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◆会報第52号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“わが心の風景”㉕◆
◆《歴史探訪ツアー》対岸の町「山崎・大山崎」を訪ねる◆
◆松花堂庭園とその魅力◆
◆シリーズ:“物語はどのように生まれたか”②◆
◆島崎藤村と八幡◆
◆シリーズ:“石清水八幡宮の歴史Q&A”③◆
◆シリーズ:“自転車で巡る名所案内”①◆


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by y-rekitan | 2014-07-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第52号より-01 正法寺

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わが心の風景・・・(25)
正法寺
所在地 八幡清水井

f0300125_8373068.jpg 東高野街道沿いの八幡清水井の地にある正法寺(しょうぼうじ)は、建久2年(1191)に、清水(静岡県清水市)の高田蔵人忠国が源頼朝の幣礼使(へいれいし)としてこの地に居住、新清水と称したことに始まります。三代目宗久は、石清水の「清」を避けて「志水」と改め、嘉暦元年(1326)、本格的な堂舎、仏閣を営みました。第十一代伝誉上人の時、後奈良天皇から勅願寺に補せられ、「徳迎山(とっこうざん)正法寺」の勅額を賜りました。
 また、慶長年中(1595~1610)には、宗清の娘亀女(相応院)が徳川家康の側室となり、のちに尾張藩主となる義直(よしなお)を産み、また、宗清も八幡宮の神職を辞して尾張藩に仕えました。江戸時代を通して八幡領が検地を免除され、守護不入の特権を得られたのは、亀女の働きが大きかったようです。
 寛永7年(1630)に再建された七堂伽藍のなかで、本堂・大方丈・唐門が重要文化財に指定されています。特に本堂垂木の先の金色の飾りは「逆輪(さかわ)」といわれ、全国の寺院のなかで唯一となっています。     (絵と文:小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2014-07-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第52号より-02 山崎・大山崎

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《2014年7月例会 歴史探訪ツアー》
対岸の町「山崎・大山崎」を訪ねる
   

安立 俊夫 (会員)


 表記ツアーを去る7月17日に無事終えることが出来ました。参加者全員が無事サントリー蒸留所でタクシーに乗り終わったとき正直ホットしました。その直後の、幹事有志による反省会では、総じて好意的な評価を頂き安心しましたが、一方で、もう少しゆっくりウィスキーを味わいたかった、土産物を買う余裕がなかった、全体の時間配分にもう少し配慮せよ等の反省点も多く浮かび上がってきました。

