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◆会報第29号より-top

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◆シリーズ:“わが心の風景”②◆
◆《講演会》石清水際と神人の経済活動◆
◆シリーズ:“八幡に残る昔話と伝承”④◆
◆シリーズ:“八幡太鼓祭り”②完◆


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by y-rekitan | 2012-08-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第29号より-01 東高野街道

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わが心の風景・・・(2)
東高野街道と一の鳥居
所在地 八幡高坊


 f0300125_1732782.jpg京都と高野山を結ぶ「高野参拝道」のひとつである東高野街道は、八幡市駅辺りを起点とし、河内国と紀伊国の境「紀見峠」までの総延長約70キロメートルにも及びます。八幡市内は約5キロメートル、大阪府内にあっては約65キロメートルあり、街を縦貫するとても長い街道です。
 この街道はまた、高野山からさらに大峰山参拝にも利用されていました。
 石清水八幡宮が鎮座する男山には番号が付された鳥居が三つあり、東高野街道の起点に近い山麓にそびえるのがこの「一の鳥居」。平安期三筆の一人、藤原行成が筆を取り、寛永時代に松花堂昭乗がこの書跡を真似て製作したといいます。今日では八幡を散策する人々の待合わせの場所になっており、まさに「起点」といえる所です。
 (絵と文:小山嘉巳)

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by y-rekitan | 2012-08-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第29号より-02 石清水神人

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《講演と交流の会》
石清水祭祀と神人の経済活動

2012年8月 松花堂美術館講習室にて
國學院大學栃木短期大学・教授  鍛代 敏雄

                                             
1、祭祀と神人

 私の関心事は、石清水八幡宮寺のお祭りにあり、それに関連して石清水の組織がどういうものであったのか、神人(じにん)がどのような経済活動を担ってきたのかということを研究してきた。今日はそんなことを話したい。
 そもそも、石清水神人とは、石清水八幡宮の神役や社役に奉仕する身分呼称およびその集団をさす。「神人」という呼称はそれまでの「寄人(よりゅうど)」という言い方から平安時代、10世紀の後半から使われだしたものである。放生会(ほうじょうえ)などでは鳳輦(ほうれん)を担ぐなど様々な奉仕をするわけで、その意味で神様に一番近い人たちでもある。ただし、神人は職業身分ではない。侍もいて、農民や手工業者、商人もいる。むろん、石清水に帰属しているわけで、石清水があって、その祭礼に奉仕する神人がいるという構造をなしている。
 神人は石清水神人だけではない。奈良の春日大社に帰属しているのは春日神人であり、日吉(ひえ)大社であれば日吉神人と呼ばれるのである。平安時代の後期、院政時代には頻繁に強訴がおこるが、その際春日大社の神木をかついで行くのが春日神人で、比叡山延暦寺も訴えを起こす時に日吉神社の神輿を担いでいくわけで、僧と神人の役割は違うということを知っていただきたい。
 石清水の場合、八幡神と大菩薩とがはやくから集合して登場したが、平安末期からは、八幡大菩薩が阿弥陀如来と合体するようになる。さらに、神功皇后のおなかの中で応神天皇として戦うといった神話が生まれたように武神として、また平和をもたらす神として崇められていた。中世においては、阿弥陀信仰が広がる中で、八幡大菩薩と阿弥陀如来とが同体化され、阿弥陀如来として広く信仰されるようになるのである。
 従って、お祭りも中世において変容する。石清水の場合、現世において、阿弥陀が説く西方極楽浄土の世界を再現することが、祭祀の最大の目的になったと言えるのではないか。ちなみに、石清水には護国寺があり、薬師如来を祀っている。この薬師如来は、東方浄瑠璃浄土を演出するという考えがある。すなわち、西方浄土の阿弥陀如来が本宮に鎮座し、護国寺の本尊である薬師如来が東方浄土を創出するという構図である。
 そして、この祭祀(さいし)を支えているのが石清水神人である。

