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◆会報第27号より-top

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◆《講演会》八幡の町の成り立ち◆
◆シリーズ:“八幡に残る昔話と伝承”②◆


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by y-rekitan | 2012-06-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第27号より-01 町の成り立ち

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《講 演 会》
八幡の町の成り立ち
― 2012年6月  松花堂美術館講習室にて ―

八幡市教育委員会 文化財保護課 大洞 真白


 6月16日(土)、午後1時半より松花堂美術館講習室にて表題のタイトルで講演が行われました。いつもの通り概略を紹介します。章の見出しは編集部がつけたものです。

 
はじめに

 2年前に「探究する会」で話した時は、石清水八幡宮が遷座されて門前町が出来てから以降のことを主に話したと思う。今日は、それ以前の古代の八幡がどのようにしてできたのかということを綴喜郡の成り立ちをもとに考えてみたい。また、最近の発掘調査でわかってきたことも併せて話したい。

1、 木津川流路の変遷―古代の「綴喜郡」域を考える

(1)古代の地形図から考える
f0300125_193479.jpg八幡市の前身は綴喜郡に属しており、綴喜郡は、八幡市をはじめ京田辺市井出町、宇治田原町で構成されていた.
 ところが、平安時代中期に成立した『和名類聚(わみょうるいじゅうしょう)』によれば、現在の八幡市は以下のように綴喜郡と久世郡の二つの郡に分かれている。( )内は、現在の地域に比定されるものである。
綴喜(つづき)郡――有智(うち)郷(八幡市内里・戸津周辺)、甲作(かつらつくり)郷(八幡市八幡周辺)
久世(くぜ)郡――那羅(なら)郷(八幡市上奈良・下奈良)、水主(みぬし)郷(八幡市上津屋・岩田)、埴栗郷(八幡双栗、やわたそぐり)、奈美(美豆、みず)

 なぜ、二つの郡に分かれることになったのか、それを考える鍵になるのが南山城の古代の地形である。

f0300125_198615.jpg 古代の南山城の地形を見ると、巨椋池(おぐらいけ)が広がっていたことや木津川の流路が淀まで伸びていたこと、男山が山城と河内の国境に続いていたことがいえる。但し、木津川の流路は一定のものではなく、洪水が起こるたびに様々に変えていたことが推測される。

そのことを窺わせる一つが古代条里制である。

 古代条里制によって田んぼは方形に整えられていた。ところが、例えば米軍が終戦間際に撮った航空写真などを眺めると、内里・戸津と上奈良・下奈良の境界辺で方形の田んぼに乱れが生じていることがわかる。つまり、この辺りに川が流れていて、その川の流れを堺にして郡が設定されたのではないかと推測できるのである。

 すなわち、川の西側である甲作郷(八幡市八幡周辺)と有智郷(内里・戸津)が綴喜郡に、川の東側である那羅郷(上奈良・下奈良)と水主郷(上津屋・岩田)他が久世郡にそれぞれ編入されたと考えると納得がゆく。このことは、川口や内里八丁遺跡などの地層調査によって、この辺りが木津川流域に見られる砂地と同様であることからもいえる。

 また、那羅郷の御薗(みその)(朝廷が領有した所領)と河川との関わりについて、『類聚雑要抄(るいじゅうざつようしょう)』や『延喜式』などの文献では、那羅郷で採れた「雑菜」が川船によって「與等津」(淀)まで運ばれたとあり、この川によって物資が運搬されたことが推測される。そのことは、内里八丁遺跡の調査によってこの辺りに役所らしき施設があったことからも想像できる。この役所は、天皇家に献納する野菜類を扱うための役所でもあったのである。

(2)古代の遺跡から考える
 次に、綴喜郡がどのようにして成立したのかについて考えてみたい。その際、南山城全体の古代遺跡の動向から考えるとわかりやすい。詳しくは『南山城の歴史と文化』(京都府立山城郷土資料館編、2002年刊)を参照してほしい。

 南山城に広がる弥生遺跡を見ていくと、巨椋池周辺や木津川流域に多いことがわかる。弥生時代でまず考えられるのは稲作であるが、当時の水田は静岡の登呂遺跡同様湿地帯にできたことを反映している。そして、八幡の弥生遺跡は比較的中期から後期に成立したものが多いことがわかる。

