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◆会報第45号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“わが心の風景”⑱◆
◆《歴探ウォーク》八幡の古寺巡礼◆
◆八幡の浄土宗寺院にみる地蔵菩薩◆
◆三昧聖と八幡の墓◆
◆シリーズ:“御文庫とエジソン碑”⑩完◆
◆シリーズ:“大谷川散策余話”⑧◆


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by y-rekitan | 2013-12-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第45号より-01 八幡宮の創建

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わが心の風景・・・(18)
石清水八幡宮の創建
所在地 八幡高坊


 f0300125_21202063.jpg貞観元年(859)、奈良大安寺の僧、行教が九州・豊前国の宇佐八幡の神託をうけ、八幡神をこの地に勧請したのが始まり。八幡宮の遷座以前は、男山山中から湧き出る清泉を神としてまつっていたと伝えられています。
 創建にあたって、時の清和天皇の命をうけ、宇佐宮に准じて本殿三宇、礼殿三宇からなる神殿六宇の造営に着手、翌貞観2年(860)4月3日に「石清水八幡宮」は完成しました。以来、朝廷の崇敬を得、伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟と崇められ、源氏もまた八幡神を氏神として仰ぎ、八幡信仰は全国に流布することになったのです。
 特に源義家は、七歳になった寛徳2年(1045)の春、石清水八幡宮で元服。以降、「八幡太郎義家」と名乗ったことは有名です。
さて、仏教が盛んであったころ、石清水八幡宮は社僧によって管理されていました。男山には多くの堂舎僧坊が甍を並べ、「男山四十八坊」と呼ばれました。本殿前の参道に並ぶ石灯篭は、往時の旺盛を偲ばせる風景となっています。(絵と文:小山嘉巳)

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by y-rekitan | 2013-12-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第45号より-02 八幡古寺巡礼1

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《歴探ウォーク》
八幡の古寺巡礼
― 第1回 浄土宗の寺を巡る ―  

2013年12月 八幡市内 にて
高田 昌史 (会員)
                                     

 石清水八幡宮は、江戸時代まで神仏習合の寺社として「石清水八幡宮寺」と呼ばれ、明治以前の八幡には山上だけでなく山下にもたくさんの寺院がありました。
 そのなかでも浄土宗は、正法寺志水氏の娘お亀が徳川家康の側室となり尾張藩祖徳川義直の生母になったことにより幕府から手厚い保護を受け多くの寺院がありました。今回は今に残る浄土宗の三寺院を巡る歴史探訪ウォーク「浄土宗の寺を巡る」を12月12日に実施しましたが、当日はこの冬最初の寒波にも拘わらず43名の参加がありました。

浄土宗の古寺巡礼コース

 今回の巡礼は浄土宗の三寺院を徒歩で巡回する歩行距離約4.5kmのコースでした。f0300125_19154238.jpg訪問する各寺院ではご住職の講話と仏像等の拝観時間を合わせて30分の予定としておりましたが、三つの寺院ともにご住職には全面的なご協力・バックアップを頂き、当日はその講話拝聴のみならずさらに由緒あるご本尊等も拝観させて頂くことができました。

 参加者には事前に下調べした情報をもとに「しおり」を用意させて頂きましたが、まずは見てのお楽しみということで本文はできるだけ簡単にし、仏像の用語解説、仏像の印相、仏教宗派や浄土宗の系図といった付属属資料をいれて、ウォーキング中でも立ち止って気軽に見ることができるA5サイズの携帯版とさせていただきました。

歴史探訪ウォーク
「浄土宗の寺院を巡る」の報告

 12月12日は京阪八幡市駅に13時集合。「しおり」の説明と歩行時の注意事項等をお話した後出発しましたが、まずは安居橋を渡り15分後に最初の訪問先の「念仏寺」に到着しました。
❶念仏寺:ねんぶつじ(八幡旦所)

 男山考古録に、「旧は観音堂と号して空也上人暫く当寺に住居する」と記されています。f0300125_19462930.jpg 本尊は阿弥陀如来座像で、本堂に安置の釈迦如来座像は八幡市指定文化財に指定されています。
 念仏寺到着後、山門横の「戊辰史跡の石碑(三宅碑)」を説明して本堂には入り、福井住職のご講話を拝聴しました。
講話の最初に、八幡には江戸時代に浄土宗の寺院が九十六寺もあったとお聞きし驚きました。その内の念仏寺を始め三十六ヵ寺が御朱印寺であったとのことです。 f0300125_19331510.jpg また、鎌倉時代末期に西園寺家八代目公衡の末男が出家して当山を再建し、朝廷から「天照山光明院念仏寺」の公称を拝受したとのことです。
戊辰戦争時に念仏寺は幕府方の桑名・大垣藩の陣地になり、官軍の砲撃で大垣藩士9名が戦死。その内4名がこの寺に葬られたが、本堂横の墓地に二十四才で亡くなった「名波常蔵」の墓が残っており、大垣には名波常蔵の墓はないとのことです。ご講話の後に本尊や釈迦如来像などを拝観させていただきました。



