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◆会報第48号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“わが心の風景”㉑◆
◆《歴探ウォーク》橋本の歴史(1)◆
◆変わりゆく橋本◆
◆芭蕉と遊女の巡合い◆
◆シリーズ:“伊佐家の暮らしとしきたり”①◆
◆シリーズ:“大谷川散策余話”⑪◆


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by y-rekitan | 2014-03-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第48号より-01 飛行神社

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わが心の風景・・・(21)
飛行神社と忠八
所在地 八幡土井


f0300125_10331155.jpg 飛行神社は航空界の安全と発展を祈願するため、二宮忠八によって土井の自邸に建立されました。
 忠八は、明治22年11月、烏が残飯を求めて、翼を広げ滑空する姿に興味を示し、これが飛ぶ機械の発明に没頭するきっかけとなりました。以後、研究を重ね、2年後の4月29日、日本人初のゴム動力による「カラス型飛行器」の飛行に成功。それから2年後には人の乗れる玉虫型飛行器の設計を完了し、試作実験に入りました。
 その後、飛行器の研究開発を軍部に申し入れたものの却下され、独力完成を決意。資金を貯え、いよいよ完成が目前となった明治36年、ライト兄弟による飛行成功を知り「飛行機を作っても真似にしかならない」と製作を断念。その後、飛行機による犠牲者が多くなると、その霊を慰めるため、大正4年、私財を投じ神社を創建しました。現社殿は、飛行原理発見百周年に当たる平成元年、忠八翁の次男である顕次郎氏によって建て替えられました。  (絵と文:小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2014-03-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第48号より-02 橋本ウォーク1

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《歴探ウォーク》
橋本の歴史(Ⅰ)「京街道を歩く」
― 2014年3月  八幡市橋本地区にて ―


                             村山 勉 (会員)

 2014年3月15日(土)、「橋本の歴史(Ⅰ)京街道を歩く」と題して歴史探訪ウオークを実施しました。
歴史探訪ウオークの概略

 肌寒さは少し残るもの、時折春の日差しが射すなか、何と73名の参加者が集まりました。当初定員50名にしていたのですが、多数の参加者が見込まれ、2グループに分かれての歴史探訪となりました。Aグループは私村山と土井さんが、Bグループは田坂さんと石野さんがガイドを務めます。
 午後1時に、橋本駅前の西遊寺さんに集合。受付を済ませた後、石野さんによる橋本遊郭・元歌舞練場の話から始まりました。続いて、西遊寺の本堂に入り、住職さんからお寺の来歴や本尊である本尊阿弥陀如来像についてのお話がありました。徳川家康からの朱印状も見せていただき感激しました。その後、境内にある観音堂の諸仏を拝観しました。f0300125_10421145.jpg
 観音堂には、明治維新に際し狩尾神社から移されてきた帝釈天像等があります。帝釈天は、八幡市内最古の仏像だといわれているものです。
 その後、橋本駅前バスロータリーに移動し、橋本陣屋跡・八幡初の工場跡の話をしました。次に、隣接の枚方市楠葉中之芝にある久修園院に案内しました。行基四十九院の一つといわれているものです。本堂に入り山﨑橋と橋本の地名由来のお話をさせていただき、中興の僧宗覚律師が作ったといわれる地球儀や渾天儀(天球儀)を見せてもらいました。続いて、高さ2mに達する愛染明王像を拝観しました。憤怒の形相は迫力のあるものでした。
 次に、史跡公園造営中の楠葉台場に移動し、台場と鳥羽伏見の戦いについて説明しました。
そして、いよいよ橋本樋門から京街道へ入りました。凝った建具のある遊郭の家屋を見ながら、橋本渡しの道標のある地点に移動。そこで、渡し船の話や谷崎の「蘆刈」に登場する「澱川両岸一覧」にある橋本の絵図について語りました。そして、橋本の社士である山田邸から狩尾神社への参道に至る岐路まで歩き、プリン山と称される狩尾神社や二宮忠八の飛行器工作場跡地、橋本の住宅開発の話などをしました。
 終了したのは午後4時ごろでした。

