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◆会報第51号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“わが心の風景”㉔◆
◆《講演会》八幡を掘る◆
◆シリーズ:“伊佐家の暮らしとしきたり”④完◆
◆シリーズ:“物語はどのように生まれたか”①◆
◆シリーズ:“墓石をたどる”⑥◆
◆シリーズ:“石清水八幡宮のQ&A”②◆
◆会報50号 発行の節目を迎え◆


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by y-rekitan | 2014-06-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第51号より-01 善法律寺

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わが心の風景・・・(24)
善法律寺
所在地 八幡馬場


f0300125_10485.jpg 八幡馬場の善法律寺は律宗の寺で、石清水八幡宮検校であった善法寺宮清が正嘉年間に私邸を喜揺して創建し、奈良東大寺から実相主人を招き閉山したことに始まります。
 寺は、弘{女年間に石清水八幡宮の社殿を移した本堂を中心に、庫裡、阿部陀堂、聖天堂が配されています。本堂の柱、が中途で特殊な方法で接いであるのは、耐震の工夫と考えられています。当初の丹朱塗は剥落していますが、純然たる鎌怠穣式を舎に伝えています。
 室町時代、善法寺通清の娘良子が足利義詮に嫁ぎ、三代将軍となる義満を生みました。義満は八幡宮を崇破。二十数回ち八幡を訪れています。以後、義教、義政もよく往来し、寺は将軍家の庇護を得て隆盛を極めました。
 本尊の八幡菩薩は、明治元年まで石清水八幡宮の祭神だったもので、等身彩色の座像は、在手に宝珠、右手に錫校を持ち、脇仏は不動・愛染の二明王で、ともに鎌倉時代の作です。良子は寺に多くの紅葉を寄進したことから、別名「紅葉寺」と呼ばれ、たくさんの人々が訪れます。 (絵と文: 小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2014-06-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第51号より-02 八幡の発掘調査

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《講 演 会》
八 幡 を 掘 る
― 上山下の発掘調査から -

2014年6月  松花堂美術館講習室にて
大洞 真白 (前八幡市 文化財保護課)


 6月例会は、長年にわたり八幡市文化財保護に携わられた大洞真白さんに、表題テーマで松花堂美術館講習室にて講演をしていただきました。
 大洞さんには今までに何回も講棋や発掘現場での現地説明会でお世話になりましたが、今回は石清水八幡宮の山上山下発掘調査の状況とこれからの事について皆様と一緒に考えていきたいと話され講演が始まりました。
10ページの詳細なレジュメに沿った講演でしたが、この講演の概要報告も大洞さんご自身に作成いただきました。 参加者54名。

1.八幡市域の発掘調査の歩み

(1)昭和40年代(1965)~
 八幡市内で行われたはじめての発掘調査は西山廃寺(足立寺跡)で、京都府が実施した。外部研究者によって西山廃寺の建物跡や西山瓦窯が調査され、続けて古代寺院の志水廃寺・美濃山廃寺、さらに須恵器窯跡の松井交野ヶ原窯跡、石清水八幡宮の西谷などが調査された。中には報告書がでてないものがある。1984年には京都府が楠葉平野山窯跡の調査を行った。

(2)昭和60 年(1985)~
 八幡市に埋蔵文化財担当者が配属され、開発に先立つ重要遺跡の調査が実施された。
 特に1989年調査のヒル塚遺跡は、粘土槨(かく)がとりわけ大きい古墳時代前期末の方墳で、副葬品の渦巻き飾り付き鉄剣は国内で2例しか出土していない。当時アサヒグラフの古代史発掘総まくりに、森浩一氏による「なぜ起こる重要度と注目度の差」と題したコラムに、ヒル塚の新聞発表が宇野内閣誕生と重なり、地域版にしか取上げられない不公平な事態になったことを書かれている。

(3)平成5年(1993)~
 建物建設に先立つ緊急発掘調査(大芝古墳、上奈良遺跡、橋本奥ノ町遺跡、清水井遺跡等)で成果を得た。また、京都府の第2京阪道路建設による内里八丁遺跡等の調査が実施された。