 当会の探訪ツアーは年一回を原則として、バスツアーで行こうと、昨年の山城郷土資料館・城陽市歴史民俗資料館のツアーの経験から決まっていました。また、訪問する地域としても今回は近くて遠い「大山崎」をということでした。私自身はツアーの企画には当初は参画してはいなかったのですが、大山崎歴史資料館の福島館長の講演担当になっていたということで、ツアーで館長にお世話いただくのであれば、始めから顔つなぎも兼ねて企画のメンバーに入っているべきという判断から参画させて頂きました。
 3月下旬、ようやく館長と直接連絡が取れ、「役所のこととて、年度末・年度初めは忙しくて時間がとれない。4月中旬以降にしてほしい」とのことでしたので、館長との打ち合わせの前に、少し予備知識を入れておくべきと思い、単身資料館を訪ね、一応の資料を入手しました。
 4月の最初の館長との打ち合わせで、実施日は、7月17日と確定しました。後で気が付きましたが、昔から7月17日は京都の祇園祭り山鉾巡行の日です。そして、祇園さんといえば雨模様というのが頭に刷り込まれていたはずなのです。“暑いであろう”が先に立って雨は忘れていました。エーイままよと開き直っていましたが、野外での活動の成功の鍵の50%以上は天候にあるといっても過言ではありません。そういう意味で“祇園さん”当日に設定したのは疑問符のつくものです。ただし、募集用チラシに“雨天決行”の文字を入れるのに何の躊躇もありませんでした。それは雨対策を十分に計画したということではなく、ただ単に開き直ったというだけです。
f0300125_9242392.jpg ツアーのルートは、夏場であることも考慮して、欲張らないことにしました。というのも、宝積寺や朝日ビール大山崎山荘美術館は、坂が急で時間的に無理。待庵は、人数的に無理ということで、歴史資料館・離宮八幡およびサントリー山崎蒸留所とその道中にある石碑や建造物などを見学することにしました。
 目玉の一つであるサントリー山崎蒸留所の見学受付が、5月1日からであることが分かりました。人数についても一グループの最大は40人と規制され、電話での対応では厳しいものがありました。
 幸い、5月1日に無事予約ができました。ただ、見学開始の15分前には受付に到着するように言われ、かなりスケジュールに制約が入ったような感じではありました。サントリーについてもう一つ肝を冷やした出来事がありました。募集チラシを配り終えたころ、電話があり、工場が工事中になるとのことです。最初とまどいましたが、いつもと異なる見学ルートになるだけということでホットしました。ついでに人数が30名にならないかと言われて、これにはまたびっくり。募集をすでに開始している旨お伝えして了解していただきましたが、40名厳守を約束させられました。
 募集チラシの案文について、担当者間でかなりハードな議論があったことにも触れておきます。ひとつは元の原稿に「本宮石清水」という表現があったことです。離宮八幡は、かつて石清水八幡と「本家争い」もしております。また、行教が八幡神を勧請したときに立ち寄った場所でもあります。地元の人々が「本宮(元)石清水」というのもむべなるかなと思っていましたが、担当幹事の一人から、“「石清水八幡宮」の麓に住みながら何という表現をするのか!”との権幕で、その一言の削除が強く求められました。
 たまたま、府内関係市町村が共同で発行している観光パンフレットを見かけましたが、そういった表現は見られないこともあって「本宮石清水」は削除されました。
 もう一つは、山崎・大山崎とは大山崎だけでよいのではというものです。これは現在では両方それぞれに使われているのでそのままとしました。
 この企画はもともとバスツアーでした。“バス”という一種閉ざされた空間で一時でも過ごすという一体感を享受する面も捨てたものではありません。今回もそれを基本に計画を立てようとしましたが、目的地が近いこと、訪問先に駐車場がなく、当地での移動は徒歩のみであること等を考慮して、タクシーに往復分乗することゝしました。課題としては約10台のタクシーが都合よく確保できるか、乗降がスムーズに処理できるか、交通渋滞による費用の増加はないか、などがありました。ただし、平日でしかも昼間の事で、天気さえよければ台数の確保は問題ないし、雨が降ってもこの時間帯なら若干時間はかかっても何とかなると結論づけました。
 スムーズな乗降については、往きは受付の混雑を避ける意味で、参加者の集合順に乗発車することとし、乗車順に番号札を各人に渡すことで参加者の確認をとりました。また、訪問先での説明や行動の単位としてのグループ分け、さらには帰りの乗車も同じ番号とすることで、乗車順の混乱、乗残しなどのトラブルを回避できました。
 現地での受付では、二階で受付机を用意するという有りがたい申し出を頂きました。机や椅子の移動など、受付時に人手が要ることが予想され、慌てて一号車を幹事のみの先発隊として準備と受付業務をお願いしました。
 当日の昼食のとり方も大きな課題でした。参加者のほとんどが、それほど土地勘がなく、食堂等の情報が不足していました。私はネット地図をコピーして全員に渡すことを提案しました。ところが、担当者である石瀬さんがいつの間にか一人で、周辺の食堂関係を調べておられました。手書きで位置図を作成し、店毎の昼メニューと値段・開店時刻まで入れ、さらに当日訪れる場所・昼食後集合場所が明確に分かるように仕上げられたのです。当日お渡しした案内図がそれです。これによって、思った以上に混んでいた食堂の状況でしたが、何とか全員昼食をとることができました。
 ツアーの最後は、歴史を離れた(サントリーの歴史は聞いていましたか?)工場の見学と楽しみにしていた試飲です。
 最初の一口の旨かったこと!!! 暑かったのにビールでなくても十分でした。
 ここで最後の失態でした。もう少し時間的に余裕をとっておくべきでした。せめて後15分余裕があれば試飲を堪能し、お土産もゆっくり探せていただけたと後悔しています。ただ、タクシー確保の一点のみが頭から離れず、予定時刻の変更にまでは気が回りませんでした。申し訳ありませんでした。

 いずれにしても、福島館長はじめボランティアガイドの方々、サントリー関係者の方々の惜しみないご協力を得、幹事の皆さんのご協力、そして参加していただいた皆様のご理解により、天気も味方してくれて、予期以上のツアーになったのではないかと喜んでいます。紙面を借りて謝意を表させていただきます。付け加えさせて頂くなら、このようなスマートな、内容のある資料館を見せて頂き、八幡市でも何とかして、いつでも気軽に市民や小中学生が遊びに来られる身近な空間を創って欲しいという思いが一層募ったことでした。

     
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歴史探訪ツアー参加記
穐月 哲 (会員)

