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◆会報第32号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“わが心の風景”⑤◆
◆《講演会》松花堂昭乗と近世前期の文芸◆
◆シリーズ:八幡の歴史スポット③完◆


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by y-rekitan | 2012-11-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第32号より-01 高良神社

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わが心の風景・・・(5)
高 良 神 社
所在地 八幡高坊


 f0300125_16424856.jpg男山山下の頓宮殿南側に鎮座するのは「高良神社」です。鳥居の扁額に見る社名古字に、その歴史の重みが伝わってきます。
 この社を一躍育名にしたのは、兼好法師著した「徒然草」でしょう。第五十二段「仁和寺にある法師」で始まる石清水八幡宮を参拝した仁和寺のお坊さんのお話です。
 だれでも一度は参拝した右清水八幡宮。まだお参りしたことがない自分が情けなく思い一人で石清水を目指します。参拝を終えて帰ると同僚に感想を語ります。注目したいのは石清水本殿と勘違いした高良神社を「聞きしにも過ぎて尊くこそおわしけれ」と言っていることです。当時、高良神社は荘厳な中にあったことが窺われます。
 「そも、参りたる人ごとに山に登りしは何事かありけん」この「そも」とは、「それにしても」と訳され、多くの古語辞典でその例文となっているのが徒然草五十二段なのです。辞書にも登場する高良神社。八幡の観光案内で外せないところです。
(絵と文:小山嘉巴)

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by y-rekitan | 2012-11-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第32号より-02 昭乗と近世文芸

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《講 演 会》
松花堂昭乗と近世前期の文芸
― 男山に集う門人たち ―

2012年11月 松花堂美術館講習室にて
松花堂庭園・美術館  川畑 薫


 11月29日(木)、松花堂美術館講習室にて11月例会を開きました。
 講師は松花堂庭園・美術館学芸員の川畑薫氏。標記のタイトルで語っていただきました。以下、当日配布されたレジュメをもとに概略を紹介します。

1、 はじめに―松花堂昭乗と寛永文化
  • 松花堂昭乗(1584~1639)は、書画をはじめ、茶の湯、造園、和歌といった諸芸をよくした。ことにその書は、後世「寛永の三筆」に数えられる。
  • 昭乗は、近世初期の寛永文化を代表する人物として知られるが、特に、近衛家と尾張徳川家の間を取りもつ上で活躍した。
  • 昭乗の茶会では、町人と武士が同席することもあり、既存の枠組みにとらわれていなかったことも指摘される。
  • 瀧本坊を中心として、文化活動を通じた人的交流の場が形成されていたといえる(「男山文化圏」)。
  • 寛永文化の展開は公家・僧侶層に豊かに蓄えられてきた中世以来の高度の教養が、新たな自己主張をはじめた上層武士によって触発され、啓蒙と創造をくり返しながら、伝統文化として継承される遺産を残すと同時に、偉大な啓蒙者を数多く生み出した。(中略)次の元禄文化の基盤となる幅広い文化社会を用意していった…」(熊倉功夫『寛永文化の研究』)
  • 寛永文化のキーワードは「複合的」である。「武士的なものと公家的なもの、関東的なものと、上方的なもの、豪奢と洗練、それらが対立しつつ融和してゆく」(松田修他編『近世の文学』上、「第四章 寛永文化の波動」松田修執筆)
2、 近世前期(17世紀)における松花堂流形成の要因

(1)書流・松花堂流の特質について
  • 松花堂流とは、松花堂昭乗を祖師と慕う門人によって、石清水八幡宮の瀧本坊を拠点に形成され、以降、幕末に至るまで命脈を保った書流である。それは、昭乗が自ら企画したものではなく、門人である藤田友閑、乗因父子によるところが大きい。
  • その特質として、伝書作成によって段階的な伝授構造を構築したこと、修習過程の規定を行ったこと、一流派を家元制度的な枠組みで形成したこと等があげられる。
(2)松花堂流の門人たち
  • 第一世代に属する主な門人は以下の通り(  )内は階層。
     中村久越(社人)、平野仲安(庶民)、法童坊孝以(社僧)、豊蔵坊孝雄(社僧)、萩坊乗 圓(社僧)

