<   2014年 02月 ( 7 )   > この月の画像一覧

◆会報第47号より-top

f0300125_1921285.jpg
この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“わが心の風景”⑳◆
◆《講演会》 松花堂昭乗の茶の湯◆
◆遊女 江口の君◆
◆シリーズ:“大谷川散策余話”⑩◆
◆シリーズ:“墓石をたどる”④◆


<< ひとつ新しい号へ   < TOPに戻る >   ひとつ古い号へ >>

ご意見は各記事下端のcomments欄をクリックしてお寄せください。

by y-rekitan | 2014-02-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第47号より-01 泰勝寺

f0300125_1123281.jpg
わが心の風景・・・(20)
昭乗の墓所 泰勝寺
所在地 八幡城之内


 f0300125_20391183.jpg『八幡町誌』によると、明治維新時の神仏分離令によって廃寺となった男山中腹の滝本坊を、山下の平谷にあった瀧本里坊の地に復興改称した寺と紹介しています。
 瀧本坊は、寛永14年まで松花堂昭乗がいた坊で、昭乗はその2年後の9月18日に没し、同月21日に瀧本里坊の位牌堂傍に葬られました。大正2年に至って昭乗の墓石が民家から見つかったといいますから、墓所は相当荒廃していたことが伺えます。
 この昭乗の墓石発見の報を聞いた松方正義公爵によって遺蹟碑が建てられ、これが話題となり、大正3年に昭乗の遺風を顕彰する「松花堂会」が結成されました。同5年、昭乗翁の墓所及び菩提寺として起工。5年の歳月をかけ大正9年4月、落慶法要が営まれました。
 寺は、臨済宗、円福寺末寺の「滝本坊」と称し、寺号の「泰勝寺」は熊本の細川家菩提寺・泰勝寺の名をもらったといわれています。
 墓は、五輪卒塔婆の形をし、昭乗を中央に、右に師の實乗、左に弟子乗圓の墓の三基が石の台の上にあります。(絵と文:小山嘉巳)


<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2014-02-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第47号より-02 松花堂茶会記

f0300125_273775.jpg
《講 演 会》
松花堂昭乗の茶の湯
― 『松花堂茶会記』記載の茶道具を中心に ―

2014年2月  松花堂美術館講習室にて
松花堂庭園・美術館  杉 志努布



 2月19日(水)、歴探の会、2月例会が開かれました。厳しい寒さにも関わらず、59名の皆様が集まりました。ことに、八幡市内で茶の湯に親しんでおられる方々が多数お出で下さいました。紙上を借りてお礼申しあげます。
 例によって、レジュメをもとに講演の概要を紹介します。

1、はじめに

 松花堂昭乗(1584~1639)は、若くして男山に入り、瀧本坊実乗について真言密教を学んだ。1627年に瀧本坊の住職になり、10年後には泉坊に移り草庵「松花堂」を建てて隠棲。約2年後、56歳で没した。書・画・茶の湯など諸芸に優れ、寛永文化を代表する人物として知られる。
 昭乗の茶の湯に関して注目されてきた点は、以下の通りである。
昭乗の茶会の参会者には、石清水八幡宮関係者、僧侶、公家、武家、町人らが混在していたこと。
瀧本坊茶室「閑雲軒」、草庵「松花堂」。
 後に「八幡名物」と呼ばれた茶道具を所持したこと。
 その「八幡名物」であるが、以下のような変遷を辿る。
安永2年(1773)…瀧本坊の火災により一部が焼失および流出。その後も復興のために一部を放出。
 化政期~天保期(1804~44)…瀧本坊より流出。
天明5年(1785)頃…姫路城主酒井宗雅が「八幡名物」の散財を惜しみ、その収集に着手。
天明8年(1788)…宗雅が蒐集した24点を瀧本坊に寄贈。
慶応期(1865~68)以降…「八幡名物」の評価が定まり、その名称が普及。
大正3年(1914)…昭乗の遺風を顕彰する会である「松花堂会」が政財界で活躍する茶人などにより結成される。
大正11年~昭和10年代(1922~1935)…瀧本坊の閑雲軒が復興。「八幡名物」を用いた茶会が定期的に開かれた。

2、江戸初期の茶の湯

(1)それまでの茶の湯の歴史
  • 9~10世紀;国風文化の隆盛。この頃に書かれた和歌色紙が後に茶席の掛物に採用される。
  • 11~12世紀;武士の台頭。唐物の大量輸入。栄西(1141~1215)が帰朝。宋より禅と抹茶法を伝える。
  • 13世紀;禅宗文化の盛行。喫茶が普及。禅僧の墨跡が後に茶席の掛物となる。『新古今』の編纂。
  • 14世紀;中国との交易が隆盛。唐物陶磁器の大量輸入。茶寄合、香や連歌会の流行。
  • 15世紀;唐物を用いた会所飾りと喫茶。東山文化の形成。書院造の発生。「東山御物」(足利義政のもとに蓄積された膨大な唐物美術・工芸品が名物茶道具として伝えられる。堺で大徳寺派が布教。茶の湯の隆盛。村田珠光(1423~1502)が精神性を重視する茶の湯を創り出す。堺や博多の商人の台頭により唐物以外に嶋物(南蛮物)が輸入。
  • 16世紀;武野紹鴎(1502~55)による和風化。織田信長(1534~82)による名物茶道具の収集と下賜(茶道具と茶の湯が政治と密着、武家儀礼化)。秀吉による茶の湯政策(禁中茶会・北野大茶会)。千利休(1522~91)が禅の精神を根底におく「わび茶」を提唱。名物道具とは無縁な楽茶碗や竹筒花入を創案。文禄・慶長の役により、朝鮮半島からの陶工による新たな焼き物の焼成。
  • 17世紀:朱印船貿易。南蛮・嶋物などの陶磁器類のほか香木・象牙・砂張製品・釣舟花入・盆などが輸入。当世風のやきものの出現(織部焼等)
(2)江戸初期の茶の湯
 利休の茶が解体され、近世的な茶の湯のスタイルが草創された。
  • 武家の茶として、小堀遠州(1579~1647)が大名茶を草創した。
  • 禁中・公家の茶として、様々な茶風が混在した。後水尾院(1584~1680)と金森宗和(1584~1656)の存在が大きい。
  • わび茶(千家の茶)が、千宗旦(1578~1658)によって再建され進化した。