 2、神人の経済活動

 神人の経済活動を考える際に注目すべきは、「神器の論理」ということである。
 天福元年(1233)の石清水の史料に、安居(あんご)祭の経費負担を拒否する荘園の地頭などを石清水が朝廷に訴える訴状がある。そこに「神輿神宝と云い、供役神民と云い、皆是神の器たり」という文言がある。ここで云う「神民」は「神人」に他ならない。つまり、祭礼の経費を拒否する行為は、「神人」=「神の器」を汚す事であり、「神事違例」となり、それは国家に災いをもたらすものであると畏怖しているのである。(天福元年5月「八幡宮未断訴訟可蒙 聖断条々」『宮寺縁事抄』)
 平安末期、保元の乱の頃に全国的に神人が増えた。朝廷も抑制にかかるほどになった。平家等の武士の台頭に対する荘園領主の側が防御策として採った策なのかもしれないが、彼ら神人(じにん)はどうやって神人たる資格を得るのか。
 石清水の場合、本宮をふくめて、その荘園の住人が石清水の神人であることを申請する。その際、「礼銭」なるものを納め、いわば賄賂のような形で申請し、それに対し、石清水が補任状のようなものを出して神人になるのである。
 平安時代に神人はどれだけいたのか。
 本宮に直属していた神人は5、600人ぐらいだと云われる。時代は後代の慶長5年であるから関ヶ原の合戦が行われた時期に、600人程の神人が確定されている。(慶長5年5月「八幡山上山下知行高帳」(『石清水八幡宮史』6)
 もちろん、石清水の荘園は全国に散らばっているわけだからそれらの荘園の神人を含めると1000人は下らないと思われ、本宮に直属する神人は、八幡をはじめ淀や大山崎など淀川筋に多いのが特徴である。
 ここではっきりしておかなければならないのは、神人とは石清水の場合、放生会に奉仕する、例えば「火長陣衆神人」や「御綱引神人役」、「御前払神人」など祭礼に供奉することを担わされていたということである。だが、それは神事の場であって、日常は、大山崎に見られるように、油を商いとして商業活動を展開しているのである。
 重要なのは、放生会の場合、祭礼を担うグループが座として組織化されたということである。同時に、日常の場でも職業を通じてギルドとしての座が組織され、独自に機能しているということである。これは、石清水の神人の特徴的なことといえる。また、神人は様々な階層の人たちで構成されていた。中には金持ちの「有徳人(うとくにん)」もいて、その経済力が祭祀を担ったといえる。