様々に議論した橋本の見どころ

 準備は昨年の秋から始まりました。2013年9月と10月、歴探幹事会で橋本を歴史探訪することが決まり、そのコースなどが話し合われました。田坂さんは、それまで集めてきた資料をもとに、ガイドブック作りに励んでゆきます。
 担当者による打合せを進め、日程やコース、拝観する寺とその申し込み、ガイドブックの作成や参加人数、参加費、雨天の場合の対応と、実に多くのことがらを処理することになりました。
 一番の懸案事項は、「案内チラシ」に「橋本遊郭」を入れるかどうかです。遊郭やそれに対する地元の感情をどう見てどう対処するのか。そんなことで喧々諤々の議論が続きました。結局、「京街道の宿場町、石清水八幡宮の門前町として発展する中で遊郭も形成されるようになった」との記述に収まり、案内チラシに「橋本遊郭跡」を記載する事で決着がつきました。f0300125_1047641.jpg
 ガイドブックの説明文や添付の図録についても、長すぎるのではないか、この図は必要なのかなど様々に議論が展開され、結局24ページにわたるガイドブックにおさまりました。
 但し、実際の案内では、説明はできるだけ簡単にして、目の前に広がる風景や建物などを見てもらい、ガイドブックの詳細な内容に立ち入らないようにすることが申し合われました。
 八幡は、男山山上とその東側にある八幡宮や東高野街道、善法律寺、正法寺、松花堂の名所ばかりが注目されますが、私の地元である橋本にも、こんなに豊かな歴史があるということを実感し、また大勢の方々に知っていただくことができました。そんな意味で、良い機会を与えてもらったと本当に嬉しく思います。
 ご協力いただいた西遊寺と久修園院のご住職および関係者の皆様、参加者の皆様に御礼を申しあげます。

ガイドブックの主な内容

《橋本の歴史(概要)》
1、橋本は、古くから水運や陸路の要衝で、 人やもの、情報が行き交った。
  山崎橋と橋本という地名、古代の官道「山 陰道」と山陽道、八幡・石清水八幡宮の外 港、河川交通の中  継地
2、橋本は、石清水八幡宮の参詣口であった。
3、橋本の街を「京街道」が貫き、宿場町・ 門前町としてにぎわった。
4、橋本は、「鳥羽伏見の戦い」の最後の戦 闘の場になった。
5、橋本から八幡の住宅開発が始まり、橋本の街はベットタウン化した。

《歴史探訪の見どころ》
西遊寺、常徳寺(湯沢山茶久蓮寺)、元橋本歌舞練場、橋本陣屋跡、紡績工場・津田電線工場跡、小金川、久修園院、楠葉台場跡、橋本樋門と小金川樋門、三国の渡し、京街道・橋本の街並み、小金川地蔵尊、橋本の渡しと橋本の津、石清水八幡宮参詣道の道標、橋本等安一族の墓石群、橋本の社士山田家、岩ケ鼻、北ノ町の道標と常夜灯、狩尾神社と希望ヶ丘の住宅開発、一里松の常夜灯、二宮忠八の飛行器工作所跡、奥ノ町の楠の大木


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by y-rekitan | 2014-03-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第48号より-03 橋本

変わりゆく橋本を目の前にして

石野 善幸 (会員)


