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◆会報第36号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“わが心の風景”⑨◆
◆《歴探ウォーク》春爛漫の歴史探訪ウォーク◆
◆探訪会のしおりを作成して◆
◆歴史探訪ウォーク参加記◆
◆シリーズ:“御文庫とエジソン碑”①◆
◆代々つづく神原の「講」◆
◆「八幡の歴史カルタ」に驚く◆


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by y-rekitan | 2013-03-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第36号より-01 豪商淀屋②

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わが心の風景・・・(9)
豪商淀屋と八幡②
所在地 八幡西高坊


 f0300125_1653416.jpg「知恵は万斤の宝蔵といわれるように、ほっておいても蔵が年々増え、指折る暇もない。銀の子を生むこと、あたかもネズミ算のようだった」と伝えられる天下の豪商淀屋。四代目重当の時になると、高価なギヤマンをふんだんに使った「夏座敷」なるものを作り、高価な金魚を泳がせて楽しんだといいます。そして、五代目辰五郎にあっては一年半で現在のお金にして百億円もの遊興費を使い、その所業は目に余ると宝永二年五月、闕所処分となり、財産は没収、所払いになります。
 その十年後の正徳五年、日光東照宮百年祭の恩赦によって八幡の山林三百石が淀屋に返還され、翌享保元年に八幡に帰ってきた辰五郎は、妻の吾妻、娘の五百とともに八幡柴座に居を構えました。
 その屋敷には、神應寺近くの谷川の水を引き、落差で吹き上がるのを見て楽しんだという「砧の手水鉢」がありました。今は、松花堂庭園書院の庭にあり、淀屋のロマンに浸ることができます。(絵と文: 小山嘉巳)

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by y-rekitan | 2013-03-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第36号より-02 八幡東部ウォーク

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《3月例会 歴探ウォーク》
春爛漫の歴史探訪ウォーク
― 2013年3月  八幡市東部にて ―



 「早春の八幡東部と神社を巡る」と題した歴史探訪ウオークでしたが、3月17日は汗ばむほどの陽気に恵まれました。
 午後1時に市役所を出発した一行は、まず川口天満宮をめざします。田起こし前の田園風景を右に、新興住宅地を左に見ながら歩むと、運送会社や倉庫の建ち並ぶ一角に御池跡碑を見つけました。
 長徳元年(995)、この地に天神の御尊像六体が出現。ときの帝(みかど)は社を造ることを命じます。f0300125_21363747.jpgそれが川口天満宮。本殿は木の香りがするほど新しく、数年前に造りかえられたとか。境内は清掃が行き届いています。本殿脇には謡(うたい)の奉納額が掲げられ、この地で謡がさかんだったことが偲ばれます。
 次に訪れたのが下奈良天満宮。江戸時代の下奈良村は、石清水八幡宮の神領である川口郷にふくまれていました。そして連歌がさかんであったことが伝えられています。

   
   川口の 天満宮にて 連歌三昧

 ガイドの高田さんは、境内の参道脇にある立ち石と丸石を説明。「道楽神」といわれ、以前は古札の納め所であったとか。本殿には祭りの際に使用された陶器皿が収蔵されているとのこと。「享保」や「天保」の銘が彫られた石燈籠もありました。
 国道一号線を潜って内里へ。防賀川にかかる蜻蛉尻(とんぼじり)橋のたもとで正徳4年(1714)に起こった水争いが説明されました。
 同年5月28日に、上奈良・内里村の村民がこの辺りの堤防を切る事件が発生。連日、上流と下流の村民が鍬や鎌を手にして対峙し、一触即発の険悪な空気の中で起きた事件です。下流域にある下奈良の村民が京都町奉行所に訴え争論は翌年の3月まで続きました。
 争いの背景に、上流域の内里・上奈良村が幕府領や朝廷領、公家領などの相給地であるのに対し、下流域の下奈良は神領であったことも指摘されています。

