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◆会報第39号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“わが心の風景”⑫◆
◆《講演会》 八幡社士総代「江戸尾張年頭御礼日記」◆
◆シリーズ:“大谷川散策余話”②◆
◆シリーズ:“御文庫とエジソン碑”④◆


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by y-rekitan | 2013-06-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第39号より-01 落書き寺

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わが心の風景・・・(12)
落書き寺
所在地 八幡吉野


 f0300125_15385447.jpg淀屋辰五郎旧邸跡前の「ドンド辻」を東に行くと、その突きあたりに通称「落書き寺」と呼ばれ親しまれている単伝庵があります。その門前に建つ三宅安兵衛遺志建立による碑は、古字によって刻まれ、その歴史を一層感じさせられるちので、数多くある三宅碑の中 でも特に趣があります。
 単伝庵の山門をくぐると正面に大黒堂が見えます。この大黒堂の白い内壁は、訪れた人々がペンを使って書いた願い事がびっしり。「落書さ寺」の異名はここから生まれました。祈りの空間での落書きは、参拝者の心に強烈な印象を刻み込むものとなっています。
 単伝庵の開山は不明ですが、古くは神原町にあったといいます。一時中絶の後、男山中腹にあった法童坊に預かり置かれていました。江戸時代後期に禅宗となり、現在の場所仁移されました。妙心寺知勝院の法類で、豊後国臼杵城主稲葉家の菩提寺であった月桂寺の僧瑞応が移り住み、中興の祖となりました。(給と文:小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2013-06-28 12:59 | Comments(0)

◆会報第39号より-02 八幡社士日記

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《講演会》
八幡社士惣代「江戸尾張年頭御礼日記」を読む
― 2013年6月  ふるさと学習館にて ―

 会員 谷村 勉  


年頭御礼とは何か

 「文化六年、江戸尾張年頭御礼日記」(以下「日記」)と題されたものは、次に参府する御礼人に参考となるように書かれた記録で、筆者は谷村市之進光冬である。八幡の社士の惣代として、11代将軍家斉や尾張藩主、家老志水家に年頭御礼するために江戸に出向き、「祈祷神札」・「菖蒲革(しょうぶかわ)」などを献上したことを記したものである。f0300125_2247220.jpg
 江戸城内での儀式の様子、江戸までの往復の道中の様子など克明に記してあるが、プライベートな記述は一切ない。また、かなりの達筆で、八幡に戻ってから清書したものと思われる。
 八幡を出立したのが1月20日、江戸に着いたのが2月2日。江戸まで13日間かかっている。また、江戸を出立したのが2月20日、八幡着が3月朔日なので、帰りは12日間要しているのがわかる(陰暦で文化6年は1、2月とも30日)。行きは、中山道・美濃路・東海道を通り、帰りは甲州道・中山道・東海道を通っている。
 将軍お目見えが2月15日、本丸白書院で、独礼とある。江戸には18日間の逗留となった。
 年頭御礼は、以下の理由で始まったと思われる。
 慶長15年(1610)の9月に徳川家康は、条目を下し、八幡神領を検地免除・守護不入の地とした。翌年8月相応院(お亀)は、検地免除を喜ぶと共に、八幡宮山上山下惣衆より家康に御礼として菖蒲革10枚が送られたことについての礼状を社務三家に送っている。その後、江戸時代を通して毎年年頭御礼のために惣衆が江戸に出向くようになったとみられる。
 献上の菖蒲革は、鹿皮に菖蒲文様の染色を施したもので、殊に武将に贈られることが多く、鎧などの武具の一部に使用された。
 慶長5年(1600)5月、家康より社務家をはじめ、山上山下の惣衆に三百数十通の朱印状が給付され、八幡の神領はその所領を各々に直接朱印地として与えられた。朱印地の給付は安居神事執行のための役料の意味があったようだ。安居神事は多額の費用を要するため、八幡社士はそれぞれ一生に一度のみ安居神事の頭役を勤めて、天下泰平・御武運長久を祈願していた。
 年頭御礼人は、前年の11月には人選が決められ、社士仲間が路銀など出しあっている。

