<   2014年 08月 ( 9 )   > この月の画像一覧

◆会報第53号より-top

f0300125_1512261.jpg
この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“わが心の風景”㉖◆
◆シリーズ:“ひょっこり訪問記”①◆
◆シリーズ:“墓石をたどる”⑦◆
◆シリーズ:“古代の声を聞く”①◆
◆シリーズ:“物語はどのように生まれたか”③◆
◆地誌には、どんなものがあるか?◆
◆シリーズ:“石清水八幡宮の歴史Q&A”④◆


<< ひとつ新しい号へ  < TOPに戻る >   ひとつ古い号へ >>

ご意見は各記事下端のcomments欄をクリックしてお寄せください。

by y-rekitan | 2014-08-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第53号より-01 泥松稲荷

f0300125_1123281.jpg
わが心の風景・・・(26)
泥松神社
所在地 八幡広門

f0300125_10454815.jpg 松花堂庭園に近い東高野街道沿いに朱塗り鳥居と社殿が見えます。ここは地域の人々の厚い信仰を集める「泥松稲荷(どろまついなり)大明神」といい、次の様なお話が今に伝わっています。
 その昔、もみじ寺(宝青庵)に小柄で豆狸のようほこらな庵主様がいました。寺の近くの祠(ほこら)には、狸が住み着いていて、ある日、狸のいたずらが過ぎ、村人にこっぴどくお仕置きをされ、弱ってうずくまっていました。そこへ庵主(あんじゅ)様が通りかかり、狸をお寺に連れて帰って手厚く看病してあげたそうです。
 狸の名は「泥松」といい、その後、すっかり元気になって、庵主様ともにお祈りをするまでになりました。その泥松が亡くなると、庵主様はその御霊(みたま)を祀り、朝夕に拝むと、泥松の霊力が庵主様に乗り移り、占いがよくあたるようになりました。
 この噂は京都や大阪に広がり、「泥松様のお狸様」と呼ばれ、その後「泥松大明神」の社と鳥居が奉納されました。今でも、「泥松大明神」と一心不乱にお祈りすると、願いが叶うと言われています。    (絵と文小山嘉巳)



<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2014-08-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第53号より-02 木田醤油

シリーズ「ひょこり訪問記」・・・①
木田醤油株式会社社長
―木田芳郎さんの巻―


 夏の盛りの七月の末、伏見区の淀美豆(みず)町にある木田醤油店を訪ね、社長の木田芳郎(きだよしろう)氏(今年81歳)にお会いしました。f0300125_1272033.jpgそして、創業が安政2年(1855)と云う店の来歴や醤油作り、なぜ木津川沿いで製造・販売したのかなどのお話を伺ってきました。 
 淀美豆町といえば、今でこそ京都市伏見区に編入されていますが、木津川が明治初年につけかえられる前は、石清水八幡宮の神領である外四郷の一つである美豆郷にありました。旧木津川が西に急カーブする内側の地が美豆郷です。ちなみに、八幡の外四郷と呼ばれる際目郷、生津郷、川口郷が、右の図のように、木津川の西側に沿って並んでいました。醤油会社の名物社長として知られ、一度訪ねてみたいと思っていましたが、一念発起、この夏に実現しました。会見には歴探の幹事であるA氏と同伴しました。

