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◆会報第44号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“わが心の風景”⑰◆
◆《講演会》 八幡の歴史と土器◆
◆シリーズ:“御文庫とエジソン碑”⑨◆
◆シリーズ:“大谷川散策余話”⑦◆
◆ “五榜の掲示” ◆


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by y-rekitan | 2013-11-28 15:00 | Comments(0)

会報第44号より-01 豊蔵坊

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わが心の風景・・・(17)
家康の祈祷所「豊蔵坊」
所在地 八幡高坊


 f0300125_21361522.jpg男山山上まであと少しのところ、茶店・鳩茶屋の下、山手側に「豊蔵坊跡」の碑が建っています。この豊蔵坊は、徳川家康が三河の国にいるときからの祈願所で、戦場にあっても自身の加護を祈ったと寺記や明和4年(1769)の『註進記』にみられます。
 この豊蔵坊には、徳川家康四十二歳の時に厄落としのために作らせたという自身の等身大肖像と帯劔衣冠繧繝縁茵上座像が安置されていました。像は明治の神仏分離令によって、今は京都・等持院に足利歴代の像とともに安置されています。座像の高さ94.2センチで右手に笏を持ち、左手を膝に置いたやや細身の家康像です。
 豊蔵坊は、もと宝蔵坊といったのですが国家豊穣祈願を理由に「豊」の字に変えられました。以降、祈祷の神札が関東へ献上されていました。元和年間、孝仍という大徳寺の僧がここに住み、松花堂昭乗に法儀を教えたといわれています。また、覚華洞信海とも号した豊蔵坊孝雄は、松花堂昭乗の晩年の門人で、画や狂歌に秀でていたと伝えられています。(絵と文:小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2013-11-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第44号より-02 八幡の土器

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《講 演 会》
八幡の歴史と土器
― 日本の歴史に見る土器の役割と変遷 ―

2013年11月  ふるさと学習館にて
八幡市教育員会 文化財保護課 小森俊寛 


 11月例会は、ふるさと学習館を会場に、八幡市教育員会文化財保護課の小森俊寛さんに、標題のテーマで語っていただきました。講演に先立ち、講師紹介を兼ねて安立俊夫副代表が開会の挨拶。その中で、小森俊寛氏のプロフィールが語られました。
 小森氏は、昭和24年に大阪府門真市に生まれ、龍谷大学法学部を卒業後、京都市高速鉄道(地下鉄)烏丸線内遺跡調査に従事されました。その後、(財)京都市埋蔵文化財研究所にて、長年京都市の埋蔵文化財の発掘調査と研究に携わってこられました。そして、平成14年頃から八幡市における埋蔵物の発掘調査に関与し、同22年7月より文化財保護課に移籍されました。また、昭和59年頃から「古代の土器研究会」の副会長として数々のシンポジウムを開催し、全国の土器編年の確立に大きく寄与されました。
 以下、当日配布されたレジュメに沿って講演の概要を紹介します。参加者32名。

1、 土器および「かわらけ」

 「土器(どき)」について、『広辞苑』では、「釉薬(うわぐすり)を用いない素焼きの器物。可塑性に富む粘土を材料とするため、器形・文様などに時代・地域の特色が反映され、考古学の重要資料」 とし、考古学では、縄文土器・弥生土器・土師器(はじき)・黒色土器・瓦器(がき)・白色土器・須恵器に類別している。
 その中で、かわらけ(土器)は、考古学において主に土師器(はじき)の食器類として認識されてきた。

