<   2014年 01月 ( 6 )   > この月の画像一覧

◆会報第46号より-top

f0300125_1693270.jpg
この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“わが心の風景”⑲◆
◆《講演会》 歌人吉井勇の歌行脚◆
◆シリーズ:“大谷川散策余話”⑨◆
◆新年を迎え、5年目の節目を大切に◆


<< ひとつ新しい号へ   < TOPに戻る >   ひとつ古い号へ >>

ご意見は各記事下端のcomments欄をクリックしてお寄せください。

by y-rekitan | 2014-01-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第46号より-01 石清水社

f0300125_1123281.jpg
わが心の風景・・・(19)
清水湧き出る石清水社
所在地 八幡高坊


 f0300125_21111887.jpg石清水八幡宮が貞観2年(860)に遷座する以前から、私たちの祖先が男山から湧き出る清泉を神として祀ったのが起こりと伝えられ、社名もそれにちなんで付されたものです。
社前には石造りの鳥居があり、これには寛永の三筆と称せられた松花堂昭乗の筆で、寛永12年(1635)京都所司代であった板倉重宗が寄進した旨がしるされています。
 泉は鳥居の奥にあり、岩間から今なお清水が湧き出ていて、厳冬にも凍らず、また大旱でも涸れず、「八幡五水」のなかで特に尊ばれ、往古より神前に供されてきました。2月1日と3日に奉納される石清水八幡宮本殿前での「湯立神事」に供される水も、この石清水井から汲み上げられています。
 その石清水井の右側には社殿があり、草色の格子塀と背後を崖に囲まれた社殿の朱塗りが映え、厳かなたたずまいを見せています。石清水社の祭神は、『古事記』の冒頭に登場する天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)といい、社は八社ある石清水八幡宮摂社のひとつです。(絵と文:小山嘉巳)

<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2014-01-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第46号より-02 吉井勇

f0300125_273775.jpg
《1月例会 講演と交流の集い》
歌人吉井勇の歌行脚
― 2014年1月  松花堂美術館講習室にて ―

後援 やわた市民文化事業団
 洛南艸舎吉井勇京都記念資料展示室 主宰 古川 章


 1月12日(日)、松花堂美術館講習室を 会場に2014年最初の例会が開かれました。 いつものように概要をお知らせしますが、今回は、講師である古川氏ご提供の 資料をもとに編集担当者の責任でまとめました。なお、古川さんに、「言い 残した」ことを書いて頂けませんかとお願いしたところ、快く文章をお寄せいただきました。それを最後に掲載させていただきます。参加者は56名でした。

吉井勇の生涯

 明治19年(1886)に東京、 芝高輪の伯爵家に生れる。 青年期に交友の深まる石川啄木や谷崎潤一郎は同期。東京府立第一中学校時代に初めて短歌をつくり、それが最高位を得た。

    出雲なる簸(ひ)の河上はそのむかし
            八頭(やまた)の大蛇(おろち)住みけるところ
がそれである。

 やがて20才のときに、与謝野鉄幹の新詩社に入り、雑誌「明星」に短歌を発表していく。その後、勇は北原白秋、木下杢太郎らと「パ ンの会」を設立して新たな活動を開始した。f0300125_752286.jpg
 明治42年(1909)に歌壇史に残る第一 歌集『酒ほがひ』を上梓。これが、以後の勇の評価を不動のものにした。
 大正10年、36歳のときに、22歳の柳原徳子と結婚。翌年には長男滋が誕生した。そして、関東大震災が起こる 。このころから伯爵家の名家も家運が傾く。勇に光から影の兆す年代である。加えて徳子夫人との不和もあり、傷心の勇は四国を始め越後、信州、京都など多くは旅にあって作歌を続ける。短冊や色紙を求められるままに書き、糊口をしのいたのではなかろうか。やがて、昭和10年(1935)、徳子夫人と離婚、爵位も返上することになる。


 若き日の歌に、

       紅灯の巷にゆきてかへらざる
              人をまことのわれと思ふや (歌集『昨日まで』より)

