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◆会報第49号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“わが心の風景”㉒◆
◆《講演会》 石清水八幡宮の年中行事と庶民進行◆
◆シリーズ:“伊佐家の暮らしとしきたり”②◆
◆シリーズ:“大谷川散策余話”⑫◆
◆シリーズ:“墓石をたどる”⑤◆
◆神領墓地は何を語るか◆
◆水月庵 藪を抜けると円福寺◆


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by y-rekitan | 2014-04-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第49号より-01 本妙寺

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わが心の風景・・・(22)
本妙寺
所在地 八幡城ノ内

 f0300125_1159256.jpg大谷川に架かる飼屋橋から南へ少し行くと男山の麓を背にした本妙寺本堂が見えてきます。寺は法華宗眞門派に属する日蓮宗真門派本隆寺末寺で、山号は久遠山といいます。
 本妙寺は、普伝日門に帰依する竹内伊予守経孝によって永禄7年(1564)頃に創立されました。本堂前にある碑は、桃山時代前期、本山第二世の日門上人の殉教碑です。
 天正7年(1579)5月、安土でおこなわれた日蓮宗と浄土宗の論争「安土宗論」の際、日蓮宗の勢力拡大を喜ばなかった織田信長は、浄土宗側に荷担し、日蓮宗敗退の裁決を下しました。この時、犠牲として刑場の露となったのが本妙寺の日門上人でした。
 また、竹内伊予守経孝が織田信長に見いだされ、信長に仕えた後、再び男山に戻り、滝本坊の住職となって同坊で修行中の松花堂昭乗を養育しました。
 当寺に伝わる「雲版」は南北朝時代後期に青銅で作られた京都府内最古のもので、京都府指定文化財となっています。  (絵と文:小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2014-04-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第49号より-02 八幡宮の行事

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《講 演 会》
石清水八幡宮の年中行事と庶民信仰
― 2014年4月  八幡宮研修センターにて ―

石清水八幡宮 禰宜   西 中道


                                     
 4月16日(水)、午後1時より石清水八幡宮の研修センターにおいて、講演と交流の集いが行われました。通例と異なり、今回は講演に先立ち「資料展示と解説」が行われ、「石清水放生会神幸之図」をはじめ、境内古図、牛玉寶印(ごおうほういん)などの版木、御神楽(みかぐら)で奏でられる和琴(わごん)などを拝観しました。講演は午後1時半から標題のタイトルで行われました。その概要を以下に紹介します。

1、八幡の歴史とは何か

 
八幡から八幡を見る
 東京からでもなく、京都からでもなく、八幡から見る八幡の歴史というものがあるのではないか。
 八幡は、八幡の特性をいかした独自な歴史がはぐくまれてきた。その一つに、昔から八幡輩出の人物に優れた教養人がいる。江戸前期の社僧・松花堂昭乗は言うまでもないが、江戸中期には『建武年中行事略解』を著した谷村光義や、『石清水尋源抄』の著者・谷村光信、また「八幡八景」を選定し宮中にも関わりの深かった柏村直條など、神官たちの活躍が目立つ。さらに幕末になると、男山に関する百科全書的労作・『男山考古録』を著した長濱尚次は、まさに博覧強記の人物というべきだが、本来の職掌は石清水八幡宮の宮大工であった。いずれにせよ、神官、僧侶、武士、農民、町人の区別なく八幡には傑出した文化人を次々に生み出しうる豊かな土壌があったということは強調してよい。そして、そうした人々が互いに切磋琢磨しつつ、高い知的水準を維持しつづけてきた、そんな歴史がある。
 八幡における独自の歴史は、石清水八幡宮の境内にも表れている。例えば、蒙古襲来の際にお百度を踏む起点になった「一つ石」、石灯籠に刻まれている様々な事柄、楠木正成が植えたといわれる大楠などもあって、それらは枚挙にいとまがない。
 そんな八幡を東京から、あるいは京都から眺めるのではなく、八幡から見る視点が大事である。

 
視点の違い
 それでは、例えば男山に鎮座する八幡宮を八幡のどこから見るのか。男山は、東側の麓から見れば威圧感を感じるが、川口、下奈良あたりから見ると優しげな印象を受ける。また、西側の橋本・西山方面から見ると全く別の印象を受ける。同時に、過去と現在ではそれぞれ違う様相が現れて来る。様々な角度から男山を見ることが重要ではないか。

 
古代から中世へ
 八幡宮の創建を語る場合、貞観元年(859)の宇佐での託宣を起点とした国家鎮護の八幡神が強調される。だが、男山に八幡神が勧請される以前には行基がここに石清水寺を建てたということもあり、その延長で八幡神が鎮座されたということも見ておく必要がある。また、八幡神は朝廷とか武家政権との関わりで語られることが多かったが、一方で庶民との関わりも無視できない。
 例えば、平安時代後期における荘園を考えた時、石清水はあくまで名目上の領主に過ぎなかったという見方もある。当時、地方を支配した土豪層がいわば節税対策として土地を石清水に寄進し、自らは石清水神領の預所や下司という立場に納まり、僅かばかりの年貢を納めて国家からの収奪を免れるというシステムが確立された。そうした流れの中で、地方に八幡神が分霊され全国に八幡宮が広がってゆく。むろん、彼ら地方の土豪層によって八幡信仰が幅広く受容されたという信仰上の側面を抜きにして考えることはできないが。
 貞観年間は平成23年3月の東日本大震災に匹敵する貞観大地震が起こった時代でもある。富士山の大噴火もあり、国家財政を揺るがす天変地異が相次いだ。そうした不測の事態も与って律令体制に修復不可能な綻びが生じ、やがて地方の治安が乱れていく中から、将門・純友の乱が起こる。
 そんな時期、天慶元年(938)に、石清水で放生会を行う同じ日に、山科の藤尾寺で尼僧が、歌舞音曲を採用した派手な祭りを行い、本家本元の石清水の放生会に人が集まらないということになり、日を変えてほしいと要請しても無視するので、石清水の神人が藤尾寺を襲い尼僧を縛り上げるという事件が発生している。また天慶8年(945)には摂津に起こった志多羅神(しだらしん)の神輿をかついだ群衆が乱舞の中、入京する事態となり、あわてた朝廷が石清水八幡宮の威光によって入京を阻み、沈静化させる事件も発生している。
 そんな動きの中で、石清水における放生会において、応和3年(963)頃、神輿(しんよ)渡御(とぎょ)といって、人々によって神輿が山下に下りて頂く神事が、勅許を得て始まったとされる。まさに民衆のエネルギーが朝廷を動かしたというべきであろう。それ以降、神幸が確実に実施され、山下では競馬(くらべうま)や相撲などが行われ人々が賑わった。

