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◆会報第37号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“わが心の風景”⑩◆
◆《講演会》南山城の地域史を学んで◆
◆ヌートリア考、そして「郷土囗史物語◆
◆狛 犬 考◆
◆シリーズ:“御文庫とエジソン碑”②◆


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by y-rekitan | 2013-04-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第37号より-01 豪商淀屋③

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わが心の風景・・・(10)
豪商淀屋と八幡③
所在地 八幡西高坊


 f0300125_15594378.jpg天下の豪商、淀屋の初代常安が徳川家康から拝領した山林地三百石が享保元年に淀屋に返還され、安住の地となるはずだった八幡の地でしたが、翌年12月21日、辰五郎は亡くなってしまいます。一説には三十五歳という若さでした。
 かつて、その眼下に淀城が一望できたであろう神應寺の淀屋墓所には大きな碑が三つあります。中央が二代目玄个庵、右が玄个庵の実弟で三代目箇齋の父でもある五郎右衛門、左が五郎右衛門の子で三代目となった箇齋です。その箇齋の墓碑の左には、ひときわ小さな墓があり、これが五代目辰五郎の墓です。
 墓石には「潜龍軒咄哉个庵居士」と戒名が刻まれています。その文字に「今は軒の下に身を潜めているが、いつの日か、この無念を晴らしてくれようぞ」という辰五郎の強い思いが伝わってきそうです。淀屋は倉吉で再興。その百五十年後、その財のすべてを倒幕の軍資金に注ぎ込み、積年の恨みを晴らすのです。(絵と文: 小山嘉巳)

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by y-rekitan | 2013-04-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第37号より-02 南山城の地域史

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《講 演 会》
南山城の地域史を学んで
― 2013年4月  松花堂美術館講習室にて ―

山背古道探検隊隊長・城南郷土史研究会代表・
山城国一揆研究会代表  中津川 敬朗


 4月21日(日)、午後1時半から松花堂美術館講習室にて、冒頭のタイトルで講演と交流の集いが開かれました。 講師は、中津川敬朗(なかつがわゆきお)さん。当日配布されたレジュメをもとに,その概要を紹介します。但し小見出しは編集担当者によるもので、発表する前に,中津川さんに目を通していただきました。 

はじめに

 「やましろ」古道は山城と書かず「山背」と書いている。奈良時代に「山背」といっていたのを、平安に都が遷された際、「山城」と改めるよう詔が出された。「古道の会」は「山城」と名乗ろうとしたけれど、一つの町に「山城町」と云うのがあってそれと混同してしまうということで、「山背」がいいだろうということになった。

 なぜ「背」なのかといえば、平城京の背に当たるのが山城だからである。そして「背」を越えたところに平安京がある。ということは、「山背古道」というのは、奈良の平城京と京都の平安京を結ぶ道筋に策定した散策路の名称である。

 同時にこの道筋は、飛鳥や藤原京の時代から、木津川右岸にそって造られ、北陸とつながる「古北陸道」の道筋であった。今、大勢の人が「山背古道探検隊」のイベントに参加なさっているが会の名称には、そんな背景がある。

尋尊の記した絵図から

 さて、私たちの歴史の会は、1953(昭28)年に発足した。そのきっかけになったのが山城国一揆である。
 山城国一揆と云うのは、約500年前に、山城の武士たちが、地元の住民の理解と協力を得て、南山城地域の「自治」を目指したできごとである。

 8年間とはいえ、なぜそんなことができたのか。それは、応仁の乱で東西の両軍が今の城陽市あたりを中心に対陣する。すると、地元の武士たちも両軍に分かれ対陣するということになり、そんなことやめようということになった。

 ところが、その時の記録が地元にはなくて、奈良の興福寺の寺務を担った大乗院の日記に記されている。尋尊(1430~1508)などが書いた「大乗院寺社雑事記」というもので、尋尊の使者が毎日伝令として両軍対陣の様子を報告し、それを克明に綴っている。