河内屋佐助と美豆の里

 事前に、電話で連絡を入れてはいましたが、初対面の私たちに気軽に応じてくださった木田さんは、こちらの問に率直に応えて下さいました。以下、その日に頂いたパンフレットなどをもとに私の印象もふくめて紹介します。
 木田醤油の初代は、河内屋佐助といい、奉公先の醤油醸造業の浮田氏の美豆村で働き、浮田氏の田を貰い受け、もとの木下姓を木田姓にしたとのことです。商号は「河佐(かわさ)」。清酒と醤油の販売を生業としていました。
 ところで、「美豆(みず)」とは読みの通り水を連想します。ところが、元来「醤油」の意味があるとのことです。元禄期に書かれた『本朝食鑑』は醤油の語源について述べ、「醤油」は中国名であり、その日本名が「豆久利美豆(つくりみづ)」というのです。平安中期の百科事典である『和名抄(わみょうしょう)』にも関連した記述があるとのことです。となれば、美豆とは醤油のことを指すではありませんか。なるほど、醤油は大豆を原料にします。美なる豆=醤油というのは理に適います。
 現在、醤油の大生産地といえば、千葉県の野田・銚子、兵庫県の竜野、和歌山県の湯浅があります。しかし、千葉県の醤油は湯浅が発祥と言われ、江戸で人気の醤油は泉州・堺のものでした。ことほど左様に醤油は近畿圏が発祥の地であったようです。京の洛中・洛外にも醤油業者は沢山あり、その中で、山科の元禄醤油が最も有名であったとのこと。続いて「マルタケ」醤油、「マルカ」醤油(浮田氏)、その次に木田氏の「ヤマカ」醤油が京の醤油醸造の中心であったとのことです。しかし、京都にある醤油醸造元は「ヤマカ」(木田醤油)以外は消えてしまいました。
 応接室での会見の後、さっそく、味噌・醤油を製造する蔵に案内していただきました。そこに入るなり、味噌の香ばしい香りが漂ってきました。

伝統を受け継いだ醤油作り

 醤油の作り方を簡単に言えば、大豆を蒸煮して、小麦を炒って、これに麹を入れ塩水を合わせて自然発酵させるというものです。木田醤油の製造は、総て昔のままの手作り、自然発酵で生じた麹菌は、もろみだけではなく蔵全体に住み着くようになるとのこと。f0300125_1133337.jpg蔵の樽を始め木の柱や壁、階段など百五十年以上この蔵に住み着いているのだそうです。そして、新しい醤油を作っても、この麹菌が勝手に降りてきて大樽の中に入り込むのだそうです。もちろん、麹菌は別にちゃんと仕込むときに入れるのですが、この不思議な生命体が、大豆と小麦を仲良くさせて「もろみ」となり、「生揚げ」(醤油のもと)となるのです。
 材料を仕入れてから商品になるには一年以上かかります。酒が産地や業者によって風味が変わるように、醤油も麹菌の生かし方や、製造法により業者それぞれの特色を持ちます。昔の伝統を守り、新しい味を求めて行くため常に研鑽が必要だとも述べます。

美豆、瑞々しい淀川(旧木津川)の流れと共に

 美豆の地名は古く、平安期には、「美豆の御牧」として歌枕にもなっています。但し、明治初期の村誌には「土地卑湿ナレトモ反テ食水ニ乏シ」(『八幡地域の古文書と石清水八幡宮の絵図』京都府立大学文化遺産叢書、第3集)とあります。確かに浅い地下水では、水は出るが金気(かなけ)の水で不味く、手拭を使えばすぐに黄土色に変わるとのことです。
 ですから、木田醤油では今でも井戸水を使っています。そのため77mも掘り下げたとのことです。一番の良水は50mあたりから出る軟水で、普通、軟水は飲料水に適しませんが、こちらの水は甘みがあって、カルシウム・マグネシウムを含む硬水とは違って素材の味を生かしてくれるとのことです。例えば宇治茶も美味しくいただくことができると言います。
f0300125_1141828.jpg 江戸時代、美豆の前は木津川が流れていました。蔵の前に石段がありますが、これは船着き場に至る石段でした。その前に木津川が流れ、当時は船での輸送が最盛期であったので、水運を利用して商品や原材料が運ばれ、いろいろの商家が多く繁盛したとのことです。明石の鯛や蛸がその日のうちに洛中まで入ったとのことです。それというのも、昔から対岸の淀は魚市で賑わっていたという事情もあるのでしょう。
 ともかく、多くの舟がこの石段の前で賑わったとのこと。目を閉じると、今にも船頭さんが「荷が着いたぞ」と叫ぶ声掛け声が聞こえてくるとのことです。

