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◆会報第41号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“わが心の風景”⑭◆
◆《講演会》 武家政権と石清水八幡宮◆
◆シリーズ:“大谷川散策余話”④◆
◆シリーズ:“御文庫とエジソン碑”⑥◆
◆シリーズ:“謡曲のふるさと八幡”①◆


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by y-rekitan | 2013-08-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第41号より-01 安居橋

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わが心の風景・・・(14)
安  居  橋
所在地 八幡高坊


 f0300125_22435760.jpg江戸時代の放生川には多<の橋があり、川上から五位橋、安居橋、六位橋、高橋という順に架かっていたと記録に残っています。現在名前が残っているのは、安居橋のみとなっています。
 安居橋という名の由来は、五位橋架橋後だったことから、相五位橋といわれ、これが変化して「安居橋」になったのではないかと『男Ш者古録』は記しています。
 「安居橋の月」は八幡八景のひとつで、歌人柏村直條は「神わさにつかふる雲の上人も月をやめつる秋の川はし」と詠んでいます。
 欄干には十二の葱宝珠がある優美な反り橋安居橋は、その昔は平らな橋でした。今日のような反り橋になったのは、いつの頃か定かではありません。中央の張り出した舞台のようなものは、放生会がこの川で行われていたときの様子を再現しようと、昭和50年9月の架替え時に新たに作られたものです。
 安居橋は、上津屋の流れ橋とともに八幡市の名物橋となっています。
 (絵と文:小山嘉巳 )

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by y-rekitan | 2013-08-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第41号より-02 武家政権と八幡

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《講 演 会》
武家政権と石清水八幡宮
― 安居神事をめぐって ―

2013年8月 松花堂美術館講習室にて
國學院大學栃木短期大学 ・教授 鍛代敏雄


 8月18日(日)、会場を松花堂美術館講習室にして8月例会が聞かれました。標題をタイトルに、講師である鍛代敏雄(きたいとしお)氏が熱っぽく語ってくださいました。参加者は57名。以下、概略を報告します。

 
はじめに

 石清水の安居(あんご)は、4月16日から9旬(90日間)、山上僧が勤め、7月15日に南楼門前に宝樹に布を懸け、社頭を荘厳し、風流灯籠をかけ、高座の導師が菩薩戒を読誦、明年の諸頭役差定し、童舞などを奏した。主に鎌倉期は神領荘官が夏安居の頭料を、江戸期は宮寺近辺の豪家が12月上旬から15日の冬安居を勤めた。(日本思想体系20『寺社縁起』430頁補注)
 本日の報告の課題は、安居はどうして催行され続けたのか、その理由を問うものである。私自身の研究の目的は、安居会の祭祀儀礼としての機能と役割についてにある。

Ⅰ 鎌倉期の安居と頭役

 伝承としては、白河院(1053~1129)が石清水の別当光清と結んで安居神事を進めたとされる。そして、儀礼としては源頼朝の幣礼使に準じ、幕府によって保護された祭祀として位置づけられる。
 古文書での初見は、元久元年(1204)7月安達景盛(あだちかげもり)安居用途請文に見られる。また、13世紀初頭、関東の頭役用途の対捍(たいかん)(命令に従わず逆らうこと)に関する文書に所見される。関東の御家人が石清水の安居神事を行うための経済的負担を拒否する事例が発生しているのである。なお、安居頭料所は東海道・東山道・山陰道・山陽道、畿内(山城・河内)に所在していたが、13世紀以降、消滅している場合が多い。
 安居頭役人の身分としては、祠官(しかん)・所司(しょじ)などの山上役、別宮・神領の荘官・地頭・名主クラス諸所に散在する神人クラス、そして地元八幡の境内神領(内四郷・外四郷)の頭役神人に分類され、それぞれが頭人として課役を担っていた。
15世紀前期の史料では「粗散用分五十貫五十文」の記事も見える。田地1反が5貫文で永代売却されている事例から金額が想像されるが、相当な負担であったことは確かである。なお、頭人の数であるが、鎌倉後期で29人、南北朝の頃で31人、戦国期でも29人いたことが史料からわかる。
 鎌倉期、神領・別宮(遠隔地を含む)の預所や名主、神領の有徳人(金持ち)が「公事」(=税)として勤仕していた。ところが、戦国期になると、神領近郷の放生会神人や近郊の有徳人が主に勤仕するように変化している。石清水の安居を経済的に担う層が鎌倉期から戦国期にかけて地域的に狭まっているということである。

