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◆会報第42号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“わが心の風景”⑮◆
◆《講演会》 江戸時代の村の暮らし◆
◆シリーズ:“大谷川散策余話”⑤◆
◆シリーズ:“御文庫とエジソン碑”⑦◆
◆シリーズ:“謡曲のふるさと八幡”②◆
◆シリーズ:“墓石をたどる”③◆
◆昭乗の下馬碑を探る◆


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by y-rekitan | 2013-09-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第42号より-01 神幸橋

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わが心の風景・・・(15)
神  幸  橋
所在地 八幡高坊


 f0300125_22285888.jpg男山山麓にある石清水八幡宮の二ノ鳥居をくぐり、約百メートルほど行くと、谷水が流れているところにでます。この谷筋を「祓谷(はらいだに)」といい、ここに架かる石橋は「神幸橋(しんこうばし)」と呼ばれています。長さ約2.8メートル、幅約3メートルの小さな橋です。
 神幸橋は江戸時代、石清水放生会が催される前後の数日間のみ、木橋を架けて神が渡られるようにした橋でした。このため、参詣者はニノ鳥居をくぐらずに、「相槌稲荷社」横の登り口から登っていました。『男山考古録』によると、「普段は橋が架かっていないため、参詣者が時々祓谷に落ちて怪我をする人があり、明和年間(1764〜72)に紺座町に住む石清水社士、小寺壽庵らが相談して石橋を架けようと申し出た。しかし、平谷町の商人たちが、橋ができると店の前を通らずに参詣されるので商売に難渋すると反対があったため、計画は取りやめになった」という話が紹介されています。(絵と文:小山嘉巳)

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by y-rekitan | 2013-09-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第42号より-02 村の暮らし

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《講 演 会》
江戸時代の村の暮らし
― 城陽市域の村を素材に ―

2013年9月 四季彩館別館 にて
城陽市歴史民俗資料館学芸員  三桝 佳世氏


はじめに

 本日は、「江戸時代の村の暮らし―城陽市域の村を素材に―」ということで、上津屋村に焦点をあてて、江戸時代の史料から、上津屋村とそこに住んでいる人々の暮らしをながめてみようという趣旨で話を進めていきます。城陽市域は、上津屋村から一番右下の市辺まで、12の地域からなっています。城陽市域は、江戸時代には、久世郡の平川・久世・上津屋・寺田・富野・長池・観音堂・枇杷庄・中村と、綴喜郡の水主・奈島・市辺から構成されていました。

上津屋村-川が分断する村-

 城陽市域には、江戸時代、宿場町であった長池を含めると12の村がありました。その一つである上津屋村は、村高1000.987石、家数92軒、人口365人(慶応3年(1867)上津屋村明細帳)の村です。村は中央を流れる木津川によって東西に分断され、川の西側の南に浜方、北側に里方、川の東側に、東向があり、明治22年(1889)まで、上津屋村は浜方・里方・東向かいの3つの集落から構成されていました。
 江戸時代には牛頭天王社と称した、現在の石田神社をはじめ、寺院は川西にあります。東向の集落を抜けて、木津川堤防を越えた辺りは、江戸時代には人や荷物を積んで木津川を行ききする川船や川東と川西を結ぶ渡し船の船着場となっていました。木津川によって分断されていた上津屋村では、日々の生活に渡し船が不可欠であり、村として1艘所有していました。
 城陽市域の村々は、複数の領主が1つの村を分有する相給村であり、1つの村が複数の集落から構成されるという複雑な条件のもとで運営されていました。上津屋村も幕府・転法輪三条家・大炊御門家の相給村であり、里方・浜方・東向の3集落から構成されていました。上津屋村は、幕領庄屋2名(里株・浜株)、転法輪三条家庄屋1名・大炊御門家庄屋1名の計4名をもって「四株」と称する組織を作り、うち1名をその年の代表(年番)とする運営を行っていました。
 江戸時代の村には、農業生産に携わる者だけが村に住んでいたわけでなく、大工などの職人、寺社などに関わる宗教者、医師、村の治安や葬送をになう村抱えの奉公人など、様々な人々が住んでいました。上津屋村にも、大工や僧、番人、煙亡といった人々が住んでいました。しかし、彼らは、村に所属していながらも、村以外の広域的もしくは全国的な組織にも組み込まれていました。