 今回は「大山崎の油座」について「大山崎町歴史資料館」で福島館長から多くのことを教えていただきました。
 先ず、油座の構成員は離宮八幡宮の神人であり、離宮八幡宮の社司が油絞りの圧搾機を開発したこと。原料のシソ科の荏胡麻(えごま)の産地は当地山崎産ではなく、岐阜、近江など広範囲から買い入れ仕入れの特権を持っていた。又大和をのぞく近畿一円に販売の独占権を持っていたこと。用途は主に神社に使う灯明で、石清水八幡宮の神事に携わり幕府・朝廷から保護され発展した。など学びました。他の展示も行基の掛けた橋など古代の交通の要衝であったとがよく分かる地図が俯瞰(ふかん)され山崎の重要性がよく理解出来、又山崎の合戦の現状が目の当たりに分かるのも醍醐味でした。f0300125_15553334.jpg
 こじんまりした資料館ではあるものの、山崎の歴史と文化を分かりやすく展示し、解説ボランティアさんは熱心にお話して下さり感動しました。私の住む枚方は、文化財はその都度少しだけ分散展示し、一堂に会するような歴史資料館はありません。行政の意識の違いを強く感じました。
 ところで私は学生時代、阪急電車でいつも対岸の景色を憧れの気持ちで見ていました。淀川左岸から眺める対岸は緑に囲まれた風光明媚な場所、天皇の離宮が作られるに相応しい場所だったのでしょう。そして現代では名水が上質のウィスキーを醸し出しています。今回ツアーの最後はハイボールで乾いた喉を潤しました。今年最高の暑さにもめげず、皆さん元気でハイボールに寛ぐ姿に思わず乾杯!
 さらに「おかわり」しました。本当に上質、最高の味わいでした。
とても楽しいツアーに参加させていただきありがとうございました。

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by y-rekitan | 2014-07-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第52号より-03  松花堂庭園

松花堂庭園とその魅力
―名勝指定と庭園案内に思うこと―

藤田 美代子 (会員)

 本年6月20日、「松花堂および書院庭園」が国の名勝に指定されました。石橋館長以下多くの関係者のみなさまのご努力の賜物だと思います。これを記念して、庭園の沿革を紹介し、日々来訪者を庭園ボランティアガイドとして案内しながら感じていることなどを記してみたいと思います。

1、松花堂庭園の沿革

 廃仏毀釈の影響で、石清水八幡宮が鎮座する男山の中腹にあった泉坊の草庵茶室「松花堂」は、明治7年(1874)大谷治麿氏が買取り、山麓の山路(現八幡山柴)の邸宅に移築されました。後、以下のように変遷します。
  • 明治13年(1880) 八幡山柴から八幡志水の西車塚古墳に移設。
  • 明治24年(1891) 国学者井上忠繼氏が譲りうけ、現在の地に移築。この頃、泉坊書院も移す。
  • 昭和14年(1939)までに西村芳次郎氏が内園を整備・復元する。
  • 昭和28年(1953)までに西村大成氏、同38年までに迫田氏と所有者が変遷する。
  • 昭和32年(1957) 草庵茶室「松花堂」と「男山松花堂跡」が国の史跡に指定される。
  • 昭和38年(1963) 塚本泰山氏が譲り受け、周辺の田畑を買収・造成し、そこに美術館(資料館)と三つの茶室を設け、40種類の竹・笹をはじめ銘木・銘石を配した大和風庭園を築造する。茶室は中村昌生工学博士の調査・設計・指導に基づき安井工務店が施工。竹の整備は上田弘一郎京大名誉教授、椿の整備は渡邊武博士、造園は関口鋭太郎博士(京大名誉教授)の指導による。
  • 昭和52年(1977) 八幡市が市制施行記念事業の一環として約6億5千万円で譲り受け、同年11月1日の市制施行と同時に「松花堂庭園」として一般に公開。
  • 昭和58年(1983) (公財)やわた市民文化事業団の管理委託となる。
  • 昭和59年(1984) 泉坊書院・玄関が京都府登録文化財に、草庵茶室「松花堂」が京都府指定文化財となる。
  • 昭和60年(1985) 八幡市文学碑建立事業の第一号として「吉井勇歌碑」が建立され、除幕式に孝子夫人が参列。
  • 平成4年(1992)  庭園内各所に京都の古刹・名跡に設けられている竹垣23種類を新設。
  • 平成5年(1993)  庭園西方に、京椿など茶花100種類余を植栽し、「椿園」とする。
  • 平成14年(2002)4月、「松花堂美術館」竣工、開館。
     同年10月 「松花堂美術館」グランドオープン。
 (庭園案内資料「松花堂庭園の沿革」より)