明治時代以後の醤油醸造業の発達

 明治15年(1882)以降、理化学的な研究が進み、製造技術が進歩を遂げてゆきました。醤油産業が近代的な大量生産時代に移行したのは、大正7年(1918)の第一次世界大戦後に訪れた好況時代。この好況が近代化に拍車をかけ、企業の合同も行われました。f0300125_11592795.jpg
 ところが、昭和12年(1937)以後、原料の入手難から質の向上よりも量の確保が先決になってしまいました。本醸造醤油はほんの僅かしか作られず、代用品として「アミノ酸醤油」が生産の主流になる時代を迎えてしまったのです。
 醤油業者が再び品質の向上を目指すことが出来るようになるのは、戦後の昭和25年(1950)、配給制度が廃止され、自由販売が認められるようになってからです。その後、半世紀以上経た現在では、品質に優れた本醸造醤油が大量に生産されるようになりました。
 そう語る木田さんですが、「木田醤油株式会社も私の代で終わりですわ。息子である6代目は他の仕事に精を出しておりますさかいに、私の代で店も閉めるということですわ」と寂しく語るのが印象的でした。          (黒沢建治 記)

      神領の絵図(部分)の出典は、
       『石清水八幡宮 境内の遺跡』(八幡市教育委員会発行)です。 
   
                             


<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2014-08-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第53号より-03 墓石をたどる⑦

シリーズ「墓石をたどる」・・・⑦
大乗院の五輪塔と石工集団

谷村 勉  (会員) 


                          
だれがいつ移設したのか

f0300125_225142.jpg 八幡市八幡馬場の善法律寺境内(駐車場側)にある五輪塔は、その右脇にある「大乗院之五輪」碑の碑文から大正十年に現在の場所に移転されたことが分りました。
 大乗院は、現在の京阪八幡市駅付近にあった寺院ですが、川筋拡張工事による廃寺(明治2年)の際に、五輪塔はそのまま地中に埋められ、風雨によって地表からはみ出た地輪は長い年月の間に削り取られた様子が伺えます。また、大乗院五輪塔本体に銘文はありませんが、西大寺の叡尊とその石工集団による造立と見て間違いないようです。

 大正十年、五輪塔を現在地に移設した時は板看板に由縁を書いたものの、皇紀二千六百年(昭和15年)を記念して石碑に建て替えられたようです。
 五輪碑銘文中の人物について調べた結果、以下のことがわかりました。
谷村久吉氏は、昭和13年発行の『八幡町誌』によれば、明治43年から昭和12年まで町会議員を、大正12年と昭和8年には町長を務めた人物であることがわかりました。
f0300125_22554960.jpg
また、立本弘三郎氏は、八幡駅前近くに建っていた立本家の当主(旧立本医院)で、「引窓南邸跡」三宅碑のあった旧家としてよく知られるところです。そのお孫さんの話によれば、ここには誰も住まなくなり、本年6月に取り壊され土地を地主に返還したとのことです。最後に、森口孝次郎氏は、やはりお孫さんにお会いし、証言していただきました。それによれば、大乗院跡地が畑になりそこで農業を営んだとのことです。お孫さんは「あの土地はダイジョウと呼び、南瓜(かぼちゃ)など畑作もの中心の畑でした。戦後、私が子どもの頃、一帯は借家でした」と語っていただきました。

 皇紀二千六百年とは昭和15年(1940)が神武天皇の即位から2600年に当たるとし、大東亜戦争開戦の1年前、官民一体となって「国民意識」の高揚や窮乏生活の払拭を狙って各地でいろんな行事を実施しました。戦後世代にとっては実態がよく分からないものですが、昭和15年前後に生まれた子供に「紀」とつく名前が多かったようです。ちなみに旧日本海軍の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)は皇紀2600年に採用され、零戦と名づけられました。
f0300125_2171519.jpg

