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◆会報40号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“わが心の風景”⑬◆
◆《歴探ウォーク》二つの資料館をめぐる◆
◆シリーズ:“大谷川散策余話”③◆
◆シリーズ:“御文庫とエジソン碑”⑤◆
◆京都大学総合博物館にある八幡の遺跡・遺物◆


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by y-rekitan | 2013-07-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第40号より-01 昭乗と下馬碑

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わが心の風景・・・(13)
下馬碑と昭乗
所在地 八幡高坊


 f0300125_22475345.jpg八幡平谷から石清水八幡宮へ登る階段の下に「下馬」と行書で大書した碑があります。下馬とは、そこより先の乗馬を禁ずることで、下馬碑はその場所を示します。
 碑は切妻の屋根形をし、前に2センチ、左右に約5センチ張り出し、芝居の招き看板と同じ形をしています。高さは155センチ、幅45.5センチ、厚さ13センチ。下部は22センチあり、前面に2センチほど張り出しています。筆跡は、瀧本坊の住職、松花堂昭乗と言われています。
 さて、男山者古録著者の藤原尚次は、摂津国の四天王寺に詣ったとき、南門外道にある東南の方向を向いた「下馬碑」を発見。形や文字の大きさ、彫刻の全てが八幡の下馬碑と同じで、碑陰には「奉寄進 寛永十四丑丁年間3月15日」とあり、佐川田昌俊が記した『昭乗行状記』に松花堂昭乗が四天王寺で弘法大師の筆法を学んだと見えることからも、昭乗の筆跡に疑いないと言っています。遠く離れた地に昭乗ゆかりのものを発見した尚次が小躍りしている様子が目に浮かぶようです。 (絵と文: 小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2013-07-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第40号より-02 資料館巡り

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《7月例会 歴史探訪ツアー》
二つの資料館をめぐる
   

― 2013年7月  木津川市 城陽市にて ―


 7月18日(水)に実施された歴史探訪バスツアーは、事故もなく、所期の目的を果たしました。お二人の感想文をもって、7月例会の報告に代えます。(事務局)

日時: 平成25年7月18日 午前9時出発 午後4時帰着 (貸切りバス利用)
見学先:  山城郷土資料館 10.00~12.40 (解説:同館資料課長 田中淳一郎氏)
       城陽市歴史民俗資料館13.15~15.10 (解説:同館学芸員 三桝佳世氏)
       参加者: 33名

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「二つの資料館をめぐる見学ツアーに寄せて」
恩村 政雄 (会員)

百聞は一見に如かず

 当八幡の歴史を探求する会が平成22年に発足以来、会員の研究発表の場として、また外部より有識者を招いてのセミナー実施等による「聞く・読む・書く」を主体とした座学研究会を推進してきましたが、今までの研究成果の確認および南山城の史実の視野を拡げることを目的とした、近隣の2資料館の古文物と出土物の本物を「この目で見る」見学ツアーに参加いたしました。

山城郷土資料館で、絵図や朱印状、阿弥陀如来立像などに感激

 八幡市出発時にはひとしきり雨が降りましたが、この雨のお陰で暑さも和らぎ快適なバス旅行となり、40分も経たぬうちに山城郷土資料館に到着。
 同館は昭和57年開館以来、2階に南山城地区の歴史遺産を体系的に展示した常設展示と、時宜のニーズを捉えた企画展示(7/6~8/25は南山城の災害史展)を意欲的に実施・運営していますが、今回は特別に資料庫保存の「石清水八幡宮山上山下八郷惣絵図」(正法寺蔵)と徳川家康・秀忠及び豊臣秀吉書状の判物・朱印状の古文書10枚余が3階会議室の長机に広げられ、田中資料課長より1時間に亘り説明されました。f0300125_733217.jpg
参加者は吐く息にも注意して、絵図および古文書に目は食い入り、田中課長説明の言葉に耳をそば立たせて聞きいりました。本物を眼のあたりにして誰しも興奮気味。緊張のし過ぎから思わず手や衣服が絵図や古文書に触れて、長机からずり落ちそうになり、あわてた田中課長の注意の声が度々聞こえてきました。
 その後、2階の常設展示に移り、田中課長より更に1時間に亘り美濃山宝寿院本尊の阿弥陀如来立像、式部谷の銅鐸(レプリカ)をはじめ南山城の考古、歴史、民俗文物や出土物の説明を受け、南山城における八幡の位置づけや力のバランス等に思いを巡らしました。f0300125_78478.jpg  
さらに企画展示では慶長元年(1596)地震による内里八丁遺跡噴砂はぎとりパネル、及び昭和28年南山城水害を伝える夥しい写真や新聞切り抜きを見、読み、近時年に起こるであろうと云われる東南海地震発生の災害を想像し、災害対策をしなければと心が動きました。なお、内里八丁遺跡の噴砂はぎ取りパネルは八幡市ふるさと学習館からの提供のものです。