3、『松花堂茶会記』

(1)「茶会記」とは何か
 「茶会記」とは、茶の湯の会について、日付、場所、亭主(席主)名、客名、使用した茶道具、その際出された料理などを一定の順序に従って書き留めた記録である。16世紀の初め頃に、茶の湯が確立される中で記録されるようになった。茶会記の筆者には茶匠、町人、武家、公家、僧侶がいるが、僧侶の例は少ない。
 茶会記の形態として冊子・巻子・掛軸があるが、冊子の形が多い。現存する自筆本は少なく、原本を転写した筆者本、複数の転写を経たものが多い。
(2)『松花堂茶会記』の概要
 松花堂昭乗による自筆自会記として計30の会の記録が残されている。現在、裏千家今日庵文庫本と松花堂美術館本の2本に分かれて伝わっている。
 記載内容は以下の通り。
 日付は、寛永8年(1630)閏10月12日から同10年(1632)7月29日迄で、場所としては、瀧本坊(数寄屋、書院)と鐘楼坊である。
 客名は約110名(延べ145名)で、石清水八幡宮関係者をはじめ公家・武家・職人などである。
 使用した茶道具は約100点あり、点前道具の他書院を飾る道具類も含まれている。

4、『松花堂茶会記』記載の茶道具

(1)これまでに指摘されている主な特徴
 全般的には、ほとんどが「八幡名物」として確認できるもので、掛物や香合などは比較的古く、新墨跡は使用せず、他の点前道具などは新しい。
 書院の様子は古典趣味に基づく雰囲気が漂う。
 掛物は古筆が圧倒的に多い。書跡は、『手本』として蒐集されたものも使われている。
 茶碗は天目や高麗茶碗が主体で、和物が見られない。

(2)『松花堂茶会記』に記載される茶道具
     ―花入、点前道具を中心に

花入(7点) 
 < >内は『松花堂茶会記』記載の名称。以下同じ。
 青磁蕪無花入<かふらなし>、青磁経筒花入<経筒>、唐銅六角花入<からかね、かね>、釣舟花入<釣 舟、つりふね>、備前伊部手花入<新備前> 信楽筒木幡花入<木口かけ> 竹一重切花入 銘羅漢 <羅漢、ラカン>

香合(13点、うち1点名称なし)
 碁盤形蒔絵香合<ごばん、ゴバン、碁盤>、張成作 堆朱香合<張成>、彫漆香合<ほり物>、青貝香合 <青貝>、松に千鳥蒔絵香合<松山>、染付竹香合
 <竹>、竹キリコ蒔絵香合<竹キリコ>、六角染付香合<六角染付、六角ソメ付>、染付香合<染付>、八角 瓢箪香合<八角ヘウタン>、六角瓢箪香合<六角ヘウタン>、焼物八角香合<やき物八角>

釜(3点)
 姥口釜<うは口>、霰地馬文釜<馬あられ、馬>、南蛮頭巾釜<南蛮頭巾>

水指(8点、うち1点名称なし)
 藤四郎作 瀬戸四角水指<四角、四角せと>、伊部半月水指<新備前、備前>、古備前水指<古びぜ ん、古備前>、染付水指<ソメツケ>、立鼓形水指<リウゴ>、筒太鼓水指<つゝ太鼓>、八代水指<八代>
 他に、茶入[盆]、茶杓、茶碗、蓋置、建水、炭道具などを画像とともに紹介(略)。

5、おわりに

  『松花堂茶会記』記載の茶道具から窺える昭乗の茶の湯に対する姿勢として、次の点が指摘できる。f0300125_825651.jpg
 一つには、多種に亘る陶磁器類の使用である。また、新興の和物陶磁器のかなり早い使用例が見られる点である。但し、好み物らしいものは見られない。そして、由緒ある名物道具の使用が多いという点である。
 以上の点から、豊富な茶道具を取り込み使いこなす優れた感性が感じられ、一方で、新興のものをとりいれる柔軟性と、茶道具に対する節度ある姿勢がうかがえる。
 今後の課題として、これからも、より多くの昭乗ゆかりの伝世品の探索、実見を行い、近世の茶道具流通における男山の位置について調査を進めたい。その際、石清水八幡宮出土の資料も参照したい。
 また、社会的背景や交友関係も含めた総合的な考察を深めることが肝要である。(文責=土井)

 1時間半以上に及ぶ講演の後、10分間の休憩をはさみ会場から以下の点にわたる質問や感想が寄せられました。
  1. 「八幡名物」は、明治になっていつのころからもてはやされるようになったのか。そして、そのきっかけは何か。
  2. 「八幡名物」が瀧本坊から流出される経緯
  3. 茶会記に出て来る卜意なる僧について。そのことが幻の花とされる「八幡椿」の解明に関わっている。
  4. 松花堂美術館・庭園として「八幡名物」や名のある茶室が点在する庭園を市民内外にさらに積極的に広めていってほしい。
  5. 茶会記に見られる優れた茶道具を所持できた瀧本坊や昭乗の存在を文化史的な視点だけでなく、寛政期の公家と武家の関係など政治的な面からも検討できるのではないか。
以下、一口感想を紹介します。
一口感想

◎「男山に住んで7年になります。初めて参加させていただきました。よく学んでおられる方々の中にいておくれを感じました。恥を承知で赤子のように何でも吸収したいなあと思いました。
全ての内容が新鮮でした。感謝します。(N)

◎長年、昭乗の茶道具を研究する人を望んでいました。よかったです。見たいと思っていた茶道具をみせていただきありがとうございました。(U)

◎松花堂美術館で八幡名物の茶道具を展示する企画はどうですか。貴重な物が多くて借り代が高額になって不可能ですか。一度に全体は無理でも何回に分ければ可能ではないか。(I)

◎詳細な説明でしたが、写真をゆっくり見て説明を聞きたかった。茶道具の歴史に興味が湧きました。有難うございました。(T)

