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◆会報第55号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“わが心の風景”㉘◆
◆《講演会(研究発表)》「安居頭諸事覚」を読む◆
◆シリーズ:“物語はどのように生まれたか”⑤◆
◆“代々つづく神原の講 =秋編=”◆
◆シリーズ:“御園神社考~その1”①◆
◆シリーズ:“石清水八幡宮の歴史Q&A”⑥◆


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by y-rekitan | 2014-10-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第55号より-01 草庵茶室

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わが心の風景・・・(28)
草庵茶室 松花堂
所在地 八幡女郎花

f0300125_8393944.jpg 男山にはかつて多くの坊があり、「四十八坊」と呼ばれていました。泉坊もその一つで、寛永の三筆と称された松花堂昭乗がその主となった坊でした。昭乗晩年の寛永十四年(一六三七)、その泉坊の傍らに建てたのが草庵茶室「松花堂」です。
 その茶室も、多くの坊と同様に明治の神仏分離政策のうねりの中で男山から取り払われ、その後、それを惜しむ人たちによって八幡女郎花の東車塚古墳の上に泉坊の庭園とともに復元されました。
 松花堂は、床、袋棚、仏壇を備えた二畳の間に、土間、かまど、半畳の水屋をあしらい、天井は、土佐光武筆と伝えられる日輪と一対の鳳凰を描いた網代地で覆っています。これらを方一丈のなかに収め、茶室と住居、持仏堂を兼ねた珍しい建物です。草堂に起居し、点茶三昧に到達した昭乗の茶道精神を象徴するものと評されています。松花堂は「松花堂及びその跡」の名称で国の史跡に、「松花堂及び書院庭園」の名称で国の名勝に指定されています。     (絵と文 小山嘉巳)



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by y-rekitan | 2014-10-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第55号より-02 安居頭諸事

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《講 演 会(会員発表)》

「安居頭諸事覚」を読む

2014年10月  八幡市ふるさと学習館にて
谷村 勉(会員)


f0300125_9383743.jpg 10月16日(水)午後1時半より、ふるさと学習館において、標題の研究発表が行われました。司会は、安立俊夫さん。谷村さんは、八幡における武家の祭りとされる「安居神事」とその頭役の在り様を古文書をもとに具体的にお話していただきました。参加者は37名でした。以下に、その概要をご自身に紹介していただきました。

江戸時代の安居神事の背景

 江戸時代、八幡八郷は守護不入、検地免除の珍しい地域でありました。検地免除とは税金をかけないということですから、これはかなり裕福な土地柄であったと推定できます。他の寺社領と違って社務をはじめ社士、神人、安居百姓など山上山下惣衆は直接徳川家康から朱印地(三百六十通の朱印状)を与えられ、それぞれ各自が領主のようなものであり、特異な所領形態だったといえます。慶長十五年(1610)九月二十五日付、家康朱印条目は地下人が安居神事を執行し、その役料として朱印地が与えられた事を示すものです。
 安居神事の祭は「寿永元年(1182)源頼朝が、鎌倉に八幡宮を勧請するにあたり、高田蔵人、菅原忠国に代幣使を勤めさせたことに始まるとされる」とも言われ、安居神事の祭は将軍家の命(武家の沙汰)を受けて行われる神事であり、武運長久天下泰平を奉祈しました。

安居神事の概要

 まず安居頭屋に祭壇の御壇が築かれ、山上から招いた御師により神霊が勧請されます。十二月十日、安居頭人は差符の儀によって「安居頭役」と「堂荘厳宝樹預」の二通の差定を受けます。次いで社務、所司をはじめ郷中の町民、百姓などを饗応する。いわゆる「コナシ」というものを順次行います。十四日に「宝樹」と呼ぶ松の大木を頭屋祭壇へ運び入れ、十五日に「ヤーハンヤー」の掛け声とともに宝樹を曳き進めて、猪鼻坂から山上へ曳上げ本殿前に立て、猿と呼ぶ少年が宝樹を駆け上り一ノ枝を切り、頭屋祭壇に納めて神事は終了する。といった次第です。