 戦前に、この尋尊などの記録は活字になって出版された。戦後そのことを知った私たちは、そこに記されている絵図にふしぎな地名を発見する。

 城陽と宇治の境に「フミ」と書かれている。「フミ」は「ふしみ」とも読める。何故こんなところに「ふしみ」があるのか。私たちの会の研究者がそのことを調べ、ようやくわかったことは、その辺りで男山方面を眺め、石清水八幡宮を「伏し拝む」遥拝所であったということである。つまり、京都からやってきた貴族などが、宇治を経て、正確にいえば、JRの「新田」駅の南側の高台に出て西側を眺めると男山が見える。そこで、石清水八幡宮を伏し拝んだというのである。

 そのことを最も早く自治体史に書いたのが宇治市である。「宇治の歴史」というもので、その中に「フシ」の遥拝所のことが記されている。それによれば、牛車に乗った貴族がこの地で牛車を降り、笏(しゃく)を持って何回か礼をするという決まりがあったということである。八幡神は国を護る神ということでそのような儀礼が行われていたのである。

山城という地域

 地形図を見ることで得られることもある。今は、衛星写真を見ることが簡単にできるようになった(城陽市史第1巻巻頭口絵)

f0300125_1533725.jpg 山城地方全体をよく見ると、東に笠置の山地、西に神南備の丘陵地帯があることがわかる。巨椋池のあった辺りもわかる。そして、男山の西北で、京都から流れてくる桂川、琵琶湖を起点に山間をうねうねと蛇行して来る宇治川、笠置の山地を迂回しながら,南の相楽から綴喜の真ん中を通って久世の西をかすめて北へ流れて来る木津川の三川が合流して淀川となる地形であることがわかる。そして、南に飛鳥・藤原を経て平城京の都、北に平安京と二つの都に挟まれた地域が山城地域であるということもわかってくる。つまり、宇治川や木津川が政治的・経済的な川であることが、新旧二つの都にはさまれた地域を流れる川であることからも説明がつく。

 云いかえれば古い中央と新しい中央の二つの中央に挟まれたこの地域が山城地域であるということである。その山城地域の歴史が、この30~40年ほどの間に研究者の手で編まれるようになった。例えば、門脇禎二氏によって木津町史や精華町史が、上田正昭氏によって山城町史が、井上満郎氏らによって加茂町史が編纂されるようになった。すると、そのような自治体史によって、二つの中央に挟まれたこの地域が、豊かな文化や歴史が眠っていることが明らかにされるようになった。二つの中央の間にあるということから、貴重な文化や歴史が育まれてきたということがわかるようになったのである。

 また、この時期は山城郷土資料館が発足することになったこととも重なる。いずれにせよ、二つの中央の谷間であって何もないと思われてきた山城地域で、人々は神に祈り仏と縁を結びながら労働に励み懸命に生きてきた。そのなかで歴史や文化をつくりあげてきたことがわかるようになった。

 これまで『万葉集』といえば、奈良というのが定番であったけれど、山城も結構詠まれていることがわかるようになった。120首ほど詠まれているが、その中に、滋賀の田上山から木を伐り出しているのがわかる歌がある。藤原宮を造る際、田上山からヒノキを伐りだし、急流の宇治川に一本ずつ流し、巨椋池で筏を組んで木津川を上らせるのである。そんなことが『万葉集』の長歌などを読むとわかってくるのである。

 2010(平成22)年と2011年には、行政と、研究者、資料館、市民が一体となって「もう一つの万葉の里」というシンポジウムなどが開催された。その時、山城資料館は同じように特別展をした。そのように、行政と研究機関、市民とが共同で進める文化活動が山城地域で進んでいる。

 八幡で「歴史カルタ」ができて市内の小学校に配ったという画期的なことが行われたが、私も協力させていただいたが、山城の教員に山城の地域の歴史をわかってもらう教材作りの仕事が進められようとしている。現在は、このように行政と市民とが一緒になって地域の歴史や文化をともに探り、明らかにすることができる時代となったのである。