江戸に向けて出立

 文化6年1月4日に、吉書回状、吉書献立が行われ、6日に八幡宮に参っている。吉書とは、めでたいことを記述したもので、それを仲間と廻しあったり、神に捧げたりした後に御神酒を進献、正明寺鎮守社(鳥羽伏見の戦いで焼失か)拝礼の後、京都の糸物商と面会し進物を、神寶所からは菖蒲革をそれぞれ受取っている。
また、社務である善法寺殿、新善法寺殿を廻り、田中殿にて祝盃をあげている。そして1月18日には、親類中を招いて料理を振舞い、同日、淀から品川宿までの先触(さきぶれ)と添状を発信している。
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 1月20日、いよいよ出立である。中山道を経て美濃路を経由。23日には名古屋に宿をとった。翌日、尾張藩家老の成瀬隼人正、竹腰山城守屋敷へ行く。両家老とも江戸出府の為、取次に面会し、江戸での旅宿先を知らせる。
 国家老志水甲斐守の屋敷では菖蒲革を献上した後、料理を振舞われている。
f0300125_2256247.jpg 箱根の関所は輿(かご)に乗ったまま通過。但し、顔が見えるように「乗物左之戸」を開けたとある。
1月30日に小田原宿に到着。江戸には2月2日に着いた。日本橋通三丁目中横丁万屋(よろずや)利右衛門の宿(屋敷)である。竹腰山城守殿より使者が来て口上を述べた。

江戸城での儀礼

 4日には、三井越後屋(三越の前身)に使いを出して、鷹大緒(たかおおお)(鷹の足に括り付ける組紐)を誂るよう指示している。
 6日には寺社奉行に届けを出し、市ヶ谷にある尾張御殿と志水甲斐守屋敷に挨拶に出向いている。
7日、江戸城内での世話役、幕府同朋衆の四人に金子百疋、目釘竹、煙草入れ、南鐐1片等を進呈し、手紙を付けて登城・御暇(おいとま)の際の取り持ちを依頼している。金子百疋は現在の2万から2万5千円程度、南鐐1片は1万円程度だと考えられる。目釘竹とは、刀の刀身と柄(つか)を結び付けるもので、八幡の竹が珍重されたとのことである。
 ここに、「手札」というものを紹介したい。横6㎝、縦16.5㎝のもので、「城州八幡社士、谷村市之進」が何の目的で江戸に参ったのか、どこに宿をとっているか等を記し、名刺代わりに使用し、進物品などに添えられた。(写真)f0300125_22592023.jpg
 10日に、志水甲斐守殿屋敷に赴き、留守居役牧野団之進へ献上品などについて相談している。というのも献上品である「鷹大緒」について前例があるとかないとか、何度もやり取りの記述があるのである。
12日に尾張様御目見え許可の書状が来て返書をしたためている。
13日に、御小書院弐之間にて御礼披露しているが、御礼の前に習礼(しゅうらい)(予行演習)が行われているその後、料理が出された。鷹大緒献上については御公儀倹約中ということで辞退となったようだ。
 14日には将軍家献上品の準備がなされ、公方様には菖蒲革、大納言様(次期将軍家慶)には轡手助(くつわたすき)を贈るよう整えられ、衣装なども準備された。
轡手助とは、馬の口にあてがう轡の部品である。
 いよいよ15日。江戸城白書院にて独礼の形で年頭御礼がなされた。f0300125_2333929.jpg
寅刻(午前4時頃)より支度をいたし、卯刻(午前6時頃)前に登城。大手門は乗與のまま過ぎ、下乗橋の所で輿(かご)を下り御玄関庭苑の上にて長持より献上品を出し、その後は同朋衆の世話を受け、寺社奉行による習礼の後、御目付衆の案内により松の廊下を進み、御白書院にて「御礼首尾好く相済む」、とある。
平伏したままで、顔をあげることなく御礼をするのである。その後、老中、若年寄などに回礼をして宿に戻った。
 その日に八幡へ書状を出す。社士仲間に壱通、家内へ壱通とある。これは早便(江戸-八幡を三日で到着するもの)で出した。当然料金は割高である。
 16日にも本丸と西の丸に登城して、安居神事の神札御祓を献上し、寺社奉行に回礼している。
 17日には浅草観音前へ従者を連れて、浅草海苔を調達している。八幡への土産であろう。
 19日に御暇の挨拶のために登城しているが、この時、五つの寺社関係者が登城している。五つの関係者とは以下の通り。
 壱 八幡、弐 日光、三 熊野、四 京今宮、五 愛宕両人である。