安居神事の中断

 戦国時代、毎年かどうか判らないものの、安居神事は継続していました。この時代には「荘厳頭」と「僧供頭」と呼ばれる両頭の下に六種類の「宝樹」とそれらの「安居頭役」が置かれました。しかし、江戸時代は「一本の宝樹」と「一人の安居頭役」に略されたようです
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  豊臣政権になって、太閤蔵入地の実施により直轄地になったようで、天正十七年(1589)から慶長四年(1599)まで十年間、安居神事は中断しました。領地召し上げにより経済的な余裕をなくしたからです。

安居神事の復活

 秀吉、前田利家の死後、最大の実力者になっていた徳川家康は関ヶ原合戦直前の慶長五年(1600)五月、八幡神領の朱印地を確定し、検地免除も保証した為、安居神事は復活しました。この家康の決断には、お亀(相応院・尾張藩祖義直の生母)と志水家の奔走も大きく貢献したようです。慶長五年七月に豊臣家奉行衆が家康に突き付けた弾劾状「内府ちがいの条々」によれば、その最後の項目に「内縁之馳走を以、八幡之検地被免候事」とあり、内縁とはお亀を指し、彼女の奔走によって検地免除になったことを示しています。また「安居御神事諸事記」に「慶長五年の冬、志水小八郎忠宗安居を勤めらる、…」とあり、慶長五年に安居神事が復活した事が分ります。

「安居頭諸事覚」の内容

 「安居頭諸事覚」は安永元年(1772)に書かれた安居の頭としての手順書です。
 まず安居頭屋台所諸事覚と書かれ、九月十六日から始まります。
「朝食後達所の一臈来たり、祝儀の式を行う。頭人は玄関まで出迎え、塗膳足打にて料理を出し、酒三献の後大盃を出し、頭人、若頭人、親類中戴く。同日、正明寺より安居田之米納の案内があり、米納の前日に達所、小綱、仕丁、宿坊へ頭人から案内人を出す」とあり、米納の日には頭人裏付上下にて銀掛、升取を連れて正明寺に行っています。f0300125_10365337.jpg郷中からは五十石の安居合力米が支給されました。この合力米五十石は慶長十六年に紺座町・片岡道二、橋本町・落合忠右衛門の闕所により、合わせて八十七石を没収した中から安居料として提供されたものと推測しています。
 折方之覚の項には社務中や所司中などへの進物、饗応料として渡すべき米の量や金銭の額が指示されています。文中の米の量を合計すれば二十一石一斗八升になり、次の銭ニて渡ス折方進物振舞料では公文所への折方銭十五貫文など合計三十七貫六百文、それに歩金五両弐歩、白銀百拾一匁を銭振舞料として各所に渡すように指示されています。そのほか「宝樹」や「飾りつけ」の費用など不明な部分も多々ありました。今回「安居頭諸事覚」を読んで興味深かったことが二つありました。志水家への進物と猪鼻坂の安居木差符所の存在です。
 尾州江遣ス飛脚之事の項に下記のようにあります。f0300125_1048872.jpg
「・進物の品々用意可有事、・御礼並びに升形の箱弐ツ、塩鮭、状、箱等渋紙惣包すへし、絵府付へし、樽弐ツは菰に包へし」と進物の拵を取決め、「御祈祷の札」は杉原紙に包み水引にて結ぶなどと規定している。また「・樽弐ツに入候酒は名護屋(ママ)にて買候て樽に詰候様に可申合、樽一ツに五升入名護屋にて封印をおして酒屋之名を樽に書候事は無用とて可申合事」とあり、酒は名古(護)屋で買い求め、樽は五升入りであり、同時に安居御供物や塩鮭一尺を進上しました。名古屋では「御礼乗せ候台や塩鮭乗せ候台、木具台弐ツ」も調達しています。f0300125_10521464.jpg飛脚の発足は三日か四日頃勝手次第に出発し、発足の前の晩には夕飯を振舞い、また発足の朝飯料として白米壱升五合を渡す。この役を担う飛脚に優遇の姿勢が伺えます。
 志水甲斐守は慶長の末頃、尾州家に入り代々国家老を勤めています。12月、安居神事執行の際、江戸時代を通じて毎年志水家に進物を行い、八幡の惣衆は感謝の意を表したのでした。