   寝ずの番 水になやんだ 防賀川

 内里は、綴喜郡の中で最も高い石高を誇った村でした。庄屋クラスの家は蔵を構え、どっしりとした造りで圧倒される思いです。その中で安田家を訪問。代々の庄屋で、米や綿商を経て酒造業も営み屋号を「薩摩屋」と称しました。明治なってからは郵便局を営み現在に至っています。
f0300125_21454493.jpg 内里の古い屋並の中を内神社へ。この神社は内臣の祖先である味師内宿禰(うましうちのすくね)を祀っています。『日本書紀』の朝鮮出兵の記事に出てくることから武人的な性格をもった氏族と推定されます。
(「発掘調査成果展-内里八丁遺跡を中心として-」八幡市教育委員会発行 より)
 中世には、「春日宗像神社」と呼ばれており、大永年間(1521~28)の戦乱で頽廃し、天正年間(1573~1592)にこの地に遷座されたとのことです。大永年間といえば戦国時代。室町幕府の管領細川氏や畠山氏に連なる在地勢力がこの辺りで戦を繰り広げていたのかもしれません。
 再び国道一号線をくぐって戸津の集落へ。この地は江戸時代、淀藩の領地でした。やはり風格のある豪農の屋敷と思しき家並みを歩き、戸津八幡神社に入ります。
 八幡神社とあるのは、鳥羽伏見の戦いで一時大住村に難を逃れていた八幡大神が還幸の途中にこの地で休憩された縁から、住民の願いにより石清水の御分霊が勧請されたことによるもの。

    類焼を のがれて神座 大住へ

 もとは、産土(うぶすな)神を祀る社であったらしく、寛永や宝永、明和、寛政の年号が彫られた石燈籠があります。また元来この神社には大梵天堂・薬師堂が存在していたらしく神仏習合の宗教施設であったことが確認されるとのことです。(『八幡地域の古文書・石造物・景観-京都府立大学文化遺産叢書、第4集』より)
 戸津八幡神社をあとに市役所へ帰りました。モクレンやユキヤナギ、レンギョウなどが咲き乱れる、正に春爛漫の歴史探訪ウオークでした。
 参加者34名。なお、参加希望をしながら花粉症により参加を見合わせた方もいらっしゃいました。収まる時期まで後半月ほどでしょうか。お大事になさってください。
(関連する三首の歌は「八幡歴史カルタ」 の読み札より)


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by y-rekitan | 2013-03-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第36号より-03 八幡東部

「八幡東部と神社を巡る」のしおりを作成して

-川口と下奈良を中心に-

高田 昌史 (会員)


 昨(2012)年の[望年会」で、土井事務局長から3月例会は「八幡東部を巡る歴史探訪ウォーク」を計画している、私が住んでいる近くなのでその例会の世話役をやらないかとのお話があり、1月5日に訪問先の説明予定者5名で下見をしました。予定コースの大半は私が日頃散歩等で通っている場所でしたが、そのコースにある神社等の歴史についてはあまり関心を持っていませんでした。
 確かに、八幡市は石清水八幡宮を中心とする歴史ある町であり、地元住民としてその歴史にもっと触れたいと思い、昨年入会して石清水八幡宮に関する各種講座や見学会等で、いろいろなことを知りました。そして、この地域が昨年1月に国の史跡指定にもなったことから、ますます八幡市の歴史は石清水八幡宮とその周辺がすべてと思っていました。
 しかし、今まで余り注目していなかった今回の訪問予定の「しおり」作成のために、『男山考古録』や明治初頭の『村史』及び『八幡市誌』の記載を確認し、それにインターネットによる検索や紹介して頂いた図書・資料を調べてみました。すると、芋づる式に関連の歴史情報や由緒等がわかり、この郊外の東部地区でも素晴らしい歴史がある事を知り驚くとともに、大きな喜びをあじわいました。それ以降は「しおり」の作成に張り合いが出てきました。