 橋本は田畑の耕作地もほとんどない。はるか三重、滋賀、福井、京都のかなたから命の水を運んでくる母なる川淀川に沿っており、また武家の守護神「戦いの神」として崇められた八幡大神の鎮座する男山鳩ガ峯の麓にあり、山と川に挟まれた地域である。
 古代より境界として河内の国、摂津の国、大和の国への通過地であり、また石清水八幡宮巡礼の門前町でもあった。人の往来が多く、茶店、宿屋などがあり遊女たちも各地から集まり賑やかな遊里となっていった。
遊郭の中央をつらぬく京街道(大坂道)は嘗ては人、馬、車の往来が多くあった。
 江戸時代は、朝鮮通信使の一行、又参勤交代で紀州のお殿さま、今から2 8 5 年前には将軍徳川吉宗の要請で象が一頭長崎から江戸へ向かう時、ここ橋本を歩いたとの事。昭和20年代までこの通りは旧国道一号線であった。橋本は常に時代の渦中にあり、幾たびかの戦乱に巻きこまれ衰退と繁栄を繰り広げてきた。各時代を通して橋本の繁栄を支えてきたのは遊郭であった。近世以降では貧しい者が差別され、社会の中で最も下層の貧しい女性たちが搾取されてきた。明治時代においては以下の状況である。
 自らの身体を張って客の相手をしなければならなかった芸娼妓のほとんどは、生活苦に陥った家族を救うため犠牲になった者であり、自ら望んでなったのではない。また彼らは誇りを持てる職業として毎日を勤めていたのでもない。そのため男尊女卑の徹底した社会の中で、遊郭はさまざまな悲劇を背負った女性の社会の縮図であった。
    (守屋敏彦著「近代京都府八幡市の住民生活」1987年刊より)
 1958年(昭和33)、売春防止法が施行され橋本も遊郭もその長い歴史を閉じ、一時静けさを取り戻した。
 遊郭が廃止された翌年の1959年(昭和34)、狩尾地区の宅地開発が始まり、ベッドタウンとなっていった。山の中腹にある狩尾神社はとがのおとばっちりを受け社を残して丸裸同然となやしろり、地元ではプリン山と呼ばれている。また、京阪電鉄の線路近くにあった鳥居は住宅地完成後現在地に移設された。元遊郭地の廓跡も老朽化が進み、あちらこちらで解体が行われ空き地が目立ってきた。
 2013年(平成25)より橋本南山線の高架道路工事に伴い、現在のバスターミナルおよび駐車場、枚方市との境界道路周辺の大工事が実施されている。今まさに橋本は大きく変わろうとしている。橋本の開発の波は次々に押し寄せ、橋本の昔日の面影を消滅させていくようである。
 変わりゆく橋本を目の前にして過ぎ去った歴史を学んできた私達は地域の見聞を記録し、建造物などの遺産を記念に残す行動をしていかなければならない。今私たちは次世代のために過去、現在、未来を繋いでいかねばならないだろう。    
               (橋本遊郭跡を訪ねて2014年3月15日)
by y-rekitan | 2014-03-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第48号より-04 芭蕉と遊女

芭蕉と遊女の巡合い

八木 功 (会員)


 江戸時代、新潟も江口や橋本と同様、遊里で名を知られた港町であり、芭蕉の『おくのほそ道』の「市振(いちふり)」の章段には、伊勢に参宮する二人の遊女が登場する。「松島」や「象潟(きさかた)」などの章段を俳文の最高峰とする中で、遊女の登場する「市振」は極めて異色の章段である。遊女の語る身の上話を一部引用してみたい。
 われわれに向かひて、「行方知らぬ旅路の憂さ<心細さ>、あまりおぼつかなう悲しくはべれば、見え隠れにも御跡を慕ひはべらん。衣の上の御情に大慈の恵みを垂れて、結縁せさせたまへ<法衣をお召しのお身の上のお情けに、なにとぞ私どもにも御仏の大慈大悲のお恵みをお分かち下され、仏縁を結ばせてくださいませ>と涙を落とす。不便(ふびん)のこと(かわいそうなこと)には思ひはべれども、「われわれは所々にてとどまるかた多し。ただ 人の行くにまかせて行くべし。神明の加護、必ず恙なかるべし」といひ捨てて出でつつ、あはれさしばらくやまざりけらし。
    一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月
曾良に語れば、書きとどめはべる。
--<>表記 部は、角川版『おくのほそ道』より--
とあるが、曾良の記した『随行日記』にも『書留』にもこの句は無く、本文執筆の際に創作された虚構であるというのが通説である。
 この虚構構成の土台となったのは、謡曲『江口』や『選集抄』五ノ十一「江口遊女の事」であるが、西行と歌を詠みかわした遊女妙(たえ)は、特に「江口の君」と呼ばれ、二人の歌は、『新古今集』にも見られる。
天王寺に詣で侍りけるに、にはかに雨降りければ、江口に宿を借りけるに、貸し侍らざりければよみ侍りける。
   西行法師: 世の中を厭ふまでこそかたからめ
             かりの宿りを惜しむ君かな(978)

