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◆会報第54号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“わが心の風景”㉗◆
◆《講演会》神国論の系譜◆
◆《講演会》地誌に見る八幡◆
◆シリーズ:“自転車で巡る名所案内”②◆
◆八幡森の石仏と地蔵盆◆
◆シリーズ:“古代の声を聞く”②◆
◆シリーズ:“物語はどのように生まれたか”④◆
◆シリーズ:“石清水八幡宮の歴史Q&A”⑤◆
◆お気軽歴史講座に行きました◆


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by y-rekitan | 2014-09-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第54号より-01 八角堂

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わが心の風景・・・(27)
八 角 堂
所在地 八幡大芝

f0300125_2051514.jpg 八角堂は松花堂庭園の西側、西軍塚古墳の円頂部にあります。元は男山西谷にありましたが、八幡宮境内から仏教関係の堂舎・仏像などが撤去された際、正法寺住職が堂宇・尊像とともに迎請し、ここに移されました。
 堂舎は順徳天皇の御願により、八幡宮検校善法寺祐清が建保年間(1213~1219)に建立、後に大破しましたが、慶長12年(1607)8月、豊臣秀頼の御願によって尾張国小出大和守吉政が再建したと堂上の桐紋を付した露盤に彫刻されています。また、京仏師康温が阿弥陀仏を修造して入仏したと棟木に見えます。以降、ほとんど手を加えなかったため破損転倒し、表六間、奥行二間の仮の板屋根で風雨を凌いだという記録があります。
 元禄11年(1698)7月、善法寺央清が勧進を募り、堂宇を再興。その奉加者名が堂内の垂木や瓦の裏に記されています。
 堂内にあった丈六阿弥陀仏(重要文化財)は鎌倉時代初期の作で、「一光千仏」と呼ばれ、今は正法寺法雲殿に安置されています。   (絵と文: 小山嘉巳)



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by y-rekitan | 2014-09-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第54号より-02 神国論

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《講 演 会》
神 国 論 の 系 譜
― 石清水八幡宮と天下人 ― 

2014年8月  文化センターにて
鍛代 敏雄 (國學院大學栃木短期大学教授)


 8月31日(日)、文化センターにおいて、鍛代敏雄氏による標題の講演が行われました。お話は多岐にわたりましたが、テーマに沿って、その概略を紹介します。参加者は50名でした。
天下とは何か

 織田信長以来、秀吉・家康は天下人といわれます。その「天下」とは何でしょうか。よく天下は国家のことではないかといわれますが、それは違います。「天下」とは、京都をふくんだ畿内というエリアを指し、そこを支配する人が天下人となります。
 天下=京都を支配するのですから朝廷、公家も天下に含まれ、足利幕府も一つの天下です。戦国期には京都から地方に流浪する将軍が現れますが、彼らは自身が京都にもどることを「天下を再興する」と表現しています。京都に戻って政治を行うことを「天下再興」と唱えるのです。従って、信長が上洛して政権の実権を握るので天下人と称されるのです。
 秀吉の場合は、京都に聚楽第(じゅらくだい)を築きましたが、大坂を首都とする構想がありました。大坂城を築き、天満に御所を設けようとし、そこに天皇を招くということですから首都移転構想だといえます。大坂は畿内ですから、秀吉も天下人と称されるのです。

ほんとうは八幡様になりたがった太閤秀吉

 秀吉は八幡神になりたかったようです。彼は源氏の出身ではありません。氏素性と云う点では、農民ですらなく、貧民窟の出であるという説すらあります。その彼がなぜ八幡神になりたかったのでしょうか。
 秀吉は、自分が「新八幡(いまはちまん)」として祀られることを遺言に書きました。神として祀られたいという願望をもっていたのです。宮中の女官たちが著した「御湯殿上日記(おゆどののうえにっき)」慶長4年3月5日条にその記述があります。そこには、秀吉は阿弥陀になりたいと記されているのです。阿弥陀とは、神仏習合の当時にあっては八幡神にほかなりません。
 鎌倉時代、浄土教の一宗派である時宗(じしゅう)の一遍(いっぺん)が八幡宮に参詣にやってきます。その時の絵が「一遍聖人絵伝」として残っていますが、彼は八幡神を阿弥陀仏として拝んでいるのです。八幡大菩薩が阿弥陀如来であったのです。この考えは、平安時代の終わりぐらいから認識される様になってきました。

神仏習合の変遷

 このような神仏習合の考え方は、奈良時代に始まります。奈良の東大寺に鎮守八幡(ちんじゅはちまん)があります。
 聖武天皇が東大寺を造立する際に、宇佐から八幡神を勧請(かんじょう)しました。その時代から八幡大神=八幡大菩薩であったのです。宇佐神宮自体が最初から宮寺(みやでら)として成立していますが、その分神が奈良に遷されて、東大寺の大仏を鎮守する神として鎮座されたのです。
 また、9世紀になると、八幡神に応神天皇が合体(同体)するようになります。つまり、八幡大菩薩を拝むことは応神天皇を拝むということになるのです。そして、平安時代の終わり頃、それに阿弥陀様が同体化するのです。そのように信仰の対象が変わるのは、寺の意思によるもので、信仰を拡張していくことに狙いがありました。
 東大寺も神話を創ってゆきます。東大寺はもともと華厳宗で、その最高仏は毘廬遮那(びるしゃな)仏でした。それが中世になり真言宗が広まるにつれ、その影響下に入るようになります。すると、真言宗の最高の仏である大日如来に天照の神を同体化させるということが行われるのです。毘廬遮那仏が本地(ほんじ)で、天照大神は毘廬遮那仏の垂迹(すいじゃく、生まれ変わり)であるととらえられるようになるのです。
 では、なぜこのような考えを寺の僧侶が生みだし、広めようとするのでしょうか。それは専ら経済的な理由によります。というのも、平家政権の成立以来、武士は自分の所領を増やしながら経済力を高めていきます。その所領とは、社寺が荘園として保持していた土地でした。寺社の荘園が武士に奪われてゆく中で、何とか信仰の対象を拡大させ、信仰を通して収入の道を確保しなければならなくなるのです。
 そのような経済的な理由の中で、寺側が神社を取り込んでゆくことが起こるようになります。東大寺が伊勢神宮の天照大神を取り込んで復活しようとするのはその一つの例です。

寺と神社の関係

 寺と神社の関係を、東大寺とそれを鎮守する八幡神の関係で見てみたいと思います。
 聖武天皇が宇佐から勧請した八幡神は、現在では手向山八幡(たむけやまはちまん)とよばれています。元々、今の所にあったのでなく、鎌倉以来この地に鎮座することになります。従って、秀吉が知っている東大寺と手向山八幡の位置関係は今と同じです。
 『洛中洛外図(らくちゅうらくがいず)』を見て下さい。f0300125_2135793.jpg京都の七条に秀吉が造らせた方向寺(ほうこうじ)の大仏殿と秀吉が自身祀られるために造った豊臣廟(とよとみびょう)の位置関係を比べて下さい。多少のずれがありますが、東大寺と手向山八幡とほとんど同じ位置関係であることがわかるでしょう。廟(びょう)は墓ではありません。神として祀る所です。
 石清水八幡宮は、院政期において、天下第二の宗廟といわれるようになりました。天皇の祖先神である応神天皇を神として祀る所であるからそのようにいわれるのです。
 東大寺の場合、大仏は国家の安泰を祈願し、それを守護するのが手向山八幡です。同じように、京都の方向寺の大仏が国家鎮護の仏であり、豊臣廟がそれを鎮護する神という関係になるのです。
 この寺(仏教)と神社(神道)の関係は戦国時代以来一貫しているようです。つまり、寺は来世の後生安全を祈る所であり、神社は現世の平和なり安穏・利益を憑(たの)む所である。ポルトガルから来た宣教師も、日本には二つの宗教施設があり、寺が来世利益を、神社が現世利益を祈願する宗教施設であると述べています。
 当時、奈良の大仏は松永久秀によって焼かれてしまっていたという事情もあって、天下人秀吉は、京都に大仏と豊臣廟を造ります。つまり、来世の安穏を保障する寺と、現世の平和を保障する豊臣廟という神社を建てるのです。秀吉は、先にも触れたように「新八幡」として祈るよう遺言しています。八幡神は阿弥陀仏と同体ですから、現世も来世もともに安穏であることを保障する意図で二つの建造物を造ったのです。