 
 次に安居木差符所ですが、猪鼻坂の中間点にあります。f0300125_10595954.jpg寛延四年辛未(1751)に描かれた石清水八幡宮境内全図には猪鼻坂がはっきり描かれています。二ノ鳥居を過ぎて神幸橋の手前からカゲキヨ塚に至る坂道ですが、境内全図の実物を見て「安居木差符所」と書かれた箇所が判りました。ここで宝樹を四、五尺切る神事が行われました。「安居頭諸事覚」には猪鼻坂で神事の道具類や酒樽壱斗などが準備される様子が書かれています。柏村直條によって選定され、八幡八景の第三景「猪鼻坂雨」として詠まれた名所猪鼻坂も今は安居神事と共になくなり、その面影は見当たりません。
最後に安居神事終了の翌十六日、「安居祈祷神札は御箱に入れたまま郷当役中へ返納するが、来春の江戸年頭御礼に下向する其宅に頭人麻上下着用にて持参する」とあります。
江戸年頭御礼では社士惣代が安居祈祷神札を持参して毎年春二月に将軍に拝謁しますが、尾州候と志水家にも年頭御礼の挨拶を行います。

【主な参考文献】
  ・中世神社史料の総合的研究  研究者代表 鍛代敏雄
  ・神社継承の制度史   石清水八幡宮の祭祀と僧俗組織 西 中道
  ・男山考古録        長濱尚次


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by y-rekitan | 2014-10-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第55号より-03 物語の生まれ⑤

シリーズ「物語はどのように生まれたか」・・・⑤
女 郎 花 と 頼 風⑤

 土井 三郎 (会員) 


6、地誌にみる男塚・女塚

 9月14日(日)に行われた伊東宗裕氏の「地誌に見る八幡」は、その内容もさるものながら、私個人にとって実にタイムリーなものでした。それというのも、今連載中の「女郎花と頼風」にちなむ男塚・女塚が江戸時代の地誌にどのように登場しているかを示してくれていたからです。そして、それらの地誌の文献は通常、京都市岡崎にある府立図書館にまで足を伸ばさなければ閲覧することができないものですが、会員のC氏がそのほとんどを蔵書にしているとのことを聞きおよび、お借りすることができました。家に居ながらそれ等の地誌と対面出来たのです。
以下、男塚・女塚に関する記述を紹介しながらコメントしてみます。

○洛陽名所集(明暦4、1658年頃の刊か、山本泰順著)
 巻之六に、八幡が特集されており、6番目の項目に「男塚女塚」があります。
「是は八幡の町のかたはら也 平城天皇の御時小野頼風と云人。八幡にすみ。女を京にもちて。たがひに行かよひけるに。或時。頼風京の女にいたり。いついつの頃とちぎりかへりぬ。其日にあたり。女まちけれども。こざりければ。女八幡の男なる人の宿にたずね行てとふに。家なるものこたへて。いひけるは。此ほどはじめたる女房まします所に。行たまふとあれば。此女うらめしと思ひ。八幡川に身をなげ。(中略)さてこそ夫婦を葬り。男塚女塚と云也。おとこ山によめるもこの儀なり」
 「八幡の町のかたはら」とは具体的にどこを指しているのでしょうか。

