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◆会報第43号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“わが心の風景”⑯◆
◆《講演会》 八幡における浄土信仰◆
◆個人所有重文民家の課題について◆
◆重文「伊佐家住宅」について◆
◆シリーズ:“御文庫とエジソン碑”⑧◆
◆シリーズ:“大谷川散策余話”⑥◆
◆シリーズ:“謡曲のふるさと八幡”③◆


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by y-rekitan | 2013-10-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第43号より-01 大扉稲荷

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わが心の風景・・・(16)
大扉稲荷と富くじ
所在地 八幡高坊


 f0300125_2149363.jpg山上の石清水八幡宮をめざして男山の石段をゆくと、中腹に分岐点があり、左側の朱塗りの鳥居と社が「大扉稲荷社」です。
 その昔、このあたりに狐の住む穴があり、柴草を刈りに来る人にいたずらをするので、小祠を建て崇めたそうです。文政12年(1829)に至って、杉本坊と泉坊が八幡宮に願い出て、現在の場所にあった荒垣を取り除き、鳥居、玉垣を作り、建立したと伝えられています。また、稲荷社に祈った人が、その霊験によって富くじに当たったことが伝わると信者を増やし、その人たちの寄進で完成したといわれています。さらに、稲荷社の祭神の名を知る人がなく、また古記にも伝えられていないため、京都七条の高瀬川傍で神降しや吉凶占いなどの神告を業とし、稲荷を信仰する石井巳之助という人により、「我は相槌稲荷の子、名を登毘良明神と申す」とのお告げがあり、神の名を知ることになったそうです。
 こうして下京にはこの大扉稲荷社を信仰する人が多く、参拝者が多かったと「男山考古録」は伝えています。(絵と文:小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2013-10-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第43号より-02 八幡浄土信仰

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《講 演 会》
八幡における浄土信仰
― 宝寿院阿弥陀如来立像をめぐって ―

2013年10月 松花堂美術館講習室にて
浄土宗安心院住職  本庄 良文  


 10月10日、松花堂美術館にて頭書のタイトルで講演と交流の集いが開催されました。八幡の寺院のご住職による初めての講演会です。講演の概要をレジュメにそって簡単に紹介します。参加者64名。

(1) 浄土信仰の基礎としての源信『往生要集』

  浄土教の起源はインドに求められるが、浄土三部経のひとつである『無量寿経』にその基礎となる教えが説かれている。――久遠の昔、もと国王であった法蔵菩薩という僧が、世自在王如来の指導により、自分の打ち立てるべき理想の世界(浄土)の見取り図を四十八箇条(四十八願)にまとめ上げ、「もしこれらが叶わなければ仏にはならない」と誓った(これを過去の誓願という意味で本願という。)法蔵菩薩は長い年月の間、生まれ変わり死に変わりしつつ修行を積み、阿弥陀仏となって西方極楽浄土に住まっている。この世で善行を積む者はそこに生まれ変わって、楽々と修行を積み、仏となってこの世に還って人々を救うことができる――との教えである。
 日本において、最初に浄土教を体系的にまとめあげ、信仰の上だけでなく、後代の文学や美術の分野にも決定的な影響を与えたのは源信(942~1017)である。『往生要集』を著し、この世の厭い離れるべきありさまと対比して極楽の極楽たるゆえんを「十楽」にまとめ、往生極楽のためには「念仏」が肝要であると説いた。ただし、後代の浄土宗の念仏の解釈とは異なって、念仏には仏をありありと見る観仏といった困難な修行が含まれるし、念仏以外にも様々な善行が勧められている。