Ⅱ 南北朝・室町期の安居と頭役

 建武4年(1337)6月、足利尊氏が安居頭料の「毎年一頭」の沙汰として伊予国内の闕所(けつしょ)地を新たに寄進したことを示す文書がある。尊氏は、石清水の祠官家である善法寺通清と誼(よしみ)を通じ、通清-昇清を「将軍家御師(おし)職」に補任している。ちなみに通清の娘である紀良子は2代将軍足利義詮(よしあきら)に嫁ぎ義満を生んでいる。
 室町幕府の将軍家が石清水の安居会を支える「荘厳頭」を担ったのである。
 中世の神人は、勅祭である放生会に際し、「神訴」と称し、神威を楯にして幕府や朝廷に対し訴訟や裁許を請求することが多かった。それに対し、安居会を楯とした「神訴」は僅かである。その例が、応永31年(1424)6月に起こった石清水神人らによる石清水の護国寺に閉籠強訴した事件である。これは、14世紀後半以降、安居頭役の負担増がなされたことに対しておこされた。まさに、頭役神人身分(地下侍分・殿原衆)が主導する郷町惣中(神人と郷民)の一揆的連帯=都市共同体の成立と評価できるものである。
 ここで、安居神事を執行する側の論理を考えてみたい。それは、「宮寺無双の大神事・天下泰平の祈祷」の沙汰を大義名分(テコ)とした宮寺領からの収取の論理であり、「朝家第一・宮寺無双の大営」のために、宮寺祠官・所司・神人から神領の荘官以下百姓・住民に至るまで、差定にしたがい巡役としての安居頭を勤仕しようとする論理である。