❷世音寺:せおんじ(八幡神原)
                  
  念仏寺から徒歩約25分で世音寺に到着です。
この寺は、長禄2年(1458)世音大徳が阿弥陀如来を本尊として開基されました。もとは禅宗でしたが、江戸時代に浄土宗となり、浄土宗御朱印三十六ヵ寺組になっています。
 同寺の地蔵菩薩立像は鎌倉初期の作で、昭和61年に八幡市指定文化財の第1号です。f0300125_19365523.jpg世音寺は、高野街道に面した比較的小さなお寺です。先代のご住職がお亡くなりになってから無住になり、檀家の方が管理されておりその方々のお世話になりました。江戸時代までは念仏寺の末寺であった縁で、現在のご住職は念仏寺の福井住職が兼務されています。 ご本尊の前で福井住職のご講話を拝聴しました。             
 しおりでは引用の資料から朱印地高は7石あまりと記載していましたが、福井住職からは13石であり念仏寺よりかなり多いとの説明がありました。本堂脇の地蔵堂の八幡市指定文化財の地蔵菩薩立像は「ぞうり」を履いているとのご説明でしたが、残念ながら足下は隠れて見えませんでした。なお、世音寺は戊辰戦争の時には被害がなかったとも伺いました。
続いて訪れた本日最後の巡礼先の安心院までは、徒歩約10分でした。

❸安心院:あんじんいん(八幡清水井)

  正法寺の塔頭(たっちゅう)で、山門は正法寺参道の左側の東高野街道筋にあります。早速、本堂で本庄住職の講話を拝聴させていただきました。f0300125_10112595.jpg 安心院は慶長5年(1600)に建立され、本庄住職は十八代目のご住職で、同じ正法寺末寺の宝寿庵、地蔵院、華光院等が合併または無住になったことにより、これらの寺院の本尊等が本堂に安置されています。それらは平成18年に関西大学が調査をしており、講話を拝聴する前にその時の調査資料「安心院美術工芸品調査報告」が配付されました。それには彫刻7点、絵画4点(講話時に1点追加された)の調査結果が纏められており、それぞれについてのご説明をお伺いしました。その後に多くの仏像や掛け軸を拝観させて頂きました。
 以上の三か所で今回の古寺巡礼ウォークは一旦解散としましたが、後は自由参加で安心院のご住職の講話で説明があった中ノ山墓地を見学するグループや八幡市駅までご一緒して駅周辺の史跡にもご案内するグループに別れてのお開きとなりました。

おわりに

 新企画の「八幡の古寺巡礼」の(第1回:浄土宗の寺院を巡る)は、多く参加者があり皆様からはご好評をいただきました。
 これは巡礼先のご住職の御尽力の賜(たまもの)で、厚く御礼申し上げます。また、ほぼ当初計画したタイムスケジュールで進行することが出来たことは参加の皆様のご協力のお陰です。
 なお、来年度には第2回「古寺巡礼」の歴史探訪ウォークを実施する予定です。


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by y-rekitan | 2013-12-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第45号より-03 地蔵菩薩

八幡の浄土宗寺院にみる地蔵菩薩

石瀬 謙三 (会員) 