2、 律令的土器様式―天皇家の祭祀のルーツ 

都や神社境内から土師器(はじき)の食器類が各時代を通して大量に出土している。このことは、律令国家が成立した時点で、国家や神社の祭りごとの道具として土師器食器類(かわらけ)が採用されたことを意味している。それは、律令的土器様式の確立といえるものである。
 天皇の飲食物=供御(くご)に使用される土器(かわらけ)は「清き」ものでなければならないものと考えられ、食器は一度きりのものとされた。いわば使い捨てである。そのかわらけについて清少納言は次のように書いた。
「清しと見ゆるもの 土器(かわらけ) 新しき鋺(かなまり) 畳に刺す薦(こも) 水にものを入るる透影(すきかげ)」(『枕草子』141段)
 また、神社でも、かわらけに神饌(しんせん)の各種供物(くもつ)を盛ることが行われるようになった。伊勢神宮では今でもそのことが続いている。斎宮(さいぐう)もしかりである。
 日本の天皇家の食事(御饌(みけ))においても、1300年間の間、基本的にかわらけが使用されてきた。神社での祭祀や貴族層での年中行事には直会(なおらい)(酒宴)、饗宴がつきものであるが、それらの食器にもかわらけが神饌のうつわと同様に一回きりのものとして使われた。一度きりのものであるということは使われた後大量に廃棄されるということである。
 西洋或いは中国の皇帝の食事に供される食器は金・銀製の豪華なものである。それに比べて日本の天皇の食事に使われる食器=土器(かわらけ)は実に質素である。土から造り出し、土に返す。それは、日本の文化に根ざした感性によるものなのかもしれない。

3、 都の土器(かわらけ)の生産地の変遷

古代、大和政権に土師器を貢納した品部(しなべ)として、北九州から関東地方にかけて贄土師(にえはじ)、玉手土師(たまてはじ)と呼ばれる土師部(はじべ)集団が存在したとされる。都で使う食器をつくる集団として編成されたとの説である。
 『日本書紀』では巻十四、雄略天皇十七年のくだりに、「詔土師連等使進應盛夕御膳神器者。於是。土師連祖吾筍仍進津國進攝津國來狭村。俯見村。伊勢國藤形村及丹波。但馬。因幡私民部。名曰贄土師部」の記述が見られる。『延喜式』でも巻二十四主計上に「大和國。[行程一日]調。(中略)鍋二百二口。玉手土師坏五十口。間坏百口。贄土師竃廿八口。竃子卅四口。甑卅四口。瓫三百五十八口。片坏七十二口。自餘輸錢。 河内國[行程一日]調。(中略)贄土師鋺形二百七十口。」の記述がある。
f0300125_1584989.jpg 藤原京の頃には、伊勢神宮の祭祀の器に土器(かわらけ)が定着した模様で、それは斎宮の出土例からも確認できる。おそらく、このころに、河内・大和のかわらけの生産者たちが存在し、奈良時代後半になると大和に統合されていくようである。
 次に、平安時代前期になると、河内国交野郡楠葉に工人が移動している。このことは、『類聚国史』大同3年(808)正月に、男山西麓で供御の土器をつくるので、この地に埋葬を禁じる制があることからも確認できる。
 平安時代中期になると京域における主流派土器生産集団が深草に移動したことがわかる。西飯食(にしいいじき)町遺跡がそれで、これは伏見区深草池ノ内町に京都市青少年科学センター建設に伴う発掘調査で土師器窯が出土していることで確認された。
 楠葉の土師器生産集団のことは、後白河法皇編著の今様集『梁塵秘抄』に見ることができる。
「楠葉の御牧の土器(どき)造り、土器は造れど娘の貌(かお)ぞよき。あな美しやな。・・・・」
 「楠葉の御牧」は楠葉東遺跡(枚方市楠葉の青葉幼稚園のあたり)から発見された。そこで、土師器(はじき)や瓦器(がき)が生産されたのである。
 京都市の北部にある岩倉盆地の木野に日本史上最期の土器生産者が移り住んだ。移り住んだのは、江戸時代初めごろであろう。この生産者集団は、大正天皇の大嘗祭で使用された土器(かわらけ)を製作したことで知られる。ちなみに、伊勢神宮の土器は、現在も伊勢神宮境内の神宮土器調整所で女性工人が製作している。