(この世を厭い離れることまでは難しいとしても、わたしがお宿をお借りすることまでももの惜しみなされるあなたなのですね。ちょうど仮の宿のこの世に執着するように。)

   返し:    世を厭ふ人とし聞けばかりの宿に
             心とむなと思ふばかりぞ(979)

(この世を厭って出家されたお人と伺っておりますので、宿を借りるなどお考えなさいますな、仮の宿の現世に執着なさるなと思うだけでございます。)
・・・角川版『新古今和歌集』より・・・

まさに、西行が一本とられたやり取りである。
 何故、『おくのほそ道』のこの場面に遊女の話が登場したかについては、遊女の心底に潜む信仰心が、芭蕉の感興を喚起し、艶やかな恋の座となったのではないかと思うが、さまざまある解釈の中で、私がもっとも納得・共感したのは、嵐山光三郎著『芭蕉紀行』(新潮文庫)の解釈である。それによると、風流・風雅に徹する風狂の旅とは、「月を眺め胸がざわめき、花を見て心が華やぎ、恋に身を焦がしてさすらう」旅である。芭蕉は、「出羽三山」の章段で「月山」を詠み、「象潟」の章段で「ねぶの花」を、「市振」の章段で遊女・恋の三句を詠んだというのである。
 雲の峰いくつ崩れて月の山
(日中に山を幾重にもつつんでいた白雲が、いつの間にかくずれ去ったときは、もう夜になっていた。ほのぐらい月の下に月山(がっさん)がくっきりと浮かんでいる。)

 象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花(※)
(象潟の雨にぬれたねむの花をみていると、西施がなやましげに目を閉じている姿がうかんでくる。)
 一つ家(や)に遊女も寝たり萩と月
(同じ家に遊女も夏の夜を泊り合わせた。萩の花にほのかに月光がさしている情景にも似た優艶でやさしい 中にも寂しさをもった一夜ではあった。   ・・・講談社版『おくのほそ道』より)

(自分のような世俗を捨てた僧形の旅人と、ゆくりなくも北国辺土の宿に花やかにも罪深いあわれな遊女も泊り合わせて寝ている。折から庭には萩がなまめかしく咲きこぼれ、その上を澄んだ月の光が照らしているのが、何となく遊女と自分との巡り合いを思わせているようだ。  ・・・角川版『おくのほそ道』より)

 最後の句は、二つの現代語訳を紹介したが、この場合、後者の方がより一層『芭蕉紀行』の解釈には沿うものと言える。さらに、私見を加えるとすれば、「一つ家に」の句自体にも、月・花(萩)・恋(遊女)という風狂の旅の三要素が凝縮・内包された名句と言い得るのではないかと思う。(2014.3.5)

  ※  西施(せいし)
    中国、春秋時代の越の美女。越が呉と会稽で戦って敗れると、
    越王勾践(こうせん)は西施を呉王夫差に献上した。夫差は
    西施の容色に溺れ、その隙をついて越は呉を滅ぼしたと伝え
    られる。(編集担当)
by y-rekitan | 2014-03-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第48号より-05 伊佐家暮らし①

シリーズ「伊佐家の暮らしとしきたり」・・・①
伊佐家の暮らしとしきたり その1

伊佐 錠治 (会員) 