村掟・組の掟

 江戸時代の村々は、生産活動やその社会の秩序を守るための取り決めを行っていました。
 「上津屋村年中休日定書」は、文化7年(1810)に上津屋村で作られた上津屋村のみに適用される、一年間の休日定です。数えてみますと、合計21.5日の休み日が定められています。新しい歳の神を迎える正月と先祖の霊を迎える7月に休日が集中しています。そのほかに、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日の節句や、土の神を祀る2月の社日、8月1日の八朔など、農作業の節目にあたる日も休日でした。このように、村の休日は、祖霊祭祀に関する休みと農耕儀礼に関する休みを組み合わせながら取り決めていたことがわかります。このほかに、臨時の休日である雨悦びの休日の取り決めについて触れた史料が、文化11年(1814)の「上津屋村雨悦休日記録」です。これには、雨悦びの休日は、上津屋村を構成する浜方・里方・東向の3集落で執り行うことが決められています。このように、休日は村単位で定められていました。
 村には、その社会の秩序を維持していく上で、秩序や制裁の取り決めがありました。天保3年(1832)の「雨乞火焼人足不勤詫状」には、寺田村では、村人の人足の一人が氏神の宮山での火焼きを怠けたため、詫状を出しています。雨乞いは村をあげての取り組みであり、それに応じた分担の仕事が割り当てられています。それを怠ると制裁の対象となったことがよくわかります。
 江戸時代の村は、年貢を徴収の単位であると同時に、その村の生産活動や日常生活は、村もしくは町(村組み)が管理していたのです。文化10年(1813)の寺田村の「博奕宿致につき町内立退証文」は、博奕宿をした者がしたためた詫び証文で、領主に内密にするという処置に対するお礼と寺田村の中の町内の取り決めに従い、村を立ち退くこと(村追放)を誓約したものです。村の秩序・維持については、村もしくは町を単位として行われています。

村々のつながり

 1つの村を単位にした社会は孤立して存在していたわけでなく、村の立地条件により異なりますが、隣の村もしくは複数の村々と関りあっていたのです。延宝7年(1679)の「五ヵ村野山内山法度」には、富野村・観音堂村・中村・市辺村・奈島村の5ヵ村連名で、共有山の利用期間と制裁(罰則)の取り決めが記されています。また、山地は、田畑に刈り草を敷き込んで肥料とする刈敷や燃料となる薪の確保、牛馬の飼料など、農業生産活動には不可欠なものでした。f0300125_1917453.jpg
 近世前期に描かれた「上林代官支配村々絵図」の東側には、上津屋・平川・大久保の三ヵ村立会山で、槇島村が所有する六石山を年間3.5266石の下作料を槇島村に支払って借用していました。このように、他の村の山を借用して利用していたわけです。
 江戸時代の山は、農業の生産という生業に関わっているので、山は村と村との利害関係が生じる現場でもあったのです。

村と木津川

 上津屋村は神社やお寺もすべて現在の八幡市側にあり、東上津屋の人たちは、普段から神社やお寺にお参りにいくには、木津川を渡らなければならないため、里上津屋と浜上津屋の人々より少なかったようで、祭りの神輿も石田神社から浜の御旅所まで行きましたが、東上津屋にはいかなかったようです。東上津屋の人々も石田神社の氏子でありながら、神輿が来ないのは困るということで議論になり、村役人を説き伏せて幕領代官の上林氏に、東上津屋にも神輿が渡御するようにと願い出たことが、文政3年(1820)の史料からわかります。東上津屋が神輿の担ぎ手になったときには、東側まで神輿が渡御することが行われました。
浜方の人々は、耕作地を川の東側にもっているので耕作するためには、渡し船を使う必要がありました。渡し船を一番使う浜上津屋の人が船頭になることができました。寛政8年(1796)「渡シ舟船頭証文」には、船頭は、朝6時から夕方6時まで勤めること、弁当持参のことなどが細かく記されています。また、天保2年(1831)の「渡シ舟ニ付浜方与里向申分一件」には、船頭は3人で5年間の年季、田畑が少なくて食べていけない人などを船頭に取り立てていたようです。ただし、船頭になるのは、浜方の人であることと記されています。この渡し船は、上津屋村で維持管理されていました。また、4人の船頭さんが村役人にあてて「来る11日、堤外(木津川河川敷)の荒地で相撲興行を行いたい」と願い出ました。相撲興行の目的は、渡し船に乗り込むための足場板を作る費用を集めるためでした。
 上津屋村は相撲の興行を行えば人々が集まる場所だったわけです。浜上津屋のお旅所前に伊佐家が建てた道標には、「川越東ハ長池宇治道」「堤通南ハ天神森奈良道」「堤内西ハ楠葉枚方道」「堤通北ハよど八幡道」などと刻まれています。この道標からも上津屋は人々が集まる場所で、交通量も多かったことを示しています。