八幡への帰郷

 20日、八幡にむけて出立。甲州道中を経て八王子に宿。21日鳥沢、22日石和、23日金沢。続いて下諏訪から中山道に入り、24日本山、25日上松、26日馬籠、27日御嶽、28日赤坂、29日武佐、30日大津である。
大津には走井餅の店があり、八幡一ノ鳥居近くに有る「走井餅」店の前身である。そして3月朔日に八幡に到着している。3月5日には、社務中等に土産を持参している。

【挿入された資料等の典拠】
  ・街道図;江戸時代&古文書虎の巻(柏書房)
  ・日本橋;歌川広重(二玄社)
  ・手札と日記の一部;ともに個人蔵
  ・大手門; 失われた江戸城( 洋泉社)
  ・白書院(模型) ;江戸東京博物館

 報告が終わり10分程の休憩をはさんで、質疑応答がなされました。主な論点を紹介します。f0300125_2371237.jpg
① 八幡の知行高はどれ位か。一一
 八幡八郷だけで6500石弱。他にも知行地があったので、l万石を超えていたのではないか。
② 八幡宮と神人のかかわりはどうか。一一
 具体的な姿はよくわからないところがあるが、八幡宮を統括する社務の家来が社士(神人)というわけではない。将軍家より、ともに朱印地が与えられるという点で神人等の力の強さが認められる。
③ 明治維新後、社士はどうなったのか。一一
 東京遷都や神仏分離の政策がとられたり、幕藩体制が解体されるなかで、進取の気性を持つ社士達は学校の教師になったり、医者になったり、新しく事業を起こす者もいたが、八幡を離れて行く者も多かった。
④ 江戸には何人ぐらいで行ったのか。一一
 従者は3人程で、鑓持ちゃ人足など現地で調達することが多かった。
⑤ 街道は上部から決められていたのか。一一
 自分達で決めていたと思う。水陸の交通事情を把握しながらコースや行程を自らで決めていたと思われる。
 
「一口感想」

◎イギリス人の写真家(F ベアト )によって撮られた写真が幕末にしてはかなり鮮明で驚きでした。谷村さんのご説明は大変わかりやすく、楽しい講演会でした。有難うございました。(FU)

◎直系の方の古文を読み込んでのお話、大変おもしろく、勉強になりました。また、ベアトの写真や錦絵、図録や系図などを見ることで理解が深まり有難かったです。古文の読み込み、資料の収集、発表レジュメ等などキメ細かい準備と発表でした。(M)

◎八幡一江戸の行程が非常に細かく日記でわかりました。尾張・徳川との関連が非常にあったことがよく理解できました。(F)

◎本日の講演は、画や写真を多く見せて頂き、江戸までの道中や江戸城へ登城したような気分が味わえ、とても興味をもって拝聴できました。(S)

◎市内には、この様に貴重な文書が残っていると思われます。これからも紹介していって下さL、。(I)

◎液晶大画面の迫力もありましたが、谷村さんの資料の周到な準備で、年頭御礼の旅程、出立から八幡帰着までビジュアルな情報体験ができ、よく解り、体感できました。(I )

◎谷村勉様。今日はありがとうございました。幕府体制の中で、八幡の神人・社士の活動と位置付けの一端がわかり勉強になりました。(T)


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by y-rekitan | 2013-06-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第39号より-03 大谷川散策②

シリーズ「大谷川散策余話」・・・②
第2章 橋の数は何本?