大乗院五輪塔の概要と製作者 

 五輪塔は花崗岩製で、塔の高さは次のように測定されました。
 五輪部分の塔高は198.7cm、地輪52.0cm、水輪54.2cm、火輪45.0cm、風輪18.5cm、空輪29.0cmで台座の高さ20.0cmを加えると総高凡そ218.7cmの巨大な五輪塔であるということです。
f0300125_2346566.jpg 製作者と思われる叡尊教団は鎌倉時代から南北朝期にかけて、塔高2メートルを超える巨大五輪塔を数多く造立したことで知られますが、その造立の背景には、叡尊らの弥勒信仰があったと指摘されます。彼らは56億7千万年という途方もない未来に仏となって、世に下生し、3度説法して衆生を救済する弥勒仏の救済に会いたいという弥勒信仰です。
 それゆえ、56億7千万年という年月に耐えられるよう硬い石で、巨大な五輪塔を作り、その下に頑丈な金銅製の骨蔵器に入れた火葬骨を納めたとのことです。叡尊の弟子の忍性が、3度の説法のいずれかに合うべく3か所に自身の五輪塔を造立したように、叡尊の五輪塔も西大寺奥院叡尊五輪塔の他にも造立された可能性を示唆しています。

伊派の石工集団

 叡尊と共に五輪塔の製作に深く関わったとされる伊派の石工(いしく)集団とは、鎌倉時代、奈良東大寺の再建(大仏殿炎上は治承4年(1180)、再建は建久元年(1190))にあたり、宋から日本に渡り、その後日本に帰化し、当代随一の石工と呼ばれた伊 行末(い・ゆきすえ)の子孫で、伊派と呼ばれる石工集団を形成し、大和から南山城を中心に活動しました。大和の伊派と叡尊の弟子である忍性と共に鎌倉へ渡った大蔵派(伊派分派)といわれる石工集団が、各地に数多くの優れた五輪塔、宝篋印塔、十三重石塔を残しました。
f0300125_23384597.jpg 鎌倉時代から南北朝期にかけての巨大五輪塔は、その殆どが伊派石工集団による製作と考えられますが、大乗院の五輪塔もまさに叡尊とその石工集団によって造立されたものと思われます。八幡大乗院は寛治二年(1088)石清水八幡宮別当頼清が建立しましたが、弘安四年(1281)閏七月の蒙古襲来に際しての叡尊の祈祷の功により、西大寺末寺の真言律宗寺院となりました。
 はたして八幡大乗院五輪塔は誰の墓塔あるいは供養塔なのか、気になります。

筥崎八幡宮(福岡市)の石燈籠

 福岡市の筥崎八幡宮の境内に八幡大乗院にあった石燈籠があります。花崗岩製で、高さ261cmに及びます。伊 行長の作で、重要文化財に指定されています。
火袋底裏の銘文には以下の記載が見られます。
 「奉起立 八幡大乗院金堂燈炉事 右志者 当寺開山  尊霊 迎三十三年之逮忌 為奉資彼普賢行願 起立  燈炉而己 観応元年(1350)庚寅六月廿八日 勧進  尼了法幷一結衆等 敬白 大工井行長」(井はママ)
f0300125_23235195.jpg
 銘文から八幡大乗院にあった石燈籠である事が分ります。 「筥崎宮伝」によれば、千利休がこの石燈籠を寄進したとありますが詳細は不明です。
参考文献:感身学正記1 叡尊 細川涼一訳注 平凡社東洋文庫
参考文献:日本の名僧⑩ 叡尊・忍性 松尾剛次編 吉川弘文館
参考文献:石造物が語る中世職能集団 山川 均著 山川出版社
参考文献:叡尊教団の河内における展開 松尾剛次/2011
参考文献(山形大学大学院社会文化システム研究科紀要 第8号)
  

<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2014-08-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第53号より-04 縄文遺跡

シリーズ「2014年夏 古代の声を聞く」・・・その1
縄文遺跡を訪れる

 野間口 秀国 (会員) 


 この夏は期せずして日本の古代、縄文時代と弥生時代を学ぶ機会に恵まれました。本号と次号で学びの一部を書き留めて今後の学びの参考にしたいと思います。

 先ず本号では縄文時代についてです。8月2日の京都新聞に「三内丸山に直線の溝」の見出しの記事を見つけ、少なからずの驚きと共に二度、三度と読み返しました。それはまさに10日ほど前に青森県の日本百名山二座(八甲田山と岩木山)への登山を前にした7月21日に国の特別史跡である三内丸山遺跡を訪ねたばかりであったからです。
 既にご存知のように、この遺跡は青森市三内丸山にあり縄文時代の前期から中期(約5,500から約4,000年前)の大規模集落跡の遺跡です。遺跡の案内施設はとても充実しています。2002年11月に開館した「縄文時遊館(ビジターセンター)」では縄文人の生活や環境が体感できるギャラリーや体験工房などがあり、楽しみながら学べる施設となっています。館内の「さんまるミュージアム」で1時間ごとの定時ツアーの始まりを待つ間に縄文時代の予備知識を得てガイドのツアーが始まりました。

