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◆会報第50号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“わが心の風景”㉓◆
◆《講演会》 門前町の八幡「今」「昔」◆
◆シリーズ:“伊佐家の暮らしとしきたり”③◆
◆シリーズ:“大谷川散策余話”⑬完◆
◆シリーズ:“石清水八幡宮の歴史Q&A”①◆


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by y-rekitan | 2014-05-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第50号より-01 巡検道

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わが心の風景・・・(23)
巡 検 道


f0300125_117439.jpg  八幡市民図書館から南へ300メートルほど行くと、東へ入る細い道があります。ここは「馬場」と「神原」の字界(あざかい)で、角に「巡検道(じゅんけんみち)」と刻まれた大きな道標が建っています。
 巡検道は、ここを起点とする幅3メートルに満たない曲がりくねった道のことで、旧市街地を抜けて大谷川を渡り、田園地帯を下奈良まで、その距離は約2キロメートルも続いています。
 『男山考古録』によると、江戸時代の初め、国郡巡検の役人が図をもって取り調べのために進行し、その案内には郷役人があたったと記しています。江戸時代を通じて神領内における社務家領や僧坊領などは所司(しょし)・法眼(ほうげん)が検見(けみ)の役にあたり、修理料米などの役米は郷当役が担当。さらに社士(しゃし)たちが共有する社米地などは、社士中の当番役が検見や収穫の管理にあたっていました。
 3分の2が田園地帯を通る巡検道には、手作りの野小屋など昔ながらの田園の風情が残っています。   (絵と文: 小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2014-05-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第50号より-02 八幡門前町

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《講演会・シンポジューム》
門前町の八幡「今」「昔」
― 2014年5月  飛行神社にて ―

共催: 東高野街道八幡まちかど博物館協議会
第一部: 講演 同協議会 高井輝雄
第二部: 各位による シンポジューム


 5月11日(日)、飛行神社を会場に、標題のタイトルで5月例会が開催されました。今回は、東高野街道八幡まちかど博物館協議会と共催で行われました。参加者46名。
 第一部は、まちかど博物館協議会の高井輝雄さんが、これまで蒐集されてきた写真を映しながら、「写真で見る、門前町の今・昔」と題してお話して下さいました。

第一部 「写真で見る、門前町の今・昔」

  「写真で見る門前町の八幡の今・昔」は、近代以降、現代(昭和50年代始め)に至るまでの門前町の様子や発展の過程を、写真を中心に紹介しました。番号を付し、その説明の要約を以下にまとめました。

① 門前町・八幡の近代始めの出来事は、明治元年「木津川付替え工事」の着工(明治3年完成)である。そして、明治33年から施工された宇治川の改修、宇治川と桂川の隔流工事と続き、昭和5年この一連の大事業は完成した。(三川合流工事完成時の写真を紹介)
 この工事と共に、木津川・宇治川の二つの御幸橋がコンクリートで架橋、京都方面から入る門前町・八幡の表玄関となった。

② 今や日本一の桜の名所である「背割り堤」が、昭和40年代までは「山城の天の橋立」と言われる黒松並木であった写真を映した。

③ 初代「御幸橋」は大正2年、木製の土橋として架橋。昭和5年にコンクリート橋に。現在の橋は三代目で平成22年に架け替えられた。2代目の橋の横に、今まで見たことのない仮橋の写真を見る。

④ 八幡小学校の前身校・「知周校」は、今の八幡駅前に明治6年創立した。大正3年、敷地内に在った町役場と共に八幡菖蒲池(現在地)に移転した。いずれも興味ある写真を紹介。

⑤ 明治43年4月、京都五条~天満橋間に「京阪電車」が開通した。電車は一輌のレトロな車両で、珍しい電車に八幡駅には多くの人が押寄せてきている模様の写真を写した。女性1期生として昭和19年電車を運転した馬淵慶子さんの回顧談を紹介した。
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⑥ 「飛行神社」が創建は大正4年、世界で初めてゴム動力による飛行器を飛ばした二宮忠八によってである。創建時の小さな祠を見る。
今年、神社は創建99年を迎えている。友田宮司の挨拶で、再来年目標に二宮忠八の生涯をアニメ化されることが述べられた。