野間口 秀國 (会員) 


 大谷川は、淀川水系の淀川に流入する支流の一つで「一級河川」です。淀川水系の流域はかなり広範囲で、京都、大阪、三重、滋賀、奈良、兵庫の2府4県に及びます。 「一級河川」は河川法によって定められ、国土交通大臣の指定を受けているものですが、8項目ある諸条件(詳細は割愛します)のいずれかに当てはまる河川が該当(※1)します。ちなみに、「二つ以上の都府県にわたる水系であって、関係都府県にわたる治水上若しくは利水上又は河川環境の整備若しくは保全上の利害を調整する必要があると認められるもの」との規定があり、大谷川はこの条項にあてはまるようです。 なお、各都道府県知事にその維持・管理などが任されている河川は「二級河川」として扱われています。

 主題である橋の本数を語るには、先ず大谷川の起点と終点、及び対象とする範囲を明確にしておかなければなりません。 大谷川の起点は、正確には、左岸が京田辺市松井手水谷10番地先で右岸が同松井口大谷25番地先です(※2)。f0300125_8313791.jpgその場に立つと、上流側は視界を遮るように八幡市欽明台東の大規模住宅地が聳えており、最上流部で2本に分岐した源流は共に暗渠となっています。 川は京田辺市松井地区を北東へ、ほどなく八幡市に入り北西に、八幡地区の田園地帯を北に、そして西に向かい、石清水八幡宮のある男山を抱くように反時計回りに曲流します。 終点は、橋本小金井にある橋本樋門近傍の河川管理境界標識の地であり、京都府の管轄はここで終わります。以降の下流域は国土交通省の管理区間(淀川本流域)に入ります。川は府道京都守口線に沿って淀川の河川敷内を南下、枚方市樟葉の樟葉ゴルフ場の南端で淀川の左岸に注いでいます。      
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  対象となる橋は、上流側が起点の地番近傍で太田工務店の敷地前の橋名表示の無い「石橋」です。一方の下流側は京都・大阪府境近くで府道京都守口線(枚方市樟葉中之芝2丁目信号直近)に架かる「小金井橋」までとし、淀川河川敷内の流れに架かる橋は含めておりません。 結果、橋の本数は今年5月末時点で45本(私の判断で)でした。実際に歩いて調べますと以下のようなケースにどう判断するかで迷いました。一つ目は、大谷川の流れのはるか上を横切る第二京阪道路やガス・水道・通信線用の橋も数えるのか否か。二つ目は川を跨いではいるが供用を終えた旧橋や京阪電車の鉄橋の扱い、三つ目は、殆ど渡る人がいないのではと思える小さな橋の扱いです。ちなみに、1は含めず、2と3は含めました。結果的には、行政上の管理本数の50本(※3)とは異なりますが、これには先に挙げた理由やその他の複数の要因があると思われます。詳細は別の機会に述べてみたいと思っています。

 橋にも、日々の暮らしの風景の一部になっているものとそうではないもの、そこにあることで、橋と共に生活している人のみに見える大切な橋があるような気がしてなりません。同じ一本の橋でも、近くで話を聞かせていただくたびに、それぞれの「おらが橋」をお持ちであることを感じることができます。地図を片手に何回も歩くと流域の区間毎の特徴らしきものも垣間見え、勝手な判断ではありますが以下のように5つの区域に分けてみました。そして、それぞれの橋の数も記してみました。

