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◆会報第33号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“わが心の風景”⑥◆
◆《歴探ウォーク》男山参詣路を歩く◆
◆シリーズ:“墓石をたどる”①◆


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by y-rekitan | 2012-12-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第33号より-01 航海記念塔

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わが心の風景・・・(6)
航海記念大石塔の伝説
所在地 八幡高坊


 f0300125_16333277.jpg神慮寺山門の左側にその玉輪塔があります。高さは6.08メートル、幅2.44メートルにも及、ひ、その側に立つと、実に大きくて圧倒されます。
 この大石塔が国の重要文化財に指定されたのは昭和32年2月。市内の建造物では石清水八幡宮社殿に次ぐもので、その歴史的価値が早くから認識されていたことをうかがい知ることができます。
 航海記念塔と呼ばれるのは、平安時代末期、摂津田尼崎の豪商が入宋貿易の帰途に大シケに遭い、石清水八幡宮に祈って無事帰国できたことを感謝し、承安年間(1171~4)に建立( 『空園記』)。以降、多くの船乗りが航海の無事を祈って訪れたからで、他にも多くの伝説を生みました。
 神臆寺縁起には「貞和6年(1350)9月23日の大地震で、境内にあった玉輪大石塔が山下に転がり落ちたもの」とあり、謎は謎を呼ぶことに。ともあれ、日本最大級といわれる大石塔は、その美しさにも魅了されます。(絵と文:小山嘉巳)

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by y-rekitan | 2012-12-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第33号より-02 男山参詣路2

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《12月例会 歴探ウォーク》
男山参詣路を歩く
― 2012年12月  男山周辺にて ―



 12月16日(日)午後1時より、探究する会の12月例会として「男山参詣路を歩く」と題した歴史探訪ウオークが実施されました。

 八幡市が発行する冊子類に「男山参詣路」と称する観光ルートはありません。あるのは、「ひだまりコース」「こもれびコース」というハイキングコースです。男山参詣路は、この「ひだまり」と「こもれび」のコースをたどります。なぜ、「参詣路」と称するのか。それは、神原から石清水八幡宮に通じる旧道が「興正谷(こうしょうだに)道」と呼ばれたことに由来します。

 興正菩薩=叡尊(えいそん:1201~1290)は、弘安4年(1281)7月、蒙古襲来に際し石清水八幡宮で異国退散の祈祷を行い、石清水の上空から放たれた矢が神風をもたらし元の軍船を難破せしめたとの伝承を生みました。その後、叡尊は浄土ヶ原の草庵に居住し、周囲の人々の帰依を受けたのです。以後、「興正谷道」は参詣路となりました。

 石瀬さんをガイドに、男山参詣路へ出発しました。

f0300125_1558962.jpg 最初に訪れたのが神原の清水井古墓(しみずいこぼ)。 数十基の墓石が建ち並ぶ中の一番大きな法篋印塔(ほうきょういんとう)には「元禄十五年権僧正晃清(こうせい)大和尚」の文字が刻まれています。石清水八幡宮社務であった新善法寺晃清のお墓です。施主は晃清の養子の行清(ぎょうせい)で、行清は加賀前田家の筆頭家老本多政長の六男甚之助として生まれ、八幡宮の社務として迎えられるのです。武家出身の社務は大変にめずらしく、自分を新善法寺家の後継者として迎えてくれた義父晃清の恩に報いるために大きな墓塔を建てたといわれます。

 次に訪れたのが巣林庵(そうりんあん)跡。今でこそ、石塔が集められた狭いエリアでしかありませんが、室町時代には、出火で炎上した石清水八幡宮の造営の出納役(すいとうやく)を果たした祖峻(そしゅん)和尚が住持したことで知られます。f0300125_1615350.jpg 1526年、造営なった八幡宮の祝賀行事に参列するために、12代将軍義晴が八幡にやってきます。その際、巣林庵に投宿した社家奉行は、神人達の訴訟を聞いています。いずれにせよ巣林庵は、幕府との関わりが深い政治的な寺院だったのです。もっとも、室町時代の巣林庵は家田町にあり、18世紀後半に、水害を避けるために神原に移転しました。

 続いて、昌玉庵忍澂寺(しょうぎょくあんにんちょうじ)を訪れました。同寺は、叡尊が創建と伝えられますが、京都の法然院を再興したことで知られる忍澂が中興したお寺です。今は、弁天堂しか残されていませんが、忍澂は南三昧堂を再建し、太子坂の朽壊した地蔵菩薩像を補修し本尊としたとのことです。

 谷深い山道を上ってきますと、道辺に山藍(やまあい)が見られます。山藍は、石清水臨時祭などで文武百官が着る小忌衣(おみころも)の染料として使われました。

 興正谷不動尊に到着。  石不動の別称があるように、本尊は不動明王です。
f0300125_1645275.jpg永年管理する者がなく荒れていましたが、近頃管理者が現れ整備されています。