Ⅲ 戦国・織豊・徳川初期の安居と頭役

 安居頭の実態を天文13年(1547)の安居頭役差符(さしふ)で見てみたい。
そこには、将軍家御沙汰を筆頭に、堂荘厳宝樹預として、金振郷住人、魚市御綱引神人、山路郷住人、駕輿丁神人が、大堂供宝樹預として、楠葉郷住人、内里郷住人御綱引神人、山路郷住人、戸津郷住人がそして、伝戒宝樹預として、科手郷住人、美豆郷住人御綱引神人、際目郷住人御綱引神人、下奈良獅子神人、楠葉郷住人、また、乞戒宝樹預・楽頭宝樹預・十童宝樹預として楠葉郷や河口郷・南生津郷、交野枚方の各住人の名が挙がっている(下線は現八幡市内と一部その周辺<編集担当が付した>)。
安居の頭役が八幡惣郷と近隣の神領の住人によって担われていることがわかる。同時に、安居頭役は、そのほとんどが放生会神人による勤仕であったことも了解できるであろう。
戦国期、安居の「宝樹頭役預」の多くを有徳の放生会神人が勤仕し、国家的な年中行事の費用が賦課されていたともいえる。やがて、放生会は停止され、八幡石清水の神人は安居頭役を奉仕することで神人身分が保障された。境内都市「八幡四郷」や楠葉郷の住人は頭役を勤仕し、安居頭役神人の身分を得ていたことになる。f0300125_9291011.jpg
 そのような経済的負担を引き受けて安居神人になる理由は何か。家伝の信心に加えて、安居頭役神人らの身分的かつ経済的な特権があるからである。
 一つには、「極楽(ごくらく)頼子(たのもし)」の運用ができるというメリットがあった。淀郷の石清水神人らが安居頭役の勤仕を名目に「極楽頼子」を興行し、合銭100貫文をもって利倍(高利貸)を行っていた。幕府は、「神物」「神用」と認定し徳政除外とした。阿弥陀信仰を標榜する石清水の神人が関わるから「極楽」となり、その金融活動を幕府が保障したのである。
 二つ目に、本願寺系の寺内町と石清水神人との関わりが指摘される。例えば、八幡の安居頭役神人(地下侍分)であり土倉の片岡氏や小篠(おざさ)氏が、河内国交野郡の招堤(しょだい)寺内の建設に資金を援助している。ちなみに、元亀(げんき)元年(1570)8月25日、信長は枚方の招堤道場(招堤寺)に陣を張った記録(『信長公記』)がある。本願寺系寺内町に放生会神人が居住し、安居頭役を勤仕、有徳神人による淀川の物流ネットワークが想定されるのである。
 そんな安居会であるが、豊臣期に中断される。
天正12年(15849)~天正17年の太閤検地により、石清水神領および境内は、差出(さしだし)がなされた。慶長4年(1599)、八幡八郷惣中の年寄衆は豊臣家奉行衆に、退転している安居(天下の祈祷)に関し、今後は検地免除の上、興行し天下安全・武運長久の祈祷を言上しているのである(「正法寺文書」)。
 慶長5年5月23日、八幡八郷惣中は、家康に「八幡山上山下知行高帳」を差し出し、祠官以下、神領百姓に至るまで朱印地が確定し、安居頭役神人は、以下のように「侍分」として認定された。
     安居本頭神人(侍分)を「内四郷」町ごとに摘出
       (鍛代著『戦国期の石清水と本願寺』26頁)

 12町60人、名字18(家)、総知行高1410石9斗7升(神領の20,8%)
科手郷;科手町(福田)・橋本町(橋本)
常盤郷;田中町(片岡)・柴座町(喜多村・小谷・片岡・松田・北村・柏村
     ・小寺)・紺座町(片岡・山内・横田)
山路郷;山路町(森元・山岡・小寺)・森之町(森元)
金振郷;薗町(林・小谷)・馬場町(神原)・志水町(志水・小篠・宇野田)
     ・神原町(神原)・城内町(松田)
 このように、八幡の神領が検地免除され、安居神人の身分保障がなされた背景に、お亀(相応院、尾張義直の母)とその出自の志水家が、慶長4年以降、社務廻職などに奔走していたことや検地免除を家康に嘆願していたこと、また都市共同体の主導層の尽力があった(石田三成等の家康弾劾状―中村孝也『徳川家康文書の研究』所収)。
 慶長15年(1610)、家康は田中・新善法寺・壇・善法寺の祠官家に朱印状目を下し、地下人役として安居神事を勤仕させ、将軍家の天下祈祷を命じ、検地免除と守護不入を保障しているのである。これは、中世的アジールの存続を宣言したものと見なされる。

おわりに

 安居神事の機能と役割ついて、三つの側面から以下のように整理できる。

(1) 政治面
  1. 放生会は朝廷主催の「殺生禁断」の平和的な祭祀である。それに対し、安居会は将軍家の武威の保護下に国家安全の祈祷として機能していた。
  2. 安居会は、室町・江戸幕府の武威を荘厳する祭祀として催行された。
  3. 近世の武家祭祀である安居神事役は、「奉公」と「知行安堵」で結ばれた、家康(将軍家)と安居本頭神人(地下侍分、有力者は祠官家の家人)との個別・人身的な契約事項であった。
(2) 経済面
  1. 宮寺を興行する(経済的に支える)ために、武家権門の祭祀を石清水側が創設した。
  2. 安居を大義名分とした収取の論理が貫かれている。例「極楽頼子」「寺内町の経営」
  3. 有徳人の公事の収取と下行(施行の分配)により、石清水八幡宮寺(祠官・山上所司=社僧)への銭と物の還流が図られた。
(3) 社会面
  1. 安居会に参加することで、祠官家(別当家)が血統をつなぐ得度の通過儀礼として位置づけられた。
  2. 安居頭役を負担する荘郷・別宮は神領(土地)の安堵、頭役人は石清水神人(人)という身分、頭役負担者は「有徳」「富貴」の身分が証明された。
  3. 安居会が催行されることを通して、安居頭役と神人身分を紐帯(ちゅうたい)とする郷町および惣中(八幡四郷・八幡八郷)の境内都市共同体が成立し、アジール性(守護不入・検地免除)の継承が図られた。