3、安居会と八幡のまち

 今日は、安居(あんご)の祭について深く考えてみたいのでそちらの方に移りたい。安居会は、本来4月から7月まで行われた僧侶の懺悔(ざんげ)の修行である。夏安居というのがそれである。その際、その経費を負担するのが全国に散らばる石清水の荘園の有徳人であった。
 最大のイベントは7月15日(江戸時代は12月15日)で、祭礼が荘厳化されるのである。今行われていないが、江戸時代まで行われた。
由緒によれば、頼朝がその礼幣使節を出したのがきっかけとされている。石清水は、そのことをもとに安居会(あんごえ)は武家の祭礼であると規定したのである。頼朝は、例の大仏再建の東大寺に来た折に、源氏の氏神である石清水にやってきた。その時に、石清水側が頼朝に働きかけて武家祭祀として安居会が始まったのではないか。現に、頼朝が亡くなった後、鎌倉幕府は安居の費用を御家人に賦課している。
 この安居の祭は石清水独自のもので、他の八幡社では行われていない。私の住む平塚には八幡宮があるが、それは鶴岡八幡宮の勧請のものではなく、石清水からの勧請によって成立した。従って、安居の負担を平塚を支配する御家人たちが担わされていた。無論、それは平塚に限らず石清水の神領や別宮がある所なら全て安居会に奉仕しなければならなかったということである。
 鎌倉御家人はその負担を拒否した者もいたが、頼朝亡き後、執権によって、それは一生に一度のことだからと説得されているようだ。具体的には安居の費用として石清水に送金するのである。
 石清水の膝元である地元八幡ではどうか。
八幡の神人は、放生会も奉仕するが、安居会にも奉仕するという。但し、八幡では町ぐるみで安居の祭を支える体制ができた。
 鎌倉時代の末頃に、八幡は四郷(しかごう)(科手・常盤・山路・金振)が成立し、南北朝期から室町期にかけて町の体制が固まる。重要なのは、町の体制が固まってゆく際に安居神事がその紐帯として機能していることである。つまり、町の自治を支える精神的バックボーンとして安居の祭が存在しているのである。
 安居の頭役(とうやく)(安居神人)は前の年の7月15日に任命され(差符((さしふ))、鎌倉時代までは、全国に頭役が掛けられたが、南北朝を経て室町期・戦国期になると石清水の神領は、遠隔地で消滅する関係から、安居の頭役も、山崎や淀、楠葉、交野など八幡周辺の神人に絞られてくるようになる。
 頭役に任命されると、一年間は潔斎し、江戸時代の由緒によれば、なんでも洞ヶ峠の芝を持ってきて家の前に壇(オダン)が造られるらしい。そして、その壇を地鎮のように礼拝する作法もあったとのこと。詳しいことは不明だが、安居の祭のメーンイベントは、数十人で大木(松カ)の大木を石清水の山上に綱で引きあげて行く(いちの鳥居から猪ノ坂へ)というものである。
本殿の前庭に、6本の大木が立てられ、その宝樹大木には装飾(幡・華鬘・灯籠)が施されるという。
 実際にはどれくらいの経費が掛ったかわからないが、大山崎神人が行う日使頭(ひのと)祭(さい)(大山崎神人が4月3日に石清水に奉仕する年に一度の祭礼)で500貫文の費用がかかっていると室町幕府が算定したので、それに匹敵するとして相当な負担であったことがわかる。
 この安居は、石清水にとって、そして神人にとって、また幕府にとってそれぞれ意味があった。
 まず、室町幕府にとって安居会の意味を考えてみたい。
安居会は、頼朝の命によって始まった由縁がある。足利家は尊氏を始め頼朝伝説を信奉しているからそれを遵守したい思いはある。そのため、安居には尊氏自身、阿波の所領を寄進する程に保護している。それは、足利家の安泰を祈願するためでもあった。また、安居会は武家祭祀なのだから将軍家としてそれを遂行する自負もあったと思う。
 石清水側はどうか。祭祀を行う事で財政が潤うというメリットがあった。ことに戦国期になれば全国の神領が武士によって奪われていくのであるから、祭祀は石清水にとって財政上の補填(ほてん)になるのである。
 神人にとって安居頭役を担うということはどういうことなのか。
それは特権を得るということであった。特権の一つが免税特権である。つまり石清水八幡宮に属しているということで、通行特権や土地に対する免税特権を得ることができた。
 八幡は、鎌倉時代以来、守護不入の特権(=アジール)を持っていた。つまり、国家権力が介入できない土地であった。治外法権の場であったのである。だから逃亡者が逃げ込んで来る場でもあった。また、神人でなくても、八幡に住んでいる限り土地に対する税金が掛けられないことになっていた。また、石清水の権威が大きければ大きいほど、石清水神人はどこにいても石清水神人として保護された。乱暴狼藉が加えられれば、石清水として国家に訴えられ、その身分が保護・安堵されたのである。
 つまり石清水の保護下で商売(営業)ができる。石清水の祭祀を担っているということで商売ができる。故に彼ら神人は「神職商売」(神事興隆のための商売)と自称したのである。この言葉は戦国期に生まれたものである。彼らの「商売」が危機的な情況に追いこまれた中で殊更に叫ばれたものであると云うことも見ておかなければならない。
 
 ※ 配布資料から
 資料から確認したい。放生会神人の神役を紹介した中に、「御綱引神人」がいる。鳳輦を引く役ではあるが、言葉のルーツとして淀の船を綱で引く神人という意味があるのではないか。ちなみに、応永13年の放生会の御綱引神人役に淀庄16人があるが、これは淀の廻船業の者たちなのであろう。
 次に、鎌倉時代と戦国時代の安居会頭大差(だいさし)符(ふ)を紹介したい。安居の頭役(有徳人)として誰が任命されたのかというものであるが、どこに住んでいるのかに注目してみたい。
 鎌倉期のもの(正応2年<1289>)で見ると、常盤や科手、金振、楠葉、淀が見られるが、松原(播磨)や萱嶋(阿波)、野上(紀伊)、伊予(玉生)など遠隔地も結構多い。それに対し、戦国期のものは一つだけ史料が残っている(天文13年<1544>)。それによれば金振・山路・科手などや内里・戸津・美豆・際目・下奈良など八幡の地名の他は、交野・楠葉・淀など比較的八幡の近郊が多いことがわかる。