 浄土宗寺院には一般に、阿弥陀三尊、宗祖法然、高祖善導大師の尊像が置かれていることは知っていましたが、今回巡った八幡の浄土宗寺院では、それぞれに個性的な「お地蔵さん」も祀られ拝観できました。そこで地蔵菩薩について少し述べてみます。
 私は八幡の観光ガイドをしていて、そのなかで知ったことですが、同じ浄土宗の正法寺(八幡清水井)には千体地蔵を祀る立派な地蔵堂があります。地蔵は浄土宗プロパーの仏と得心しました。西方浄土に住される阿弥陀さまと、あらゆる苦界に出入りして地獄に落ちた衆生をも救おうというお地蔵さまの「コラボ」で、全ての衆生を浄土へ導こうとする「鬼に金棒?」の関係を想像しました。
 地蔵は、石仏も含めると造立数はダントツの身近な仏ですが、僧侶と同じ姿(比丘形)で六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)に出現し、六道抜苦の来世利益を施す仏として、また他の菩薩がいずれは仏陀になるのに対し、永久に菩薩のままで无(無)仏の時代の衆生を救済する仏として信仰されてきました。
 現代にも、地蔵堂あるいは路傍に地蔵を祀り、香花を捧げて現世利益を願う風習があり、関西では地蔵盆(地蔵祭りと盂蘭盆会の習合)として8月24日に京都等、街の辻々で子供を中心に行われています。地域社会の崩壊が進むいま残して欲しい習俗のひとつです。
 八幡での地蔵信仰は、どのように変遷したのでしょうか。江戸時代のご朱印組寺院は浄土宗36寺、律宗、禅宗それぞれ5寺あり、朱印安堵されました。朱印寺以外の寺にも八幡地下寺分として55寺、まとめて300石弱の朱印が発行されていたようです。しかし、地蔵信仰は宗祖がおらず、三宝(仏・法・僧)も整わない俗信?として、他宗と比較すると厳しい立場に立つ寺院も多かったようです。江戸時代初期と中期・末期にかけて、寺の無住化や宗旨変更がみられ、地蔵を本尊とする寺院の経営の難しさが感じられます。
 ところで、山上・山下に寺がひしめく宗教都市八幡の中心「石清水八幡宮寺」の主祭神が僧形八幡(比丘形)として表現されることは周知のことです。
 廃仏毀釈で山上から降ろされたという善法律寺の本尊は八幡大菩薩で僧形です。
いつ頃から八幡神が僧形になったのか、八幡信仰と地蔵信仰はどう位置づけられるのか、松花堂昭乗による「僧形八幡神像」や、僧形による元寇の祈祷図「篝火御影」等あるそうですが、これから勉強しようと思います。この辺りにも八幡の地蔵信仰の特異性があるように思えます。
 石清水八幡宮に至る裏参道の地蔵堂が崩れ、法然院を再興した忍澂(1645~1711)によって地蔵頭部が修補され山下の南三昧堂に移された丈六の地蔵尊は、流転の果て、東大阪市の延命寺に大阪府の指定文化財として伝わっています。もしかすると、男山は山上・山下に無住と競望を繰り返し、神仏習合を発展させてきたのかもしれません。そう思うと歴史のダイナミズムと、他にも地蔵にまつわる伝承がありそうな気がしてきます。
 前置きが長くなりましたが、今回歴史探訪ウォーク(*注)で拝観したそれぞれの地蔵尊を振り返ってみます。
    (*注) 本会では去る12/12、“八幡の古寺巡礼”の第1回として浄土宗の
         寺を巡る歴史探訪 ウォークを実施し、念仏寺、世音寺、安心院を
         訪問しました。 (編集担当者記)


念仏寺

 「勝軍地蔵」は清水寺の秘仏が有名です。本来、馬上の「お地蔵さん」だそうですが、念仏寺のお地蔵様は馬には「お跨がり」になっていなかったように私には見えました。江戸幕府が江戸に勧請し、江戸市中に弘まったそうです。武士には武神として、町人には防火の神として信仰されたようです。ともかく幕末、鳥羽伏見の戦いで佐幕派の潜む寺となったという念仏寺の、その墓地に眠る大垣藩士、銃刀兼用隊で24才という若さで亡くなった名波常蔵の霊を慰めているようで、しばらく幕末の感傷に浸りました。古来多くの戦場の舞台となった八幡を護る地蔵尊として、また防火の神として大切にされてきたのでしょう。

世音寺(せおんじ)

  
 八幡市指定文化財「地蔵菩薩立像」の立派さは、本尊の阿弥陀尊像を「食っている」ように感じました。ただ、胸の「よだれかけ」は母性愛を現していると言うことですが、「しおり」の写真のように正装?した胸飾を見せて頂いたほうがありがたいです。靴を履いている珍しいお地蔵さんだそうですが、足元が地蔵堂の建付の横板に隠れて見えないこと、また「裳裾」を飾る截金模様も隠れて残念でした。しかし、流れる衣紋に藤原様の端正な作風を充分に感じました。鎌倉初期の地蔵尊として八幡市の指定ではもったいなく、「広報やわた」にあるように重文級への昇格を期待したいところです。ところで、世音寺の開基が室町中期(1458年)とすれば、鎌倉初期(1200年初頭)の作風との時差をどう理解すればいいのか。たとえば、近くの無住となった寺から後年退転し、地蔵堂を作って納めたなどと勝手な歴史ロマンを想像しました。

安心院(あんじんいん)