徳川家康の場合

 徳川家康は源氏であると自称しますが、私は賀茂氏の流れにあると思います。葵の紋は実は賀茂氏の紋です。松平の発祥地も賀茂社領です。しかし、源氏の系図を取り込んで、松平―徳川をそこに流し込んでしまうのです。源氏になったからにはその氏神である八幡信を崇敬しなければなりません。しかも、天下を支配した以上、京都を守護する石清水を保護し崇敬するのは当然です。
 中世用語に「守護不入」という言葉があります。家康は八幡の地を「守護不入」の地にします。中世から、八幡は守護不入の土地です。家康は、室町幕府の将軍が八幡を「守護不入」にしたのを受け継ぐのです。
 守護不入とは、権力者が関与できない土地という意味です。ドイツ語ではアジールという言葉に相当します。そういう意味で、八幡は近世になっても中世がそのまま連続するということになるのです。
 家康は、秀吉の没後に豊臣廟を破却してしまいます。秀吉は、八幡神であることが否定され、豊国大明神という新たな神号が後陽成天皇より下賜されます。家康の画策によるものです。源氏長者を受け継ぎ八幡神を崇敬する第一人者としては当然の措置だといえます。

仏を鎮護する八幡神

 さて、八幡信仰を考える時、やはり東大寺の守護神として宇佐から八幡神が勧請されたということが象徴的な意味をもちます。そこから神話が生まれるのです。つまり、東大寺の大仏は鎮護国家として重要な働きをしますが、それを守る鎮守神として八幡神が鎮座されるのです。
 鎮守八幡は東大寺にとどまらず、南都北嶺の寺に勧請されるようになります。東寺にも八幡神が鎮守されますが、これは空海の意思によるところが大きいといえます。その後、奈良の薬師寺、大安寺、西大寺にも鎮守八幡が勧請されてゆきます。つまり、旧仏教の主要な寺院に鎮守八幡が鎮座されていくのです。仏法を鎮護するために八幡神を勧請したということに他なりません。八幡神が仏法を鎮護するという神話を信奉しているからです。

いくさの神

 八幡神は平和をもたらす神であるとともに軍神でもあります。いくさの神であったという事は言うまでもありませんが、なぜそうなったのか。次に、そのことに触れたいと思います。
 「神国」という言葉にその謎を解くカギがあります。その前にはっきりさせておかなければならないのは、「神国」は宗教思想というよりも政治思想に近いもので、「国体」(国家体制)という言葉に近い概念です。
 古代に編集された国史である「六国史(りっこくし)」は、『日本書紀』に始まります。その神功皇后(じんぐうこうごう)紀(仲哀天皇期)に「三韓征伐」の神話があり、その中に「神国」という言葉がはじめて登場するのです。神話ですが、秀吉は事実として受け取ったと思います。
 「神国」という言葉は中国にも韓国にもありません。そういう意味では日本で生まれた造語です。
「三韓征伐」は神話ですが、当時、三韓の中の新羅が日本に服属し、日本に朝貢していました。そこには、当時の新羅がおかれた対外的な理由があると指摘されますが、そのような対外的な緊張の中で、「神国」なる言葉が造られたということです。
 その後、「神国」が使われるのは『三代実録(さんだいじつろく)』に記述される清和朝(858~876)です。
 清和朝といえば、石清水八幡宮が創られた時代です。これが重要です。その時代に起こった特筆すべきことに、貞観(じょうがん)の大津波(869年)があります。それは東日本大地震に匹敵する大地震です。また、この時代には、朝鮮半島から海賊が大宰府周辺に頻繁に出没します。つまり、清和天皇の時代は、「内憂外患」の時代であったということです。そんな「内憂外患」ではあっても、日本は「神国」だからそれを払拭(ふっしょく)してくれると清和天皇は思っていました。だから「神国」という言葉が使われるのです。そして、清和朝の時代には、神功皇后の胎内に応神天皇が宿っていたと考えられています。三韓征伐に赴いた神功皇后の胎内に応神天皇が宿っていたということは、応神もともに戦っていると認識されたということです。従って、八幡神は応神天皇であり、軍神でもあるのです。f0300125_8433947.jpg
 神功皇后と清和天皇の年代記に、「神国」という言葉が使われるのは、二つの時代がまさに「内憂」なり「外患」の時代であったということです。そういう時代だからこそ「神国」という言葉が再生産され、いくさの神としての八幡神が強調されるのです。同時に、清和源氏が八幡神を自らの祖先神として敬い、彼らは武士ですから、いくさの神として更に意識されることになるのです。

秀吉の朝鮮出兵構想

 秀吉は、軍神としての八幡神の性格を充分に理解した上で朝鮮出兵(侵略)を企てるのです。
 秀吉の朝鮮出兵は失敗に終わりました。兵站(へいたん)基地のない戦いだったからです。また、元(蒙古)が中国全土を支配したように永年かけて地域を統治することもありません。従って勝てる見込みもなかったのです。
 但し、秀吉の朝鮮出兵は、明をも支配する構想を当初から持っていました。それは神国思想に基づいていたからです。秀吉の神国思想は、秀吉に限らず、豊臣政権を担う大名や武将、農民や漁師に至るまで浸透していました。それをうかがう史料があります。
 朝鮮出兵に従軍した松浦(まつら)氏家臣の吉野が書いた日記です。そこには、日本は、中国からはるかに隔たった僅かの島に過ぎないと述べ、「九牛が一毛たりといへども日本ハ神國たるによつて神道勇猛」と書かれ、神功皇后の三韓征伐の話を持ちあげているのです。彼らは神功皇后の話を事実として受け取っていました。
 また、秀吉自身が自分をどんな権力者(政治家)だと思っているかを示す史料があります。
 おそらく朝鮮出兵の前年だと思いますが、前田利家に送ったかな書きの消息(しょうそく、手紙)が残されています。すなわち、秀吉は利家のことを劉邦(りゅうほう)に仕えた樊噲(はんかい)になぞられえました。劉邦は後に漢の高祖(漢王)になる人ですが、樊噲は、劉邦の窮地を救うなどして功高く、のち、漢王の将軍となるのです。だから秀吉自身は、劉邦であって、皇帝になりたかったのだと思います。それは信長も同じでした。
 信長は、正親町(おおぎまち)天皇から関白や太政大臣、将軍の位を進められますが、すべて拒否しています。ルイス・フロイスが記した通り、信長は自分のことを神体であると述べています。天道で定められた神であるというのです。『信長公記(しんちょうこうき)』は信長の弓衆、太田牛一(おおたぎゅういち)が書いた信長伝として知られていますが、太田は信長を神として崇めています。
 秀吉も信長の後を追い、中国の皇帝のごとき天子=神になりたかったということです。そのための朝鮮出兵であったと考えられます。秀吉は関白になったではないかと、反論する人がいるかもしれません。しかし、これは単なる便法です。秀吉は小牧長久手の合戦で家康に手ひどい敗北を喫しました。そこで、秀吉は旧来からの権威にすがり、つまり関白の位になって家康を大名の前でひれ伏させる作戦に出たのです。秀吉にとって関白や太閤の位はそのためのものでした。