という自省の歌がある。世 間が勇を酒と女に入り浸りの生活だと揶揄することへの反発 と憤りが込められていると思う。

 やがて勇にも、再び「光」の時代が訪れる。昭和12年(1937)、52 歳で国松孝子という才女を迎え入れ たのである。東京の浅草から突如、土佐の猪野々に吉井勇を訪ねたという 。俗にいう押しかけ女房であった。 孝子は、終生勇に仕え、周辺の人たちには賢夫人として誉れ高い。
 新婚の土佐から京都へ、さらに戦争中は富山県八尾町に疎開しそこで終戦を迎えた。再び京都に帰って来たかったが、食糧難などの都合で市内には入れず、やむなく八幡町の東南の地にある宝青庵を仮住まいとした。始めは逡巡した仮住まいも、思いのほか気に入り 、落ち着いて、堰を切ったように文章活動は進み、著作は次々刊行された 。戦後すぐの出版界では、歌人の中で吉井勇だけが別格だった。
 勇の八幡生活は約三年間続き、その時代の歌には、歌集『残夢』(昭和23年12月刊)がある。夫婦の一日の生活ぶりを克明に読み込んだ515首である。
 京都へ帰った勇は、宮中歌会始の選者を13年間務め昭和23年には日本芸術院会員となった。
 私(古川章)が初めて吉 井勇という歌人に接したのは、昭和30年11 月8日、祇園の「かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる 」の歌碑の除幕式当日である。 詰め襟姿の高校生は私一人。その翌年であったか、私は西村大成さんに連れられて銀閣寺近くの勇の自宅を訪問した。帰りに先生は、君にふさわしくない歌だが、と言って、「ゆるやかにだらしの帯のうごく時はれがましやと君のいふとき」の短冊をくださった。
 昭和35年11月19日肺がんにて永眠。75 歳であった。同30日、京都建仁寺で告別式 。私は西村大成さんと二人で小雨の中、 葬祭の列に連なった。

八幡時代の勇

 八幡時代の勇は、後年、日経新聞連載「私の履歴書」(昭和32年4月)に次のように書いている。「洛南八幡の町はずれ、字月夜田というところは、視界がきわめて広く、ずっと山城の平野が遠く宇治の向こうの鷲峰山あたりまで見渡せるところであった。月夜だという地名が残っているとおり、月光の美しい晩などは、まるでそこら一面大海になった感じがした」という。こんな牧歌的な八幡市の郊外は昭和30年代の初めまで続いていた。
  およそ三年間の八幡暮らしであったが、勇はセキを切ったように文筆活動を開始した。それが歌集『短歌風土記』大和の巻、山城の巻となり、『残夢』、『形影抄』、『形影抄以後』に収まっている 驚くのは、主としてこの四冊の歌集に収まっている、泥龍和尚(でいりゅうおしょう)を詠んだ歌の数である。 泥龍は「どじょう」のことらしい。泥龍和尚とその周辺を詠んだのは76首を越える。昭和 36 年に私が就職した田辺町役場の町長室に「一円融合」と書いた額が掲げられていた。泥龍和尚の揮毫であると後で知ったのだが、雅号泥龍は井沢寛州と云う。明治28 年の神戸生れ。長じて西宮の海清生寺に入り修行を積むとともに書画や茶・華道、陶芸にもすぐれ、 水泳、剣道も得意であったから文武両道の僧であったのだろう。後年、八幡の円福寺に入っ て昭和29年に60歳で遷化された。
 私は、歌人吉井勇とこれほどまで肝胆相照らす仲というのは、三つの共通点があったからだと思う。まず酒好きであること、そして泥龍の豪快さは勇の九州男児の血が好んだこと、多種多様な芸術を身につけていたこと、さらには、勇晩年の禅への傾斜である。

