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◆会報第31号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“わが心の風景”④◆
◆《歴探ウォーク》八幡の古建築の探訪◆
◆二宮忠八翁と飛行神社◆
◆シリーズ:八幡の歴史スポット②◆
◆石清水臨時祭と平清盛◆


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by y-rekitan | 2012-10-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第31号より-01 御幸橋

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わが心の風景・・・(4)
御幸橋
所在地 八幡高坊


 f0300125_17152570.jpg一の鳥居をくぐり、頓宮までの間の参道に小さな石橋が架かっています。この橋の名は「御幸橋」と、藤原尚次が著した『男山考古録』は紹介しています。
 「御幸橋」というと、私たちはもっぱら木津川に架かる橋をそう呼んでいますが、この小さくてかわいい橋も同じ名がつけられているとは、少し驚きです。
 橋長2.0メートル、幅員7.30メートル、欄干の高さ0.33メートル、水路の深さは1メートルで橋の中央部が約10センチ程高く弧をえがいています。注意して見ていないと、見落とすぐらいのこの小さな橋。欄干や反りなど、その形はとても魅力的です。 
 『男山考古録』によると、虹橋とも言われたこの橋の下を流れる水は、かつてこの近くにあった御神田へと引かれていたといいます。また、寛延4年(1751)8月に、補石を入れて修造し、少し広くしたとも。ある古図には高欄がある板橋が描かれ、これが石橋になったのはいつなのか、明らかではありません。(絵と文:小山嘉巳)

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by y-rekitan | 2012-10-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第31号より-02 八幡の古建築

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《歴探ウォーク》
「八幡の古建築の探訪」
― 2012年10月  八幡市内にて ―


雨の中、盛会裏に「八幡の古建築の探訪」を実施

  10月28日(日)、標記の歴史探訪ウオークの日。ところがあいにくの雨模様。それでも、午前午前8時40分ごろから、昭乗広場には参加者がぞくぞくと集合。予定通り、午前9時には目的地に向かって出発しました。

f0300125_1633960.jpg まず、泥松神社へ。日頃、その前を通るだけで中に入ったことのない者には、泥松狸と庵主さんの縁起譚に心温まるものを感じました。往時には大阪や尼崎等から信者が集団で参拝したとのことです。

 続いて岸本のS家へ。町屋独特の平入りのくぐり戸、駒寄せ、連子窓、うだつ等を確認して屋内へ。土間は玄関から裏庭に続きます。夏は涼しいが冬は寒いとのこと。中二階には滑車が取り付けられ、昔はそこから柴を降ろしたとか。高窓からは自然採光がとりいれられる工夫がされています。

 次は、清水井のM家。最近リニューアルしたお宅ですが、昔の工法や様式を忠実に再現したもので、東高野街道の趣きが伝わってきます。ばったん床几を設置。近所のお年寄りが腰を掛けている姿も見られるとか。

 長屋門のあるH家を訪れました。長屋門には、門番が常駐したこともあるとのことです。新善法寺家とのゆかりのあるH家のご主人から徳川家康朱印状の写しを見せてもらいました。石清水八幡宮の社務回職に関するもので、実物は山城郷土資料館に委託されているとのことです。

神原地区にも昔の面影を残した古民家が並んでいます。白い土壁と庭の常緑樹が絶妙なコントラストを浮きだたせていました。

善法律寺に入り、普段見ることのできない諸仏を拝ませていただきました。本尊の八幡大菩薩像(僧形八幡神)には、神仏習合の姿を目の当たりに見る思いです。愛欲を力に変えるという愛染明王像とそれ(煩悩)を断ちきる不動明王像の姿には迫力がありました。そして、宝冠を頂いた阿弥陀如来立像は神々しく、千手観音菩薩像は神秘的でした。重要なことは、阿弥陀像が下院の頓宮脇にあった阿弥陀堂から、観音像は山上東谷の観音堂からもたらされたものであるということです。神仏分離の嵐に生き残ってきたのです。

雨はひっきりなしに続いていますが、城ノ内にある旧I家へ。八幡の町屋特有の三間つづきの間取り、座敷から庭の間にある濡れ縁などを確認しました。ガラス窓も古風です。

昼食後は、科手にある長宗我部盛親の隠れ家や駅前裏通りにある「引窓南邸跡碑」を見て飛行神社へ移動。

午後2時からは、小森正寛さんによる「古民家入門」のお話。NPO法人民家倶楽部代表でもある小森さんは、軽妙洒脱な語り口で皆さんを古民家の世界に誘い、古民家の魅力を実感させていただきました。