(2) 浄土宗宗祖法然と専修念仏

  法然(1133-1212)が唐の善導(613~681)の解釈に基づいて浄土宗を立てるまで、宗派としての浄土宗は存在しなかった。法然は、「善人も極悪人も分け隔てなく、念仏すれば極楽往生できる」と主張した。法然は念仏の意味を、口に南無阿弥陀仏と称える称名念仏に限定し、念仏こそが阿弥陀仏をはじめとするすべての仏たちによって選択された、比類なき価値をもつ行法であると説き、念仏以外の行法を差し置いて、念仏に専念することを勧めた。この「専修念仏」の考え方は、称名念仏以外の修行の価値を否定し、仏教を滅ぼすものであるとして、当時の仏教界からの猛烈な反発を招き、国家権力による弾圧を受けた(建永の法難、嘉禄の法難など)。

(3) 石清水八幡宮と浄土信仰

 石清水八幡宮を中心とする八幡地域と、浄土教との深い関係を示す事例を、知る限り幾つか挙げてみたい。(本格的に調べたわけではないのでその点お断りしておきたい。)それは八幡地域に浄土宗寺院が突出して多いことの根拠にもなるだろう。
第一に、八幡神の本地(本源たる仏・菩薩)が阿弥陀如来であるということである。つまり八幡神への帰依はそのまま阿弥陀仏への帰依なのである。石清水八幡宮の本殿近くの阿弥陀堂(八角堂)に鎮座していた阿弥陀如来座像が、明治になって、西車塚頂上に遷座し、つい最近、正法寺の法雲殿に納められたのは周知の通りである。
 第二に、「男山四十八坊」と称されるように、石清水本殿の周辺には四十八の僧坊があるとされた。実際の数は定かではないが、ほかならぬ四十八という数が選ばれたのは、阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩の「四十八願」に由来すると考えられる。
  第三に、石清水八幡宮の社務家である紀氏と法然の直弟子とに血縁関係があった事実を挙げたい。法然の有力な直弟子の一人に源智がいた。信楽の玉桂寺の阿弥陀如来像(現在は浄土宗の所有)を造立したことでも知られるが、造立願文の分析により彼の母方が紀氏に連なることが判明している。
  第四に、時宗との関わりを指摘したい。時宗は、一遍(1239~1289)によって開創された浄土教の一門である。『一遍聖人絵伝』の中に、一遍が石清水に参詣した絵図がある。中世の石清水の社殿とその周辺の様子を伝えるものとして資料価値が高いものであるが、一遍の石清水への帰依を語るものでもある。一遍の高弟に聖戒がいた。一遍の諸国行脚に随伴したといわれるが、正応4年(1291)、聖戒は八幡に善導寺を創建した。現在、京都の山科にある歓喜光寺の前身といえる。
 第五として、これは時代が下るが、今の頓宮近くにあった極楽寺(この寺号こそが浄土教的である)に安置されていた阿弥陀如来座像についてである。京都の新京極にある誓願寺(浄土宗西山深草派)の本尊である阿弥陀如来座像は度重なる火災で焼失し、現在の本尊は、神仏分離に際し、八幡の極楽寺から移されたものであるとされる。f0300125_21412454.jpg
 最後に、正法寺の存在がある。室町時代の後期に浄土宗に改めた正法寺は、お亀の方(相応院)の菩提寺となるなど、尾張徳川家から厚い庇護を受けた。そのことで寺勢が隆盛となり、塔頭や末寺も多く、八幡の浄土宗全体としての隆盛につながったといえる。

(4) 宝寿院の歴史

  「宝寿院(庵)」は、もともと正法寺の末寺として清水井にあった寺の名である。檀家は60-70軒。1822-32年頃の中ノ山墓地の整備はこの寺の第5世良秀による。だが、明治初期に無住となり、後に安心庵と合併された。その本尊は、現在、安心院に安置されている。その庵号が明治期に美濃山地区の寺に移されることになった。
美濃山地区のうち60-70軒はもと八幡市戸津、寿覚山無量院の檀家であった。位置も、無住となった後堂宇が廃絶した時期もよくわからない。戸津の浄土宗寺院が兼務していた。明治期以来、美濃山宝寿庵の住職を清水井安心庵の住職が兼務するようになった。本尊である阿弥陀如来立像は戸津無量院の本尊であったと考えざるを得ない。