(4)平成11年(1999)~
 文化庁による発掘取扱変更により、建物建設に先立つ調査が減少し、反して区画整理やミニ開発など新設道路に先立つ緊急発掘調査で成果が多く得られた。f0300125_1115660.jpg
 (上津屋遺跡、上奈良遺跡、女郎花遺跡、木津川河床遺跡”八幡宮門前町跡”調査等)
 また、国庫補助事業による重要遺跡の範囲確認調査が定着し、計画的に遺跡内容の把握に努め、開発との調整をはかった。
 (美濃山廃寺、美濃山遺跡、王塚古墳、石清水八幡宮、女谷・荒坂横穴群等)

(5)平成21~24年(2009~2012)
 平成20年に始めた石清水八幡宮境内の調査をもとに歴史シンポジウム開催、平行して調査を進め、平成24年1月に国史跡に指定された。
 最初の調査から約半世紀を経て、失われる遺跡に対する対応から、遺跡保存を目指した計画的調査を行うよう進化した。

2.山上山下の空間構造の解明に向けて

(1)門前町跡(「内四鄕」中心)の発掘調査
 「門前町の発展過程」の今後の調査課題を皆さんに託すにあたり、門前町跡(「内四郷(うちしかごう)」中心)の発掘調査成果をまとめる。木津川河川敷から多くの土器類が見つかり設定された「木津川河床遺跡」は、男山周辺門前町の内四鄕北部を含む広範囲に渡る。府と市の調査で、既に第25次までの発掘調査報告書を発行している。さらに、祠官家邸宅跡の馬場遺跡・清水井遺跡も調査している。
 図1の地層断面模式図では、内四郷北部での各調査地の各時代の地層を比較できる。
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全体に室町時代でも3m、平安時代まで至るには4mあり、とにかく深い。発掘技術で深さを克服するのが課題。各時期の遺構面に数メートルの差があり、御幸橋北詰の中世墓が出土した辺りの最北部が最も低く、山柴や森が高い。山柴や森はもともと自然堤防の上にあったと考えられる。相対的に低い北部は江戸時代以降耕作地化していく。
 地層の年代は土器で判定する。土器からは遺跡性格もわかることがある。河川敷の木津川河床遺跡20次で出土した土器は、八幡宮が遷座前後の頃の、貴族が使用するような高級遺物が出土している。
 森にも古い土器があるが、八幡宮遷座以前から人々が住んでいる。まとまって遺物がみえてくるのは平安時代後期頃で、山路でも12世紀頃の遺物が一番多くなる。
 下が掘りきれてないものがあるので断定的にはいえないが、平安時代後期以降の遺物はまとまって広範囲から出土するので、山路郷以北は同時代には多くの人々が居住していたことを示している。また、地形的に低い現在の河川敷で出土した平安時代前期の高級遺物は、高貴な人物に関係する施設が存在した可能性を示している。