◎茶道の世界の奥深さがうかがえる講演内容 であり、「茶会記」に記されたことがらから、時代背景や交友関係まで多くのことがわかることに改めて新しい驚きを感じた。(N)

◎茶会記の道具を推定され、伝世品を示して紹介され、非常にわかりやすかったです。実際にこれらを使用して茶会ができたらよろしいですね。さらに、伝世品の探索、実見ができるよう美術館で予算をつけ、昭乗さんゆかりの道具がコレクションできれば最高ですね。(N)

◎松花堂茶会記に記載される茶道具のご説明は茶道具を中心とした美術工芸品をご研究のテーマとされているだけあって、大変詳細で、丁寧で、見応え、聴き応えがありました。ただ、後半部分は時間が切迫し、ご
説明が端折られ、茶杓・茶碗・香炉や硯についてもう少し詳しくお聴きしたかったです。昭乗ゆかりの伝世品についての第二弾のご講演を期待します。(F)


<<< レポート一覧へ        次の《講演会》レポートは⇒⇒

by y-rekitan | 2014-02-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第47号より-03 遊女江口

遊女 江口の君
―能楽『江口』と遊び女(アソビメ)の伝統―

大阪国際大学名誉教授  石野はるみ


 淀川下流にある江口の里は遊郭の地として名高い。水辺の宿にあって、水流に舟を浮かべる人は遊女である。遊女は古代よりアソビメとして宮廷祭事に関連しており、神話では巫女的な存在として登場している。この小論では、遊郭の代表として、中世の世阿弥が遊女をどのように描いているかを考えたい。日本の伝統思想から遊女はどのような存在であったかを能楽『江口』から探ろう。
 遊女のルーツは古代、神に仕える遊芸の女人である。大坂の神崎川の河口、江口の遊女が普賢菩薩の化身であるという能楽『江口』からは、遊女は聖なるものに関与していることが推測される。中世前期に女性を長者、リーダーとした小集団で比較的自由に各地をめぐっていた遊女たちは、鎌倉時代に源頼朝が初めて公娼の制度「遊女町」を制定したことで、拘束されるようになる。近世、秀吉により、京都柳町遊郭が公認され、江戸時代には公認遊郭が全国に出来た。
ここでしばらく八幡市の橋本遊郭のことにふれてみたい。『淀橋本観桜図屏風』(18世紀大阪歴史博物館所蔵)は男山を背景に、桜のもとで、酒盃を傾ける人々や橋本の船着場付近の茶店、旅籠屋が並ぶ風景であるが、前面には淀川上にせり出して家屋の床が立てられていて、そこに渡し舟が着こうとしているが、遊女らしき女二人が降りようとする客らしき人に手をさしのべている光景が描かれている。井原西鶴の『好色一代記』からもわかるが、江戸時代には橋本も江口も有名な遊里であった。
 中世後期、世阿弥(1362-1443)は人々の親しんでいる古事や、和歌、物語、貴族的教養などを能楽に盛り込んでいる。そうして人々の歴史意識やこの列島に住む民族の無意識をくみあげて、理解しやすく楽しむことができる物語を創作した。それは当時身分の上下を問わず共有できるものであった。この能楽『江口』もそのような演劇としてとらえることができるだろう。

『江口』のあらすじとテーマ

 能楽『江口』のあらすじは次のようなものである。天王寺参りに江口の里に立ち寄った僧がその地の古事である西行法師が遊女に雨しのぎの宿を求めた和歌を詠んだことを思い出した。すると、どこからか女が現れ遊女が西行法師へ返した歌について僧に尋ねた。女は自分を江口の君の幽霊だといって姿を消す。僧は土地の者から江口の君は普賢菩薩の再誕生であると聞きその奇特を見るようすすめられる。その後、江口の君は川舟に二人の遊女を従えてあらわれる。そして往時の舟遊びの有様を見るようにとすすめ、人の罪業とこの世の無常を謡い舞う。遊女は僧に世の執着を捨てるなら迷いはなくなると説いてたちまち普賢菩薩となる。舟は白象になり普賢菩薩は西の空に消え去っていく。
 この能楽のテーマは俗世界においての遊女が聖なる普賢菩薩として顕示することである。江口の遊女と普賢菩薩が物語の最終部で同一として描かれている。そのことをどうみるべきか。能楽の非日常的時間と空間において、さらに此岸、彼岸をこえた夢幻能の仕組みにより、このシテ、主人公の遊女にまつわる民族の無意識、共同体の夢、あるいは史実にもとづいた歴史的真実が浮かび出てくるようである。
 まず遊女の系譜をたどり、江口の遊女にまつわる史実や伝承を考えたい。そして『江口』の詞書にえがかれた遊女の姿、および遊女を象徴する事柄に注目し、また中世の人々の無常観と仏教的救済についても一考したい。

1 巫女の系譜に連なる遊女

 神話『古事記』のなかに登場するアマノウズメは巫女の先祖として考えられる。天照大神が岩戸に籠ったときにその「楽」(アソビ)によって誘い出した技芸の女神である。後にサルタヒコの妻となりサルタヒコの死後、猿女サルメノ君を名乗った。古代、神を祭ることを「神遊び」といい、遊びとは祭礼のことであり巫女、アソビメ(遊び女)は神の妻となって聖婚としての性の儀式を行う者である。相手の男の代表は現人神天皇である。神武天皇は野遊びで乙女と一夜交わり、雄略天皇は川遊びで乙女に会い求婚している(『古事記』)。これは農耕文化の豊穣儀礼であり、このような祭儀は習俗となった。
 アソビは天皇の葬礼儀式に働く遊部(アソビベ)の職掌でもあった。歌舞によって霊魂に働く呪的な行為である(『令義解』)。『万葉集』の遊行女婦は官人を迎え送る宴を司る者としての公的性格をもち、官女の礼服を着ている。このように古代、奈良、平安朝まで遊び女は公的な宮廷行事にかかわる身分であり、形骸化しつつあっても原則的には遊芸により神仏の仲立ちの役割を果たすものとみなされていた。以降時代を下がるにつれて遊び女の身分は下がり、遊女、白拍子などと分化してき、社会制度の外にある、歌舞遊芸伝承をもっぱらの働きとする芸能の民として比較的自由に各地に漂泊するようになった。また遊芸主体ではあるが性技もときに付随した。10世紀末ころには遊女集団が一定の場所に居住するようになり、遊女のリーダーである長者が出てくる。こうして長者を中心とした芸能を職能とする専門化集団が形成されるようになる。中世初期には家父長制度がほぼ成立していたのだが、遊女は男性主導型の家父長制度とは異なった家族形態を営み、遊女が家主となっていることも知られている(『古今問答集』『長秋記』)。11世紀後半に記された『遊女記』では江口、神崎、亀島というところが遊びに行く場所「遊女所」として発達していったとうかがわれる。