 以上、鍛代氏のレジュメをもとにしたとはいえ、飽くまでも編集者の主観による取捨選択にて概要がまとめられたことを付記しておきます。  (編集担当 土井三郎)

 講演が終わり、10分間の休憩の後、質疑応答がなされました。f0300125_9312062.jpg
質問は、安居会が江戸時代になって、それまで夏であったものが冬に行われるようになった理由を問うものや、放生会が旧暦の8月15日におこなわれていたことに関わりそれが平和を希求する「終戦記念日」と重なった意味(偶然とだけ律しきれないのでは?)等が出されたほか、以下の質問と返答がありました。質問者に、再度伺い文章を成文化してもらいましたのでそれを紹介します。
《質問》
安居頭差符には6頭の差符があり、それぞれ頭役を勤めたとありましたが、それぞれが屋敷の庭に祭壇を設けて神事を行ったのでしょうか。安居本頭神人等が一生に一度の安居頭役を勤めたときにやはり庭に祭壇を設けて神事を行い、祭りのクライマックスで切り取った松(宝樹)の枝を頭屋に祭祀して神事を終えたと理解しています。要するに全体の神事を代表する頭役の存在があったと思われますが。
《回答》
現時点では安居神事について、近世の由緒書はありますが、中世については判明しないことがまだまだ沢山あり、今後も課題として確かな史料等を探究したいと思います。
《私見》
八幡の資料によく名前の出る片岡、橋本、柏村、能村家等々には安居神事の斎主を勤めるといった記載もあり、それぞれ一代に一度、勤めをしているようです。これが一般にいう安居頭役と理解しています。先の「江戸尾張年頭御礼日記」にもありました通り、翌年、安居頭役から預かった安居祈祷神札を江戸将軍家に持参しています。今回、「宝樹預」にも4つの「預」があることを初めて知り、今後この差符や安居神事についてさらに追求し、理解を深めたいと思います。
 講演に際しご提供頂きました資料は何度も何度も読み直しています。それほど充実した安居参考資料と感じています。 (谷村 勉)

以下に「一口感想」を紹介します。

◎安居会の歴史や変遷が、各時代の政治情況とどのような関わりがあったのかがわかり易く話されて、興味深く聞くことができました。 (M)
◎安居と放生会の意味合いがおぼろげながら解った気がします。予備知識がOでしたが、面白く聞かせて頂きました。 八幡の地の歴史、特に八幡さんと神人に一段と興味をもちました。 (S)
◎中身の濃い講演ありがとうございました。昨年のお話に引き続き、石清水祭杷のことがよくわかりました。また、多くの関係資料を調査研究されていることに感服しました。(T)
◎中世から近世にかけて、神人、特に有徳人(金持ち)層の人たちが与えた影響は大きかったんですね。いつも「お金持ち」が世の中の一部をぎゅうじっているのですね。(H)

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by y-rekitan | 2013-08-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第41号より-03 大谷川散策④

シリーズ「大谷川散策余話」・・・④
第4章 橋の始まりは?