泥龍を詠んだ歌を紹介する。

      酒好きの泥龍和尚明日あたり
              来るベき寒さをおもひこもれる

       我が友の泥龍和尚世を去りぬ
              その枕辺の遺偈もおもはむ
  
      八幡より友はきたりぬかの寺の
              泥龍死後のことを語りに

巨匠勢ぞろいの写真のこと

 松花堂庭園を入るとすぐに吉井勇の歌碑が目に入る。そして、脇に建つ説明板に、四巨匠とその夫人たちの姿がセピア色に映っている。
 昭和61 年(1986)10 月4日の読売新聞夕刊にその写真が掲載された。
  「松花堂に顔をそろえた(右から)志賀直哉、(一人おいて)谷崎潤一郎、谷崎夫人、梅原龍三郎、西村大成、吉井勇、吉井夫人」 当時の新聞の記事をもとに、記念撮影に収まるまでの経緯を簡単に紹介したい。この写真は、八幡月夜田の西村静子さん方に秘蔵されていた。
 谷崎、志賀、梅原、吉井の4人が、昭和23年3月頃に、雑誌の座談会に出席するために西村邸(現在の松花堂)を訪れたときに撮影されたものである。
  西村家は、先代の芳次郎さんが京都で生糸商を営み、明治維新の神仏分離で石清水八幡宮境内にあった松花堂昭乗の茶室、書院などが取り払われた際、これを譲り受けて現在地に移築、別邸とした。跡を継いだのが静子さんの亡夫、大成さん(昭和46 年5月死去)で、貿易商などをしながら文学、美術などに理解を示し、西村家には多くの文人、画家が出入りして松花堂は、“文化サロン”のようになっていた。f0300125_7124734.jpg

 当時京都に住んでいた谷崎、静岡住まいの梅原両氏ともしばしば出入りしており、東京から京都に来ていた志賀氏と座談会を催すことになり、同席した記念に写真に収まったものである。雑誌の名は『座右宝』。洛南艸舎文庫が所蔵している。座談会は、座右宝刊行会の編集・ 発行人が志賀直哉の京都入りに合わせて企画されたものである。                    以上、文責=土井三郎

 
------------------------------------------------------------

“平明さは愛誦を誘う”
―言い残したこと ―

 「短歌」という表現形式で自分の心中を吐露することは手段として短くて都合がよい。私も一歌人としてそんな時もある。深読みして見破る人もあれば、簡単に受け入れられることもある。私は、歌人吉井勇が早々と初期歌集群の中に「紅灯の巷に行きてかへらざる人をまことのわれと思ふや」の一首を入れたことで、なるほど吉井勇は我々と違って偉い人だなあと思ったり、 本当にそうだろうかと自分自身をかえりみて疑ったりしていた、私の若い時期もある。しかし、その思いも全歌集を一通り読了し、さらに、勇のマルチ文人ともいうべき十指を越える文芸ジャンルの林をさまようと紅灯の歌がやっぱり本物だったと納得する。日々酒と女の中にあけくれた青春の日々で、放蕩無頼であっても心底、酒にも女にも溺れなかったし、終生、文芸の鬼であったと思える。
 処女歌集「酒ほがひ」は、当時、きっと石原の「太陽の季節」のように、寺山修司の歌集「空には本」のように迎え入れられたのではなかったか。詩人堀口大学が終生、勇に興 奮したように、晶子、春夫、潤一郎、弴、順らも勇に一目置いた。
 その平明さ故に愛誦を誘う。歌は流麗であり、格調があり、格調は矜持につながる。それはまた天性の 韻(ひびき)であろう。少年の日に
  「出雲なる簸の河上はそのむかし八頭の大蛇住みけるところ」と詠じたDNAは、また祖父につながる隔世のもつ誉である。少年の日の処女作が約三万首をやがて回帰して、今に還っている。その大らかな調べは空に舞い、 山を仰ぎ、海に波うつ。海山の歌の多さはそれを物語る。
 里にあっては酒に酔い、女人との戯れの中にさえ相聞の世界を描く。友、竹久夢二を得て、その情感は大正の浪漫と抒情をたたえ、当時の子女の心をとらえたのであった。勇ほど歌人の中にあって人生の浮沈を味わい、光と翳に身をまかせた者はいない。
 そして、老いてよき伴侶を得て、惜しまれてその行路の幕を閉じた。思えば波乱に富んだ74年の男の一生だった。 ( 古川章)


<<< レポート一覧へ        次の《講演会》レポートは⇒⇒

by y-rekitan | 2014-01-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第46号より-03 大谷川余話⑨