(5) 宝寿院阿弥陀如来立像胎内墨書発見の経緯

  平成18年(2006)8月、八幡市教育委員会によって清水井安心院、美濃山宝寿院の現地調査があり、関西大学の山岡泰三名誉教授・長谷洋一教授が立ち会った。その時、美濃山宝寿院の阿弥陀如来立像は、長谷教授により「快慶より一代後の作」であろうと鑑定された。痛んでいたので修復を施すことが予定されていたが「出来るだけ手を加えないように」と助言された。同年末に京都市内の仏具商に修復を依頼したところ、胎内に墨書が発見されたと伝えられた。平成19年1月8日のことである。すぐに八幡市教委に通知し、仏像は安心院に移された。長谷洋一教授を招き、再度調査することになった。
その後、京都府文化財保護課専門員と八幡市教委の竹中友里代さん(当時)から「文化財としての修復をしてはどうか」との助言を得て、美術院で修復することとなった。その際、京都府と八幡市からの、文化財に対する補助金制度を利用することができた。平成19年4月に美術院に移送され、20年(2008)3月に修復が成り、当面は安心院に安置されることになった。そして、文化財の保全という観点から翌年5月に京都府立山城郷土資料館へ寄託されることになった。美濃山宝寿院には、4年に一度の法要の際にお迎えすることにしている。

(6) 阿弥陀如来立像および墨書をめぐって

胎内から発見された墨書に記載されていることは以下の通りである。仏師は、これまで知られている三名の定慶とは別人であろうと推測されている。願主の行範についてはわからない。
    奉造立阿弥陀如来像
 右為志者一切衆生成仏也致向後破壊
 見及人奉加修鋪可令遂一仏浄土素懐給也
       歳次    癸巳時正
 文暦二年 二月丗日 始之 願主僧行範
   乙未 第二日 泉州別当定慶造也

          
 「右為志者」以下を簡単に現代語訳すれば、次のようになる。
 「阿弥陀仏を造るのは、一切の衆生が仏の覚りを得るためです。将来、この像が壊れたら、寄付を募り修復してください。そうすれば、この仏様は私たちを導いて、皆一同に極楽浄土に往生するという私たちの宿願を叶えて下さることでしょう。」

「一口感想」より

◎余命いくらもない高齢者で、平素不勉強のため有難いお話を十分我がものにすることが出来ませんが、命ある限り学んで参りたいと思いました。(関通夫94才)

◎私も安心院さまには、仏事等でお世話ななっています。八幡宮と浄土宗の関係が解りました。ご住職のお人柄も一段と分りよかったです。(S)

◎八幡の歴史の深みを再確認しました。まだまだ埋もれた貴重な歴史があると思います。これからも期待します。(I)

◎8 0 0 年代からの古い山城国八幡の多岐にわたる歴史には興味があるが、中でも庶民の生活により一層関心がある。講話としてはなかなか難しいことでしょうが。(I)

◎興味深い歴史的なお話に心打たれました。 浄土宗門徒として、もっと勉強したいと思います。ありがとうございます。(T)


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by y-rekitan | 2013-10-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第43号より-04 重文民家

重文民家マネジメント研究会・八幡の歴史を探求する会 ジョイント研究会(9月15日)

個人所有重要文化財の課題について

重文民家マネジメント研究会・代表:碓田智子(大阪教育大学)

 このたびは、「八幡の歴史を探究する会」の皆さんにご協力をいただき、伊佐家住宅の見学会と講演会(谷直樹氏「いきている民家―くらしの知恵」)を開催することができました。また、台風が近づいていました天候にも関わらず、予想をはるかに超える多数の皆さまがご参加くださいました。この場をお借りしして、厚くお礼申し上げます。

 f0300125_9305385.jpg 重要伝統的建造物群保存地区や登録有形文化財の指定が増えることで、文化財の建造物に一般の人々の関心が向けられるようになってきました。しかし、個人所有の重文民家については、維持管理の問題とともに、住まいである重文民家をどう公開・活用していくのかという難しい課題があります。そこで、私たちは、「重文民家マネジメント会」として、NPO法人「全国重文民家の集い」の有志の方々と一緒に、個人所有重文民家の維持管理や活用についての研究を進めてきました。