 特に、自宅から徒歩で十数分の旧川口村地区は、南北の道路以外は曲がりくねりその先は溝があり行き止まりで、石垣の上に立っている住宅も多く、おかしな集落だと漠然と感じていました。
 今回の調査で、中世に敵襲に備えて作られた「環濠集落」の形態を残している貴重な存在で、地区の80歳代半ばの方から、この溝は以前3倍以上の幅があったが先の戦争中に食糧増産のため埋め立てられて壕が溝になってしまったことお聞きし、納得するとともに歴史の重みを感じました。その時に「御池」も埋め立てられて無くなりましたが、それまでは御池にしめ縄が張られており、ここで「御池祭り」の祭礼をしていたとの事、『男山考古録』の「天神出現池」の項に書かれていたことを直接お話をお伺いできたことは、歴史探究の醍醐味です。けれど、今のうちに地域の古老のかたのお話をお伺いして記録していくことが、重要であることを認識した次第です。
f0300125_2217271.jpg なお、この100軒足らずの川口堀之内集落で「川口天満宮」は、今でも村の鎮守として信仰され、平成20年の神社改築費用の数千万円は住民が負担して執り行われて、境内はいつも綺麗に掃き清められています。
 『男山考古録』の川口天満宮の項では、著者の宮大工長濱尚次が直接天保11年の改築に携わったので記述も具体的で興味ある記録であると言えます。また、その時の棟札が先般の改築時に確認されており、『男山考古録』の時代からの歴史の継続性を知ることが出来ました。
 隣の集落の下奈良天満宮境内の奇妙な立石と二つの丸石については、宮総代の方からその謂われをお聞きしたことから、これが何を表しているかを推察出来ました。これらのことは調査資料では知ることが出来ない貴重な証言ですので、早速しおりに書きました。
その他の見学場所でも、調査資料だけでなく現地に出向いて出来るだけその整合性も確認しました。

 以上、お陰様でしおり作成の段階で八幡東部歴史について期待以上の事がわかり、しおりの完成度を上げる事が出来ました。
 最後に、「八幡の歴史カルタ」に詠まれている訪問地のページには、その句を入れて完成版としました。また、しおりの体裁も見やすいように、訪問地ごとに1ページに項目ごとに纏め、歩きながらでもめくりやすいA4サイズの二つ折りとし、ページ番号も上段の中央に入れました。
by y-rekitan | 2013-03-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第36号より-04 歴探ウォーク

歴史探訪ウォーク参加記

若松 雅廣 (会員)


 枚方新町を出て北へ自転車を飛ばす。八幡市役所前に着いた時は出発時間に40分も遅れていた。みんなが今、内里のどこにいるのか分からない。内神社の杜を遠く眺め、入り口を探しながら、京田辺市行きのバス、野菜の無人販売所、鎮魂碑、ビニルハウスを見て、内神社の鳥居前に午後2時30分に着いた。
 道路が間近にあり農作業に従事する者が数人いるのに、音が無い、聞こえない。木の緑に音が吸い込まれている。それと足元が気持ちいい。玉砂利のおかげか。
 f0300125_11352960.jpg土井さんの大きな声が聞こえてきた。遅参を詫び、資料を受けとって本殿まえで説明を聞く。南の伊勢神宮の方角の場所に天照大神が祀られているなど資料以外の話が面白かった。西側の堀にある案内板について、土井さんが年号の記述に疑問ありとコメント。私は鳥居に向かって左側の石碑の真ん中の字が気になって、写真を撮った。
 国道1号線の下にある地下道を歩く。また石の道標を見つけた。八幡志水八丁など印され、ガイドの高田さんがいつもの三宅碑より字数が多いと一言。戸津八幡神社をお参りする。境内に樹齢315年の楠木がそびえ立ち、本殿をお参りした皆さんは、こう言われた。「こういう『地域の神社』は、維持管理が難しく大変です」と。
 最終の場所、防賀川と大谷川の合流点で、高田さん曰く。「去年の川ざらえを見ました。壮観でした」。ここから皆さんは八幡市役所前へと旅の行者となり、私は自転車で老父母の待つ田口(枚方市田口)へ。
 夕陽の世界に、雲がかかり始めた。と、川に大きなネズミが、その下を鯉が泳いでいる。散歩していた婦人に尋ねた。「カワウソですか」と。「そうみたいです」と答えられた。日本では絶滅品種と言われるカワウソがいるとは?
 本当にいい日曜日でした、みんなのおかげです。