シリーズ「大谷川散策余話」・・・⑨
第9章 放生区・不思議な川の流れ

 野間口 秀国 (会員) 


 八幡八景の二つ、「放生川蛍」と「安居橋月」を有する第4区はあれこれ迷った結果、ここは放生区と呼ぶのがふさわしいと思いそう決めました。書くべき題材の多い区ですが、本章では「流れの不思議」について、次章では「橋の名の不思議」について書きます。本章第1の「流れの不思議」は「一の橋」から八幡排水機場を経て木津川への流れ、第2は「山路橋」から「一の橋」方向への逆流、第3は放生川の区間についてです。

 田園区の最北端部分、流れは薬薗寺近傍に架かる「一の橋」をくぐり広い川幅のまま北へ向かいます。同時に川の一部は一の橋の手前で左に90度向きを変えて西の男山に向かいます。ここでは先ず森垣内の薬薗寺前に架かる一の橋北側の八幡排水機場のことを書く必要があると思います。
 一の橋の袂から北の方向に目を向けると大きな建物が視界を遮るように建っていますが、これが国土交通省管轄の八幡排水機場です。また注意深く見るとこの建物の右側(東側)にも小規模の排水機場があることに気づかれると思います。国土交通省のそれよりは小さいですが、これは綴喜西部土地改良区の八幡排水機場の施設です。二つの排水機場にはそれぞれの歴史があり今日でも独立して管理運営されておりますが、ひとたび木津川の水位が高くなり排水が必要な時にはそれぞれの威力を発揮して私達を守ってくれているのです。
 綴喜西部土地改良区の施設の竣工は昭和8年6月で、毎秒7立方メートルの排水能力を有し、運転詰所の建物近くに建つ赤茶色の完成之碑から当時の様子を偲ぶことが出来ます。一方の国土交通省の施設は昭和58年から62年にかけて建造されております(排水機場の全施設はH4年6月に完成)。こちらの施設は毎秒56立方メートルの排水能力を有し、通常時には排水可能な水路トンネル(樋門)の機能を有しております(*1)。
f0300125_20513861.jpg さて、ここでしばし大谷川を離れ洪水による災害防止に威力を発揮している岡山市の「百間川(ひゃっけんがわ)」についてふれてみたいと思います。百間川 (*2) は同市南部にあり旭川放水路とも呼ばれる人工河川です。岡山市内を流れる旭川の氾濫から街を守るために、江戸時代初期に岡山藩主池田光政の命により津田永忠の指揮にて築造されました。寛文9年(1669)に着工し貞享3年(1686)に完成した百間川は、旭川分流部(現・岡山市中区今在家)より河口までの総延長が12.9kmにも及びます。川の名前の由来は三つあった荒手(あらて)のうち第二の荒手 (*3)の幅が百間(約180m)あったことによると言われております。
 ひとたび旭川に氾濫の危機が迫ると、水は百間川に放水され川に設けられた荒手と呼ばれる越流堤によってその勢いを弱めながら河口へと導かれ岡山の街を洪水から防ぎます。かつて、通常時には平坦な水田地帯として耕作が行われましたが、放水されると作物が流失して収穫が得られない可能性がある為、当時、藩では区域内の水田には他区域より低い年貢を課していたようです。現在では各種公園や運動広場として広く市民に活用されています。
f0300125_20594488.jpg 再び大谷川の排水機場に戻りましょう。木津川の水位が低い時(通常時)には前述のように大谷川の水は水路トンネルを通って木津川に注がれています。樋門から木津川本流へ合流する部分には数多くのコンクリートブロックが縦に横にと置かれており、まるで魚礁のような役目も果たしているかのようです。
 ところで、大谷川のこの区間(一の橋から木津川本流への流路)は果たして大谷川の一部なのでしょうか。これが第1の不思議で、暫くはどう理解すれば良いのか迷いました。「この区間は岡山市の百間川のような放水路の機能を有しているのですか」と関係部局にお聞きしましたところ、「一の橋から八幡樋門までは八幡放水路である」とのお答を頂き(*4)第1の疑問は解消しました。お答えのように、この区間は大谷川本流では無いのです。
