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◆会報第30号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“わが心の風景”③◆
◆《例会報告》「八幡歴史カルタ」読み札の決定◆
◆シリーズ:八幡に残る昔話と伝承⑤完◆
◆シリーズ:八幡の歴史スポット①◆


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by y-rekitan | 2012-09-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第30号より-01 八幡五井

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わが心の風景・・・(3)
八幡五井と筒井
所在地 八幡高坊


 f0300125_1658387.jpg男山の麓、一の鳥居をくぐると頓宮殿北に井戸を覆う建物があり、側には「筒井」を案内する石標が立っています。男山には名水を湛える五つの井戸があり、「八幡五井」、あるいは「八幡五水」と呼ばれていました。
 筒井はその五水の中でも、一番の清水であると『男山考古録』は伝えています。
 古くは、井戸を覆う建物はなく、井桁だけだったそうですが、寛延2年(1749)に泉殿が造立されました。現建物は大正10年(1921)頃に建て替えられたものです。
 その意匠は「鎌倉時代様の蟇股、反り増しをもつ丸桁、桃山様式風の頭貫木鼻、猪の目懸魚の鰭の形などに設計者の力量と意欲が感じられる」と、『石清水八幡宮諸建造物群調査報告書』(八幡市教育委員会発行)が紹介しています。五水には、ほかに石清水井、藤井、福井、閼伽井があげられています。(絵と文: 小山嘉巳)

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by y-rekitan | 2012-09-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第30号より-02 八幡歴史カルタ

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《例会報告》
「八幡歴史カルタ」読み札の決定
― 2012年9月  山柴公民館にて ―


 9月19日、山柴公民館にて9月例会が開かれました。テーマは、八幡歴史カルタの選考(写真)です。
 望月充郎さんのあいさつに続いて、安立俊夫さんがこれまでの経過と選考の手順について説明しました。安立さんは、それぞれの作品について、場所や時代、人物について分析し、選考のポイントを図や表を示しながら提示しました。

f0300125_1428317.jpg また、作品全体の傾向が、歴史より観光にウエイトが置かれていることや、八幡らしさが抜け落ちている等の指摘が参加者からもなされ、必ずしも票数が多いから選ばれるということをしないで、全体的なバランスを考えて選考することが確認されました。
 土井の司会で、一つひとつのカルタの内容が吟味され、話し合いや多数決によって44句の作品が選ばれました。但し、今後、字句の一部修正はあり得ると思います。参加者16名
  足が立ち 神社を建てた 和気清麻呂
  いにしえを 今につたえる 放生会
  海鎮め 航海守る 五輪塔
  エジソンが 灯火(あかり)ともした 八幡竹
  男山 四十八坊 いまどこに
  川口の 天満宮にて 連歌三昧
  木津川の 白き砂かな 流れ橋
  国境 烽火(のろし)の煙 男山
  結縁(けちえん)を 願う阿弥陀の 正法寺
  講田寺 淀川見下ろす 地蔵尊
  咲きほこる 椿の園の 松花堂
  志水家の 娘亀女が 義直を生む
  水月庵 藪を抜ければ 円福寺
  善法寺 娘良子は 義満の母
  空高く 竜駆け上がる 神應寺
          ※「竜」は淀屋辰五郎の戒名「潜龍軒云々」より
  たぬき今 どろ松稲荷と まつられる
  鎮守社の 高良にとどろく 太鼓かな
  月夜田の 名前に負けず 八角堂
  寺の跡 参詣路に ここかしこ
  鳥羽伏見 橋本の街焼き 戦い終わる
  直條(なおえだ)の 願いかなって 八幡八景
  二の鳥居 猪鼻坂は 今はなき
  ぬばたまの 夜に月待つ 安居橋
  寝ずの番 水で悩んだ 防賀川
  信長が 社護(やしろまも)って 金樋(きんとい)献上
  橋本の 街道沿いに 渡し跡
  飛行機の 無事を見守る 二宮忠八
  蕪村が詠んだ やぶ入りの鳩
  弁天と 地蔵の輝く 忍澂寺
  洞ヶ峠 筒井来ずして 明智来る
  松のあと 背割堤の 桜かな
  美濃山に 眠れる古代 目を覚ます
  向い合う 鳩と若竹 八幡の市章
  めじろ呼ぶ 常昌院の 紅椿
  紅葉寺(もみじでら)高野街道 善法律寺
  薬薗寺(やくおんじ) 如来の微笑み 天女の誘い
  湯澤山(ゆだくさん)で 寺号茶紅蓮寺(ちゃくれんじ)よ
  淀屋邸 豪商の夢 今に伝えて
  洛南の 名園・茶室 松花堂
  利休とも 語りあったか 瀧本坊
  類焼を のがれて神座 大住へ
  連子窓 ゆかしく並ぶ 高野道
  ろうそくの 灯り誘(いざな)う 灯燎華(とうりょうが)
  湧き出(い)でる 名水ありて 石清水