「神国」論の成立と展開

 「神国」論が最初に登場するのは古代です。但し、それは定着することはなかったと思います。それが本格的に形成されるのは、院政期です。白河上皇は、自身が病におかされた時、国王である自分が弱るのは国家が弱ることだと考え、それを救ってくれるのが「神国」だと述べています。これは、白河による神国宣言論だと思います。
 ただし、強調しておきたいことは、「神国」とは何かという説明は一切行われていないことです。「神国」論の定義がないのです。これは白河に限らず、天下人の信長・秀吉・家康も全く同じです。日本は神国だから負けないといっても、その神国たる理由も実態も何も明らかにしない。そこに、「神国」論の特徴があるとも言えます。
 「神国」論は、抵抗勢力に対する武器にもなります。比叡山衆徒による強訴に悩まされた白河法皇は、「神国」論によって彼らを調伏することを願いました。頼朝も「神国」論を持ち出し、後白河法皇に平氏追討の院宣を出させるのです。つまり、「神国」論は戦争を正当化するために持ち出されるのです。
 けれども、世の中が落ち着くと武力を強調した「神国」論を持ち出すものは少なくなります。「神国」論が勢いをもつのは、「内憂」なり「外患」が持ち上がったときです。
 では、平和な時代に、国家をすべる論理とは何か。それは、「神国」を基盤にした王法と仏法が二輪のごとく支え合っているというものです。ここで、王法とは、朝廷を中心とし、武家政権をも巻き込んだ政治勢力であり、仏法とは寺社を中心とした宗教勢力のことです。
 最後に、天下人である家康の墓がどこにあるかということに触れます。それは、日光東照宮の奥に「東照宮奥社」として存在しています。つまり、家康は死後、穢れた存在ではなく、聖なる神として崇められる存在となったのです。冒頭、秀吉が神として祀られることを遺言したと述べましたが、同じ天下人の家康も「神国」を体現する「神君」として崇められ祀られたということです。

 鍛代さんは、他にも、「八幡」が例えば郡上八幡や近江八幡などと地域の後に置かれるのは、八幡神が地域の鎮守として機能していたこと、あるいは、江戸時代の年号は漢王朝の年号が踏襲されたように、秀吉も家康も漢の時代を理想化したこと、さらに、秀吉時代に八幡は直轄地にされ、安居の祭りは行われなかったことなどにも言及されましたが、それらは紙数の関係もあり割愛させていただきました。
                                     (文責=土井三郎)


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by y-rekitan | 2014-09-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第54号より-03 地誌に見る八幡

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《講 演 会》
地 誌 に 見 る 八 幡

2014年9月  松花堂美術館講習室にて

伊東 宗裕 (京都市歴史資料館)


  9月14日(日)午後1時半より松花堂美術館講習室にて標題の講演と交流の集いが開かれました。 参加者は63名。講演の概要を紹介します。

▇ 「地誌」とは何か

 地誌とは、ある特定の地域の状況を、地勢、人口、人情風俗、沿革など項目に分けて叙述したものです。その典型として、明治12年の郡区町村編制法以前の状況をあらわした京都府地誌(京都府立総合資料館蔵)があります。江戸時代の小規模な村が合併させられる前の状況を記しているので、江戸時代の地域史研究にとても役立ちます。
 このように、厳密な意味の地誌は行政の補助資料として作られたもので、統一された「情報」を得るのには便利ですが、土地の特徴を見てとることは不得手です。きょうの話でいう「地誌」は、もっとゆるやかなもので、観光用ガイドブックも含みます。とりわけ出版されたものに限定します。
 出版された地誌の作り手はたいてい都市の住人です。京都の地誌の場合は江戸時代の京都という大都市の住人です。都市に住む人、都市に住む知識人の視点が入ってくるということを踏まえなければいけないということです。

▇ 江戸時代初期の地誌 仮名草子の地誌

 江戸時代はじめに出版された、かな文字をふんだんに使った軽い読み物を「仮名草子(かなそうし)」といいます。その中に京都の名所案内が三種あります。

京童(きょうわらべ)  (明暦4年1658刊、中川喜雲著) 6巻6冊
 洛中洛外の名所を解説する書ですが、名所の所在地を示すことはなく、ガイドブックとはいいがたい内容で、あくまでも娯楽読み物です。巻四に八幡を紹介。但し、八幡は石清水八幡宮のことで、地誌というより神社誌といった感があります。
洛陽名所集(らくようめいしょしゅう) (明暦4年1658刊か、山本泰順著)12巻12冊
 著者は洛北岩倉の郷士です。父の山本友我は狩野派の画家。和漢の故事をちりばめました。八幡は巻六に収められていて、八幡、石清水、放生川、八幡山、楠木、男山、男塚女塚という七項目に分けられています。応神天皇ほかの祭神を解説しますが、これが長い。
出来斎京土産(できさいきょうみやげ) (延宝5年1677刊、浅井了意著)7巻7
 出来斎坊という僧が洛中洛外名所めぐりをする体裁。巻七冒頭に八幡が記されています。
「こゝは名におふ源氏の宗廟として石清水のながれ清くすみ給ふ神の宮居にておはします」と総論から入り、祭神と歴史を簡単に記し、放生会について述べています。末尾に「八幡の町のかたはらに」ある男塚女塚の伝えと挿絵をはさんでいます。

 一般に仮名草子の類は通読して楽しむもので、名所旧跡の「情報」を提供するものではありません。

▇ 京都の小項目百科事典 雍州府志

 貞享3年(1686)ごろ、黒川道祐著雍州府志(ようしゅうふし)10巻10冊が刊行されました。山城国の地誌ですが、江戸時代初期の京都に関する百科全書だと紹介されることが多いようです。
 雍州というのは古代中国の行政区画のひとつですが、この書では京都(を含む山城国)の代名詞にしています。
 全篇漢文、すなわち古典中国語で書かれています。日本の風俗や事物を日本人のために書くのに、外国語を使うのが何の不思議でもありませんでした。これは高い文明へのあこがれといったほうがよいようです。そして、江戸時代初期にはまだ日本の事物風俗を精細に描く日本語が発達していなかったという事情があります。
 雍州府志の構成は下のとおりです。
巻一 建置門・形勝門・郡名門・城地門・風俗門・山川門
巻二 神社門上(愛宕郡)
巻三 神社門下(葛野郡から乙訓郡まで)
巻四 寺院門上(愛宕郡)
巻五 寺院門下(葛野郡から乙訓郡まで)
巻六 土産門上
巻七 土産門下
巻八 古跡門上(愛宕郡)
巻九 古跡門下(葛野郡から乙訓郡まで)
巻十 陵墓門