4、 都の土器の形の変遷

f0300125_14353019.jpg 都で主に使われている土師器食器類は、ひとつの系統の生産集団が製作を継続してきたことに特徴がある。その結果、形の変遷を系統的に追跡することができる。これまで、膨大な都の土器を調査し分類してきた結果、20~30年単位で形が変化しているように見える。
例えば、私が「京都Ⅲ期」と「京都Ⅳ期」と呼んでいる土器類で見てみよう。
 図面で呈示した資料は、「京都Ⅲ期-中」と「京都Ⅳ期-中」としているもので、Ⅲ期には、古・中・新、Ⅳ期にも古・中・新の3段階ずつがあり、それぞれの段階が20~30年程の年代幅を持ち、古・中・新合わせてⅢ期・Ⅳ期ともに80年前後の時間幅がある。Ⅲ期からⅣ期への形の変化のポイントは器壁(きへき)全体の厚手化が進み、口縁端部の小さな突起を持つもの(A形式)が主体をなしていたⅢ期から小突起をもたず端部を外へそらせたもの(N形式)が主体をなすようになる事である。加えて、小さいものだけになるA形式には、厚手化と共に小突起も肥厚化して少し形のディフォルメ的変化の進むもの(A形式)と内側へ折り曲げたように発達して定型化するもの(コースター形=AC形式)など壁部変化(新しい器種分化)とも読み取れる。図のⅢ期中とⅣ期中の間に位置するⅢ期新とⅣ期古では、器種の組み合わせ、口縁端部の形、器壁の厚さなど型式変化するすべてのファクターにおいて進行する変化は前後に対して中間的様相をもった資料によって構成されている。それは、Ⅲ期~Ⅳ期のものに限らず、どの期のものでも同様の変遷を辿るように思われる。このような時間軸上の型式変化もそれぞれの間に位置する中間的様相をもつもので、変化のつながりを理解することができると考える。
f0300125_144641100.jpg このような型式変化を実物資料から読みとるには少数の代表例だけを対象とする観察では難しく、多数の個体群での個性レベルの情報を集積し、研究の基礎資料を蓄積してその分析をすることが必要である。私は、『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究―日本律令的土器様式の成立と展開、7世紀~19世紀―』(京都編集工房、2005年刊)の型式年表の中で、各期のその変化を「古→中→新」で表すことにした。

 ちなみに、京都Ⅲ期は、平安前期(920~1000年頃)で、京都Ⅳ期は平安中期(1000~1080年頃)である。各期ともに20~30年単位で形が変化し、三つ集まって(古→中→新)一つの期を構成する。上記の書物にまとめた7世紀から10世紀の土器の編年は、15期×3段階の変化を追ったものである。その際、各期に起こった政治的事象は、土器の編年には直接的な関与がないことを付記しておきたい。

5、 八幡のなかの土師器

石清水八幡宮境内で膨大な土師器食器=かわらけ(平安時代~明治初年)が出土した。土師器が90%以上を占める出土地点が多い。それらの土師器はほとんどが楠葉産の土師器である。
 ところが、明治以降、それが白い素焼きに変わる。明治維新後、神社の神饌は神祇院教部省の指示で全国画一的な生饌の丸物神饌に変更されたのである。このときに神饌の器が土器(かららけ)から白色素焼き陶器に統一されたと見られる。但し、明治17年(1884)、明治天皇の旧儀復興(熟饌)の命で、石清水・賀茂・春日は旧儀に復された。賀茂・春日の神饌の食器もここでかわらけに戻ったと見られる。f0300125_2295689.jpg
 八幡宮門前町跡では八幡山路(平成19年度木津川河床遺跡19次)、八幡山柴(平成25年度木津川河床遺跡25次)など、それ以外では上津屋遺跡(平成13・14年度調査)などで土師器皿が大量に出土した。詳細については各調査報告書で確認してほしい。
一口感想

◎ 土器に対する興味は増しています。これからも、ふるさと学習館で勉強させて頂きたいです。(S)

◎ 一世代、古・中・新でワンセット。その中での「情報の共有化」という言葉に感銘を受けました。そこに、歴史のヒントがあるのではないか。(H)

