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◆会報第35号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“わが心の風景”⑧◆
◆《講演会》松花堂昭乗の江戸下向◆
◆女谷・荒坂横穴群から学んだこと◆
◆シリーズ:“墓石をたどる”②◆


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by y-rekitan | 2013-02-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第35号より-01 豪商淀屋①

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わが心の風景・・・(8)
豪商淀屋と八幡①
所在地 八幡西高坊


 f0300125_1612158.jpg神應寺の本堂には、淀屋四代目の重当が元禄六年に寄進した「神應禅寺」「大雄殿」の扁額が架かっています。また、書院の「唯蔔室」も淀屋寄進のものです。
 「どんなものでも手繰り寄せれば商売になる」・・・・・・淀屋財産目録には「土蔵七百三十箇所、船舶二百五十艘、諸大名貸付金一億両、公家貸付金八千貫目、家屋敷五百四十二軒、田畑、刀剣、茶器、宝飾等一億二千百八十六万余両」と記され、百万石の大名を凌ぐと言われました。
 そんな淀屋の初代は常安といい、秀吉の伏見城築城に際して、その才能を発揮。その後、大坂冬・夏の陣には、徳川秀忠の本陣を献上、八幡の山林地三百石と朱印状が与えられました。
 二代目言當は、茶の湯、歌にも通じ、松花堂昭乗らの文化サロンの一人であり、昭乗の茶会記にもその名が見えます。三代目重当の実弟、市兵衛は男山の滝本坊に入り、また乗圓は萩坊住職となり、昭乗から書画を学ぶなど、八幡の地は淀屋と深いつながりが見て取れます。(絵と文:小山嘉巳)

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by y-rekitan | 2013-02-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第35号より-02 昭乗の江戸下向

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《講演会(会員発表)》
松花堂昭乗の江戸下向
― 2013年2月  八幡市山柴公民館にて ―

歴探会員、松花堂昭乗研究所研究生、
古文書の会八幡会員: 奥山 邦彦


1.はじめに

 国立公文書館に「松花堂所蔵古文書集 全-松花堂式部卿昭乗留書」がある。写本で、旧蔵者は昌平坂学問所とある。この留書を検討した結果、これは昭乗が江戸に下向して“御前にて書をなした”という事実と深く関連するものだと思われる。また、大名と昭乗との交流を示す消息なども残されており、それらについてもお話したい。

2.「松花堂所蔵古文書集 全」

f0300125_1434384.jpg  これは、御感状・御書・宛行状・安堵状・軍法・戦国武将の分国法などを網羅したもので、差出人は、源頼朝、細川高国など中世の武将から織田信長、豊臣秀吉、豊臣家五奉行、徳川家康、徳川秀忠など織豊政権と江戸初期の為政者が挙げられる。受取人としては藤堂高虎が最も多く、他に蜂須賀家の者等多数ある。
 内容では大坂の役(冬の陣・夏の陣)に関するものが最も多く、ついで文禄慶長の役(朝鮮出兵)や秀吉による小田原攻め、関ヶ原の合戦にいたる経過を追ったものがある。注目してよいのは、「従信長権現様江感状」、「秀忠の藤堂高虎への御書」、大日本史料刊本が「松花堂所蔵古文書集」から掲載した「織田信孝への秀吉返答書」である。
 特徴としては、将軍の発給文書を例示しているということである。その中で、「書札礼」と「書き分け」が指摘される。
書札礼とは、「文書の差出者受取者との相互関係に拠って、書札を書くべき種々の形式、あるいは一般文書作成上の礼義、技術を伝えるために作られたもの」である。これらは、諸礼の一つとして、将軍家および諸大名家に右筆として仕えた人々によって整備されたとのこと。また、受取人と差出人との関係によって書式の違いが存在することもわかり、こういった「書き分け」が書札礼として備わっていったのである。詳しくは川畑薫「江戸の手習いから明治の習字へ」(観峰館紀要第5号より)を参照のこと。