※事務局より 大谷川・放生川に生息する生き物について
     情報があればお寄せ下さい。

by y-rekitan | 2013-03-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第36号より-05 エジソン碑①

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・①
御文庫とエジソン碑①

 石清水八幡宮 禰宜  西  中 道


 今から10年程前まで八幡宮の広報担当者は、1・2月を除く毎月、各報道関係者に近々の行事予定を告知する手紙を郵送していた。これに併せ、当時の担当者は「石清水アラカルト」と称する広報チラシを作成していたが、その中の一シリーズとして「一ノ鳥居から御本殿まで」と題する境内案内の小文執筆を私が引き受けることとなった。平成6年末から開始して、途中1年ほどの中断を挟み、連載約10年、通算89回に及んだが、担当者が替って「アラカルト」企画そのものが廃止され、その結果「御本殿まで」と銘打ちながら、平成15年末で遂に三ノ鳥居付近の記述を最後に打ち切りとなってしまったのである。そこで今回、この欄を与えられたことを好機と捉え、以前途中で終わってしまったシリーズの補遺編として、これから数回にわたり筆を進めてまいりたいと考えた次第である。

 さて、男山の山上には様々な建物があるが、ごく最近になって消滅してしまったものもある。その一つが、研修センター本館北側、大楠の直下にあった「御文庫」である。この建物は、片仮名のコの字形に造られた土蔵で、コの字の縦棒の右側中央に重い引戸があって、ここを開けて中に入ると、二本の横棒に相当する南北の棟それぞれの四周壁際と中央に木製の棚があり、そこに膨大な量の古文書・古記録・古書籍類が収納されていた。私が奉職した昭和52年当時、この建物は既に相当老朽化が進んでいて、入口の扉を開けて薄暗く黴臭い屋内に入ると、すぐ目の前の床に大きな穴が開いており、懐中電灯で床下を照らすと、かなり下の方、おそらく1.5メートル程はあろうかと思われる所にセメント様の平面が見えた。先輩神職によれば、この穴は何年か前に当時のT禰宜が誤って床板を踏み破り下に転落した、その跡だとの話であった。どうやらT禰宜に大きな怪我はなかったようで、そのため笑い話で終わり、床は修理もされず、放置されるままとなってしまったものらしい。当時、床下の根太は腐り、床は歩くたびにブヨブヨと揺れた。屋根を支える梁や柱にも亀裂が入り、建物全体が傾いで今にも倒壊しそうであった。   (つづく)

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by y-rekitan | 2013-03-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第36号より-06 神原の講

代々つづく神原の「講」

村山 勉 (会員)