◎ 今回、改めて小森俊寛さんの講演の概要を読み直して、小森さんの土器研究と編年史作成の意味が少しわかるようになってきました。そして、「かわらけ」の歴史を辿り、その意味を探ることが日本文化論に通底するように思われました。その点で、『枕草子』や『梁塵秘抄』の文学作品からの引用が説得力を与えてくれ
たようです。「かわらけ」に代表されるように、土から造りだし、土に戻すという日本文化特有の思想あるいは感性といったものに強い印象を持ったということです。(D)


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by y-rekitan | 2013-11-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第44号より-03 エジソン碑⑨

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・⑨
御文庫とエジソン碑⑨

石清水八幡宮 禰宜   西 中道  


 昭和20年9月2日、我が国はミズーリ艦上において正式に降伏文書に調印し、連合国軍の占領下に入った。八幡宮の『社務日誌』によると、早くも同年10月8日午後4時頃、進駐軍司令部より中佐2名、少佐1名、通訳1名が、京都府警務課の警部1名を伴い、八幡宮にやってきたという。これを出迎えた佐々木主典以下3名の神職は、数日前に副島宮司から与えられた訓示の通り、進駐軍に対し相応の敬意をはらい、丁重な応対に努めた。

 その折、境内に群れる生きた鳩や、本殿に彫られた鳩の彫刻などを示しつつ、神職が以下のように力説したという話が伝わっている。即ち、世間では八幡大神を「武の神」というが、決して好戦的な神ではない、武の字が「戈を止める」と書くように、元来は平和を希求する神である、それ故に八幡神の御使いは昔から平和の象徴たる「鳩」なのだ・・・、云々。

 絶対の権限を握る進駐軍将校を前に、神社側も必死であった。石清水八幡宮に限らず全国の官国幣社が、今次の戦争に協力・加担したという罪状-それは、ほぼ事実と言ってよかったが-の下に裁かれ、有無を言わさず「潰される」可能性もあったのである。

 しかし、青い目の将校たちは、神社の思惑とは別のところに関心を寄せていた。彼らは本殿裏手の展望台に向かい、蔓草や落ち葉に半ば覆われた石碑の前に立った。そこに嵌め込まれた石膏製のレリーフは、まさしく発明王トーマス・エジソンの横顔に相違なかった。

 アメリカ合衆国に敵対し、カミカゼ攻撃を仕掛けてくるような狂信的軍国主義者たちの行き交う神殿のすぐ近くに、なぜアメリカ人を称えるモニュメントが存在するのか? それは実に不思議な取り合わせであった。彼らは、偉大な米国人の顕彰碑が、斯様に荒廃した状態にあることは甚だ残念であると言い、今後の善処を求めて立ち去ったという。

 これ以後、エジソン碑は日米双方にとって重要な架け橋の役割を担うことになる。彼らは占領政策を円滑に進めるために。我々は神社の存続を図り国体を護持するために。彼我ともに日米両国の和解を促し、友好の絆をより確かなものとするために・・・。 (つづく)

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by y-rekitan | 2013-11-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第44号より-04 大谷川散策⑦

シリーズ「大谷川散策余話」・・・⑦
第7章 田園区・流れに四季を感じて

野間口 秀國 (会員)


 大谷川の流れのほぼ中ほど、第3番目は田園区です。国道1号線を絶え間なく行き交う車の流れを支える「あけぼの橋」から、綴喜西部土地改良区、国土交通省のそれぞれの管理下の八幡排水機場(*1)近くの「一の橋」まで、川はほぼ南から北へと流れ四季の田園風景が十分に楽しめる区間です。

 あけぼの橋から「昭乗橋」までの間は流れに沿って程良い間隔で休憩用椅子が設置されていますが、利用する人は殆ど見られず、夏場は所々で草に覆われて少し残念な気がしてなりません。川には葦などが繁り、水の流れる面積がとても狭くなっています。もし両岸の小路のどちらかでも、国道をくぐって横切れると、上流の公園区(「会報」42号/ 2013年9月25日発行参照)へも往来が容易にできてもっと便利でより楽しい散歩道となるだろうにと思うのです。