 地蔵菩薩半跏像(厨子入)は近くの無住になった地蔵院から預かられたそうです。小さな掌善・掌悪童子が脇侍していました。暗くて厨子内部が、よく見えなかったのですが、ご住職様に蝋燭を付けていただいて、金箔が輝くありがたい地蔵三尊を拝観させていただきました。二童子は本来、不動明王の脇侍(こんがら、せいたか童子)ですが、何故か地蔵の脇に立つときは子供達に諭しやすくするためか、善悪を掌る脇侍となったようです。八幡では杉山谷の不動尊の脇侍が八幡市指定文化財になっていますが、もとは忍澂が開いた南三昧堂の地蔵尊の脇侍だったものです。
 そして、掛け軸の十三仏図のお地蔵さん(閻魔大王の本地仏)です。お軸の中心に座して、冥界に君臨する十王の代表が地蔵菩薩です。「十王信仰」は、輪廻転生の命、死ぬと冥府において生前の行為により十王の裁きを受けなければならないという勧善懲悪説を根底に中国で始まりました。日本では平安時代から地蔵信仰と結びついて六道を輪廻するうちに賽の河原、三途の川の苦しみ、六地蔵への渡し銭等の俗信が生まれました。冥界を支配する十王の代表が閻魔王で、その本地仏が地蔵菩薩です。亡者への十王による十回の裁きが初七日から始まり参周年にいたる十回の法要となります。
 閻魔王は、重要な五回目の裁きをし、地蔵菩薩がその弁護役です。地獄に赴いて衆生を救済する。そうした信仰が室町時代以降、十三仏に一般化し、十三の忌日になりました。絵図に表現されたり仏像の光背に彫刻されたりして衆生を諭したそうです。なお、十三仏画の最上部は、三十三回忌の虚空蔵菩薩です。
 以下、初七日より三三回忌に至る忌日に祭る十王と十三仏の対応表を下に示してみます。

         (忌日)     (冥府の王)     (十三仏)    
         初七日      秦広王       不動明王
         二七日      初江王       釈迦如来
         三七日      宋帝王       文殊菩薩
         四七日      五官王       普賢菩薩
         五七日      閻魔王      ◎地蔵菩薩
         六七日      変成王       弥勒菩薩
         七七日      太山王       薬師如来  
           (四十九日=満中陰・忌明け)
         百か日      平等王       観音菩薩
         一周年      都市王       勢至菩薩
         三周年      五道転輪王    阿弥陀如来
         七回忌      蓮上王       阿閦如来
         十三回忌     抜苦王       大日如来
         三三回忌     慈恩王       虚空蔵菩薩

  *「吉見誠一郎氏(京都産業大学日本文化研究所)の「地蔵信仰
    概説」より、適宜、引用しました。
by y-rekitan | 2013-12-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第45号より-05 三昧聖

三昧聖と八幡の墓地
―「五カ町墓替一件」を巡って―
大田 友紀子 (会員)


葬送(そうそう)法師から三昧聖(さんまいひじり)へ

 あはれむかしいかなる野べの草葉より かかる秋風ふきはじめけん

 この和歌は『風雅集』にあり、後鳥羽院が奈良坂の中腹にあった般若寺の西南に広がる般若野に臨んで詠まれた、と思われます。般若寺は、西大寺末寺の真言律宗の寺院で山号は「法性山」。現在の般若寺は、本堂を背に石仏が並んで立ち、秋ともなればその周りには無数のコスモスが咲き、風に吹かれる様に無縁仏を弔う光景が有名で、「コスモス寺」ともいわれています。
 『保元物語』では、保元元年(1156)の乱で敗死した藤原頼長(よりなが)の遺骸を興福寺の僧侶が「般若野ノ五三昧ト云フ所ヘ渡奉テ、土葬ニシ奉テ、泣々帰ヌ」とあり、父忠実に一目会いたいとの思いで落ち延びてきた頼長は、父の拒絶に会い輿の中で亡くなります。その処置をめぐり、葬送に係ること自体を禁じられていた興福寺の僧たちは般若野に運ぶことしかできませんでした。乱の謀反人となっていた故に、葬儀すらさせてもらえなかった頼長は、供養料と共に奈良坂の葬送法師の手に委ねられたのでしょう。
 平安中期に、葬送に従事する下級僧侶が「葬送法師」と呼ばれていたことは、右大将藤原実資(さねすけ)の日記『小右記(しょうゆうき)』長元4年(1031)9月26日条に、「祇園四至葬送法師」とあることでも判ります。その他に「陣僧(じんそう)」と呼ばれた中世の従軍僧は、臨終の念仏を勧め、戦死者の供養にあたったそうです。南北朝期まで陣僧には、諸国を遊行(ゆぎょう)し念仏による往生を説いた時宗の僧がもっぱら担当しましたが、応仁の乱以降は、戦国大名が、宗派の別無く下級僧に課すようになっていきます。
 そして、奈良坂般若野の例のように遺骸の火葬・埋葬に従事した人々は、いつ頃からか「三昧聖(さんまいひじり)」と呼称されるようになり、俗に「煙亡(おんぼう)」とも呼ばれたりしていました。本来は、「何ものかに心を集中することによって、心が安定した状態に入ること」を意味する仏教用語であった「三昧」の語が、「僧として死者の冥福を祈らせる意から、墓所・葬場の意に転じた」(中村元『仏教語大辞典』)事例が文献に見出せるのは、鎌倉後期になってからです。