 平成24年時点で、重要文化財の指定を受けている建造物のうち、近世以前の民家は347件にのぼります。重文民家のうち、およそ60%が個人所有です。個人所有の重文民家の場合は、日常の維持管理等の負担が重い上に、所有者の高齢化や継承の課題も大きいです。そのため、市町村や都道府県に移管された重文民家も多いですが、その場合は民家が従来の場所から移築され、資料館として活用されたりや民家園での展示保存となることも少なくありません。しかし、民家は人の暮らしがあってこそ、先人の住生活の知恵や暮らしを伝える歴史の生き証人としての役割を果たせると考えています。

 重要文化財建造物は、国の貴重な文化財として保護される一方で、公開や活用が求められます。しかし、個人所有の重文民家は、家の代々の資産であり、家族の日常の住まいであるという複雑な側面を持つために、寺社などの建造物とは異なる課題を抱えています。 私たちが平成24年に全国の個人所有重文民家の当主を対象に行ったアンケ-ト調査の結果(回答者数1 5 9 名)では、当主の年齢は7 0歳代以上が全体の約50%を占め、60歳代も含めると全体の80%近くにのぼりました。屋敷地や建物の掃除や小修理など、日常の維持管理は、全体の約70%が殆どを家族の手で行っていますが、当主の年齢が高いほど体力的な負担感が大きい傾向が見られました。そうした維持管理の費用について、市町村や都道府県の補助がまったくない重文民家も全体の1/4程度ありました。約60%の当主が「このまま重文民家の自己所有と管理を続けたい」と回答しましたが、その一方で全体の80%の当主が「個人所有は限界に近い」と答えています。このように、個人所有重文民家の困難な実態がアンケ-ト調査から明らかになりました。

 重文民家は地域の貴重な文化資産ですが、それを将来に渡って守っていくことは、ご当主の努力だけでは難しい時代になっています。今回の重文民家「伊佐家住宅」の見学会と講演によって、皆さまに重文民家の文化的魅力の一方に存在する問題をご理解いただくとともに、今後、地域の貴重な文化資産である「伊佐家住宅」を地域で支えていくことを考えていただくきっかけになることを願っています。
by y-rekitan | 2013-10-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第43号より-05 伊佐家住宅

重要文化財「伊佐家住宅」について

重文民家マネジメント研究会:植松清志(大阪人間科学大学)


・9月15日の伊佐家見学会では、足下の悪い中、多くの方々のご参加をいただき、厚くお礼申し上げます。普段見る機会が少ない重要文化財の民家を体感され、興味深いものがあったものと推察します。

 さて、建築の見学を行う際には、昔の住まい方、大きな土間の空間の構成、洗練された座敷の美しさなどなど、興味の持ち方によってさまざまな見方があるように思えます。私は建築史や住居史を専攻しているためか、どうしても座敷の設えや空間構成、空間を構成する架構、間取りの変化などが気になります。

 伊佐家住宅は、当初右手土間の食い違い四間取りであったのが、五間取り、六間取りに変化していく過程を、谷先生から説明していただいとき「うーん」と納得してしまいました。現状の平面を見ますと、棟方向を基準にして南面に位置する、2間幅の式台から玄関・仏間・奥座敷とつながる動線と空間構成に目を見張ります。この空間は、武家の来客や行事などのほかには用いられない「ハレ」の空間です。ことに格式の調えられた奥座敷の書院・床の間の構成は見事だと思います。奥座敷は柱間が2間と広く、使い勝手の向上が見られます。1間ごとに柱を入れると、構造的には無理がありませんが不便な点が多くなります。そのため、何とか柱を抜く工夫が行われます。一般的には鴨居のかわりに長方形断面の差し鴨居を入れますが、そうすると欄間が取れなくなり空間が閉鎖的になります。そこで見えない部分、つまり小屋裏での構造に工夫がなされることになります。こう見ると、1間ごとに柱が立つ座敷は古い形式と判断することができます。伊佐家住宅の座敷における柱配置から、建築技術が確実に発展しているようすが分かります。