(2)祠官家邸宅の位置解明
 次に、文献史料を手掛かりに門前町の開発推移について考える。それには、文献に記録が残りやすい祠官家邸宅の位置を見ていくのが有効である。邸宅はまとまった面積を要するので、未開の地に選地することが多いと考えられるためである。
 図2は祠官家邸宅の推定位置を示したものである。
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 以前の当会での講演で、5枚セットで門前町の発展過程を時代ごとに示しした図をひとつにまとめたもの。平成21年のシンポジウム「三大八幡宮―その町と歴史」のために作ったものだが、その根拠のほとんどは『男山考古録』の記述である。『男山考古録』は江戸時代末に残っていた様々な資料を見て書かれたもので、他の市町村にはほぼ存在しない奇跡的な地誌だが、それら資料の多くが現存しないので、どこまで史実なのかは検証されなければならなず、その記述は一旦は伝承として取り扱う必要がある。よって、これらの図はあくまで仮説であるが、その文献的典拠を明らかにしておきたいと思った。以下特に記さないものは『男山考古録』の記述による。
 最も古いのは元命の高坊(ア)で宿院内にあった。元命は宇佐からやってきて藤原道長と結び石清水のトップに登りつめた僧である。常盤町の北に元命孫の頼清邸宅。その子・垂井光清は娘を鳥羽上皇の後宮に入れた。この2人の邸宅が、科手よりさらに北にあったとの文献の記述と、木津川河床20次の調査成果との関係が注目される。
 光清五男の「河合屋敷」(エ)も、科手以北に12世紀前半に邸宅をつくれる条件があったことを示している。発掘成果では、平安時代中~後期に洪水が起こって砂が1m程堆積し、その後耕作地化した可能性が指摘されている。同じく光清の子で田中家の祖となる勝清は、科手北から園に邸宅を移す(オ)が、邸宅の移動がこの洪水によるものなのか、今後注目したい。さらに田中家の慶清は邸宅「家田殿」(カ)は、木津川河床19次の成果と関連する。『男山考古録』には非常に豪華な御殿であったことが書かれている。木津殿(キ)は八幡市域でないが、このような邸宅の存在を頭に留めておく必要がある。
 鎌倉時代に入り、馬場町の東南に宮清邸が造られ善法律寺となる(ク)ことは「石清水祠官家系図」にも書かれているが、『男山考古録』には現在地と別の場所と読める。遺跡範囲にも入っていない可能性が高く、地名調査や分布調査が必要であろう。
 科手では、洪水被害からの復興を示すものか不明だが、13世紀頃には壇家が営まれる(ケ)。
 室町時代に至り、善法寺家が馬場町へ移る(コ)記述は、馬場遺跡での発掘成果に符合する。調査ではそれ以前から人の居住が伺える。新善法寺家邸宅跡である清水井遺跡(サ)の発掘調査では、江戸初期の高級な遺物が多く出土している。居住が始まった頃を推定するには、膨大な発掘資料を再度分析するとわかってくる。

(3)門前町跡周辺の発掘調査
 内四郷の外側での調査は、平成9年度の橋本奥ノ町遺跡のほか、八幡八郷の成立過程をより明確にするには、平成25年度に調査された下奈良遺跡、今里遺跡の成果等が重要である。
 さらに、平成24年度に八幡市に隣接する枚方市 中之芝遺跡で大規模な発掘調査が行われ、12~13世紀の大きな区画溝が見つかり、有力土豪の居館の可能性、と発表されたが、淀川沿いにあった津の管理に関係する施設の可能性も考え得る。

(4)古代から中世の都市遺跡との比較視点
 古代からの都市遺跡といえば、平城京・平安京・三重県の斎宮跡・多賀城・平泉・大宰府などがあるが、平安時代にはじまり現在までつながっている都市遺跡は、平安京と八幡に限られるといっても過言ではない。八幡は規模こそ小さいが、人工的な整地層がこれほど連綿と積み重なって人が住み続けたところは、ごく少ない。まだあまり意識されていないが、日本の歴史にとってそれほど重要なところである。f0300125_18284725.jpg
 平安時代の貴族邸宅跡は京都市内でいくつも発掘されており、寝殿造の建物配置と園池の存在が特徴。祠官家の邸宅も、同じように立派なものがたくさんあったはずで、私たちの足元にそのような邸宅跡がいくつも眠っていると考えるだけでワクワクするではないか。また、三川合流地点の住みにくいところに努力して都市形成を進めていく点も重要で、歴史研究には現在の防災やまちづくりの観点からも学ぶところが多いはずである。
 八幡市は絵図や文献も多く、誰にでも歴史研究がはじめられる。今後もみなさんの研究の進展を期待しています。

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 続いて質疑応答がなされました。紙数の関係から論点のみ紹介します。応答するのは、講師の大洞さんの他に文化財保護課の小森俊寛主幹、石清水八幡宮研究所の鍛代敏雄氏も交えたものでした。

①江戸時代の神領絵図などを見れば、大谷川の下流がぐねぐねと蛇行し、いかにも低湿地帯と思われる科手であるが、中世期には祠官家の邸宅があった。その一つの理由として、木津川等の水運を利用する際に科手は都合がよかったことがあげられる。

②八幡の都市空間では、南北に延びる街道沿いに町場が形成され、男山の東麓においては、大和・河内など他地域との流通という点から東西にも街道と町の形成が図られたことが考えられる。