城陽は歴史の宝庫と認識を改める

 八幡市上津屋と城陽市上津屋は、昔は一つの村を形成。現在は流れ橋を渡りしばらく南に歩けばそこが城陽市。八幡市と隣接していますが木津川に阻まれ、遠いという距離感を持っていました。
   城陽市歴史民俗資料館(愛称:五里ごり館)は文化パルク城陽の4階にあり、城陽市域が床面に印刷、たくさんの古墳出土品および城陽市の文物等が展示されています。
 展示の古絵図から京都から約五里、奈良からも約五里の2都の中間という地の利を有し、街道沿いに数多くの本陣、旅籠、商家が存し、往時の賑わいが想定されます。
中近世だけでなく古代においても木津川流域集落として栄え、首長の支配力の強さをあらわす久津川古墳(前方後円墳 全長272m、墳丘長180m 墳丘の長さ、高さは文化パルク城陽全容とほぼ同一の大きさとなる)をはじめ 189もの古墳が城陽市内に散在していることは驚きでありました。f0300125_7104972.jpg
 さらに「全国でも唯一出土品の銅釧(ドウクシロ)」「古墳を模した中の首長の遺体の下には5,000個以上もの勾玉の敷き詰め」「南山城では稀有の大般若経全巻(601巻)の保存」には大いに関心を抱いたものです。
願わくば、展示品の説明資料が作成されていれば、城陽市史および八幡との文物交流状況の理解が深まり、研究成果の確認がより進んだのではと思われました。

 
おわりに

 今回の2館の見学ツアーは私にとっては予期以上の満足感を得ました。
 いつもは、資料館の展示品を見ただけでは「何だ、他館と同じではないか」と思い、サァーと流し見してしまっていましたが、今回のように学芸員が展示品を系統だって説明していただけると、その背景、その時代の息づかいが感じられ、展示品が私に語りかけているような感じを強くいたしました。

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「楽しく、充実した時間を過ごしました―歴史探訪ツアー感想記」

宰川 淳一 (会員)

 初めまして。ずい分前になりますが、松花堂美術館講習室で、(資料を見ますと昨年6月16日)探究する会に出席させて頂いて以来の参加です。その時の「八幡の町の成り立ち」と題した八幡市教育委員会文化財保護課の大洞真白係長さまのご講話をお聞きし、又、この度は府立山城郷土資料館にて資料課長田中淳一郎様のお話が聞けました。内容的には、前述の大洞様のお話と関連付け(会報27号をあらためて見ながら・・・)が解り、それなりに理解でき、勉強になりました。f0300125_7152393.jpg
 又、正法寺蔵の絵図、林家蔵の徳川家康朱印状、宝寿院にあった阿弥陀如来像など素晴らしい歴史遺産の数々を見学出来ました事、それに、城陽市歴史民俗資料館での“上津屋”は木津川の歴史に翻弄された結果の一つの遺産である等、私には歴史を振り返る素晴らしさを充分に味わえました。
 次に、会の感想としましては、会員の皆様の見学(探究)態度から、それぞれの方の興味の深さ、濃さ、レベルの高さを感じました。私もこれから勉強するようにして、探究までは行きませんが、少しでも知識を増幅出来たらと思います。
 私的には、今のところ興味が特にあるものに、古墳など昔の人びとの生活に思いを寄せられる埋蔵品があります。私自身、この2年位、石清水八幡宮、神應寺を散歩コースにし、そこからみつけたものもありますが、一方で、木津川にかかる新御幸橋から下流約500mの河床遺跡から、皿・壺・急須・すり鉢状の物、また石器として使われたのでは?と思われるもの等20~30点ぐらい採取したりしています。もっとも、その文化的価値や知識はほとんどありませんが、“昔”のものに親しみとこだわりを感じ、その“出会い”を楽しんでいます。
f0300125_7184932.jpg 木津川は、御幸橋の架け替えによる河床の形状変化に伴う流れの変化で、川床に眠っていた“昔のもの”が掘り起こされて、それこそ永い眠りから表面に浮上したものでは?と思います。 古文書にも興味はありますが、時代背景と文書の書式等の知識がまったくありませんから、勿論、文面も読めません。今回朱印状の解説などあり興味が起きました。資料館の説明を頂きながらの勉強会には是非又参加させて頂きたいですね。
 近々、72歳になる身ですが、無理なく楽しく、勉強が出来ましたらと思います。皆様方、先輩方のご指導を賜りながら続けていけたらと思います。いろいろとありがとうございました。