野間口 秀國 (会員)


 歴探「会報」の読者諸氏には登山の好きな方もおられると思いますが、私もその一人です。橋の始まりと登山にどんな関係あるのかと思われそうですが、橋の始まりを語るには無関係とも言えないようです。

 登山時には、山や登山ルートによって何回も渡渉(歩いて川などを渡ること)を繰り返す事も決して珍しくはございません。最近の登山靴は浅い箇所(5~6cm程度)や沈み込まない湿地ではそのまま進めますが、それ以上深くなると渡れる箇所を選び、足をその場所に置きながら、歩くより渡ると言う動作になります。時には適当な大きさの石を水中に置いて足場として歩を進め、その作業を繰り返しながら流れを渡り切る事もあります。

f0300125_111357.jpg このように足を置いても安全な石や岩、これこそが橋の原点であり、最も原始的なこの橋こそ「石橋(イシバシ)」と呼ばれる橋の始まりなのです。石橋は京都市内の賀茂川と高野川が合流する箇所付近(京阪電車の出町柳駅の西側付近、加茂大橋近傍)などで現在でも見ることも渡ることもできます。好天で安全な流れの日にはこの石橋を渡る人も見受けられますが、もし渡られる時には足下に十分に気を付けて渡っていただきたいですね。

 石橋とは少し考え方が異なる橋に「舟橋」があります。隣の枚方市に船橋川が流れていますが、川の名の由来は「複数の舟を流れを横切るように並べて舟から舟へ、川を横切ることから名付けられた」と書かれた一文を読んだ記憶もございます。まるで神話に出てくる、ワニザメをだまして並ばせてその背を渡った「因幡の白兎」の話を思い出させるような話ではありませんか。

f0300125_111262.jpg 石橋と同じように、原始的なもう一つの橋が「打橋(ウチハシ)」です。これは小川に丸太や木の板や石の板を渡しただけの簡単な造りの橋ですが、取り外しが可能で簡易的な橋をも意味するようです。京都市内の高瀬川に架かる打橋は町の風景に溶け込んで風情を感じさせてくれます。気を付けて散歩すると、八幡市内でも田んぼ脇の水路の渡しに使用済みの枕木を二本並べた橋を見ることもできますが、これも打橋の一種と言えるのではないでしょうか。

 次は前述の「石橋」と「打橋」を組み合わせた(ような?)橋で、このような橋は「八橋(ヤツハシ)」と呼ばれます。これは川の淵を避けて浅瀬に適度の幅で2本の杭を打ち、次の浅瀬に同様に同じ幅で2本の杭を打ちます。このように川の浅瀬に打たれた2本の杭に横木を渡し、横木と次の横木に板を渡して作られた橋です。
 江戸時代を代表する浮世絵師、葛飾北斎の「諸国名橋奇覧」三河の八つ橋の古図にもこのような橋が描かれています。f0300125_13165.jpg 「八橋」と全く同じとは言えないかも知れませんが、類似の橋は枚方市の山田池公園内のアヤメ園に架けられている橋、長岡京市の長岡天満宮に隣接する八条ヶ池に架かる橋など、現代では花や水や景色などを楽しむ観光目的の橋と言えるでしょう。身近なところでは京都の代表的な菓子の一つ、「八つ橋」の包装紙のデザインにもこの橋が描かれていますね。

 橋の始まりは文字や言葉からも知ることができます。「ハシ」と読める(意味する)文字には、食べ物を挟む箸(ハシ)、小鳥が餌をついばむ嘴(クチバシ)、屋根に登る梯子(ハシゴ)、端っこの(ハシ)、そして川の両岸や2つの端(ハシ)を繋ぐ橋(ハシ)など、挟む、つまむ、架ける、繋ぐ、などを意味する文字が浮かびます。

 曇り空の早朝や夕方、雲に隠れた太陽が雲の切れ間から光を放ち、光の柱が地上へ降りるように見える現象を目にされた経験をお持ちと思いますが、この「薄明光線」と呼ばれる気象現象は、一般的には「天使の梯子(てんしのはしご) angel's ladder」の名でよく知られています。まさに光を背にして天使が地上に降りてくる梯子そのもののようです。