2  「推参」のならわしと江口の遊女

 11世紀の貴族の日記や記録から貴族、女院や院の御幸や霊地参詣の際に経路に遊女が「群参」、「推参」したという記録がある。彼女たちは祭儀において芸能者であり儀礼に奉仕する者としての古い伝統を引き継いでやってくる。あらかじめ貴族側からの礼、給禄が予定されていた。『栄花物語』(巻31)には上東門院の石清水、住吉、天王寺参詣(1031年)にあたって、「江口という所なりて、遊女(あそびめ)ども、傘に月を出だし、螺鈿、蒔絵、さまざまに劣らじ負けじとして参りたり」とあり、『栄花物語』(巻38)には後三条院の住吉、天王寺参詣(1 0 7 3年)では「江口の遊女(あそびめ)二船ばかりまいりあひたり」とある。
 『宇治関高野山御参詣記』では関白頼通の参詣(1048年)の際、その往路で江口、神崎の遊女が「挙首参進」したので帰途に参るべきと戒めたところ、帰途に「傘を連ね、楫を争い、各以って卒参」し給禄として遊女の首長「上首」には絹二百疋、米二百石、小袖、被物、纏頭物が賜与された。このときの相場として高野山の僧にたいする僧供料が米百石であったので、米二百石は相当多額である。このような賜物を遊女たちはほぼ平等に「上下各同数」分け合った。長者あるいは優れた者への礼として特別に貴族の着衣、被物が与えられたが、遊女集団として生活の基盤である米などの分配は平等であるので比較的格差のない関係を保ったようである。この中世中期における女性芸能民の職能集団は男性の支配化に統括されず、女系的な「家」の世襲化をしていったと考えられる(1)。中世後期(商業資本主義初期、家父長制度の確立)以降に性労働、売春を専業とするようになった女性たちとは異なっていると考えられる。

3 遊女と聖(ひじり)

 遊女がうたを歌いながら僧のもとに推参することもしばしばあったが、そのような遊女と僧侶のつながりは「結縁」である。『発心集』に、上人の乗る船が室津にきたとき室泊の遊女が舟をこぎ寄せてくるので僧の船だとだと断ると、

  闇(くらき)より闇き道にぞ入りぬべき
  遥かに照らせ山の端の月

と詠んでこぎ去ったとある。
 法然伝『伝法絵』の一節に室の泊に法然の船がくると遊女が上人の船に参り、僧へ自分たちをアッピールするために行尊が天王寺別当として行く途中、江口、神崎の君たちが船近くるのを彼が制止した際に遊女が詠んだ「神歌」を引いてうたいだしたとある。

  有漏地(うろじ)より無漏地(むろじ)へかよう釈迦だにも
  羅候羅(らごだ)が母はありとこそ聞け
(釈尊すらもかって子をなした女人との契りもあったと聞いています。あなたのような尊い聖がわれらの結縁をどうしてお避けになるのですか)

4 西行と江口の妙の問答

 世阿弥が『江口』の典拠としたひとつは『新古今和歌集』や『撰集抄』にある西行と江口の遊女妙との歌問答である。西行が天王寺へ参詣する途上で時雨にあってひととき宿を借りようとして拒まれた西行は

  世の中を厭(いと)うまでこそ難(かた)からめ
  仮の宿をも惜しむ君かな

と軽く非難する。返答として

  世を厭う人とし聞けば借りの宿(遊女の宿)に
  心留むなと思うばかりぞ

と詠み名高い高僧、遁世者として世に知られた西行を戯れのうたによって諭した。遊女の結縁がいきつくところは次の話であるが、『江口』のもうひとつの典拠となっている。
 『古事談』巻三に性空聖人の説話がある。その説話は聖の希求する願いがかなう奇跡物語である。聖は生身の普賢菩薩を拝したいと祈ると、夢に神崎の遊女の長者を見よと告げられて、神崎へ赴く。長者の家では遊宴の最中で長者は鼓をとり乱拍子の上句を弾きうたっていた。

  周防室積の 中なる御手洗に
  風はふかねども ささら浪立つ

 聴くうちにあやしと思い目を閉じ合掌すると、長者はたちまち白象にのった普賢菩薩となっており、眉間からは光を放ち俗人を照らし、そのうたは微妙な音声となり法文が説かれている。

  実相無濾の大海に 五塵六欲の
  風はふかねども 隋縁真如の波立たぬときなし

 目を開ければ元の遊女として、また目を閉じれば普賢の姿である。長者は人に告げるなと口止めして「頓滅」(死)し、異香が空に薫じた。饗宴の快楽の絶頂に上人は神秘が顕現するのを見たのである。この奇なる話がどのように『江口』にとりいれられたのだろうか。
 ところで『江口』に登場する僧と遊女の霊との出会いも一種の結縁としてである。この僧はいまだ悟ることなく迷いのなかにいるようである。登場して開口一番に次のように言う。

  月が昔の友ならば、月は昔の友ならば
  世の外いづくならまし
 (月が在俗の身であった昔の友なら、世を捨てた今、俗世を離れた世界はどこにあるのか)