f0300125_21404043.jpg京都府立大学の竹中友里代氏が、「中ノ山墓地の景観と庶民信仰」と題した論文を『京都府立大学文化遺産叢書第4集』(2011年発行)に掲載しました。そこに、「万称寺附近」の図を紹介しています。これはトレースした図ですが、その出典は、「八幡山上山下惣絵図」(1731~1751年頃に制作)からのもので、『洛陽名所集』より100年後の古図です。そこに、「頼風墓 男塚」と「女郎花 女塚トモ云」がともに記されています。「血洗池」は西車塚古墳の環濠跡です。つまり、今ある八角堂の南側に二つの塚を見ることができるのです。女郎花塚=女塚はいうまでもなく、松花堂庭園内に大切に保存されている「女郎花塚」を想定するのが自然です。ちなみに、竹中氏の上記論文にちなんで歴探が講演会を開き、その概要は「八幡の歴史を探る」第18号に掲載されています。
f0300125_21483012.jpg では、男塚は、今どこにあるのでしょうか。
 八角堂から南50mのマンション近くの小さな畑地の一角にそれを見つけました。三宅碑がなければ見過ごす所です。但し、低い灌木が塚=石碑を覆い、それを伐採しない限り写真に撮ることができません。

○出来斎京土産(できさいきょうみやげ)(延宝5、1677年刊、浅井了意著)
 巻之七に八幡が登場しますが、項目は、「八幡」と「男塚女塚」だけです。しかも挿絵入りです。

f0300125_21543532.jpg「八幡の町のかたはらにあり。むかし平城帝(ならのみかど)の御時。小野頼風といふ人八幡に住て女をば京にをきて行通ふ。あるときちきりける日にあたりて。男こざりければ女八幡にたづね来て人に問ければ此ほどはしめたる女にちぎりて。そこに行通ふと語るに。女かぎりなくうらみて放生河に身を投げ。其時着たる山ぶきかさねの衣(きぬ)をぬぎて川ばたにをきけり(中略)人々あはれがりて女の塚にならべて。うずみけるより。男塚女塚と名づけしとかや。」(ルビは著者による)

 おもしろいのは、著者である出来斎房(浅井了意)が自身の詠んだ歌を付け加えていることです。
「男山にくねるはいかにをみなへし 弓や八幡(はちまん)無理にちきらん」(ルビは土井)
 近世初頭の俳諧の特色である滑稽さを含み、「契る」と「千切る」の掛詞を楽しむ狂歌のようですが、「男山にくねるおみなへし」と述べ、著者が、この物語が「古今和歌集・仮名序」から成立したことを知っていることを窺わせています。

○雍州府志(ようしゅうふし)(貞享3、1686年ごろ、黒川道祐著)
 同書は、地域別ではなく部門別に構成されていて、男塚・女塚のことは、巻九(古跡門下)に収録されています。『雍州府志』は全文漢文です。そのまま掲載すると大変読みにくいので、漢字かな混じり文で紹介します。
「男女の塔  男山の南、万称寺の前に在り。相伝ふ、男山の麓に、頼風といふ者あり。男山ならびに京師に両妻あり。一時、頼風、久しく京にありて帰らず。男山の妻おもへらく、我を棄つと。はなはだこれを恨み、つひに河水に投じて没す。幾ばく無くして、頼風家に帰りて、妻を見ず、心にこれを怪しみ、川辺を尋ぬ。(中略)土人これを憐れみ、夫妻の屍(しかばね)を東西両所に埋む。これを男塚・女塚と称す」
 『雍州府志』の記述でおもしろいのは次の三点です。
先ず、「男女の塔」(塚)の場所を「万称寺」の前と特定していることです。次に、「河水」に身を投げたのは京の女ではなく男山の妻の方になっていることです。著者である黒川道祐が謡曲「女郎花」を知りながら新解釈を施したのでしょうか。あるいは、道祐が生きていた頃、八幡では「河水」に身投げしたのは京から来た女ではなく、地元八幡の妻であると流布(るふ)されていたのでしょうか。三つ目に、「土人」(地元の人々)が夫婦の屍を東西両所に埋めたということです。「東西両所」は、先の「図1、万称寺附近」の道を挟んで上下に記した男塚・女塚を想定するのが妥当でしょう。ちなみに、「図1、万称寺附近」は右が北、上下が西東を指しています。
 八幡今田にある「頼風塚」がなかなか登場しません。江戸時代に「頼風塚」は存在しなかったのでしょうか。いえいえそんなことはありません。

