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◆会報第28号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“わが心の風景”①◆
◆《講演会》良いまちには良い川がある◆
◆シリーズ:“八幡に残る昔話と伝承”③◆
◆シリーズ:“八幡太鼓祭り”①◆


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by y-rekitan | 2012-07-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第28号より-01 お米屋さん

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わが心の風景・・・(1)
街角のお米屋さん
所在地 八幡山柴


 f0300125_1781939.jpg街角の風景は、人々の暮らしと深く繋がっています。幾年月を重ねた風景は、いつしか、そこにあるのが当然のように、地域の一員になっています。
 八幡山柴のお米屋さん・・・「八幡食糧」の看板は、まさに地域の「食」を支えてきました。軒先に停められた古くて厳つい自転車は、各家庭へおいしいお米を数え切れないぐらい運んだことでしょう。その風景が姿を消し、その場所は今、更地となりました。もう、そこに会えないという込み上げてくる寂しさは、心の中にもポッカリと空いた更地ができてしまったからで、そこが私たちにとって大切な場所であったことに今、気がつくのです。
 街角のお米屋さんの絵は、まちの風景の大切さを思い起こさせてくれる一枚でもあります。(絵と文: 小山嘉巳)

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by y-rekitan | 2012-07-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第28号より-02 良いまち良い川

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《講 演 会》
良いまちには良い川がある
―2012年7月  八幡市生涯学習センターにて―

国土問題研究会  中川 学


 7月例会は、表記のタイトルで中川学さんにご講演頂きました。河川計画の専門家の立場から、よりよい河川のあり方を地域住民とともに考え行動している方です。以下、概略を紹介します。なお、見出しとルビは、編集担当によるものです。地形図は、講演で示されたものと別のものを使用しています。

近年の川づくりのうごき

 高度経済成長時代、川は埋められ収奪された。川は三面張りに改修され暗渠(あんきょ)化された。また、工場や家庭からの排水によって水質汚濁の問題が起こった。人々の暮らしから河川が遠ざけられたのである。
 その反省から「親水」の河川整備が進められた。都市環境の劣悪化への反省から、水辺の価値が見直されたのである。ただし、河川や水辺の「効率的」活用がさけばれ、河川空間が遊園地化されたり不自然な改修が施されたりした。
 そんな中、多自然型(近自然型)川づくりが提唱され、河川や水辺に特有の自然環境の保全や復元がなされてきた。だが、例えば石や木などの自然素材を使えば等の素材至上主義がはびこった。技術者の未熟という問題もある。
 今、そのような問題を克服すべく、「都市と川をめぐるトータルデザインへ」の動きが見られるようになった。キーワードは、「暮らしとの関わりの緊密化」と「必然性のある河川デザイン」である。

今日求められる公共事業の質とは

 河川デザインの考え方とは何か。
  • 地域性や固有性、場所性から必然性のあるデザインを試みるということである。
  • 歴史性・・・・・舟運や神事などの歴史をふまえる。
  • 自然性・・・・・河川のダイナミズムを知る。
  • 親水性・・・・・幼い時から川で遊び、川に親しむ。そうすれば、大人になっても川に関心が持てる。
  • 河川利用・・・・・生活感あるデザインでありたい。
 河川のあり様は公共事業の質に規定される。高度経済成長期では、「需要追随型」に、バブル後遺症期にあっては「需要喚起型」に、そして少子高齢化の現代にあっては「成熟型社会」にあった公共事業の質が問われる。
 今日求められる公共事業の質は、以下のように図式化される。
早い  →   じっくりと
安い  →  質の良いものを
剛い  →   柔(しなやかに)
 要するに、「エネルギー浪費型社会」から「持続可能型社会」への転換こそ求められる。

放生川の清流復活をめざして

 以上が「総論」ならば、以下に述べる事は「各論」である。
 各論を述べるためには、いくつかふまえておかなければならない事項がある。

(1) 木津川周辺の地形・地質の特徴
 木津川は、現在の伏見から淀辺りで桂川と宇治川が合流し、その合流した地点に広大な巨椋池(おぐらいけ)が広がっていた。また、木津川を包むおぐらいけ地質として大阪層群・丹波古生層・花崗岩があり、上流部からの土砂流出が盛んである。
 そのため木津川はその支流も含めて川床が高くなった。大谷川の上流の防賀川(ぼうががわ)では、マンボと呼ばれる煉瓦づくりのトンネルがあってf0300125_11454821.jpg、防賀川がJR学研都市線の上を流れている箇所がある。大変危険な箇所であり、現在防賀川の切り下げ工事が進んでいる。

(2) 舟運など木津川利用の歴史
 木津川には、両岸を結ぶ渡し舟が多く往来していた。「流れ橋」は上津屋の渡しがあったところに、1953年(昭和28)に架設された。通称「流れ橋」であるが、正式には府道八幡城陽線「上津屋(こうづや)橋」という。「府道」として京都府が管理していて、流されると、「災害復旧事業」により全額国庫負担で復旧される。