 ガイドブック的な地誌には、まず地域を分け、その地域を一巡するようなかたちでお寺や神社や名所を解説するものが多いのですが、道祐がめざしたのはまず対象を門に分類することです。これは観光ガイドではない、地誌であるという表明です。
 巻一の建置門から山川門は、平安京と京都の歴史総論、および山城国の地理概説です。
 八幡はどう載せられているのか。まず巻一の山川門の綴喜郡の部に八幡山と放生川が出てきます。
   「八幡山、或謂男山、又称雄徳山、八幡宮在斯山、石清水在山腹」。
 石清水八幡宮は巻三神社門の綴喜郡の部に出ます。名所の列記だけではなく、神仏混淆の当時の現況など、詳しく述べているのはさすがです。
 さらに寺院門の綴喜郡の部には善法寺を初めとする社僧の寺、古跡門の綴喜郡の部には放生川、八幡の五井など社寺以外の古跡が、陵墓門綴喜郡の部には影清塚、男女塚などが納められています。

 ▇ 総合地誌 山城名勝志と山州名跡志

 地域を解説しながら神社や寺や名所を解説するという「地誌」が出てきます。上の二種はほぼ同時期に出版された大がかりな山城国地誌で、比較されることが多いようです。

山州名跡志(さんしゅうめいせきし) (正徳元年1711刊、白慧著)22巻25冊
 山城国を歩いて調べた結果を、漢字かたかな交じり文で記した地誌です。20冊以上もある分量の、しかも娯楽向きでない堅い書物を漢文ではなくかな交じり文であらわすことは異例でした。
山城名勝志(やましろめいしょうし) (正徳元年1711刊、大島武好著)21巻30冊
 この種の書で山州名跡志と並称されます。時代も同じだし、分量も30冊(附図12舗)と大部。山州名跡志とは逆に学者向けの内容で好評を得ました。「学者向けの内容」というのは漢文で書かれていて、とにかく古いものが尊いという価値観につらぬかれているということです。

 山城名勝志は山城国の地誌ですが、室町時代までの歌や物語に出てくる名所・歌枕・社寺に力を入れています。そして古い文献に出てくる地名が十八世紀初めのどの地にあたるかを考察するところに山州名跡志とはちがった特徴があります。

▇ 実用的ガイド 京城勝覧

 享保三年(1718)、実際に手にもって観光を楽しむというガイドブックが出ました。貝原益軒著京城勝覧(けいじょうしょうらん)四巻二冊です。貝原益軒は筑前福岡藩の儒学者ですが、京都にもたびたび往来しました。
 学者の著書なのですが、とても実用的にできています。一日で京都中心部から行ける名所旧跡をまとめて、初日はこのコース、二日目はこのコースと、十七日分のコースを並べます。
 八幡は十日目のコース。まず京都中心部から「東寺の前より上鳥羽下鳥羽を通り、納所を過ぎ淀にゆき小橋大橋をわたり、美豆の町を通り、八幡の町に入り」云々と、各コースともまず道のりを記します。
 あんまり石清水の祭神や歴史には深入りせず、順路を主に示し、最後は「是より(橋本より)渡し舟に乗て山崎こえ、山崎に宿して西の岡をみるもよし、先宇治にゆき八幡を見て橋本に宿し、翌日山崎にこして西の岡をめぐるもよし」つまり二日かけてもよし、とまるで親切なおじさんが教えてくれるようです。
 このガイドブックはけっこう人気が出たようで、現在でも古書価は比較的低いし、よく見かけます。ただし使いに使い、すり切れたようになったものが多い。
 この手の京都案内は江戸時代を通じそんなに多く出版されていません。むしろ小判中判の工夫をこらした地図がたくさん出されました。

▇ 都名所図会の出現

 京都の地誌の世界に変革をもたらしたのが都名所図会(みやこめいしょずえ)6巻6冊の出版です。出版されたのは安永9年(1780)。著者は秋里籬島、さし絵は竹原春朝斎の手になり、吉野屋為八という書林(出版者)から刊行されました。f0300125_1612385.jpg
 大本(おおほん)というA4版ぐらいのゆったりとした判形で、鳥瞰図という新鮮なさし絵が人気をよびました。売れ行きのよいことを馬琴は、随筆異聞雑稿にあらわしています。
 ベストセラーといわれるわりには、一ヶ年の製本4000部は少ないと思われるかもしれません。しかし、江戸時代の読者は貸本屋で借りる者が多かったこと、人から借りて筆写する者が多かったことを考えなければなりません。最近の研究で都名所図会は原版を4回以上作り替えていることが確認されています。ですから長期間売り続け万の位を越えたのではと思われています。
 この都名所図会をかわきりに、名所図会または名勝図会という書名をつけた書物がぞくぞくと出版されます。著者秋里籬島の名では11種を数えます。また秋里籬島以外の著者も含む名所図会の書名を冠した書物は60種をかぞえます。まさに出版の一ジャンルの創始です。

▇ 都名所図会の八幡

 都名所図会には、巻五の冒頭に八幡が収められています。文章の部分は「石清水八幡宮は王城の南にして行程四里、綴喜郡男山鳩嶺に御鎮座あり」からはじまり、周辺寺院史跡を列挙します。たくみな排列だと思うのは、石清水八幡宮という大きな項目を最初に出し、そのあと二鳥居や若宮、高良社など摂社末社の類を大項目のなかの小項目として掲げているところです。とても読みやすく頭が混乱しない。
 都名所図会は必要な解説を簡潔に網羅しているという感じです。寺社の所在地、神社は祭神、寺は本尊、創建年代、霊験、逸話を書き、神社の場合祭礼の時期を記す。これは項目によらず全巻を通して共通していて、一種のカタログ化がなされています。
 そして本文と竹原春潮斎の絵が一体化しています。絵は鳥瞰図で寺社の伽藍や殿舎の配置がよくわかります。それとおそらく人の目をひいたのは、ゆったりとした大本の見開きいっぱいにひろがった鳥瞰図だろうと思います。都名所図会では絵は半丁単位で、重要な部分は見開きにしています。
 さらに時によっては数丁にわたるパノラマ画面を使っています。見開きで見ているとわかりにくいのですが、石清水八幡宮の場合は30分(6頁分)が一連の絵になっています。
 要するに都名所図会の絵は文章のそえもの(さし絵)ではなく、文章と対等なんですね。現在のグラフィックデザインの先祖です。八幡を収める巻五は全部で約160頁(八十丁)のうち85頁と半分以上を絵が占めています。

▇ 八幡と三宅安兵衛碑と地誌

 八幡を歩いて目につくのは三宅安兵衛碑です。実際にはその遺志をついで息子清治郎が建立したので三宅安兵衛遺志碑といういいかたもされます。
 こういった史跡碑というものは、一般的によく知られた、ということは地誌で既に紹介ずみのところに建てることが多いようです。しかし、三宅安兵衛碑についてはこの原則があてはまらない。八幡でいえば神応寺となりの航海紀念塔など。これは三宅碑が地域の研究家の助言にもとづいて建てられたということから来たことで、他の地域の三宅碑でも同じです。
 地誌に出てこない名所史跡というのはやっかいなもので、なぜこんなところに碑を立てたのかと思いわずらうことが多いのですが、いっぽうでは京都から見た地域しか出てこない出版された地誌を補うという、たいせつな役割が三宅碑にはあることが、地誌をながめているとよくわかります。

 上記の記事は、伊東宗裕氏が親切にも今回の講演のために書き下ろしてくださった原稿のデーターをそのまま送ってくださり、記者がそれを取捨選択してつなぎ合わせたものです。もちろん、その取捨選択は記者の「我意」に基づくものであることはいうまでもありません。また、伊東氏は書名に「 」『 』をつけず、そのかわりにゴチックにしておられます。今回、その意思を尊重し踏襲いたしました。
                                (文責 土井三郎)