  晴れた午後のひと時、1羽の鳥(おそらく雄の川鵜でしょうか)が2羽(おそらく雌鳥)の隣で懸命にダンスを披露し続けていました。
f0300125_21452717.jpg大谷川に多く棲む鯉などを捕食する川鵜はこの時期(2013年11月時点)が恋の季節なのでしょうか。およそ7~8分続いたダンスも隣で見ていた雌(?)が1羽また1羽と飛び去り、諦めたように雄(?)もダンスを止めて同じ方向へ飛び立ちました。
 さて、2つ目の不思議、それは逆流する大谷川です。大谷川本流は一の橋の手前約20~30mの箇所で向きを北から西へと変えます。川幅が半分程になり西に向かうこの地から、弥生橋、立刈橋と過ぎて山路橋までの間で不思議な流れを見せてくれます。何がどのように不思議なのかは注意深く観察しないと気づかない変化です。おそらく皆様も当然のように、川は上流から下流に流れるもの、と思われるでしょうが、この区間では逆で、川は下流から上流へと流れている様子が観察できます。
 それでは、この逆流はどのような仕組みでそうなっているのでしょうか。それはこの区間の水の流れを注意深く観察すると答えを見出すことができます。先ず、山路橋近傍東側で南から大谷川に注ぐ小さな川を見てみましょう。その流れは直接本流に合流せずに、合流直前で一度堰き止められ、堰に繋がる水路で流れる量と方向が調整されているのです。目視ですが、約6割ほどの水量が東の一の橋方向へ、残りが西の山路橋方向(本来の下流方向)へと流れる構造のようです。
 この疑問にも第1の疑問同様に親切なお答を頂けました。曰く、「一の橋から山路橋の区間は通常の本川ですが、増水時以外は当該区間は逆流しています」と (*4) 。即ち、増水してない時にはこの合流地点の水位が前述の八幡放水路付近の水位より高くなっている(であろう)ために、大谷川に合流する水の全量を本来の下流方向(西向き)に流すと一の橋までの区間は完全に涸れ川となります。反対に、全量を一の橋方向(東向き)に流すと放生川以遠の下流側が涸れ川になります。流れを調整しているのはこのように涸れ川になることを防ぐ為であると考えられます。
 川の逆流現象は満ち潮時に河口付近で見ることが出来ますし、中国の浙江省を流れ杭州あたりで東シナ海に注ぐ銭塘江(せんとうこう) (*5) では特別な日(条件下で)に大規模な逆流現象が起きることをTV番組で見たことがあります。しかし、この大谷川のように川の一部区間に人為的な逆流が作られていることはとても珍しいことと思われます。
f0300125_21111791.jpg2つ目の疑問も解消しましたが、3つ目の不思議は地図に表れない川、放生川はどこか、です。散策時に使用した市販の『八幡市・久御山町地図』、八幡市立図書館にある明治以降に発行の複数の地図、八幡まるごと観光イラストマップなど、いずれにも放生川の名前は見い出せません。
 『男山考古録』に、「こは放生川の古名ともいふへし・・」とあります。古くは「子持川」と呼ばれていた放生川は、前述の逆流を生みだす堰の地(八幡源氏垣外)で大谷川に注ぐ涙川があったことによってそのように呼ばれたことが『京都府の地名』(平凡社刊)の放生川の項にも書かれております。同項には「大谷川の部分名称。・・・平谷の買屋橋から名を放生川と変えて・・」ともあります。
 また『八幡市誌・第二巻』には、放生川は「大谷川が男山の麓を流れる部分をいう」と書かれています。会報第45号の「第8章 橋の誕生日のことなど」にて書きましたように、現存する橋の橋歴板で改めて確認しても、放生川を跨ぐ橋は安居橋と全昌寺橋の2本のみです。ともあれ、地図に載って無くても、場所を正確に決めなくても、「安居橋近くのこのあたりが放生川」とのルールで、不思議のままで良いのではないでしょうか。「八幡音頭」に以下のような一節があること(*6)もその証左と思われます。
    ♪ 八幡名所の放生川に かかる安居橋誰がわたる 
                      可愛いお方がいまわたる ♪
 気になる事の多い放生区ですが、次章では橋の名前の不思議に目を向けて見たいと思います。