 いまだ求道している様子の僧の目前で、遊女が前述の典拠、本説に従い普賢菩薩になり仏の真理が開示されることになるがそれは後述する。

5  『江口』の詞書からみる遊女
 その象徴としての川辺、舟、水、傘

 さて能楽江口では上記本説の二典拠をふまえてどのように遊女がえがかれているのだろう。遊女を象徴する事物を重層的意味合いで取り入れており、各事物を視覚に訴える、あるいは舞台を見る者の想像力にたよって浮かび上がらせている。
江口の君(自分のことを述べて言う)

  たそかれに たたずむ影はほのぼのと
  見え隠れなる川隈に、
  江口の流れの君とは見えん恥づかしや僧(地謡による)
  さては疑い荒磯の波と消えにし跡なれや

 川辺は太古かの聖婚、天皇の川遊びに重なり、また芸能者は海辺(荒磯)、川辺を流浪するものであった。後半「月澄みわたる川水に」舟遊びの情景が展開されるのであるが、その舟は屋形舟の作り物である。江口の君は僧に「江口の君の川逍遥の、月の夜舟を御覧ぜよ」と言い、かつての舟遊びの光景が僧の目前に繰り広げられる。舟は歌舞の舞台でもあるが川の流れに浮かび流れていくものである。「川舟の流れを留めて逢う瀬の波枕」「秋の水漲り落ちて去る舟の」では舟は遊女商売を示唆しまた客の往来、遊女の定めなき身も表現する。それとともに水上の流れにある舟は時のうつろいを意味する。その舟を「御覧ぜよ」と述べるのは、その時間を心行くまで楽しめ、ととれるし、またそのような一時は流れ去るものであることを心に留めよ、ともとれる。
 川辺に流れる水と戯れるよう舞う遊女と水の関係として、水は禊(みそぎ)であると考えてもよいだろう。物語の終結で菩薩の身に変わる遊女について水は禊として罪を清めるもの、またその転生を準備するものであろうとしている(2)。禊は神道、仏教、その他の宗教にもあり転生の契機である儀礼、新生する儀礼として考えられる。『日本民族語大辞典』には「命の水として、復活、蘇生、転生をもたらす」「人、神の性格や能力・肢体などをまったく変えてしまう、転生の水としての信仰がある」とある。
 物語中に扱われる事物のひとつ(能舞台演出では謡いの誘発する想像力にまかせて省略する場合もある)に「ささ」がある。前記本説の江口の君が性空上人を前にしてうたう「ささら波立つ」は波の音とともに、小竹の葉の束、ささらともなる。アマノウズメが天照大神の岩屋でもっておどったのは小竹の手草である。「河竹」の流れの女、江口が巫女の系譜であることも意味するだろう。またツレの遊女は片袖を脱いで棹をもって「月も影さす棹の歌」をうたう。もう一人のツレは傘をさしかける。傘は遊女の好むもののひとつとして『梁塵秘抄』描かれている。

  遊女(あそびめ)の好むもの
   雑芸 鼓 小端舟
   大傘翳し 艫取り女
   男の愛祈る百大夫

 西郷信綱の延喜式には、大傘は后以下、三位以上、および大臣の妻にのみ許すと規定しているので、遊女が大傘をつかえるのは体制外の存在とされていたからではないかと推測できる(3)。またここでわかるのは三位以上の上臈と遊女が同一視されていることである。かつて遊女が宮廷とかかわり官女に近い存在であったことがわかる。内教房の妓女、巫女、遊女的な女官が儀式(五節舞など)に関与したようである。また主殿寮の女官は蓋傘と扇にかかわる職種についていた。これは江口、神崎の遊女たちが傘、扇を用いていたことに関係している。
 「まつ」「松」と「待つ」についてでは「佐用姫が松浦潟・・・宇治の橋姫も訪わんともせぬ人を待つも身の上あわれなり」という詞書になっている。『万葉集』八十七にある松浦潟の引用によって佐用姫が恋人に山頂から別れを惜しむ光景に、遊女の客との別れと重ねている。また訪れようともしない人を待つ宇治の橋姫とは宇治の遊女であろう。この松はまた古代の習俗をも暗示している。また女官の他の仕事として燈燭の役職「松定使」があり、松明に関与し、松の木に火(松は聖なる木)を燃やす役である。また湯殿の火を管理していたので「オマツ」、「マツ女」であった。遊女の巫女的な一側面であるが、性的奉仕や歌舞の奉仕ではない役割も担ったということがわかる(4)。

6 遊女の実相 普賢菩薩

 女の舟上での歓待は『和漢朗詠集下』において貴族の目には次のように見える。

  翠帳紅閨、万事ノ礼法異ナリトイエドモ、
  舟ノ中浪のノ上、一生ノ歓会コレ同ジ

しかし『江口』では

  翠帳紅閨に 枕を並べし妹背も
  いつの間にかは 隔つらん
  およそ心なき草木 情ある人倫、
     いずれあはれを遁るべき、

と歓会の過ぎ去ることを諦観し、草木も人もどちらも世の無常を逃れることはできないと嘆く。そして時には人は愛執の心が深くなり妄執に染まることになるのだと謡う。その後遊女は僧の迷いを見抜くように人の心の罪、迷いについて僧に説き始める。

  げにや皆人は 六塵の境に迷い、
  六根の罪を作る事も
  見る事聞く事に 迷う心なるべし

舞台ではここより序の舞が舞われ、遊女シテと地謡の掛合いの謡いがあり最後に遊女は普賢菩薩となって西の空に帰り行く(流派によってこの演出は異なる)という場面になる。普賢菩薩への変身を予兆させる詞書によって最終部へ入っていくのであるが、そこで法華経の教えが謡われる。