木津川の水害と砂地畑の作物

 木津川の上流は、花崗岩が多く、風化しやすい地層のため、川に絶えず砂が流れ込み、それが堆積して洪水の原因となりました。江戸時代には、洪水は、たびたび起こり、多くの田畑を壊滅させましたが、一方で良質の砂地の畑として利用されていたわけです。
 慶応3年の上津屋村の明細帳には、畑方では主に木綿が栽培され、そのほかに桃や梨、茶などの作物が作られていました。木津川の洪水によって堆積した砂地は、お茶・綿の栽培に適しています。
 サツマイモは、琉球芋や唐芋などと呼ばれ、近世後期には盛んに栽培された作物です。サツマイモの栽培法を広めたのは、長池の嶋利兵衛の功績です。城陽市の長池の大蓮寺には、「琉球芋宗匠 嶋利兵衛」の銘が刻まれたサツマイモをかたどった利兵衛の碑があります。
城陽市内では長い間、嶋利兵衛の伝承が伝わっていましたが、それを裏付ける史料が上津屋村の石田神社で見つかりました。

まとめ

 江戸時代の史料から、上津屋村とそこに住んでいる人々の暮らしをながめてきました。江戸時代の村は、年貢を徴収の単位であると同時に、その村の生産活動や日常生活は、村もしくは町(村組み)が管理していたのです。   


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by y-rekitan | 2013-09-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第42号より-04 大谷川散策⑤

シリーズ「大谷川散策余話」・・・(5)
第五章 公園区・隠れた桜の名所

 野間口 秀国 (会員) 


 この区の特徴はその名の通り大谷川の両岸に沿って平成8年11月に完成した大谷川公園(男山東中学校正門前の五月橋左岸下流側より入り2 0 m ほど)です(※1)。この公園区に架かる橋は(旧)内戸美橋から男山東中学校前の五月橋を経て国道1号線に架かるあけぼの橋手前までの6本です。
 区間の上流側約1/3ほど、内里池傍の(旧)内戸美橋から男山東中学校前の五月橋までは公園区より学園区と呼ぶにふさわしいかも知れません。流れの左岸には京都八幡高等学校(南キャンパス)と八幡支援学校が、右岸の五月橋近くには昭和61年4月開校の男山東中学校などの校舎が続きます。朝の通学時間帯には登校する生徒の皆さんの若い息吹が感じられ、放課後にはクラブ活動で楽しんでいる姿があります。
f0300125_19145058.jpg 残りの約2/3の区間、五月橋から国道1号線に架かるあけぼの橋手前まではまさに名前通りの公園です。両岸には遊歩道が続き、屋外時計、3棟の吾妻屋、御影石のテーブルと椅子、芝生の多目的広場、6箇所の階段状堤防などが設けてあります。所々で番号プレートの付いた柱を目にされると思いますが、それらはトリムコーナーの案内標識です。現在では残念ながら老朽化した木製の運動器具類が全て撤去されていますが、以前は10基を越す軽い運動のできる器具類が設置されていました。せめて半数でも復活させて欲しいところですね。
f0300125_1915282.jpg 公園内には流れに沿うように桜並木があります。開花の季節には「混み合う背割堤よりこの公園での花見が最高よ…」との近所のご婦人の声にも、「本当にそうですね」と納得できる気がします。桜の季節には臨時トイレも設置され(2013年春の開花期間中の実績)地元の人には気軽に花見の楽しめる便利な公園ではないでしょうか。また、桜の開花に少しだけ先行するように両岸を純白に彩る雪柳の花にも触れずにはおられない公園の春の景色でしょう。