八幡の三昧聖をめぐる抗争 ―「五カ町墓替一件」ー

 正法寺のある志水の町に生まれ育った私は、小学生の頃のほとんどを曽祖母と共に過ごしました。曽祖母から「お山」は石清水八幡宮、「お寺」は正法寺、「律寺」と言えば、善法律寺と言うふうに教えられました。f0300125_1243999.jpg
 いろいろな話をしてくれた曽祖母を送ったのも、中ノ山墓地の龕前堂(がんぜんどう)でした。中心にある長方形の施設で、往古より葬儀を行っていた所です。確か最後は亡父の葬送で、覚えているのは大きな墓穴と、傍に立っていた8人ばかりの男の人達、「正平塚」を覆い込んでいた雑木の大木が強風により左右に揺れる影が不気味でした。ゴォーという風の音もはっきりと覚えています。
 田中淳一郎氏の「南山城の三昧聖」(細川涼一編著『三昧聖の研究』所収)では、近世の南山城(相楽・綴喜・久世三郡)と八幡地域の三昧聖の存在形態を明らかにされております。他の南山城地域では、一村落ごとに墓所を持つ例がほとんどで、三昧聖も村方によって各村ごとに一軒から数軒と散在して抱えられているということ、そして、その存在形態が、石清水八幡宮の神領地である八幡ではかなり異なっていたことを、正法寺文書を紹介しながら解明されています。
 江戸時代の八幡では七、八カ所の墓地に三昧聖がいて、それぞれの「持内」の町を葬送の檀家としていました。現在の中ノ山墓地がある頂上付近の領域は、通称上臈墓(じょうろうぼ)と呼ばれていて、正法寺境内に居住する志水角垣内(すみかいと)三昧聖(「角之町(すみのまち)」とも呼ばれていた)が管理しており、志水町・神原町などが檀家でした。
 田中氏は、正法寺の文書から、三昧聖同士の争いに巻き込まれ、いつしか石清水八幡宮寺と正法寺の抗争事件に発展した事件の顛末を論じています。「五カ町墓替一件」と称するものです。以下に、私見も交え紹介します。
 安永八年(1779)に、次のような事件が起こった。
 八幡のうちの今田町、山本町、菖蒲池町、城之内町、平谷町の五カ町は、「薗(その)の幡河(ばんが)」(番賀墓地)が墓所であったが、墓に行く途中にある石橋が破損した。そこで、墓支配の「薗之町」で修理し、費用の分担を、墓を使用している各町に求めた。
 ところが、上記の五カ町は、分担金を払わず、志水町にある上臈墓(中ノ山墓地)へ埋葬に変更した。
 薗の三昧聖としては、葬送に預かる持ち分が減れば彼らの死活の問題になるため、志水の三昧聖に五カ町の葬送を行わないよう働きかけたがらちがあかず、彼らを支配する正法寺に墓替を差し止めるよう願い出た。
 正法寺は、先例にないとして正法寺境内に居住する志水角垣内の三昧聖に五カ町の葬送に関与しないよう命じた。だが、彼らは正法寺の命に服するとの誓約書を提出するも守らなかった。そこで、正法寺は彼らの立ち退きを命じた。それに対しても志水の三昧聖は従わなかった。
 そこで、薗の三昧聖は先ず石清水八幡宮寺に陳情した。だが、石清水からの答えは、「墓替之義ハ本人望ニまかせ勝手次第ニ候間、施主人差支無之様取葬候様」というものであった。五カ町の言い分を是認したことに等しい。これでは薗の三昧聖が得心できない。
 そもそも、八幡は家数約千軒のところに七、八カ所の墓所があり、各方面に置かれていた。それは、八幡が神領であるので、皇武の祈祷のために神人が男山に登るときに、死穢に行き逢わないためであった。つまり、神社からみて町はずれにある所に墓所を定め、神社に向かう神人と墓所に向かう葬列とが出会うことのないようにしたのである。その論理からすれば八幡宮寺の言い分は矛盾している様にも見える。
 事件の流れは、正法寺が志水の三昧聖の立ち退きを命じたことから、これ以降は彼らの進退を決定する権限を有するのは正法寺なのか、それとも石清水八幡宮寺なのかという争いに発展する。
 争論は、京都町奉行所に持ち込まれた。天明七年(1787)正法寺は、正法寺境内の三昧聖に立ち退きを命じても聞かないので領主の立場がないことを主張し、領主としての権限行使を願い出たのである。
 「墓替一件」による三昧聖の立ち退きについて、正法寺には権限がないという判決に落ち着いた。結局は、墓所は施主人の望みに任せるべしという、石清水八幡宮寺と志水の三昧聖および墓替を企てた五カ町の人々の主張が通ったことになる。
 たとえ尾張藩の菩提寺であり、五百石高の朱印状を持つ正法寺であっても、京都町奉行所=江戸幕府の裁定に異を唱えることが出来なかったようで、寛政二年(1790)には、志水の三昧聖に出していた退去命令を取り下げている。江戸時代は、石清水八幡宮寺の威光が燦然と輝いた時代であったということである。