 (*1) 建設省(現国土交通省)近畿地方建設局淀川工事事務所
    1992.11刊『わたしたちの八幡排水機場』より。
 (*2) 岡山市中区の中島竹田橋右岸近傍の公園に設置された
    複数の説明板等の記載内容及びウィキぺディア、フリー百
    科事典より。
 (*3) 洪水調節の目的で堤防の一部を低くした河川内堤防。
     岡山市中区中島    の中島竹田橋下流側直下に第二
     の荒手が現在も確認できます。
 (*4) 京都府山城広域振興局企画部・山城北土木事務所/八幡
     市都市管理部道路河川課のご協力をいただきました。
     紙面をお借りして感謝致します。
 (*5) ウィキぺディア フリー百科事典より。
 (*6) 歴探例会(2014年1月12日) 古川章氏の「歌人吉井勇の
     歌行脚」講演資料より。


<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2014-01-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第46号より-04 5年目の節目

新年を迎え、5年目の節目を大切に

八幡の歴史を探究する会 代表  是枝 昌一


 新しい年を迎え、新しい気持ちを大切に、楽しく学習を通し輪を作り、良いスタートを切りたいと思います。皆様、今年もよろしくお願いいたします。
 今年の干支は甲午(きのえうま)。甲は「木の陽」、発展する、伸びるの意、午は「火の陽」,活発な行動力,跳ぶ,駆ける馬のごとく、夢に向かい伸びる年とされます。f0300125_216119.jpg
 正月早々、友人に誘われて奈良橿原考古学研究所付属博物館で開催されている「十二支の考古学」の見学に参加しました。今年の干支「馬」に関わって、古代史からの人と動物、自然との関わりについての学習は参考になりました。年のスタートの特別展示として、毎年年頭に開催されております。
 常設展では、大和の石器時代から、縄文、弥生、律令国家の誕生、飛鳥、奈良時代と平安京以前の発掘展示があり、歴史文化の時の流れが素晴らしい。毎年新しい発見が続いており、市民ボランティアの対話型のガイドも素晴らしく印象に残りました。今後の我々の活動にも参考になり、今後の見学会のコースの候補に加えたいと思います。
 正月は1年の節目、会の活動も皆様のご提案、励ましを受けつつ、5年目の節目の正月を迎えました。過ぎ去りし思考錯誤の4年間を振り返り、今後の展開を共に考える時を迎えております。本年4月には4年生修了の総会を迎えます。今後の具体的な進め方は、会員の皆様からのご意見を頂き、幹事会にて方向を論議したいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
 いよいよ大事な5年生への進学です。共に楽しく、好奇心豊かな夢一杯の学びの場にしたいと思います。

 昨年までの活動状況(目的、事業の面から)

 4年前、志水公民館に16名の有志の方々が集まり「八幡の歴史を探究する会」はスタートしました。最初はまず交流の場を作ること、対話の中から形を醸成するスタイルで歩み、幹事会が中心となり進め方の共有化を討議。一歩ずつ積み重ね、なんとか階段を登ることが出来ました。これも関係者の方々、会員の励ましのお声、ご提案の賜物です。
 会員数も昨年100名を超すまで増加し、今後の活動の方向並びに事業の在り方について、共に考える節目を迎えております。1年生の総会では会の形を会則としてまとめ、承認を頂き活動の指針といたしました。目的、事業の条項について振り返ってみたいと思います。