 ここで公園に隣接する左岸の戸津池ゴルフ練習場にも目を向けてみましょう。次々と打ち出されたボールが落ちて小さな波紋を作る池の水面には、時折ユニークな舟が見られますがお気づきでしょうか。この舟は次々と放たれるボールを拾い集めているのです。その構造と働きはとても良く工夫されており、水に浮くボールを次々と拾い集めては舟上のカゴにきれいに納めてくれます。無人の舟ではありませんので船長さんが右に左にとても巧みに操縦しておられます。広々とした戸津池の水面と、このユニークな舟は公園を訪れる人々に穏やかなひと時を提供してくれているのだと思います。
f0300125_1916416.jpg 池の反対側、右岸の桜並木は周囲の道路より一段高くなっており、そこから東の方向を望むと、遮るものも無く、広々とした見晴らしの良い田園風景が楽しめます。大谷川公園のお薦めスポットでは無いかと思います。吾妻屋の椅子に腰をおろし、一人で金管楽器の練習をしている生徒さん(らしき人)もここなら周りを気にすることも無く、思い切り練習ができるのでしょうね。
 公園中央部にある無名のコンクリート橋を渡って下流方向に進むとちょっとした芝生の多目的広場があります。お子様連れには車などを気にしないで安全に楽しめる場所と言えそうです。また、夏場には水辺に降りて川の流れに触れることが出来る階段状(雁木)堤防で休んでいると、親水性にも配慮されていることが実感できますが、水量の多い雨上がり時には水辺に降りることはお止めください。
 緩やかな流れのこのあたりは大谷川でメダカが見られる貴重な場所でもありますし、芝生の多目的広場横にはパーゴラと呼ばれる御影石の現代彫刻もあります。

 さて、今一度中央部の無名のコンクリート橋のところまで戻ってみましょう。このコンクリート橋に隣接して、これまた無名の木製の橋が架かっていますが、美濃山を抱くように、山の東側を流れる大谷川本川と西側を下った御幸谷川がこの2本の橋の箇所(戸津谷ノ口)で合流しています。ここで少しだけ大谷川の本川を離れ御幸谷川の流れ下る美濃山についてふれてみたいと思います。
 生駒山系より連なる標高40~50mのここ美濃山丘陵地では、遥か旧石器時代の石器が採集されており、市内で最も古くから人類が活動した痕跡が残る地域と言われております。弥生時代中期の集落が形成されたと見られる跡も金右衛門遺跡で確認されています。八幡市誌の第1巻では、美濃山でナイフ形石器が複数発見されたこと、それらが大阪・奈良府県境の二上山から運ばれたであろうサヌカイト(讃岐岩=さぬきがん)製であることなども書かれてます。歴探会員諸氏には既にご存じのように周辺では近年多くの遺跡が発掘されております。
 石器の時代からは一気に下りますが、京都府教育会刊『山城綴喜郡誌(全)』には「大谷川は有智郷村字美濃山より発し……」と書かれております。これはこの戸津谷ノ口で合流する御幸谷川の源流のことを意味するものと考えても間違いではないと思われます。また、八幡市教育委員会刊の『男山で学ぶ人と緑の歴史』には御幸谷川のこと、かっての美濃山や戸津の地域の暮らしの様子が手に取るように書かれておりとても興味深いものがあります。明治期にはお茶が、その後は筍や芋(サツマイモ)の生産や養蚕業が盛んであったこともこの本は教えてくれます。柿の木や桐の木が多く植えられていたことも分かりますが、美濃山井ノ元地区に今も残る柿の古木などを見る時に、里山がその本来の役目を果たしていた頃を彷彿とさせてくれます。ゴルフ練習場として多くの愛好家の皆様に利用されている現在の戸津池で、かってはウナギや川魚の養殖がなされていたことも本には書かれています。
f0300125_23281088.jpg 美濃山から公園に戻りましょう。区間の最下流部には昭和41年に開通した国道1号線が走っています。大谷川に架かる多くの橋の中で、おそらく車の通行量が最も多い橋であることは間違いないと思われます。そんな橋の近くでありながら、静かで自然豊かな公園があることは近隣にお住まいの皆様、また私たち市民にとって嬉しい限りです。あえて言わせていただくならば、左右両岸の歩道を歩いていると、国道に通せんぼをされて下流側へ横切る事ができないのが少し残念ではあります。

 次章では、市のほぼ中央部に位置し、以前から何故か気になっていた地名、戸津についとうづて私なりの考察を試みてみたいと思います。

(※1)国道1号線の八幡検問所近傍、戸津池北西部の信号からも可能です。


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by y-rekitan | 2013-09-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第42号より-05 エジソン碑⑦