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by y-rekitan | 2014-09-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第54号より-04 歴史サイクリング②

シリーズ「自転車で巡る名所案内」・・・②
歴史探訪サイクリング(Aコース)


秋空のもと、自転車で八幡の名所をめぐる

歴史探訪サイクリング担当

 9月7日(日)、天候が危ぶまれましたが、空は徐々に晴れあがり、上々の行楽日となりました。
 事前に申し込まれた方が8名、担当者5名の計13名が京阪八幡市駅前に集合。観光協会の自転車を借りる方が8名、自家用車が5名の内訳です。
 長宗我部盛親の隠れ家跡でオリエンテーション。名所案内の趣旨説明や簡単な自己紹介をすませ、自転車の安全な乗り方について白石洵さんからレクチャーを受け、コースの確認をします。先導は谷村さん、次に村山さん、三番手に高田さん、シンガリは土井さんが務め、グループごとに隊列を組んで出発しました。
 科手をスタートに、橋本、西山、男山三中前を通ってさくら公園へ。その後、水月庵、洞ヶ峠をめぐり昼食。午後は、東高野街道を通って昭乗広場へ。泥松稲荷や正法寺に立ち寄り、石清水八幡宮五輪塔で解散。少々盛りだくさんの感のある名所案内でしたが、担当者として新たな発見もあり、有意義な一日でした。
 茨木から参加した田中さんに、感想記を寄せて下さる様お願いしました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
歴史探訪サイクリング参加記

田中 満男 (茨木市)

八幡の歴史を探究する会については会員でもなく、しかも八幡在住でもないにもかかわらず、毎月更新される会報ブログだけは愛読させて頂いておりましたが、この度会員の方からのお誘いを頂き、歴探のイベントに初めて参加しました。

当日はなじみのない身で多少の不安も抱えての参加でしたが、いざ集合場所に赴くとご夫婦連れの方などもおられて気さくな雰囲気で、事務局の用意してくれたレンタサイクルを連ねてのスタートとなりました。
f0300125_1919784.jpg そしていざ発進すると、たちまち日頃よりブログの記事と写真でなじみのスポットが次々と目の前に現れ、そのことにまず感動。しかも写真だけでは分からなかった臨場感もあり、たとえば水月庵から円福寺に向かう竹林は思っていた以上に奥深くて趣がある。それを突き抜けたところで突然現れる円福寺の伽藍は思っていた以上に大きくておごそか。そしてコース終端の通称航海記念五輪塔は意表を突かれるほど巨大と書き始めるときりがありません。まだ残暑の厳しい汗だくのツアーでしたが、お蔭様でそれを忘れるほどの感動的で貴重な一日となりました。

また各スポットではそれぞれのご担当の幹事さんから熱のこもった解説があるのですが、間合いを見計らって他の幹事さんからも絶妙な補足があったりして、皆様の八幡への愛と情熱、そして日頃からのチームワークの良さが窺えたことにも胸を打たれるものがありました。

残暑も強く時間の制約もあったためか今回巡ったスポットは14ヶ所でしたが、頂いたパンフレットによるとこのコース沿いにはなんと39ヶ所ものスポットがあるとのこと。今回はAコースでしたがこれにBコースを加えると八幡市では男山を取り囲みおびただしいスポットが密集していることが窺えます。そしてその多くは既に歴探会員の方々の熱のこもったレポートが会報や会報ブログで紹介されていますが、今後も会員の方々の歴史情報の掘り起しは続くでしょうし、八幡市の継続的な発掘調査とも相まって、八幡の歴史は益々広さと深みを増していきそうで今後の会報やブログが楽しみです。
八幡に限らず近隣都市にお住まいの方にもこの気軽な歴探サイクリングツアーに是非一度参加されることをお勧めしたいと思います。


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by y-rekitan | 2014-09-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第54号より-05 八幡森の地蔵盆

八幡森の石仏(オボトケさん)と地蔵盆

高田 昌史 (会員)


1.はじめに

 地蔵菩薩は庶民信仰のナンバーワンの仏であることは周知のことですが、地域の守り神であり、延命、治病、息災、安産、育児、豊作等の多岐にわたる願望から多くの俗称で呼ばれ、その俗称は全国で248種もあります。江戸時代に道祖神信仰と結びついたため道端に祀られるようになったようです。
 「京都の地蔵信仰と地蔵盆を活かした地域活性化事業」の調査報告書が平成26年3月に発行されました。この報告書では京都市内の「地蔵」の分布調査や近畿の特徴的な「地蔵盆」の実態が明らかにされています。
 また、京都市が自治会長や町内会長を対象に実施したアンケート調査では、8割近くが昨夏に地蔵盆を行ったと回答しています。
f0300125_21301259.jpg 八幡市内にも京都市内と同様に多くの「お地蔵さん」がありますが、石清水八幡宮の門前町として栄えた八幡森の集落中央部の生け垣に囲まれた地蔵堂には多くの石仏が祀られています。中でも等身大の(約150cm)の大きな石仏は、ひときわ目立ち気にかかる存在です。
 毎年8月23日と24日には森の町内会で「地蔵盆」が盛大に行われでいますが、石仏の由来や地蔵盆の様子も含め今まで調べたこと及び地元の方にお聞きしたことを以下にまとめました。

2.森のお地蔵さんのこと

 八幡森の大きな地蔵さんについて、地元の薬薗寺のご住職から紹介していただいた八幡旦所の清林庵のご住職(御歳88歳)にいろいろお話しを伺いました。その中で、このお地蔵さんは昔から夜泣きによく効くので「夜泣き地蔵さんと呼ばれて慕われ、f0300125_21445765.jpg 昔から隠れて信仰されている方も多くお地蔵さんに涎(よだれ)掛けがよくあがる」と話されていました。
 また、今回の調査で約20年前の平成7年の森のお地蔵さんを撮影したビデオを見る事ができましたが、そのビデオでは、お祖母さんがお地蔵さんを「オボトケさん」と親しみを込めて呼び、さらには「森のお地蔵さんは、阿弥陀さんです」ともいわれていました。
 言われてみると確かに、頭に如来特有の肉髻(にっけい、知恵で盛り上がった頭頂)が見てとれます。また、涎掛けで隠れている右手と下ろしている左手を見ると、親指と人差し指の念じる様は、阿弥陀如来でよく見られる来迎印(上品下生)とも見うけられます。 先に述べた調査報告書にも「地蔵堂に祀られている多く石仏の中には、実際は阿弥陀と見られる形態の石像が少なからずあるが、地蔵といわれている場合が多い」と記されています。

3.石仏(オボトケさん)はどこから?