2、来園者を案内しながら思うこと

 庭園は、大きく分けて外園、内園、椿園に分けられると思います。来園者には、以下のように案内しています。
(1)外園では
 外園では、竹と四季折々に咲く花々を味わっていただきながら歩き、趣きを異にする三つのお茶室の特徴をお話します。 f0300125_11154649.jpg                    
 蹲踞(つくばい)に設置された水琴窟(すいきんくつ)や織部灯籠に侘び寂びを強調した宗旦好みの梅隠をご案内し、瀧本坊の一角にあった閑雲軒を再現した松隠では、松花堂昭乗と小堀遠州の関係や男山中腹にあった頃の掛け造りや空中茶室のご説明をします。竹隠では、ウイークデーにご案内の場合、次回は是非とも日曜茶席でご一服いただくようお勧めします。現代の数寄屋大工の工夫と技術を凝らした茶室内部をご覧いただきながら、お抹茶をと。
 別館では、納涼寄席や能面展など様々な催し物が開かれ、椿展では、切り花が数えきれないくらいに展示されていることをお話します。そして、当初の表門であった高坊をご説明し、おみなえし塚で、平安時代初期の悲恋物語を語ります。

(2)内園では
 内園に入りますと、何といっても草庵茶室松花堂を中心に、昭乗さんについて語ります。
瀧本坊の住職の座を譲った後、たった二畳のこの小さな庵に移り隠棲。その2年後にこの世を去りますが、ご案内しながら私自身、その頃に訪れた文人・墨客とどの様なことを語り合ったのだろうかといつも思います。   
 昭乗さんの書と伝わる三つの木額と、この小さな庵の中に仏壇と床の間と袋戸棚があり、土間にはおくどさんまであります。小さな庵とは対照的に、大地を這う様な広がりを感じる太子の手水鉢。f0300125_11214680.jpg10回忌に建てられた、やわらかみのある八幡形灯籠と、庵を見守るようにふっくらと咲く昭乗椿は、まさに昭乗さんそのものの様に私には思えるのです。私の大好きな空間であり、ご来園者には是非味わっていただきたい空間です。男山中腹にあった時も、この様な佇まいの中で書画を描き詩歌を作り風流を談じたのでしょうか。
書院・客殿をご説明し、前庭を通り、雪月花、崑崙黒椿、肥前薄雲、酔羽衣を見ながら東車塚古墳へと、美しい松や草屋形灯籠をご案内してゆきます。

(3)椿園では
 椿園では、その季節でない時も、竹の種類がいろいろあり、時間が許す限り竹についてご説明します。
 椿の季節、園内は華やかに一変します。これ以上の艶やかさはあるのかしらと思える岩根絞や、まさに茶花にと思える、f0300125_11263352.jpgシンプルな高台寺椿、聖、宗旦、素白など。一面が明るくなる都鳥、枝垂れ桜ならぬ枝垂れ椿の孔雀椿などなど枚挙にいとまがありません。椿の無い季節に初めて来られた方は、必ずもう一度来たいと出口でおっしゃいます。
 最近のご案内で、書院前庭を歩きながら、生きている時に両親をつれて来たかったとおっしゃる方がいらっしゃいました。どういう所でそのようにお感じになったのか、次の案内の時間が迫っておりましたため聞きそびれてしまいましたが・・・。
 また、別の方で、ホテルに戻られ、窓の外を眺めながら、草庵茶室のことを思い出しております。京都の名所が一つ増えましたなどとメールをいただきますと、これからも、庭園を訪れる多くの方々にとって「心に残るような庭園」であってほしいと思いますし、「八幡が誇れる名園」としてあり続けていってほしいと思うのです。

                     
3、私にとっての松花堂庭園

f0300125_11333913.jpg ご来園者は、それぞれにご興味の有り様が違います。草花であり、写真であり、茶室の佇まいであり、歴史でありと。それらのことがらを味わいながら、移ろいゆく季節とともに静かにゆっくり歩いていただけたらと思います。
 椿の時期は、多くの方がいらっしゃいます。枝垂れ桜が美しい頃、いやつつじの頃、いや紅葉だといろいろおしゃいますが、私は年間を通じ青葉の頃が最も好きです。大山蓮華が咲き、夏に向かう頃の園内に入りますと、自分が緑に染まってしまいそうなくらいの緑のグラデーションが美しい頃です。
 f0300125_113654.jpgまた、今迄で印象に残っている光景として、雪の降ったある朝のことを思い出します。
当番になっていましたが、歩くのも危ないそんな雪の日に来園者はいらっしゃいません。控室からカメラを持って雪の中に足跡を残し椿園に向かいました。渡邊先生遺愛の椿に、こんもりと雪が載っており、雪の重さに耐えるように懸命に雪の中で色づいているのです。人生の縮図を見る様で、何ともけなげで、思わずシャッターを切ったことを覚えています。
 これからも、この庭園を愛して下さるご来園者の皆さまの邪魔にならず、ていねいにご案内してゆけたらと思っています。
by y-rekitan | 2014-07-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第52号より-04 物語の生まれ②