  実相無濾の大海に 五塵六欲の風はふかねども
  隋縁真如の波の、立たぬ日もなし、立たぬ日もなし

ここに至り俗を離れてはいても迷いにある旅の僧に普賢菩薩の姿が顕現し菩薩の教えが開示されるのである。
 普賢菩薩は女人救済を説いている法華経の菩薩であり、仏の慈悲と理知をあらわして、衆生を救う「普く賢い者」とされている。密教では真理を究めて悟りを求めようという心の象徴とされる。観普賢経の教えは「真理を迷いや罪によって覆い隠しているものは、光を受けても光らない。だから、懺悔によって迷いや罪をぬぐいさらねば、いつまでも醜い姿でいるわけになる。そこで普賢菩薩が懺悔の心を起こさせると、今まで自分のいた暗い世界が急に明るくなったような大きな悟りをえるのである」とある(5)。また目の前の現象に惑わされている(煩悩)と、物事の実相がまるっきり見えないようになってしまうので、見える現象ではなく物事の実相、真理を会得するべく懺悔して不変のものを一心に念ずるべきという教えである。
 このような教えを説く普賢菩薩と遊女の関係をどうみなすのか。遊女はもともと普賢菩薩であり、遊女であるのは僧を導く仮の姿、実相ではないとする化現説と遊女自身が最後に悟りを開き、普賢菩薩に転生したとする転生説がある。この二説には各々理由があるが、これまで論じてきたところから普賢菩薩と遊女の関係はこの二説とは異なってくる。なぜなら遊女は巫女の系譜に連なるものであるからである。
 古代巫女の役割、神アソビは歌舞と呪術、神との交信であった。この『江口』に登場しているのは13世紀以前の遊び女、すなわち律令国家において巫女的役割をもち、貴族文化のなかでは祭儀の女官職であったような職能集団からうまれた遊女である。江口の詞書の典拠となった二つの伝承からは僧をさえ諭し導く、気位高い遊女の姿が浮かぶ。また法然上人絵伝の播磨室津において法然の屋形船に近づく遊女の姿から格式ある貴族女性の風貌を見ることができる。
 世阿弥はもともと観阿弥の作になる『江口』を改変したといわれているが、当時の彼の作品は時代(15世紀)の人や出来事を題材とするより、人々の周知している歴史上の著名人物や出来事を題材としている。世阿弥の遊女は当の時代の姿ではないことは確かである。江口の遊女は中世後期ごろには零落の道をたどり、そのころより遊女という呼称は史実より失われ、身分は下落し「辻の君」「傾城」として社会的に蔑視の視線をあびるようになっていた。
 作品の時代背景としてさらに中世の仏教文化の興隆という事実や中世の神仏習合思想を考えなければならない。本地垂迹説によって平安末期から鎌倉にかけて各神に仏、菩薩が当てはめられて、天照大神は観音の化現、大日如来の垂迹となる。世阿弥は禅修行によって深く実践的な仏教の知識を有し、『般若心経』「色即是空、空即是色」をその信条としていた(『遊楽習道風見』)。世阿弥の能楽作品は世間にヒットすることがまず第一のこととなっている。貴族や大衆一般すべて人々の注目を集め、興味をひくことが最重要事として作られていた。それゆえに彼には自分をふくむ当時の人々の宗教心を作品に反映させ、同時に民族の心に深く埋もれ忘却されようとしている歴史的記憶を心に留めて作品を創作したと思われる。
 江口の遊女は中世に出現したアマノウズメであり、このような世に光をもたらす神格は当時の神仏習合思想を背景にするなら普賢菩薩となるであろう。この遊女はこの国の人々の歴史的記憶から呼び覚まされ、はれの日、マツリの日に出現する巫女であり、誇り高い官女であり、顕現する美しい普賢菩薩である。演能空間の非日常において彼女はマツリをとりしきる者となり謡い舞う。普賢菩薩は舞台上から衆生を光で照らすのである。(完)

 《注》
(1) 楢原潤子「中世前期における遊女・傀儡子(くぐつ)の『家』と長者」
  『日本女性史論集9 性と身体』総合女性史研究会編 1998年
(2) 筒井曜子『女の能の物語』淡交社 1988年
(3) 大和岩男『遊女と天皇』白水社 2012年
(4) 同上
(5) 植野慶子「『江口』の遊女と普賢菩薩の同一性前編、後編」
  法政大学日本文学誌紀要 47 48 1993年

 《主な参考文献》
網野善彦 他  『日本民族文化体系6 漂白と定着』小学館 1984年
阿部泰郎    「遊女・傀儡子・巫女と文芸」 『岩波講座日本文学史』第4巻 1996年
小山弘志    佐藤健一郎 校注、訳  『日本古典文学全集謡曲集1』小学館 1997年
末木文美士   『日本仏教史』新潮文庫 2010年
世阿弥      『日本思想体系24 世阿弥禅竹』岩波書店 1975年
久松潜一編   『日本文学史中世』至文堂 1977年

by y-rekitan | 2014-02-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第47号より-04 大谷川余話⑩

シリーズ「大谷川散策余話」・・・⑩
第10章 放生区 不思議な橋の名前

 野間口 秀国 (会員) 