(3) 洪水の歴史
 木津川とその支流はたびたび洪水に見舞われた。『八幡市誌』第2巻に詳述さているように、正徳4年(1714)、現在の防賀川筋の上奈良・内里両村と下奈良村との領境にあたる蜻蛉尻(とんぼじり)堤を、上流にあたる上奈良・内里両村が多人数で切り取るという事件が起こった。洪悪水処理をめぐる争論である。
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 秀吉は、伏見築城に際して、伏見と大坂の舟運事業を進めるために、巨椋池から宇治川の分離を図った。しかし、巨椋池より高い位置にある槙島に築堤するなど、かなり無理な工事であり、今そのツケが来ていると言える。
 明治初年の木津川の川筋を替える工事は、木津川の洪水を押さえるだけでなく、宇治川の水の流れを良くするためのものでもあった。合流する三川が相互に逆流したりしないように、背割り堤を造って、合流部を下流に移す工事であった。

(4) 現在の河川改修事業の概要
 昔から比べると木津川の河床が下がり、大谷川の水を樋門を通して木津川に排水しやすくなった。現在の大谷川改修計画では、新たな樋門を造って流域を6分割するよう計画されている。従来からある橋本樋門以外に3つが完成し、あと2カ所で計画されている。

(5) 暮らしに身近な放生川を考える
 石清水祭で放生会の神事が行われる放生川であるが、水量が少ないこととその汚れに悩まされている。水量が少ないのは、八幡地域は傾斜が極端になく、そもそも水が流れない地形であることによる。
 水の汚れについては、水質浄化装置が設置され一定の効果をあげているが、例えば、地下水のくみ上げによって清流を取り戻すなど更なる改善の余地がある。
 何よりも重要なことは、周辺住民が大谷川・放生川に関心をもって行政とともに、どうやって清流を取り戻すのか話し合い合意形成をはかることである。その際のキーワードは「暮らしに身近な河川」ということである。

 講演の後、水害対策としてのダムの問題や放生川浄化の取り組みなど質疑応答がありました。以下、一口感想を紹介します。

f0300125_11554019.jpg ◎ たまにしか参加していないが、大谷川の清掃活動に参加して気になるのは、川に投げられるゴミの量である。川を人から遠ざけた永年の政策の結果とはいえ寂しい。住民参加で大谷川・放生川に清流を取り戻したい。(S)
◎ 3 6 5日毎日の小さな取組みの積み重ねが長いスパンで見れば人々の生活に潤いをもたらすのでは……。人と自然、いつになったら「対話」ができるのでしょうか。(H)
◎ 人と川とのつきあい方を知り、生き物としての川とどのように関わっていくか、考えさせられた。お願い:参加費が高くなってかまいません。資料の活字や地図などを大きくしてほしい。(U)
 ※ 参加費は上げませんが要望はしかと受けとめました。(事務局)
◎ 八幡の川、八幡の泉、今は名前だけが残って、何の役することもない。自然のために、子どもが楽しめるための水利用を考えたい。(S)

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by y-rekitan | 2012-07-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第28号より-04 茶久蓮寺

シリーズ「八幡に残る昔話と伝承」・・・③
湯濁山茶久蓮寺(ゆだくさんちゃくれんじ)

丹波 紀美子 (会員) 


 今は橋本駅の軌道の中にすっぽりと入ってしまって電車の通過音と発着音が狭い構内に轟いているが、ここには文化10年(1813)正月7日の火事に遭うまでは「常徳寺別名湯澤山茶久蓮寺」というお寺がありました。現在は西遊寺の前に「三宅碑」が建っていて、寺のあったことを伝えています。

 天正10年(1582)6月2日早朝、明智光秀は主君である織田信長を本能寺で討ち果たす、いわゆる「本能寺の変」がありました。羽柴秀吉は毛利攻めで備中高松城の清水宗冶を攻めていたが、その知らせを受け、宗冶には切腹をさせ、中国大返しという機敏さで山崎へ帰って来ました。12日、13日と戦は続いたが光秀は援軍の少なさと士気の低下と脱走者の多さに敗戦を悟り、密かに夜に乗じて勝竜寺城を脱出し坂本に向かって逃げる途中に小栗栖で農民の落ち武者狩りにあって亡くなりました。これが「山崎の戦い」です。