シリーズ「物語はどのように生まれたか」・・・②
女 郎 花 と 頼 風②

 土井 三郎 (会員) 


2、謡曲「女郎花」の成立とストーリー

 謡曲「女郎花」は、「おみなえし」と読むものがあれば「おみなめし」とルビがふってあるものもあります。いずれにせよ、元曲は世阿弥(ぜあみ1363~1443)以前にあったといいます。現在の「女郎花」は、1505年に金春大夫(こんぱるたゆう)が演じたものと同一とのことなので、元曲もふくめて16世紀初頭までに成立していたとみてよいでしょう

f0300125_185424.jpg  ストーリーをたどってみます。
九州からやってきた僧が、京に上る途中、摂津の山崎に到り、石清水八幡宮に詣でることを思い立ち八幡にやってきます。すると、野辺に女郎花が今を盛りに咲き乱れています。 旅の僧は女郎花を一本手折(たお)らんとします。すると、そこに花守なる老人が現れ、花を折るなと制止します。この花守、実は前シテなのです。能、とくに「夢幻むげん能」と呼ばれるものは、前のう場と後場があって、前場は土地の人のなりをしていますが、実は後場に現れる幽霊の仮の姿なのです。
 そして、旅の僧と花守がそれぞれ和歌を披露しあい、二人とも心なごみます。花守は、花を折ることを許し、旅の僧を石清水八幡宮に案内します。 その道すがらが面白い。以下に紹介します。
 山下(さんげ)の人家(じんか)、軒(のき)をならべ、和光の塵(ちり)も濁江(にごりえ)の、河水(かすい)にうかむうろくづは、げにも生けるを放つかと深き誓ひもあらたにて、恵みぞ繁き男山、栄ゆく道のありがたさよ、頃は八月半ばの日、神の御幸なるお旅所をふし拝み、久方の、月の桂の男山・・・
 「山下(さんげ)」とは男山のふもとを指します。人家が軒を並べるとは、さしずめ科手(しなで)辺りの町並でしょうか。「和光の塵」とは仏が衆生を救うため、本来の威光をやわらげ仮の姿を俗世に現すこと、「濁江(にごりえ)」は放生川とみてよいでしょう。「うろくづ」は魚、「生けるを放つ」とは、まさに放生会そのものです。八月半ばは放生会が営まれる日なのですから。そして、放生会は山下のお旅所=頓宮で執り行われるのです。
 花守は、お旅所だけでなく、神宮寺(大乗院?)をも巡り、最後に八幡宮の本殿に案内します。
 その後、旅の僧は、女郎花が男山とどんな謂(いわ)れがあるのかを問うので、花守は山の麓に立つ男塚と女塚をお見せしようと誘います。このくだりを花守と旅の僧の会話で紹介します。

シテ(花守)
 こなたへ御入り候へ、これなるは男塚、又此方(こなた)なるは女塚、この男塚女塚について、女郎花の謂れも候、これは夫婦の人の土中にて候
ワキ(旅の僧)
 さてその夫婦の人の國は何處(いづく)、名字は如何なる人やらん
シテ(花守)
 女は都の人、男はこの八幡山に、小野の頼風と申しゝ人、


 この後、花守は忽然と姿を消し、中入りとなります。
 ここでおわかりの様に、謡曲「女郎花」では、男塚と女塚は決して離れた所に立っているのではなく、「これなるは男塚、また此方(こなた)なるは女塚」と述べる様に、ほど近い所に立っているように設定されているのです。
 後場は、亡霊である頼風と女郎花が、旅の僧の前に現れるところから始まります。二人の思いのたけを聴いてみましょう。