③出土された土器など遺物からは、土器の編年だけでなく、使用した階層もわかる。八幡の場合、白色土器など天皇家や摂関家などが使用する土器も出土されていることに特徴がある。
「一口感想」より
  • これまでの発掘調査の成果から普段歩きまわっている八幡市内に豊富に史跡が眠っていたことがわかり驚きました。また、八幡市(教育委員会)がどのように発掘調査にとりくみ、山上山下の空間構造の解明に向かおうとしているかがわかり、大変勉強になりました。 (Y)

  • 発掘された埋蔵品を分類し、資料館による展示によって一般に公開し、説明会を実施するなどしてほしい。ふるさと学習館についてももっと周知されるようにしてほしい。(一部割愛) (T)

  • 今回は、発掘の成果を古文書と対比させて考えると共に、それを八幡の地図にプロットして話されたことに新鮮さを覚えた。これまで参加させていただいた現地説明会の内容が更に深まったと思います。ありがとうございました。 (N)   

  • たまたま今日は仕事がないので参加できうれしいです。とても楽しみにしていました。ありがとうございます。夫はこれが終わると宿直の勤務にでかけます。一緒に先生のお話をきくことができ本当に幸せです。 (京田辺のTさん)


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by y-rekitan | 2014-06-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第51号より-03 伊佐家暮らし④

シリーズ「伊佐家の暮らしとしきたり」・・・④
伊佐家の暮らしとしきたり その4

伊佐 錠治 (会員) 


3.昔の暮らしを今に生かす

 これまで伊佐家の暮らしとしきたりについて、ハード商とソフト面から記載してきたが、これらの一部でも現在に生かすことができれば古民家の理解につながると考え、伊佐家を活用するイベントに取り組んだ。計画したイベントは重文民家マネジメン卜研究会、大阪人間科学大学あかりプロジェクト、八幡の歴史を探究する会、伊佐家住宅の活用を楽しむ会の協力を得たものである。

(1) ひな祭り (201 3. 2 . 17)

 重文民家マネジメント研究会主催「各地の街並みを活用したひな飾り」について座敷でレクチャー。ひな壇を作り、ひな飾りに取り組む。土問のかまどに火を入れ、羽釜で米を焚く体験とちらし寿司作りなど。

(2) 竹あかり (2013 .6 . 1)

f0300125_1845338.jpg 大阪人間科学大学あかりプロジェクト主催「伊佐家の暮らしとしきたり」について座敷八幡でレクチァー。
 伊佐家の竹を切り出して作ったランプ、学生の製作したオブジェなどで、庭や外堀に展示、ライトアップした。

(3)農作物の収穫を楽しむ会 (2013 .7. 2 1)

f0300125_18493583.jpg 重文民家マネジメント研究会主催「伊佐家住宅の近代以降の住生活の変貌」について座敷でレクチャー。
 昔の生活を体験する一環として農作物の栽培と収穫を試みた。春に植え付けたジャガイモ、サツマイモ、枝豆、西瓜、瓜を収穫して味わった。


(4)見学会と講演会 (2013. 9.15)

f0300125_18563195.jpg 八幡の歴史を探究する会と重文民家マネジメント研究会の共催。午前は「民家の暮らしの知恵J、午後は「江戸時代の村の暮らしについて交流プラザで講演。講演に先立って行った伊佐家の見学会は、伊佐家の概要と特徴、座敷周りの説明、土間台所関係の説明と3ケ所に分けて解説した。

(5)ウクレレ演奏を楽しむ会 (2014.3.23)

f0300125_18591225.jpg伊佐家住宅の活用を楽しむ会主催「建造物ウクレレ化保存計画J主催者で美術家である伊達氏による古民家の話とウクレレ演奏。土問のかまどに火を入れ、羽釜で米を焚き、粕汁とばら寿司{乍り、味噌っくりを楽しむ。
 この様な体験もできる実践モデルを継続してゆけば、古民家への理解も深まり、支援者を見出す可能性があるように思う。