2、年中行事の歴史的諸相

 
中世の年中行事=二十四節神事
 今でも石清水において年間大小90回ほどの祭事が行われているが、鎌倉時代に書かれた「恒例仏神事惣次第」によれば24度の神事が行われている。重要なのは「勅祭十個度」と呼ばれるもので、正月一日の歳旦祭(さいたんさい)、二月上卯日の御神楽(みかぐら)、三月のひな祭り、四月八日の灌仏会(かんぶつえ)(花祭)五月五日の端午の節句、六月晦日の大祓、七月七日の七夕、八月一五日の放生大会、九月九日の重陽の節句、そして十一月上卯日の御神楽の十箇度は文字通り勅祭として執り行われた。その際、「土祭」と称して勅願によって丑の刻に地神を祭ることが行われている。石清水の場合、本殿の北東の位置、つまり科手の方に地壇が設けられそこで地の神を祭る神事が行われた。八幡宮の祠官家の壇家はそこの出身といわれる。やがて地壇の位置が変わった。八幡旦所(だんじょ)もその一つといわれている。
 他に「御国忌四箇度」と呼ばれ、応神天皇などの忌日に行う祭礼があった。また「余節十箇度」といって正月一五日の「踏歌」という土地を踏み固める舞踏の神事、四月三日の「日使(ひのつかい)」祭などがあった。「日使」祭は、大山崎の離宮八幡から「日使」がやってきて賑々しく祭事が執り行われたようである。七月一五日は盂蘭盆会(うらぼんえ)=安居(あんご)の仏神事が行われ、本殿の前に六本の松の大木を立てて祭礼が行われた。
安居とは、四月一五日から九〇日間、僧侶が堂宇に引き籠り修行を行うのであるが、それが開ける日が七月一五日なのである。石清水では、その日、行教が宇佐において、八幡神を男山に勧請する託宣を受けたので特別にこの日を記念する仏神事として重要視されたようである。
 他に、正月一四日の護国寺修正会結願の「鬼走」神事、同一九日の宿院での「心経会」(疫神齋)、三月中午日の臨時祭などが特筆される。

 
戦国期の断絶と近世の再編
 だが、それらの仏神事は、応仁の乱(1467年~)を境にして衰退ないしは中絶した。(放生会の場合、応仁の乱を期に中絶し、復活するのは霊元天皇の1670年代を待たねばならなかった。)
やがて、信長・秀吉・家康ら天下人によってそれらが庇護されるようになる。例えば、安居神事は、家康の内室である於亀の方の口添えもあって、徳川幕府の肝いりによって復活する。また、幕府による社殿造替も進んだ。八幡神は源氏の氏神として崇敬されてきた歴史があり、徳川家康は源頼朝を範としたので、頼朝によって始められたとする安居の神事には特別力を注いだようである。但し、安居の祭事を執行する安居頭人の経済的負担は相当に大きく、そのため頼母子講のようなものが存在し、彼らの経済的負担を和らげる措置も講じられたと伝えられる。

 
明治維新による断絶と変容
 明治維新によって石清水は大きなダメージを受けた。一つは、慶応4年=明治元年(1868)から始まった「神仏分離」の政策である。太政官布告などにより、石清水八幡宮の本殿にあった阿弥陀如来像や僧形八幡神像が山下に移され、山上にあった堂宇など仏教施設も移動ないし破却された。また、明治2年(1869)における東京遷都の影響も大きい。即ち、石清水八幡宮が担っていた王城鎮護の役割が大きく揺らいだのである。影響の大きなものに、明治5年から始まった太陽暦の採用がある。明治5年(1872)旧暦12月3日が明治6年新暦1月1日になったのである。
 石清水では、4つの対応が講ぜられた。①旧暦のままの神事。例えば、御神楽は旧暦2月上卯日に行われていたが、そのまま旧暦2月上卯日に執行した。②新暦に変更の神事。例えば、水無月祓は旧暦6月晦日に行われていたが、新暦6月晦日に変更した。③一ヶ月遅らせた神事。例えば、石清水祭の場合、旧暦8月15日に放生会として行ってきたが新暦9月15日に行うことにした。④過去の特定の日を新暦に換算し固定化した神事。例えば、紀元祭は、西暦紀元前660年旧暦1月1日を新暦2月11日に。

3、諸行事にみる庶民信仰

 
庶民群集の行事
 一般民衆が、群集する行事がいくつかあった。それらを独自な解釈で考えてみたい。
ア、疫神会・・・・・・『徒然草』52段の話は、仁和寺の法師が石清水にやってきたが山下にある神社を八幡宮と見なして山上に上らなかったというものである。但し、当時の記録をみると、厄年の人は山上に上らず、山下にて厄祓いをしたというのがある。実際、1月19日を中心にした数日は、宿院(頓宮)をはじめ高良社、極楽寺界隈が疫神信仰の人々で賑わっていたとのことである。従って、仁和寺の法師も、山下の頓宮(宿院)にて疫落としをして、それで用が済んだから帰ったという解釈が成り立つのではないか。
イ、放生会・・・・・放生会は、一面では当時の庶民の夢が実現した祭礼ではないか。要するに、仲秋の名月の夜、山から天人が妙なる音楽とともに降りて来て、麓では朝廷の公卿=雲の上の人がそれを迎えるというシチュエーションで行われる。まさに、仲秋の名月と八幡の竹、王朝の雅な貴人が登場するという意味で「竹取物語」を具現化した祭事ということができる。また、御鳳輦に供奉するのは、石清水の荘園の神人であるということから、そういった神人の夢を実現した祭礼ということも可能である。同時に、放生会は僧侶が主導する。大念仏寺の如来・菩薩の御練(おねり)の如き世界の具現である。そういう意味では、皇室・朝廷・社寺と民が合作したもの、それが放生会であるといえるのである。
ウ、御神楽・・・・・御神楽は今でこそ秘祭として非公開で行われているが、当初は誰でも参加できるものであった。いわば「素人演芸会」として始まったものではないか。夜の祭礼であって、幣殿にて庭火を焚く中で行われる。輪榊が用意されるが、それは海中の精霊を引きあげる道具であるという解釈があり、故に顔中貝殻に覆われた人物も登場するなど神遊び的な要素の濃厚なものである。
エ、安居神事・・・・・安居はもともと7月15日の仏事(安居会(あんごえ))であった。それが近世において12月15日に行われる神事(安居祭)となった。また、御壇・頭人・宝樹が登場することから土祭の後身という性格が強い。そして、それが武家政権の肝煎りで行われる意味を考えれば、土地を安堵することにつながり、土祭を主導することで武家(政権)の存在をアッピールしているとも言える。

 
八幡大菩薩の諸相
 八幡大菩薩は多義的な存在で語られることがある。即ち、薬師三尊(脇侍に日光・月光菩薩)、釈迦三尊(脇侍に普賢・文殊菩薩)、阿弥陀三尊(脇侍に観音・勢至菩薩)三様の姿である。f0300125_22165728.jpg一方で、釈迦の前世や生まれ変わりという文脈で語られることがある。「輪廻からの解脱」という仏教の根本理念とは相反する思想のようにも思われるが、応神天皇の前世は釈迦であり、廣幡八幡麿なる存在=人聞(仁聞)菩薩の前世が応神天皇であるという「入れ子」構造のようになった捉え方もある。八幡宮縁起や社殿彫刻の意匠等にもたびたび登場する「鷹と鳩」、「月と兎」の組み合わせなども、釈迦の本生譚と何処かで繋がっているのではないか。  (文責=土井三郎)

          
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by y-rekitan | 2014-04-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第49号より-04 伊佐家暮らし②

シリーズ「伊佐家の暮らしとしきたり」・・・②
伊佐家の暮らしとしきたり その2

伊佐 錠治 (会員) 