3、 近世的書流の形成と藤田友閑、乗因父子

(1)藤田友閑、乗因父子について
  • 友閑は摂津の在郷町、富田の出身。藤田家は酒造業を営んでいたようである。19歳の頃 に松花堂昭乗に入門。友閑の著した伝書はどれも松花堂流における秘伝書として位置づ けられるものであり、その性格上刊行されずに写本で伝わっている。
  • 乗因は藤田友閑の息である。幼少の頃、父に連れられて昭乗に謁見。友閑とともに、松花堂流における筆道伝書を作成し、流派の確立に尽力した。1647年江戸に下り、1651年には、松花堂流における江戸での筆道指南を友閑から託された
  • 松花堂流形成における藤田父子の担った役割およびその事績については、従来、ほとんど知られていなかったが、流派のあり方には、彼らの志向が大きく作用したものと考えられる。
(2)新たな在郷町人像 (略)

4、 作品スライド
(松花堂流書の鑑賞)

5、 おわりに

(1)幕末期の書流意識と寺小屋
  • 乙竹岩造『日本庶民教育史』(目黒書店、1929年)によれば、幕末期の「習字の書流」について、御家流が実数で1565、全体の74%をしめ、瀧本流は実数で38、全体の1.8%で、第4位である。
(2)幕末~明治期における八幡の寺小屋
  • 幕末から明治期の八幡の寺小屋・私塾を調査したもの(文部省遍『日本教育史史料』八、富山房、1892年)によれば、明治4年(1871)に八幡荘では寺小屋が4箇所あり、次の様に整理されている。
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 講演の後、様々な質問がありましたが、二つに絞って紹介します。

① 松花堂流とは、松花堂昭乗を祖師と慕う門人によって形成されたとあるが、門人達は、昭乗の書のどんなところに魅力を感じたのか。また、町中で松花堂流を取り入れようとする書の師匠も生まれたとあるが、彼ら庶民の書が何ゆえ松花堂の書に親近感を感じたのか。
《A》 字の形がよいということの他に、昭乗が目指す書のあり方、思想にあこがれた面が大きいのではないか。つまり、一口に書と云っても手紙文もあれば和歌や漢詩もある。昭乗は、その対象に応じた書のあり方を示した。例えば、手紙文ではオーソドックスな御家流を、和歌では定家流の流麗な書体を、漢詩ではそれにあった例えば大師流の文字をという様に使い分けた。また、江戸時代には武家・公家・庶民の間の交流も増え、そのような階層間の文書のやり取りも生まれた。そんなときに、松花堂の書は、例えば目上の者にはこのように、目下の者にはあのようにと、時と場合をふまえた書のあり方を示した。礼状や挨拶状の用例など具体的な需要に応える面が大きかったといえる。

② 藤田友閑と乗因の父子の事績がとりあげられたが、在郷の商人がどのようにして松花堂昭乗の書をじかに学ぶことができたのか。
《A》 昭乗のもとには、武家の求めに応じて彼らの子弟を預かり書を教える事が見られたが、武士に限らず、庶民にも書の手ほどきをするなど門戸を広くした。友閑の場合、その著書で彼が19歳の頃に「初めて松花堂にまみえた」と自ら記している。多分、書の師匠を探し求め、男山に松花堂昭乗がいることを伝え聞き、昭乗の門をたたいたのであろう。
 参加者は42名でした。