ツレ(女郎花)
 わらはは都に住みし者、かの頼風に契りをこめしに
シテ(頼風)
 少し契りのさはりある、人まを真(まこと)と思ひけるか
ツレ(女郎花)
 女心のはかなさは、都を独りあくがれ出でて、なほも恨みの思ひ深き、放生川に身を投ぐる
シテ(頼風)
 頼風これを聞きつけて、驚き騒ぎ行き見れば、あへなき死骸ばかりなり、
    (中略)
シテ(頼風)
 その塚より女郎花一本生ひ出でたり、頼風心に思ふやう、さてはわが妻の、女郎花になりけるよと、なほ花色もなつかしく、草の袂もわが袖も、露触れそめて立ち寄れば、この花恨みたる気色(けしき)にて、夫(おっと)のよれば靡(なび)き退(の)き又、立ち退(の)けばもとの如し


 f0300125_18152921.jpg男と女の世界にありがちの恋物語を聞かされているようです。女郎花が「契りを込めしに」と訴えるのに対し、頼風はうろたえながら弁明に努めるように聞こえるからです。
 そして、「そなたと契りを結んだことは罪深いことであったのか。それにしても、しばらく交わりがとだえたからといって、それを真に受けることがあろうか」と反問するのです。
 だが、女郎花に頼風の真意は伝わりません。頼風が近づけば、その塚から生える女郎花が靡(なび)き退(の)くことで、冥界に行っても恨みは晴れぬことを意思表示しているかのようです。
 或いは、女郎花の頼風に対する恨みが、地元の人に、頼風塚を女郎花塚のはるか1.5㎞かなたに建たせた理由になっているのかもしれません。

f0300125_18194180.jpg それはともかく、頼風は決して薄情で、仏心のない男ではありません。自分が身を寄せると、女郎花が靡き退く様を見て、
無慙(むざん)やな、われ故に、よしなき水の泡と消えて徒(いたづ)らなる身となるも、偏(ひとえ)にわが科(とが)ぞかし、若(もし)かじ浮世に住まぬまでと同じ道にならんとて
とつぶやき、同じくこの川に身を投げるのです。

 さて、次に、何故この謡曲が、『古今和歌集』に関連して生まれたかを述べなければなりません。
 その答えは「女郎花」の詞章自体に示されています。先ほど、「夫(おっと)のよれば靡(なび)き退き又、の立ち退けばもとの如し」と頼風がひとりごちた後にかぶさるように地謡(じうたい)の合唱が続くのです。即ち、
ここによって貫之も、男山の昔を思って女郎花の一時(ひととき)を、くねると書きし水茎(みずぐき)のあとの世までもなつかしや
 「水茎」とは、手跡、筆跡の意。文章のことを指します。そして、貫之とは、『古今和歌集』を編纂した一人であり、その序文を書いた人です。「男山の昔を思って女郎花の一時をくねる」という一文は、古今集の仮名序(かなじょ※)にまさしく著されているのです。ここに、謡曲「女郎花」の出生の謎が隠されているのは明らかです。   (次号につづく)

「仮名序」は仮名文で書いた序文。ほかに真名序といって漢文で書かれたものがある。


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by y-rekitan | 2014-07-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第52号より-05 藤村と八幡

島崎藤村と八幡

八木 功 (会員)



 藤村は八幡を訪れたことはありませんが、名作『夜明け前』(1935)の中で、八幡のある場所から、ある地域を現地で観察したことがあるかのように詳細に描写しています。次の一節です。

 公使の一行が進んで行ったところは、広い淀川の流域から畿内中部地方の高地へ向ったところにあるが、生憎と曇った日で、遠い山地の方を望むことは叶はなかった。二艘の小蒸気船は対岸に神社の杜や村落の見える淀川の中央からもっと先まで進んだ。そこまで行っても、遠い山々は隠れ潜んで容をあらわさない。天気が天気なら初めて接するそれらの山嶽から、一行のものは激しい好奇心を癒し得たかも知れない。でも、そちらの方には深い高地があって、その遠い連山の間に山城から丹波に跨るいくつかの高峰があるという日本人の説明を聞くだけにも満足するものが多かった。中でも、一番年若なカションは、一番熱心にその説明を聞いていた。どんな白い眼で極東の視察に来る欧羅巴人でも、この淀川に浮かんで来る春を眺めたら、いかにこの島国が自然に恵まれていることの深いかを感じないものはあるまいとするのも、彼だ。
               ・・・・・・・・・・・・・