○山州名跡志(さんしゅうめいせきし)(正徳元、1711年刊、白慧著)
「女郎花塚 或ハ女塚 志水ノ南五町許ニ在リ 此塚ヲ小野ノ頼風ガ妻ノ塚也
男塚 頼風ガ塚也
坊主塚 已上ノ塚同所ニ在リ東西ニ並フ也
 右塚ノ事諸書ニ載ス。平城(ヘイゼイ)天皇の御時。小野頼風トイフ者アリ。此里ニ別業(ベツゲフ)ヲ構テ。時々(ヨリヨリ)来リ栖(スム)。妻ハ京ニ在ルニ。此里ニシテ又異妻(コトツマ)ヲカタラヒテ住(スミ)ヌ。京ナル妻是ヲ恨テ。(中略)世人(ヨノヒト)是ヲアハレミテ。同所ニ塚ヲツキシ也。古今集ノ序ニ男山ノ昔ヲ主ヒテ。女郎花ノ一時ヲクネルトイヘルハ。彼恨タル花ノ風情ヲ云フト也 古今和歌集諸抄ノ意
 坊主塚トハ諺ニ云フ。其時一僧アリ。二人ノ入水(ジスイ)ヲ憐(アハレン)テ。共ニ入水シテ死ス。其骸(カバネ)ヲ葬ル塚也」
 以上の記述で注目したいのが、「古今和歌集諸抄ノ意」なる書物が紹介されていることです。先の号で取り上げた、鎌倉時代に成立した「古今和歌集序聞書書(ききがきしょ)」のことです。ということは、白慧なる京都の知識人は、頼風と女郎花の物語の出典がこの書にあると認識していたことになります。
坊主塚とは、先の「万称寺附近」の図にある「入道塚」のことでしょう。私が撮った写真の三宅碑の右脇に建つ石碑は「入道塚」とあり、その横にある、灌木で覆われた石碑がおそらく男塚なのでしょう。男塚と坊主塚(入道塚)は本来別々のところに建っていたものでしょうが、区画整理などされる際に一緒にされたものと考えられます。それにしても、死者の霊を弔うことを業とする「坊主」が共に入水するとは、諺(いい伝え)とはいえおかしな話です。

○山城名勝志(やましろめいしょうし)(正徳元、1711年刊、大島武好著)
「女塚 清水南十町許(バカリ)ニ在リ、土人其地ヲ女郎花ト曰(イフ)、墳ヲ女郎花墓ト呼ブ、小野頼風妻古墳ト云(イフ)、今一所放生川河上、土人涙川ト云(イフ)、此川南端八幡山下町筋ヨリ東ニ又女塚ト號(ゴウ)スアリ(略)」
 この文章は、少し分りにくいと思います。先ず、「清水南十町ばかり」ですが、10町は約1100mに達します。『山州名跡志』にありますように、女郎花塚は志水町からせいぜい5町ほどですから間尺にあいません。また、「今一所」がどこを指しているのかよくわかりませんが、放生川を文字通り放生会を行う安居橋周辺の川と仮定すると、「この川の南端、八幡山下町(さんげまち)筋より東に女塚と号す」は、八幡今田にある頼風塚を指すことになります。平凡社版『京都府の歴史』(1981年刊)もこの解釈をとり、これを頼風塚としています。
 いずれにせよ、頼風塚と称す塚がおぼろげながら姿を表してきたのです。