 次に、古墳時代を見てみると、八幡の古墳は前期のものが多く、城陽や宇治は中期以降のものが多く規模も大きい。これは、古墳時代の中期に、城陽や宇治の在地豪族が確固とした地位をもち、この地方の生産力が高まったことを示している。八幡の古墳の被葬者(豪族)は城陽・宇治の勢力に圧倒されるようになったという事でもある。古墳時代に大きな墓を作ることで権力を誇示してきた豪族層が今度は寺院を建立することで力を示す様になったといわれているが、城陽・宇治には引き続き古代寺院が多くみられる。続いて、飛鳥・奈良時代の遺跡を見ると、木津・精華町を中心とした地域が寺院や瓦窯跡などの遺跡の数で他を圧倒している。平城京や恭仁京に近かった木津・精華の辺りは離宮や中央官人による寺院を建立する場ともなり、人口も増加したものと考えられる。

以上のことを整理すると、国郡郷制が確立する8世紀初期における南山城全体の状況から、奈良に近い木津や精華を中心とした相楽郡がまず成立したことが考えられる。次に古墳時代に勢力を誇った城陽と宇治の一部を含んだ久世郡が成立。すると、八幡や京田辺、井手町や宇治田原の地域は相楽郡と久世郡の中間の地域、いわば余りの地域を一つにまとめたことになる。そのような整理の仕方は八幡市民にとって不本意にも思えるが、そう考えた方がすっきりする。

2、 石清水八幡宮の成立―「綴喜郡」のなかに「八幡庄」となる核を形成

 だが、男山に石清水が遷座されると、綴喜郡のなかに八幡庄(神領)となる核が形成され、門前町としての賑わいがもたらされるのである。

 遷座される前の男山周辺では、内里八丁遺跡の辺りと現在発掘調査が行われている森の周辺、そして志水廃寺があった辺り、さらに戸津の北側に集落が見つかっているのみである。ところが、男山八幡宮が成立して以降、ことに室町時代になると、男山の東麓に科出(しなで)・常盤(ときわ)・山路(やまじ)・金振(かなふり)の郷が成立するのである。以上は内四郷とよばれるものであったが、他に外四郷として、美豆・際目・生津・川口が八幡宮の神領として成立するのである。

 江戸時代の八幡は上記の内四郷と外四郷が八幡宮の神領となり、他は戸津と野尻が淀藩の領地とされ、上奈良・上津屋・内里・岩田は入り組み支配地といって幕府領・淀藩領・公家領・社家領などが入り組んでいた。そして、美濃山は長い間、他の村々の入会地として機能してきたが、江戸時代中期以降開発の手が入り新開地と呼ばれたのである。

 注目したいのは、1872年(明治5)の八幡(旧八郷)の戸数1136という数字である。これは他の地域と比べて町屋が集中する都市的な傾向を示したもので、江戸時代を通して八幡神領が門前町として繁栄していたということを表している。

 最近発掘調査が行われた八幡森のことはみなさんからの質問に答えることで語りたい。

休憩の後、次の様な質問が出、大洞さんから懇切に答えていただきました。
 f0300125_9563791.jpg① 先日、八幡森の発掘調査の説明会があり、飛鳥から奈良時代の遺物が出てきたとあるがそれはどんなものか。

② それと関わって、八幡森の中世から近世の遺物に豪華な品物が出てきたという。一体、この辺りはどんな人々が暮らし、それは石清水とどんな関係があったのか。

③ 今度の八幡宮の発掘調査を通じて、八幡神が男山に遷座されたことで、これまでの知見と何か変わったことがあったのか。

① ・・・須恵器(陶器)や壺・坏(つき)という陶器が出てきた。で、この森も含め、八幡の東部には、飛鳥の弘福寺(川原寺)の荘園があったとの説があり、山城国久世郡の「弘福寺田数帳」によって森の北側に荘園領地が比定されている。薬園寺は行基創立ともいわれるが、その真偽はともかく、木津川河床遺跡を含め、この辺りは、奈良時代から一定の集落があったと考えられる地である。

② ・・・天目茶碗のかけら等一流の茶人が使用した茶道具と思しいものが出てきた。八幡森には、麹(こうじ)を独占販売することが八幡宮より許され、そんな特権を駆使して蓄財するものがいたことが指摘されている。

③ ・・・「弘福寺田数帳」には弘福寺領のほか、森の周辺に薬師寺の所領や他の氏族の所領があったらしいことも知られる。今後これらの検討によって新しい視点が見えてくるかもしれない。