 清林庵のご高齢のご住職からは、昔ご住職のお祖母さんから「森の橋(薬薗寺の前)の際(きわ)にあったお地蔵さんを現在の場所に移動された」と聞いているとの貴重な証言を得ました。
 調べてみると、男山考古録巻十三の「石佛」の項に、“薬園寺前の道を園町に至る十間許東へ入る田の中に、四尺許の石佛立り、土人只オホヾトケと云ふ、傍に樹木繁茂せしか、近来伐佛て叉其在地を田に作りなせり、是者舊法園寺墓所なりしか、今の地に改葬なとして、其跡所に此石佛を立置る也と、此邊の田畑の字を大佛といふ”と書かれています。 この男山考古録の「四尺許の石佛立り」は、現在の森町のお地蔵さんの台座から上の高さとほぼ一致するため、この石佛が現在の森の石仏と推定されます。また、その場所が「法園寺の墓地なりしか」と書かれていることは、現在では検証はできませんが元は墓地の仏像であったのかもしれません。
 さらに「薬園寺前の道を園町に至る十間許東へ入る田の中に、・・・」ともあるので薬薗寺の東へ約20mの田の中に祀られていたようです。
 そして時は下り、明治維新の廃仏毀釈の方針により京都府から明治4~5年に発布された「地蔵取除令」や「盂蘭盆会習俗の禁止令」等の受難に遭いながらも、地元の人々は石仏をお守りし、廃仏毀釈の嵐が治まった後、薬薗寺前の橋のそばに移設し、現在の森町の地蔵堂に安置されたのでしょう。
 また、地蔵堂には他にも多くの石仏が祀られていますが、地蔵堂の北側は墓地だったこともあり、「オボトケさん」よりも古い室町時代の石仏もあるとお伺いしました。

4.何故お地蔵さんは屋根の外に?

f0300125_2231054.jpg この地蔵堂には館(小屋)が2棟あるのに、何故かお地蔵さんは外に祀られており不思議でした。このことは前述のビデオで、昔この場所にお地蔵さんが引越されるときにその方のおばさんに「雨が掛からない館の中に入れて、その雨水は木津川まで流してほしい」お告げがあったが、それはとてもできないので館の外にお祀りしたと証言されています。
 また、地蔵盆でお目にかかった方から、この「お地蔵さん」は、まだ修行中の身であるから地蔵堂の小屋の外に祀られているといった話も伺いました。


5.八幡森の地蔵盆

 今年の地蔵盆も8月23日の朝から森町の1~3班の班長が中心になり、テント2張り設置して多くの提灯が揚げられ飾り付けやお供え等の準備が行われました。
f0300125_2295626.jpg
 f0300125_221447100.jpgまた、地蔵盆の日だけ、別館の地蔵堂奥の御堂(みどう)の前扉が外されて、高さ約30cmの厨子(ずし)中に安置されているお地蔵さん2体を拝むことができます。この小型の2体の地蔵菩薩立像は風雨に曝されていないので大変きれいです。
 昔はこの地蔵尊が御堂から外の広い場所に出されて祀られ、また、他の地区に貸し出もされよく移動されたので別名「あそび地蔵」とも呼ばれていたそうです。
 今年も2日間の地蔵盆には、地域の大勢の皆様がお詣りされ、子供達にはかき氷やお菓子が配られました。ただ、残念ながら2日目の夜7時から予定の子供達による「数珠回し」は、どしゃ降りの悪天候のため今年は中止になりました。(写真の数珠回しは、平成7年に撮影されたものです)
f0300125_22214614.jpg

6.おわりに

 今回の調査で森の地蔵堂の石仏及び地蔵盆について、いろいろな事を知ることができました。地蔵盆は関西中心に行われている伝統行事ですが、最近は少子化の影響で地蔵盆を中止する地区もあるようです。地域をつなぐ文化として残していただきたいと願っています。
 末筆ですが、いろいろお話しをお伺いしました森町の皆様及び平成7年の撮影ビデオを提供していただいた「八幡まちかど博物館協議会」の増田和博様に御礼申し上げます。
 また、八幡市教育委員会文化財保護課の小森主幹殿には、現地で石仏を確認していただいたことを申し添えます。

【参考資料】
 ※1)平成25年度京都の「地蔵」信仰と地蔵盆を活かした地域活性化事業 
    報告書(文化庁文化遺産を活かした地域活性化事業)
 ※2)路傍の信仰―日本のお地蔵さま百選(歴史読本 2009年2月号)
 ※3)男山考古録(石清水八幡宮史料叢書1)
 ※4)山上山下のまち、八幡(堀内明博他)
 ※5)八幡文化のふるさと(八幡市教育委員会)
 ※6)雑誌「一個人」 2014、10月号【保存版特集】仏像と信仰の謎
    (KKベストセラーズ)
by y-rekitan | 2014-09-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第54号より-06 弥生時代

シリーズ「2014年夏 古代の声を聞く」・・・その2
弥生時代を学ぶ

 野間口 秀国 (会員) 


 前号の縄文遺跡訪問に引き続き、本号では弥生時代について学んだ事を書きたいと思います。

 この夏、京都府立山城郷土資料館にて7月5日から8月31日まで企画展「巨椋池と木津川をめぐる弥生遺跡」が開催され、巨椋池周辺の遺跡から発掘された弥生時代の土器などが数多く紹介されました。関連遺跡は20余を数え木津川、桂川、かつての巨椋池周辺の市町村に存在します。期間中には関連講演会(講座)が2回開催され、弥生時代に関する貴重な話を聴く機会に恵まれました。

 1回目(7月12日)は京都府の文化財保護課の藤井氏より「巨椋池と木津川をめぐる弥生遺跡」と題して、弥生時代とはどんな時代?といった基本的な事柄などをとても分かりやすく話していただけました。
 手許のメモに残る弥生時代の特徴は、
   1)稲作が始まった、
   2)銅鐸(金属器)が作られた、
   3)争い(支配と被支配)が始まった、
   4)集落の周りに濠が作られた、
   5)竪穴住居に住んでいた、
   6)方形周溝墓に埋葬されていた、
などなどです。これらのことが記憶に新しかったこともあり、前号で書きました三内丸山遺跡を訪れた際にも役だったことは言うまでもありませんでした。
 特に興味深かったことは銅鐸に関してです。f0300125_1701926.jpg金属を溶かして型に流し込んで物を作る技術(鋳造)はこの頃から始まったようです。本来、銅鐸は音を出す道具であり、早い時期の物は持ち運べる大きさだったようですが、時代が下ると共に見る(見せる)要素が増えて、飾りがだんだん多くなり、大きく重くなって持ち運べなくなり音を出すこともできなくなったとの説明がありました。この説明を聞いて改めて展示された銅鐸を見ると違いが良く分かりました。
 銅鐸の例でも分かるように、道具類が石から金属に変り始めると狩猟の方法もおのずと変わります。狩りには欠かせない矢じりも石から金属へと、軽く小さくなって射程距離も増してより遠くからも獲物を狙えるようになったのです。金属の利用は狩りに留まらず刃物や刀剣(武器)にも広がりを見せます。弥生の遺跡からは武器によって殺されたと思われる人骨などが発見され、先に記しました「争いの始まった時代」の理由も良く理解でき、三内丸山遺跡に見られた縄文時代の出土品との違いも分かりました。

 また2回目(8月2日)は長岡京の発掘に永年携わってこられた(*1)龍谷大学の國下教授より「水の道と弥生集落 ~考古学からみた地域間交流~」と題する話を拝聴しました。山城地域を中心とした琵琶湖・淀川水系の川、湖、海を俯瞰して水の道から水運や交流の歴史を考えるが主題でした。
f0300125_1839537.jpg
木津、宇治、桂の三川とかつての巨椋池、琵琶湖は水の道を形成し、複数の津(港)となる弥生集落は交流の起点であり、多くの出土品がそのことを物語っていると話され、数多くの弥生遺跡から具体的な実例を挙げての説明は分りやすく納得できる内容でした。特に、交通の中継点としての旧巨椋池一帯に関して「西(東)から東(西)へ」の説明で、西は遠く朝鮮半島や九州北部、東は東海・北陸」と、広がりを意識できる説明はとても興味深く聞くことができました。交通の中継地は同時に交易や技術交流拠点でもあり、そのことは各遺跡から出土する土器、石剣、住居跡、方形周溝墓、玉造工房などの類似品が物語っているとの説明も良く理解できました。
  このように初回では弥生時代の基本的なことを学び、2回目は山城地域の水の道や交流の歴史などについて学べました。また武末純一福岡大教授の「弥生人、交易に分銅使用か」と題する記事(*2)からは朝鮮半島南部、長崎、鳥取、大阪と、西から東への弥生人の交流の様子が伺えるものでした。この夏の古代の学びはその入り口ではありましたがこれからもさらに学びの場を求めたいと思いました。