3.昭乗の江戸下向伝承

 松花堂昭乗が江戸に出向いたことは、伝承によっても確かめることができる。『落栗物語』(藤原家孝、文政時代)がそれで、「昭乗は能書の聞へ有りける、関東へ下て、将軍家の御前にて物書けるが、関東は水あしくて、筆の勢ひ伸かたきよしをいひければ、都にてはいかなる水をもて書にやと問せ給う時、京の柳の水こそ軽くてよろしきと申す、将軍あやしく思召て、ひそかに都へ人をのぼせ、柳の水を瓶に入て取下らしめ、重ねて昭乗を召試られけるに、筆を把て硯にさしひたし、いさゝか文字を書けるか、やかて筆を止め、かたへに向て、これは軽くてよき水也、京にて用ゆる柳の水にかわらすと申しけるにそ、皆人大いに驚きけるとなん。」(『百家随筆第一』国書刊行会)
 これを受けて、佐藤虎雄氏は「かくて、昭乗は近衛信尋の推挙により、将軍家の書道師として江戸城に至った。……また将軍家光の前で京都の柳の水を持ち来たらしめ筆を揮って満座の人を驚嘆せしめたことが『落栗物語』に見えている。……昭乗は将軍家書道師の大役を果たして寛永6年に帰山した。」と記している。(佐藤虎雄『松花堂昭乗』42頁、河原書店)

 
4、大名家と昭乗

(1)加賀前田家
 昭乗と加賀前田家とは、昭乗の書状によってその親密ぶりが伺うことができる。書状には次のように記される。
 「拙僧事賀州へ罷下、去十四日に罷上申候、筑州(前田利常)殿書院にて御茶被下御相伴に 御振舞度々被召寄罷上候、刻ハ銀子弐拾枚帷子五反しゆちんノひとへものニ有之候、存之 外御懇外聞無所残仕合に而御座候間乍恐御心安可被思召候」(佐藤虎雄『松花堂昭乗』16・17頁、河原書店)
 また、前田利常書状の付箋に「中村久越ハ八幡宮ノ社人、則志水ニ住宅アリ、能 書ニ而有之、前田氏江祐筆ニ召抱、後故郷へ帰ル」などの文章が見えることから、昭乗の弟子である中村久越が、右筆として前田家に召し抱えられたことがわかる。
 (『招堤村片岡家文書の研究』(枚方市史年報別冊 枚方市中央図書館市史資料室)

(2)尾張徳川家
 松花堂美術館蔵に中沼左京(昭乗の兄)宛の昭乗消息(元和三年〔1617〕~寛永三年〔1626〕ごろか)がある。そこには、「一、私事一昨晩十日帰山仕候、江戸ニ而、公方様御礼、首尾能申上、御ふくなと拝領、仕合よく尾州迄罷上中納言様御懇ニテ御茶被下、金子など拝領、・(後略)」とある。昭乗は江戸の帰りに尾張を尋ね、尾張藩主徳川義直は昭乗を正客に名器を揃えて茶会を催して手厚くもてなしたことがわかる。 (『昭乗と徳川家ゆかりの人々』、八幡市立松花堂美術館)
 また、義直が尾張名古屋に常住するようになるのは元和二年(1616)以降であり、松花堂に師事するのも名古屋に移ってからである。
 義直に対する「手習手本帖」は全七帖より成り、うち二帖は松花堂、残り五帖が本阿弥光悦によるものであるとの指摘があり、その料紙もおそらく義直から与えられたものであろうとしている。(佐藤豊三「徳川義直と寛永の文化人」

(3)安芸浅野家
  元和五年(1619)の式部卿(松花堂昭乗)書状は、「去十八日廣嶋へ無事ニ下着仕候、但馬殿(浅野長晟)へ御礼申上、於御城御振舞御茶、一々忝次第ニ候、於首尾ハ御神妙可被思召候、……」と昭乗が広島に下向し、浅野家との親交を伺わせるとするものであった。(『招堤村片岡家文書の研究』(枚方市史年報別冊 枚方市中図書館市史資料室)
 さらに、藤堂高虎との関係も指摘される(増田孝「松花堂昭乗の書」『茶道文化研究第四輯』)が、紙面の関係で割愛する。