はじめに

 伊佐家住宅は享保19年(1734)に建った古民家である。主屋の棟札と建築古文書から建築された年代が明らかになり、昭和50年6月に重要文化財の指定を受けた。その後、昭和55年12月には建物すべてが重要文化財の追加指定を受けたので、建物に関しては永久保存されることになり失われてゆくことはない。但し、この家が継承してきた暮らしやしきたりについては積極的に保存して行く体制が確立されているわけではない。最近になって過去を振り返って眺め直す生き方が注目されるようになり、古民家とその暮らしとしきたりについても、現在の生活と比較するうえで関心が高まってきている。
 江戸時代から明治、大正、昭和、平成と重ねてきた生活を建造物と一緒に後の世に伝え残して行くことは、古民家を所有しているものに課せられた責任ではないかと思う。伊佐家の建造物は構造面からは詳しく調べられているが、暮らしについてはあまり知られていない。そこで暮らしをハード面とソフト面に分けて眺めてみることにする。

1、ハ-ド面に関係する知恵

 一般的に、家屋敷については建物の外観を始め各部屋などの写真は公開されているので、目にすることができる。しかしハード面でも家屋内部の細かな構造、特に生活の知恵によって形造られている部分構造は知られていないので、暮らしを支える生活の知恵に絞って紹介する。 
f0300125_0242846.jpg 内玄関と台所のさかいに、内部を隠すため引き戸(図1)が設けられている。この戸には猿戸と呼ばれる小さなくぐり戸が付いている。この引き戸は光を取り入れるために格子になっているので、日常はくぐり戸を利用するが、引き戸を全開にすれば大きなものを運び込むことができる。この引き戸は遮蔽の扉として、採光の扉として、さらに開口部を広げたり狭めたりできる扉として、3役を持つ便利な引き戸である。引き戸が少なくなった現在、くぐり戸のついた扉はほとんど利用されなくなったが、今の生活にも役立つ便利な扉である。
 生活の知恵を取り入れた扉に葦障子がある。空調のなかった昔の部屋で少しでも快適に過ごすために工夫されたもので、少しでも風通しをよくして、見た目にも涼しさを与えるものである。空気の流通を考慮したものには、部屋の飾りであり座敷の格式を高めるために工夫された欄間がある。座敷が必要でなくなり、部屋の気密性が要求される現在の生活では欄間は必要でなくなったが、部屋飾りと空気の流通を兼ね備えた傑出した間仕切りである。f0300125_0273046.jpgまた、可動式の間仕切りとして便利なものに衝立がある。しかも写真の衝立(図2)は障子がはめ込まれていて、この障子が引き戸になっているので開閉することができる。開ければ風通しもよくなるし、閉めれば部屋を隠すことができる工夫は生活の知恵である。
 現在の生活では階段は移動できないものとして認識されているが、移動も設置も簡便な階段に箱階段がある。箱階段は階段の段差に見合った引出などが埋め込まれていて収納庫としても役に立つものである。
f0300125_0302017.jpgf0300125_0323673.jpg 台所関係では暮らしの中心となるのは水回りとかまど(竈)である。飲料水は井戸水で賄うが、冷蔵庫のなかった昔に冷たい食物とか冷たい飲み物は井戸水で冷やした。また、石段(図3)を7段下ると室のような井戸端があり、ここは夏場でも気温が低く、ここに蠅帳を置いて食物の腐敗を防ぐこともできた。かまどは最も清浄な場所であることから、火とかまどの神として三宝荒神を祀るしきたりがある。伊佐家では冠婚葬祭専用の大きなかまどが土間にあって、このかまどに三宝荒神(図4)を祀っている。かまどは通常、土間に設置されているが、利便性を考えて板敷間から焚ける上のかまども用意されている。
このかまどにはかまどの脇に炭消し受け(図5)が設置されていて、かまどに残った燃える炭をこの受けに移して水を掛け消し炭にすることができる。これは板間にかまどがあるため火の用心に作られたものと思われる。f0300125_2143932.jpgこの火消しに使った水はかまどの下に設けられた水路を通って裏出口にある水門(たまり)(図6)に流れ込む。水門は風呂の排水の溜に用意されているもので、畑の肥料として役立っていた。