 昭乗橋から「大谷橋」と歩いていると、区間の中ほどで東から流れ来る「防賀川」と合流します。江戸時代にはこの防賀川の名前は無く、川の上流側は「虚空蔵川」、下流側はこくぞう「蜻蛉尻川」と呼ばれていたようです。昭和とんぼじり19年から23年にかけて、食糧増産計画に沿ってこの川は、当時の田辺町から八幡町に至る約10Kmが改修・新設されたことが『八幡市誌』(第3巻)には書かれていますが、防賀川の名前は「八幡市民図書館蔵京都府1/50,000図歴地形図京都西南部版」で昭和50年台後半のものに初めて出てくるようです。

 f0300125_973315.jpg二つの流れが合流するおよそ600mほど手前から、大谷川に寄り添うように東側を沿って流れる水路があり、この水路も同じ地点で流れが一緒になり、小さな三川合流地と呼ばれているようです。かってこの合流地には春日部樋門と呼ばれる樋門があったようですが、樋門は除かれて今では堰が設けられており、流れには1m足らずの落差が生まれ、穏やかな流れにアクセントを付けています。堰の右岸側には魚たちが上り下りできるように魚道が設けられており、魚たちにとって優しい配慮ではないでしょうか。

 合流手前の右岸堤防には桜並木が続き、大谷橋近傍に建つ標識には、桜を寄贈された個人や団体の方々の名前が記されております。この近辺の桜は、春には「第5章公園区・隠れた桜の名所」でも書きました大谷川公園のそれに勝るとも劣らないと思います。桜に加えて、大谷橋上流側右岸には藤棚が、紅白のつつじが、赤い山茶花が、それぞれの季節に散歩道を彩ってくれます。合流地点付近には吾妻屋もあり散歩の途中に休憩にも、突然の夕立ちの雨宿りにも良しの場所と思います。皆さんには人気の散歩道なのでしょうか、季節を問わずこの川べりを楽しく散策される人達に出会いました。

 さて、ここで淀川水系の動植物について少し触れてみたいと思います。淀川水系には魚類だけでなく、水鳥や昆虫、哺乳動物、水生植物等、実に様々な多くの生物が生息しています。大谷川を散歩される多くの人には既になじみの鯉、亀、留鳥のサギ類、いろいろな夏鳥や冬鳥はその代表的なものでしょう。当会の土井事務局長が寄稿された「ヌートリア考……」(「会報」37号/2013年4月30日発行参照)にもありますように、あちこちでヌートリアの家族が確認できます。最近では特定外来生物のヌートリアが大谷川のみならず山城地域で増えており、農作物の被害も出るようになり、八幡市でも防除計画を申請中と最近の新聞で報じられています(*2)。

 上記の多くの淀川水系の仲間を代表して、ここでは亀に登場してもらいましょう。八幡舞台に人一人が渡れるほどの幅で無名(橋歴板の無い)の橋があります。この橋で、昨年の初冬の午後、背中にいっぱいの太陽を浴びながら川面を見降ろし、まるで誰かに話しかけるように、少しづつ餌を播いて亀を引き寄せておられるお近くに住まいのおじさんと(私もおじさんですが…)楽しく話をする機会がありました。f0300125_911488.jpgお話を聞いて分かったのですが、餌は市販のキャッツフードでした。餌に引き寄せられた猫ならぬ亀の数はゆうに数十匹を数え、それでも播かれる餌を目がけて上流から下流から次々と泳いできていました。亀の大きさ、色、甲羅の形などは少しづつ異なっております。亀に詳しい読者は既にご存じのことと思いますが、日本では生態系に影響を与える侵略的外来種ワースト100に指定される(*3)亜種ミシシッピアカミミガメ(幼名はミドリガメ)も相当数含まれているのではと思われます。寒い冬が明けて春になると、日当たりの良い岸辺や流れの中の石の上では甲羅干しの亀がいっぱいで、近付くと水音たてて次々に川にジャンプしてしまいます。