 館内での概要説明と諸注意が終わり外へとつながるトンネルを抜けるとそこには縄文の世界が広がっていました。最初の驚きはその広さもさることながら、発掘の歴史の説明で「そもそもこの発掘は県営の新野球場建設に先立つ緊急調査が目的だった。発掘と球場建設が並行してなされ、既に一部は建設が進んでいたが遺跡の重要性が理解されて当時の県の判断で野球場建設は中止された。」と話されたことです。
ガイドの方も青森県の英断だったと誇らしく話されておりいたく感動しました。

 以下は実際のツアーの順序どおりではありませんが、縄文の生活を偲ばせる竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、掘立柱建物跡やそれらが復元された建造物群は、外からだけでなく中に入って観察し学ぶことができます。
f0300125_9151857.jpg
 特に大型竪穴住居跡は、当時の集落の全員が入れたのではないかと思えるような広さで(長さ32m、幅9.8m)内部の天井も3階ほどの高さの建物です。目的は集会所、共同作業所、冬期の共同家屋など諸説があるようです。縄文時代もこの地は積雪が多かったのではと思うと、冬の共同家屋の可能性には最も納得ができました。 次に興味を引かれたのはお墓です。子供の遺体は丸い穴を開けたり口や底を欠いた土器の中に入れられて家の近くに埋葬されており、これまでに880基ほど確認されています。大人は楕円形や小判型の地面に掘られた穴に埋葬され、墓の道と名付けられた道路を挟んで向かい合うように同じ方向を向いて配置されています。数は約500基が見つかっており、墓の数から子供の生存率が低いことが伺われるようです。

 遺跡の北と南には盛土(もりど)がありました。盛土にはたくさんの土器や石器、土偶やヒスイ製の玉などが土と一緒に捨てられて、約1000年で丘のようになったもので、発掘時の様子そのままに見ることができました。この盛土はこの集落が長い年月にわたり争いが無く平和であったことを示すものであるとの説明がなされました。
f0300125_920431.jpg 遺跡を歩いていると否応なく気になる建造物がありました。それには直径が1mほどもある6本の栗の巨木が使われており、高さが約15mもありました。この建造物の用途も、高床建物、望楼、見張り台、祭祀の場などの諸説がありいずれも決め手には欠けるとのことでした。近くで見ると柱の大きさや高さに圧倒されました。ちなみに6本の栗の巨木は、この冬のオリンピックが開催されたロシアのソチから運ばれたものとのことです。

 冒頭の記事にある発掘現場の作業は訪問当日は休みでした。他にも書くことは多いですが、何かの機会にしたいと思います。まだまだ発掘作業が続く三内丸山遺跡を実際に見て、触れて、縄文を感じるひと時の夏の旅でした。暑い中を親切丁寧にご説明いただきましたガイドの方に感謝申し上げます。

<参考図書等>
 ◇ 東奥日報社刊 特別史跡三内丸山遺跡 
 ◇ 青森県教育委員会刊 特別史跡三内丸山遺跡ガイドブック
 ◇ 吉川弘文館刊 玉田芳英編 史跡で読む日本の歴史


<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2014-08-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第53号より-05 物語の生まれ③

シリーズ「物語はどのように生まれたか」・・・③
女 郎 花 と 頼 風③

 土井 三郎 (会員) 