結び

 古民家を文化財として保存する意義は、ハード面からは民家として建造物の姿、形を残すことであり、ソフト商からは消失して行く生活の実態を残すことにある。重文民家の家・屋敷は指定を解除されることが考えられないので、建造物としては取り壊されることなく確実に保存される。しかし、民家は生活感が伴っていないと民家として価値は薄らぐ。この点が寺社仏閣の重文と大きく異なる。この生活感を支えるものが暮らしとしきたりであり、重文民家の伝統ある文化につながるソフト面をこれまで以上に重要視して行く必要がある。
 この様に重文民家はハード商だけでなく、ソフト面も大切であり、民家の意義を失わないためには、ソフト面の無くなった旧◯◯家住宅にはしないことである。しかし、重文民家を維持・管理するには、ここにも寺社仏閣と異なった大きな問題点が2つある。一つ目は経済問題であり、二つ自は後継者問題である。日常の維持・管理にかかる費用は勿論のこと、大規模修復工事に必要な経費は桁違いに大きく、生活基盤までを失う可能性がある。さらに、後継者問題では、経済負担だけでなく、通勤の不便さ、職場の地域の違いなど両親の苦労を見て育った後継者には魅力のない家としか映らないので、継承することをできれば避けたいと考える。この二つの問題は各民家によって異なり、すべての重文民家に共通しているわけではないが、比較的多くの重文民家が該当している。
f0300125_13311749.jpg 伊佐家住宅はこれら二つの問題を背負っており、これから如何に解決して行くか大きな課題である。図33は屋敷続きの竹薮に生えている榎木であるが、屋敷内では二番目に古い大きな木である。この木に太い蔦が巻き付いている。蔦が木に巻き付くとその木は枯れると言われているが、この木は枯れることなくそびえ立っている。この木を、300年近く建っている伊佐家に見立てると、蔦は伊佐家にまつわる苦難の障害である。例えば、第2次大戦後の農地解放は最も太い蔦で、この難題も克服し複木は生き残った。 これから伊佐家に襲ってくる太い蔦、即ち厳しい難題は経済負担と後継者問題で、これをクリアーして木が枯れないようにしたいものである。頑張れと木霊が噸きかけているような気がする。  (完)

この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2014-06-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第51号より-04 物語の生まれ①

シリーズ「物語はどのように生まれたか」・・・①
女 郎 花 と 頼 風

 土井 三郎 (会員) 


はじめに

 八幡市民図書館近くの和菓子店「志"(じ)ばん宗」(八幡市八幡今田)の裏に頼風(よりかぜ)塚があります。塔の高さは1m程で、五輪塔の形態といってよいでしょう。f0300125_930204.jpg他に石塔はなく、周囲には芦と思われる草が植わっており、心なしか葉が南の方にたなびいているように見えます。いつ訪れても塚とその周辺は綺麗に掃き清められていて、篤信家が常に世話していることを窺わせるものです。
 そして、遠く離れた松花堂庭園内に女郎花(おみなえし)塚が建っています。これも形は五輪塔ですが、土台にあたる方形の石に人の形が彫られていて、周囲には石の囲いがあるのが特徴です。謡曲「女郎花」は、頼風が女郎花の後を追って放生川に入水したというストーリーです。ならば何故二つの塚が遠く離れ離れに建っているのでしょうか。
 また、二人の悲恋の物語は、「古今和歌集仮名序」にある一文とそれにまつわる和歌をもとにしているといわれます。二人の悲恋の物語は、どのように生まれたのでしょうか。そして、塚と物語にどんな背景があるのでしょうか。そんなことをさぐってみたいと思います。