印象に残ったことを羅列すると以下のようになります。
  • 伝統構法とは、親方からうけついだ伝承工法による、日本古来の作り方であるということ。
  • 解放性が高く、間取りは建て主が考えるということ。伝統的構法は間取りの多様化に対応できる。
  • 建物を構成しているエレメントから民家建築を楽しもうという発想がユニーク。例として、虫籠窓(むしこまど)、 高窓、連子子(れんじこ)、ばったん床几、犬矢来、駒寄せ等。建具の繊細さにも注目すべきで、できれば自らスケッ チしてほしいとも。
最後に、日本の風土の中で生まれ育てられ、そこに暮らす人々の生活文化を生かす品格とあたたかみのある空間を感じさせる古民家の魅力を伝えて行きたいと述べ、今日のような取り組みが大事だと語っていただきました。

参加者は39名でした。雨の中で大変でしたが、大勢の方に参加してもらい、何より八幡の歴史と文化の魅力、そしてその奥深さを体で感じ取る一日になりました。(D)



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by y-rekitan | 2012-10-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第31号より-04 飛行神社

二宮忠八翁と飛行神社

恩村 政雄 (会員)


 先月の例会で選定された八幡歴史カルタの作品に次の句がある。
       「飛行機の 無事を見守る 二宮忠八」

 歴史的に価値ある社寺、古建築物、史跡、名所などが数多くある中で、近代的ニュアンスの濃い飛行機や二宮忠八が何故異彩をはなっているのかと関心を持った。また、「空に夢、世界に光展」の展覧会のボランティア要員に応募した際に、以下の疑問がわき、二宮忠八と飛行神社について調べてみることにした。
   ①航空関係に縁が薄いと思われる八幡市になぜ飛行神社が
     あるのか?
   ②飛行神社を建立した二宮忠八は航空業界とどういう関係が
     あるのか?
   ③飛行神社にはなぜ薬祖神が祀られているのか?  

1、 二宮忠八について

(1)二宮忠八の生い立ち
  二宮忠八は、慶応2年(1866)愛媛県八幡浜市で海産物商の7人兄妹の4男に生まれた。幼名は忠人。父が病没後(忠八12歳)、家業が思わしくなくなり呉服店に丁稚奉公(この時に商人らしい名前「忠八」に改名)、以後活版印刷業、写真業、薬種商、測量業といろいろな職業を経験する。
  22歳の時に徴兵されたが、本科兵基準身長(5尺3寸以上)に4分足りなかったために看護助手として丸亀歩兵第12連隊に入営。
  この頃、村田経芳少将によって村田銃が発明されたのに発奮し、二宮忠八もことあるごとに発明に興味を持つようになり、明治22年(1889)秋季機動演習時に大休止した琴平に向う樅の木峠で、カラスが飛行する時は羽ばたきをするのではなく滑空することに気づき、飛行への大きなヒントを得る。
 その後、丸亀衛戍(えいじゅ)病院、京城郊外の野戦病院に転属。京城郊外で負傷し、広島衛戍病院に配属される。軍勤務時の25歳の時に結婚する。
 軍勤務のかたわら、明治24年(1991)空を飛ぶ夢であるカラス型ゴム動力1号器を丸亀飛行場でテスト飛行。さらに、明治26年(1993)全長2mの玉虫型人力2号器の飛行テストを行う。
 飛行テストを踏まえて改良を加えた設計図をもとに上官に上申するが却下。1年後、2回目の上申も前回同様に却下され、失意の内に軍隊を退役する。

 退役後、明治31年(1898)大阪にある大日本製薬㈱に職工として入社。忠八が創製・改良した薬品は百数十種におよび、中でも明治39年(1906)に開発した潟利塩は大ヒットし、同社の業績伸長に大きく貢献する。
  その後、大日本製薬㈱の支配人に就任し、医薬業界の重鎮である武田長兵衛、田辺五兵衛、塩野義三郎などとの人脈を広げるが、経理部門の不正事件の監督責任をとって引責辞任、同社を退職する。
 大日本製薬㈱在籍中に、木津川河川敷が飛行テストの適地と見定め、明治33年(1900)八幡町に住宅を購入。退職後、大阪・北浜から京都府八幡町に居を移し、持病の療養に努めるが、飛行機に寄せる情熱は衰えることがなく、飛行機製作とテストに情熱を傾けていった。
  一方では、飛行機の発展と共に数多くの殉難者の報道に接し、心を痛め、殉難者を慰めるために宅地内に飛行神社を建立し慰霊に勤める。
晩年の日課は、飛行神社に仕え、幡山と号して飛行千歌、幡詞、幡画を友として余生を送り、昭和11年(1936)71歳で永眠する。