⑦ 「男山ケーブル」は、大正15年開業、開業時の欧風のオシャレな駅舎と共に写真を見ることができた。

⑧ 八幡を内水被害から守る要の施設は「八幡排水機場」である。昔から内水に悩まされてきた八幡は「水害の町と言えば八幡町」と、昭和40年代まで有難くない代名詞をいただいてきた。内水害は、町の発展を阻害する大きな課題であった。
先人の弛まぬ努力と行政の対応により排水能力大幅アップ、橋本樋門の改築完成。町中心部の開発も急速に進んだ。(昭和36年10月の琵琶湖と化した町中心部の写真を見る)

⑨ 八幡の竹をフィラメントに使い、白熱電球の実用化に成功した発明王エジソン。その「エジソン記念碑」は、昭和9年男山展望台(写真見る)に設けられていたが、昭和33年、現在地に移転、後に改装された。

⑩ 昭和9年、近畿を直撃した「室戸台風被害甚大」であった。八幡小学校では、校舎が倒壊し先生を含む34名が亡くなり、117名が重軽傷を負う史上最悪の大惨事となった。校舎倒壊現場を茫然と見る児童の姿を映した。
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⑪ 今となっては、とても懐かしい「やわた水泳場」の写真も映された。戦後22年再開され、途中から町も経営に参画、41年に閉場となった。今は想像できない白砂清流の木津川に多くの水泳客が賑わう写真を紹介。

⑫ 事業の巨大さと課題山積の「男山団地の開発」の経緯は、あまり知られていない。
 開発前の男山丘陵、着工及び完成の写真が映される中、開発のきっかけとなった状況、開発前の苦汁、開発後の難題克服の取組みについての説明をした。
⑬ そして、昭和52年11月、新生「八幡市」が誕生した。
 
以上の他に門前町八幡の「情景あちこち」と題して、主に東高野街道筋の珍しく、懐かしい昔の写真を紹介した。
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第二部 シンポジウム「門前町の八幡の今と昔」

 第2部のシンポジウムでは、以下の方々が、それぞれの思いや経験などを語ってくださいました。
 【基調の提言】
   堀尾行覚さん(“らくがき寺”住職、65歳)
 【パネリスト】
   吉岡久江さん(八幡土井在住、86歳)
   柏村昌男さん(西山足立在住、85歳)
 以下、概略を紹介します。
《堀尾行覚さん》
 仏教の世界では、「諸行無常」という言葉が世の中をとらえる指針になっています。すべてのものが移ろいゆくということです。そういう移ろいゆく世の中で、私自身がどう生きてきたかということが問われてきます。
 移ろいゆくものには、町もあります。町はどう変わってきたか。もっと言えば、私たちは何をどう変えてきたか。そして、これからの町づくりを考えた時に、何を変えるのか、何を変えてはならないのかが問われてくるのではないか。
 私たちは、この間、「便利さ」や「効率」「速さ」を選んできました。私が子どもの頃、テレビや電気冷蔵庫、電気掃除機、そして自動車が急激に普及してきました。それらは便利なもので、効率がよく、速いものでした。
 そして今、私自身は仏教の世界に身を置いていることもあり、敢えて不便なものを残しています。五右衛門風呂がそうであり、汲み取り式便所、かまどがそうです。私のお寺(単伝庵)では敢えてそういうものを残しています。円福寺もそうです。たくあんを干し、うめぼしを漬けています。
 記憶に新しい東北大震災。人々が避難所に求めたのは何だったのでしょうか。電気が回復しない中で機能したのは「五右衛門風呂」であり、汲み取り式便所であり「かまど」だったのです。勿論保存食は欠かせません。
 寺は、大震災がおきた際の緊急避難所になります。皆さんが求めているものをさっと提供しなければなりません。そういう時に便利なもの、効率だけを追ったもの、早さを追求したものは用をなさないのです。
 今、そのような非常時ばかりではなく、日常の暮らしの中に、あえて不便なものを残し、効率や速さだけを追求しない生き方、暮らし方が求められているのではないでしょうか。
そして町づくりにもそんな考え方があるのではないかと思うのです。
 私たちが暮らす八幡は、今日のシンポジウムの標題にあるように、紛れもなく門前町です。石清水八幡宮の門前町として発展してきたのです。それを抜きには考えられないのです。そのことを今一度噛みしめることでこれからの町づくりを共に考えて行きたいと思います。