7、頼風塚の登場

 私の知る限り、地誌と呼ばれる範疇(はんちゅう)で、「頼風塚」を記す最も古い例は、天明7年(1787)に刊行された『拾遺都名所図会』です。尤も、それより古い例があるのかもしれません。読者諸氏でその知識がある方は是非教えて下さい。『拾遺都名所図会』は一世を風靡した感のある『都名所図会』(1780年刊)の続編として刊行されたもので、作者は同じく秋里蘺島、挿絵は竹原春為の手になります。『拾遺都名所図会』の「頼風塚」の記述は以下の通りです。
   「頼風塔 八幡金剛寺前町人家の裏にあり、由縁前編に見へたり」
 記述は前篇『都名所図会』に記したのでここでは省略する、とのことですが、『都名所図会』には、頼風塚は登場しません。出て来るのは「女郎花塚」だけで、男塚の記述もありません。著者である蘺島にとって、男塚はすなわち頼風塔(塚)であったようです。万称寺附近の男塚が消えてなくなるわけはなく、蘺島はそれを無視したのでしょうか。
 金剛寺とは、八幡市民図書館周辺に建っていた律宗寺院で、その前の「町人家」とは、まさしく現在の「じばん宗」ですが、同家のご主人に伺うと創業はそんなに古くないとのことです。
 では古地図ではどうでしょうか。地誌と古地図(絵図)との厳密な区別はよくわかりませんが、一枚物の八幡を描いた古地図は大量に残されています。八幡八郷が神領であったことによるものですが、観光用マップとしての需要もあったのでしょう。
八幡市民で、市民図書館に行ったことがある人なら必ず見ている「八幡山上山下惣絵図」(1731~51年頃に制作)もその一つです。一階ロビーの階段前にその大判が掲げられているので図書館に行くたびに見ていたものですが、この秋からしばらくの間耐震工事のため閉館しているのが残念です。八幡今田の辺りをよく見れば、金剛寺も頼風塚も確かめられます。
f0300125_2213242.jpg冒頭触れた『京都府立文化遺産叢書 第4集』に竹中さんがトレースしている通り、そこには万称寺の北側に男塚も女塚も描かれています。つまり、この絵図が描かれた1731~51年の頃には万称寺周辺に「男塚」、八幡今田・菖蒲池の金剛寺周辺に「頼風塚」があったということです。
文政年間(1818~1830年)以降明治初年(1867年)までに制作されたとする「石清水八幡宮神領古図」や「石清水八幡宮境内図」にも「頼風塚」はあります。ことに後者は、頼風塚の脇に「頼風 平城 御時人」と注釈が記される程の念の入れようです。
 そして、両図ともに、万称寺前周辺は神領の範囲外であったのか、詳しく書かれておらず、男女塚をみつけることができません。