 
(2)飛行器に寄せる挫折と栄光
  • 凧好きの二宮忠八が空を飛びたい、どうしたら空を飛べるだろうか、と飛行器製作に悩んでいた時に、カラスが滑空する時は羽を羽ばたかしていない、玉虫は2枚の翅をたくみに使い分けて飛んでいることにヒントを得て、空飛ぶ器具(飛行器)を製作する。更に地上移動に必要な車輪をも装備する。
  • ライト兄弟が有人で滞空時間12秒の飛行を成功に先立つこと12年前(明治24年)に、すでに二宮忠八はカラス型ゴム動力1号器を製作し、丸亀歩兵場で35mの滑空に成功、更に1号器のテストを踏まえ、改良を重ね2年後(明治26年)には玉虫型人力2号器を製作しテスト飛行を実施。
  • 画期的なアイデアと独創性で飛行テストにまでこぎつけたが、長時間飛行には動力源としてガソリンエンジンが欠かせない。しかし、個人資力では限界があり、これ以上の研究は軍の協力が不可欠となり、今までの設計図を添えて明治27年頃(1894)に上申、明治28年頃に再度(2回目)上申を行うが、またも上官に却下される。
  • 明治36年(1903)ライト兄弟が有人飛行(車輪の装備はなし)に成功したとの報道に接し大いに落胆し、枠組みまで出来上がっている製作途中の飛行器をハンマーで叩き壊し、飛行機研究・製作を断念する。
  • ライト兄弟の有人飛行の成功以後、世界各国は軍備増強にとって飛行機の有意性に着目し、競って飛行機の研究に邁進。日本も明治42年(1909)陸軍が中心となって軍用気球研究会を組織し、飛行機研究が国家戦略となる。
         (軍用気球研究会長は、二宮忠八が2度に亘って飛行器
                   研究・開発を上申した上官(長岡外史陸軍中将))

  • その後、世界的に飛行機の開発競争が熾烈さを増す中において、陸軍航空本部は、二宮忠八答申の玉虫型設計書を改めて精査して、すでに明治26年にはこうした立派な飛行原理とテスト飛行が行われていたことに驚く。また、帝国飛行の記者が我が国航空界の貴重な資料として「二宮式飛行機について」と題する論文を「帝国飛行」に発表。その後の飛行機研究・開発を大いに加速させていった。
  • 二宮忠八の飛行機原理発明の功績を讃えて、大正10年(1921)航空本部長から感謝状が授与される。
    大正14年(1925)飛行原理の気づきを得た香川県・樅ノ木峠に顕彰碑建立。更に愛媛県・八幡浜市、韓国・京城にも顕彰碑が建立され、さらに帝国飛行協会から賞状と有効金杯受領、八幡町長から表彰状と商品受領など、二宮忠八の足跡のある航空業界、薬品業界、関係市町村から顕彰が相次いだ。
    昭和2年(1927)勲六等瑞宝章叙任、その功績は国語の国定教科書に採択された。航空医学の寺岡義信博士が英独両文で「欧米列強に先んじた日本飛行機発明史」の論文を各国航空首脳部に送付し、世界の二宮忠八となった。


2、飛行神社について

(1)創建のいきさつf0300125_151984.jpg
  • 飛行機の研究・開発・飛行が急速に進展するにともない、殉難者も増大する報に接し、自分(二宮忠八)が飛行業界に今後とも尽くすことができる唯一の道は「犠牲者の慰霊」にあると考え、大正4年(1915)京都府・八幡町の自宅内に「祠」を建立し、毎日祈願する。
  • 神職試験を経て神官となり、昭和2年(1927)「祠」を本格的な飛行神社に建立し、殉難者の霊を慰め、かつ航空界発展を祈る。
  • 飛行神社の碑文は白川大将の筆、額は長岡外史中将の自筆、鳥居や灯篭は飛行連隊飛行学校憲兵隊より寄進される。
  • 昭和11年(1936)に二宮忠八が没した後、維持母体の(財)飛行義会(昭和8年結成)に人が得られず、飛行神社は二宮家で維持されていたが、昭和30年(1955)二宮忠八次男の顕二郎氏が社主となり飛行神社を本格復興する。
  • 平成元年(1989)飛行神社を建替え、資料館を新設する。