地域の歴史との出合い

 昔は、そんな地域史など全く顧みられない時代であった。

 私は戦前(1930年代)、山城町上狛に瓦屋の倅として生まれた。瓦屋は村の東端にあったが、更に500mほど東に飛鳥寺の瓦と同范の瓦を使って造った高麗寺という京都府で最も古い寺があった。おそらくは高句麗系の渡来人が飛鳥の勢力と結んで造ったのであろうが、当時、伽藍は既になく瓦の破片が多数落ちていた。私の父は家業を放って毎日のように古瓦の収集に励んだが、やがて京都から研究者がやってきて発掘調査を始めた。京都帝国大学による発掘調査に、町役場と村の人たちも協力した。そのなかで、ある旧家から古い絵図が出てきた。高麗寺の伽藍配置も書きこんだものであるが、やがてそれが椿井文書であることがわかった。椿井文書とは、相楽郡椿井村出身の椿井政隆(1770~1837)が作成した偽文書や偽絵図のことである。‐発掘調査によって、父保一やむらの人たちは偽文書を乗り越えることとなった。

 椿井文書については、八幡の会が1月にお呼びになった馬部隆弘氏によってくわしく解明されたが今日、そういった問題を乗り越えて地域史研究が発展している。

 そんな地域史研究で明らかになった教訓は以下の点である。
① 事実と事実経過に基づいて歴史を説き明かして行くこと。
② 遺物、古文書、資料を独り占めしてはいけない。
③ 調査、研究の成果はすべて地域住民に知らせる。
  「むらびと」に帰すこと。

 京都の研究者と出会い、山城国一揆研究で学んだこと

 戦後の地域史研究は、戦後まもなく本格的に始まった。1952(昭27)年、京都大学の国史研究室の先生方が、私の家に泊まりこんで当時学生であった私や働く青年たちに歴史を語ってくれた。当時、若い研究者が農村の調査に入るのが社会運動として展開されるという時代でもあった。

 若き日の上田正昭氏、伊ヶ田良治氏、池田誠氏の面々である。寒い冬、囲炉裏を囲んで、握り飯をかじり番茶をすすりながら語ってくれたのである。聞き手は青年団の者や村のお百姓さんたちで、若い先生方が共通に語ったことは、村の歴史は村の人たちが作ってきたというものである。当時の村民は、歴史は偉い人が作ってきたものだと思わされていたから、半信半疑であったが、私には新鮮に聞こえた。中でも、山城国一揆の村人の動きが先ほど触れた尋尊の日記に出て来るという話は眼をみはるものであった。

 以来、山城国一揆の研究が始まったが、先生方は忙しいということで、熱田公氏を派遣してくれた。この人は国人層の動きを卒業論文のテーマにしていた人で、私たちは熱田公氏を指導者として研究を進めるのである。やがて高取正男氏が研究会の指導に来てくださった。この方は民俗学の先生で、後に高取民俗学と称されるほどの先生である。皆さん手弁当であった。

 歴史における民俗学の視点というものは、とても大事なもので、得難い経験をさせていただいた。いずれにせよ、研究者の指導と援助があって、地域の住民が勉強できる関係が作られたということである。それは、今日にもつながる関係と云ってよい。

 ところで、山城国一揆は、その研究が戦後始まったのかと云うとそうではない。三浦周行という京都帝国大学の先生が明治末年に、例の大乗院日記をもとに山城国一揆のことを発表している。それを受け継いだのが鈴木良一氏で、この先生は、山城国一揆の研究を体系化する。鈴木氏は東京帝国大学出身の方で、それを史学雑誌に発表する。東大の史学科は、当時、皇国史観の中軸の所だったので、まともな論文としては扱われず「雑評」の中に、「応仁の乱の一考察」というタイトルで出されることになる。そして、私たちの研究会がそれを地域住民に知らせ大衆化するということになる。今では、どこの教科書にも書かれている「山城国一揆」はそういう研究史を辿っている。

f0300125_13265796.jpg やがて、山城国一揆が成立して五百年という年を迎えることになった。1985(昭60)年のことである。山城郷土資料館ができたばかりの頃である。500年を記念して新たに山城国一揆のことを勉強しようというグループが出来る。テキストは木津町史の史料篇である。毎月40人ほどの者が集まり、ややこしい史料篇を読む勉強会が始まった。指導してくれたのは、黒川直則氏。黒川氏は次のように述べた。山城国一揆は、三浦周行によって発見され、鈴木良一によって体系化され、城南郷土史研究会によって大衆化されたと。