5.一山を代表する僧 昭乗

 寛永十六年(1639)正月から、尾州徳川家・石清水八幡宮でことあるごとに、八幡一山の代表あるいは各寺院の使者が、義直の許に出向いている記事をもとに、佐藤豊三氏は、「尾張徳川家にとって日常的に身近な存在であった人物が、尾張徳川家と石清水八幡の間に入り、一手に引き受けてその代行をしていたに違いない」とする。そして、「その人物こそ、松花堂昭乗と考えられる。昭乗は相応院・竹腰家・志水家に、石清水八幡出身の誼を持って日常的に交流を深め、その結果、石清水八幡一山の代表として、尾張徳川家への窓口を独占していたがためであろう。」と結んでいる。  (佐藤豊三「徳川義直と寛永の文化人」金鯱叢書 史学美術史論文集 第27輯)

6.崇伝、羅山、昭乗

 慶長十九年(1614)幕府は、古書籍の収集や諸家の書写を林道春信勝(羅山)と金地院崇伝に命じている(東京大学史料編纂所 大日本史料DB)。それは日本後紀、続日本後紀、文徳実録、類聚国史や律、令、格式、仙洞の御蔵書や諸家の記録類にも及んでいる。(慶長十九年十月 台徳院殿御実紀)。元和元年(1615)禁中並公家諸法度、武家諸法度が発布される流れである。
 慶長十七年(1612)九月二十九日、昭乗は下山して金地院崇伝のもとへ出向く。(「本光国師日記」群書類聚完成会)。このころより昭乗は式部と名乗っている。一方で、林羅山との交わりも深かった。以下、それを見てゆきたい。
  • 寛永6年(1629)、林羅山の長男叔勝の死没に際し、追悼詩を読む。この時昭乗の追悼 詩に対して羅山が詩二首を和す。
  • 寛永14年(1637)、昭乗の鳩図に題して林羅山が詩をつくる。
  • 寛永15年(1638)昭乗の『三笑図』に題して林羅山が詩をつくる。
  • 寛永16年(1639)四月下旬、林羅山が「寄男山僧昭乗」を著す。
  • 同年九月十六日、昭乗没に際して、追悼の詩を寄せる。
 (以上、『林羅山詩集』より)(山口恭子『松花堂昭乗と瀧本流の源流』思文閣出版)

7.おわりに

 江戸幕府が編修した『寛永諸家系図伝』は寛永二十年に完成するが、その藤堂高虎の項では、「……凡そ秀吉、高虎にさづくるところの感書数通、高次今これを所持す。高虎御当家三代につかへたてまつり、官爵・封禄ともにあつく恩恵もつともふかし。御三代よりたまハる所の御感書数通、ことに御自筆の御書数通あり。高次ミなこれを所持す。其内御自筆六通、今これを拝読するに、其おもむきをつまびらかにせず。是御懇意他にことなるゆへ、人のしらざるところなるべし。……」として御書、御感書を載せてていない。
 文化9年(1812)に完成した『寛政重修諸家譜』にも、高虎が「台徳院殿(秀忠)、大猷院殿(家光)よりしばしば親筆の御書をたまふ」とあるが御書類の掲載はない。
 藤堂家の史料によると、御三代将軍御感書三十九通(『高虎公一代雑譜』東京大学史料編纂所DB)、家康・秀忠書状四十五通(「藤堂高虎発給文書」三重県史資料編近世1)が記録されている。その中には『松花堂所蔵古文書集 全』に記載されている高虎に対する秀忠の御書五通がすべて含まれている。私的な色合の濃い書状である。『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』が掲載を避けた理由もこのためであろう。これは留書がまとめられた時期を判断する有力な材料であろう。決して後世に作製されたものではないことを意味する。即ち、留書の記事の最も新しい日付から考えると、元和二年(1616)以降、昭乗が没する寛永十六年(1639)まで、あるいは松花堂式部卿昭乗留書と記されているので、昭乗が瀧本坊を嗣ぐ寛永四年(1627)頃以前とも考えられる。
 差出人は徳川家・豊臣家、受取人は藤堂家に集中している。幕府において文書を一手に管理し昭乗と親密な林羅山、昭乗と交流があり将軍家より格別の信頼を受けている藤堂高虎。両者はともに将軍の側近くに仕える者である。大名家で一山で人々の尊敬と信頼をあつめ能書の誉高い昭乗は、この両者との交流を通してこれらの文書を留書したのであろう。その目的は将軍のための書札礼である。この留書を何時誰が書写したのかは全く不明だが、管見のかぎり他に蔵書を見ない。その内容から徳川家の内々にあったものと思われる。
 以上のとおり『松花堂所蔵古文書 全』は松花堂昭乗が江戸に下向して“御前にて書をなした”という伝承と深く関わるものである。