(2)祭神について
 祭神は「饒速日命(ニギハヤヒノミコト)」、向って右に「祖霊社(航空殉難者・先覚者関係)」、向って左に「薬祖神(製薬業界関係)」
  • 祭神「饒速日命(ニギハヤヒノミコト)」
     古事記・日本書紀に天の岩船のことが出ているのを思い出し調べると、神代にニギハヤヒノミコトが地上に降臨する際に鳥の岩樟船、天の鳥船、天の岩樟船など、空を飛ぶ船のことが記述されていて、飛行慰霊の趣旨に適うと、ニギハヤヒノミコトが祀られている磐船神社(大阪府・交野市)から分霊を受け、祭神として祀る。
  • 祖霊社
     「世界の空は一つだ」の信条の下、全世界の航空殉難者・航空先覚者を合祀し、その慰霊と航空界の安全発展を祈る。毎年の例祭は、カラス型飛行器を飛ばした 4月29日。お祀の霊位は15万柱以上を数える。
  • 薬祖神
     薬業に関係した偉人を祀る。
      (長井博士、下山順一郎氏、丹波敬三氏、武田・田辺・塩野義の先祖の霊)

3、「空に夢、世界に光」の展示会に参加して

(1) 飛行神社参拝者と展示会来館者
 「空に夢・世界に光展」が本年10月19日(金)~28日(日)開催され、堀口八幡市長を初め八幡市役所の関係部局や外郭団体の責任者、市議会員が相次いで来館すると共に、朝日新聞、毎日新聞、京都新聞の取材も受ける。
 一般来館者は八幡市内だけでなく愛知県等、広範囲の各地から来館がみられ、同展への関心の深さがうかがわれる。

(2)二宮忠八の事蹟
 同展の説明員に参加して、当初抱いていた3つの疑問は解消したが、同時に、二宮忠八は飛行機の発明家ということだけではなく、実業家として、文才家としても抜きん出ていたという思いを深くし、二宮忠八に対する認識を新たにする。  
  • 飛行機の発明家として
     空を飛びたいと飛行原理の究明、飛行機開発に心血を注ぎ、ライト兄弟の有人飛行成功後は、空で犠牲になった人たち、航空業界関係者の慰霊に勤め、航空を生涯のバックボーンとする。
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  • 実業家として
     軍退役後、大日本製薬株式会社に奉職し、数々の医薬品の発明、改良を行い、同社の業容発展に大きく貢献し弱冠ながら支配人まで昇格。さらに発明した「潟利塩」は今日でも「エンリッチ」ブランドで販売されていて、二宮家の経営企業(マルニ株)として、飛行神社の支援企業として生成発展している。
        (エンリッチ塩はスーパーツジトミで137円(450g)で販売されている)
  • 文才家として
     若年時に幡詞、幡画をその道の第一人者から習い、晩年には幡山と号し「幡詞会」を結成。後進の指導に邁進する。二宮忠八直筆の飛行千歌、幡詞、幡画は数多く残され、文才の深さがうかがい知れる。
      
参考文献: 飛行神社社殿案内書、 二宮忠八小伝、二宮忠八と飛行神社、飛行神社と二宮忠八(以上4誌は飛行神社発行)、幡詞歌(幡山二宮忠八著)、 二宮忠八翁の飛行器 (統合幕僚会議事務局・永尾和夫 1等空佐著)

by y-rekitan | 2012-10-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第31号より-05 八幡宮と大石家

シリーズ「八幡の歴史スポット」・・・②
石清水八幡宮と大石家

丹波 紀美子 (会員)