さいごに

 現在の中ノ山墓地は、龕前堂(がんぜんどう)自体が残存していて、全国でも珍しい墓地となっています。龕前堂は、木津川市の木津郷総墓では火屋と呼ばれ、その他の所では喪屋とも呼ばれています。呼び名の相違はありますが、いずれも葬儀が行なわれていた場所です。
 私にとって、現在の中ノ山墓地の二十五菩薩などが居並ぶ光景は、奈良坂の般若寺の本堂前の石仏と同じように、往古の人々と向き合い死を悼む場所であり、亡き人を偲ぶ場所として、いろいろなことを考えさせられる所です。
 石清水宮八幡宮寺の神領地であった八幡の地は、まだまだ解明されていないことがたくさん埋もれ隠れている、奥深い歴史の闇の中にある町ともいえます。
                   (平成25年12月3日)
 
by y-rekitan | 2013-12-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第45号より-06 エジソン碑⑩

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・⑩
御文庫とエジソン碑⑩

 石清水八幡宮 禰宜  西 中道 


 進駐軍将校からの勧奨を受け、荒廃していたエジソン碑も見違えるように整備され、戦後の復興も少しずつ緒に就き始めていた、そんな矢先の昭和22年2月12日、社務所が失火により炎上、国宝6点を含む貴重な社宝の多くが失われてしまった。この年はまた、皇太子殿下(現在の天皇陛下)の御参拝や、田中俊清前宮司の逝去など、まさに悲喜交々、多事多端の年であったが、同年12月、前宮司の長男で梅宮神社宮司であった当時42歳の田中文清氏(現宮司の父)が、権宮司として赴任してきた。翌23年5月、京阪神急行の担当者と数日前に打ち合わせを行った田中権宮司が、5月12日、自ら斎主となり、新世界新聞社主催によるエヂソン生誕百年祭を展望台の記念碑前で挙行した。因みに京阪神急行とは、昭和18年に京阪電鉄と阪神急行(阪急)が合併した後の社名(昭和24年再び分離)、新世界新聞社とは、大阪生野のコリアタウンに本拠を置く新聞社で、戦後急成長を遂げ、当時は相当羽振りが良かったらしい。しかし、それから程なくして経営が悪化、姿を消してしまった。田中権宮司も社務所再建のため奔走していた時期であり、その資金集めの呼び水として期待を掛けたのが、言わば「エジソン効果」であったが、大阪での募財活動が暗礁に乗り上げた頃、それに入れ替わるようにして浮上してきたのが、エジソン彰徳会設立の動きと、エジソン記念碑の八幡宮境内移設計画であった。この計画の実行委員長には松田長三郎氏が就任、米国のトーマス・アルバ・エジソン財団にも働きかけた結果、社務所再建費用として多額の資金が同財団から提供されたという。そのお蔭で、社務所は昭和27年に再建され、また同30年12月には京阪電鉄により復活した男山鋼索線(ケーブル)が営業を開始。翌31年11月には、各電力会社はじめ松下幸之助氏らの協力も得て、エジソン彰徳会が発足、翌年副島宮司の後を継いだ田中文清宮司が、33年1月にエジソン碑移設地の地鎮祭を斎行し、同年4月24日に現在地への移転整備工事を完了したのである。
 数奇な運命をたどった御文庫とエジソン碑の物語は、この後もまだまだ続くが、まずはこの辺りで一応の締め括りとさせて頂きたい。今回、取材にご協力頂いた皆様、また長らくお付き合い下さった本誌関係者および読者各位に深く感謝申し上げます。  
(おわり) 
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------------------◆◆◆---------------------
本連載は今回で終了ですが、本記事の連載中に鳩茶屋 山上亨氏より貴重な「旧エヂソン記念碑」の写真をご提供頂きましたので、ここに掲載させて頂きます。(編集担当)
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この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2013-12-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第45号より-07 大谷川散策⑧