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by y-rekitan | 2012-09-28 11:01 | Comments(0)

◆会報第30号より-03 五百の悲劇

シリーズ「八幡に残る昔話と伝承」・・・⑤
五百(以保)の悲劇と淀屋宗家のその後

丹波 紀美子 (会員) 


 江戸時代の中頃、八幡に可愛い女の子が一人残されてしまいました。父は地主で名前を下村个庵、以前の名前は淀屋辰五郎。母の名は吾妻といい、女の子の名前を五百(いお、以保)といいました。
 五百が7、8歳の頃、両親が亡くなり、八幡宮の社士たちの助けによって暮らしていました。五百は遊里にいた母吾妻の美人の血をひき、また父の美男の血をひいているため、容姿端麗で非の打ちどころのない女の子となっていました。
 ある時、社士の一人が五百に婿養子をとるように勧め、養子と定めたのが京都の四方田重丞(よもたじゅうじょう)の末息子の彦三郎でありました。ところが兄の孫七が五百と関係を結んでしまい、父の重丞は外聞を憚って孫七と添わせました。
 孫七は養子に来た後、下村佐仲と名を改め下村家の相続をしました。佐仲は元来、身持ちが悪く淫乱博打(いんらんばくち)が大好きな男でした。社士や近所の人たちの忠告にも耳を貸さず、佐仲は「妻が未だ不熟でつまらん」と、うそぶいては京都に出て放蕩博打に入り浸っていました。下村家を相続して間もないのに田畑などを売り払い、博打や遊興費に金を湯水のように使っているので、これでは下村家がダメになると社士たちが相談して佐仲に離縁を申し渡しました。佐仲も今まで散々養子先を荒らしまわったので、もはや居残ることは難しいと思って大体のことを承諾して離縁状のないまま別れました。
 時は移り、ある時、八幡郷に他所から剣術の指南に来た大野左門という浪人がおりました。社士たちの大半は左門の弟子となり稽古に励んでいました。左門には妻子もなく独身ということが分かり、社士は大野左門に下村家を継ぐよう勧め、結婚の仲立ちを引き受けました。左門も成り行きに任せ、五百の家を稽古場にして、ここに泊まるようになりました。しかし、五百は、はっきりと佐仲と離縁したと言う証文がないので表向きは客分として暮らしておりました。
 ところが、京都にいる佐仲は、風の噂でこの話を聞き嫉妬に狂いました。元文巳2年(1737)正月のある夜、佐仲は二人を殺そうと加勢を連れて忍び込み、大野左門が寝込んでいる隙に討ち果たしてしまいました。左門は、剣術師範であるので普通に立ちあえば討たれはしなかったですが、深夜熟睡をしていたため起きることもできなかったのです。一方、五百は起きて座わり「首を討ってください」と佐仲に向けて首を出し殺されたということです。調べに対して、佐仲は「はっきりと離縁したわけでもないのに他の男と寝ていた」と申し開き、「妻の不義の敵討(かたきう)ちだ」と弁明し落着しました。しかし、敵討ちだというものの評判は良くありませんでした。
この話が、大坂の芝居で「淀鯉金(こがね)の鶏(にわとり)」という演題で大いにもてはやされたといいます。
 その後、5、6年経った後、京都で博打の取り調べがあり、佐仲はその首謀者であったため流刑にされました。10年余り過ぎて恩赦になって京都へ帰って来ましたが、父重丞は亡くなり、親類縁者も冷たく、不遇のまま70余歳まで生きたということです。

 この話は、元京都奉行所与力をしていた神沢杜口(かんざわとこう)の「翁草」寛政3年(1 7 9 1)の中の「城州八幡女(じょうしゅうやわため)敵討ち」の文章を再話したものですが、神應寺の過去帳にも五百の死のことが書かれており、五百の命日は元文2年(1737)丁巳10月9日となっています。
 なお、その他にも淀屋の分家の大豆葉町家(まめのはちょうけ)の7代当主岡本撫山が著わした「浪華人物誌」にも同じようなことが書かれています。この本では事件のあったのは元文元年〈1736〉辰の4月となっています。明治時代に書かれたものですが、岡本撫山は銅座の官吏をしておりました。(死亡年月日は3つとも違っているが、内容は大筋で合致している)