《吉岡久江さん》
 私がここに嫁いできた時に、お姑や年長者が語ったことで覚えていることが二つあります。
 一つは、「葬礼(そうれん)橋」です。今、ツジトミスーパーの前の放生川に架っている橋のことです。科手の方の墓に向かう時に使う橋だから葬礼橋と呼ばれ、祝い事があるときにはこの橋を渡ってはいけないと言われました。ですから、そんな時には、私はその橋を渡らず、わざと安居橋まで迂回して八幡の駅に歩いたものです。
 もう一つは、私の住む前の通りが「市場通り」と呼ばれていたことです。市場もそれらしい町並でもないのに何故そのように呼ばれていたのか不思議に思ったものです。
※ 『八幡市誌』第2巻によれば、康平6年(1063)宿院河原(放生川右岸)で市が開設されたとあり、13世紀に市場町が形成されたと指摘する文献も見られる。また、江戸時代に描かれた八幡絵図には、放生川東岸の安居橋から高橋にかけて南北に「市場町」の地名を見ることができる。(編集部)

《柏村昌男さん》
 私は、昭和11年に八幡小学校に入学しましたが、そのころ、志水の商店街はたいそう賑わっていました。
円相園という大きな茶舗があり、店先に大きな茶壷があったことを今でも憶えています。建物は、昭和61年に買い取られアメリカのカリフォルニアに移築されたとのことです。
 酒屋があり豆腐屋、塩・醤油・麹屋、八百屋、呉服屋が軒を連ねていました。先ほど、八幡駅前に「八ツ橋」お菓子の店が映されていましたが、それは「ヨシヤ」で製造されていたのです。連日、近郷近在から来る多くの買い物客で賑わっていたのです。
 泥松稲荷は「ドロマッタン」と呼ばれていました。毎年2月11日になると、大阪から信者の方々(講)が大勢来られ、湯を沸かす神事が行われたりしました。そんな時、子ども達は大阪の講の方々が配る粟おこしを楽しみにしたものです。
 いま一区の公会堂がある所では、春になるとタケノコの市場になりました。筍は男山の藪でとれたのです。そして筍のシーズンが終わるとそこで、芝居小屋が立ち、チャンバラや大衆演劇が行われました。
 小学校時代の記憶にあるのは、昭和15年に石清水八幡宮で行われた正遷宮のことです。それは賑やかに行われたものです。また、当時は軍国主義の時代でもあり、毎日男山に登り戦勝祈願のようなことをさせられました。そして昭和16年の太平洋戦争を迎えるのです。
 戦時中、淀川工業学校に入った私は、松下電器で学徒動員の日々を送りました。志水の商店街は、統制がだんだんに厳しくなり店舗もすたれてきました。
 戦後、商店街は再び賑わいを見せるものの車社会の到来と共にシャッターを下ろす店舗が増え始め今日に至っています。

 休憩をはさんで、参加者を交えた質疑応答がなされました。論点のみ紹介します。

① 志水の商店街が賑わっていたのは、近郷近在からの来客者が多かったことによるが、松井山手や大住、上津屋、内里、上奈良・下奈良等の東在所だけでなく、楠葉や川向うの高槻辺りの方達も足を運んだからである。