 その他、多くの場所に生活の知恵を見だすことができる。① 戸袋内に神を祀り(図7)、忌中には天井から吊るしてある扉を下して蓋をする。②内玄関には濡れた番傘を置く傘立てならぬ折りたたみ式の傘置き(図8)がある。③調理台とか配膳等に必要な時だけ引き倒して用いるばったり床几。④蔵の入り口にはネズミが入らない様にネズミ返し(図9)を設置する。
f0300125_0545590.jpg
⑤炭火を入れて風呂の湯が冷めないようにしてある鉄砲風呂(図10)。⑥庭の雪隠には大小共に桶を置いて使用後に捨て洗いする等、いろいろな工夫を見だすことができる。
f0300125_1154058.jpgf0300125_21087.jpg 鍵にもいろいろな工夫が見られる。鍵は錠前と呼ばれていたが、普段は外出する際に住まいに外から錠前を掛ける習慣はなかった。夜間など家の中にいる場合、外部からの侵入を防ぐため色々な施錠が工夫されている。例えば①板戸の戸袋内に板をもうけて、板戸を閉めるとこの板が倒れて戸が動かなくなる「長くるる」(図11)、②敷居にくさびを射し込む穴を設け、閉めた引き戸の後ろにくさびを落として動かなくする「くさび落し(猿おとし)」(図12)、③戸の後ろに棒を入れて戸の移動を塞ぐ「心張棒」(図13)、④観音開き戸の桟に鎹(かすがい)を設けてこれに角材を刺して開かなくする「閂(かんぬき)」(図14)等多彩である。土蔵には内部のものを守るため錠前が設置されているが、住まいとは対照的に多種類の錠前が用いられていた。これらの錠前は時代劇ドラマに出てくる土蔵の扉で見ることができる。
 この様に生活空間には多彩な工夫が残っており住みやすい環境が整えられてきたものと思われる。  (つづく)


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by y-rekitan | 2014-03-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第48号より-06 大谷川散策⑪

シリーズ「シリーズ「大谷川散策余話」」・・・⑪
第11章 橋の管理者は誰?

 野間口 秀国 (会員) 