 また、日本でも奈良時代から(と言われる)の伝承に、国生みましし大神イザナギノ命が天に通おうとして作った梯子(橋)が倒れて出来たのがかの有名な日本三景の一つ、宮津市の天橋立(アマノハシダテ)であるとあります。近くでは現在の背割堤が昭和40年代までは美しい松並木で「山城の天橋立」と呼ばれていたとも「男山で学ぶ人と森の歴史」に書かれています。

 こうして梯子にこだわると、現代の梯子は左右2本の棒(縦軸)に一定間隔で横木を繋いだ形ものですが、古代の梯子は高床式の建物(倉)に架けるように、丸太に足を置く切り込みを入れた極めて原始的なものもあったようです。この古代の梯子が基になっているか否かは分かりませんが、和歌で詠まれる「梯立の(はしたての)」、「橋立の」は「倉(くら)」にかかる枕詞です。
橋立の倉橋川の石走(いはばしり)はも
男盛りに(をざかりに)我が渡りてし石走はも(*1)
 万葉集にある柿本朝臣人麻呂のこの歌は、飛び石の橋を詠ったもので橋の始まりを雄弁に物語る一首と思います。倉橋川は、現在は奈良県桜井市の倉橋山(現在の音羽山、852m、関西百名山の一座)の麓を流れる寺川と言われています。2003年1月25日(土)、山頂気温 0℃、・・・ 私の登山日記には音羽山登山記録がファイルされていますが、今こうして万葉集の舞台であったこの山に今このような形で出会うのも「時を渡る橋」で繋がっていたとしか思えません。以下は歌の現代語訳文です。
倉橋川の飛び石の橋はどうなったろう
私が若い頃に渡るために置いたあの石はどうなっただろう
 大谷川沿いを散歩しても橋の始まりを想像させるような橋にはなかなか出会えませんが、「流域のどこかに橋の始まりのロマンを感じさせるような橋が一本は欲しい」、そんな贅沢なことを言うのは私だけでしょうか。

次章では第2区、「公園区」を歩いてみたいと思います。 (つづく)

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      【参考図書・資料等】
『図解橋の科学』 土木学会関西支部  講談社
『京都の地名 検証』 京都地名研究会編(明川忠夫・他5名共著) 勉誠出版
『関西百名山』 山と渓谷社大阪支局編  山と渓谷社
『京都の地名散策講座資料 丹後・丹波編(五)』 講師 糸井通浩氏
  2012.12.10 REC 深草
『いまは昔 むかしは今 第二巻 天の橋・地の橋』
  網野佳彦・大西廣・佐竹昭広 共著 福音館書店

(*1) 以下のように書かれたものも有ります。
        はしたての 倉橋川の 石の橋はも
        男盛りに(をざかりに) 我が渡りてし 石の橋はも


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by y-rekitan | 2013-08-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第41号より-04 エジソン碑⑥