4、安居会の中断と復活

 ところが、安居の神事は秀吉の時代に中断されている。
天正12年(1584)から天正17年まで山城検地(太閤検地)が実施され、八幡の人たちは抵抗しているようだ。抵抗した理由には、検地によって秀吉の代官に石高が掌握され余剰が奪われてしまうということもあったのであろう。そして、検地への抵抗という意思を示すということで、安居会は天正17年から慶長5年(1600)まで中断されたようだ。
 それが復活したのは、志水家から出たお亀さんの働きかけもあるが、徳川幕府の意思だった。石清水八幡宮は源氏の氏神である。家康も崇敬する頼朝の命によってなされた安居会を復活させるのは源氏の末裔の意識のある徳川家であれば当然の措置であった。尤も、これまでの安居のメーンイベントが7月15日の夏であったのに対し、慶長期に復活する安居は12月15日がメーンで冬安居といってよい。
 家康も秀忠も八幡を守護不入の地とする。もちろん、この時代に守護などいない。要は検地をしないということである。秀吉は八幡を直轄地にした。徳川はそうではなく、検地をしないで、中世にあったアジールを存続するのである。そういう意味で、八幡は稀有な所だと言える。それを支えたのは安居会であった。
放生会は戦国期に中断し18世紀まで復活しないが、安居は江戸時代初期に復活する。徳川幕府の厚い保護政策があったからである。
 先程も紹介した慶長5年の「知行高帳」によれば、侍身分の安居本頭神人が内四郷12町に18家、60人いたことが確認できる。以下、各町にどんな安居頭人がいたのか示しておきたい。
 
 科手郷 ・・・ 科手町(福田)・橋本町(橋本)
 常盤町 ・・・ 田中町(片岡)・柴座町(喜多村・小谷・片岡・松田・北村・柏村・小寺)・
          紺座町(片岡・山内・横田)
 山路郷 ・・・ 山路町(森元・山岡・小寺)・森之町(森元)
 金振郷 ・・・ 薗町(林・小谷)・馬場町(神原)・志水町(志水・小篠・宇野田)・
          神原町(神原)・城内町(松田)

 ここで、有名なのは片岡道二である。もともと片岡は祠官家である田中家の政所を勤め、秀吉が台頭してくると、片岡は秀吉と密着し、八幡惣中を統括するまでになる。だが、徳川政権になると片岡道二は追放され、その領地は没収された上に、安居の費用を賄うために使われるという経緯をたどることになる。
 このように、安居頭役を勤める程の神人たちは、祠官家の政所を勤めるなどして力を蓄えてきたという面も見逃せない。
柴座の柏村も注目したい。柏村は山路郷の森家や森元家と結びついて酒や麹で財をなし、土倉(どそう)として金融活動に関与するようになる。
 金融活動と云う点で面白い史料がある。『室町幕府引付史料集成』にあるもので、永禄4年(1561)の「石清水八幡宮神人申状」に「為安居頭役勤、極楽頼子合力之事令興行訖、然者不可有改動之旨」とある。要約すれば、八幡宮の神人が、自分たちは安居頭役を勤めるために、極楽頼子(たのもし)(金融活動)を行っているのだから徳政をかけるのを止めよというものである。本来、徳政令は、利子を生みだす全ての金融活動の債務を破棄するために室町幕府が強制した施作であるが、石清水の神人たちは、自分たちは安居頭役(あんごとうやく)を引き受けることで神職を果たすのだから、徳政令はあてはまらないというのである。そして、幕府は彼らの言い分を認めているのである。
 また、彼ら神人は交通特権として自由通行権(関銭免除)や物流・売買の独占権があった。淀の問丸など廻船業に携わる者は石清水の神人であることでそのことが保障されていたのである。