 府道・八幡城陽線に架かる大谷橋から小さな三川合流地点までの間の小字名は舞台ですが、この舞台という地名にはどのような由緒や歴史があるのか少なからず興味があります。神社の祭礼等で歌舞伎・人形浄瑠璃等を演じることを目的に日本の農村に設けられた舞台のことを農村舞台という、と有ります。そうであるならば延久年間(1069~1074年)の創建と伝えられる若宮八幡宮(戸津北小路の八幡神社)に何らかの関連ある字名なのでしょうか。この春に行われた「早春の八幡東部と神社を巡る」(「会報」36号/20 13年3月2 5日発行参照)に参加し、歩きながらふと「舞台」という地名に思いを巡らせていましたが、不勉強でこれと言った答えは探し出せておりません。『京都府の地名』にも、金振郷の説明の頁に地名のみの記載はございますが、調べてみる価値は十分にありそうです。

 合流地点から一気に北上し、八幡排水機場のある薬薗寺近くの一の橋までは大谷川流域でも川幅が広い箇所です。防賀川や大谷川などの改修は、溢水の際の被害を最小限に留める目的で昭和40年の計画決定から始まり46年に完成しました。このあたりは大谷川の中でも川幅が広くて傾斜が殆ど無いために、流れが緩やかで砂などが堆積しやすくなります。堆積が進むと大型重機を使っての川浚いが行われている事も近隣に住んでおられる人に聞きました。川浚いは溢水防止に極めて有効な策で大切な作業ですが、一方では浚われる流域に生息する動物などが、たとえ一時的でも棲みかを失うといった側面を持つことにも同時に思いを至らせることは大事なことと思います。

 とは言え、大谷川に生きる生物の命を守ること以上に人の命や財産や生活を守ることが現実的に大切なことに異論は無いと思います。この秋の台風18号はかなりの大雨を降らし八幡市内でも複数の箇所で被害を被りました。この大谷川沿いにも京都府が設置、管理している河川防災カメラ(*4)が常時流れを見守り、災害を未然に防止したり最小化したりすることに活用されています。また、この画像はインターネットでも見ることが可能ですが、このように川や人々を守る活動が日々行われているんだと認識することも必要と思います。f0300125_9144855.jpg

 田園区はその名の通り田んぼが広がり、四季の移り変わりがとても感じられる区間です。霜の降りた冬の朝、野草が芽吹き桜やレンゲの花咲く春、田を起し、水を引き、田植えにと続く初夏から夏の季節、夏の盛りを過ぎてやがて全てが黄金色に実る秋と、四季を通して田園風景が楽しめるのはこの区域の最大の特徴です。最近ではレンゲの花咲く田んぼを見ることが少なくなりましたが、その理由を「田起しや田?きの時、農機具の回転部分に枯れたレンゲの茎などが巻き込まれ易くて、取り除くことが面倒でやっかいものにされて植える人が減ったのよ」と、農作業を終えられた地元の方から散歩の途中に教えて頂きました。かって、耕運機などの農耕用機械なども少なかった時代にはそのような問題も無かったようです。私の故郷でも、かって一面にレンゲの花咲く田んぼは子供達の恰好の遊び場でした。レンゲは牛の餌として、また肥料(緑肥)として使われていたことや養蜂業者の春の仕事場だったことなど、私自身もいまだ記憶しているところです。f0300125_9181957.jpg

 川沿いを散歩すると、冬には電線に並んで止まり、春には桜の小枝で歌うスズメ達にも出会えます。その賑やかな合唱(おしゃべりかも)が聞こえると冬の寒さも忘れますし、春にはスズメ達も桜の開花を待っていたのかな、と勝手に思ってしまいます。流れの浅いところでは専用の椅子をしつらえて、もしくは岸辺のあちこちで、竿先の細かな動きを見つめる釣り好きの人達はおそらく鯉が狙いなのでしょうか。何回となくこの光景には出合うのですが、鯉を釣りあげておられる瞬間には今のところ出会えておりませんが。
 
 このような豊かさを生み出してくれる大谷川の流れに、耕作なさっておられる方々、「気持ち良く散歩が出来る環境を…」と呼びかけて流域を守っておられる皆様、行政や関連団体の方々など、この豊かさを守り続けておられる多くの人々に感謝しなければと改めて思うのです。