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・⑥
御文庫とエジソン碑⑥

 石清水八幡宮 禰宜  西  中 道


 田中宮司がエヂソン碑建設をいささか強引ともいえる手法で推し進めた背景には、大正15年、数え24で結婚した長女・教子(のりこ)の存在があった。その結婚相手こそ、新進気鋭の電気工学者で、彼女より10歳年長の松田長三郎氏、媒酌人は青柳栄司博士である。その後、文部省在外研究員に選ばれた松田氏は、昭和6年5月からドイツ、英国、米国に滞在し、帰国して間もないこの年、昭和9年2月に40歳の若さで京都帝大教授に任ぜられていた。
 この頃、内務省神社局の横槍に対して、田中宮司が発したという「科学に国境はない」という言葉にも、松田氏の海外での実体験が色濃く反映していたように思われる。「科学は人類共通の財産です。国境によってそれを遮ってしまえば、日本は世界からどんどん取り残されてしまう」と、時に松田氏が義父に熱く語りかけることがあったかもしれない。
 田中宮司にしてみれば、エヂソン碑建設に立ちはだかった石田神社局長より、さらに若い世代に属し、最新の欧米事情にも精通していて、しかも現代の日本で最も優れた電気工学者の一人が、我が愛する娘の夫なのだ。これほど心強い味方はなかった。彼が帰国して帝大教授となった暁に、義父が宮司を務める官幣大社の境内で、エヂソン記念碑の除幕式を盛大に挙行しようではないか、というのが田中宮司の思い描いた道筋であったろう。
 しかしその記念碑は、昨秋自ら斎主となって地鎮祭を行い、基礎工事も終えたところで中断を余儀なくされ、今も放置されたままだ。そして、今度は別の記念碑が、別の場所に現れて除幕の時を待っているという。自分としては極めて不本意な展開だったが、多くの関係者に迷惑を掛けてしまったことも事実だ…、そうした様々な思いが交錯する中、田中宮司は5月20日から10日間、東京出張の旅に出る。拠所ない事情による上京だろうが、そこには「除幕式をやるなら、儂のいない時にしてくれ」、という暗黙の了解もあったに違いない。除幕式の主役を演じ、満場の喝采を浴びる孫の晴れ姿を、娘夫婦と一緒に見ることは遂に叶わなかったが、田中宮司の矜持は貫かれたというべきであろう。 (つづく)

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by y-rekitan | 2013-08-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第41号より-08 謡曲弓八幡

シリーズ「謡曲のふるさと八幡」・・・①

弓八幡(ゆみやわた)

 猪飼 康夫 (会員) 


 八幡ゆかりの謡曲に「弓八幡」「放生川」「女郎花」があります。「弓八幡」の舞台は、男山石清水八幡宮と男山麓にある摂社・高良神社です。高良神社こうらたまたれのかみには高良玉垂命が祀られ、毎年七月十七、十八両日の祭礼には太鼓みこしが担ぎ出され、昔から太鼓まつりとして親しまれています。

 謡曲「弓八幡」の物語は、後宇多天皇から参詣の命を受けた臣下が、石清水八幡宮へやって参ります。多くの参詣者の中に、袋に納めた弓を携えた老人を見つけ、尋ねますと「私は長年この八幡官に仕えている者ですが、後宇多天皇に弓を捧げようと、貴方が来るのを待っていました」。さらに「弓は袋に納めて、戦わずして天下を治めるように、これが神の思し召しです。自らは高良の神です」と言って消え失せます。
どこからともなく音楽が聞こえ、芳香が漂い、高良の神が姿を現します。高良の神は、この世の繁栄を祝い、八幡宮の神徳を讃え、舞を舞うのでした。

f0300125_22343712.jpg 謡曲には、平家物語や源平盛衰記をもとにして作られた修羅物と呼ばれる曲が数多くあります。この世で戦をして亡くなった武将が修羅道に落ち地獄の苦しみに耐えかね、亡霊となって旅僧に救いを求めにやって参ります。武器は、人を殺傷する道具です。武器の威力をかりて世を治めても、天下太平は続きません。常に交戦を招く危険がはらんでいます。「弓八幡」は、戦わずして世を治めることを説いています。
 都を逃れた義経一行が尼崎の大物浦を出港すると大嵐となり、壇ノ浦で沈められた平家一門の怨霊が現れます。中にも知盛の亡霊が長刀を振りかざし義経―行に襲いかかります。
いつの世でも、戦は繰り返されます。今こそ神々の神威で、戦いの輪廻を断ち切って頂きたいと願うものです。 (平成25年8月14日)


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by y-rekitan | 2013-08-28 05:00 | Comments(0)

◆会報第41号より-end

この号の記事は終りです。

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by y-rekitan | 2013-08-28 01:00 | Comments(0)