 
5、境内都市「八幡」が蔵のまちであったこと

 ガスパル・ビレラというポルトガル宣教師(バテレン)が八幡の事を次のように語っている。
「日本人は之(石清水八幡)を戦争の庇護者となす。(略)当所は悪人の潜伏する所にして、予も始めて殺されんとせし時、都より遁れ8日間此所に匿れいたり、(略)都への通路にして又参詣者甚だ多きが故に商売繁盛して、此地の住民は甚だ富み、其家は大きく且つ構造好く立派なり」と。
 また、「(神聖)不可侵の(の地と見なされ)、特権を付与されていて、同所(八幡)に逃亡した者や、そこに隠匿した財産は、従来まったく危害を被ることがなかった」(『フロイス日本史』)とも述べられている。
 私は、石清水八幡宮との関わりで、八幡と淀と大山崎の三都の機能が分担されていたと見ている。大山崎は商売のまち、淀は廻船業の町、そして八幡は蔵の町だと。
 八幡には、蔵がたくさんあった。土倉もその一つ。金銭や米穀だけではない。預かり物が随分あった。
 戦国時代は、預け物の争奪戦が繰り広げられた時代である。八幡は権力者が介入できない守護不入の地であるから、そこに様々な物を隠匿することができた。
 どこに預けるのか。一つは山上の僧坊である。
千利休は茶壷を預けている。茶葉の入った茶壷を、松花堂昭乗の師匠である瀧本坊実乗に預けているのである。実乗は利休とは昵懇の間柄であった。利休が秀吉と小田原に赴いた際、瀧本坊実乗に手紙を書いていることでもそのことがわかる。そのように、どこかへ出かけた際に、大事な物を預ける所が八幡であった。預ける所には土倉もある。神人である片岡は高価な香炉を持っていた。その名物は信長に買収されたという。
 正法寺も大事なものを預かっていた。正法寺の正寿庵が野尻という国人の茶道具や『太平記』を預かっている。その仲介をしたのが、小篠(おざさ)という侍神人であることも付け加えておきたい。

 講演の後、質疑応答がありましたが、いつにもまして質問が多く寄せられ、関心の高さをあらわしていました。質疑の内容は紙面の関係で割愛しますが、安居会のイメージを問うものや山上の僧坊と大名等の師檀関係を聞くもの、神人のあり様を聞くものなど更に研究の成果を聞きたいとするものばかりでした。参加者はKCATなどマスコミ関係者をふくめて59名。 (文責 土井三郎)

以下に「一口感想」と、事務局からの要請に応じて下さった感想を紹介します。

◎ 貴重な資料による講演、ありがとうございます。訴訟の覚書、目録の一つからでも多くのことがわかることはすばらしいことだと思いました。引き続き、鍛代先生の研究成果をお聞きする機会を設けていただくことを期待します。(T)
◎ 蔵の町八幡が、八幡宮寺、神人、祭り、特権など各種の要素があって、非常に栄えたのであろうと思え、貴重な話を聞くことができました。」(S)
◎ 当時の為政者が神人の身分に様々な特権を与えた本当の意図はどこにあったのでしょうか! (H)
◎ 神仏をバックにした特権商売人は昔も今も変わらぬ存在やなあ、と思いました。所属寺社の為になっていることは確かですが。(M)
◎ この春に「片岡家文書の伝来過程から見た男山の国際文化」の講義を受講した。片岡家は武士であったが、常盤郷田中町の神人片岡は同じ武士かどうか疑問が残ったが、学ぶ都度新しい発見があるので楽しいです。( N )
◎ 石清水八幡宮の祭とそれを司る神人の実態を知ることができた。また、それを背景にした権力の強化や経済活動の庇護を受けていたこと等がわかった。( U )
◎ (私の住む)地元では社寺に関する調査・研究がすすんでおりません。関心も低いようですが、今日参加された方々は皆熱心で、レベルの高い質問を繰り広げられる様子におどろき、刺激を頂きました。また、機会があれば参加させて頂きたいです。(個人的に地元の神社文書を研究しています)(A〔綾部市在住〕)
◎ 今回初めて講演を聞いていろんな繋がりが見えてきました。皆様と同様、資料を眺めるよりもライブの講演によって歴史が生き生きとし、微妙なニュアンスも多く感じ取ることができました。神人による安居頭神事については、一生に一度祭主を勤めていたようですが、天正17年から慶長5年までの間は中断されたとの由、中断の直前と再開直後の安居神事の祭主が判りました。神人の公的な役割(奉仕)は谷村家譜などから概ね以下の通りです。
 1.放生会勤仕
 2.安居神事の執行
 3.江戸尾張への年頭御礼/白書院拝謁(江戸時代)
 4.為八郷本頭社士當役(江戸時代)
 研究者の間では八幡の安居神事が興味深い研究対象になっているようですが、講演を聞いて、市井の郷土史家の立場から今後も更に研究したい思いが強くなりました。
  (谷村勉)