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・⑦
御文庫とエジソン碑⑦

 石清水八幡宮 禰宜  西  中 道


 エヂソン記念碑の除幕式から、ほぼ4ヶ月が過ぎた昭和9年9月21日金曜の朝、後に「室戸台風」と名付けられた超大型台風が、近畿地方を直撃した。四国の室戸岬に上陸した時の911.6 hPa という気圧は、参考記録ながら日本本土への上陸時としては史上最低、即ち史上最強の台風であったことを示し、その記録は今も破られていないそうである。
 特に最大瞬間風速60㍍(毎秒)以上とされる想定外の暴風が、京阪神の人口稠密地帯に、しかもちょうど職場や学校の始業時と重なる午前8時~9時頃に襲いかかったから、被害は一層拡大した。この台風による死者・行方不明者は3千人を超え、当地でも八幡尋常高等小学校の校舎が強風により全壊し、犠牲となった校長・訓導・児童合わせて34人の名前が、今も善法律寺境内の慰霊碑に刻まれているのは、周知の通りである。
 石清水八幡宮をはじめ神社仏閣にも相当の被害があり、当時の境内被害状況を記録した写真などを見ると、あまりに破壊の跡が凄まじく、一見しただけでは何処を撮影したものか見当もつかない。倒れたり折れたりした樹木の幹や枝、吹き飛ばされた建物の残骸らしきものが散乱し折り重なって、それこそ無茶苦茶な状態になっている。本殿の損壊も甚だしく、部分的修理で間に合うような程度のものでないことは、誰の目にも明らかだった。
 男山展望台のエヂソン記念碑も、台風通過後は木々の枝葉に覆われ、半ば埋もれた状態になっていたのだが、今やエヂソン碑の話など、どこかへ吹き飛んでしまっていた。田中宮司は、本殿以下諸建物の修復のため、最後の御奉公という覚悟をもって粉骨砕身、ようやく翌年5月13日、本殿半解体修理のため仮遷座祭を執り行うところまで漕ぎつけた。
 しかし、工事半ばの昭和12年8月27日、数え70歳、古希の年を迎えた田中宮司は、もはや精も根も尽き果てたということか、遂に石清水八幡宮宮司の任を退く。振り返れば、明治34年12月の宮司就任以来、35年余りの歳月が流れていた。翌日赴任してきたのは、佐賀県出身、明治7年生まれの前橿原神宮宮司・副島知一氏である。    (つづく)

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by y-rekitan | 2013-09-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第42号より-06 謡曲放生川

シリーズ「謡曲のふるさと八幡」・・・②
放生川(ほうじょうがわ)

 猪飼 康夫 (会員) 


 謡曲「放生川」は、平安時代から続く石清水八幡宮の行事 放生会(ほうじょうえ)をもとに作られています。明治の廃仏毀釈で、仏教色が一掃され石清水祭と呼び名は変わりましたが、放生川に魚や鳩を放ち童子が胡蝶の舞を舞う放生会の行事は毎年9月15日に行われています。
謡曲「放生川」の筋書きは「弓八幡」とよく似ています。男山八幡宮の祭りの日に鹿島の神主が参詣すると、魚を桶に入れた老人と出あいます。「神事の日になぜ殺生するのですか」と尋ねると、老人は「今日は生き物を放つ放生会です」と答えます。そして、魚を放生川に放し神事のいわれを語って、「私は、石清水八幡宮に仕える武内の神です」と名乗り、山頂に立ち去ります。

f0300125_21485762.jpg やがて月が上り、神楽の音と共に武内の神が現れ、平和の御代を讃える舞を舞います。なぜか、能楽「放生川」が演じられた実績は極めて少なく、謡曲「放生川」も馴染みの薄い曲になっています。
 放生川とは、八幡宮がある男山の東側を流れる大谷川の一部分、高良神社近くの安居橋から上下200メートルに付けられた名称です。 かつては、蛍が飛び交い八幡八景のひとつに数えられていましたが、蛍がいなくなって久しく、その風情を味わうことも叶わなくなりました。
男山は、八幡の「里山」のような存在で、自然に触れ合いながら自然の仕組みが学べるところです。美しい自然環境を取り戻し、八幡の歴史文化と共に次世代につないで行きたいものです。

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by y-rekitan | 2013-09-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第42号より-07 墓石をたどる③

シリーズ「墓石をたどる」・・・③
橋本家(等安)の墓石をたどる

 谷村 勉 (会員)