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by y-rekitan | 2013-07-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第40号より-04 大谷川散策③

シリーズ「大谷川散策余話」・・・③
第3章 里山地区・歴史の交差点

野間口 秀國 (会員) 


 「里山区」は最上流部の起点直近に架かる「石橋」から内里池北西にある「内戸美橋」手前までで、この間に標高差でおよそ20mは流れ下っているのではと思われます。

 男山考古録巻第十一「放生川」の項に、放生川(大谷川)の源に関して「放生川源出自河内国烏帽子山」云々とあります。ここに書かれる烏帽子山がどこを指すのか、その名から起点付近にある立派な給水塔のあたりかなどと勝手に思いながらも、残念ですが私には河内國烏帽子山の位置が未だ特定出来てはおりません。 それはさておき、起点のほぼ真上にそびえる住宅群、府道交野・久御山線、そして平成22年3月に開通した第二京阪道路に囲まれた最上流部は京田辺市生産緑地地区です。決して広々としているとは言えませんが、古くから耕し続けられたであろう田んぼでは、この第3章がお手許に届く頃、田植えから2ヶ月ほど過ぎたイネの苗も生長して鮮やかな青田となっているだろうと思います。 起点傍の「石橋」から流れに沿って20から30m程進むと、下流方向に向かい左から流れ来るもう1本の流れと合流し、下るとほどなく2本目の橋「大谷橋」があります。同じ名前の橋が八幡市の八幡舞台にもあり、同一河川に同一名の橋が複数あっても問題は無いのか、との疑問には別の機会に書いてみたいと思います。 川は美濃山丘陵の東の裾をかすめて流れ下ります。美濃山およびその近辺は、かって奈良の都と西国を結んだ「官道」と呼ばれた古山陽道が通っていたことが多くの本や資料に記されております。遠く九州の大宰府まで繋がる古山陽道は、現在の京田辺市域から美濃山廃寺や志水廃寺の近くを経由して河内国樟葉に通じていたとのことですが、官道沿いに設置された樟葉駅家(エキカ)の正確な位置を示す遺跡などの発見はなされていないようです。
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そして、今日、既に供用されている第二京阪道路に続き新名神高速道路の工事が日々進行しています。この美濃山の地ではこれらの道路建設に関連して、ここ数年、美濃山廃寺、美濃山瓦窯跡、女谷・荒坂横穴群遺跡などの埋蔵物文化財が次々と発掘され都度の現地説明会も行われました。また本年5月には美濃山廃寺の発掘調査報告セミナーも開催され廃寺の姿も明かされようとしております。上記横穴群遺跡からは多くの土器などに加えて複数の人骨も発掘されました。南東向きの静かな丘に埋葬された先人達は、かって古道を行き交う人達を相手に暮らしていたのでしょうか。その時代に思いをはせ、早く静かな元の眠りに戻してあげなければなあ、と思いつつ橋脚工事現場を後にしました。1300年余の年月を経てこの地を走る高速道路はまさに古代から現代へ繋がっている気さえしますが、それは一方でかっての里山の風景が失われてゆく姿でもあります。f0300125_7381999.jpg さて、美濃山が人々の生活に欠かせない大切な里山であった事は、関連の書籍や資料から、また周辺に今も残る田んぼや孟宗竹の林や複数の農業用水池などからも偲ばれます。とりわけ内里池は農業用水池の代表格ではないでしょうか。ほとりに建つ石碑は、この池が昭和60年から平成元年に亘り4年の歳月をかけて整備され、10万立方メートル余の貯水量を有し、内里地区を初めとする41ヘクタールの水田に水を供給する重要な農業用灌漑池である事を教えてくれます。