 ご一読いただき、ここが淀川のどの辺りかお分かりでしょうか。この前後の淀川描写の中に、それぞれ次の二文があればどうでしょうか。
  • よく耕された平野の光景は行く先に展けた。(大阪平野の沃田)
  • 次第に淀の駅の船着場も近いと聞く頃には、煙るような雨が川の上へ来た。
 そうです。此処は、現在では、しっかりとした背割堤辺りを左手に見て、遡上するあたりです。慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いが終わって間もなくの早春の頃、フランス公使一行6人が、安治川口から小船に乗り、初めて、参内のため京都に向かう場面です。藤村は、淀川を遡上した経験も全くないのに、これだけの描写が出来るのには驚きますが、実は、観察を武器として散文修行に徹した藤村は、京都の西山連山を東海道線の車窓から凝視したことがあったのです。長編『新生』(1919)からの一節ですが、どの辺りでしょうか。

 ・・・岸本は淀川一帯の流域とも言うべき地方を汽車の窓から望んで行った。汽車がいくらかづつ勾配のある地勢を登って行くにつれて、次第に遠い山々も容を顕した。彼は飢え渇いたように車の窓を開け放ち、山城丹波地方の連山の眺望を胸一ぱいに自分の身に迎え入れようとして行った。大阪から京都まで乗って行く途中にも、彼は窓から眼を離せなかった。

f0300125_19125837.jpg 山崎駅から西大路駅までの間で見える西山連山(天王山、ポンポン山、小塩山、愛宕山など)の眺望ですが、登り勾配が始まる地勢を直感しているのは驚きです。
 事実の詳細は省きますが、この大阪から京都までの汽車の旅は、三年あまりに及ぶ故国脱出・逃避先のフランスからの、苦悩を抱え、孤独な、内密の帰国であり、久方ぶりに見る車窓を流れる風景を、まさに「飢え渇いたように」全身で観察・受容している藤村が目に浮かんできます。大正5年(1916)7月4日のことですが、この経験をふくむ小説『新生』を朝日新聞に連載したのは、車窓の風景もまだ鮮明な2、3年後のことです。それから10年後、昭和4年4月、『夜明け前』を年4回、『中央公論』に連載し始めますが、最初に引用した部分は、恐らく昭和9年(1934)頃に執筆したと推定されるので、実に、18年ぶりに、あの脳裏に焼き付いた心象風景が復活されたのです。そうでないと、ガイドの詞であれだけ西山連山にまつわる説明は書き得なかったと思います。驚くべきは、観察を武器として物を観る眼を養い続けてきた藤村の作家としての姿勢ですが、この場合は、特に全身で受け入れた連山の原画を、経験の全くない背割堤辺りを遡上する小船からの視界に収め、活用するという技法には、感嘆せずにおれません。
 (※ 挿絵は『淀川両岸一覧』より山崎の図の一部。手前は橋本)

 藤村と八幡といえば、藤村と吉井勇との縁をも思い出さずにはおれません。私の推定では、明治40年初頭、藤村(36歳)を訪れた勇(22歳)は、恐らく、文学、人生、自らの進むべき道などを問いかけたでしょうが、それ以後、二人の関係は、無かったようです。ところが、藤村の訃報を知り、「藤村先生の死を悼む」と題して詠んだ短歌六首を歌集『玄冬』に収めているので紹介しておきます。

     しづかなれどかなしき宵やわが遅き 
                  夕餉の飯も胸につかえて

        (藤村は昭和十八年八月二十二日永眠。)

     「東方の門」書きさして死にたまふ 
                  み心思へば泣かれぬるかな

        (「東方の門」未完の歴史小説。)

     大磯の梅の林の奥ふかく 
                  眼りてもなほ生きさせたまへる

        (大磯にある藤村の墓地の梅は、印象的です。)

     君が児の鶏二が描きし死顔は 
                  しづかなれども人を泣かせる

        (鶏二は藤村の次男。画家。)

     浅草の新片町の先生の 
                 二階の書斎いまも目離れず

        (初顔の二人は、ここで、熱い想いを交わしたことでしょう。)

     ルーソオの懺悔録もち吾に示し 
                 のたまひしことも忘られなくに

        (「懺悔録」は若い藤村の愛読書でした。)

 端的・素朴な言葉遣いで、生涯の心の師に対する無限の哀悼・敬慕の情が、響き伝わってくるように、私には思えます。      
            (2014・6・13)
by y-rekitan | 2014-07-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第52号より-06 八幡宮Q&A③

シリーズ「石清水八幡宮の歴史Q&A」・・・③
第3回


Q:江戸時代までの石清水八幡宮(寺)の本尊は何ですか?