3、「男山の昔を思ひて・・・」をどう解釈するか

(1)古今和歌集と仮名序

 先の号で、謡曲「女郎花」は『古今和歌集』の仮名序から生まれたことを述べました。今回と次回とで、そのことを詳しくお話したいと思います。
 『古今和歌集』は、延喜5年(905)醍醐天皇の命を受け、紀貫之・紀友則・凡河内躬恒・壬生忠峯が撰したわが国最初の勅撰和歌集です。成立は延喜14年頃とされ、読み人知らずを含めおよそ127名の歌約1100首を四季、恋以下13部、20巻に収めました。
 その序文は、和歌についての編者の見解や本集成立の経過などを記したもので、漢文の「真名序(まなじょ)」と紀貫之が書いたとされる仮名文の「仮名序(かなじょ)」とがあります。その内「仮名序」は、漢詩ブームが衰え出した当時、新興の和歌についての見識を堂々と、平明に、しかも新鮮な文体で表現した文章として高く評価されています。
 出だしの文章を紹介してみます。
  やまと歌は、人のこころを種として、万(よろず)の言(こと)の葉(は)とぞ成れりける。世中(よのなか)に在(あ)る人、事(こと)、業(わざ)、繁(しげ)きものなれば、心に思ふ事を、見るもの、聞くものに付けて、言(い)ひ出(いだ)せるなり。花に鳴く鶯(うぐひす)、水に住む蛙(かはづ)の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか、歌を詠(よ)まざりける。力をも入れずして、天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼(おに)神をも哀(あは)れと思はせ、男女(おとこをむな)の仲をも和(やわ)らげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰(なぐさ)むるは、歌なり。
 

 以下、神代の歌、天皇の歌などが紹介され、和歌の表現形式が列挙されます。続いて和歌の歴史となり、歌がどのように人の心を和らげ慰めてきたのかを述べるのです。「男山の昔を思ひて・・・」はその例として引き合いに出されています。
  細石(さざれいし)に喩(たと)へ、筑波山(つくばやま)に掛けて君(きみ)を願(ねが)ひ、喜(よろこ)び身に過(す)ぎ、楽(たの)しび心に余(あま)り、富士(ふじ)の煙(けぶり)に寄(よ)そへて人を恋(こ)ひ、松虫の音(ね)に友(とも)を偲(しの)び、高砂(たかさご)、住(すみ)の江の松(まつ)も、相生(あいおい)の様(やう)に覚(おぼ)え、男(おとこ)山(やま)の昔(むかし)を思(おも)ひ出(い)でて、女郎花(をみなへし)の一時(ひととき)をくねるにも、歌(うた)を言(い)ひてぞ慰(なぐさ)めける。・・・
 

 上の文章は、「男山の昔を思い出でて、女郎花の一時をくねる」(くねるは、愚痴る、嘆くの意)を除けば、おおよその解釈ができます。すなわち、細石(さざれいし)に喩(たと)えたり筑波山(つくばやま)に掛けたりして君(天皇)の長寿を願い、うれしいにつけ楽しいにつけ、そして富士の煙のように燃える心で人を恋うときも、松虫の音に友を偲ぶときも、高砂や住之江の松が相生のように共に生きるのを見るにつけても、歌を詠って心をなぐさめたり共感したりしてきたのだ、と。

(2)男山と女郎花を巡って

 「男山の昔を思ひ出でて、女郎花の一時をくねる」という一文は、和歌に通じていない現代人にはわかりにくいと思います。私も、初めてこの文章に出会った時に面食らったことを覚えています。
 要は、掛詞(かけことば)の修辞法を理解することです。そうすれば、「男山」は男を、「女郎花」は女を導き出すための掛詞であると見抜ける筈です。
 百人一首にある次の歌がよい例です。
立ちわかれいなばの山の峰におふる
     松とし聞かば今帰り来む  
             