シリーズ「大谷川散策余話」・・・⑧
第8章 橋の誕生日のことなど

 野間口 秀国 (会員) 


 この章が掲載される会報を皆様のお手許にお届けできるのは、年の瀬か年明けになるかも知れません。私は小さい頃、祖母に「お正月を迎えると一つ年をとる」と言われて育った世代の人間です。師走に入ったこの時期、この章が新しい年への架け橋になってくれたら、そう思って書き進めております。

 古い橋に出会うと「この橋はいつ頃架けられたのかな・・・」と思う時がありますが、京都府内の橋には、河川名、竣工年月、漢字橋名、ひらがな橋名を表示した橋歴板を取りつけることが義務付けられています。橋1本に合計4枚でその多くは金属製ですが、これによって橋の架けられた年月、即ち年齢が分かります。とは言え、それは大谷川に架かる全ての橋に取り付けられて無いことも散歩しながら分ってきました。上記の4項目は橋の親柱(橋の左右両欄干の手前・奥の4か所の柱)に記載されており、規則には「竣工年月」とありますので日付は記載されておりません。本章表題の「橋の誕生日・・・・」は、正しくは「誕生月」とご理解願います。
 橋の竣工年月には西暦と和暦いずれの表示も有りますが、大谷川に架かる橋は和暦年表示が多いことも分かりました。西暦年表示は第二京阪道路に並走する国道1号線が大谷川を渡る箇所の橋に見られ、「2003年2月」のように5本の橋全てがアラビア数字で表示されています。これらは全て平成15年建造の橋で、後に述べるような「竣工」、「架設」等の表示はありません。このように西暦年表示が高速道路に関係する橋だけに適用される規則なのか、時代の要請に依るのかは分かりませんが皆様は西暦、和暦のどちらに親しみをお持ちでしょうか。f0300125_15173427.jpg  
 一方、和暦年表示は大谷川に架かる45本(第2章参照)の橋の20本で確認できました。和歴表示も、昭和48年9月(栄橋)、平成7年5月(八幡橋)などのアラビア数字使用と、昭和四十二年三月(弥生橋)、平成六年三月(山路橋)などの漢数字使用が混在します。また竣工年月の表現にも年月に続いて「竣工」、「完成」、「架設」そして「完工」の4種類あることも「とてもおもしろいな」と思いましたが、いづれの表示もなされてない橋もあり建造された会社や設計者の個性の表れとも解釈できるようです。
 西暦、和暦いづれであれ橋歴板からは橋がいつ建造されたかが分かります。最も新しく架設された橋は、既に撤去された(旧)内戸美橋の下流側に隣接して架けられた(新)内戸美橋(*1)で、最も古い橋は橋歴板で確認できる範囲では、昭和7年3月に架けられた小金井橋です。昭和40年代に架設された橋も多く、還暦近い橋が増えているようです。年代別本数(西暦は和暦に置き換えて)では昭和40年代が7本、50年代が1本、60~64年には2本、平成に入ってからは合計15本でした。このように昭和40年代に多くて50年60年代に減少し、平成で再び増えた事も分かります。
 無論これら年月は現存する橋の誕生年月であり、いくつかにはそれぞれ先代の橋があったと考えられます。古くからの橋の一つと思われる安居橋の架設年月は親柱の表示からは分かりませんが、現在の橋の前には各時代毎の安居橋があったのは紛れもない事実ではないかと思います。放生会が初めて行われてから1150年目(2013年)の夏、近年ではおよそ20年ごとに行われる改修(*2)を終えて装い新たになりました。安居橋は八幡を代表する橋としてこれからも引き続き大役を果たしてくれることでしょう。f0300125_15263153.jpg
 他にも橋歴板を注意深く観察すると、縦書き・横書き、取り付け方向(前向き・内向き・上向き)などにも違いが見られ、材料にも、石、コンクリート、金属等の、加工方法にも彫刻や鋳造、などなど変化に富んでいます。金属には鉄や銅などがあり、石にも質の違いが見られます。これらの価値の違いを知ってかどうか、橋歴板が、おそらく意図的に取り外されたのだろうと思われる橋が見られた事には心が痛む思いでした。このように橋歴板一つを見ても、統一されておらず、言い方を変えると変化に富んでおり、そこに時代や歴史の一端を垣間見ることが出来ます。必要以上の規則が無いことで橋に個性が生まれ、結果、橋を眺め、橋を渡る私達に新しい橋の個性を表現する要素は欄干を飾るレリーフ(浮き彫り)や親柱のデザインにも現れています。これを語るには田園区に架かる昭乗橋を第一に挙げたいと思います。名の通り、欄干部には松花堂昭乗の肖像や松花堂弁当をかたどったと思われるレリーフが飾られています。加えて、親柱には松花堂の庵や破風瓦(福・禄・壽の三文字)も描かれていますし石の質にも高級感が感じられます。楽しみを与えてくれるものと思います。
 橋の個性を表現する要素は欄干を飾るレリーフ(浮き彫り)や親柱のデザインにも現れています。これを語るには田園区に架かる昭乗橋を第一に挙げたいと思います。名の通り、欄干部には松花堂昭乗の肖像や松花堂弁当をかたどったと思われるレリーフが飾られています。加えて、親柱には松花堂の庵や破風瓦(福・禄・壽の三文字)も描かれていますし石の質にも高級感が感じられます。
 また、放生区の山路橋には菖蒲の花(アヤメかも・・・)のレリーフが飾られております。大きさが縦1.2m程、横1.0m程の鋳造品のそれは左右の欄干にそれぞれ2枚、内向きに取り付けられており、近くにある八幡菖蒲池の地名にちなんで飾られていると思われ設計者の心配りが感じられます。小雨降る日などに山路橋を渡る時、「雨もまた楽し」の気分になれるのではないでしょうか。f0300125_15333360.jpg
 大谷川の流れが男山の麓でその名を放生川に変えると、ほどなく安居橋が架かっています。この橋は左右の欄干にそれぞれ6個の擬宝珠を冠し、中央部がやや高く造られて反り橋の雰囲気を醸し、下流部中央には踊り場(小舞台)が設けられており、大谷川を跨ぐ多くの橋の中でも最も美的要素を備えていると言っても過言ではないと思います。
 安居橋の下流側隣りに平成四年二月に架けられた全昌寺橋には、左右の欄干中央部に半円形のテラス部分が設けられています。そこにはそれぞれに4個の灯りを抱いた2本の街路灯がありとてもおしゃれな感じを生み出しています。十分な予算のせいか、設計者のセンスのせいか、いづれにしても上流側隣の安居橋が「和」なら、この全昌寺橋は「洋」の雰囲気の橋と言えるでしょう。さらに少し下流側、京阪電車の八幡市駅東側の踏切近傍に架かる鹿野橋は親柱が大きく頑丈な石造りの灯籠風常夜灯であり、これも独特のデザインと言えると思います。f0300125_1542464.jpg
 他にも挙げればきりがありませんが、それぞれの橋はその本来の機能美に加え、芸術的な美の要素が加わることで渡って楽しい見て楽しい橋となっているようです。月々の会報表紙を飾っていただいております小山嘉巳氏の画集、『京都八幡百景・第1集』には柔らかいタッチとさわやかな色使いで描かれた多くの橋が納められております。大谷川の散策の途中でしばし足を休め、一杯のお茶を飲みながら画集を開く時、八幡の自然や歴史や人々の営みさえも感じられて散策の楽しさも倍になる気分です。