 第1区は「里山区」と命名。最上流部の起点近くに架かる「石橋」から内里池北西にある「内戸美橋」手前までで本数は12本。第2区は「公園区」と名付けて「(旧)内戸美橋」から男山東中学校前の「五月橋」を経て国道1号線に架かる「あけぼの橋」手前までの6本です。 第3区は「田園区」。区間は「あけぼの橋」から「昭乗橋」「大谷橋」と北流、防賀川合流地を通過し、八幡排水機場近くの「一の橋」手前までの9本。田んぼの多いこの区を川は南北一直線に流れています(前号=第38号=に掲載の写真もご参照ください)。 第4区は「放生区」。あれこれと迷いましたが落ち着くところやっぱりこの名前になりました。「一の橋」から「八幡橋」「安居橋」を経由し、「鹿野橋」手前の区間で10本。そして最終第5区は表題名より「大谷区」と名付けました。「鹿野橋」から「はしもと橋」、そして最後の「小金井橋」までの8本です。 以降の章では各区の特徴や、気づいたこと、橋にまつわるあれこれを書いてみたいと思います。   (つづく)

(※1)(※2)(※3)京都府山城広域振興局企画部・山城北土木事務所/八幡市都市管理部道路河川課のご協力を得ました。

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by y-rekitan | 2013-06-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第39号より-04 エジソン碑④

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・④
御文庫とエジソン碑④

 石清水八幡宮 禰宜  西  中 道


 エジソン翁は、昭和4年(1929)に世界各国で開催された電灯発明50年祭の時点では健在であったが、実はその記念パーティーの席で倒れ、2年後の昭和6年に満84歳で亡くなっている。つまり、この時期のエジソンは遠い過去の人ではなく、つい最近亡くなったばかりの、いわば生臭さの残る同時代人であり、彼の名声を貶めるような芳しからざる人物評も、米国内では密かに囁かれ始めていたらしい。皮肉なことに、電灯50年祭が催された同じ年の秋、アメリカに端を発した大恐慌は、一朝にして世界を暗転させ、我が国では昭和6年に満州事変、同7年に五一五事件が起こり、翌8年(1933)、欧州ではヒットラーが政権を掌握、世界はいよいよ戦時一色に塗りつぶされていくこととなる中央官僚の嗅覚は、すでにこの時、エジソンの米国内における評価が未だ流動的であったという問題ばかりでなく、日米関係の 急速な悪化という近未来の国際情勢をも敏感に嗅ぎ取っていたのかもしれない。実際、それから僅か8年後には、真珠湾攻撃で日米決戦の火蓋が切って落とされるのであり、もしも戦時下において、石清水八幡宮の境内に米国人の顕彰碑が在ったとしたら、宮司以下神職は非国民だの国賊だのと罵られ、身の危険さえ覚えずにおられなかったであろう。そういう意味で、石田局長にしてみれば、石清水八幡宮を救って差し上げたのは自分だと、むしろ自負するところがあったのではあるまいか。

f0300125_13404193.jpg 昭和8年10月28日に地鎮祭を執行し、建設工事が始まったヱヂソン記念碑は、基礎部分のコンクリート打設工事を終えた時点で、完全にストップしてしまっていた。内務省からの許可が下りぬ以上、このまま工事を進めるわけにはいかない。そこで関係者一同が鳩首協議を重ね、境内地以外の場所に代替地を見つけだし、そこに記念碑を建設するのであれば、何処からも文句は出ないであろう、というあたりで事態の収拾が図られることとなった。明けて昭和9年春、新たなヱヂソン記念碑建設地として白羽の矢が立ったのが、蒲鉾の「大寅」経営者、小谷寅吉氏の所有する男山展望台の一角であった。 (つづく)
 

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by y-rekitan | 2013-06-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第39号より-end

この号の記事は終りです。

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by y-rekitan | 2013-06-28 01:00 | Comments(0)