はじめに

 伊佐家は庄屋として農業を営んできたので、四季の自然を取り入れた暮らしとしきたりが培われてきた。我が国の伝統的な生活観に見だされてきたものに「ハレ」と「ケ」がある。ハレ(晴れ)は表向きの暮らしで、儀礼や祭り、盆や正月、節句などの年中行事であるから非日常的な暮らしであり、これに対して、ケ(褻)は日常の暮らしであり普段の生活全般をさしている。
 伊佐家には十二代貞武(1803~1854)と十三代貞利(1835~1899)が綴った日記が残されている。特に貞武日記には、ハレに相当する「格式日記」(図16)とケに相当する日常の暮らしを記録した「日常日記」(図17)が残っている。両者を比較することによって江戸時代のハレとケの生活様式を知ることができると考え、天保九年(1838)の日記を比較してみた。
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 格式日記には村の年中行事とその際に提供した料理が詳しく記載されているので、料理を中心に一年間を通して日記の一部を取り上げた。従って、格式日記で取り上げた月日に相当する日常日記を取り上げ比較した。
 この年の時代背景は、徳川家慶の時代で冷害、風水害によって大飢饉と記録されている。また、関西では緒方洪庵が大坂に適塾を開いた年でもある。

(1) 格式日記(天保九年)

 先ず、格式日記の内容を紹介する。格式日記は村の毎年の諸行事・しきたりを綴った覚書であるが、結構、個人的な内容の記載も認められる。元日の初詣から始まり、新年の挨拶、藪入りと続くが、人が集まると酒やご馳走を振る舞う習慣があったようで、正月だけでなく年間を通じてもこの傾向は認められる。村の行事で大切な初詣、伊勢講、お日待ち講、節供、宗門判、生霊会、氏神の神事、亥の子、せちく免割など参加者の氏名から料理の内容まで村の習慣として詳しく記載されている。記載されている人名は100名以上になり、何時、何処で、誰が、何をするのか、村の行事を毎年継承して行くには必要不可欠な記録であるように考えられる。
 個人的な内容としては藪入り、節句祝い、土用入り、井戸替え、墓参り、誕生日、すす払い、歳暮の挨拶など記載されているが、次項で記載する「日常日記」ではなくて「格式日記」に何故書いてあるか判らない。12月9日に「頼母子講」が書かれているが、これは当時賭け事が盛んであったと言う事実の裏付けになっているようで興味深い。
1月1日
初詣は氏神へ裃を着て村人23名でお参りに出かける。半切百枚を伊右衛門に渡し、夫娘にはお年玉としてぬり手本を一つ渡す。
2日
羽織に着替えて村人が訪れる。上奈良の判之丞が訪れ、台所で年酒、組重、吸い物(しじみ)、鉢(ぶり)をご馳走する。甚七も台所で年酒、無左は玄関で振るまう。七つ時(16時)、全員帰る。
7日
米三郎が夕方に来訪、生姜を持参。年酒を出す。徳左衛門の倅と米三郎の弟に算術を春から教えることを頼まれたが、これは間違いで、幾二と民作の手習であった。おその娘は鏡餅小一重を持って藪入り。佐古村の岩吉(17歳)も鏡餅一重、木綿入りパッチ、足袋を持参して藪入り。
16日
与兵衛娘いく(17歳)は鏡餅一重、木綿嶋袷、下駄、足袋、前たれを持って藪入り。
21日
伊勢講宿(市郎左衛門)  神酒[鉢(干大根、昆布、くわい)、鉢(かづのこ)、鉢(にぼし、そら豆)]  舟の一件のため先年から食事を中止していたので、仲間に上記の神酒だけ振る舞っていた。当年から食事を再開したが、市郎左衛門は神酒だけの宿を勤めたので、神酒が終わり次第直ちに伊左衛門の伊勢講宿に移動して食事をした。
本膳  膳(肴、大根、うど)平(棒たら、牛蒡、小芋、椎茸、くわい)汁(大根、海老、ざこ)飯、猪口(小鮒)。10名が南北に分かれて座る。奥の間、次の間共に上敷きをあげて座布団を敷く。当年の参宮について相談し、3月21日に出立が決まる。
23日
村の日待ち宿  初左衛門
2月23日
宗門の判取(押印を取る)。前日、昼食後に久右衛門に宗門帳2冊、5人組帳、小入用帳2冊を渡す。当日、昼食後、久右衛門と勝二郎が来る。百姓・寺方共に判取り、酒を振るまう。
鉢 にしめ(くわい、ずいき、小芋、人参)、にしめ(豆腐、にしん、こんぶ巻き、したし、数の子)。西雲寺には食事を台所で出す。これは先の寺方(一向宗)が未だ帰っていなかったので台所で振るまうことになった。夕食  魚物(昆布巻き、にしん)かさ(したし)汁(こんぶ、棒たら)飯、鉢(田楽)、これらの材料は豆腐25丁、米は2升で余る、みそ。
30日
三月節句祝い。粉3升5合 餅3升。寺2軒と6軒に団子4個、餅3勺 おそのにはだんご3個と餅2勺を渡す。粉は3升5合では少し余る。
3月1日
手習い子 節句祝い。餅3勺 又よもぎ6勺 権蔵へ。餅2勺 又よもぎ3勺 吉治へ。餅3勺 又よもぎ10? ふさ吉へ。
2日
里の徳右衛門の子 幾二郎へ 餅5勺 又よもぎ4勺。里の徳次郎の子武之助 祝いに来なかった。
18日
伊勢参りに出立。前日に参宮に出かける人の見計らいをする。22名を選出。留守見舞いの人は、朝に庄左衛門、昼過ぎにおりう、おさわ。
19日
朝におむら、作十郎、安兵衛、米二郎、甚七。
20日
夜 油屋 作左衛門母 おひさ おもん 勘左衛門 米三郎
21日
里 庄兵衛 紋右衛門 由右衛門 十兵衛 義兵衛家内
5月3日
五月節句祝い。ちまき用の米粉8升。節句の参拝 早朝、氏神へ参詣。その他は何処へも参拝しなかった。挨拶に来た人は新右衛門 寺子屋で学んでいる子供(幾二郎、民之助、吉松)3人には各人にちまき2本を渡す。利右衛門が早朝に菊の花を持参し、改めて祝いの挨拶の様子。
30日
土用入り。餅米、白米、小豆で牡丹餅を作り、両家へ15個を渡す。昨年は出入り方と寺へも渡していたが、当年は取りやめる。
7月7日
西雲寺へ墓参り。白米3升 銭100文(半紙に包む) そうめん(大束6輪)例年は小束20輪であったが、当年は高値につき変更。18ををぎ。これらは6日の夕方に寺に渡す。おふみ、郷右衛門、乙八郎が参詣する。井戸替え 権七と市之助を雇い入れる。4つ時(10時)に酒を振る舞った。昼食は平(こんぶ、なすび、隠元豆)、かさ(もみ、うり)、汁(なすび)飯、酒。内井戸の様子が替わる。
12日
煙亡の与三郎に20文を紙に包まず渡す。
13日
生霊会の買い物。白餅20個、饅頭20個、ありの実5勺、もも10個。他にあさぎ色のかわらけは去年の残りがあったので買わなかった。髪結いに、盆の祝儀として100文を半紙に包んでのしを付けて渡す。この時、小兵衛が髪を結ってもらう。
22日
いくが藪入りのため、半期の給銀として30匁を渡す。これは覚え帳に記載あり。他に心付けとして布前だれ、鯖代として50文、ビイドロかんざし1本。与左衛門死去につき素麺7輪を遣わす。
9月?日
神事。買い物 鯖大20匹、中25匹、〆て45匹。これのすし、米3升にて作る。かまぼこ2枚、小生ぶし1本、しいら(鱪)。長濱氏が訪れる。酒。酒の肴 すし1鉢、硯ふた(かまぼこ、からすみ、はじかみ生姜)、鉢。本膳 ずいき膾、平(松茸、生ぶし、かぶらあんかけ)、魚物(しいら?すし3本)、汁(かまぼこ)、飯。
8日
亥の子おはぎ(餅米2升、白米3升、6合)本来は30日であるが、今日にした。利右衛門に9勺、九郎兵衛に7勺、西雲寺に7勺、久二郎に7勺、権七に7勺、勘右衛門に7勺、兵四郎に5勺を月番のおすへに持って行ってもらう。家内は小兵衛、おふみ、郷右衛門、おさきの4名、下働きの3人(岩、いく、こと)、大工2人が来る。郷蔵番(村に設置してある郷蔵の番人) 19名
11月24日
すす払い。未明に起きる。貞武の誕生日につき、以下の料理を準備して、雇人2人と家内(小兵衛、おふみ、郷右衛門、おさき)4人で誕生祝いをする。雇人2人には100文づつを渡す。朝食 平(いりがら-コロ、菜)、魚物(いわし)、汁(だいこん)、飯。
四ツ時(10時)  酒、うるめ。昼食 くき?。 夕食 平(だいこん、小芋)、魚物(いわし、酒肴)、汁(だいこん)、飯。
12月3日
免わり。8人が集まり、昼食をする。平[のっへい(ながいも、くわい、ごんぼ、にんじん、かまぼこ、しいたけ)] 魚物(いり付けのいな)、汁(大根、かき)飯。酒の肴[すずりぶた(くわい、たこ、こうや豆腐、みかん、かまぼこ)、鉢(たたきごぼう)]
15人が集まり夕食。平(上げ、菜)、かさ(たたきごぼう)。酒の肴[鉢(ぼら、大根)、鉢(たこ)、鉢(ぼら、たら)、鉢(小とうふ)、鉢(同上)、鉢(たたきごぼう)、鉢(くき)]。送り膳 清右衛門へ飯1杯、平(かき、ごぼう)。利右衛門へ小鉢とにしめ1杯、平1勺。久二郎へ先と同様 清七へも先と同様。平四郎へ重箱とにしめ1杯、平1勺。勘左衛門へ先と同様これらを遣わす。揚げ45丁 少々あまる。茶飯 白米8升 この米1升につき、水1升2合。茶をみそこしでこし、1杯焚き越し。
4日
寒さの中、浜・里の庄屋、年寄、4ケ寺が渋谷省吾宅へ出向く。
6日
内里(長村権左衛門)へ出向く。
9日
源吉は頼母子興行1枚、60匁を掛ける。頼まれたので半枚持つことを聞き入る。その為に夕食後に送り膳が届いた。魚物(いとより)、膳(作り身、ちりめん麩、だいこん、みしま、くり)、汁(かき、たこ) 飯(小おはちに1杯)、平(ぶり、長芋、くわい、さくら麩、みずな)、茶碗、酒の肴(たこ、かまぼこ、九年、なし、紅葉麩、長芋、こまめ、ごぼう、くわい、氷豆腐、数の子)
大晦日
歳暮に拙者が庄屋4軒、寺4ケ寺、伊右衛門、佐二衛門、利右衛門へ、去年の通り参る。