 レクレーションセンターにて休憩。こもれびルートに入ります。展望台からは、京都府から「歴史的自然環境保全地域」に指定された天然照葉樹林が見渡せます。

 男山山頂である鳩ヶ嶺に到着。男山を鳩ヶ嶺ともいいますが、山頂に宝塔が埋めてあったことから「ほうとうがみね」から「はとがみね」になまったとの説があります。

 落ち葉を踏みしめながら神應寺の墓地を横目に杉山谷不動尊に行きました。あいにく堂の扉は閉められ、不動明王とその脇仏である衿羯羅童子(こんがらどうじ)、制多迦童子(せいたかどうじ)を拝することができませんでした。観音堂には浪切不動明王や地蔵菩薩、十一面観音菩薩像などが鎮座しています。

 続いて石清水八幡宮五輪塔(航海記念塔)を見て頓宮へ。頓宮は、9月15日の石清水祭(放生会)の際、山上のご神体が本殿から遷座される社で、都名所図会には「御旅所」と称されています。また、1月18日には「青山祭」が行われる地でもあります。「青山祭」とは、悪霊・疫病の侵入を防ぐための祭事を指します。石清水は摂津・河内・山城の境界にある神社です。異国からの疫病・厄災が都に入って来ぬよう重要な役割を果たしていたとのことです。

f0300125_21512051.jpg 頓宮南にあるのが高良(こうら)神社です。八幡の産土社(うぶすなしゃ)として太鼓祭りが毎年の7月に行われていることで有名な神社ですが、『徒然草』52段でも有名です。仁和寺の法師がこの高良神社にやってきて石清水に参拝したと思いこみ都に帰ってしまった話です。ここで、注目されることは、「そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん」と法師がつぶやくことです。叡尊が石清水八幡宮で異国退散の祈祷を行ったと前に記しましたが、叡尊の祈祷によって蒙古軍が暴風に遭ったことを当時の人々が信じ込み、故に八幡大菩薩への信仰が高まったのです。

最後に、相槌稲荷社(あいづちいなりしゃ)に行って散会しました。参加者31名。 (D)


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by y-rekitan | 2012-12-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第33号より-03 墓石をたどる①

シリーズ「墓石をたどる」・・・①
墓石をたどる

 谷村 勉 (会員)


 八幡の古文書を見ますと本頭神人や社士という文字が出てきます。八幡宮の放生会や安居祭りに奉仕する人々らしいのですが、僅かな手掛かりから『八幡市誌』や『男山考古録』等を調べてゆくうちに徐々にその意味もわかってきました。八幡宮については、かなり以前から寺社縁起や『古今著聞集』、『梁塵秘抄』、『今昔物語』等を通じて世間一般的なことは理解をしていましたが、時間に余裕ができて以来、もっと身近な歴史を知りたいという欲求からごく最近、「八幡の歴史を探求する会」に入会しました。

 9月例会報告の「八幡歴史カルタ」文字札選定の中で、

    [な] 直條の願いかなって八幡八景

 の読み札がありました。

 直條とは、社士柏村直條のことで、八幡宮の神職の傍ら連歌の道を学び、八幡山上山下の名所八景を選んだ、とあります(『南山城の俳諧』)。「八幡八景連歌発句絵巻」(八幡宮所蔵)によれば、雄徳山松、極楽寺桜、猪鼻坂雨、放生川蛍、安居橋月、月弓岡雪、橋本行客、大乗院鐘の配列になっています。また、「八幡八景連歌発句集」(八幡宮所蔵)では、色紙に金砂子を散らした豪華な料紙に一句ごとに作者が揮毫した一巻が残っています(前掲書)。

 会員の方々との対話や資料を頂く中から多くの理解が進み、会員の皆様には周知のことであっても、私にとりましては新しい発見であり喜びでありました。
f0300125_23113357.jpg 先日、ある人から柏村家の墓が番賀墓地にある由を聞き、早速確認に行きました。柏村家の墓石が整然と並んでいました。最近は奥都城(おくつき)として纏めて祀られることが多くなりましたが、戦前までは神職の墓は一人ずつ、あるいは夫婦ごとに立っていますので直條の緑石の墓石も確認(元文五年庚申五月九日)でき、思わず二礼二拍しました。

f0300125_10777.jpg 松花堂昭乗研究会の中で、昭乗の門人に中村久越なる人物が出てきましたが、久越子孫の久斎記念碑(謡曲の門人達が建立)が神應寺墓地にあるのを思い出しました。久斎自身の墓石は中ノ山墓地にありますが、久越の墓石はありませんでした。おそらく八幡のどこかにあると思いますが、運良く発見でき、碑文でもあれば紹介したいと思います。

 八幡郷土史会の会誌『ふるさと』第27号に、土井三郎氏が「橋本等安と連歌」と題して寄稿されていますが、その中で、橋本にある社士落合氏、橋本氏、山田氏の墓石が紹介されていました。橋本の社士の墓石はこの堂ヶ原墓地とそれより西、中央信用金庫に近い道路沿いの西遊寺焼野墓地にも片岡氏の古い墓石がありました。 私も暫くお墓詣が続きそうです。


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by y-rekitan | 2012-12-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第33号より-end

この号の記事は終りです。

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by y-rekitan | 2012-12-28 01:00 | Comments(0)