<参考図書等>
  • 京都府立山城郷土資料館にて開催された
    平成26年7月12日 文化財連続講座(第3回)の配布資料 及び 平成26年8月2日 文化財講演会の配布資料
  • 吉川弘文館刊 玉田芳英編 『史跡で読む日本の歴史』
  • 宇治市歴史資料館刊 『特別展巨椋池』
  • 京都新聞記事 
      (*1) '14.8.2 夕刊  
      (*2) '14.8.11 朝刊(武末純一福岡大教授発表)
  

この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2014-09-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第54号より-07 物語の生まれ④

シリーズ「物語はどのように生まれたか」・・・④
女 郎 花 と 頼 風④

 土井 三郎 (会員) 


4、中世に出現した註釈書

 10世紀初頭に成立した「古今和歌集」の仮名序に関して、それを註釈する書物が鎌倉時代に現れました。奥書に弘安9年(1286)と記す「古今和歌集序(こきんわかしゅうじょ)聞書書(ききがきしょ)」と総称されるものです。「古今に三の流あり。一に定家、二に家隆、三に行家」という書き出しで始まるので「三流抄」とも呼ばれています。伝本が多く、必ずしも「聞書書(ききがきしょ)」と題したものばかりではありません。「古今和歌集序講義問答秘書」と題するものもあって、古今和歌集の序文をいかに解釈するか、序文の一つ一つの内容にどんな背景があるのかを問答形式に説いていく構成になっています。
 定家の流れをくむ藤原能基の手になるといわれますが、はっきりしないとのことです。古今和歌集の序文に関して、言葉や和歌の由来となったことがらを詳細に説くものですが、現代の感覚からすればおよそ荒唐無稽と思われるものがあります。しかし、謡曲をはじめ「曾我物語」や「太平記」などにもその説話が引用されるなど、中世以降の文学に大いに影響力を持っていると指摘されます。
 「男山の昔を思ひて」云々に関連する文章の冒頭の部分を抜き書きしてみましょう。
 男山ノ昔ヲ思出テ、女郎花ノ一時ヲクネルトハ、日本紀ニ云、又源氏注ニモ云、平城天皇ノ御時、小野頼風ト云人アリ。八幡ニ住ケルガ、京ナル女を思テ互ニカチコチ行通フ。或時、女ノ許ニ行テ何時ノ日ハ必ズ来ント契テ帰リヌ。女待ケレドモ来ザリケレバ、男ノ八幡ノ宿所ニ行テ、・・・
 後は、謡曲「女郎花」とほぼ同じストーリーが語られます。
 要するに、室町時代にできた謡曲「女郎花」はこの註釈書「古今和歌集序聞書書」から生まれたのです。出典はまさにここにあるのです。
 但し、上の文章には巧妙なしかけがあり、いかにも真実そうに語られているのです。
先ず、「男山の昔を思い出して・・・」は、男が若いころを懐かしく思い出すと解釈するのではなく、「男山(八幡)の昔」の時代のことだと思わせ、それはいつの時代のことかと読み手の思考を時代考証に向かわせます。そして、「古今集」が出来た時代、つまり貫之が生きていた時代よりも昔の時代だと揺さぶりをかけ、「日本紀に云う、又源氏注にも云う」として、「平城(へいぜい)天皇ノ御時(おんとき)」とあれば、そうか、そんな時代のことかと納得させる趣向です。
 平城天皇は、桓武天皇の第一皇子でしたが、病弱のため嵯峨天皇に譲位します。在位は806~809年の僅か4年で、古今和歌集ができる百年も昔です。このように、「男山の昔」の時代が特定され、しかも「男山」とあるから八幡に起こった話なのだなあと思わせています。しかも、小野頼風という人物まで登場するのですから、実在の人だなと誰もが思ってしまう仕掛けになっているのです。
 これが、「むかしむかし、あるところに・・・」で始まれば昔話であり、「昔おとこありけり」で始まれば歌物語なのだなと、フィクションとして割り切って読むことができます。
 ところで、「日本紀」とは何でしょうか。広辞苑によれば、「六国史(りっこくし)」(奈良・平安時代の朝廷で編集された六つの国史)もしくは「日本書紀」のことです。「平城天皇の御時」ですから「日本書紀」ではあり得ず、平城天皇在位の時の国史は「日本後紀(にほんこうき)」に当たります。
 ちなみに、「日本後紀」延暦15年(796)9月1日条に、「牡山(おとこやま)烽火(のろし)」の記述があります。八幡の歴史カルタに「国境 烽火の煙 男山」という句がありますが、そのことを思い出したものです。(ルビは筆者による)
 いずれにせよ、編年体で書かれる国史に、頼風やその女など庶民の恋愛譚(れんあいたん)が記される筈もありません。「又源氏注にも云う」とありますが、おそらく「源氏物語」の註釈書のことを指すものだと思われますが、源氏物語が書かれた時代にそんな註釈書を求めても無駄なことでしょう。
 要するに、「女郎花と頼風」は実話ではなく、説話文学に属する物語(フィクション)なのです。
『日本国語辞典』で「説話文学」は次のように説明されます。「神話、伝説、昔話などの説話を素材としたもの。(略)叙事的、伝奇的、教訓的、寓話的、宗教的、庶民的な要素をもつ。個性に乏しく芸術的な価値も高いとはいえないが、庶民の日常生活、社会生活の実態などが示されていて、史的な資料として興味深い。」
 確かに、謡曲そして聞書書(ききがきしょ)にある頼風と女郎花の物語は説話文学としてとらえれば、中世の人々の宗教観やものの見方、考え方がわかり、文化史的な資料としても味わい深いものです。
 しかし、「男山の昔を思ひて女郎花の一時をくねる」に関わる註釈書=「聞書書」が出来てからは、頼風という男と女郎花という女の物語が史実のごとく語り継がれてゆき、独り歩きを始めてゆくのです。