(2) 日常日記

 日常日記は当時の暮らしを引き出す貴重な資料と考え格式日記と比較してみたが、興味深い内容の記述を見だすことはできなかった。図17に示したように表紙もないし、見るからに簡素で普段のメモ帳と言った感じを受ける。しかし日常日記の記載内容は少ないが、天候に関しては詳しく書かれているので、当時の気候を知るうえで参考になる。また家族の病気についても記載があって、11月24日には乙八(十三代貞利の幼名)が痘瘡から回復したことを知ることができる。その他、伊勢講のお金の受け渡し、免割りの調整など行事に伴う裏方の格式日記には沿わない記載が見だされる。この日常日記は格式日記に記載した月日に限定して拾い出したもので、年間を通して詳しい記録が残っている。一年間の記録には多くの情報が残っているので全体を把握しないと日記の価値判断はできないかもしれない。
1月1、2、7、16、21日
記載なし
2月23日
天気 おと殿不快なので岩が上京。
30日
記載なし
3月1日
天気。過日 南村の清二郎より側道の杭に付き手紙が届いた。一件について 今日 伊三郎を呼寄かたく申し付けた。清二郎は心得違いのため書付を取って、当方へ持参した。勝二郎殿が入来し、伊勢講の銀子を今日 先もって入金する。これを今冬の勘定とする。清二郎が野尻へ出向いたが、お留守なので、改めてすぐさま参り書付でもって申し伝えたが、伝わらなかった。予期した通り手紙でも伝わらなかったと聞き及んだ。右の様に、道の杭を今日切り直すよう申しつけた。
2日
夜前より大雨 今昼迄に止む。
18日
天気 講参りへ出立。
5月3日
天気 渋谷同道 淀へ行く。
30日
記載なし
7月7日
天気 作兵衛が帰る。
13日
曇天 朝折々雨
9月8日
御名五百唱
11月24日
天気 すす払い。痘瘡後 乙八は初めて入湯する。
12月3日
天気 免割
4日
天気 割高だったので、両株役人が庄兵衛へ参り馳走になった。
9日
(空白)
30日
記載なし

(次号へ続く)

         
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by y-rekitan | 2014-04-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第49号より-05 大谷川余話⑫

シリーズ「シリーズ「大谷川散策余話」」・・・⑫
第12章 大谷区・流れは河内の國へ

 野間口 秀国 (会員) 