1.女郎花塚と脇に立つ駒札

 松花堂庭園内の女郎花塚の近くに「謡曲「女郎花」と女塚」と題した駒札(解説板)があります。そのまま掲載してみます。
「男山の麓に住む小野頼風と深い仲にあった都の女が、男の足が遠のいたのを恨み悲しんで、放生川に身を投げた。女のぬ主捨てた衣が朽ちて、そこから女郎花が咲きだし、恨み顔に風になびいている姿をはかなんだ頼風も、後を追って入水した。これを哀れんだ人々は塚を築いて女塚、男塚とした。邪淫の妄執に苦界をさ迷っていた男女の亡霊がこの塚から現われて旅僧に回向を乞い、そのおかげで結ぼれた(※ 1)。」という物語で、名所旧跡にことよせた(※2)能作の一つである。
 この女塚は女郎花塚ともいい、ここ松花堂公園内に立派に保存されているが、男塚は頼風塚ともいい八幡今田にあり、おい茂る芦はこちらを向いているので“片葉のよし”といわれ、せめて同じ場所にあれば(※3)と、哀れを誘うばかりである。
       謡曲史跡保存会
 駒札を地元の方の協力のもとに建てた謡曲史保存会は、京都市右l;京区を本部とした団体で、平成23年には『駒札百三十三番を立てる』という写真集を発行し野ています。f0300125_943567.jpg その数133の駒札は、北は青森市(「善知鳥(うとう)」)から南は鹿児島県の硫黄島(「俊寛(しゅんかん)」)までの地域に建てたとのことです。それぞれの謡曲の故郷を訪ね、由緒あるその地に地権者の許しを得ながら、その来歴を語る駒札を建てるというのは実に頭の下がる行為で、謡曲ファンのみならず地域史愛好家に恰好の資料を提供して下さるというものです。
 そのことに敬意を払った上で、上記の駒札には、いくつか気になる記述があることを申し添えたいと思います。下線を付した三か所がそれです。
 「男女の亡霊」(=頼風と女郎花) が旅僧に回向を乞い、「そのおかげで結ぼれた」とあります。実際はどうなのでしょうか。謡曲「女郎花J(観世版)を読む限り、亡霊である頼風も女郎花もすさまじいばかりの邪淫の悪鬼にさいなまれ、ひたすら二人の罪を赦してほしいと希8ねが)うばかりで、救済されるか否かは不明のままです。
 この辺りの評価については、本誌第20号に石野はるみ氏が「色香に愛ずる花心謡曲『女郎花』」に鋭い考察をしています。ご参照ください。
 二つ目に、「名所旧跡にことよせた能作」とある点です。文字通り解釈すれば、男塚・女塚が以前から存在し、そこから物語が生まれたと読み取ることができます。果たしてそうなのでしょうか。
 次号にて詳述しますが、男塚(頼風塚)と女塚(女郎花塚)は、謡曲「女郎花」に登場する謂わば小道具で、物語の展開上そこに設定されたとすべきものです。言い換えれば、物語(フィクション)が成立し、その結果名所・旧跡が誕生したと解釈すべきです。その点、例えば謡曲「俊寛」は、とかシテである俊寛が平家打倒の陰謀を企てた科で喜界ケ島(硫黄島)に流され、他の共謀者が赦されたのに、自分だけが許されず島に残されたという史実をもとに成立しています。事実をもとにした名所・旧跡から物語が生まれたのです。話曲「女郎花」は、物語が生まれたことで名所・旧跡が誕生したのですから順序が逆です。
 三つめが、頼風塚が八幡市八幡今田にあり、女郎花塚が八幡女郎花にあって、「せめて同じ場所にあればと、哀れを誘う」と述べられる点です。
 男塚と女塚はもともと遠く隔てられた所に建っていたのでしょうか。そのことを自明のこととしてよいのでしょうか。これについては、謡曲「女郎花」のストーリーを詳しく追う事で真相を明らかにしたいと思います。
                (次号につづく)


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by y-rekitan | 2014-06-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第51号より-05 墓石をたどる⑥

シリーズ「墓石をたどる」・・・⑥
浅井周斎の墓石について

谷村 勉  (会員) 


f0300125_1012135.jpg 去る4月、歴探(八幡の歴史を探究する会)会員四人で八幡市福禄谷(幣原)の水月庵を訪問した。運よく庵主様にお逢い出来、水月庵の中を案内頂いた折、八幡歴史カルタ(歴探発行)に「水月庵 藪を抜ければ 円福寺」とあるが、実際どうなのかと問うたところ、句にある通り藪を抜けて円福寺に通じる道を一緒に歩いて頂ける幸運を得た。
水月庵(臨済宗)
天明の頃、霊宗尼(円福寺に墓石)が円福寺海門禅師について修業し、尼僧道場として全国に伝わった。
又、東園家の中姫が皇女和宮の菩提を弔う為この庵で剃髪し宗門に入る。その御縁で明治天皇の供養も行う。  (門前の碑より要約)