 研究は今も続いている。応仁の乱が始まり、尋尊が死ぬまでの僅か40年ほどの期間について、くわしい年表を作ろうということで始まったが、膨大な史料をずっと読んできた。最後は、八幡関連の史料である。八幡については手つかずの状態であるが、やはり「石清水文書」を読まないといけない。

 次回の田中淳一郎氏のお話はそれに関連するものだと思うけれど、それはそれで大変な作業になるけれど、やらないといけない。

 戦後の歴史学をふりかえった時、やはり皇国史観を乗り越えるということが標榜されたといえる。私たちの歴史運動もそういう影響のもとにあったことは事実である。マルクス主義歴史理論をふまえた石母田正の『中世的世界の形成』や『歴史と民族の発見』はすぐれた名著として読まれた。そんな時代を経験したのである。

 林屋辰三郎先生にもずっと指導をいただいてきた。先生たちが立ち上げた日本史研究会は西日本一大きな歴史研究会である。その林屋先生に、1953(昭28)年、私たちの研究会を立ち上げた時に上狛小学校に来て話をしてほしいと頼んだ。50畳敷きの作法室に160名の参加者があったことなども忘れることが出来ない。

人々の祈りの世界

 山城の国一揆が祈りの世界と深く結びついていることを若い時は考えていなかった。だが、国人衆が神前で集会をする。「両畠山方は山城に入れないこと」「寺社の所領はもとのようにする」「新しい関は立てない」「年貢・成物を無沙汰しないこと」そんな約束事を神様の前で集会して誓いあうのである。牛王法印(ごおうほういん)の裏にその約束事を書いて、それを焼き、できた灰を水に入れ、神様に供える。36人の国人衆がその水を廻し飲みにして約束事を神に誓って団結を固めたのである。

 山城地区にある寺社や宗教の行事は、平安時代に始まり、鎌倉・室町期に深化された人々の祈りの世界と不可分に結びついていることを私たちは思い知ることができる。

 おわりに

 地域史研究や学習を進めるにあたって大切にしてきたことは次の点である。(一部割愛)
① 外部資料も地域資料も断片的な資料であっても、徹底的に読み
   込む必要がある。
② 外部資料は、地域で発見される資料と結んで、具体的な歴史像を
   解明することができる。
③ 研究・調査活動は、地域に精通している「古老」の体験と知識に
   教えられることが多い。
④ 府や市町村の資料館、文化財保護行政の研究・調査活動に深く
   学ぶ。
⑤ 地域史の研究成果は、資料の独り占めや自己満足の研究を戒め
   ながら、地域へ渡さなければならない。帰さなければならない。
             <文責=土井三郎>

「一口感想」より

f0300125_13302844.jpg◎ 「地域史を学ぶこと」について、豊富な経験をふまえた講演がお聞きでき、これからの進む方向を示唆していただきました。ありがとうございました。また、「山背古道」の命名についても興味あるお話でした。(T)
◎ 過去の例会にはなかった興味深い講演でした。「歴探」が今後取り組むべき課題について、非常に示唆に富んだ内容だったと思います。中でも、次の二点が特に印象に残りました。①調査・研究の成果は「むらびと」に帰すこと。これは言いかえれば「公」の文化財・資料は出来るだけ「むらびと」に公開することと理解しました。
②歴史は、役人・貴族だけにあるのではない。民衆の歴史があるはずとのこと。これを探究することも、「歴探」の使命かと思います。(M)
◎ 地域史に限らず、自分の持っているものを、次の世代に伝えていくことが大事だという言葉に感銘を受けました。ヒストリーイズオープン! (H)
◎ ありがとうございました。和気あいあいの楽しい会。益々のご発展を!飛びこみです。(田辺英夫〔木津市鹿背山のお寺のご住職〕)
◎ 定年退職後、山背古道の全行程を二回に分けて二回ほど歩きまして感じたことですが、それまでその歴史について何も知らなかったので、今日の講演会に参加して大変参考になりました。」(T)
◎ 元気な話しぶりの中津川先生の姿を拝見できて嬉しく思いました。講演全体を通じて根気よく努力されていたことがよくわかりました。私は、井手町出身なので、現地の様子がよくわかり、お話の内容から「あ、あそこか」と思うことが度々ありました。先生、どうもありがとうございました。(M)
◎ 学んだことを帰してゆくことの重要さをつくづく感じました(地域に住んでいる者として)。(F)