 最後になりましたが、この章を書くにあたり、橋歴板(そのように呼ぶことも含めて)や橋に関する私の素朴な疑問に対して、京都府山城広域振興局、及び八幡市都市管理部道路河川課の皆様に親切に教えていただきました。内容の一部を記すと共に、紙面を借りて感謝申し上げます。
 == 以下、抜粋 == 
 1) 専門的には橋歴板と呼ばれ、橋をつくる技術基準で取り付ける
   ことが義務づけられており、(中略)将来の維持管理に必要な事
   項を記載すること。
 2) 京都府の橋梁は、河川名、竣工年月、漢字橋名、ひらがな橋名
   を記載することとしていますが、親柱やプレートに合わせた書式
   (縦横含め)の規定は無い。
 == 抜粋終わり ==

 この章では川や架かる橋の歴史的な事象には殆ど触れることが出来ておりませんこと、なにとぞご容赦願います。しかし、橋に語りかけると、橋は自らの生い立ちを語り、その個性ある顔を見せてくれるような気がするのです。 次号では「放生区・不思議な川の流れ」について書きます。

 (*1) '13.12.08現在工事中で、新しい橋名の表示はございません。 
 (*2) 京阪電車 K PRESS '13年12月号 若一光司氏の「京阪沿線の
     名橋を渡る」より。
 


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by y-rekitan | 2013-12-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第45号より-end

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by y-rekitan | 2013-12-28 01:00 | Comments(0)