 メモ帳とデジカメを手に、季節を問わずに大谷川の流れに沿って何回も繰り返し歩いて1年余りを過ぎ、今やっと住まいのある橋本の地に戻った感があります。過ぎれば短いと思える時間的経過の中ですが、出発点近くの京田辺市松井の「今池」付近と終着点近くの八幡市橋本の「橋本樋門」周辺の変わりようにはただ驚くばかりです。
 大谷川の最下流部の第5区、八幡大谷の地を流れることより「大谷区」と呼びたいと思います。起点は京阪電車の八幡市駅に近い鹿野(かの)橋です。石清水八幡宮の玄関口「一の鳥居」に向かう御幸道に架かり風格ある橋と言えます。平成5年(1993)9月に架設されたこの橋の親柱は石を使った太い四角柱状で、上部には灯籠が飾られ、欄干にも石が使われています。前章で公儀橋と町橋に触れましたが、鹿野橋がかつて町橋であったらしいことを知りました。その様子などを詳しく知りたくて地元の人にもお聞きしましたが、その思いは完全には果たせておりません。しかし以前の橋が石橋だったこと、近辺は桜の名所だったこと、河畔には料理屋があったことなどを教えていただきました。なお、現在の鹿野橋は無論町橋ではなく府道に架かる橋であり山城北土木事務所で管理されています。 
 男山の東の麓を北へ流れた大谷川(放生川)は、この鹿野橋から明治43年(1910)4月15日に開業(*1)の京阪電車の線路に沿うように西へと向きを変えて流れ下ります。現在の流れはほぼまっすぐですが『八幡市誌・第3巻』の表紙裏の絵図には「四十八曲りと云」との注釈が添えられており、かなり曲りくねった川であったことが分かります。
 『男山考古録・第11巻』にも「・・南北へ縄打はへし如く曲りて、土人は常に四十八廻りと云、・・」と書かれているように、傾斜が殆ど無くて平坦な土地ゆえに流れはくねくねとして緩く、澱み気味になるのもいたしかたなかったのかも知れません。f0300125_12354158.jpgまた「四十八曲り」や「四十八廻り」は流れの曲り数の多さの形容ではありますが「四十八坊」や「四十八願」(*2)にも何かしら通じるものとも言えそうです。
 地元に住む人達に「四十八廻り」と呼ばれた川の流れる科手の地は、放生川が淀川に流れ下っていた地で、古くは淀川の氾濫原であり現在の鹿野橋あたりには池もあったようです。排水の悪い低湿地帯であった様子は古い時代の絵図などにも見えます。男山の北側、御幸道の西側に位置する「科手」の地名は古く、久世郡科手上里(カミサト)と呼ばれ『八幡市誌・第1巻』の第2章と巻末の年表にも見えるように八幡神の男山遷座に先立つ八世紀後半、条里制の地割が成立する頃にまで遡ることができるようです。また地名の由来はこの地が「山の片下がり(=シナ)の所(=テ)である」こと及び「洪水によって流出し堆積した砂礫地、スナ(=砂)・テ(=所)が転じた」ことのようです(*3)。
 明治維新の直後、明治元年(1868)の年末に始まった当時の政府による木津川付替え工事によって、淀で宇治川と合流していた木津川の流れが八幡の科手近くへと大きく変わったことは既にご存じのことと思います。この付替え工事に伴って、かつて男山の山側から尾無瀬川を経て淀川に流れ込んでいた数多くの小さな流れが遮断されてしまいました。また科手地区の北側には明治2年(1869)11月に完成を見た新しい木津川の堤防が科手の北側に築かれた為に堤防の南側に降った雨水も行き場を失い、結果的には科手から橋本にかけて現在の京阪電車の線路に沿うように細長い湿地帯が生じることになりました。
 このように水はけの悪くなった状態を改善するために広い範囲に盛り土がなされると共に、淀川への排水を一手に引き受ける、内水排出河川としての大谷川が整備され現在に至っているようです。これによって流れは真っすぐになって四十八曲りも解消されましたが、傾斜が殆ど無い状態が大きく改善されることは望めず堆積する砂や茂った水草などで渇水期に流れが澱む状態は現在でも発生します。同時に、新しい流れの出現に因りそれまであった科手地区の墓地も他の地への移転を余儀なくされてしまったことも話していただけました(*4)。この春(2014.03.15)に八幡市・文化財保護課によって行われた「今里遺跡発掘調査現地説明会」の資料に見える「八幡八郷と墓地の分布」地図はまさにそのことを語っているかのようです。
 大幅に改善され今ではほぼ真っすぐになった大谷川は京阪電車の線路に沿って横町橋、奥谷橋をくぐり西へと流れ下ります。奥谷橋の山手側に踏切があり、踏切近くに常昌禅院があります。この寺は曹洞宗の寺院で300年ほど前に創建されたと言われており、門をくぐると左側に幹回りが約1.5mもある大きな椿「日光(じっこう)」があり、八幡の歴史カルタにも「めじろ呼ぶ常昌院の紅椿」と詠われて花の時期には咲き誇る紅椿がめじろのみならず訪れる多くの人々の目を楽しませてくれます。
 流れは木津川の堤防を右に見て科手から橋本へと下ります。この堤防は府道13号線として大阪府枚方市へと繋がります。堤防を科手から橋本に向かって車で走ると、道の左側を覆うような楠の大木が出迎えてくれます。明治23年(1891)生まれで既に他界された祖父を持つ、そう話していただいた楠の近くに住まれる男性から「堤防ができた時には楠は敷地内にあった。家だけが敷地の南方向に移って楠だけが今の場所に残ったんだ。その時は木はまだひょろひょろだったと、祖父がそうゆうてたから樹齢は100年を超していることは間違いなかろう。」と話していただきました。お話の内容からも樹齢が確かに100年を超すことは間違いないと言えますし、目通りは461cm(直径は約146cm)でまさに大木です(*5)。f0300125_13221453.jpg
 この楠の近くに、現在は街中の飛行神社に祀られている二宮忠八翁が飛行器(機)の試作を行った工場(工作所)があったことは案外と知られていないことかも知れません。当時の建物などは残されていませんが、この地に史実を記した表示板の設置も検討がなされているとも聞き及んだことがあります。楠を過ぎて程なくの信号を左に折れると、かつては宿場町・門前町であった橋本の地に入ります。橋本住区への玄関口には「はしもとばし」があり、橋を境に流れは木津川左岸堤防(府道13号)の法面(のりめん)直下を流れ、かつての宿場の建物群を裏側から見上げるように流れ下ります。橋本の歴史について書くべきことはかなり多いですから、本章ではできる限り川や橋や水に関係する事柄に留めたいと思います。
 その第一が「渡し場跡」の道標です。京街道の町並みの風情がまだ残された橋本に足を踏み入れて間もなく、道の左側には共に小さいながら、先ず稲荷神社(豊影稲荷・石橋稲荷)があり、歩を進めると金刀比羅大権現の末社(?)があります。これを過ぎると少し大きめの道標があり、そこを右折し直進した場所に橋本で二本目の「栄橋」があります。橋の袂に「渡し場の案内石標」があり「大坂下り舟の里場(舟乗り場)」「山ざき・あたごわたし場」「柳谷わたし場」「津の国そうじ寺(総持寺)」などと読めます。京・大坂への上り下り、離宮八幡宮から石清水八幡宮へ油輸送、愛宕参詣や柳谷観音参り等、多くの客で賑わったであろう様子が想像できます。
 f0300125_1323494.jpg渡し舟は時代が下って昭和37年(1962)まで運行されていたようです。京阪電車の橋本駅京都方面行き改札口前にある洋食の店「やをりき」さんで珈琲を飲みながら、お店のファンを自認される近所のご婦人から「私も父に連れてもらって何回も山崎へ渡ったこともあるよ…」と当時を懐かしむように話していただきました。また「かつて京阪電車のストライキで大阪への勤務ができないため、渡し舟で山崎へ渡り、当時の国鉄山崎駅から列車を乗り継いで会社へ行ったことも…」との話も知り合いの会員から聞き、駅近くにお住まいのご婦人から「山崎に渡り西京極に野球の試合を見に連れて行ってもらったよ」と教えていただきました。そんなことを物語るかのように、栄橋を渡り堤防の法面の階段を上って府道を横切ると、堤防の反対側を斜め左に降りる人一人が通れるほどの小路が残されております。この冬、催し物の一つとして「渡し舟復活」が計画され、舟乗り場も造られましたが生憎の荒天で行事は中止となり楽しみにしていた渡し舟には乗れずじまいでした。渡し舟にロマンを感じるのは私だけでしょうか。
 八幡市を写す航空写真を見ると、町は地形的にも水と向きあうことが避けられない場所であることが一目瞭然です。淀川水系の上流部で降った雪や雨は、向かいの天王山と男山に挟まれたこの地で一本の流れになり海へ下ります。同じ水系の大谷川もまた美濃山と男山の山裾を巻くように流れて橋本の地で淀川へと注がれます。八幡町誌や八幡市誌、また関連する資料・書籍などに目を通す時、水害、浸水、洪水、内水などの言葉が頻繁に目に止まります。大谷川に沿って現存する複数の大字・小字の地名が水や水害などに由来するものであることは綱本逸雄氏著・勉誠出版刊の『京都盆地の災害地名』からも良く分かりますし『八幡市誌・第二巻』『同・第三巻』の年表には水との闘いが繰り返された史実が数多く見られ、今日に至る様子が良く理解できます。
 このように長い年月にわたる水との戦いに対し、人々が「神仏にもすがりたい」と思うのは自然なことでしょう。そのような思いが橋本小金川の一角にあって地元の皆様に大切に祀られている「水嫌(みずきらい)地蔵」と呼ばれるお地蔵様に表れているようです。祠の右手前にある棚には寄進された人々のお名前があり、地元のみならず木津町、姫路市、遠くは神奈川県の地名も見られます。棚の前にはご利益の「地蔵十益」が飾られ、その六番目には「火と水の難にあわない」とあります。近所にお住まいの年配のご婦人からは「お地蔵様は私が生まれた頃からあるよ」と教えて頂き、また昭和40年代から近くで「理髪店・犬飼(いぬかい)」を営まれる同店のご主人は「ここに来てから水難には遭っていないよ」とも話していただきました。お地蔵様が鎮座されている祠は平成5年8月に建て替えられたようです。祠の左側にはお地蔵様の由来を伝える説明板があります。ここではその内容は割愛しますが、先の理髪店のご主人からお祀りは地蔵盆の時期とお聞きしました。
 大谷川の流れがまさに淀川の河川域内に入る直前に「橋本樋門」があります。増水時に本流の水位が高くなると水が逆流する可能性があり、それを防いでくれるのがこの樋門なのです。かつては木製観音開きの構造であった樋門も、本流からの水圧に抗して構造的により強い垂直に昇降する構造(鉄製の電動スルーゲート)に改善されています。前述の『八幡市誌・第三巻』の年表にも昭和41年(1966)5月に「橋本樋門改築完成」との記述があります。昨年、平成25年(2013)秋の豪雨の際にも閉じられた樋門が水の逆流を止めている様子を実際に目にし、その重要性を再認識できました。隣には少し小ぶりですが「小金川樋門」もその存在を誇示しています。
 f0300125_13275321.jpg現在、平成26年(2014)4月10日時点、これら両樋門の近辺では京阪電車の線路と大谷川を一跨ぎする新しい道路橋工事の真っ只中です。既に土に隠れて見ることは出来ませんが、橋脚部には古くからの浸水や洪水の歴史を語るかのように堆積した砂の地層が静かに眠っていることも記しておきたいと思います。樋門を過ぎると本シリーズで最後の橋となる「小金井橋」です。橋の所在地は大阪府枚方市ですから、大谷川の流れはここで山城の國に別れを告げて河内の國へと入ります。
 昨年の春から書き続けてきました「大谷川散策余話」のシリーズも次号の「第13章、終わりに」を残すのみです。最後までのお付き合いをお願いいたします。