② 志水町の賑わいは、石清水八幡宮へ参拝する際に見せるお札がここで発行されたことでもわかるように、八幡宮への参詣客が行き交ったからである。

③ 男山団地の造成は、次の理由による。一つは、男山の一角に珪砂を発掘する工場建設の動きがあり、それに対抗する手段として団地造成の計画が起こったものである。また、橋本狩尾地区に始まった乱開発を押さえるためにも、行政主導による計画的な街づくりが求められたことによる。

④ 街並み保存という課題をクリアするためには、一個人だけの努力では限界がある。府や市の援助はもちろん、市民あげての街並み保存への声の高まりが不可欠である。

⑤ 「門前町」という事では寺院の存在も欠かす事が出来ない。八幡の寺院がそれぞれの個性を尊重しつつ連携を模索する中で、観光資源としての寺の在り方が明らかになるのではないか。

⑥ その際、わきまえなければならないのは、寺は檀家・信徒があって成り立っているということである。

⑦ 町づくりで大事なことは役割分担である。門前町である八幡の将来を考えた場合、行政はもちろん、神社や寺院の自覚的な取り組み、市民意識の向上は無くてはならない要素である。今日のような取り組みもその一つになる。

⑧ そして、今私たちは八幡らしいまちづくりをどう模索するのかということである。楠葉や美濃山周辺で大型商業施設の開発が進んでいるが、そんな方向を目指すのか。景観保存を含め、必ずしも便利さ、効率、早さを求めない、歴史と文化の息づく街づくりこそ求められるのではないのではないか。
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by y-rekitan | 2014-05-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第50号より-03 伊佐家暮らし③

シリーズ「伊佐家の暮らしとしきたり」・・・③
伊佐家の暮らしとしきたり その3

伊佐 錠治 (会員) 

(3) 食事―国立科学博物館企画展示展「あしたのごはんのために」から

f0300125_1439266.jpg 平成22年9月~23年1月に、「将来の食と農を考える企画展」(図18)が開催され、前項で記載した格式日記から11月24日の貞武誕生日の夕食が紹介された。誕生祝の食事が「一汁三菜」と質素なもので、現在の食事との差は歴然としている。このように食事の習慣はその時代の暮らしを反映するものとして興味のあると思われる。
 また、日記には料理のレシピが色々な場面で記載されているが、接客時の料理が豪華であることに比べて暮らし向きは質素であったことを知ることができる。
 図19に記載されているように、米と魚を中心とした食生活がメタボにならない日本人の長寿に結びついているのかもしれない。
 江戸時代の農村は自給自足に近い暮らしで、輸入食糧に頼って食糧供給問題が話題になっている現在、当時の農村の食生活を見直す必要があるのかもしれない。
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(4)暮らしを豊かにする調度品