 「八幡市誌」 第二巻 第六章に「近世八幡の文化人たち」(P320) の冒頭で橋本等安が紹介され、かの里村紹巴に連歌を学び、豊臣秀吉の御連衆として活躍したことが記されています。先般、橋本で他の墓石を確認していたところ、少し離れたところに、偶然にも橋本等安一族の墓石群を発見しました。橋本北ノ町(京阪電車橋本駅京都寄り)の山腹に一族20数基の墓石が祀られてありました。
 
橋本等安一族の墓であることの確認

f0300125_23311785.jpg  まず男山考古録の橋本寺の項に、「今は絶えてなし、橋本町道の南側、今社士落合利經か隣地也と、法華宗にて、橋本當好か先祖等庵という人の一建立にて、彼家の頼み寺なるよし、・・・・・云々」とあります。
ここで判ったことは、まず橋本當好が等庵(等安)の子孫である事です。
 次に八幡市誌 第二巻には「橋本等安は、当好と称し、通称満介、他に不伯斎とも号し、橋本町に安居本頭神人として、朱印地五七石四斗七升を領し、居住していた」とあります。朱印地とは、慶長五年(1600)五月二十五日、徳川家康から五拾七石四斗七升を給付されたことを指し、ここに等安が家康から朱印状を給わっていたことも判りました。
 さて、明治五年(1872)、京都府に提出された橋本家由緒書によりますと橋本等安より数えて十二代目に橋本當好(男山考古録著者・長濵尚次とほぼ同時代)の名前が記され、慶長五年に朱印地五拾七石四斗七升を給わったことも記されていました。これらからこの墓石群が橋本家由緒書とも一致し、橋本等安一族のものと判りました。
 墓碑を読むと延宝・元禄年間(1672~1703)以降の歴代当主等の文字は判別できますが、それ以前は判り辛いところがあります。
 墓石の種類は板碑型、箱型、唐破風付等その変化によって、時代の変遷が判るようにも思えますが、はたして等安の墓石はどれなのか、古い花崗岩の墓碑は、それらしきものはありますが、風雪劣化により文字が判読できません。
 しかし、いつか拓本を取れば特定できるかも知れないと思いました。
今回も偶然発見した墓石群には何か因縁を感じつつ、二礼二拍一礼して、螢域を出ました。
いつか類縁の方にお逢いして、等安の事績等もお伺いしたいと思っています。

場 所

 京阪電車橋本駅から山側を京都方面に向かうと、右の登り坂に黄色の逆U字型の手すりが見えてきます。その手すりの間の民家を左に折れ路地を進みます。白い板壁の民家を右に回り、裏から狭い道を登りますと、道に沿って墓石群が見えます。その少し奥へ進むと右に登る階段があり、6~7m程登ると橋本家の墓石群です。(*他家の螢域に入る場合は余程ご留意願います)

 等安が秀吉の連衆として活躍したという逸話に、「音するはいつこの駒の轡虫」という句の付句に人々が窮した時、等安が「霧の中ゆく逢坂の関」とつけて、秀吉から賞詞を賜った、というのがある(八幡市誌 第二巻p320)  

なぜ秀吉が褒めたのか(私の解釈)

 音するはを「音する羽」と読みますと、秀吉が音羽川の流れを見て、京の地に入ったのはいつの頃であったか。馬上にあって蹄、鐙や馬具の擦れる音がまるで轡虫が羽を擦って音を出す様に似て、水の流れる音は、掻き消されたものだ。「音する羽」とすれば八幡の等安にとって、ごく自然に音羽山が連想できます。秀吉も戦略上の地理には極めて明るい。大津から初めて京に入る山が音羽山。音羽山の裾に逢坂の関があり、古歌に聞く、逢坂の関を再び帰ることができようか、関越えの後も戦の連続で、あの頃は先行き、さも霧の中をゆくようであった。秀吉も青雲の頃が懐かしい。

 ・等安作と伝えられる発句に次のものがある (八幡市誌 第二巻p321) 
        なひきあひて霞にねさす柳かな    
        梅が香や篠ぬけ出し袖の露        
        かりかねは霞にもれて山もなし    
        若草やつなきとめけむ放れ駒     
 ・和歌はわずかに一首伝わるだけである (前掲書)
        五月雨はをのが時ぞとをちかへり
        なくねもあかぬほととぎすか 


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by y-rekitan | 2013-09-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第42号より-09 昭乗の下馬碑

 昭乗の下馬碑を探る
 
―藤原尚次が見たという下馬碑を四天王寺に求めて―

高田 昌史 (会員)