(*1)京阪電車お客さまセンターのご協力をいただきました。感謝申し上げます。
(*2)平成25年(2013)10月10日の歴探10月例会の講演にて、本庄良文氏が話された「八幡における浄土信仰」より。
(*3)綱本逸雄氏著・勉誠出版刊の『京都盆地の災害地名』より。
(*4)平成26年(2014)1月24日、科手にお住まいの井上隆夫氏宅にて氏より、科手の歴史やかつての様子などをお聞かせいただきました。紙面にてお礼申し上げます。
(*5)目通りは3回測定した結果の平均値です。直径は461を3.14で除して算出。


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by y-rekitan | 2014-04-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第49号より-06 墓石をたどる⑤

シリーズ「墓石をたどる」・・・⑤
足立寺史跡公園(豊蔵坊)の墓をたどる

谷村 勉 (会員) 

 八幡市西山和気の足立寺史跡公園の北側階段を登ると、和気神社を左に見て、正面奥のこんもりした丘に行けば「豊蔵坊信海墓」と彫られた三宅安兵衛碑が立ち、豊蔵坊の墓石群が見える。前回は豊蔵坊信海(孝雄)を中心に報告したが、今回は墓石群の全体像を報告したい。
 墓石群は東、南、西方向に位置し、北側は空いている。それぞれの位置は写真に示す通りで、ほぼ全体が豊蔵坊の関係者と思われ、豊蔵坊信海(孝雄)の師である「豊蔵坊孝仍」の墓石も残っていた。五輪塔の材質はいずれも砂岩だが、なかでも江戸時代中期の孝起、孝寛、孝暁の墓石では大型の一石五輪塔になっていて、豊蔵坊の財力が垣間見える気もする。一般的に西日本では室町時代後期から江戸時代初期にかけて小型の一石五輪塔が多く作られた。五輪塔は下から地輪、水輪、火輪、風輪、空輪となり、普通は空風輪を一石、他を3個に分けて作られる。地輪には年代・人名・梵字が刻まれることが多い。
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南側にある墓石5基の内、中央にある③が豊蔵坊信海(孝雄)の墓石で、向かって右隣に信海の師である④「豊蔵坊孝仍」の墓石も判明した。しかしながら、豊蔵坊孝仍の墓石は上半分に剥離を起こし、その部分の文字が不明である。
 ②の五輪塔は地輪の下半分が壊れてなくなっており、肝心のところの墓碑が判読できず不明である。地輪と水輪は接着しているが空輪は当然接着していない。
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豊蔵坊の住持と思われる墓石に彫られた墓碑を没年月日の年代順に示す。
 ④孝仍 法師孝仍大菩提  寛永二十年十一月廿四日(1643)
 ③孝雄(信海)  為大阿闍梨孝雄大菩提也  貞享五戌辰年
   九月十三日(1688)
 ⑥孝起 大阿闍梨孝起  宝永五戌子年十一月十三日(1708)
 ⑤孝寛 法印権大僧都孝寛  元文三戌午年十月十二日(1738)
 ①孝暁 権大僧都法印孝暁  明和六己年季夏廿四日(1769) 
   (季夏:陰暦6月)

 f0300125_9311070.jpg豊蔵坊孝仍(ほうぞうぼうこうじょう)の墓石も信海同様に一石五輪塔ではなかったか。歴代の豊蔵坊住持と思われる他の墓石はどれも一石五輪塔の形式を残している。孝仍の墓石はいわゆる玉ねぎ剥離が進み、幸いにもかろうじて残った部分に孝仍の名と没年月日が読み取れた。豊蔵坊孝仍について『男山栞』では「松花堂画門人」として、まず萩坊乗圓と豊蔵坊孝仍を挙げて「信海の先住と云、‥筆力あるもの也」と記されている。また『瀧本栞』にも「信海の先住孝仍の画萩坊に雁行するも知人まれなり」とある。松花堂昭乗は寛永16年に56歳で亡くなったが、豊蔵坊孝仍の没年は『古今非画人画史』によると寛永20年に40歳で亡くなったようだ(豊蔵坊信海の伝と文事/塩村耕)。
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◎西側2基の内、右側の1基に4人の墓碑がある。右から
   法師泰山寛専 元文六(1741)酉二月廿九日
   法師空善寛忠 寛保元(1741)酉九月廿三日
   法師長運寛德 延享三(1746)寅七月廿一日
   阿闍梨弁隆寛周
 いずれも「寛」の一字が記されていることから、南側、⑤孝寛の弟子たちの墓石かもしれない。阿闍梨弁隆寛周に没年月日は彫られていない。
◎西側2基の内、左側の墓碑。
   大法師権大僧都法印精信 享保五(1720)庚子年十月十四日
 墓石の頭頂部に水輪のはがれた痕跡があり、一石五輪塔と思われる。地輪、あるいは梵字の基本を示し、あらゆる諸仏諸尊を代行するといわれる梵字「ア」字がある。住持クラスの墓石形式だが「孝」の字はない。