 古い家には昔の調度品が残っている。伊佐家には多くのものが残っているわけではないが、現在から見れば珍しいもの、あるいは生活を豊かにすると思われるものが残っているので、それらについて紹介する。
f0300125_14485061.jpg 現在でも携帯用の品々が旅行では便利に使われている。江戸時代の長旅で使われた携帯枕と携帯燭台を照会する(図 20、21)。折りたたみ式で携帯にはかさばらなくて便利に使われたいたものと思われる。 線香は燃焼速度がかなり正確なため、古代から時計代わりに用いられてきた。暮らしに潤いを与える調度品として香時計が残っている(図22)。
 上段の箱には灰が詰められていて、この表面に香を筋状に敷き、その先端に着火する。筋の長さで燃える時間が決まるので、燃えた香の距離によって時間を知ることができる。香りを楽しみながら過ごした時間が判ると言う優雅な道具で、現在と違って、時間に余裕のあった江戸時代にはふさわしいものである。
 暮らしの中で遊戯を楽しむことは生活に潤いを与えくれる。我が国で古代から知られてきた遊戯に双六がある。双六には、盤双六と絵双六の2種類があるが、絵双六は近世になって広がったもので現在、子供の遊びとして使われている。
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 盤双六(図23)はサイコロを振って出た目に従って桝目に置いてある駒を進めて上がりに近づける盤上の遊戯であって歴史は古い。インドからシルクロ-ドを経由して中国にわたり、奈良時代に我が国へ伝来したと言われている。実際に、正倉院には聖武天皇が遊んだ盤双六がのこっている。
かつては上流階級婦女子の嫁入り道具の一つで、婦女子のたしなみでもあったが、江戸時代には賭博に使われたため、禁止令が出たことと将棋、囲碁が台頭してきたことによって衰微したようである。
 第2次大戦後は、盤双六と遊び方が酷似しているバックギャモンがボードゲ-ムの一つとして外国から取り入れられ、昭和40年代には全国で遊ばれていたが、ゲーム機器の普及によって衰退したようである。
 通常の暮らしではほとんど使われなかったと思われるが、珍しい道具として蘭引き(図24)を紹介する。
蘭引きはオランダから取り入れたものであるから「蘭引き」と命名し、カタカナ表記でランビキとも書くが、家庭の蒸留器で、焼酎や化粧用の精油とかを製造するのに使うものである。
 どぶろく、味噌やお茶から生糸、綿など自給していた江戸時代に、どぶろくを蒸留したり、いも、麦を麴で処理して蘭引きで蒸留して焼酎を作ったりして、生活に潤いをもたらしていたのかもしれない。

(5)暮らしと信仰

 旧家には地蔵堂や屋敷神が祀られている屋敷がある。当地では、格式日記に記載されているように、伊勢講とか日待ちのしきたりが重んじられていたようで、農耕と信仰は密接な関係がある。f0300125_152418.jpg
 庄屋を勤めていた伊佐家は農業が大切であり、農耕神である屋敷神があっても不思議ではないと思うが、史実には記録されていない。
しかし、藪の中に「ほこら」と呼んできた小さなお社がある。ただし、石仏が祀られているので屋敷神とはいえない。このほこらを地蔵堂(図25)とも呼んでいるので昔から仏像が祀られていたと思われる。f0300125_15112269.jpg 代々の家内安全と繁栄を願って、不吉とされる屋敷の西北に建立したと思われるが、建立の理由とか時代は判っていない。このほこらは、小さな古墳のような築山の上に祀られていることから村人を埋葬していた場所ではないかとも言われている。
 埋葬については、古くは屋敷内に埋葬していたと言われている。伊佐家の前庭に築山があるが、築山には庭木がなくて墓石様の小さな灯篭(図26)がある。灯篭の形から推測すると菩提寺に埋葬する以前は庭に埋葬していたのではないかと思われるが定かではない。 庭にお墓があれば毎日、お参りできるので大変合理的である。

(6)和算と算額

 和算は日本独自の数学であり、江戸時代に大いに発展した。
 村の統括や村の運営に支障のないようにするのが庄屋の役目である。その為に年貢、田畑の測量、使役計算に役立つ和算を取り入れたと思われる。
 十代政徽(まさよし)(1748~1819)は和算を学ぶため京都に出向き、邨井中漸(むらいちゅうぜん)門下に入って和算の勉学に励んだ。1765年(明和2)に18歳で免許皆伝となって邨井先生に「弟子自書盟文」を提出し、算額(図27)を氏神である石田神社に奉納した。f0300125_14542113.jpg 算額とは額や絵馬に数学の問題を記載して神社に奉納するもので、算額を奉納する習慣は我が国独自の文化である。現存する算額は全国に975個(1997年時点)残っているが、政徽の奉納した算額は10番目に古いもので、村の貴重な文化財となっている。
 額には政徽の考え出した5問が記載されているが、何れも難問で現代数学でも簡単には正解が得られない程に高度なものである。
和算を教えるには幅広い知識が要求されるようで、茶道、漢詩なども学んだ記録が残っている。政徽は和算が暮らしに役立つと考えたのか、家族を始め村人にも和算を教えた記録が残っている。
 伊佐家の歴史の中で、和算は貴重な特徴の一つであり、和算に関連する多数の古文書は大切に保存されている。
                       (次号へ続く)