 昔、石清水八幡宮には多くの寺(坊)があり、遠くからお参りの人には宿坊の役目をしていました。幕末には23坊位になっていたそうですが、廃れた坊もあり新しく生まれた坊もあり、分かっているだけでも全部で61坊数えたといわれています。 
 その中の一つに宮本坊がありました。この坊には大石内蔵助良雄の曽祖父に当たる大石新七郎(良勝)という男の子が修行していました。良勝は僧侶になることを嫌っていましたが、父は「武家は殺生をするので兄弟誰かを僧籍に送り込む習わしだ」として、良勝を僧侶にさせたかったようです。ある時、良勝は無断で宮本坊を脱走し江戸に行ってしまいました。慶長5年(1600)、14歳の時であったといわれています。
 徳川譜代の戸田左門に仕えて数年経ったころ、良勝は父と親交の深かった浅野長政に見いだされ、長政の三男で当時、下野国 真岡藩主である浅野長重の小姓として仕えるようになりました。慶長9年(1604)18歳の頃でした。
 大坂夏の陣の天王寺合戦で著しい武功をあげた良勝は同播の家老に抜擢され、常陸国 笠間城1500石を扶持されました。浅野家の播州赤穂への転封は、長重の子長直の時で、家老職である大石家は良勝の子良欽(よしかね)の頃です。ちなみに、良欽は内蔵助良雄の祖父に当たります。その後も、大石家は代々家老職として浅野家に仕えたのです。
 f0300125_13231632.jpg大石良勝が亡くなって約50年程後のことです。大石内蔵助良雄の弟である 專貞は、石清水八幡宮太西坊の住職として入寺していました。しかし、専貞は病気になり明日にも知れない状態になり「早く継ぐ者を」ということで覚運が選ばれました。慌ただしくお披露目の行事が終わり、專貞も安堵して元禄11年(1698)8月22日に旅立っていきました。(「赤穂大石家文書」、瀬尾孫左衛門から講三郎兵衛宛の書状より)覚運は小山源五右衛門〈小山良師)の末子で、内蔵助や專貞とは従兄弟に当たり、内蔵助の養子となって太西坊に入ったのでした。
元禄14年(1701)3月14日、内蔵助の主君、浅野内匠頭長矩(ながのり)が「松の廊下の刃傷事件」を起こしました。
 この知らせが赤穂城に入ったのが3月19日。その知らせに対して大石内蔵助の対応は3月21日付けの手紙でわかります。
 「城はいずれ明け渡しをしなければならない。その時に浪人の14、5人がとりあえず仮住まい出来る適当なところはないだろうか。ついては上方は不案内だから、石清水八幡宮の麓か、山崎、山科、伏見、大津の辺りでいい場所を見つけて欲しい」 
 この手紙は石清水八幡宮の太西坊、正之坊、專成坊の3人に出されています。(「正史赤穂義士」渡辺世祐著)
 なお、大石内蔵助の養子として入寺した太西坊覚運は、宝永2年(1705)5月2日に18歳という若さで身罷ったとの情報がある一方、没年を1754年とするものもあり不明です。
 また、覚運の実父、小山良師は討ち入りの前に脱盟したことを恥じ、八幡の寺に鳥居休澤と号し隠棲したと伝わっています。正徳5年(1715)68歳で死去。京都紫野瑞光院に葬られました。

 ※ 浅野家略系図
  長政―長重―長直(以降赤穂藩藩主)―長友―長矩(ながのり)
 ※ 大石家略系図
  良勝―良欽(よしかね)(以降赤穂藩家老)―良昭―良雄(内蔵助)



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by y-rekitan | 2012-10-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第31号より-06 石清水臨時祭

石清水臨時祭と平清盛

大田 友紀子 (会員)


はじめに

 今年のNHKドラマ「平清盛」の第2回目の放送後の「清盛紀行」にて、我が石清水八幡宮が紹介され、12歳で元服したばかりの清盛が、石清水臨時祭の舞人として奉仕したことが取り上げられました。今回のドラマは、史実とかけ離れた設定(例としては、清盛の母を殺害する場面がありましたが、法皇などの御殿の庭先で血を流すことは絶対にありえません)が矢継ぎ早に登場し、当初はかなり期待していたので、本当にびっくりしました。
 確か平成17年は「源義経」で、ちょうど京都アスニーの一階に「平安京都ゾーン」が誕生した年で、わたしは研修後に解説ボランティアを勤めることになりました。そこには、平安時代400年間の平安京の街並みを復元した模型が展示されていて、初夏の緑あふれる街がありました。大河ドラマでは、平安京の街を表現するために時間をかけて撮影されたことなどのエピソードがありました。清盛を渡哲也さんが演じられ、牛若丸の滝沢秀明さんと三十三間堂にて別れを告げるシーンがあり、印象的でした。そこでは平安時代全般をざっくりと解説した後で、「平安京で生まれた歴史上の人物は?」とクイズ形式で尋ねて「平清盛と源義経です」と答えたりしました。今は、「古典の日記念、京都市平安京創世館」と名称は変わりましたが、引き続き解説ボランティアを勤めています。
 そんなことから、平清盛については独自の思い入れがあり、厳島神社の造営にみられる彼の文化度の高さや「平家納経」における娘たちへの愛の深さ等、人間的な一面にも惹かれるものがあります。といいますのも、当時の仏教では女人は罪障が深く成仏できないとされていて、そのために死後の世界への恐怖や不安をかかえていました。清盛は、龍女が一瞬変成(へんじょう)男子して成仏した場面を「平家納経」(法華経提婆達多品、ほけきょうだいぼたったほん、第十二)に描き、女人往生を説く経典をみごとに絵画化しています。そしてこのことが、平家滅亡後の一門の娘たちを勇気付け、それを生きていく糧として残りの人生を送ることができたのではないでしょうか。建礼門院徳子をはじめ、他家に嫁いでいった娘たちのその後の生き方に、清盛が残していった心の強さがみてとれます。
 今回の大河ドラマは清盛の生い立ちやその他のことがらについても史実とかけ離れており、そのことなどを質問されることを予想して、全放送を見ておくことが必要で、多少のイライラはあっても今後の展開への期待をこめて日曜日の夜8時、テレビの前に座っています。とはいっても、あとわずかな日々ですが・・・。