 最後に、豊蔵坊は幕末まで続いていたので、江戸時代後期の豊蔵坊住持達の墓石はどうなったのか。今後も豊蔵坊の全体像を理解する為に、関係資料を調査したい。


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by y-rekitan | 2014-04-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第49号より-07 今里遺跡発掘

神領墓地は何を語るか
―今里遺跡の発掘調査報告―

高田 昌史 (会員)

1.はじめに

 今里遺跡は、八幡市北東部の水田地帯の遺跡で、石清水八幡宮神領の八幡八鄕(やわたはちごう)の縁辺部の古い集落である川口と下奈良の間にあり、中世後半に成立したとされる「外四鄕(そとよんごう)」に位置する。
 この度、市道建設(二階堂川口線バイパス)に伴う下奈良隅田(隅田墓地西側)で、今里遺跡の発掘調査が八幡市教育委員会の文化財保護課により、平成25年12月から平成26年3月まで実施された。
 今回の発掘調査中に現場を訪れ見聞きしたことを現地説明会及び周辺の関連情報も含めて報告する。

2.発掘調査結果の概要

 調査対象地は下奈良の隅田墓地西側の畑地300㎡で、南区160㎡と北区140㎡の2回に分けて行われた。
 調査の遺構面は4面で、それぞれの遺構面の年代幅及び遺構や出土品等を一覧表(表1)にまとめた。
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(1)南区 : 図 1

 安土桃山時代~室町時代後期までの第1面から第2面の遺構からは、多くの火葬の跡が発掘された。その火葬跡からは、1人ずつの1回使いの火葬土坑から、f0300125_16393076.jpg継続的な使用を目的とした常設施設の石組の火葬炉へと変遷がうかがえた。
 火葬炉(図2)は、床面に平石が敷き詰められ、側面には石塔の台座などの多くの転用石が見られる。この火葬炉の北面中央に斜め設置されている平石(図2の◯印部)には、三茎蓮(さんけいれん)の文様が彫られている。なお、この発掘地の東隣の下奈良隅田墓地の小屋内(龕前堂)に残っている棺台の台石の4側面に同じ三茎蓮の文様がある。(図3参照)
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 また、火葬炉の内面は煤がかなり付着している部分や、火を受け赤褐色に変色している石が確認された。火葬炉周辺の火葬骨片を含んだ炭灰で埋まっていた浅い大きな土坑からは、室町時代に流通した永楽通宝(宋銭)や明銭など多くの六道銭が見つかった。
 火葬炉の周囲には五輪塔などの石塔を並べて設置されており、北辺の中の一基のみは砂岩製で「国阿禅門/康安元年(1361)/五月九日」と刻まれていた。他の石塔は花崗岩製で地輪部のみが残っており、その一つに梵字が刻まれているものが見られた。これらの遺構の下、第3~4面は室町時代前半期~平安時代後期の遺構面で、火葬土坑は少なく第3面で4基ほどに留まり、土葬墓が数基見つかった。最下面の第4面は砂が広がる河原で、土葬坑や土器等の供献品や骨片が残っている遺構がいくつか検出され、調査地の西側沿いに古代から中世の木津川の古い川跡が北流していたことが、ほぼ明らかになってきており(注1)、その河原に埋葬され始めたことがわかる。
 (注1)川口扇遺跡発掘調査報告(2007年):(八幡市埋蔵文化財調査報告書)による。

(2)北区 : 図 4

 南区に多くあった火葬土坑は少なく、江戸時代前期~中期初め頃の大型土坑と大量の火葬によって生じた残渣の捨て場が見つかった。f0300125_1817231.jpg大型土坑の底部に小坑が密集して掘られ、それぞれの小穴には炭・灰・火葬骨あるいは土器や銭が埋められており、大きな時間差なく埋めることを繰り返している。この場が直接、火葬場として使用されていた訳ではなく、納骨あるいは廃骨のために掘った穴とみられる。
 調査区西壁沿いの斜面には五輪塔の部材や一石五輪塔、板碑、船形石仏など、15~16世紀の石塔類が3グループ程にまとめて埋められていた(図5)。その石の上や間には火葬残渣が厚く埋められて、その上層部から寛永通宝の六道銭が出土したので、江戸時代前期~中期初め頃に埋められたようである。六道銭は6枚きちんと重ねられた状態でも発掘された(図6は、供献品の六道銭と土師器の発掘時の状況写真)。
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 従って、南区は火葬炉が中心にあり、その周りに五輪塔などの石塔が並べられた墓地だった。しかし、文禄5年(1596)の伏見大地震で石塔が倒れるなどして使える状態でなくなり、墓地は北に広げられたが、江戸時代中期から後期初めに現在のように縮小されたと推定できる。
 なお、これらの地層上面からは、大地震の時に起きる液状化現象に伴う噴砂跡が、多く確認されており、遺物等の関連性から伏見地震に伴うものであると考えられる。 

3.発掘調査成果について

 今回の調査で、石清水八幡宮神領内の大規模な墓が初めて見つかり、中世墓の成立からの変遷が明らかになった大変貴重な成果を得たといえる。また、最下面の第4面の砂が広がる河原への土葬から埋葬が始まり、それから火葬が主になり、1人ずつの埋葬から集合的になっていく、変遷が追える貴重な事例であり、珍しい火葬専用の石組み炉も出土した。
 火葬の早くからの普及に加えて副葬品に中国製の輸入陶磁器や天目茶碗など高級品も多く出土しており、石塔も多く作られていることからも、経済的にも豊かな上位階層の人々が被葬者に含まれていることを示している。また、多く出土した六道銭には、室町時代に流通した永楽通宝(明銭)や皇宋通宝(宋銭)及び開元通宝(唐銭)などの国内で流通した多くの輸入銭や江戸時代の寛永通宝が出土した。
 また、納骨された状態で発掘された平安末期(12世紀)の蔵骨器(骨つぼ)は、愛知県の常滑あるいは渥美産であると考えられている。