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by y-rekitan | 2013-04-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第37号より-05 ヌートリア考

ヌートリア考、そして「郷土口史物語」

土井 三郎 (会員)


 「会報」36号で、枚方の若松さんは、大谷川と防賀川が交わる所でカワウソに似た小動物が泳ぐ姿を見たと書いています。私も、大谷川でこの小動物を見たことがあり気になっていたのです。そこで、みなさんに情報をお寄せ下さるよう依頼しましたところ、多くの方から情報が寄せられました。以下の文章は、橋本在住の野間口秀國さんからのものです。
 「若松さんが書かれているように、カワウソは2012年8月、環境省のレッドリスト改訂で正式に絶滅が宣言された種ですので、カワウソではないと思われます。同じく、若松さんが書かれているように『大きなネズミ…』とありますように、見られた動物はネズミの仲間の「ヌートリア(Nutria)」ではないでしょうか。
 f0300125_1685771.jpgヌートリアはネズミの仲間で、日本には本来分布していない外来種であり、環境省指定特定外来生物の1種です。第二次世界大戦頃に軍隊の防寒服用(柔らかい上質な毛皮が安価に入手できるため)として飼育されたが、終戦後に毛皮の需要が激減したことに伴い、その多くが野外に放逐され野生化している様子です。
 東海より西の西日本各地に分布が拡大しており、たんぼの作物、葉野菜などに対する食害、在来種の生態系への影響、水田の畦や堤防の破壊、住宅の庭先への侵入、漁網を食い破る被害など、多くの悪影響を生じさせている動物です。
 主食は水生植物の葉や地下茎であり(一方、かわうそは肉食性)、明け方と夕方に活発な採餌のための徘徊行動が見られ、日中は巣穴で休息していることが多いです。私自身、太陽が傾くころに市内の大谷川で複数回確認しております。大谷川が流れる橋本の尻江・東山本あたりにつがいが生息、そして八幡の平谷あたりでも確認しています。
 昨年の夏に、尻江で畑仕事をしておられた地元のご婦人に被害の有無をお聞きしたことがありますが、その際には『今のところないけど…』とのお答でした」
 川口在住の高田昌史さんが、ご自身撮影されたヌートリアを送って下さいました。まさしくネズミそっくりです。これが、野間口さんも述べるように、本来、日本には生息しない外来種で、第二次世界大戦の頃に、軍部が防寒服用に輸入し飼育し始め、戦後、野外に放逐され野生化したというのは驚きです。
 害獣として嫌われているようですが、八幡土井在住の吉岡久江さんから、小冊子を同封した、心温まる次のようなお便りが届きました。ご本人の了解を得て、以下に全文紹介します。

 『桜が咲きはじめすっかり春になりました。八幡の歴史のお話楽しく読ませて戴いています。大変古い本、昭和三年、私の生れた年に発行されたものですが、参考になればと思い送らせてもらいます。
 私も八十五才、何時どうなるか解らぬ年になりました。残った人達にゴミとして処分されるかも知れませんので、少しでもお役に立つ事があれば幸甚に存じます。
 放生川にいる鼠の大型のような動物はヌートリアでした。北へ帰らぬ鴨も五、六羽遊んでおります。
 益々のご発展を祈っております かしこ
           襟あしに風やわらかし芹を摘む  久江
           桃の花村を貫く高野道        〃
           水ぬるむ泳ぎ上手なヌートリア   〃 』

f0300125_16122748.jpg 同封されていた本は、『郷土口史物語上巻』(写真右)という小冊子で、発行は八幡尋常高等小学校。吉岡さんのお手紙にありますように昭和3年12月に発行されています。著者は、同小学校の山下薫氏と岡田立捷氏ですが、「序」に同校校長が両氏のことを「本校訓導」と紹介しているように、同校の教師であったようです。序にある文章を引用します。「両先生は(中略)児童読物としての郷土誌編纂を企て、実地の踏査古老の談話其他文献の参考等種々苦心研究を重ねて愈々印刷せらるることとなつた。当地方此種の読物としては最初のものであり且つ郷土を知るには極めて恰適なる読物であることを推奨する」
 表紙に「御大典記念」とあり昭和天皇の即位を祝う趣旨があるものと思われます。そのような時代認識に影響されたものではありますが、昭和初期の八幡の様子や当時の人々の歴史認識を知る上でも貴重な文献と思われます。目次を紹介します。