 ところで、下村佐仲の名が記された別の資料(講田寺文書)が見つかっています。その資料によると、橋本平野山にある講田寺は、f0300125_21182685.jpg最初、生津村にあったが水害を避けて平野山へ移転しました。その平野山の土地の所有者は下村佐仲で、享保15年(1730)、自ら土を運び建築に尽力し、東厳和尚を中興の開山として招き、淀下津町の小林中兵衛門尉信政を工匠として翌享保1 6年(1731)4 月に本堂を造立しました。〈棟札有〉
 この下村佐中と先に述べた「五百」の夫であった佐仲が、余りにもギャップがありすぎて信じ難いのですが、佐仲もこの様に真面目な頃もあったのかもしれません。
 下村家は、延亨元年(1744)に不調法により闕所(神澤杜口・著による翁草より)となってしまいました。
 5代目淀屋辰五郎自身も宝永2年(1705)に驕奢(きょうしゃ)と謀書、謀判の罪で闕所(けっしょ)になり、彼の娘婿、佐中も女敵(めがたき)討ちの事件及び流刑の罪でしょうか?不調法という名で闕所の憂き目にあいました。そのことで、まだ多分にあった下村家の財産は没収されました。しかし、間もなく佐中と五百の間の息子豊五郎は、家の再興を許されたと言われています。ただし、その後の豊五郎の消息は今のところ不明です。
 講田寺の檀那であった下村家は、衰退の一途を辿ったのか?講田寺も寺運が年月とともに傾いて行きました。講田寺が寺運を盛り返すのは、寛政6年(1794 )、難波の鴻池善五郎の室が夫の没後、尼となり夫の菩提を移し、痴極大謙和尚(ちごくだいけんおしょう)を開山として田畑五十石を寄進したのが始まりです。
 淀屋辰五郎が闕所の後、八幡に移り住んだ場所は、山柴公民館の前の路地(ドンドの辻)を入って行った所で、「淀屋辰五郎舊邸」と記された三宅碑が建っています。      ※ 闕所(けっしょ)・・・全財産没収されることで,死罪などの重罪の付加刑。
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by y-rekitan | 2012-09-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第30号より-05 洞ヶ峠

シリーズ「八幡の歴史スポット」・・・①
洞ヶ峠

土井 三郎 (会員)


 
 日本の大手新聞は、政治を政局がらみでしか描かないと云われる。一つの政策が国民の暮らしにどう結びつくのか、あるいは憲法の条項から見てどうなのかということは書かず、政治家の離合集散や政局の動向を優先し面白おかしく描くというものである。従って、そういった政治家の態度や動向を示す言葉が氾濫する。「模様眺め」や「お手並み拝見」がそれで、「洞ヶ峠を極め込む」もその一つである。

 洞ヶ峠は、むろん八幡市が枚方市と接する地点にある峠である。
天正10年(1582)6月2日、信長の命で秀吉の毛利攻めの援軍として差し向けられた明智光秀は、主君信長が宿とする京都の本能寺を襲った。だが、信長を殺したものの光秀に味方する大名はいなかった。
 6月13日に火ぶたが切られる山崎の合戦を前にして、明智光秀は洞ヶ峠に来て、大和(奈良)の郡山城主筒井順慶に、味方してくれるよう懇請し共に京都に向かおうとした。だが、順慶に拒まれ、光秀は空しく京都に戻らざるを得なかった。

f0300125_0341368.jpg  洞ヶ峠に来たのは光秀であって順慶ではない。だが、順慶がここにやってきて、明智軍と秀吉軍の形勢を眺め、強い方に味方しようと極め込んだという誤伝がいつの頃からか広まった。実際、標高70メートルの峠に立っても、山崎や天王山方面は、円福寺を覆う藪や男山に遮られて全く見えない。ここから戦況をうかがうなど不可能なのである。
 但し、洞ヶ峠は山城地域が河内や大和との境に位置する交通の要衝(ようしょう)にある事実は思い。
 山崎の合戦をさかのぼる事230年前、文和元年(正平7、1352)3月、足利義詮(よしあきら)率いる幕府軍が、後村上天皇を雍して男山東麓に陣を張る南朝軍に襲いかかったのは、洞ヶ峠を拠点にしてのものである。「八幡合戦」の様を描いた『太平記』には、「洞峠に陣を取らんとす。是は河内・東条(富田林)の通路を塞ぎて、敵を兵粮に攻めんが為也」と記している。糧道を断つために洞ヶ峠は恰好の場所であったのである。 


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by y-rekitan | 2012-09-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第30号より-end

この号の記事は終りです。

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by y-rekitan | 2012-09-28 01:00 | Comments(0)