 戦に勝った羽柴秀吉は家来数人を連れて「石清水八幡宮に詣でて戦勝報告をして来る」と渡し船に乗った。川の流れに揺られながら橋の無い不便さを考えていたであろうか?そのうちに橋本に着いた。
 「おお!ここに常徳寺がある。常徳寺なる寺は、昔、足利義尚(よしひさ)公の陣僧〈室町幕府は出陣の際、僧侶を連れて行く。死者の弔い、軍師として敵方へも派遣〉であった春庭が開基した寺である。義尚公は茶人である義政公の息子故、茶にも通じていたであろう。陣僧であった春庭も中々の茶人だったと聞く、この寺は代々茶が盛んであろうかのう?茶を所望しよう」お茶に眼の無い秀吉は早速、寺に入って行った。家来が「茶を一服頂きたい」出てきた住職はびっくり……。
目の前に立派な大将が立っている。その大将はついこの間まで川向こうで戦争していた羽柴秀吉様と聞く。
 「はい!ただいま」と言いながら、奥に行き、「どうしよう!茶をよくご存知で造詣の深い羽柴様に差し上げるような茶が点てられない。困った!どうしよう!ええっい!暑いので喉も乾いていらっしゃることだろうから白湯を差し上げよう」と、ぬるめの白湯を茶碗に一杯入れて秀吉に差し出した。秀吉は「喉が渇いているので丁度よい」と、うまそうに一気に飲み干した。「今度は茶を所望したい」また持って出たのは白湯であった。何度、茶を頼んでも白湯ばかり出てくるので、そのうち秀吉も相手が茶人である自分のお茶に敬意を示しているのだと分かり、突然、大声で笑い出した「ワッハッハハ!分かった、分かった、そちの寺は湯を澤山くれて茶をくれん寺である故、湯澤山茶久蓮寺にするがよい」
 f0300125_18172100.jpg秀吉の奇知に富んだ寛大な措置に寺一同感激をして後世まで秀吉様を祀ろうとその後、木像の秀吉像を造った。秀吉が天下をとった後、20石の寺領も頂いた。また秀吉は天正20年には山崎橋の架橋にも着手した。秀吉と常徳寺との関係はこんな出会いだったのでしょうか???
 

 「秀吉と湯澤山茶久蓮寺」の話は橋本だけではなく、京都の「浄土院」や姫路の「法輪寺」にもあります。いずれも白湯が出てお茶が出ない話です。
 浄土院は北野大茶会の準備の時に名水が湧く寺だと立ち寄って白湯ばかり出た話。法輪寺は英賀城を攻めるときに立ち寄って秀吉が軽装のため間違えられて白湯しか出て来なかった話です。どれも秀吉が大笑いをして付けた名前といわれています・・・・・・。


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by y-rekitan | 2012-07-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第28号より-05 太鼓祭り①

シリーズ「八幡太鼓祭り」・・・①
八幡太鼓祭りについて(1)

 是枝 昌一 (会員) 


若い力と住民の結束力のパワー

 八幡の歴史を探究する会の活動もスタートして3回目の夏を迎え、八幡名物「太鼓祭り」への参加も3回目となりました(傍観者としてですが)。
 昨年は大雨の中、担ぐ方々の足元はドロドロ、神輿の上のうちわを振る人も雨の中、見物の方々も傘をさしての鑑賞と、散々の環境でしたが、「よっさーよっさー」の掛け声も勇ましく、無事宮入を完了されたことを思い出します。
 f0300125_17192594.jpg今年の梅雨明け宣言は17日、18日夕方の宮入は晴天の中と恵まれましたが、反面地面は砂ボコリが立ち、進行掛は水撒きに追われる情景が印象的で自然と人との混然とした調和を感じました。若い力の共有化の塊、住民の結束力のパワーに市長以下、ご苦労された保存会の皆様、市民の見物席からは盛大な拍手が届けられました。
 今年の神前の宮入りは、4年ぶりの平日開催となり、2基の神輿と3基の子供神輿が宮入りおこない、その他の地域の神輿は14日、15日の休日に市内を巡行しました。子供達の休みの関連、かつぎ手の確保のためといわれます。
 祭りの原点は『八幡考古録』によりますと、文政10年(1827、185年前)とされており「高良社祭礼、志水町内より太鼓出る」と記録が残っております。

和太鼓の歴史に触れる

 和太鼓は、縄文時代にはすでに情報伝達の手段として、利用されたといわれており、日本における太鼓の歴史は非常に古い。日本神話の天の岩戸の場面でも桶を伏せて音を鳴らしたと伝えられ、長野県茅野市にある尖石遺跡では、皮を張って太鼓として使用されていたのではないか推定される土器も出土しています。
 中世に入ると田楽などの発達などによってお囃子太鼓が隆盛し、戦国時代になると、大名たちが軍の統率をとるために太鼓を利用した陣太鼓が興ります。人間の心臓の鼓動に連携し自らを鼓舞する性質があるという説もあり、戦いにおける太鼓の使用はこの説に従えば有効な活用法であったといえます。近年では時刻を知らせるにも太鼓が使用されました。  《次号につづく》

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by y-rekitan | 2012-07-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第28号より-end

この号の記事は終りです。

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by y-rekitan | 2012-07-28 01:00 | Comments(0)