はじめに

 八幡平谷には松花堂昭乗の書と言われる下馬碑があり親しまれているが、それを見た藤原尚次は『男山考古録』(嘉永元年1848刊)巻第9の中で「此碑に依て思ひ得たる事あり、攝津國四天王寺に詣で、南門外道の東南向きに下馬碑あり、其形ち文字の大きさ彫刻の模様、當碑と露計も違はず、傍に寛永十四丑年と彫たり、同昭乗の筆痕なる事疑なく・・」と記している。ならばそれを確認できればと今年1月に四天王寺に赴いたところ、尚次の言う南門外道の東南向きは何と大きな交差点の真っただ中。しかし由緒ある石碑なら南門近くのいずれかに退避しているのではと探したが見当たらず、念のためにと東門、西門をあたっても遂にそれらしきものには出会えなかった。

 その後すっかり忘れていたところ、7月の会報40号表紙の「下馬碑と昭乗」の記事を見て、忘れていた宿題を思いだしたかのように本格的な下馬碑の調査を再開した。だがそれは約400年前の下馬碑設置時に遡る本格的な炎天下での調査となった。

見つかった下馬碑

 改めて資料等で調べてみると四天王寺の下馬碑は、現在境内北東隅の本坊にあり、しかも何と3基もあるとのことで、さっそく出向いてみると確かに本坊唐門前に1基、そして奥の庭園入口と西通用門にもある。

f0300125_183717.jpg そこで3基の写真を撮り寸法を測りながら、このいずれかが尚次の言うように八幡平谷と姿かたちや字体が同じで傍に寛永十四年 (1637年)と書かれているならば、昭乗由来の下馬碑が特定できると期待しながら下馬碑の比較に取り組くむこととなった。

まずは八幡の下馬碑との類似性比較

➀本坊唐門の下馬碑
 この碑のみ「馬」の最後の書体(////)が(―)になっており、明らかに八幡平谷と異なる。また、「下馬」文字の開始位置が高い。それに碑の屋根はこの下馬碑のみ鋭角であり、台座の前面への突き出し量も大きい。
背面の刻銘は〈奉寄進、寛永十四年丁丑年閏三月十五日〉と何とか読み取れ、男山考古録に記載の「寛永十四年丑と彫たり・・・」の年代とは合致する。なおこの下馬碑は損傷が激しく、途中で折れたところをつなぎ合わせる修理がなされている。

➁本坊庭園の下馬碑
 3基の中では一番筆跡も碑の形状も八幡平谷に似ており、男山考古録に著者が南門の下馬碑が「其形ち文字の大きさ彫刻の模様、当碑と露計(つゆばかり)も違はす・・・」と書いていることからして可能性はあるが、この下馬碑には残念ながら背面の設置年等の記銘は全く読み取れない。

➂本坊西通用門の下馬碑
 この下馬の筆跡は他の2基の力強さと異なり温和しく上品な感じがして、八幡平谷とは異なる。碑の花崗岩の痛みは比較的少ないが、肝心の背面の設置年が一部判別しづらいところがある。

それでは松花堂昭乗由来の下馬碑は

 尚次の言う南門外道の碑1基を求めて調査に入ったにもかかわらず、3基もの碑が並んでしまうこととなった。そこで、各々の碑は元はどこにあったものかと寺に確認したところ、どこから移設されたものかは不明であるが、かつては四天王寺には東西南北それぞれの門の前に計4基の下馬碑があったとのことであった。現在残っている3基の下馬碑がどこから移設されたのかが不明となると、行方不明の残り1基が南大門の下馬碑であった可能性もあり得ることになるが、3基の下馬碑の内であえて選ぶなら②の本坊庭園下馬碑が八幡平谷の碑と最も似ているとの印象はある。

四天王寺の下馬碑探究の経緯

 ところで東西南北に下馬碑があったとなると当時の様子が知りたくなるが、調査を進めるうちに下馬碑が設置された元和、寛永年間の四天王寺については『攝津名所圖會(ずえ)』に詳しいとの情報を得た。この本は寛政10年(1798)ごろに編纂されたとのことで、その復刻本(同名、古典籍刊行会、1975年刊)を探し出し紐解いてみるとその上巻には何と、7枚に分割されてはいるが当時の四天王寺の鳥瞰図があった。それを合成したのが下の図であるが、そこには4門(図中↓)と4基の下馬碑(図中▽)が名札付きではっきりと描かれている。
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f0300125_1123327.jpg ただ困ったことにこの名所圖會では本文の下馬碑の項で「碑は4門にあり、下馬の文字は朝鮮の雪峰の筆なり。寛永年中来朝の時書かしむ」と書いている。