平清盛の生母について
―平安後期の社会事情からー

 平清盛は、永久6年(1118)正月18日に生まれました。「それは鎌倉前期の摂政関白・九条道家の日記『玉蕊(ぎょくずい)』の建暦元年(1211)3月14日条によってわかる。この時代、臣下で誕生日までわかる人は稀なのだが、『正月誕生の人、皆最吉なり』という例としてあげられた。30年後の若手政治家も、平家の悲劇的な滅亡にもかかわらず、彼のたぐい稀な人生を『最吉』と理解していたのである」(高橋昌明『清盛の目ざした者』)とあり、第一級資料に記載されています。
 そしてその生母については、「夕方、伯耆守忠盛の妻、俄に卒去すと云々。是れ仙院の辺りなり」(『中右記』保安元年(1120)七月十二日)とあり、その死は清盛3歳の時のことで、そのことを時の有能な政治家である藤原宗忠が書きとめているのが少し気にはなります。というのも、当時の日記には尋常でないことや不思議に思ったことなどがときたま書かれますが、多くは子などに伝える目的の儀式次第や行事が中心です。「俄に」の字が使われているのも意味深ですが、この記事と「仏舎利相承(そうしょう)系図」(近江・胡宮(このみや)神社)とを典拠にして、清盛の生母を祇園女御の妹とする説が一般的です。仙院とは白河法皇自身をさし、その御所に仕えていた女房であったと考えられています。
 とにかく清盛の母はなくなり、平忠盛はその後、白河院庁の判官代・院御厩預(いんみうまやよ)に任じられ、同時に北面の武士たちを率いる首領的地位に立ちます。その忠盛が藤原宗兼の娘(後の池の禅尼)を正妻とし次男家盛をもうけ、その後、待賢門院(たいけんもんいん)の女房の元に通い、異母弟教盛が生まれるのが大治3年(1128)です。一夫多妻のその頃の習慣のもと、清盛の異母兄弟が次々と誕生する中、清盛は12歳となり石清水臨時祭に舞人として参加し、衝撃的な公家社会デビューを果たすこととなるのです。
「大治4年(1129)3月16日、この日は石清水臨時祭である。舞人をつとめる公達の中で、一人の少年貴公子に従う雑色たちの、美々しい装束がひときわ人々の目をひいた。白河法皇の猶子(ゆうし)に当たる内大臣源有仁(ありひと)の随身が、少年の馬の口取りをつとめているのも驚くに十分なことだった。先日元服したばかりの12歳の平清盛こそ、この少年である。元服に際して従五位下、佐兵衛佐(さひょうえすけ)とされたおりにも、その破格の待遇が話題にのぼったばかりのことだった。」(上横手雅敬『源平争乱と平家物語』)とあるように、祇園女御の手で養育された平清盛の公家社会へのデビューは華やかで、当時の人々を驚かせました。美々しい装束は、白河法皇の近臣であり清盛の乳父である藤原家保(いえやす)が整え、その御供は時の内大臣・源有仁(ありひと、彼も法皇の猶子の一人)の随臣たちで、そこに法皇の意向が反映されていることを当時の貴族たちは勿論、見物していた人々にもすべてに周知させたのです。
 白河法皇と祇園女御がおそろいでその有様を特別に設(しつら)えさせた桟敷(さじき)にて見物していますし、その年の7月に法皇が崩御されていることなどを考え合わせると一つの推論が浮かびあがってきます。法皇は老齢の身を思い、清盛の元服を早めて今回の石清水臨時祭に舞人として参加させたということです。ご落胤云々はわかりませんが、法皇が清盛を可愛がっていたことは疑いなく、そのことは祇園女御への寵愛故であったと思われても仕方がないのです。