 石清水八幡宮/源氏と八幡宮(一)/同(二)/西車塚(八角院)/神應寺と豊臣秀吉/男山(鳩が峰)/男山延元正平の戦/川口天満宮/西遊寺と僧行基/西遊寺の沿革/松花堂昭乗/宇智の皇子/正法寺/洞ヶ峠/金剛寺址/戊辰八幡の役
by y-rekitan | 2013-04-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第37号より-06 狛犬考

狛 犬 考

大田 友紀子 (会員)

はじめに

 狛犬は、神社の鳥居の前に座して、参道の脇で見張り番をしています。仁王門の仁王さんと同様に邪悪な者の侵入を防ぐ役目をしていると言われていますが、伊勢神宮に狛犬はいません。そして、f0300125_10165636.jpg石清水八幡宮にも、境内社の水若宮社の前と、麓にある二の鳥居の前、高良神社の前に座するだけです。しかし、他の神社には、主要な門の前にはでーんと座して睨みをきかせています。   
 石清水の二の鳥居の狛犬は、右は「玉取り」で獅子、左は「子取り」で狛犬です。この配置は、内里の内神社本殿の前に置かれている狛犬と同じです。浪速狛犬で、大阪で造られた石造りの狛犬です。子連れの狛犬(獅子)は、特に中国と日本に多くあり、吉祥図案の一つになっています。獅子が中国にやってきたのは、漢代末期で、仏教の渡来と同時に、仏像の守護像として伝えられました。
 御所の一般公開で、清涼殿の御座所の前に鎮座しているのが元祖狛犬と聞いて、ますます好奇心を持ったのが、私の狛犬探究への始まりでした。

狛犬のルーツ

 狛犬(獅子)の起源は、エジプトのスフィンクスともいわれ、古代オリエントにまで遡ります。国王が強大な力を得るために、地上最強の動物(と思われていた)ライオン(後の獅子)の力を王に宿らせるという思想があり、玉座(王の椅子)の肘掛けに獅子頭を刻んだりするようになりました。インドでは、仏像の台座にライオンを刻み、それを「獅子座」と呼んでいます。その思想は、インド・ガンダーラを経由して中国に入ります。それまでも、中国人は龍や麒麟などの霊獣を生みだしていて、獅子もその一つとなりました。「唐獅子」といわれる派手な獅子像も、中国文化が生み出した独特のものです。 
 それ以後、獅子は中国皇帝の守護像として定着し、それを見た遣唐使の帰朝後の報告によって宮中に獅子座思想が持ち込まれたのです。唐獅子像は、初めは装飾調度品としての鎮子(おもし)と呼ばれて用いられ、併せて魔除けの意おもし味が付け加えられ、殿舎に置かれるようになります。平安中期の「枕草紙絵詞」には、中宮定子の御帳台の前に、向かって右に口を開けた獅子(阿形)、左に吽形の狛犬が描かれています。そして江戸時代、仁和寺に御所より「賢聖障子絵」(全二十面、狩野孝信筆)が下賜されますが、そこにも獅子・狛犬の一対が描かれていて、清少納言が「怖い」と書いたその姿を彷彿とさせてくれています。
 奈良時代までは、同形の獅子二頭だったのが、平安時代になると獅子・狛犬という新しいセットが作り出されました。獅子は黄色で口を開け角は無く、狛犬は白色で口を閉じ角があります。中国の獅子と日本の狛犬の違いは、中国獅子像が一対であってもほとんど相似形であるのに対し、日本では獅子と狛犬二つの異なるものが組み合わさっているということです。特に、頭に角のある狛犬は、日本の「発明」ではないかといわれています。これは、「左近の桜、右近の橘」のようにアンシンメトリー(左右非対称)配列を好む日本文化特有の気風により、片方には別のものを配したいという欲求から、獅子と釣り合う想像上の生き物として「狛犬」が誕生したと思われます。但し、時代が経るにしたがい、だんだんと獅子・狛犬の区別が曖昧になり、呼び方は単に「こまいぬ」となりました。
 ところで、狛犬の「狛」という字について諸説あります。その一つは、「狛」は本来、中華思想で「周辺の野蛮な地」を指し、狛犬は「中国の外に棲む正体不明の怪しい犬」という意味があるというものです。もう一つは、「狛」は本来「神獣」の意味で用いられ、犬に似ていて頭部に角があり、猛々しい姿をしているということで、「狛」の字が当てられたというものです。
 いずれにしても中国に発するもので、朝鮮とは関係がありません。日本では「こま」という音から「高麗」を連想し、「こま犬」=「高麗犬」=「朝鮮の犬」といった誤解が広まりました。