「一口感想」から

f0300125_1213989.jpg◎内容が深く、わかりやすくて、すばらし。い講演会でした。 ( F)
◎(中村)久越に深く関係すると思われる石碑が神応寺にあります。一度確認されてはどうでしょうか( 私にはしっかりと解読できません) 。(T)
◎初めて参加させて頂きました。 とても詳しくて難しかったですが、・・・脳がひきしまる思いで・・・でも楽しかったです。これからも、八幡の歴史を勉強したいと思います。 (S)
◎久々に昭乗のお話を聞きました。 ずいぶん研究が進み、広がっているんだなと感心しました。 古い八幡の町の人々のことがわかればいいですね。(M)
◎門人達の下絵に書かれた書がいろいろ見られ、また江戸から幕末までの流れも学べ大変有意義でした。(A)
◎昭乗の門人達の多さ、人脈の広さを学びました。非常に参考になり、講義はていねいでわかりやすかった。 書体の書きわけがいろいろあることも学びました。(B)
@ 寛永文化を代表する人物、寛永の三筆に数えられる書家などと呼ばれた松花堂昭乗の具体的な活動の例をわかりやすく話され、門人たちの多さや活動の様子も理解できました。(N)

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by y-rekitan | 2012-11-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第32号より-03 泰勝寺の起源

シリーズ「八幡の歴史スポット」・・・③
泰勝寺の起源とお茶会

丹波 紀美子 (会員)


松花堂昭乗と実乗・乗圓の墓

f0300125_13303579.jpg  泰勝寺には松花堂昭乗を中心に向って右に実乗(昭乗の師)、左には萩坊乗圓(昭乗の弟子)の墓が建っています。この3人の社僧のことを少しだけ記してみましょう。
 松花堂昭乗は、後世、寛永の三筆の一人といわれた能筆家であり、絵、お茶、お花、和歌、作庭にも秀でていた文化人でした
 実乗は、昭乗の師にあたり、伊予大洲城主小川土佐守宗武の次男といわれています。⇒① 萩坊乗圓(玄々翁)は、豪商淀屋二代言当の甥に当たり、絵・書に秀でていて、書では松花堂流を受け継いだ人です。
 
この3人の墓は、つい十数年前までは風雨にさらされていましたが、今は下の写真のように屋根が付き、付近も整えられました。この場所は里坊といって、山上にあった寺(坊)の墓所といわれていました。

 昭和13年発行の佐藤虎雄著「松花堂昭乗」では次の様な記述があります。
「病中には親友の佐川田昌俊や姻戚の小堀遠州が世話をし、近衛信尋公や東信門主も見舞はれた。終に九月十八日、五十八歳にして眠れるが如く入定した。遺骸は當夜男山の麓に還し同月廿一日に山下の御里坊裏地に葬った。今の平谷町なる泰勝寺の墓地である。」