A:石清水八幡宮の本殿は、明治維新前であっても寺院ではなく、あくまで神社でしたから、そこに祀られた信仰対象は本尊ではなく祭神と称えたわけですが、一般的に八幡三所大神の「本地」としては、阿弥陀如来を中心に観世音と勢至の二菩薩を脇侍とする阿弥陀三尊が当てられてきました。
ただ、行基が男山に開創した石清水寺(後の護国寺)の本尊は薬師仏でした。薬師三尊は、薬師如来を中心に、日光・月光の二菩薩を脇侍とするものです。また、釈迦三尊とする説もあります。釈迦を中心に文殊と普賢両菩薩を脇侍とするもので、鎌倉時代の法華経信仰の高まりとも関連するように思われますが、これを霊鷲山(りょうじゅせん)で説法した釈尊の後身こそ八幡神だとする主張の顕れとみることも可能でしょう。こうした諸説がある中で、やはり最も有力視されてきたのは、平安後期以来の本地垂迹説に則った阿弥陀三尊説であったといってよいでしょう。
 なお、明治維新の「神仏分離」に際し、本殿内に本地仏として安置されていた阿弥陀如来像は、一たん外に出され骨董商に引き取られましたが、紆余曲折を経て明治30年代に再び当宮に戻り、今は社務所書院の一角にひっそりと安置されています。

   (回答者:石清水八幡宮禰宜、西中道氏)



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by y-rekitan | 2014-07-28 07:25 | Comments(0)

◆会報第52号より-07 歴史サイクリング①

シリーズ「自転車で巡る名所案内」・・・①
自転車で八幡東部の名所を案内!
― Bコース ―

 歴史探訪サイクリング担当 (会員) 


 7月6日、日曜日。京阪八幡駅前に25歳の若者から70歳近い老齢の方まで一行10名が集まった。八幡の歴史を探究する会が初めて実施する自転車ツアーである。
 従来、八幡の観光案内と云えば男山東麓の旧東高野街道を往復するルートが一般的であった。しかし、八幡東部に広がる田園地域にも結構見所が多く、自転車で巡れば立ち寄ることができる。鳥羽伏見の戦いで、一時、大住村に避難していた八幡大神が還幸する時に立ち寄ったことから名前のついた戸津八幡神社。ところが、境内の石灯籠の年代は結構古い。そんなことを確認しながら内里の集落へ。f0300125_1524739.jpg立派な屋並みの外れに内神社がある。ここは、南九州の隼人との関連が指摘され、社殿も豪華である。上奈良村の鎮守社である御薗神社はずいき祭りで知られ、境内の狛犬は八幡で一番古い。そして、流れ橋へ。昨年9月の大水で流されたものの今年6月に復旧。日差しをよけて橋げた下でお弁当。午後は旧庄屋の伊佐家と川口天満宮により、八幡に戻る。そこで雨に降られ、頓宮周辺の見学は割愛された。全長16㎞の行程であったが見所が多く、快い疲れが全身にしみ渡った。
 次回は9月7日(日)。今度は橋本・楠葉を経て洞ヶ峠にいたり、中ノ山墓地や松花堂庭園を巡って東高野街道沿いを駅前に帰るコース。以後、奇数月の第一日曜日に実施する。問い合わせは土井へ(075-983-5278)。

          
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歴史探訪サイクリング参加録

山岡 弘明 (枚方市) 

 生憎の曇天の下、八幡市駅前からスタートして八幡東部の川口、下奈良、内里、上津屋を巡った歴史探訪サイクリング。これまで一度は通り過ぎたことがある場所がほとんどでしたが、意外な八幡の歴史の奥深さと参加者の皆様の博識ぶりに終始驚かされました。
 八幡の歴史を探究する会のイベントには今回が2度目の参加となりましたが、仕事の関係で楠葉に住みはじめてようやく2年が経過した私は、まだまだ八幡にとって「ヨソモノ」。そんなヨソモノの私にとって、この探究会の楽しみは、八幡の歴史という極めて個別的・具体的な事象を、如何に一般化・抽象化して考えられるかにあると思います。例えば、上津屋の流れ橋。簡素な木造の橋は、時代劇の撮影でもお馴染みの場所です。しかし、参加者の話によると、江戸時代には幕府の統制の下、橋を自由に架けることができなかったため、流れ橋はなかったそうです。また、当時重要だった木津川の水上輸送の観点からも、橋があるとむしろ船の航行の邪魔になったとさえ考えられたそうです。
 このように、今回、歴史の本当の面白さというのは「行って、見て、聞いて」みないとわからないと痛感したサイクリングとなりました。皆様も是非ご参加頂ければ、想像以上の歴史体験が待っていると思います。(2014・7・6)


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by y-rekitan | 2014-07-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第52号より-end

 
この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2014-07-28 01:00 | Comments(0)