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by y-rekitan | 2013-02-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第35号より-03 女谷荒坂横穴群

女谷・荒坂横穴群から学んだこと

野間口 秀國 (会員)



 私は2012年4月に「八幡の歴史を探究する会」に入会いたしました。これまで1年近く学ぶ中で“自ら現地に足を運び実際に見たり聞いたりすること”は、歴史を学ぶ大切な方法の1つであると実感しております。

 入会以降、昨(2012)年内に八幡市内で開催された4回の発掘調査の現地説明会に出向きました。うち1 つが昨年11月3日に開催された美濃山瓦窯跡群の現地説明会であり、会場近くでは今回開催の「女谷(おんなだに)・荒坂横穴群(あらさかおうけつぐん)」の発掘調査も進められており、その現地説明会の開催を待ち望んでおりました。f0300125_11135517.jpg

 節分にあたる当日(2月3日)は、好天に恵まれました。少し早めに会場に出向き、混み合う前に21基にわたる横穴をゆっくりと見て回りました。開始予定の時刻が近づくにつれ参加者は増えて、ゆうに100名は越す状況に準備された資料も底をつき主催者の方も嬉しい悲鳴をあげておられました。
 この「女谷・荒坂横穴群」(美濃山御毛通)のある山の斜面の標高は、資料によると40m程であり、こうしてこの場所に立ってみると木津川の氾濫からも難を逃れられたであろうことが実感できました。
 発掘された人骨、耳環、土器類などはテント内の展示台でまじかに見ることができました。須恵器(すえき)と土師器(はじき)の違い、それらの焼成方法の違いなど、先の美濃山瓦窯跡群の説明会を機に学んだことは、今回展示されている土器類を見るのにとても参考になりました。
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 このように発掘されたものから、横穴の造られ始めたのは古墳時代後期であり、飛鳥時代に追葬されて奈良時代まで続いたようであるとの説明がなされました。また埋葬されたのは村の偉い人か一家の家長にあたる人達ではないかと推定されるそうです。
 今回の調査では21基の横穴が見つかり、周辺には未発掘のものが100基を超えると推定されるとのことでした。これら21基にわたる横穴の個々の形、方向、大きさなどを調べ、発掘された人骨、耳環、土器類、石棺、木棺に使われたであろう釘などのひとつひとつを丁寧に調べ、整理し、まとめる作業に携わっておられる皆様方にはただただ感心することしきりです。
 この先もまだ新しい何かが発見されるであろうことは楽しみではありますが、横穴はいにしえ人のお墓です。先人の眠りをたとえ一時にしろ妨げていることを思い、学ぶ機会を与えていただいていることに対する感謝の念を決して忘れてはならないと思いました。
 これからもできるだけ多くの機会をとらえて足を運び、現場で現物を見て・聞いて・触れて一歩ずつ学んでゆきたいと思います。
by y-rekitan | 2013-02-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第35号より-04 墓石をたどる②