 平安時代後期の社会は「婿入り婚」で、妻の元へ夫が通い、出来た子は母方にて養育されました。清盛の生母が祇園女御の妹であったので、女御の手元で養育されたとも考えられますが、法皇の意思で親王並に乳母が決められていることはとても重要で、その事実は、母である女性が「白河法皇の身近な女性だという情報は、やはり重要である」と、高橋昌明もその他の論拠をあげて落胤説に立たれています。乳母である隆子(家成の母で藤原隆宗の娘)の夫は臨時祭の美々しい装束を調えた藤原家保で、その父は白河上皇の乳母子である藤原顕季(あきすえ)で白河上皇の寵臣です。同時に顕季は祇園女御の親人(しんじん)ともいわれて二人を引き合わせた人物ともされ、同じ受領(ずりょう)として平正盛・忠盛父子と気脈を通じ、隆子の兄・宗兼も院近臣として顕季に近い貴族で、平忠盛の後妻となる宗子(後の池禅尼)の父であり、家成とは従兄弟の間柄です。
 このように、当時の白河上皇の近臣たちはお互いに婚姻関係などを結んで協力し合い、天皇の権威を保守して伝統的な権力を守ろうとする藤原摂関家とそれに属する貴族たちと対峙していました。
 顕季一門は、顕季の母親子(ちかこ、白河法皇の唯一の乳母)が建立した善勝寺を氏寺とし、嫡流の長男は善勝寺長者と称して、院政期には巨万の富を蓄え、その力をもって娘たちを天皇家や新興勢力の貴族などの正妻として、朝廷に隠然たる影響力を持ちました。清盛を支えた親平家公卿の筆頭もこの顕季一門で、家成の嫡男隆季(たかすえ)です。彼の嫡男・前大納言隆房(たかふさ)が書いた、後白河上皇の50歳の祝賀をしるした『安元御賀記』には、別当権大納言隆季と平家一門が協力する姿が描かれています。
 また、平清盛の盟友ともいわれる藤原邦綱は、娘を歴代の天皇の乳母にしたことから数多くの邸宅は里内裏(さとだいり)や院御所として使用されますが、それはその頃の、娘が邸宅を伝領するという婿入り婚の形態によるものですが、院政期になると多少の変化があり『江家次第(ごうけしだい)』には「近代露顕(ところあらわし)は一夜なり、よりて後朝使いなし」とあり、摂関家当主以外の貴族層では短縮されて第一日目の夜に露顕を行うようになります。露顕とは、平安貴族層の結婚は婿入り婚で新郎が夜に新婦の家に来訪して初夜を迎え翌朝には帰り、翌日も同様なことを行い、三日目の夜に新婦方で、新婚夫婦が一緒に三日夜餅(みかよのもちい)を食べ、婿と従者に饗応して初めて正式に新婦の両親以下の親族と対面する儀礼を持ちました。この三日目の祝宴を露顕といい、結婚の事実を広く知らしめるために、それまでの「訪婚」から「同居婚」にいたる過程で始まった儀礼だとされています。この日から新郎は新婦の邸宅で同居をはじめ、新婚夫婦は昼間にお互いの顔を見る事ができました。また、陰陽師に吉日を占わせて露顕の日を決めるようになり三日目ではなくなりました。
 今回の大河で、平重盛の婚礼場面が描かれていますが、あたかも「嫁取り婚」の形式のように描かれていて少々ガッカリさせられました。
 最後に、清盛がご落胤であったかどうかははっきりしませんが、「男寵、女寵数知らず」と言われる法皇なので、清盛以外にも白河法皇の落胤であったとされる子どもが多数あり、清盛が特異な例ではなかったということを付け加えておきたいと思います。