 棟方向の北面の諸室は日常生活で用いられる「ケ」の空間です。それに従い、土間も「ハレ」の空間に隣接する「なかにわ」(中庭)と「ケ」の空間に隣接する「うちにわ」(内庭)に分けられます。内庭には、祭礼用の大くどにつながる「しもへっつい」、「だいどこ」に接する「かみのへっつい」、「からうす」「ばったり床几」流し・井戸などが設けられています。ばったり床几は、京の町家などによく見られますが、当家では「からうす」を用いないときにイスもしくは作業台として用いられたのではないでしょうか。大くど上部にはへっついの煙が内庭全体に拡がらないよう、南北方向に煙返しが設けられています。この部分には主屋をもたせるための大きな断面の部材がみえます。それを支える方法も工夫されていますが、f0300125_934294.jpg現在は傷んだ梁の補強がなされています。構造全体をみると、現在とは異なり補強金物は用いられていません。なるべくゆるく構成することで、地震の揺れなどを吸収する工夫がなされています。まさに先人の知恵というべきものです。

 重文民家所有者の住まい方や維持管理などに関する苦労は、第三者が簡単に分かるものではありませんが、私たち「重文民家マネジメント研究会」は、その現状を全国的な観点から把握し、よりよい維持管理の方法などを探ろうとしています。今後とも、皆さま方のご協力を頂きますようお願い申し上げます。
by y-rekitan | 2013-10-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第43号より-07 エジソン碑⑧

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・⑧
御文庫とエジソン碑⑧

石清水八幡宮 禰宜 : 西 中道  


 宮司交替の直前、昭和12年7月7日には「盧溝橋事件」が勃発、いよいよ大陸での戦争が本格化する中、新宮司を迎えた八幡宮では、いきおい戦時下の時流に棹さす形となり、同年11月から19年末頃まで、近衛文麿首相をはじめ、寺内寿一元陸相(陸軍大将)、杉山元元参謀総長(同)、阿部信行元首相(同)、小磯國昭首相(同)といった政府高官や軍首脳の参拝を連年受け入れ、また皇軍将兵の武運長久祈願祭を度々執行したりした。

 この間、副島宮司は強い指導力を発揮し、先の室戸台風で大きな損害を被った境内各所の修復を進めつつ、それと並行して南総門を建て替え、社頭全体を南へ拡張し、神楽殿も新築するなど、次々に積極策を実行に移していく。足掛け5年にわたった本殿修復工事も昭和14年秋に竣功、11月14日夜には勅使を迎えて本殿遷座祭が厳粛に執り行われた。

 翌15年8月には、境内大楠下に造成された元祖エヂソン碑の土台部分に、上から覆い被せるような形で、それまで三ノ鳥居の東北側に建っていた「御文庫」を移転・増築する工事が完成した。こうして、前宮司が境内地にエヂソン碑を建設しようとした痕跡も、これ以後65年の長きにわたって、人々の目から完全に覆い隠されることとなったのである。展望台のエヂソン碑はどうか。昭和16年12月8日の「真珠湾攻撃」以降、米国はまさしく日本の主敵となった。いかに偉人とはいえ、エヂソンは米国人である。その敵国人の顕彰碑を、護国の神たる石清水八幡宮の間近に居座らせておいてよいのかと、自称愛国者たちの発する異議申し立ても喧しくなってきたが、神社としては「神域外のことゆえ関知せず」と、非難の声も記念碑の存在そのものも有って無きが如く、無視し続けた。

 昭和19年に入ると、日本は深刻な物資不足に陥り、民間にも金物類の提供が広く求められる中、男山ケーブルは同年2月10日に営業を停止し、橋脚等の鉄材を軍需物資として供出した。かくして、今や訪れる者とてない展望台のエヂソン碑は、雑草や蔓草に半ば埋もれたまま、昭和20年8月15日、ひっそりと終戦の日を迎えるのである。  (つづく)