 内里池は冬には水が抜かれて底が顔を見せてくれます。水鳥たちが集う風景を見る時、池はそこを訪れる多くの動物たちをも守り育んでいる事が良く分かります。また、水の無い冬の季節だけに見る事のできるのは寒風にさらされている池の底で朽ちかけた小舟です。かっては大いに活躍したであろう小舟の姿はまさにこの里山の地の歴史の1シーンではないでしょうか。
f0300125_7313859.jpg 再び川の流れに目を戻してみましょう。上流では水も澄んでいますが、流れ下るに連れて企業や人家も増え、周辺の開発も少なからず影響しているのでしょう、少しづつ水が汚れるのも避けられないようです。内里池近傍にはこの3月11日に供用開始したばかりの新しい「内戸美橋」が架かっています。ダイナミックに変貌を遂げている大谷川の上流を歩く時「里山区」は古代と現代が交差する歴史の交差点と言えるのではと思います。

 最後に、ご多用な中、古山陽道に関して親切なるご教示、ご助言を頂きました八幡市教育委員会・文化財保護課の小森俊寛氏に紙面にて御礼申し上げます。

次章では「橋の始まり」について書きたいと思います。  (つづく)

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※地図作成に関する参考文献(資料)は以下の通りでございます。
 ・第124回 埋蔵文化財セミナー資料(2013.5.25)  
     美濃山廃寺の歴史的位置づけ  小森俊寛氏
 ・八幡市埋蔵文化財発掘調査報告 第45集 (平成19年3月31日) 
 ・志水廃寺・月夜田遺跡発掘調査報告書 八幡市教育委員会
 ・京都と京街道 水本邦彦著 吉川弘文館刊
 ・京都府の歴史 朝尾直弘・他4名共著 山川出版社刊


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by y-rekitan | 2013-07-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第40号より-05 エジソン碑⑤

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・⑤
御文庫とエジソン碑⑤

 石清水八幡宮 禰宜  西  中 道


 「大寅」の創業者・小谷寅吉氏は、大正4年頃から男山一帯の土地を購入して開発を進めていたが特に八幡宮本殿北側に位置する平地 ― 明治維新前はここに門口坊という宿坊が存在した ― からの眺めは絶景であったから、ここを展望台として重点的に整備することとなり、その結果、人々はこの辺りを「大寅遊園地」と呼ぶようになった。

 大正15年6月に開業した男山ケーブルの経営主体は、男山索道株式会社であるが、その当初の代表者は小谷寅吉氏であり、昭和2年から同5年まで社長の任にあったのは寅吉氏の養子で後に大寅2代目社長となる小谷権六氏である。つまり男山ケーブルは、そもそも「大寅遊園地の乗り物」という性格が強かったというべきであろう。

 ただ小谷氏ら「大寅」関係者は、資金提供や名義上の面では男山索道に関与していたものの、実務面は別の人物に任せていたらしく、その周囲には不動産関連の会社や土建業者など、さまざまな利権が絡んでいて、どうも一筋縄では行かなかったようだ。それやこれやで、開業当初から経営不振が続いていた同社は、昭和3年に男山鉄道と社名を変更、翌4年8月には京阪電気鉄道の子会社となることで、何とかその存続が図られることとなった。そうした状況下、当時は八幡宮駅と呼ばれていたケーブル山上駅のすぐ近くに、ヱヂソン記念碑が建設されることは、男山鉄道とその親会社である京阪電気鉄道にとっても、それなりの集客効果が期待でき、いわば「渡りに船」であったろうことは想像に難くない。

 昭和9年3月15日、金津禰宜以下奉仕によりヱヂソン記念碑敷地清祓式が執行され、同年5月23日には完成した記念碑の除幕式が、同じく金津禰宜以下神職4名の奉仕により華々しく挙行された当時の社務日誌によると、松田長三郎京都帝大教授の長女・静子嬢(当時11歳)が除幕し記念碑建設会実行委員長の青柳栄司博士が事業報告、同会長清浦奎吾伯爵、米国領事ホワード・ドナバン氏、京都府の斉藤宗宜知事らが祝辞を述べたとある。しかし、その晴れの舞台に田中俊清宮司の姿はなかった。   (つづく)

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by y-rekitan | 2013-07-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第40号より-07 京大博物館

京都大学総合博物館にある
八幡の遺跡・遺物について


 高田 昌史 (会員)