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by y-rekitan | 2014-05-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第50号より-04 大谷川散策⑬

シリーズ「大谷川散策余話」・・・⑬
第13章 終わりに

 野間口 秀國 (会員) 

 「初めて訪れた町では、その地で出来るだけ高い所に足を運び、そこから見下ろしてみる事だ」と高校時代の地理の授業で習った記憶があります。欽明台・中ノ山・男山展望台など、大谷川を見下ろせる市内の小高い所に立つと大谷川がどう流れているのかが良く分かります。本章では「大谷川散策余話」をここまで書き進める間に学んだ多くの事柄の一部を書いてみたいと思います。

 第1章で「良い川には良い◯◯がある」をテーマに何らかの発信ができるのでは・・・とか、◯◯部分には歴史、自然、くらし、思い出等々・・お読み頂く方に自由に選んで貰えれば・・などと、今思うと少し無責任な事を書いたようです。また「歴史を探究する会」の会報なのに、川やそこに棲む生き物や植物や、そして橋など、歴史には関係無い内容だと思われた読者も少なからずおられたと思います。改めて読み返すとかなり欲張って詰め込み過ぎたかなと反省しておりますが、そのような事にも目をつむって最後までお付き合い頂き本当に感謝いたしております。書き始めると中途半端に投げ出す事などは許されませんので、少しでも歴史に関連する内容を書いたつもりではございますが、学びの第1は「着手する前に、お読み頂く人や書きたい事、自らの力量にじっくりと向き合う大切さ」でした。
 その土地や町を理解する方法には冒頭に挙げた例に加えて、地元の公立小中学校の校歌の歌詞に学ぶ事も有効かと思います。忘れつつある自身の母校の校歌を思い浮かべる時に、そこには少なからず生まれ育った故郷の山河の名前が歌われていました。この度は市の教育委員会のご協力をいただき市内の全小中学校の校歌の歌詞を調べる事が出来ました。結果として分かった事は「木津川」「男山」は半数以上の校歌に歌われており「鳩ヶ峰」「淀の川」も見出だす事ができましたが「大谷川」「防賀川」は共にどの学校の校歌にも歌われておりませんでした。木津川や淀川が歌われておりますので問題は無いのでしょうが、小さい川ながらも地元を流れる大谷川にも目を向けて欲しかったなと少し残念ではありました。
 大谷川が地元の小中学校校歌に登場しないのは各学校の開校年度にも無関係では無いと思われます。昭和の30年、40年、50年代、京都や大阪のベッドタウンとして人口が年々増加し、それを追いかけるように次々と設立された学校の歴史を振り返る時、校歌の歌詞にも開発途上の町の姿が反映されてきたのだろうと思えます。
 それではいつから大谷川の名前が登場するようになったのかを少し見てみたいと思います。一般的に河川の名称はその地域(江戸時代の国や藩及び現在の都道府県)の最上流の地名から採用する例が多いようで、上田正昭氏は新潮選書刊『私の日本古代史(上)』に「淀川の名は江戸時代に入ってから・・ 古くは大川とよんでいた。」と書かれています。同じ淀川水域の木津・宇治・桂の川名も同じように地名に由来していると思われます。八幡市教育委員会刊(平成17年3月)の『男山で学ぶ人と森の歴史』P6に記載されている「四ヶ村立会美濃山絵図・享保四(1719)年」には大谷川の名前が見えますし『山城綴喜郡誌』明治41年11月刊にも「大谷川」の記述がある事を八幡市道路河川課の坂井氏に教えていただきました。
 更に市図書館に備わる『八幡の古地図ファイル』に収められた12枚の地図を調べた結果、大谷川の名前は12枚中の2枚(① 昭和60(1985)年2月28日・国土地理院発行の地図 と ② 昭和41(1966)年頃・八幡町略図)に見つける事ができました。引き続き同館蔵の「京都府1/50,000図歴地形図 京都西南部版」の19枚(大正3年9月25日~昭和63年5月30日に発行された地図)を調べましたが、昭和42年度以降に発行された地図に大谷川の名前を見つける事ができました。また、大谷川に合流する防賀川の名前は昭和50年代以降の地図に記載され始めた事も併せて分かりました。古い時代には広い範囲を示す詳細な地図は殆ど存在していませんが、大谷川の名前が掲載された公的な地図が思ったより新しい時代の物である事も分かり調べた甲斐はあったようです。疑問を持って調べていると、不思議と近くにあるヒントに気づき、答えの方から声をかけてくれるような、そんな気がする事もありました。