f0300125_11452812.jpg 水月庵より凡そ200m、孟宗竹の藪を抜けると大きな広がりの中に円福寺墓地が見えてきた。広い墓地空間の周りは孟宗竹に囲まれ、点在する楠、杉の葉の間からは柔らかい光が差し込んでいる。手入れの行き届いた墓地はいつもすがすがしい。円福寺楼門近くこれまでに何度か墓石調査に来た地点に差し掛かると、やや奥まったところに浅井家墓石群のあることを教えて頂いた。当日は特定する資料がなかったため、後日改めて浅井家墓地に入り周斎の墓石を確認した。
浅井周斎は「工藝鏡巻ニ」(横井時冬著・明治27年)に次の記載がある。
  
浅井周斎
 周斎は元難波の豪商にして名を矩賢といい、号を鳳剛園という、宝暦の末世の塵をいとひ、黄金二万両を持ちて八幡鳩が峯の南山に庵をむすび、陶器を造ることを好み、国々の土を取りよせその国の名器をうつしけり、八幡南山焼とて人々もてはやしぬ、茶碗・鉢などに山水人物をえがけるは雪渓門人梅嶺を頼みてかゝせけりとなん、或人周斎が焼たる絵唐津の茶碗の底に無の一字を草書にてかけり、この人元来見識ありて道八・與兵衛などにもおとらぬ上手なりしとぞ、寛政十二年三月廿一日没す、年八十餘、八幡南山の円福寺に葬る
「京都名家墳墓禄」(寺田貞次著・大正11年)にも次の記載がある。 
浅井周斎墓
円福寺。八幡南山楼門前なる幣原街道を辿る約二百五十歩、左方一墓域に達す、墓地は三方谷に望み、上下二壇に分る、上壇重に歴代高僧塋なり、其左傍より稍下れば下壇墓域に出づ、方六間の小域、其左側に数列の小碑相並ぶ、浅井家が塋、周斎墓は端より第二墓列中、左より第五基目に位し北面す、‥‥‥
周斎名は矩賢鳳剛園と号す、大阪の豪商、性風流、此地に草庵を営み、陶器を製し、畫を畫き自娯む、其陶器の如き精巧、南山焼と称し、世に珍重せらる、没年八十円福寺は其大檀越なれば此処に葬る、周斎の窯跡は南山字アンゴ塚にあり。
 浅井家墓地内には明治の末に南山焼を再興した帯山与兵衛(九代)の墓がある。
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 明治43年京阪電車開通記念として3,000個の南山香合が帯山与兵衛によって作成され、関係者に配られた。写真はその内の一つ。

円福寺(八幡福禄谷)

 天明年間(1781~88)臨済宗最初の修行道場として開創された。周斎は円福寺の建立に際し3万坪の土地を寄進した。
 浅井周斎墓石は楼門中央から歩くこと約250歩、途中「水月庵是ヨリ二丁」の三宅碑をみて、「名家墳墓禄」の通り左方一墓域に達し浅井家塋域(えいいき)に至る。
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※浅井周斎の墓は他にも1か所ある。
 円福寺楼門の斜め向かい雑木林の手前に3基の墓があり向かって左側の1基が周斎の墓。浅井周斎之墓とある。
高さ約60cmの小さな墓石であるがなぜ此処にあるのか、何時頃からあるのか、詳しいことは今のところ分からない。墓石の側面、後ろには何か彫ってあるようにも見えるが判読出来ない。

墓石の撮影には浅井家並びに円福寺のご協力を得ました。



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by y-rekitan | 2014-06-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第51号より-06 八幡宮Q&A②

シリーズ「石清水八幡宮の歴史Q&A」・・・②
第2回


Q:伊勢神宮に関わる「御師Jのような人々が石清水八幡宮にもいましたか。また、石清水ヘの参詣に関わる講の存在および石清水への信仰を広める活動について教えてください。