 サ・カ・イ。この3文字の読みから皆様はどのような文字を想像されるでしょうか。「読み(オン:音)が合えば文字はかまわずの時代も・・・」との考えもありましょうが、少なくとも大阪では多くの皆様が「堺」の文字を想像されるのではないでしょうか。堺市在住の知人曰くは「和泉国と河内国の国境だから本来なら境なのではと思うけどな」と。他にも「酒井」「坂井」「逆井」など複数の表記が考えられます。
 ならば「カ・イ・ヤ」にはどのような文字(意味)がふさわしいのでしょう。放生区の中ほど、大谷川の流れが西から北に向きを変える少し手前で八幡城ノ内と八幡山柴間に架かる現在の橋の橋歴板には「買屋橋」と表記されています。本「大谷川散策余話」第10章放生区・不思議な橋の名前章では橋歴板の橋名「かいやばし」について少しこだわってみたいと思います。
 本題に入る前にしばし寄り道しましょう。安居橋と全昌寺橋の下を流れる川の名をそれぞれの親柱で確認すると、漢字表記は共に放生川です。ひらがな表記は全昌寺橋では「ほうじょうがわ」と書かれています。一方、2013年夏の改修前の安居橋では「ほうしょうがわ」だったと調査時の自身のメモにあり、濁る、濁らないがあって面白いな、と初稿に書きためていました。本章をまとめるにあたり改めて確認すると「ほうじょうがわ」でした。改修前表記をメモと共に写真で残さなかったことが悔まれますが、念のためにと改修前表記の確認をお願いして、いただいた回答は「・・・ほうじょうがわ(濁る)・・・」(*1)でした。昔の書き物には濁音をつけないという習慣があり、故に「ほうしょうかわ」と書き、読みは「ほうじょうがわ」であったかも知れませんが、私にとりましては今でも幻の「ほうしょうがわ」ではあります。
f0300125_22354138.jpg
 カイヤ橋に戻りましょう。この橋名の表現・表記は、描かれ又は書かれている地図、繪圖、書籍、文書などで実に変化に富んでおり、新しい発見をするとなぜか少し楽しくなっていました。ちなみにこれまで確認できたものは、順不同ですが、1)轟橋、2)飼屋橋、3)貝屋橋、4)飼(買)屋橋、5)カイヤ橋、6)山路土橋(かいや)、7)ツチハシ(土橋)、8)買屋橋など多岐に亘っています。
 上記の各表記は具体的にどこにあるのか?と、一つずつ見てみたいと思います。
 1)、2)、3)の3つの表記は小山嘉巳氏の画集『京都八幡百景・第1集』の「作品012 買屋橋」の添書きに、…古くは「轟橋」「飼屋橋」「貝屋橋」という字が使われたこともあった…と記されてありました。しかしながら、私自身、轟橋と貝屋橋の出典には今のところ出会えずにおりますが、近くの小谷食堂の主人、小谷昌徳氏の3)貝屋橋に関する「昔はこのカイヤ橋のあたりは魚が多く棲んでいた。魚が取れると貝も取れたのではないか?だから貝を売る店も、貝屋橋も有ってもおかしく無いのでは」と話され、当時の川や橋の様子を良くご存じの方のお話には「なるほどな」と思いました。
 4)飼(買)屋橋。この表記は冊子『石清水八幡宮山上山下のまち、八幡』にある地図に見られます。この表記を見ると、まさにどちらが正しいのか、正しく無いのか、どちらも有り得るのでは…等々、侃々諤々の議論の結果を反映した両論併記の対応と思われて仕方ありませんでした。
 5)カイヤ橋。この表記は皆様も一度はご覧になられたと思いますが、八幡市図書館の入り口正面、1階のエレベーターホールに掲示されている古図『八幡山上山下絵図』(江戸時代・18世紀中頃)にあります。「カイヤ橋」と記されていることより、冒頭の「読み(オン:音)が合えば…」との考え方で、特にカイヤに意味を有していなかったのではなかろうかとも想像されます。
 6)山路土橋(かいや)。八幡市立生涯学習センターにて開催されている「男山考古録を読む会」(2013.11.20開催)の八十島豊成氏提供の資料「八幡末社御朱印高之覚」(天明7/1787年9月)に「山路土橋(かいや)」と見えます。この資料の書かれた年代に注目すると、上記の「5)カイヤ橋。」と極めて近いことが分かりますので、八幡城ノ内と八幡山柴間にあった土橋が「カイヤ橋」と呼ばれていたであろうことはほぼ間違いないのではと思われます。なお、資料には土橋の漢字表記に「かいや」と振り仮名が付与されています。
 7)ツチハシ(土橋)。上記の「6)山路土橋(かいや)。」の資料の年代から80年を経てもなお「ツチハシ」と呼ばれていたことの証ではないでしょうか。この表記は『八幡市誌・第3巻』P36にも「慶応4/1868年正月の砲撃による…。放生川に架かる安居橋・土橋とも焼落ちてしまった。」との記載が見られます。
 8)買屋橋。この表記は八幡市教育委員会刊の『男山で学ぶ人と森の歴史』P29の地図に見られます。地図は昭和20~3 0年頃(1950年前後)の街並みを描いているかと思われます。f0300125_10038100.jpgまた、その後の『京都府の地名』1981.3平凡社刊のP155、放生川の項やP175、山路町の項に「買屋橋」とあります。なお、平成8/1996年5 月に架設された現在の橋が「買屋橋」であることは前述のとおりですが、私にはいまだに「買屋」とはどのような意味かが分からずじまいなのです。最後になりましたが、2)飼屋橋。そもそも「飼屋」とは何、と、とても気になっていましたが、以下のように各年代に見出すことができました。
 <1700年代初期> 「かいや」は芭焦が尾花沢で紅花問屋を訪れた際に読んだ句に見える飼屋である。「這出よかひやが下のひきの声」。元禄時代に活躍した俳人松尾芭蕉による紀行文集『奥の細道』・元禄15 / 1702年刊に収められたこの句について、ちくま新書刊『「奥の細道」をよむ』で著者の長谷川櫂氏は「かいや」は飼屋、蚕室のこと。蚕室の床下で鳴いている蟇(ひきがえる)よ、ちょっと出ておいで。そう解説されています。 
 <1800年代中頃> 石清水八幡宮の宮工司長濱直次の子として生まれ、父の後を継いで宮大工となった藤原尚次(ふじわらひさつぐ 寛政9/1797年~明治11/1878年)の著した『男山考古録・巻第十一』嘉永元年/ 1 848年刊、P 393には「飼屋橋」の記載が見えます。
 <1800年代末頃> 京都府立大学の竹中友里代氏の講演資料(2013.9.29付)「南山城における養蚕・製糸業ー城陽長池と八幡の関係から- によると明治23/1891年4月20日、石清水八幡宮一の鳥居内に府立第一区高等養蚕伝習所が開所されています。竹中氏は資料で橋の表示内容などに触れておられる訳では無いですが、当時の養蚕伝習所の存在の史実と芭蕉の句からも、カイヤ橋がはっきりとした意味を持つ「飼屋橋」であっただろうと推察できそうですが、養蚕業にからめて「カイヤ」という橋の名に「飼屋」を充てるのは少し無理でしょうか。
 こうして改めて振り返ってみますと「カ・イ・ヤ」にはどのような文字が当てはまるのでしょうか。また現在の買屋橋はどのような理由でそう表記されるようになったのでしょうか。私にとっては不思議な橋の名前のままなのです。
 さてカイヤはこのくらいにして次に進めたいと思います。2013年秋のある日、府外ナンバーのバスから降りてこられた人から聞こえた橋の名前が「ヤスイ橋」。どこにそんな名前の橋が、と思いきや目の前には「安居橋」が。これでは歴史のある八幡の安居橋も形無しだなあ、と思っていたら、すかさずお連れのご婦人が「アンゴ橋よ」と…。この言葉に救われた思いでした。
 ともあれ『男山考古録・巻第十一』には「安居橋」「五位橋」「六位橋(或曰泉橋、和泉橋)」「添橋」「高橋(或曰反橋、輪橋)」「石橋」など数々の橋の名前が登場します。「石橋」は現在の「全昌寺橋」と思われますが、現存する安居橋が「安居橋」「五位橋」「六位橋」のいづれなのかは私には分からずじまいです。高橋(反橋)は現在の安居橋より15 0mほど川下に(* 2 )に架けられていたようです。f0300125_9381428.jpg
 放生川右岸の一部で、石積みが部分的に異なることも地元にお住まいのご婦人に教えていただきました。実際に歩測して岸辺で確認すると「ここがそうかな?」と思える箇所にも出会うことができました。
 橋はその本来の機能にとどまらず、地域の文化的・歴史的資産であり、観光資源としての役割を持つことも見逃せません。安居橋は車こそ通れませんが基本的な役割以上の役目を果たしている橋と言えるでしょう。安居橋については、八幡市図書館蔵の『八幡散策資料』の安居橋の項にも更なる説明がなされていますし、松花堂美術館の地下にある江戸時代の男山の様子を描いた『城州八幡山案内繪圖』に描かれた安居橋(当時は平橋であった模様)からもかつての橋の様子がわかります。
 f0300125_9463210.jpgなお、高橋(反橋)は現在でも滋賀県の多賀大社(*3)や大阪府の住吉大社などで見ることができますが、本来は宮参りの橋として、人の世界と神の世界を分ける特別な重みと役割を有するもののようです。また、その独特の形から高橋をはじめとして、多賀大社での太閤橋(*3)の他にも、反橋、輪橋、太鼓橋などさまざまに呼ばれたりもするようです。19世紀の印象派を代表するフランスの画家、クロード・モネ(1840.11.14~1926.12.5)の晩年の作品『睡蓮の池と日本の橋』に描かれている橋は、この橋の形が持つ独特の何かがあるからに他ならないのでは無いのでしょうか。
 また、全昌寺橋がかつて葬儀の時に使われていたことから「葬式橋」と呼ばれていたことを、八幡まちかど博物館『城ノ内』館長、高井輝雄氏に教えていただきました。また「弥生橋(やよいばし)」は架設年月が昭和42年3月(弥生)だったことからその名になったようです。しかし、第5章・公園区に登場した「五月橋(さつきばし)」は架設が五月(皐月)であることとは無関係で他の理由のようですね。最後に、大谷川に架かる唯一の鉄道橋(八幡市駅東側)の正式名称は「大谷川橋梁」では無くて「放生川橋梁」であることも京阪電車の担当の方より教えていただきました。
 まだまだ書くことの多い放生区ではありますが、次章では「川や橋の管理者は誰?」について書きたいと思います。