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by y-rekitan | 2013-10-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第43号より-09 大谷川散策⑥

シリーズ「大谷川散策余話」・・・⑥
 第6章 戸津(とうづ)の地名考察

 野間口 秀国 (会員)


 八幡市図書館で出会った一冊の本に下記の一文を見つけたことが表記の題名で書くことを後押ししてくれました。曰く、「・・・むかしの水害のまえそのまた水害のまえは 川はべつの姿をし べつの場所を流れていた 水の交通整理をしながら人間がつくりかえてきたのが今の川」と(*1)。他にも当会の複数の会報や諸資料からも、木津川の流れは長い年月の間には変化していた、であろうと思えてきます。とは言え、「どの時代にどのような流路であったか」を正確に把握して書いたもので無いことを最初にお断りさせて頂きたいと思います。
 f0300125_2138835.jpg平成25年7月9日の京都新聞山城版に「木津の文化財と緑を守る会」の岩井照芳氏が「木津川は奈良時代から都に近い河川港として発展した。木材を扱う港(津)という意味で、江戸時代には木津と呼ばれるようになった。」と述べておられます。戸津の「津」が港を意味する事は上記からも理解頂けると思います。残りの一文字、「戸」は江戸や水戸を参考にしてみたいと思います。江戸はご存じの通り東京の旧称で、地名の由来は諸説があると言われており「江」は川あるいは入江であり、「戸」は入口を意味することより「入江(川)の入り口」に由来したと考える説が有力なようです。同様に水戸の「戸」も出入り口を意味し、水戸は大海(水)への出入り口と解することができることより、「戸津」は「木津川の入り口の港」との理解が可能と考えます。

 先ず文字で戸津を考えてみましたが、次に八幡市の地図を見てみましょう。木津川大橋の架かる木津川左岸上流側に上奈良、下流側に下奈良の地名があり、両地区の中ほどには奈良元、奈良里の名があります。同様に新木津川大橋の南北に上津屋(八幡市域)と下津屋(久御山町)の地名があり、「津屋」の地名を考える時、私は大阪府寝屋川市の「寝屋」と類似した意味合いを持つと考えます。その理由は、寝屋川市にはかって官営の牧場があり、そこで働く人達の宿舎(建物=寝屋)があったこと、そこに源を発する川が寝屋川と名付けられた、と書かれているものを読んだことがあったからです。

 他にも屋を含む番屋(バンヤ)、上屋(ウワヤ)、苫屋(トマヤ)なども建物であり、そう考えると「上津屋」は津の上流の建屋集落で、「下津屋」は下流側の、と理解出来るようです。更に、川上と川下の「津屋」の間に港(津)が有り、その地名こそ「戸津」であったのではと考えてみたのですが、少なくとも現在の地図では三者の位置関係はそうでは無く、この考えは少し無理でしょうか。

 さて、現在の地図上では多少無理でも話を前に進めましょう。古代より港(津)は重要な社会基盤の一つであり、当会の土井三郎事務局長は自らの著書『百花繚乱 私のうた紀行』で、孝徳天皇(645-654年)が飛鳥から難波の地へ遷都された理由の一つに「難波の地が大陸と海でつながる港津であったからに他ならない」と述べておられ、桓武天皇(781-806年)による長岡への遷都の理由も「水陸交通の要衝が一要因」と『京都府の歴史』に見えます。