『一口感想』から

f0300125_9593450.jpg◎ 今回の講演は終始息もつかせぬ、おもしろい内容だった。パワーポイントの提示もわかりやすかった。内容的には、木津川流路の痕跡、発見の項がわかりやすかった。私の今までの認識は、木津川を北から南に移動したものと解していたため、上奈良・下奈良地域がどうして久世郡に入っていたか疑問だったが、中世後半・近世初頭までこの地域は、南を流れ、その後南(西)から北(東)に移動したという。綴喜郡の境界線の説明が非常にわかりやすかった。(M)
◎ 地形・郡-郷の境から(町の)成り立ちを見る観点、わかり易く興味がわく説明でした。 (O)
◎ 八幡の町の成り立ちがよく判り大変勉強になりました。こんな立派な歴史のある八幡の町を機会あるごとに話したいと思います。八幡市としても大いに宣伝して下さい。町の観光事業拡大のために役立つと思います。資料は高価になるかも知れませんが、カラーにして頂いた方がわかりやすいです。(T)
◎ はじめて参加させていただきました。昔から興味のある世界ですので、これからも勉強させて頂けたらと思います。ありがとうございました。(S)
◎ 遺跡発掘調査で判明したことが同時代の事実を記した他の関連資料からも補強されることが「八幡森の調査」現地説明会に参加したことと弘福寺田数帳の説明からよく理解できた。(N)
◎ わかりやすく資料がまとめられており、よく理解できた。淀美豆町に住んでいるので古くは八幡神領であることを知り、うれしくなった。(U)
◎ 八幡の町の成り立ちを古い弥生時代までさかのぼった歴史をまじえて聞けるとは思ってもなかったです。古い文献も勉強されてのお話はとてもよかったです。(N)


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by y-rekitan | 2012-06-28 12:57 | Comments(0)

◆会報第27号より-02 女郎花の話

シリーズ「八幡に残る昔話と伝承」・・・②
女郎花(おみなえし)のお話

 丹波 紀美子 (会員) 


 昔むかし京に都が出来て間もないころ、八幡に小野頼風(おののよりかぜ)が住んでおりました。彼は勤めのために都に上がり、ある女性と恋に落ちました。 やがて頼風は勤めを終え、八幡に帰る時がやってきて、女性に向かって「長いこと世話になっておおきに。また会いにくるよってに待っててや、いや、迎えに来るさかいに元気でいててや」と甘い言葉を残して帰って行きました。
 しかし、いくら待っても頼風は訪れてはくれませんでした。
思い余って女性が八幡の地に訪ねてみると、何と頼風は妻を娶り楽しそうに暮らしておるのを垣間みてしまいました。f0300125_1747284.jpg都の女性は「頼風さんは私に嘘を申された、ひどいお方」と、嘆き悲しみ着ていた山吹色の衣を脱ぎ捨て側を流れていた泪川に身を投げて、はかなく命を断ちました。その山吹色の衣が朽ちて、そこから女郎花が咲き風にソヨソヨと揺れていました。
 一方、頼風は都の女性が自分を訪ね来て入水したと噂に聞き、その場所に行ってみると、確かに女郎花が咲いていました。頼風が側に近づくと女郎花は頼風を避けるかのように遠くへ棚引きます。また、頼風が元の所へ戻ると花も元に戻るのです。「ああ!可哀そうに、死んでもまだ自分のことをこんなにも恨んでいるのか」と、思うと頼風は自責の念にかられ、同じ泪川の下流に身を投げて帰らぬ人となってしまいました。
f0300125_17505950.jpg 村人たちは気の毒がり、塚を築いて冥福を祈りました。それが「頼風塚」であり、別名「男塚」です。その頼風塚には不思議なことに塚の側に白い花の男郎花(おとこえし)が咲き、塚の周には葦が茂り、この葦がまた珍しいことに片方のみ葉を付けて女郎花が咲いている方ばかり向いて葉を出ていたのです。そのため村びとたちからは京の女性を思う気持ちが「片葉の葦」なって生えたのだと言い伝えられてきました。

 なお、女性の亡骸を葬った塚が「女郎花塚」であり、またの名を「女塚」と言います。この女郎花の話は平安時代初期、布留野今道(ふるのいまみち)が奈良にいる僧正遍昭を訪ねて行く途中、男山で詠んだ和歌

「をみなえし憂(う)しとみつつぞ行きすぐる 男山にし立てりと思へば」

があり、これは古今和歌集に載っていますが、この和歌が元で伝説化したのだといわれています。そして室町時代の初め、能を大成した世阿弥の謡曲によって世間に広く流布されたようです。
 現在、1 メートル程の頼風塚は八幡市民図書館の近くの民家の路地裏にひっそりと建って、近所の人たちに優しく守られています。そして女郎花塚は松花堂庭園内の小高い場所に1.5メートル程の石の囲いを施して大切にされ悲恋物語をボランティアによって語られています。この女郎花塚があることから、住所も八幡女郎花と名付けられた。
 
(*注) 「女郎花の話」は昨年8月、KBSラジオの「京都百花事典」でも取り上げられ、丹波 紀美子さんが女塚・男塚のエピソードなど「女郎花にまつわる物語」を語られました。(編集者注記)

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by y-rekitan | 2012-06-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第27号より-end

この号の記事は終りです。

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by y-rekitan | 2012-06-28 01:00 | Comments(0)