は同時に軍(いくさ)の神であることを信じていたのです。となれば10世紀半ばにおいて、八幡神=八幡大菩薩の信仰が諸国に広まっていたということなのです。

山科藤尾寺の尼のこと

 『扶桑略記』は12世紀後半に延暦寺の僧が著した仏教に重点を置いた歴史書ですが、平将門が新皇を称した天慶2年の8月に面白い記事が載っています。
「粟田口山之東、山科」に藤尾寺があり、南に別の道場がありました。その道場に尼がおり先年より石清水八幡大菩薩の像を造り安置していました。その霊験は高く、「遠近僧尼」や「貴賎男女」が林のごとく帰依し市をなすほどの盛況であったとのことです。当の石清水八幡宮では毎年8月15日には放生会を行っていて「上下諸人」で賑わっていたのですが、藤尾寺の尼が同じ日にこの放生会を行い楽人を迎えては「音楽の妙曲」を尽くし、名僧を招いては「菩薩之大戒」の行を伝えさせ「飲食引物」に最善を尽くしたのです。すると石清水の本宮に「僧徒楽人」が向かわず、「本宮法會」が頗る「寂寥」になってしまいました。そこで石清水八幡宮の道俗が相談し、8月15日は本宮が放生会を行う日になっているのだから別の日に行えと迫ったのに対し尼はそれを無視しました。そこで「本宮」(石清水八幡宮)の「道俗数千人」が山科の「新宮」(藤尾寺道場)に向かい、その神社を破壊し尼を捕縛し八幡大菩薩の霊像を石清水の本宮に移し奉ったとのことです。
 京都近辺でこのような事件が起こるほど八幡大菩薩の信仰が諸国に限らず中央でも高まっていたということなのでしょう。

謡曲「弓八幡」と八幡宮の神事・仏事

 『徒然草』52段は、「先達はあらまほしき事なり」の格言で知られる章段です。仁和寺の法師が石清水を参拝するのに山上には登らず麓の高良神社および極楽寺に参って「かばかりと心得て帰った」話です。但し、山に登っている人は見ているのです。「山へ登りしは、何事かありけん。ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」と帰ってから知人に告げているのですが、そもそもこの法師はなぜ石清水に参拝しようと思ったのでしょうか。それは人々がこぞって「山へ登りし」こと即ち石清水八幡宮へ多数参拝する状況があったからです。『徒然草』が書かれたのは鎌倉時代末期ですが、そのおよそ30~50年前に元の来襲があり、石清水から放たれた神矢が神風を起こし異国船を沈没せしめたとの言い伝えが人々の脳裏に深く刻まれていたことが想像されます。
 そして石清水と矢といえば謡曲「弓八幡」が想起されます。ストーリーは以下の通り。
 後宇多天皇の臣下が、二月初卯(きさらぎはつう)の神事に陪従(べいじゅう、楽人)として参詣せよとの宣旨により、男山八幡宮にやってきて参拝しようとします。すると、多くの参詣者の中に錦の袋に弓を入れた老翁がいることに気づきます。そこで臣下が尋ねると老翁は「天皇に弓を捧げようと思って貴方が来るのを待っていた」と答えるのです。そして、弓矢をもって天下をおさめた謂れなどを語るのでした。さらに老翁は、自分は八幡の神託を伝えるために表れた高良の神であると言い消え失せるのです。中入後、臣下が都に帰ろうとすると音楽が聞こえ霊香が薫じてきて高良の神が現れます。そして舞を舞い御世を祝い八幡宮の神徳を讃えるのでした。
「弓八幡」は今年、京都観世会の正月例会で「翁」に続いて演じられた演目で、印象深い舞台でした。世阿弥作であるといわれます。世阿弥(1363?~1443?)自身が石清水に赴いて「二月初卯」の神事を観たのかもしれません。
 二月初卯の神事とはどういうものでしょうか。『石清水八幡宮史料叢書』四に八幡宮で年間に行われた神事のことが紹介されています。(※3)それによりますと、勅節10箇度として、次の仏・神事があったとのことです。「勅節」とあるのですから、朝廷が関与する季節ごとの行事です。

   正月一日、二月上卯日(御神楽、神事)、三月三日、四月八日、
   五月五日、六月晦日、七月七日、八月十五日(放生大会)、
   九月九日、十一月上卯日(御神楽、神事)
 面白いのは、四月八日の行事です。これは御釈迦様の花祭りで知られる灌仏会(かんぶつえ)のことです。八幡宮がまさに神仏習合の宮寺であったことを示しているものといえます。
 また、史料叢書四には『年中讃記』(※4)なる書物も翻刻されていて、次の文章に出会いました。それは、二月初卯の神事(御神楽、みかぐら)に接した者の感想といえるものです。
「…及(二)鶏鳴時(一)、歓宴罷而待(レ)明、爰貴賎多集、通夜無(レ)(二)于並(レ)(一)、緇素旁参、芳辰寔足(二)于養(レ)(一)者歟」

 意訳すれば、鶏が鳴く夜明けを待って歓宴(歌舞音曲)が終わる。貴賎多数集い、隙間なく夜通し膝を並べて緇素(しそ、僧俗)方々参り、春の吉日、目を養いまことに満ち足りたものであることよ、とのことです。
注目されるのは、二月神事の御神楽が朝廷の関与する勅祭であるにも拘わらず、僧俗男女の集会するものであったということです。(※5)

近世の八幡信仰の行方

 これまで述べてきたことは、古代から中世にいたる庶民信仰の在り様です。ところが近世になるとその庶民信仰の実際をさぐることが意外に困難になります。そのことに正面切って解明した著作に出会えていないからです。
 そんな中、近世期の八幡信仰が隆盛していたことは絵図や名所絵図で確かめることができます。「城州八幡案内絵図」などを見ると、男山全体が八幡宮を中心に八角堂や大塔、護国寺や豊蔵坊など数多の僧坊がひしめいていた様が実感できます。また、名所風俗図絵からは、放生会の行列の有り様、淀大橋や正法寺・円福寺の景観などを知ることもできます。
それらを手掛かりに江戸期の庶民信仰の姿を探っていきたいと思っています。 

※1、中野幡能『八幡信仰』第6章
※2、弘仁・貞観・延喜三代の格文を集大成して分類・整理した法令集。
   三代の格がすべて官司別分類であるのに対し、本書は神社・
   仏事・諸司・諸国・農桑・調庸・田地など項目別にまとめる。
※3、『恒例仏神事』(寛元2年(1244)の奥書、『石清水八幡宮史料叢
   書』四所収)
※4、文永12年(1275)の奥書がある。
※5、石清水八幡宮の西氏によれば、二月初卯の神事は明治になって
   一旦中絶され、昭和36年に復活されたとのこと。ちなみに今年の
   二月初卯の神事は 2月24日に非公開で行われた。 なお石清水
   の御神楽は、現在宮内庁の御神楽として受け継がれているとの
   ことである。

この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2012-04-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第25号より-end

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by y-rekitan | 2012-04-28 01:00 | Comments(0)