 橋を渡りながら橋の所有者や管理者が誰かなどと考える人はあまりおられないと思いますが、この章ではこのことについて考えたいと思います。ご存じのように多くの市民が過去に幾度となく大谷川の溢水や洪水で苦しめられた事は町誌や市誌にも書かれています。近年では宇治市・福知山市・京都市内の嵐山などで集中豪雨に因る被害が発生していますが、洪水で橋が壊されたら誰に修復の依頼をすれば良いのでしょうか。一例ですが、2013年10月19日付の京都新聞夕刊の「流れ橋の流失」に関する記事からは「流れ橋」は京都府の管轄であることが分かります。
 現代のことを考える前に江戸時代の公儀橋と町橋について見てみたいと思います。江戸時代には公儀(幕府や藩・大名を指す)の費用で架設・維持・修復がなされた橋は「公儀橋」と呼ばれ、江戸の町では大半の橋が公儀橋だったようでその多くは「御入用橋」呼ばれていました。大坂では大川に架かる代表的な天満橋、天神橋、難波橋を初め公儀橋は12本(*1)と記録されており京では洛中洛外に107本(享保2/1717年頃)あったと伝えられています(*2)。f0300125_21153253.jpg当時の主要街道に架かる橋もまた公儀橋として幕府が直轄していたものが多く、瀬田の唐橋や宇治橋、淀大橋もそうであったようです。また『男山考古録・巻第十一』「高橋」の項には「…今も安居橋と共に、破損の時に将軍家より修造を加えらるる例也、…」とある事から高橋と安居橋もかつては公儀橋であったと思われます。
 一方、公儀橋に対して町人が経費を負担して架けたり管理を任された橋は「町橋」と呼ばれ、商人の町大坂には町橋が多かったようです。大阪市の土佐堀川に架かる淀屋橋も代表的な町橋であったことを現在の淀屋橋の左岸下流近傍に建つ「淀屋の碑」の碑文や『元正間記・巻之壱六』(国立国会図書館蔵)(*3)から知ることができます。f0300125_21195710.jpg水の都、商売の都大坂では橋の数も多く、儲けを逸することのないように橋の修復などにも素早い対応が必要だったことも町橋の多い理由ではないのかとも思われます。今で言う「スピード感をもって」対応するためだったのではないでしょうか。
 ではより古い時代はどうかと見ると、当初は国家によって管理されていた橋がやがてその管理ができなくなった事例が「宿場町枚方を考える会」編の『近代の史跡を歩く会』(2012.6.6)の栞に以下のように書かれていました。曰く-橋本から山崎をつなぐ山崎橋があったと推定されているが、この橋も史料によると複数回洪水で破損されているようです(841年・848年・874年・918年など)。橋は何回か架け替えられたが平安中期には国家による維持も困難になり水運(渡し船)に移行していった…。-さらに山崎橋に関しては、「…11世紀には橋がなくなりその後、豊臣秀吉が天正20/1592年に橋を架けなおし…その後は架けられることなく渡しを利用…」と書かれた資料(*4)からも山崎橋のように公儀でも手に余る橋もあった様子もうかがえて興味深いです。
 話を現代に戻しましょう。このシリーズを書き進める中で橋は管理面からは高速道路、国道、府道、市町村道など、道路の一部であることを学びました。しかし大谷川に架かる何本かの小さな橋は田畑への作業道路、住居への進入路、両岸を渡る近道などであることも分かりました。それではこれら全ての橋の修復などは一体誰に依頼すれば良いのか、管理者は誰なのかを管轄する役所の担当部門にお聞きしたところ以下のように教えていただきました。
― 以下、抜粋(* 5) ―  
1)高速道路(第二京阪道・京滋BP)はNEXCO西日本茨木管理事務所が、2)国道(1号線・478号線)は国土交通省近畿地方整備局京都道事務所が、3)府道は京都府山城北土木事務所管理室第二担当が、4)八幡市道は八幡市敏管理部道路河川課がそれぞれ道路管理者です。5)その他はそれぞれ架設された原因者(行為者)が管理者となっております。
― 抜粋終わり ― 
この区分によると前述のように流れ橋(上津屋橋)は府道八幡城陽線(281号)ですから管理者は京都府です。
 さて、第3章で書きました疑問についてここで今一度取り上げてみたいと思います。それは「同一河川(大谷川)に同名の橋(大谷橋)が複数(京田辺市松井栂谷と八幡市八幡舞台に各1本)あっても問題は生じないのか」でしたが「道路管理者が管理する橋は橋梁台帳が整備されており同名の橋でも道路名や地名などで識別される(*5)」とのことでした。f0300125_21294859.jpg同名の橋の管理については分かりましたが、調べてみると全国には実に多くの「大谷川」があることには驚きを隠せませんでした。PCで「都道府県名(例:京都府)大谷川」と入力して全国を検索すると「おおたに川」はなんと32の道府県で11 3本、他に「おおだに川」1本「おおや川」11本「だいや川」2本などがある事が分かりました。京都府では河川名、竣工年月、漢字橋名、ひらがな橋名を表示した橋歴板の取り付け義務がある事を第8章で書きましたが、改めてその必要性や重要性が理解できるようです。
 ところで、水にまつわる争いは古くより日本のいたる所であったようです。狭い範囲ではその地に住む人たちの生活や財産を守る為、世界的な範囲では一国の興亡をも賭けたものまであったことでしょう。多くの場合は不足する水の奪い合いが原因でしょうが、八幡では溢れる水を下流に流して自村の田畑を水から守る為に起きた争いでもありました。『八幡の歴史カルタ』にもその昔の蜻蛉尻川(現在の防賀川)の水管理の困難さが「寝ずの番水に悩んだ防賀川」と詠まれ『八幡市誌・第二巻』にも「八幡住民の水との闘い」と題する章が設けられその様子も書かれています。
 大谷川が淀川水系の支流の一つであり「一級河川」であることは第2章にて書きました。淀川は木津川、宇治川、桂川の三川でなっており、単独の府や県のみでは解決できない課題も存在します。近年の集中豪雨時などではいづれかの川の水量が極端に増えると、湖やダム湖などを含む他の中小河川が溢れる危険性も有り、相互の利害対立がいつ起きてもおかしくない状況であると言えると思います。
 2013年12月1日の京都新聞の記事「淀川水系の治水議論へ」の記事は、淀川水系の拡がりとそのために何が求められているのかを具体的に理解できる記事であったと思います。淀川に合流するいずれかの川の水位が高くなるとその影響は最後には大谷川にも及ぶでしょう。f0300125_21372268.jpg瀬田川洗堰に隣接する水のめぐみ館「アクア琵琶」では琵琶湖の水位1㎝あたりの水量が約680万立方メートル(大阪ドーム6個分)である事や琵琶湖・淀川の治水と利水の事などを教えてくれます。治山治水が大きな社会的課題である事は時代を超えて八幡市に限らず全国で100を超すいずれの大谷川にも言える事ではないでしょうか。
 記憶が正しければ「橋の平均寿命は35.4年である」と、あるTV番組で報じられたことがあり「意外と短いな」と思ったことがあります。無論、橋もいつかは朽ちるでしょうし、新規架設、維持、修復に相応の費用が必要なことは理解できます。以下の各数値から(橋のみに要した費用がいくらかは正確に分かりませんが)土木関連の歳出額の推移を一例として見てみたいと思います。
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 明治45年度の占有率が高い理由を、町誌には「…相当多きを認むるも、(中略)尾無瀬川下流樟葉地内の悪水路拝借料が大部分(中略)…比率改善には、奥繁三郎、山田直竹両氏の尽力にて敷地を国に買い上げてもらい予算の良化を見る」とあり、先人の労苦がうかがわれる一例でしょう。