5、連歌の手引書にも登場

 「古今和歌集」の成立以来、「後選和歌集」、「拾遺和歌集」、「後拾遺和歌集」と次々に勅撰和歌集が編纂され、平安時代初期から室町時代までおよそ5世紀に及ぶ間に、21代にわたる天皇および上皇が宣下する和歌集ができます。和歌の生命力には驚くばかりです。
 しかし、室町時代から戦国期にかけて、和歌は連歌として詠むことが流行るようになります。一人の歌人が五七五七七と詠むものから3、4人の詠み手が五七五の長句と七七の短句を詠み継いでいく連歌の形態が流行するようになるのです。句数により「歌仙」(36句)、「五十韻」(50句)、「百韻」(100句)、千句、万句の形式がありますが、月や花、雪などの季節や恋・旅の思い、雲や雨等の天象、山や海などの景色が散りばめられ、さながら交響曲を聴くような味わいとなります。
 連歌はまた座の文学ともいわれます。数人が集まって、連続する2句の間の付合(つけあい)や全体の変化などを愉しむのですから、そこには約束ごともでき、古典や故事の共通認識も要求されるようになります。前の句をいかに受けるのか、そこにどんな趣向があるのかを味わうわけですから共通の感性や認識が座の文学の基調をなすことになるのです。そういう意味では、結構面倒くさい約束事を知り、歌語に関わる知識も豊富にしておかないと恥をかくことにもなりかねません。
 そこで、連歌用語辞書なるものが作られるようになります。「藻鹽草(もしおぐさ)」がその一つです。連歌師宗硯(そうけん)が著したもので、永正10年(1513)頃に成立しました。連歌をよむための手引として、天象・時節・地儀・山類・水辺・居所・国世界・草部・鳥類・獣類など20項目に分類して歌語等を集めました。寛永期(1624~1643)の木版による活字版などがありますが、崩し字版はあってもその翻刻されたものは見あたりません。
 その草部に「女郎花」の項があり、会員であるT氏の協力のもと翻刻を試みました。以下に紹介します。
男山によめりをみなへしの一時をくねる
古(いにしへ)その序にいへり 平城天皇の御時(おんとき)小野頼風かと云(いふ)人あり 八幡に住(すむ)人なりける 京に女を持ちたかひにかなたこなた行(ゆき)かよひけるにある時京の女のもとに行(ゆき)ていついつの比(ころ)はかならす
ちきりてかへりぬ そののち女待(まち)けれともこさりけれは おとこの八幡の宿所にたつね行てと
ふに・・・(※ルビは、読みやすさを考えて土井が付す)
 「平城天皇の御時」以下は、先に紹介した「古今和歌集聞書書(ききがきしょ)」とほとんど同じであることがわかるでしょう。このように、「女郎花」とあれば「平城天皇の御時、小野頼風と云う人がいて、八幡に住んでいたが、京の女とねんごろになり、行き通ううちに、必ず一緒になろうと約束して、その後男の足は遠のき、来なくなったので、女は八幡の宿所(住まい)に訪ね行く・・・」という物語が連歌をする人たちの常識として定着するのです。
 「徒然草」にも連歌の章段があり、明智光秀も本能寺の乱を起こす前夜に連歌に興じていたといわれます。このように、ひとかどの人物であれば誰も連歌をしていたようです。ですから、そんな人々にとって「女郎花」という歌語からは、頼風と女郎花との悲恋を連想するのは至極当然であったのです。独り歩きとはそういうことです。それがやがて、江戸時代になると八幡を紹介する地誌にも現れ、男塚・女塚の名所が記されるようになるのです。
 地誌に現れる頼風塚や女郎花塚については次号に述べることにします。(次号に続く)


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by y-rekitan | 2014-09-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第54号より-08 八幡宮Q&A⑤

シリーズ「石清水八幡宮の歴史Q&A」・・・⑤
第5回

Q:三の鳥居近くの「一つ石」にはどんな俗信がありますか。そもそもこれは何のために設えられたのでしょうか。

A:これは、もともと走馬の起点とされた石で、終点の印としては、いま南総門が建っている辺りに石が五つ横一列に並んだ「五つ石」というのがありました。一つ石には「下の駒留石」、五つ石には「上の駒留石」という異名もあったようです。但し、五つ石の方は昭和13年に施工された境内の拡張工事により、新総門を南にずらして建てたため、門の下に埋没してしまい、現在は見ることができません。いずれにせよ、古くは一つ石と五つ石の間で馬を走らせていたという記録が伝わっています。f0300125_1903458.jpg
  また、千度参り・百度参りといって、願を掛けて神前へ何度もお参りする人が、この石と「五つ石」との間を百度千度と往復したことから、「お千度石」「お百度石」などとも呼ばれました。蒙古襲来の折には、多くの老若男女が一つ石からお千度を踏み、異国退散を祈願したとの伝承が残っています。他に、勝負石ともいわれ、この石に祈願して勝運を祈ったという話も伝わっています。
 もともと男山にあった自然石とみられ、どれほど深く地下に埋もれているか定かでなく、かなり大きな岩の頭部だけが突き出ているという可能性もあります。
                   (回答者:石清水八幡宮禰宜、西中道氏)



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by y-rekitan | 2014-09-28 05:00 | Comments(0)

◆会報第54号より-09 お気軽歴史7

第7回 お気軽歴史講座に行きました

播磨 義昭 (会員)


 “1回だけの参加でも好いでしょうか”と、土井さんに御聞きしましたところ、“お気軽に”との回答を頂き、9月11日(木)「お気軽歴史講座」に参加させて頂きました。

 今回のテーマは「八幡の古墳の話」です。
 当日の参加人数は15人程で、「八幡の古墳の話」が始まる前に、土井さんから「お気軽歴史講座」についての説明があり、“分らないことがあれば、講師のお話の途中でも質問しても好い”と御聞きして驚きました。
次に、簡単な自己紹介があり、古墳ファンが何人もいらっしゃったので、自己紹介を聞くだけで楽しい気分になりました。
 講師は濱田英子さん。八幡には本当に素敵な方がおられます。
濱田さんは、八幡で出土した遺物を見るために、東京の博物館まで行かれたとのことです、驚きました。
濱田さんのお話は、古墳についての知識が無くても、一日中聞いても、楽しめると思いました。三角縁神獣鏡が八幡でも出土したとのことです。
 御主人と御二人で、濱田さんが(専門書か図鑑の)三角縁神獣鏡出土状況を調べた話には感動しました。
私は前方後円墳のことしか知りませんが、濱田さんの高度で、かつ分かり易い解説を愉しむことが出来ました。
 私は堺市出身で、大仙古墳(百舌鳥耳原中陵・伝仁徳天皇陵)の二重周濠に拘っています。大仙古墳の第三濠は、明治29年に掘削されたもので、築造時は二重濠であったと考えています。森浩一先生は、『巨大古墳 前方後円墳の謎を解く』の中で“大仙古墳の二重濠は前方部のみであったのではないか”と書いておられます。
 野間口さんと丹波さんが向かい側に、是枝代表幹事が左横に座っておられました。野間口さんと是枝さんとは、少し話す機会がありましたが、丹波さんとは話す機会が無くて残念でした。

 勝手な御願いを書きます。
 講演会のたびに思うのですが、講演終了後、講師が御帰りになってから、講演内容について話合う時間があれば好いのにと考えています。(話合う機会は、講演会当日でなくても好いのですが)
 私の経験から申しますと、会報に原稿を書く方は、文章化したものの10倍程の知識があると考えています。会報を読んで、質問したいこと、思うことが何度もあります。
 若し、会報に原稿を書く方で、その内容について質問を受付けても好いとする方がおられれば、(時間的余裕があるときに限って回答するという条件を付して)質問用のMAIL Addressを公開して頂き、質問機会を作って頂ければ有難いと考えています。
 野間口さんや丹波さんの話をもっとお聞きしたいと考えるのは、屹度、私だけではないと思います。
「お気軽歴史講座」のような質問機会を作って頂ければ、さらに有難いと考えています。 

《事務局より》
 播磨さんのように、会報の記事を興味深く読んで下さる方がいらっしゃるのは嬉しい限りです。会報の記事についてご質問があれば事務局にお問い合わせください。可能な限り、事務局を通して記事の筆者にお伝えいたします。その上で、筆者と質問者同士のメルアドの交換となり、じかにメールを通じて質疑応答しあうようになる場合もあると思います。  事務局のメールアドレス; saburo2014@iris.eonet.ne.jp



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by y-rekitan | 2014-09-28 04:00 | Comments(0)