中納言行平

 あなたと別れて因幡の国へ出発するが、稲葉山に生いしげる松のように、あなたが待つというのを聞けば、すぐにでも帰って来ようとの解釈が成り立ちます。「往(い)なば」に「因幡(いなば)」をかけ、「松」に「待つ」を掛けているということがわかるからです。もう一度、仮名序にある「男山」云々を取り出して吟味してみましょう。
「男山の昔を思ひ出でて、女郎花の一時をくねるにも、歌を言ひてぞ慰めける。」
 「男山」は男を、「女郎花」は女を導くための掛詞とすれば、山と花が捨て去られ、「男の昔を思い、女の一時を嘆くにも、歌を詠って慰めてきたことだ・・・」と解釈できます。さらに、「男盛りの昔を思い出し、女の華やかな時が一時のものと嘆くにも歌を詠って慰めたものだ」とすればもっと実感がこもるでしょう。私も含め、現職をリタイアした世代の読者諸氏の年齢層を考えればなおさらです。
 岩波書店版、新日本古典文学大系『古今和歌集』(2001年発行)の注釈者は、「男山の昔を思ひ出でて、女郎花の一時をくねる」に対応する歌として次の二つの歌を紹介しています。
今こそあれ我も昔はおとこ山
     さかゆく時もありこしものを
              
よみ人しらず
※今でこそこんなのだが、わたくしも男として、男山の坂を上るように栄えた時をちゃんと過ごして来たものだよ。

秋の野になまめき立てる女郎花
      あなかしがまし花もひと時
                
僧正遍照
※秋の野にあでやかさを競っているおみなへしよ。ああうるさいことだ。だいたいが花も(世にいう女も)一時のものだよ。
 「秋の野になまめき立てる」と形容される女郎花ですが、カトレアや胡蝶蘭などを知っている現代人からすれば「なまめく」花とは捉えにくい花です。しかし、古今集が編纂された時代にはあでやかな花の代表であったらしく、同集には、数々のなまめかしい女郎花の歌が登場します。
名にめでておれる許(ばかり)ぞをみなえし
     我おちにきと人にかたるな
               
僧正遍照

をみなえし憂(う)しと見つゝぞ行すぐる
     おとこ山にし立てりと思へば
    
布留(ふるの)今道(いまみち)

をみなえし多かる野べにやどりせば
     あやなくあだの名をやたちなむ
        
小野(おのの)美材(よしき)
 おわかりの通り、女郎花はあでやかな花であり、若い女性を象徴するものであったのです。男は、その色香に正体をなくし、故に憂しと見たり、わけもなく噂を立てられたりしたのです。
f0300125_14375959.jpg  いずれにせよ、「男山の昔を思ひ出でて、女郎花の一時をくねる」とは、老年の男女が若い時のことを懐かしみ、今ある自分を嘆くというもので、だからこそ歌を詠って慰めるという歌の効能を説くことにつながるのです。
 ところが、『古今和歌集』が生まれてから約370年後の鎌倉時代に、「男山の昔」に生きた男を登場させ、女郎花という女との悲恋の物語があったとする註釈書が成立します。物語はそこから独り歩きを始め出すのです。  (次号につづく)


<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2014-08-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第53号より-06 地誌

地誌には、どんなものがあるか?

奥山 邦彦 (会員)


 9月例会は京都市歴史資料館の伊藤宗裕先生をお招きして「地誌に見る八幡」と題してご講演いただきます。京都の古地図、地誌に精通されている先生のお話を今から楽しみにしています。
 そこで、京都の地誌について少し調べてみました。

〈史料紹介〉 地誌、京都と八幡

 八幡の地誌としては『男山考古録』(石清水八幡宮史料叢書第1巻、長濱尚次著、1848年)があります。男山を中心とするあらゆる古跡、事物、行事について、その由来変遷の迹を詳記したもので、地理的に歴史的に往時の山上山下の事柄を詳しく伝えてくれます。 江戸時代も17世紀後半になると、当時から観光都市であった京都を中心とした名所、史跡の案内など、数多くの地誌が出版されるようになってきます。天下泰平の世がつづき、人々の生活も豊かになり、寺子屋の発達により読み書きができる人が増え、地域に対する関心も高まって地誌に対する需要が増してきたのでしょう。
 その中で八幡周辺はどの様に描かれていたのでしょうか、どれくらい関心が持たれていたのでしょうか、大いに気になるところです。全てに八幡地域が取り上げられ掲載されているわけではないでしょうが、あれこれと調べてみるのも面白いのではないでしょうか。 以下、京都の主な地誌を少しですが紹介させていただきます。

『京童』(中川喜雲著、1658年)