 橋や川の管理者はかつては公儀であり、また現代では国を始めとする管轄の役所ではあるのでしょうが、やはり第一義的にはその流域で生活する住民であり、活動する企業であると思います。大きな事は出来ないにしても一人一人が出来る小さな心がけや活動の積み重ねが橋や川を守る事に繋がると思います。八幡市内にも架設後かなりの年月を経過している橋も有ります。限られた予算の範囲で多くの困難な課題もあると思われますが「八幡市では長寿命化修繕計画に沿って計画的に橋の長寿命化工事が行われている(*5)」との言葉をご紹介するとともに、日々多くの道や川や橋の管理に携わっておられる関係部門の皆様方に感謝をしつつ「橋の管理者は誰?」を終わります。次章は最下流部、5区の「大谷区」について書きます。

参考図書・資料等;
(*1)『K-Press 2013年3月号』若一光司氏の「京阪沿線の名橋を渡る」。
(*2)『京の加茂川と橋』門脇禎二・朝尾直弘共著思文閣出版刊。
(*3)八幡市郷土史会主催の歴史講座(2014.2.16)の蒲田建三氏による講演資料。
(*4)京都府埋蔵文化財調査研究センターの公開講座(2013.10.19)の中川和哉氏による講演資料「考古学でみる淀川流域の治水」。
(*5)京都府山城広域振興局企画部・山城北土木事務所/八幡市都市管理部道路管理課のご協力を頂きました。紙面にて感謝申し上げます。
(*6)「八幡町誌第二編第四章財政」に記載の各年度の土木費歳出額(単位:円)。
(*7)平成24年11月号の「広報やわた」に記載の歳出額(単位:円)。


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by y-rekitan | 2014-03-28 07:00 | Comments(0)

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by y-rekitan | 2014-03-28 01:00 | Comments(0)