 さて少し話題を変えてこれまでに書いた事柄にも触れてみたいと思います。第1章で大谷川の最上流地は京田辺市域の手水ヶ谷である事を書きましたが、この地が男山考古録巻第十一「放生川」の項に書かれている「河内國烏帽子山」なのか否かは不明のままです。何かヒントは無いものかと当初は枚方市の資料にも少なからず目を通しましたが烏帽子山を特定出来ないままです。ご存知の方がおられましたら是非ご教示頂きたいと存じます。
 第6章「戸津(とうづ)の地名考察」にて・・・「戸津」は「木津川の入り口の港」との理解が可能・・・、と書きました。しかし『京都盆地の災害地名』(*1)では「地名由来は木津川の港説があるが・・・ 旧流路から距離があり港説は疑問である」と書かれています。この春、この文章に出合った時には少なからず落胆しない訳ではありませんでしたが、「港説があるが・・」と書かれた部分があり少しは救われた気がしました。
 さらに第7章「田園区・流れに四季を感じて」で、・・・歩きながらふと「舞台」という地名に思いを巡らせていましたが、不勉強でこれと言った答えは探し出せておりません・・・と書きました。また「神社の祭礼等で歌舞伎・人形浄瑠璃等を演じる事を目的に日本の農村に設けられた舞台のことを農村舞台という・・・」などと勝手な思いを書きましたが、それは全くの的外れでありました。「舞台は、フタ(塞がる)・ヰ(井)の転訛である。川の氾濫による水漬地をいったか(*1)。」との一文を読み「ブタイ」の由来には少なからず驚かされました。
 最近の地名には、住宅や町の開発業者等によって何となく安易に名付けられた(少なくともそう)と思えるような町や通りの名が散見される中、地名にこだわる事によって歴史も見えてくるようです。このことも学んだ事の1つです。このように、少しこだわって、時間をかけて調べて書いた内容に対し、関連する情報や異なる見解に接した時には小さな興奮を覚え1つの事象を多面的に学べる事が楽しく思えました。と同時に「もっと調べなければ・・・」との反省もしきりでした。