 (*1)八幡市道路河川課の皆様にご協力いただきました。紙面を
    お借りして感謝申し上げます。
 (*2) 安居橋の左岸下流側近傍に立つ説明板の記載より。
 (*3) 平成23年3月・多賀町発行のガイドブック『多賀大社とその
    周辺』より


<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2014-02-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第47号より-05 墓石をたどる④

シリーズ「墓石をたどる」・・・④
豊蔵坊信海の墓石をたどる

谷村 勉 (会員) 

 江戸時代初期に活躍した松花堂昭乗の書の門人として豊蔵坊信海の名を知る人は多い。江戸時代中期に細合半斎が著した松花堂流書法の啓蒙書「男山栞」の中には豊蔵坊孝雄と紹介され「信海と称す玉雲翁と号し覚華洞とも云狂歌に名あり由縁斎貞柳の師なり」と記されている。
 さて、豊蔵坊信海の墓石は現在八幡市西山和気の足立寺史跡公園内にあり、史跡奥のこんもりした丘には三宅安兵衛碑が立っているので場所は判りやすい。しかし、実はこれまで何回足を運んでも豊蔵坊信海の墓石は特定できなかった。ちなみに現在三宅安兵衛碑の隣にある五輪塔の墓石は豊蔵坊信海のものではない。
 以前、八幡市文化財保護課で確認すると、過去に墓石を調査した記録があり、そこに存在していたことは確かなようだった。またインターネットでも、墓石を特定できないと嘆いている報告もあるが、その報告されている写真等を参考に時系列に調べて行くうち、墓石は結構動いている事が分った。それでも最近、墓石が戻ってきたのか!やっと発見することができた。時々味わう感動の一瞬だった。

  【墓碑】  為大阿闍梨孝雄大菩提也
         貞享五戊辰年 九月十三日

f0300125_18274635.jpgf0300125_2285152.jpg 墓碑には豊蔵坊の本尊である阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)を顕す梵字と孝雄の名、貞享五年(元禄元年)の没年月日が彫られており、豊蔵坊信海の墓石と確認した。豊蔵坊信海の墓石は本来三宅安兵衛碑の隣にあったと考えられるが、動いていると推察される。また、墓石の形態は阿弥陀如来の梵字である「キリーク」の上に五輪塔の地輪を示す「ア」の梵字があるので五輪塔ではなかったか?
 しかし、笠付(石の屋根型笠を竿石の上に置く)の墓石であったとする説もある。
いずれにしても墓石群では五輪塔の笠石や塔身が殆どなくなり、なんとか原型を保つものとしては、一つの石から彫り出した2基の一石五輪塔と1基の櫛形墓石のみが残っている。
 豊蔵坊信海の生年は寛永3年(1626)、没年は貞享5年(1688)で63歳であった。


<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2014-02-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第47号より-end

この号の記事は終りです。

<<< TOPに戻る      ひとつ古い次の号へ >>>

by y-rekitan | 2014-02-28 01:00 | Comments(0)