「神殿狛犬」と「参道狛犬」

 当初、狛犬は宮中に置かれていましたが、いつしか天皇家と縁のある神社に伝わり、神殿の中に安置されるようになります。その後さらに時を経て、一般の神社にも置かれるようになっていきます。
 日本古来の神道では、必ずしも姿や形のある神を祀ってはいませんでしたが、伝来した仏像の荘厳さに影響を受けて、神の姿を現したものを求めるようになり、神像が造られるようになりました。生き神様として天皇を模して造られた神像を置くようになると、それを護る霊獣として狛犬を置くようになって、神殿狛犬が普及します。阿形の獅子・吽形の狛犬、この「阿吽」形式は、おそらく寺の山門を護る仁王像の阿吽などを採り入れたものと思われます。仁王も狛犬も、神(天皇)・仏を守護するという役割は同じだということからでしょうか。これが、日本独特の「狛犬」の始まりで、天皇の玉座を護る守護獣として誕生したので、「神殿狛犬」または「陣内狛犬」と呼ばれます。 もともと獅子ではない別の神獣として発明された狛犬ですが、時代が下がるにつれて、形の上では獅子の方が主流となり、呼び方に「狛犬」が定着していきます。現在、中国獅子と狛犬は似ていますが、「狛犬」という文化が定着し、独自に発展したということで、「狛犬」は日本独自の文化であるといえるでしょう。
 それでは、「神殿狛犬」が参道に姿を見せるのはいつ頃のことでしょうか。橋本万平氏(『狛犬をさがして』の「日本東照宮説」)によると、「寛永13年(1636)、日光東照宮の徳川家康の墓の前に置かれた一対の狛犬が、関東から以西の太平洋側で一番古い石造狛犬であるとされる。これは、日光廟の増築を監督した二人の大名がその功績などで特に許され、神君の墓を護るために設置したのだそうだ。これを知った江戸の人たちが、自分達の町の神社にも狛犬を奉納するようになった」というのです。
 江戸狛犬の影響を受けて、大坂でも石造狛犬が設置されるようになり、元文元年(1736)設置の住吉大社の狛犬が大坂で最古とされています。これが「浪速狛犬」です。
橋本氏が「関東から以西の太平洋側」とことわっているのは、日本海側には、もっと古い有名な石の狛犬が参道にいたからです。それは、京都府宮津市の籠神社の狛犬で、重要こも文化財の指定を受けています。この狛犬は鎌倉時代末期の製作と推定されていて、「参道をはさむ石造の狛犬は、江戸時代以前にも存在していたので、橋本説は(中略)神社への狛犬奉納が、大衆化するきっかけとなったと考えればいいわけだ。狛犬が大挙して参道に出て来るのは、確かに江戸前期からであり、それ以前は大衆化していなかったのは事実である」(『狛犬学事始』ねずてつや著)という指摘もあります。
江戸前期に、そもそも「こまいぬ」を見たことがない石工が造る素朴な「犬」のような狛犬が全国各地で造られるようになりますが、やがて、伝統的な狛犬の姿形・様式と融合していき、江戸の庶民を中心にバラエティに富んだ狛犬文化が開花して、今日さまざまな狛犬を見ることができるのです。
 石造りの狛犬は庶民が奉納する形になり参道に置かれ、ここで狛犬は宮中から一般大衆の世界に降りてきたことになるのです。