 最後になりますが、およそ2年ほどで大谷川やそこに架かる橋、川沿いの風景などに見られた各区の代表的な変化を報告させていただきます(*2)。

里山区:高速道路の建設工事現場周辺では風景も少なからず変わりつつあります。f0300125_20393610.jpg

公園区:上記と同理由で旧内戸美橋(1本)が撤去され新橋(2本)を建設中です。
  
田園区:この春に、八幡舞台の大谷橋の欄干が新しくなりました。

放生区:昨年の夏、安居橋が(確か17年ぶり?)改修されてきれいになりました。

大谷区:橋本樋門横に川・道路・電車を一跨ぎする橋(道?)が建設されています。
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 歴史を学ぶには、古文書・書籍・絵図・建造物・彫刻物などのように文字・絵・形として残っている物、遺跡発掘などによって発見される遺構や出土品の類、現代にも伝承されている作法・習慣・諸行事など多くの機会や方法があります。そしてそれらが互いに補完されている事を日頃の活動から学べているような気がします。引き続き課題を見つけてゆっくりと学んでゆきたいと思っています。
 大谷川に沿って歩きながら、これまで見た事のない多くの物に出合い、多くの皆様に貴重なお話を聞かせて頂きました。種々の公共機関の関連部門の皆様には川や橋や道路や鉄道、行事や発掘調査等々多岐にわたって専門的な事柄を丁寧にご教示頂きました。改めてありがたく感謝申し上げます。反省すべき事も多かったと思いますが紙面にて衷心からお礼を述べさせて頂くと共にご容赦頂きたくお願い申し上げます。

 最後に、ここまで多くの助言や激励を頂いた歴探仲間の皆様に感謝すると共に、次の機会がございましたら「少しでもましなものを」そう思いつつ終わりと致します。

(*1) 綱本逸雄氏著・勉誠出版刊の『京都盆地の災害地名』より。
(*2) 平成26(2014)年春のゴールデンウィーク期間中の状況です。
                                        
                        (完)
                                          

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by y-rekitan | 2014-05-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第50号より-05 八幡宮の歴史①

シリーズ「石清水八幡宮の歴史Q&A」・・・①
第1回

Q:八幡の歴史を探究する会 事務局  
A:石清水八幡宮   禰宜  西 中道 

石清水八幡宮の歴史に関して、会員の皆さんが日頃より疑問に思っていることを西禰宜にお聞きしました。4月例会の際に、西さんのご講演の後で一括してお答え頂いたことがらですが、会報にて一つずつ再現したいと思います。
Q:明治初年の神仏分離によって、山上の寺院関連の施設や仏像が山上から離れました。現在、何がどこに残されているのか。わかっているものだけでも教えて下さい。

A:まず、開山堂にあった行教和尚の坐像ですが、石清水八幡宮を開創された僧の尊像ですので、何とか山上に残そうとしました。そこで、烏帽子を被せ狩衣を着せて神様の姿にするなど苦心しましたが、叶わず明治6年に神応寺にお引き受けいただきました。なお、同じく開山堂に祀られていた弘法大師像をお預かりしているとのお手紙を、先日神戸のあるお寺から頂戴し、目下調査中です。他にも開山堂には初代検校・益信(やくしん)の像が安置されていましたが、こちらは行方不明のままです。
 また、山麓の極楽寺に安置されていたという宝冠阿弥陀如来坐像や僧形八幡神坐像が善法律寺に、山上にあった八角堂の阿弥陀如来坐像と元三堂の元三大師像が正法寺に、泉坊の一部と松花堂が八幡市立松花堂庭園内に、狩尾社境内にあった帝釈天立像が橋本の西遊寺に、それぞれ移されて今も大切にお守りされています。
f0300125_10342111.jpg 太子堂にありました聖徳太子2歳の御像ですが、滋賀県の大津市内にある国分聖徳太子会という所でお守りされています。また、豊蔵坊にありました東照神君(徳川家康)像は、洛北の等持院が所蔵し、妙心寺にも当宮の仏像があるやに聞いております。さらに護国寺の本尊・薬師如来像および大江匡房(おおえのまさふさ)卿が寄進した十二神将像は、淡路島の東山寺に安置されています。それから京都市内、新京極の誓願寺にも当宮にあった阿弥陀如来坐像が安置され、奈良国立博物館には宝塔院(琴塔)の毘沙門天立像が所蔵されています。他にも何点か未確認情報があり、おいおい判明することがあれば改めてご紹介していきたいと思っております。



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by y-rekitan | 2014-05-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第50号より-end

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by y-rekitan | 2014-05-28 01:00 | Comments(0)