 雪峰とは当時の朝鮮通信使一行の金義信のことであり、朝鮮使節の一員として来日した人のようであるが、別の資料によると金義信の初回の来日は寛永20年(1643)であり、尚次のいう碑陰の寄進年号とは辻褄が合わない。第一、昭乗の書によるとの考古録の指摘とも合致しない。そこで更に調べていくと、『攝津名所圖會大成』(柳原書店、1976年刊)という新たな本に遭遇した。

 この本は『攝津名所圖會』を上回る内容を持ち、100年後の安政年間に素稿がまとめられていながら昭和になって初めて刊行されたもので、この本の“其之一”には、さらに新たな記載があった。

f0300125_8252969.jpg すなわち、四天王寺の下馬碑は元和年間(1615~1624年)にそれまでの木製の下馬札に変わり石碑として設置された。その際石碑にすることは前例に反すると反対が強く、石碑にはしたもののそれへの誹謗を避けるためになんと“朝鮮人の書”(朝鮮の下馬碑はもともと石碑)と傍記したとのことである。またその後も何回となく修理修復を重ねているとも記載されている。

 なお今回は『攝津名所圖會』などの本に合わせて歴代の四天王寺周辺の古地図についても当たった。それによると周りには門前町を抱え広大な寺領を有していた四天王寺が、何段階にもわたって境界を狭めていった様子が窺える。その大きな変化は近代に入って以降の明治初期の寺領召し上げ、大正・昭和の都市化による道路用地への供出(これも召し上げみたいなものか)によるものであり、その都度下馬碑は居場所を失っていったということのようである。しかしながら幸いなことにその内の3基が、現在はすべて鳥瞰図で点線囲み表示をした本坊に移設されて今に至っている。(移設後の下馬碑は同図▼印の場所で、番号は上述の碑番号に対応)

 実は、八幡平谷の下馬碑はその文字の筆運びから見て昭乗の時代より古く、よって昭乗の筆ではないとの説もあるが(佐藤虎雄氏の『松花堂昭乗』、河原書店・昭和13年)、何しろ格調を要する下馬碑のこと、なんらかの意図で古い書式で書くことはあり得るから、それだけで昭乗の筆ではないとは言い切れない。

 おわりに

 今回の調査として、当初の目的であった四天王寺の松花堂昭乗由来の下馬碑は特定できなかったが、一方でいろいろなことが判ったことは成果であり、感動でもあった。

 寛永年間以前の四天王寺には4門に4基の下馬碑があったこと、そしてその後の紆余曲折を経て残った3基が本坊にあることは確かである。しかし『攝津名所圖會大成』にもあるように、その間何回となく異変や災害に見舞われ修理修復を重ねたに違いなく、現に本坊唐門の碑は真っ二つに折れたものがつなぎ合わされて立っている。もっと砕けて新たにつくられたものもあったかもしれない。今に残る3基が寸法、書体と何がしかそれぞれに異なることもそれぞれの紆余曲折を物語っているのかもしれない。だとすると今は失われているもう1基と合わせて、朝鮮通信使の書によるもの、昭乗の寄進によるものなども混じっていたのかもしれない。そうしたいろんな疑問や可能性を窺わせるかのように3基の下馬碑は今本坊に佇んでいる、というのがいろいろな資料を渡り歩いてなお思う印象である。

  なお、下馬碑自体は中国にも朝鮮半島にも、そして日本の各地にも存在し今に残っている。しかし木製の下馬札の姿を忠実に反映し切妻屋根を冠した下馬碑は今回の調査では、四天王寺と、八幡平谷、そして仙台の瑞鳳寺にしか見当たらなかった。もしかしたら切妻屋根を冠した下馬碑は四天王寺特有で、他の地にあるものも四天王寺に何がしかの縁のある下馬碑の証なのかもしれないと思ったりもする。

 最後に事前の資料調査や炎天下2回の四天王寺の現地確認調査までも同行されて、全面的に協力していただいた友人の田中満男氏(茨木市在住)に感謝したい。
by y-rekitan | 2013-09-28 04:00 | Comments(0)

◆会報第42号より-end

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by y-rekitan | 2013-09-28 01:00 | Comments(0)