A:中世までの事例では、その痕跡のようなものはありますが、不確かなので、今回は、近世になってから私が聞いていることがらをお話します。
 一つは、東竹家といってかつて嗣官家の家柄だったところが石清水の神札(しんさつ)を配布するための免許状のようなものを発行する権限があって、そのための印鑑を所持していたということです。嗣官家だけでなく、神官の家では、神札を配布することを認められていました。それは、例えば石清水からやってきたと触れこみ、ニセの神札を売り歩く者がいて、それを防止するための施策としてとられたと聞いています。
 また、正式な認可を受けたありがたい御札を配る講組織があったようです。大原の里でそのような講があったという手紙をもらっております。他にも、そのような事例があり、伊勢の御師に相当するような人々が活躍していたと思います。

   (答えは石清水八幡宮禰宜の西中道さんからいただきました)



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by y-rekitan | 2014-06-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第51号より-07 会報50号の節目

会報50号 発行の節目を迎え

八幡の歴史を探究する会 代表  是枝 昌一  


 先月発行の「会報」は50号となり、発足の時の約束(毎月の発行)を皆様のご協力により、一つの節目を乗り越え実現しました。内容も改善が進み、貴重なご意見を頂き継続できたことを会員の皆様と共にお喜び申し上げます。
 編集の企画、投稿の呼びかけ、紙面の調整、印刷手配、発送まで色々の苦労がありました。最近、ホームページの充実もあり、検索も増加しているのに比例して、投稿希望が増える傾向があり、事務局による調整に苦労が伺えます。
 今後は100号発行の節目を目標に、新しいイズムも加え、皆様の頭の体操の広場として、紙面の充実を継承したいと思います。

初心 忘れず

 会報1号の会報の見出しは「なごやかに、探究する会が発足」です。
 志水公民館に16名が参集し、発起人の趣旨説明に続き白己紹介の形で八幡の歴史についての意見交換が行われました。地域史を共に学ぶサークルのありかた、歴史資料館の設立や過去の文化財の里帰りへの要望等々の具体的提案もあり、今後の会の活動を通じて、相互の勉学の機会を作っていく事で意見は一致しました。
 また、基本的な進め方として、次のように3本の柱を軸に活動を進める事を確認し、実績を残してきました。 1号から50号発行迄の活動を整理してみます。

50号迄の活動実績

① 専門家による講演会を開催する。   26回
② 現地を足で確かめ学習する。      11回
③ 会員自身も発表を行い共に学ぶ。   11回
④ その活動状況を毎月会報を通じて報告する。 50回

 会報のページ数も50号では16ページまで増加し、写真等のイメージの挿入も行い、読者の方々に読みやすい形に順次改良を進めています。

投稿の状況

 毎月の講演の報告以外に、幅広い分野の投稿、並びに歴史関連の書評もあり充実した内容の情報が寄せられました。特にシリーズとしての投稿が増え、今後の貴重な学習の教材を得ることが出来ました。特に「八幡の歴史を彩る文化J「石清水八幡宮覚書」「大谷川散策余話」は5~13回の連続の大作として評価されています。「一枚の写真からJも八幡の現代史の貴重な資料と証言です。
 ある会員との対話で「歴探の会報は開放された会報ですね」との問いかけがありました。言われてみると、八幡の歴史文化を幅広く、多面的に取り上げた内容が多く、形にとらわれない、自由な雰囲気の冊子として評価されている言葉と解釈しました。 形より中身です。益々幅広い分野の文化、歴史の学習の場として、情報の蓄積の場として継続いたします。

「八幡かるた」に続く企画について

 会員の研究発表では、29、30、35号にて記載の八幡かるたの製作発表が挙げられます。第l版は瞬く間に完売。第2版を発注し、現在販売中です。
 会員全員に募集を呼びかけ、その後の分類整理と例会での投票により決定したプロセスを評価したい。現在、市民文化祭、町内会の催し、子供会の教材等に活用されています。 
 続けての課題として、仮称「親子で学ぶ八幡の歴史」と題する冊子の製作を企画中で、関連の方々の協力を頂き、担当の部門グループにて検討中です。素案が出来た段階には、皆様のご意見を頂きたいと思います。
 今後の会報は「継続は力なり」「初心忘れず」のキーワードを念頭に、会員の交流の広場として毎且発行し、地域史情報のデータベースの構築を行いながら次代への継承につなげたいと思います。


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by y-rekitan | 2014-06-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第51号より-end

 
この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2014-06-28 01:00 | Comments(0)