 江戸時代前期の先駆的な京都名所案内記。丹波出身の老爺が故郷への土産に、少年を案内者に京都を巡覧する見聞記という体裁をとり、書名もそこに由来する。洛中洛外87ヵ所の神社、仏閣、名所、旧跡などの由来、伝説を紹介し、古歌や自作の狂歌、発句をそえている。また各所の景観や故事に人物を配した挿図を組み込み情緒的、趣味的な名所案内記としての完成度を高めている。『京童跡追』(1667年)はこの続編。(日本歴史大事典)

『京雀』(浅井了意著、1665年)

 『京童』の趣味的名所記から一歩進めた実用的地誌の性格をもち、後続の京都案内記に大きな影響を与えた。巻1は京都の沿革、巻2から巻7は京都市街の東西南北すなわち東西路、南北路の各通りと町の紹介で、寺院、神社、史跡、名所、名物(商工諸職)などが解説されている。各通りの著名な商売を職人尽絵風に描いた挿図が39図ある。続編を称する『京雀跡追』(1678年)がある。(日本歴史大事典)

『京羽二重』(孤松子著、1685年) 

 江戸前期の総合的な京都案内書。京都の自然、史跡、名所、神社、仏閣など観光的案内と、京都の市街、文化人、諸商売人、役人衆などの現況を、羽二重の縦糸と横糸のような細やかさで撰述。時事的項目を掲載したので、その改訂は必須となり、元禄の増補版『京羽二重織留』、宝永の改訂版など出版が続いた。(日本歴史大事典)

『雍州府志』(黒川道祐著、1686年)

 京都の所在する山城国を中国古代の漢から唐に至る帝都長安の所在した州(国)、雍州に擬し、また中国の地誌書『大明一統志』に倣って、山城国の地理、歴史、寺社、土産、古跡、陵墓等について漢文体の地誌を完成させた。(日本歴史大事典)

『都名所図会』(秋里籬島著、竹原春潮斎画、1780年)

 江戸時代のベストセラー。解説の妙もさることながら、その挿絵のすばらしさに多くの人々は魅了された。(『図説京都府の歴史』河出書房新社) 
 都名所の百科全書ともいえる『都名所図会』は、その後の旅のかたちに大きな影響をあたえた。一生に一度の本山参詣にせよ、気軽な遊山・行楽にせよ、旅を楽しもうとした江戸時代の人々にとって、名所図会はなくてはならない道案内だった。(『京都名所むかし案内』創元社)

『拾遺都名所図会』(1787年)は『都名所図会』補遺。

 その他にも多くの地誌が刊行されています。下記も参考にしていただければ幸いです。

<参考図書>
 『新修京都叢書 全25巻』臨川書店

<データベース>
  • 京都市歴史資料館 → フィールド・ミュージアム京都 → いしぶみを探す ほか
  • 京都府総合資料館 → 貴重書データベース ほか
  • 国際日本文化研究センター → データベース → 平安京都名所図会 ほか

by y-rekitan | 2014-08-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第53号より-07 八幡宮Q&A④

シリーズ「石清水八幡宮の歴史Q&A」・・・④
第4回


Q:三の鳥居から南門に至る参道の脇に石造の埒(らち)が設置されています。これは、流鏑馬(やぶさめ)や競い馬の神事が行われた時のものと思われるのですがいかがですか。

A:石清水八幡宮の創建当初から、本殿前には馬場が設けられたと伝えられています。そこでは、ご指摘の通り競い馬などの神事が執り行われました。なお、『尋源抄(じんげんしょう)』や『男山考古録』によりますと、鎌倉時代の初め、建久4年(1193)に埒が設けられたとのことです。これは木製の柵のことですが、江戸時代の寛永7年(1630)に、片桐出雲守という人が今の石造のものに改めました。なお、そのことは石埒南端、東側の石柱に彫られています。
         (回答者:石清水八幡宮禰宜、西中道氏)



<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2014-08-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第53号より-end

 
この号の記事は終りです。


<<< TOPに戻る       ひとつ古い次の号へ >>>

by y-rekitan | 2014-08-28 01:00 | Comments(0)