第2条目的
「八幡の歴史を探究し、事業を通じて会員相互の交流を深めると共に、
地域文化の進展と次世代への継承に貢献する」

 八幡の歴史を題材に、交流についての評価は難しいが、まずまずの成果があったのではと思います。知識の共有化、知恵への展開まではこれからの課題として残したい。
 ホームホームページの充実も評価したい。次世代への継承についてはまだまだこれからです。地域史の大事さを噛みしめ、その具体化への夢を描きたい。幸い、八幡の歴史カルタの製作は、会員からの提案、投票の過程を踏み、行政面では文化財の専門家、市民共働課の後押しもあり、京都府の助成金も頂き、三位一体(専門家・行政・市民)のつながりの中から、八幡歴史の情報資産を生むことが出来ました。関連部門の御指導に感謝の気持ちをささげ、今後の普及活動、市民への情報提供に専念したいと思います。
 続けて「親子で学ぶ八幡の歴史」(仮称)の冊子の製作を模索中です。又市民への情報開示として、八幡文化協会の後援を得て、文化祭に出展することが出来ました。見学者との八幡の歴史を中心にした熱心な対話が印象的でした。生涯学習センターとの共催という形で、当センター学芸員の指導の下、『男山考古録』の読書会が進行中です。
 これらの機会を通して、市民との知識の共有を図り、継承につなげたいと思います。

 第3条事業
1 講演会の開催 2 現地見学会の開催 3 会員の研究発表  4 会報(ニュースレター)を発行し、会員の情報交換、投稿の場とする。会報の発行は月刊を原則とする。

 事業の3本柱として毎月イベントを開催し、相互の知識向上、情報の共有化に成果があったのではないでしょうか。講演会は専門家の教示を、ある時は対話の時間をとり、一方通行にならないよう配慮しました。現地見学では、コースを設定し連続シリーズの形を整えつつあります(文化財コース、神社仏閣コース、村落を巡るコース等)。初めての試みとしてバスによる研修会も実施し、近郊の資料館を見学、相互の交流を深める事が出来ました。
 会員の研究発表については、前段で述べた通り、八幡の歴史カルタの作成が会員全体の作品として誕生したことを評価したい。個別発表としては、古文書や松花堂昭乗関連、高度経済成長時代の八幡等を開催し、昨年は京都府総合資料館主催の「南山城地域史シンポジュウム」が、城陽の文化パルクにて開催され、カルタの紹介の機会にも恵まれました。 また、会報は、毎月25日前後に月刊として発行。平成25年の年末には45号を発行し、継続を守っており、将来の素晴らしい情報資産としての蓄積が楽しみです。幅広い題材の投稿を頂き、会員の方々の交流の広場としての内容に心がけております。今年5月には記念すべき50号の発行となり、節目にふさわしい内容の特集号にしたいと思っております。
 以上反省すべき点も多々ありましたが、大筋の線では着実に成果を上げる事が出来たと評価しております。

今後の進め方 不易流行

 5年目の節目を迎え、「不易流行」(松尾芭蕉の俳諧理念)の言葉にあやかりたい。この言葉は、変わらず継続する本質と、新しい変化は相反する様で表裏一体であるという解釈ですが、基本は継続して、その中に時代の変化に合わせ、新しきことを加える事だそうです。流行とは何か、共に考えたいと思います。
 「不易」については4年間の積み重ねを大事に、第2条の「目的」を常に念頭に、3本柱の「実施事業」を更に深く掘り下げ、交流により輪を広げ、継承につなげたい。
 「流行」については新しい風を共に検討したい。風の反対は「よどみマンネリ」です。例としてマクロな提案を2点、可能性を共に追求してみたい。
① 最近、歴史文化に関連する市民グループの活動が盛んになってきております。八幡市内、更に南山城地域の同好のグループとの接点を深め、提携イベントの開催、共同研究を実施、幅広き交流による相互のレベルアップを深めたい。
② 情報化社会に対応して、4年間の蓄積情報を体系的に積み上げ、更新を加えデータベースに構築、会員への検索システムによる情報提供を可能にする。
 いずれもハードルの高い夢であり、充分な論議と時間のかかるテーマですが新しい風としてじっくり取り組んでみたい。

 本年4月には第4回目の総会を迎えます。新しい年度の実施計画は事務局が中心となり幹事会にて検討中で、総会にてご提案いたします。
 今年も元気に、やくやくとした、楽しい雰囲気で、遊びも加えた交流の輪を広め、共に学習を進められる事を念願いたします。


<<< 本会の概要コーナーに戻る        次の《沿革》記事は⇒⇒

by y-rekitan | 2014-01-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第46号より-end

この号の記事は終りです。

<<< TOPに戻る      ひとつ古い次の号へ >>>

by y-rekitan | 2014-01-28 01:00 | Comments(0)