石清水臨時祭と平清盛

 清盛が舞人を勤めた石清水臨時祭は、今では廃絶されて行われていませんが、毎年、旧暦3月の午の日に行われ、石清水宮寺の場合は、恒例の放生会に対して臨時に行われた祭であるので「臨時祭」と呼ばれていました。但し、天録2年(971)3月8日の臨時祭から永式となりました。
 朱雀天皇の御宇天慶5年(942)4月27日、平将門・藤原純友の乱平定の報賽(ほうさい)に勅使を立て神封歌舞(しんふうかぶ)を奉ったのが始まりで、将門は戦闘中眉間に流れ矢を受けて落馬し絶命しましたが、それは八幡大菩薩が東に向って放った矢であるという大菩薩のお告げを石清水宮寺の神官が朝廷に申し出て八幡神の神威が語られたことに由来します。『将門記』の記述との矛盾はありますが、天慶2年(939)に伊勢神宮の次の奉幣を受けることとなり、「第二の宗廟」の地位を得た石清水宮寺の面目躍如といったところでしょうか。
 「臨時祭は賀茂社でも行われるので、都の人々は賀茂臨時祭を『北祭』、石清水臨時祭を『南祭』と呼び親しんでいたが、永享3年(1431)4月29日の臨時祭を最後に翌年からは戦乱のために中絶した。その後文化10年(1813)3月15日に臨時祭は再興されたが、明治3年(1870)神祇官の通達により廃止された」(石清水八幡宮の解説より)とあり、平安時代の国家的な祭祀で都人を熱狂させた様子が伝わります。本殿の前の舞殿で、清盛たち6人の舞人が「東游(あずまあそび)」を舞うシーンを想像するだけで胸が高まります。「これらの舞楽は(中略)多くの楽人を抱え、雅楽も盛んに行われていたことが知られている。例えば天慶5年(942)に行われた臨時祭では『東游』が奉納されているが、現在において『東游』は行われていない。石清水八幡宮の禰宜である西中道氏によれば、かって石清水八幡宮に所属していた楽家は多(おおの)、豊(ぶんの、豊原)、安倍、大神(おおが、山井)の四家があったといい、一部には宇佐からやってきたという伝承を持つ家もあるそうだ。また『古事談』には平安時代に八幡の楽人が活躍する説話がいくつも見られる。京都、奈良、大阪を結ぶ結節点として、また聖なる山上の世界と俗なる麓の世界を結ぶ特異な場所として、楽人のみならず様々な人々がここに集まってきた。八幡に伝わる楽の歴史はそうしたこの土地の持つ歴史的な特異性と関係があるのだろう」(別冊太陽「雅樂」)とあり、権門社寺としての石清水宮寺の一面が見受けられ、石清水臨時祭の盛行がこうした楽人たちにより育まれ、いつしか石清水宮寺にて舞人すらも独自に抱えることになっていったのではないでしょうか。
 石清水臨時祭は、起源・由来は異なりますが、賀茂臨時祭とよく似ています。そして、国家祭祀を取り仕切る「行事所」(そのつど臨時に組織される実行委員会方式で行事もしくは祭祀を行う)が設けられます。行事所のメンバーは、太政官の公卿と事務官から適宜選任され、責任者の上卿(しょうけい、中納言以上の公卿)、事務方の弁・史によって構成されました。彼らは、その祭祀の参加者の手配や日程調整、必要な物を整え、費用を調達するといった極めて雑多な職務を、天皇・摂関の指示を仰ぎ、部下を指揮しながら遂行します。祭祀行事の当日まで費用の調達を指揮する上卿の姿は涙ぐましいものがありました。
「政務は儀式、儀式は政務」の貴族社会に生きる彼らの熱意と誇りによって、国家祭祀などの行事がつつがなく行われ、今日まで各神社の祭祀が伝統として受け継がれてきたのです。

終わりに

 「公家」とは、元来「こうけ」「おおやけ」と読み、もともと平安時代初期には皇室の名称だったのですが、後に皇室をめぐる貴族を含めて、武家に対する言葉として使用されるようになりました。
また、「公卿」は公と卿との併称で、太政大臣と左・右大臣を「公」、三位以上を「卿」と呼びました。位階はとても重要で、彼ら公家にとっては生きる糧でした。
 私の心の中の平清盛は、平安京に生まれ平安京で成長し、ある時期貴族であることより武士として生きる事を選んで、新しい国(貿易国家)を創ることを志し、新都・福原に遷都するも時期尚早で、志半ばで没した一人の政治家であった、という人なのです。但し、貴族であることを否定しても、彼は貴族社会の中で生まれ、貴族社会の中で成長し、その中で権力を握ったことは疑いようもありません。つまり、平家は、そして清盛は貴族であったのです。貴族化したから平家が滅んだという俗説は改めてほしいと思います。
by y-rekitan | 2012-10-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第31号より-end

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by y-rekitan | 2012-10-28 01:00 | Comments(0)