 今般、代々続いている八幡市八幡神原(かみはら)の「講」についてのお話をお聞きする機会を得て、土井さん、高田さんと私が「講中」の方のお宅に伺いました。
 指定された神原谷畑(たにばた)地区は、「神原」の交差点より北、善法律寺より南、昨年暮れに八幡馬場で、八幡市教育委員会の発掘調査説明会が開かれた所のすぐ近くでした。 
 「講」とは、宗教上、経済上、その他の目的のために集まった人々が結んだ社会集団で、①大師講・報恩講等の宗教的講、②無尽講・頼母子講等の経済的講、③伊勢講・富士講等の社会的講に大別されるそうです。
 谷畑地区の「講」は①の宗教的なもので、3月15日までの「涅槃会」と10月15日までの「十夜講」で「講中」の方が集まっておられます。
 「涅槃会(ねはんえ)」とは、陰暦2月15日(現在は3月15日)、釈迦の入滅の日に「釈迦涅槃画像」を掲げ、釈迦の遺徳追慕と報恩のための法要です。また、「十夜講」は浄土宗寺院で広く行われる念仏会で、「お十夜」とも言い、「無量寿経」の教えに従い正式には十日十夜、不断念仏を唱え阿弥陀様の慈悲に感謝する法要だそうです。
 こちらの講では「十三仏画像」を掲げておられますが、十三仏は亡くなった方の供養のため、13回の忌日にそれぞれの明王、如来菩薩様が導いて下さると言い、その明王、如来菩薩の姿を描いた「十三佛」の画像を掲げ法要を行います。
 神原の「講」でも、実に立派な「涅槃画像」「十三仏画像」がありました。両画像とも少しも色落ちしておらず、彩色もきれいで、特に涅槃の釈迦は金色できれいなものでした。
 いつ頃作成されたものかは分かりませんでしたが、「講中」が保管されておられた「什物(じゅうもつ)」入れの裏蓋に墨書きで「天保六年二月 寄付人 紀氏」や「城州綴喜郡八幡茶畑町住 寄付人 山本嘉兵衛近頼 常時同行 講中九人」、箱中の包み布に「明治五年」とあり、また涅槃画像の裏に「雄徳山麓茶畠念佛講中什物」とありました。画像は明治(150年ほど前)のものか、それほど古いものとは感じませんでした。
 「茶畑町」とあり、お聞きしたところ、この辺は「谷畑」であり、「茶畑町」ではないとのことでしたが、以前に「善法寺家(石清水八幡宮宮司の一人)」の家系で「菊大路家」があり、そこに茶畑組合があり、講中の9軒がいたとのことです。菊大路家が大阪の方に移って行かれる時に、この2つの画像を講中に譲り渡したとか。以前の「涅槃会」「お十夜」も、菊大路家が主宰されており、それをお手伝いされた茶畑組合の講中でお守りしてほしいとのことではなかったかと思うと言われました。
 菊大路家の茶畑組合が、同じ在所の並びの家9軒に該当し、当初この9軒の主人が集まり、代々続いており、「本膳(一飯、一汁、三采)と大皿一個、小皿三個」の料理を出していたそうです。それが一時中断し、復活してから主人でなく夫人が集まり、お菓子類になり、講中も今は5軒となったそうです。
 「画像」は「講」が終了した翌朝、次の当番の方へ引き継がれるそうです。年2回の「講」で、画像を掲げ、講中が集まり、お祀りする。それが代々続いているとのことです。これも歴史を守っていく一つの方法ではないでしょうか。
「正法寺」の尾張家、徳川義直の母「お亀の方」の「持仏」をお守りする講もあると聞いています。ほかにも、この様に連綿と続いているようなものがあるのかも知れません。
 八幡と言えば、すぐに八幡宮、放生会、松花堂、善法律寺といった身分の高い家柄の社寺やそこでの宗教行為が連想されますが、この様に、庶民による、地に密着し引き継がれていくものにも意味深いものがあると感じさせられました。
by y-rekitan | 2013-03-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第36号より-07 歴史カルタ

「八幡の歴史カルタ」に驚く

播磨 義昭 (会員)