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by y-rekitan | 2012-08-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第29号より-03 相槌神社

シリーズ「八幡に残る昔話と伝承」・・・④
相槌(あいづち)神社と二振りの刀

丹波 紀美子 (会員) 


 小さな社にその起源を伝える話が残っており、それを紹介してみる。この社は以前には相槌稲荷社といっていたようだが、今は鳥居に「三條小鍛冶相槌神社」と額字が掛かっている。石清水八幡宮に上る下馬碑の近くに鎮座していて、赤色で塗られた玉垣で囲われ、正面には二段の石段があり、社の前には白狐が2匹向かい合って座っている。隣には八幡五水の一つ山ノ井戸がる。
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 平谷の信者たちがお金を集めて自分に修理を頼んだ社で、相槌稲荷と言う。これを祀ったのは、世間の人はあの有名な三條小鍛冶宗近だと言っているが、尚次は違うと考えている。筑紫国三笠郡土山の鍛冶職人だと思う。

            
- 三條小鍛冶宗近 -
平安中期の刀工。住居は三条通り粟田口の相槌稲荷付近にあったと言われている。宗近は朝廷から名剣を打つよう命ぜられ、稲荷明神に祈願したところ、その使者である狐が相槌を勤めて名刀「小狐丸」を完成させたという伝承がある。他有名な刀は「三日月宗近」祇園祭りの長刀鉾のあの「大長刀」など。
 
平安時代の中頃、多田(源)満仲公が筑紫国三笠郡土山に住んでいる鍛冶職人の男を呼び寄せて「武将にも朝廷にも代々受け継ぐことのできるような、丁度三種の神器に匹敵するくらいの立派な刀を打ってほしい」と要望して作らせたところ、出来上がった刀は満仲の心に叶うような刀ではなかった。刀鍛冶はそれを無念に思い「必ずや後世に残る刀を打ってやろう。それには昔から神仏に祈願すればかなえられる」と思い、石清水八幡宮に参籠して一心に祈っていた。
 やがて「汝の申すこと、よく分かった。良い鉄を使って作るがよい。最上の剣を二つ与える」との託宣を頂いた。その刀工は良質の鉄を持って来て山ノ井の水を焼刃の水に使って昼夜を問わず懸命に刀を打っていると、何処からともなく相槌をしてくれる音がして、ふと我に返ると向かいに神様がいて一緒になって刀を打っていた。その刀鍛冶は霊験の厳かさに、神様をこの場所に祀り相槌稲荷社とした。
 出来た二振りの刀は、早速、多田満仲公に献上した。満仲は余りもの素晴らしさに、刀の切れ味を罪人を使って試したところ、罪人の髭まで切れてしまった。また、もう一方の刀も罪人の膝までも切れてしまい、その刀を髭切(ひげきり)、膝丸(ひさまる)と命名した。
 満仲の息子の源頼光の時、その二振りの刀の一振りは源頼光の配下の渡辺綱が持ち、一条戻り橋で突然何者かに兜をつかまれた渡辺綱が切りかかると、兜をつかんだままの鬼の腕だけ落ちていた。更にもう一振りは源頼光が持ち、瘧(おこり、マラリヤ)で苦しんでいた時、怪しい法師が現れ切ったところ、それが土蜘蛛だと分かった。この様な奇怪な出来事が起こり、名前を鬼斬(おにきり)、蛛斬(くもきり)と改名した。後にまた仔細あって、小緑(こみどり)、友斬(ともきり)と名前を変えたという。
 後世、この二振りの刀は北條氏に渡り、一振りを足利尊氏に、もう一振りを新田義貞へ伝わり、その後新田氏から徳川氏に伝来したという。
 この刀鍛冶は名前を伯耆国會見郡(ほうきのくにあいみのこおり)大原五郎太夫安綱という。   ―藤原(長濱)尚次著『男山考古録』相槌稲荷社より(再話)―