終わりに

 八幡市内で一番古い狛犬は、御園神社にあります。南山城地域で一番古い狛犬といわれ、寛政8年(1796)9月吉日の奉納とあります。繰り返し起こったと思われる木津川の氾濫の中、「寛政8年からの約200年間(中略)よく狛犬を守ってきたものだ」(ねづてつや氏)と感嘆賞賛されています。
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この狛犬も浪速狛犬で、大坂で造られ、大坂商人により奉納されたものでしょう。
 最初に紹介した石清水八幡宮二の鳥居前の狛犬一対も同じ浪速狛犬です。そう言えば、八幡宮の熱烈な信奉者で名高い松下幸之助氏も大阪商人でした。
 今回は、狛犬のルーツ及び最初に成立した「神殿狛犬」、後に庶民のパワーにより成立する「参道狛犬」について述べました。けれども、私が本当に書きたかったのは「神殿狛犬」についてです。石清水八幡宮の宝前の狛犬一対も、賀茂下上社と同じか違うのか、違うとすれば何故か、などなど。そして、応神天皇が最も愛された皇子ウジノワキイラツコをお祀りしている水若宮社にだけ何故「神殿狛犬」と「参道狛犬」がセットでいるのか…。そんな疑問の一つ一つについて考え、書いてみたいと思っています。
by y-rekitan | 2013-04-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第37号より-07 エジソン碑②

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・②
御文庫とエジソン碑②

 石清水八幡宮 禰宜  西  中 道


 平成7年1月17日に発生した阪神淡路大震災では、参道の石灯籠48基が倒壊し、一の鳥居の貫(ぬき)と呼ばれる石材に亀裂が生じるなど、当宮にも相当の被害が出た。それ以前から傷みが進んでいた御文庫は、この地震でさらにダメージを受け、このまま放置しておけば参拝者に危害が及ぶ虞もあるとして、遂に平成17年夏までの取り壊しが決まった。その前に重要な古文書・古典籍類は収蔵庫に移し、さほど重要とも思われないが一応保管しておいた方がよいと判断されたものは、数十箱もの段ボール箱に容れ、石翠亭(参拝者休憩所)の一室に移した(昨年、それをまた社務所地下2階の一室へ移動)。
 こうして空っぽになった御文庫の解体工事が始められたのは、平成17年7月15日である。上部の木造建物は簡単に解体・撤去することができたが、その下から姿を現した鉄筋コンクリート製の巨大な構造物に工事関係者は目を見張った。それは、まるで頑丈な要塞のようであり、古代都市の廃墟が一部露出したもののようにも見えた。実は、これこそが、昭和8年に建設された元祖「ヱヂソン翁記念碑」の基礎部分だったのである。

f0300125_15194932.jpg そもそも、ヱヂソン記念碑の境内建設について、日本電気協会から当時の田中俊清宮司(現恆清宮司の祖父)に申請があったのは、昭和8年8月12日のことであった。田中宮司は、早速翌日から記念碑建設に向け動き出す。

 当時、一定の格式を有する神社は、内務省神社局の管理下にあり、宮司といえども自己の裁量で全てを決することはできなかったが、国の出先機関である京都府に働きかけた結果、清浦奎吾会長(元首相・伯爵)名で出願されていたヱヂソン記念碑建設の件に対し、9月29日に京都府より許可通知が届いた。10月3日には京阪電鉄からも記念碑建設の許可が下りたことについて祝意が寄せられ、いよいよ境内の一角、大楠樹下に全国電気関係者からの浄財を集め、立派な記念碑を建設することとなり、同月22日には田中宮司自ら斎主となりヱヂソン翁記念碑建設地地鎮祭を執行、土台部分の建設工事に取り掛かった、―までは良かったのだが・・・。    (つづく)


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by y-rekitan | 2013-04-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第37号より-end

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by y-rekitan | 2013-04-28 01:00 | Comments(0)