泰勝寺のこと

f0300125_1242135.jpg 昭乗たちの墓所がお寺として整ったのは、大正7年です。そのきっかけは次の通りです。
 「松花堂昭乗の墓所が余りにも荒れ果てていたのを、明治の末に東西の数寄屋者達が相寄って、松花堂昭乗と彼の師の実乗と弟子の乗圓の墓所を改修したのであった。墓所の改修は出来たが、八幡山にあったといわれる滝本坊を偲ぶ建築までは手がまわらなかったのである。それが大阪の篤志家、中尾かつ子の尽力によって方丈、庫裏の他青松居(せいしょうきょ)という茶室、閑雲軒という数寄屋が新築されたのである。」⇒②
青松居の茶室は、現在他方に行き、ありません。数寄屋というのは茶席・勝手・水屋が一棟に備わっているものを指します。
滝本坊閑雲軒の古図を木津宗泉(武者小路千家九世愈好斎(ゆこうさい)の家元預りで茶人、茶室、茶庭の設計士)が所持していて、再建の参考になったといいます。
「泰勝寺」の礎を築きその準備をしたのは、宗般玄芳(そうはんげんぽう、見性宗般)と彼の弟子 神月徹宗(こうげつてつしゅう)で、彼らの努力の賜物だったと思われます。
大徳寺486世、5代管長の寺歴をもつ宗般玄芳 が、熊本の細川侯菩提寺の「泰勝寺」が廃寺となっていたのを寺号及び字額、方丈の額を頂く準備をして神月徹宗に伝え、神月撤宗が貰いうけて来て、八幡の「泰勝寺」としたのではないでしょうか。
 熊本県庁文化企画課に、誰が寺号や字額を貰いうけに行ったのか問い合わせてみました。結果は次の通りでした。
 「お尋ねの件について調査しましたが、誰が寺号を頂いたかは明治初期の泰勝寺に関する記録等がなく、分かりませんでした。各ホームページの泰勝寺の情報は、熊本の歴史に関する文献をもとに記載されているようですが、これらの文献も調査しましたが、記載されている情報以上のことは残念ながらありませんでした。」
 以上の結果、 確かな証拠は出てきませんでしたが、八幡泰勝寺の栞と宗般玄芳と神月撤宗の寺歴を元に上 記のように推察してみました。なお、「方丈」の額は、南宋随一の能筆家とされる無準師範(佛鑑禅師)の真筆であるとのことです。⇒③
 宗般玄芳(1848~1922)は加賀の人で、金澤の高巌寺で出家、明治13年円福寺に入寺、その後熊本の見性寺に住山、明治31年に請われ円福寺住職に就任、明治41年に大徳寺管長に上った人です。
 大正7年は、泰勝寺が創建された年で、神月徹宗和尚(1883~1941)が円福寺の住職に就任した年でもあり、彼の師の宗般玄芳が泰勝寺の発展を彼に託した年でもありました。神月徹宗は、昭和3年6月に妙心寺606世、16代管長になった人です。なお、泰勝寺・円福寺ともに臨済宗妙心寺派に属しています。
 熊本細川侯は、明治初年に神道に宗旨替えをし、細川家の泰勝寺は明治の神仏分離、廃仏毀釈により明治2年には住職もいなくなり廃寺となりました。細川候の菩提寺の泰勝寺は、細川藤孝(幽斎)麝香(じゃこう)夫妻と忠興(三斎)玉子夫妻や10代斉茲(なりしげ)、13代韶邦(よしくに)、14代護久(もりひさ)の廟でした。宮本武蔵の供養塔も有ります。
 熊本の泰勝寺を造ったのは、忠興の三男、熊本初代藩主忠利ですが、忠利は父の忠興よりも早く亡くなり忠利の子の光利(光尚)が祖父の忠興が亡くなった後、祖母の玉子(ガラシャ)の隣に忠興の墓を造りました。そして光利は藤孝(幽斎)の法名の泰勝院から泰勝寺と改名しました。(なお、熊本の泰勝寺跡は、立田自然公園となっています。)

泰勝寺での茶会のこと

 その後、八幡の泰勝寺では「松花堂会」が組織され、松花堂の忌日である十八日を期して茶会が催されるようになりました。
 「松花堂会」の発足は大正11年5月18日で、この会には当時の財界の茶の湯を好む人(数寄者)、美術商など多彩な顔ぶれであったといいます。益田鈍翁(孝、三井財閥を支えた人)、高橋箒庵(そうあん、義雄、三井系実業家)、林楽庵(新助、美術商)、野村得庵(得七、野村証券)、戸田露朝(大阪の美術商) また、松花堂や泉坊の持ち主であった西村芳次郎なども参加しました。⇒④
 その後、この「松花堂会」に吉兆創立者湯木貞一も来ています。泰勝寺の「松花堂会」が、今日の松花堂庭園美術館での「松花堂月釜会」に発展し、毎月、市内外の大勢のお茶好きな人たちで賑わっています。「月釜会」の発足は昭和54年9月9日で、それから2年後の昭和56年9月13日に第1回「松花堂忌茶会」が催されました。この「松花堂忌茶会」は今年の平成24年10月14日で30回を数えました。なお、「松花堂月釜会」は1月、8月、10月を除く毎月第2日曜日に市内外の先生方が釜をかけておられます。

   ⇒① 『松花堂昭乗』佐藤虎雄著(昭和13年)
    ② 「近代茶人達の茶会」鈴木皓詞著
    ③ 泰勝寺の栞
    ④ 前掲②

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by y-rekitan | 2012-11-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第32号より-end

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by y-rekitan | 2012-11-28 01:00 | Comments(0)