 戸津の港としての機能を考える時、北隣の「川口」の地にも触れておきたいと思います。文字通り川の入り口を意味する地名と理解できますが、川口の集落は港とは少し異なり、周囲に堀をめぐらせた環濠集落であっただろうことです。現在の川口に今も残る「堀之内」の地名は、周囲が堀であったことの証しと思えますし、また環濠集落には防御と拠点の機能を有する特色も見られることより、木津川と蜻蛉尻川の接点でもあった地なのでしょう。川口は河内、摂津との国境も近いこの地域での重要な交流の拠点的集落の一つであったと思われます。
f0300125_21312063.jpg このように、戸津は環濠集落の川口に北側を守られた港であり、安全な環境下でその機能を十分に発揮していたのではないのでしょうか。木津川を僅かに下れば淀津に至り、淀川を下れば瀬戸内海に、一方、木津川、宇治川、桂川を上ればそれぞれ大和、近江、丹波へと繋がっており三川合流地に近いこの地は淀川舟運の要衝の地であります。このように考えてみると、戸津は経済的にも政治的にも重要であり、橋本、山崎、淀、一口(イモアライ)(大池 = 巨椋池の入り口)などと共に周辺の複数の津と共に港の機能の一翼を担っていたと考えられるのではないでしょうか。

 さて、ここで木津川の現在の流れを地図で確認いただくと、やっぱり「戸津の位置の説明が付かない」と思われるのが当然のような気がします。そこで少しでも納得いただける資料を、と探した結果の1つが冒頭の一文です。著者の富山氏の考えを補強するように、当会会報にも先輩諸氏の活動報告が複数あり、最初の一つが出口修氏の「地名で学ぶ八幡の歴史」講演記録(*2)です。内容は多岐にわたり、時代は大宝律令の頃(702年)にまで遡りとても分かり易く、戸津に水害と移転の歴史があることがわかりました。富山氏のことばをさらに視覚的に著わしたものが、大洞真白氏の講演資料「八幡市域の古代地図」に描かれた木津川の流路の図に(*3)、また中川学氏の講演資料に残る旧木津川の流路の図に(*4)、更に第124回埋蔵文化財セミナー講演(2013.5.25)での小森俊寛氏の資料に見える「木津川の古代~中世の流路跡」の図などに見出すことが出来ました。
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古くは奈良時代前半(715~750年)頃に創建されたと考えられる美濃山廃寺など、その時代の社寺建立に使用された諸資材の運搬にも舟が活躍したのかも知れません。『類聚雑要抄』や『延喜式』に那羅郷(前述の奈良元、奈良里か?)で採れた「雑菜」が川船によって與等津(淀津)まで運ばれた・・・と大洞氏は述べておられます(*3)。木津川沿いには島畑(しまばた)も多く有り(*5)、武家領と非武家領がジグソウパズルのように複雑に存在する山城の地の浜出し荷物は先の雑菜類の他にも、年貢米、菜種、綿の実、さつま芋等々が考えられます。一方、浜揚げ荷物は都や他国からの珍しい産物のみならず、今では想像できないでしょうが下肥などの肥料類や塩などがあったようです(*5)(*6)。

 戸津の港としての機能について考える時、木津川を上り下りした舟の大きさを考えても港の規模は決して大きなものではなかったと思われますが、それは瀬戸内海から上って来た大型船の積み荷は一旦大池(巨椋池)で小型の舟に積み替えられた様子からも窺えます。また、これは淀津より上流の大型船の航路の問題に加えて船荷の扱いに関する権益の問題もあったようです。江戸時代の淀には507艘の20石船が存在し、「淀二十石船株札」をいただいた船のみが営業を許されたことを、この春、山城郷土資料館の常設展示から学び、『けいはんな風土記』(関西文化学術研究都市推進機構編・門脇禎二氏監修)からも近世の淀川・木津川水運について多くを学べました。戸津の規模は決して大きくは無かったかも知れませんが重要な港であっただろうことは想像できます。
f0300125_2224915.jpg 木津川沿いでは無く、川から離れた市のほぼ中央に津の付く戸津の地名を見つけて、「なぜ?」と疑問を持ち、少しづつ調べ始めてやっとここまでたどり着きました。「人間が造り変えてきたのが今の川」との富山氏の言葉の意味を思う時、戸津は現在の木津川の流れから少し離れ、正確な時代も流路も特定は出来ませんが、かっては木津川の流れと共にあった地名と言えるのではないのでしょうか。戸津がいつ、どこに、規模は、流路は、などの疑問には、この10月6日に開催された出垣内遺跡の説明会や今後も続くであろう木津川河床関連の遺跡発掘の成果や流れを示す古文書の出現を待ちたいと思います。