 「八幡の歴史を探る」第35号(2月25日付)の「歴史カルタで八幡博士」を読み、慌てました。限定3 00部と書かれていたからです。「早く購入しないと売切れてしまう」と思い、急いで松花堂売店へ向かいました。
 「八幡の歴史カルタ」については、「八幡の歴史を探る」第33号(12月20日付)で知りました。当初はお付き合いで一組購入しようと思っておりましたが、帰宅後、カルタの箱を開けて驚きました。
 私は、堺市(反正天皇陵と堺事件で有名な妙国寺の中間点)で育ちました。八幡市に住むようになったのは、私が育った堺市と、母が育った京都市(中京区)の中間点に八幡市が位置することと、淀川の対岸に「百人一首」縁(ゆかり)の水無瀬神宮(離宮)があったからです。
 仕事と将棋と陶芸に熱中しておりましたので、長い間「百人一首絵巻物説」を忘れておりました。平成20年10月に陶芸課題が一段落致しましたので、「百人一首絵巻物説」を調べ始めました。島本町歴史文化資料館(旧麗天館)に何度も足を運び、林直道氏箸『百人一首の秘密』を入手し、「百人一首」の故地?を歩き回りました。
 ある日、島本町歴史文化資料館の学芸員に「しまもとの郷土かるたを見て下さい」と言われ、帰宅後インターネットで全国の「郷土かるた」を調べました。
 「八幡の歴史カルタ」を手にとって、先ず絵札の美しいことに驚きました。インターネットで見た全国各地の「郷土かるた」と比べると、「八幡の歴史カルタ」の絵札の美しさは、傑出していました。森川修氏が描かれたとのことですが、構図も色調も非常に優れています。こんなに優しく美しい絵を描く方が、八幡におられると思うだけで嬉しくなりました。
 次に、付録の「八幡の歴史カルタ年表」と「八幡歴史カルタ探訪マップ」を見ました。「八幡の歴史を探る」第33号の「八幡歴史カルタ-これまでとこれから」の最後に、土井三郎氏が「八幡の歴史カルタが、八幡の歴史を探求し、そこに誇りを持つことに繋がり、その誇りを次世代に伝えることになれば、こんな嬉しいことはありません」とお書きになっています。「八幡の歴史カルタ年表」と「八幡歴史カルタ探訪マップ」から、編纂メンバーの熱い想いが伝わってきました。
 私には購入した書籍等をすぐに読まない習癖があります。新規購入書籍を一旦書棚に並べ、新規購入書籍が「我が家に慣れてから」読むことにしております(本当のところは、読書予定が山積しており、すぐに読めないからなのですが)。購入した書籍等をすぐに読まない私が、購入当日に文字札詩句と裏面の解説を読んだのは、カルタの箱に洗練されたセンスを感じました。
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 現在、特に気に入っている文字札の詩句は次の通りです。
    1.おとこやま四十八坊いまどこに
    2.寺の跡参詣道にここかしこ
    3.利休とも語り合ったか瀧本坊
 この三枚の詩句を読むと、すぐにでも現地を訪れたくなります。
    1.鳥羽伏見橋本の街焼き戦い終わる
    2.淀屋邸豪商の夢今に伝えて
 五七調から外れたこの二枚の詩句は、八幡の歴史に対する作詞者の「想い入れ」が伝わってきて、気に入っております。

 私は歴史について全くの素人ですが、郷土の歴史については「郷土の歴史がどれほど素晴らしいかということより、その地に住む者が、郷土の歴史をどれ程学んでいるかが重要である」と考えております。
 前記の「八幡歴史カルタ-これまでとこれから」に、「そこ(過去の報告会やシンポジウム等)で語られたことや会員が学んだこと、そんな成果が今回のカルタ作りに生かされています」との記述があります。
 文字札裏面の解説をさらに詳しく知りたいと希望する会員や、将来入会する会員向けに、文字札毎の「更に詳しい解説」を作成して頂ければありがたい、と考えております。
 さらに勝手を申しますと、歴史探究の会会員中には、古墳好きの会員が何人もおられると思いますので(私は大山古墳の築造時三重濠説に拘っております)、茶臼山古墳・東車塚古墳・西車塚古墳の何れかを「更に詳しい解説」のいずこかに書き加えて頂ければ、なおさらありがたいと考えております。
 また、編纂時の苦労話等を、できるだけ多くご紹介下さいますようお願い致します。
 素晴らしい「八幡の歴史カルタ」の編纂に携われた全ての方々に、御礼申し上げます。
by y-rekitan | 2013-03-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第36号より-end

この号の記事は終りです。

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by y-rekitan | 2013-03-28 01:00 | Comments(0)