 『男山考古録』では、多田満仲が呼び寄せたのは筑紫国〈福岡県〉三笠郡の住人で刀鍛冶職人であったが、結局その人物は伯耆国會見郡(ほうきのくにあいみのこおり)の大原安綱だと言っています。伯耆国會見郡とは、今の鳥取県西伯郡伯耆町(さいはくぐんほうきちょう)である。
 伯耆町のホームページでは、安綱は『太平記』に「伯耆国會見郡に大原五郎太夫安綱と云う鍛冶……」と記されており、「その代表作には大江山で酒呑童子を切ったという源氏代々の宝剣「鬼切」〈国宝〉があります」と書かれている。(中国山地は良質の砂鉄が採れることで有名)
 また、福岡県三笠郡土山のホームページでは、次の様な伝説が記載されている。『源平盛衰記』には「筑紫国三笠郡土山という所に異朝より鉄の細工人が来て数年経った頃、源満仲に呼ばれて刀を打ったが満仲の気にいった太刀は一振りも出来なかった。そこでこの男は石清水八幡宮に参籠した。神託を受け出来上がった刀が『髭切』『膝丸』であった…」
 藤原尚次は『源平盛衰記』にも『太平記』にも精通し、『男山考古録』では二人の人間を一人の人物としてまとめて書き記したものか…? 二つの書物に矛盾があり、そのまま書物通りに書いたのか・・・?

 どちらにしても、源氏の宝刀で有名な髭切、膝丸(またの名を鬼切、蜘切)の伝説は、石清水八幡宮のご神託により鍛冶職人および彼の相槌をしてくれた、この相槌神社の神から生まれたのでした。


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by y-rekitan | 2012-08-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第29号より-06 太鼓祭り②

シリーズ「八幡太鼓祭り」・・・②
八幡太鼓祭りについて(2)

 是枝 昌一 (会員) 


神輿について

 まず「祭り」とは、人の脳の奥に宿る素朴な信仰心と結びついて、全国の各地に長く継がれてきた行事で、その語源は「マツラウ」という古語からといわれます。尊い方のそばでお相手すること、神のそばについて奉仕することということを意味することです。   したがって町内会の夏祭りなどとは基本的に異なる行事とされ、その祭りの華は神輿とされます。神輿を担ぎだす宮出しを迎えると担ぎ手の方々の目の色は一変します。形は地方の特色を生かしおりますが、神社を模したものとされます。
 言葉の起源は、高貴な人が乗った「輿」と呼ばれる乗り物に遡ります。奈良時代、格式ある神社から神様を分霊する際、輿を用いたことから、こうした輿を神の輿「神輿」と呼ぶようになりました。

掛け声について

 太鼓のリズムに乗り、リーダーの大きな団扇の動きに合わせ「ヨッサーヨッサー」が八幡の太鼓祭りの掛け声。その他一般的に色々の掛け声が使われます。f0300125_17353392.jpg「マエダマエダ」…前に進めるとき「サセサセ、サセサセ」…神輿を高く差し上げる時「ワッショイ、ワッショイ」…一般的に使われる。
 この語源は「和し背負へ」と言われます。人間同士の集まり、グループではさまざまな人が居られ、中には気持ちが合わない人、利害が相反する人も居られるでしょう。しかし同じ神輿を担ぐときには、身分も利害も感情も超越して、皆が心と力を合わせ背負わねばならない。そんな「和」を尊しとする思いが、この掛け声に込められていると言われます。(NHK「美の壺」より)
 祭りについては、民族学の面からも社会科学の面からも人々の絆につながる行事として注目されており,各種の論評も多々見られます。前号でご紹介しました八幡太鼓祭りの資料も貴重なものであり,今後の学習の糧にしたいと思います。
 先般山城郷土資料館での講演会に出席しました。その際、南山城の「祈りとくらし」と題する本を頂きました。農村での祈りの神事、お祭り、暮らしがまとめられており参考になりました。太鼓祭りも、八幡の町衆の貴重な祭りとして毎年盛大な形で、後世に伝えられる事を念願すると共に、歴史的記録の整理と評価を大事に進めたいと思います。《完》


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by y-rekitan | 2012-08-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第29号より-end

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by y-rekitan | 2012-08-28 01:00 | Comments(0)