八幡市の考古学遺物が京都大学総合博物館に多数寄贈されているとの情報から、是枝代表の御尽力により博物館を5月17日に訪問し博物館研究員の村上由美子さん(文学博士)に、八幡関係51点の内8点を案内していただきました。
f0300125_0195641.png 当日は雨が降りそうな天候だったので、最初に屋外展示の【舟形石棺】に案内されました。八幡市内で最も古い4~5世紀古墳時代前期の茶臼山古墳(男山笹谷)から出土のこの石棺は、八幡市誌第一巻に“松花堂庭園の前に置かれていたが、現在は京都大学で保管されている”と記されており訪問前から、現在の保管状況について関心がありました。保管場所には大きな屋根が設けられていて崩れかけた石棺の蓋部は専門業者による補強と補修がされており、土台部は割石が敷かれて排水も考慮されておりました。流石は京都大学の専門家の管理であると感心すると同時にこの遺跡が大事にされていることを知りました。f0300125_0215240.png 長さ300cmで幅110cmと大きな石棺ですが、残念ながら発見当時は盗掘されており、副葬品は散乱していたようです。この石棺は阿蘇熔結凝灰岩(阿蘇黒石)で作られていることから、既に前期古墳時代に九州との交流がありこのような大きな物資の運搬があったことがわかります。また、八幡美濃山丘陵に多くある横穴墳は九州北部から6世紀に伝わったこと言われているので、古墳時代以降も八幡と九州地方との交流は続いていたと推測します。f0300125_024127.pngそれに、石棺の一部にベンガラ(赤色塗料)が付着しており4世紀頃に既にベンガラが使われていたことも確認できました。
なお、丹波さんから「主人が幼い頃に松花堂庭園に置かれていた石棺の中に入り遊んでいた様です」とお聞きしてビックリ!
 続いて常設の文化史展示館の石棺、弥生土器、古地図や古文書、書状等を見学しました。古文書は一部本物の展示もありましたが、文化財保存のために主にレプリカが展示されており長期間の保存に細心の注意をされていることを理解しながら、やや物足りなく感じたことも事実です。
京都大学総合博物館の資料数は約260万点有り、その内文化史系資料は30万点をこえているので、常設展示されているのはごく一部です。殆どの学術上重要な資料は大切に保管されているようですが、引き続き多くの資料公開についても期待したいと思います。しかし、これらの資料は調査が完了してからの公開になるでしょうから、博物館の研究員の方も多くはおられないようですので、すぐには難しいと感じました。

 最後が本日のメインイベントの4階「考古作業室」です。この部屋で一般に公開されていない八幡の茶臼山石不動古墳の出土品を特別に出していただき展示・説明がありました。f0300125_0294927.png研究員の村上さんは「長年保存されている貴重な遺跡文化財を選んで展示する時は大変緊張します、皆様も直接手を触れることがないようにくれぐれも注意してください」と言われましたが、お忙しい中、私たちの八幡からの訪問に合わせて対応して頂いたことを感謝し、これらの考古遺物との再会はいつになるか判らないと思いながら、展示物を見学・説明をうけました。
先ずは、茶臼山古墳から出土の石釧(いしくしろ)といわれる当時の石製腕輪でした。白緑色の石に放射線状に細い線が等間隔に刻まれている大小の輪が展示されていましたが、模様に顔を近づけてよく見る事ができました。(正式展示されるとガラスケースに入れられ、このように近くで見ることはできないと思いながら…)
次に石不動古墳からの多くの出土品から選んでいただいた、管玉、棗玉、小玉、鏡などの展示がありました。特に鏡の「画文帯神獣鏡」は、3世紀の中国の三国時代の製作品で、全文56文字の吉祥文が記されている貴重な出土品のようです。この石不動古墳は1943年に京都帝国大学が発掘調査され、目録によると他にも多くの出土品が博物館に保管されています。
 以上、京都大学総合博物館側のご厚意により、八幡関係の考古遺物を特別展示していただき見学することができました。

所 感

 見学中、今年4月例会で城南郷土史研究会の中津川さんの講演でお聞きした「地域史の研究成果は地域に返さなければならない」との言葉が私の脳裏を横切っていました。また、埋葬されていた遺物も「どうして17世紀も経過してから掘り出されて、違う場所に連れてこられたのか?」との声が聞こえるような気がします。これらの遺物は大切に保管保存されていることはありがたいと思う反面、八幡市民としては地元で何時でも見られることを期待します。そのためには受け入れられる体制作りが大きな課題ですが、その体制ができれば博物館側にお願いできればと思います。なお、レプリカを制作して地元に展示している市町村もあるとお聞きしました。
幸い、当日閲覧させていただいた「京都大学文学部博物館考古学資料目録」にすべての保管資料は写真入りで掲載されています。また、その他の地域に八幡市から流出した文化財も合わせて地元への里帰りの実現を希望します。
by y-rekitan | 2013-07-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第40号より-end

この号の記事は終りです。

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by y-rekitan | 2013-07-28 01:00 | Comments(0)