 第8章では「橋の誕生日など」について書きたいと思います。

(*1) 昭和38年に綴喜西部土地改良区の、同62年には当時の建設
    省(現国土交通省)による八幡排水機場がそれぞれ完成。
(*2) 京都新聞・山城版(平成25年10月26日)の記事より。
(*3) ウィキぺディアフリー百科辞典より。
(*4) 京都府山城広域振興局企画部・山城北土木事務所/八幡市都
    市管理部道路河川課のご協力をいただきました。


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by y-rekitan | 2013-11-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第44号より-05 五榜の掲示

五榜の掲示


 山川出版社発行、検定高校教科書『日本の歴史』の第11章、近代国家の成立「明治維新」の項に、次のような記述がある。
 「政府は、一般庶民に対して五榜の掲示をかかげたが、その内容は五倫の道(君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の道徳)を説き、徒党・強訴、キリスト教を禁止するなど、旧幕府の政権を引きついだ。」
 私はこの「五榜の掲示」について、恥ずかしいことに最近まで知らなかった。高校時代の教科書に載っていなかったのか、あるいは、学習したが忘れてしまったのか定かでない。これを知ったのは、ふとしたことからだった。

 f0300125_22285428.jpg一昨年の秋、古文書を習っている仲間数人と、滋賀県湖北の長命寺を訪ねた。受付になっている社務所の軒下に大きな掲示版が掛かっている。江戸時代の高札と思われる墨書の文字は、達筆なくずし字で書かれている。みんなで読んでみたが一部読めないところがあった。受付の人に聞いたが、そんなことを尋ねられたのは初めてだと言うことで、その時は一部判読出来ないままだった。帰ってから仲間の一人が読み解いて、解読文を長明寺の受付の人に送ってあげた。

 その後、上津屋の伊佐家住宅にも同じものがあるということに、やはり仲間の一人が気づいた。そう言われると、伊佐家玄関を入ってすぐ右手に、大きな高札があったことを思い出した。いままで二、三回は見ていたが、「歴史探究」心が不足していて、その意味を調べないままで終わってしまっている。伊佐家にあるものは、大きく、厚い板にしっかりした文字で、漢字には仮名がふってあり大変読みやすい。そして今度また、城陽市歴史民俗資料館を訪ねたとき、同じものが陳列されていることに気がついた。

 「五榜の掲示」は、慶応4年3月15日に太政官によって立てられた。その前日には「五箇条の誓文」が発せられている。(かつては「五箇条の御誓文」とよばれた重要資料であるが、近年は「五箇条の誓文」と記されることが多い。「御」がつけられたのは、後日、天皇への敬意を表すために付けられたものと考えられるが、当初、宣文の木戸草案には「盟約」の文字を消して「誓」と書き直されていた。─山川教科書)
 「五箇条の誓文」は公家や大名に示されたが、「五榜の掲示」は国民を対象に各地の高札場に立てられたらしい。伊佐家に残るものが、どこに立てられたかは記録に無いが、現在御旅所の建物があるあたりではないかと伊佐氏は推測する。

 掲示の内容は、
   第一札:五倫道徳遵守、
   第二札:徒党・強訴・逃散禁止、
   第三札:切支丹・邪宗門厳禁、
   第四札:万国公法履行、
   第五札:郷村脱走禁止
であるが、このうち伊佐家には第一札、第二札、第三札が残っている。城陽市歴史民俗資料館には第三札が展示、長命寺には第一札、第二札が掲示されている。

 明治新政府が新しい国づくりに向けて出発するに際して、国民に求めたこれらの禁止条項を見た当時の国民はどう思ったのだろうか。五倫の道徳を求められ、キリスト教を禁止され、徒党を組んで強訴に及ぶなと、旧幕府の政策を引き継いだような新政策に、国民の反発はなかったのだろうか。だからという訳かどうか分からないが、この掲示は5年後の明治6年には全部撤廃されている。 (会員 M)
by y-rekitan | 2013-11-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第44号より-end

この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2013-11-28 01:00 | Comments(0)