 改めて八幡市の地図に目を向けてみると、美濃山の北西部にとても気になる「戸津奥谷」の飛び地(パズルの1片)があることに気づきました。この飛び地はかっての港の有力者の持ち山か別荘地だったのでしょうか。三重県桑名市にも戸津の地名があり、ここはトヅと読むと桑名市観光協会の方から学びました。江戸も水戸も、長崎の平戸も、桑名の戸津(トヅ)も、ここ山城の戸津(トウヅ)も昔から川や海で繋がっていた、そう思うと戸津という地名に親しみが湧いてくるのですが、国道1号線の八幡戸津交差点の標識の戸津(トウヅ)に相当する部分の英文表記が TOTSU であるのは今でも気になっています。

次章は「田園区・流れに四季を感じて」を書きます。

【参考図書、会報、資料、写真など】
 (※1) 『川はいきている』富山和子氏著(講談社刊)
 (※2) 『会報』16号(2011.8.2発行)
 (※3) 『会報』27号(2012.6.24発行)
 (※4) 『会報』28号(2012.7.25発行)
 (※5) 下水主遺跡・水主神社東遺跡現地説明会(2013.8.3)資料
 (※6) 『会報』42号(2013.9.25発行) 三桝佳世氏の講演記録
     他に 『八幡市誌 第2巻』
   ※写真2と写真4は、久美浜町の栃谷川河口付近にて撮影。

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by y-rekitan | 2013-10-28 04:00 | Comments(0)

◆会報第43号より-10 謡曲女郎花

謡曲のふるさと八幡(その3)
女郎花(おみなめし)

 猪飼 康夫 (会員)


 謡曲では「女郎花(おみなえし)」を「おみなめし」と読ませています。大変人気のある曲で、お能、謡曲、仕舞、など、よく演じられています。
 「女郎花」は、きわめて世俗的な物語になっています。肥後の国松浦潟の僧が都へ上る途中、石清水八幡宮に参詣しようと男山に立ち寄りますと、山麓には女郎花が美しく咲き乱れています。旅僧が土産に一本手折ろうとすると、一人の老人が現れてそれを止めます。
 二人は古歌を並べあって問答しますが、旅僧が古歌に詳しいことに感心した老人は花を折るのを許します。老人は八幡宮の社前に案内し、更に男塚・女塚を見せ、これは小野頼風夫婦の墓で自分が頼風であることをほのめかし、消え失せます。
 旅僧は、土地の人から詳しく頼風夫婦の話を聞き、夜もすがら菩提を弔っていると、頼風夫婦の霊が現れます。
 頼風の霊は、夫の足が遠のいたことを恨み女が放生川に身を投げたこと、女塚から生え出た女郎花がまるで頼風を避けるように靡きしりぞいたこと、自分もまた身を投げたことを語ります。今はともに地獄に落ち、邪淫の悪鬼に責められ苦しんでいるので、どうか助けて欲しいと僧に救いを求めます。
 女塚は女郎花塚ともいって、松花堂庭園に立派に保存されていますが、男塚(頼風塚)は、八幡今田の民家に囲まれた狭い空地にひっそりと残されています。おい茂る芦が女塚の方向を向いているので、“片葉のよし”ともいわれ、哀れを誘っています。…芦は発音が“悪し”に通じるのを嫌がって、しばしば“よし”(葭)と言いかえられます。
 なぜ、男の足が遠のき、後追い心中までしなければならなかったのか分かりませんが、せめて紙面の上だけでも寄り添えればと、男塚と女塚の写真を並べておきます。
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by y-rekitan | 2013-10-28 03:00 | Comments(0)

◆会報第43号より-end

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by y-rekitan | 2013-10-28 01:00 | Comments(0)