4.発掘現場周辺の状況

 今回の発掘現場周辺の状況を図7に示したが、現場は巡検道(注1)北側で、川口・下奈良・二階堂の三集落の隅田墓地西側である。
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この墓地周辺は地元の人からは「千日の墓」(注2)と呼ばれており、その南側には井関経塚(注3)がある。
 また、墓地の南東隅には、墓地内や周辺工事で出土した数百体の石仏や石塔・石碑類が集められている。それに、道路を挟んだ東側の水田と道路(巡検道)の間に、約百体の比較的小さい石仏が並べられている大変珍しい光景を目にする。これは、下の水田から出土した石仏を集めて並べられていたが、その他にもこの地区の巡検道や集落の道の各辻に必ず置かれていた「辻の地蔵さん」も多く持ち込まれ置かれて数が増加したと聞いた。
  (注1) この巡検道は八幡神原から旧市街を抜け、この田園地帯の下奈良に
      至る約2kmの道であり、神領の検見や収穫の管理にあたっていた。
  (注2) 明治初年に廃寺なった千日寺の墓。千日寺は、浄土宗三十六ヵ寺組には
      入っていない。
  (注3) 経塚(きょうづか)とは、経典を土中に埋納した塚のこと。井関経塚は
      幅約5mの盛り上がりが残っている。


5.おわりに

 今回の発掘調査により中世の大規模な墓地であることが確認出来たが、まだ、この墓地全体の規模が確認できていないので、引き続いての発掘調査を期待する。

参考資料
  (1)八幡市遺跡地図(2005年版):八幡市教育委員会
  (2)平成25年度今里遺跡発掘調査の現地説明資料
     (2014年3月15日):八幡市教育委員会
  (3)中世前期以前の八幡の墓について(八十島豊成)
     :同志社大学歴史資料館館報第5号
  (4)川口扇遺跡(第2次)発掘調査報告書(2007年)
     :八幡市教育委員会
  (5)「今里遺跡」(ほ場整備事業地内遺跡第3次発掘
     調査概報)1996年:八幡市教育委員会
  (6)八幡市誌第2巻

《謝辞》
 今回の発掘地は自宅から近い場所でもあり、発掘中に何回も現場を訪れたが、現場で発掘調査の指揮された、八幡市文化財保護課の小森主幹殿及び大洞係長殿(現市民部課税課係長)には、厳しい日程での発掘調査中にも拘わらず懇切な説明やご教授を頂きました。厚く御礼申し上げます。
 お陰様で発掘開始から、調査後の埋め戻しまでの発掘調査のほぼ全行程を確認することが出来ました。

by y-rekitan | 2014-04-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第49号より-08 水月庵円福寺

水月庵 藪を抜ければ円福寺
―「自転車で巡る名所案内」下見見聞記―

八幡の歴史を探究する会  土井 三郎


 八幡の歴史カルタに、「探訪マップ」が付録としてついている。それを目当てに八幡の各所を自転車で巡ったある会員が、一人で訪れても何のことかよくわからないとこぼした。やはり「先達(せんだつ)が必要という事なのだろう。
 私たちに先達が務まるというものでもないが、少なくともカルタに取り上げられる名所案内であれば何とかできるのではないか。そんな思いで「自転車で巡る八幡の名所案内」という企画を立案した。市の観光協会からも後援を頂いて実施することになった。これまで八幡の名所案内と言えば男山東麓ないしは旧八幡町に偏っていたきらいがある。自転車を借りれば遠出も可能ではないか!
 そこで、大体のコースを策定し、4月1日に下見を実施した。
この日、京阪八幡市駅前は花見客でごった返していた。担当者である高田さん、村山さん、谷村さんと私の4名は、観光協会前を出発し、科手・橋本方面をめざした。
 椿で有名な常昌院、長宗我部盛親が潜んだとされる屋敷跡、二宮忠八が飛行機(器)製作に励んだ場所、橋本の旧街道と遊郭跡、そして先日の橋本歴史探訪で訪れた西遊寺。橋本のバスターミナル。それ等の「名所」を詠んだカルタの句は以下の通り。
    めじろ呼ぶ常昌院の紅椿
    橋本の街道沿いに渡し跡
    湯沢山で寺号茶久蓮寺
    鳥羽伏見橋本の街焼き戦い終わる

 久修園院の墓地に在る淀屋関連の墓標を確かめ、安居神事と関わりのある「鹽竃」の石碑脇を抜けて猿田彦神社へ。ここでは神社の来歴について考えたい。猿田彦が八幡神を先導したとの伝承があるが果たしてどうか。道祖神との関わりはどうなのか。そもそも猿田彦社は、村の鎮守なのではないのか?
 微笑み地蔵で知られる講田寺も謎が多い。そして、和気神社へ。足を切られた清麻呂の足がつながり立ったとされる伝承と史実についても考えたい。ここには豊蔵坊信海の墓がある。
 「ママチャリ」ではいささか登りがきつい坂道を登れば茶臼山古墳跡の碑が建つ男山三中の一角に出る。ここから出土した石棺は、高槻の今城塚古墳の石棺と材質が同じであるという。京大博物館に保存されているのを見学したことを思い出す。
 坂道を下ればさくら公園。花見客で溢れていたが、ほとんど顧みられることのない蕪村の句について考えたい。
 そして水月庵にたどり着いた。恥ずかしい話であるが、水月庵に来たのは初めてである。
    水月庵藪を抜ければ円福寺
 このカルタも、制作した側の立場なのに、何のことかよく分らなかったのである。だが百聞は一見に如かず。水月庵は鬱蒼とした竹藪に囲まれているのである。水子地蔵が祀られているということでも知られている。そのお地蔵さんに手を合わせて帰ろうとすると声をかけられた。見ると庵主様である。水月庵は尼寺である。
 親切な庵主様は、境内の隅にあるコンクリート製の建物の屋上に上がれば眺望がよいとおっしゃる。なるほど、男山の団地から枚方の街並みが一望できる。近くの古い民家は、旧幣原の村落に属していたとのこと。
 「折角のお見えだから円福寺まで案内しますよ」と声をかけられ喜んだことは言うまでもない。
 f0300125_1545113.jpg竹藪の中は、ひんやりとしてどこか異次元の世界に踏み込んだ印象を受ける。途中、浅井家の墓がある。浅井家といえば浅井周斎が知られる。周斎は円福寺に土地を寄贈した有徳人で、南山焼の創始者でも有名である。
 やがて円福寺にたどり着く。円福寺は、「万人講」で知られ、5年前に参加したことがある。お斎(おとき 精進料理)を頂き、普段は非公開の達磨像を拝んだ後、青い目の修行僧の案内で御殿に導かれ、妙心寺から来られた高僧の講話を聴いたことを憶えている。
 その円福寺の前を横切ろうとすると庵主さんの姿を認めたご住職が寺を案内させますよと声をかけて下さった。
 この上もない僥倖である。若く屈強そうな修行僧に案内され、本堂に安置される本尊「十六善神」や「釈迦十大弟子像」などを拝観。釈迦如来像の何と慈悲深いお貌であろうか。そして彫の深い弟子達の解脱を希求する姿に暫し圧倒されたものである。
 続いて檜木の香り漂う禅堂に案内される。堂内を支配するのは静寂と清澄感であった。しばらく座禅したい気にさせられる。但し、雑念ないしあらぬ妄想に襲われ一喝されること疑いない。
 円福寺を後にした私たちは国道一号線の洞ヶ峠まで出てそこから吉井のバス停を経て松花堂庭園に帰って来た。得ることの多い半日であった。
 自転車で巡る名所案内は、5月から隔月に、第一日曜日に実施される予定である。詳しくはチラシでご確認していただきたい。人数が制限されるので参加希望はお早めに!
by y-rekitan | 2014-04-28 05:00 | Comments(0)

◆会報第49号より-end

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by y-rekitan | 2014-04-28 01:00 | Comments(0)