シリーズ「墓石をたどる」・・・②
中村久越・長濱家の墓石をたどる

 谷村 勉 (会員)


 前回、中村久越子孫の中村久斎の墓碑が中ノ山墓地にある旨紹介しました。その後も数回足を運ぶと、松花堂昭乗の門人である中村久越自身の墓石がそこに在ることが分かりました。およそ300年以上も昔の墓石で、一見して文字も判別し難く気付きませんでした。
 しかし、御影石箱型墓石の碑文をゆっくり見ると、「卓斎久越居士」の文字が刻まれています。         f0300125_23245573.jpg 久越は卓斎と号したことから、卓斎の文字が気付きのきっかけになりました。 戒名の中央上部に一蓮、下部に託生の文字が彫られ、久越の隣に花岳正栄大姉とあり、夫婦で一蓮託生、共に祀られていることも解りました。蓮の上で共に生まれ変わることを願ったようです。
 墓石の北東背面はさすがに花崗岩特有の崩れが見られ、恐らく何か刻まれていたと思われますが、文字の形がありません。又、右側面にも何か文字が刻まれていますが、これも直ぐには判別できません。何回も確認したところ久越の没年が判明しました!
 延寶第五丁巳年九月六日とありました。(丁巳年は延宝五年)中村久越の没年については延宝五年(1677年)説と延宝年間(1673年~1680年)とする説がありますが、どうやら延宝五年説が妥当のようです。
 中村久越は松花堂昭乗の直接の門人であり、のちに加賀藩前田家三代藩主利常の右筆となりますが、招堤村片岡家文書(枚方市年報別冊)の前田利常書状の付箋にも「中村久越ハ八幡宮ノ社人、則志水ニ住宅アリ、能書ニ而有之、前田氏江祐筆ニ召抱、後故郷ヘ帰ル」とあります。
松花堂昭乗墓碑は泰勝寺の五輪塔としてよく知られるところですが、西山和気に豊蔵坊信海墓碑が、中ノ山墓地にも中村久越墓碑が残っていました。(中村家墓地は現在も子孫がお祀りされていますので、ご留意下さい)

 先日、『男山考古録』を読む会が八幡市生涯学習センターでスタートしました。
 八幡の歴史を探求するうえでは何度となく「男山考古録」を開く機会があり、内容をより詳しく理解する上で、今後の展開には大いに関心のあるところです。
 さて、「男山考古録」の著者長濵尚次は代々石清水八幡宮の宮工司職を勤仕する家に生まれ、江戸後期に活躍しました。ご存知の方も多いと思いますが、長濵家の墓石群は番賀墓地にあります。
 以前、柏村直條の墓石を確認したのち、番賀墓地全域を一通り調査した折に長濵家と判る墓石群16基も確認しましたが、男山考古録の解説(近藤喜博稿)に「…その家系が探索できず、…」とある通り、雑草のはえ具合から今は縁者のお参りも乏しい様子です。
f0300125_23275860.jpg 長濵尚次の墓碑は一石五輪塔(正次墓)の隣にあり、妻多賀子と並んで建っています。100年、200年、300年前、歴代の墓石に刻まれた碑文には重みを感じますが、残念ながら泉州砂岩の墓石は気温や気候の変化により膨張と乾燥を繰り返し剥離が進行しています。通称「タマネギ剥離」といわれる砂岩特有の崩れ方でこれは防ぎようがありません。長濵家の職務と事績については、『石清水八幡宮 諸建造物群調査報告書 (本文編) 』(発行、八幡市教育委員会)に詳しい内容が報告されています。
 最近、神應寺にある長濵家墓地も訪ねました。案内頂いた墓地西地域に政次、友次、尚次、廣次など4基の墓石がありましたが、こちらでもやはり子孫のお参りは殆どないとのことでした。神應寺の墓石建立には一体どのような想いがあったのでしょうか。

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by y-rekitan | 2013-02-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第35号より-end

この号の記事は終りです。

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by y-rekitan | 2013-02-28 01:00 | Comments(0)