8、長濱尚次の歴史認識を巡って

 最後に、八幡の地誌としては、これほど詳細で学術的な裏付けをもったものはないといわれる『男山考古録』(1848年刊)の記述を取り上げないわけにはいきません。石清水八幡宮社務所が昭和35年(1960)に発行した翻刻版全14巻のうち「頼風塚」、「女郎花塚」、「男塚」は第14巻に集中して記載されています。女郎花塚は省略して、頼風塚と男塚に関する記述を紹介してみましょう。
「頼風塚
 山本町道の南側也、民家の南裏にあり、八幡名所記には、小野家町鍛冶何某(なにがし)裏頼風塚在り、甚(はなはだ)誤レリ、
 此所は彼家宅旧跡也、墓地に非ず者云々、大道よりハ十五間許(ばかり)南に一小石塔婆(とうば)あり、文字なと見えず、 
 其傍一丈餘四面に芦生茂れり、里俗片葉の芦と称して、女郎花片思ひの事に寄せて奇とす、(中略)藻鹽草八巻云、平城天皇の御時小野頼風とか云人あり、八幡に住人(すむひと)なりける云々、猶此事女郎花の所に云を見るべし、此頼風が塚なりといへども、古史にさる人見えず、又小野家系譜にも無し、又女郎花と云る女に通へる事をいへるは、元古今和歌集の序文に、男山に女郎花の一時をくねる云々と書(かく)るを採(とり)ての作物語なり、そハ同序文に高砂住ノ江の松も相老の様に覚え云々とあるより、作り物せるに同じ、謡曲高砂又女郎花など同じ、察知すべし」(ルビはすべて土井、読みやすさから濁音にしたものもある)
 男塚
 四手原村道の南、志水大道よりは西に在て、今松大木一本あり、寛保三年注進記には、小野頼風墓ともいふと書(かき)たり、女郎花塚に對していう、こも誰人(たがひと)の塚にや、不詳」
 一読して、これまでの地誌類と既述のスタイルがまるで違うことがわかるでしょう。いえることは、その突き放したような書きぶりです。「甚だ誤レリ」、「・・・といへども、古史にさる人見えず」、「作物語なり」、「誰人の塚にや、不詳」。それらは、自信たっぷりな論断というべきです。
そして、二つ目には実証的であるということです。
「八幡名所記」や「藻塩草」「古今和歌集序文」「注進記」など出典を明らかにして論評しているのです。決して空理空論を展開しているのではありません。
 このような叙述のしかたは、一つには、著者である長濱尚次の個性によるものだといえます。石清水八幡宮の宮大工としての自覚と自負の念の高さは恐るべきものがあるといえそうです。それは『考古録』の巻末に紹介する参考文献の多さに見ることが出来ます。今日ではその所在すら明らかにできない文献が相当にあるとか。そういった古典の教養に裏打ちされた独自の論評のスタイルは高度に研ぎ澄まされた感性とあいまって尚次の揺るぎない思想を形成しているといえそうです。
同時に、この思想性は、時代の趨勢に影響されたとの指摘もなされます。江戸時代の後期から幕末期に勃興する国学からの強い影響にあったと見てとれるのです。ことに、極端なまでの廃仏思想は、これまでにないものです。ことに、鎌倉期にできた「古今和歌集序聞書書(ききがきしょ)」の世界とは真反対といってもよいでしょう。一方は、崇仏的で里俗にいわば迎合するような態度に対し、廃仏的で里俗をむしろ排斥するような実証主義の立場。
 私は、正直にいって尚次の学問的な態度にずい分影響されたと思います。学問的な方法を学んだといっても言い過ぎではありません。平安時代初期に成立した「古今和歌集」の序文、鎌倉期に出た古今集の序文の註釈書、もちろん室町時代の謡曲「女郎花」、そして連歌用語辞典である「藻鹽草」の存在、江戸時代に刊行された地誌や古地図の数々。それらに目を通すことが「女郎花」の物語とそれに関連する石塔を検討する上でどれだけ役立ったことでしょう。そういう意味で、長濱尚次は私にとって学問的恩師といえるものです。
 ただし、だからといって私は尚次の学問的な立場に全く賛同するものではありません。尚次の実証的な態度は大いに学びたい。だが、彼の思考には、ある重要な視点が欠けていることを指摘しなければなりません。それは、歴史と文学をつなぐ視点というものです。
 「作物語」だからといってそれを否定し、評価しないということではなく、誰が、何故に、その物語を紡ぎ、今日まで伝えてきたのか。或いはそれを受容してきたのか。そのことに、時代のどんな精神が反映しているのか。それらを考察することもすぐれて学問的な態度だと思うのです。

 今回、「物語はどのように生まれたのか―女郎花と頼風」を連載することで、以前にもまして「女郎花と頼風」の物語に愛着を持てるようになりました。江戸時代の地誌にみる、「人々」「土人」「世人」たちが男塚・女塚を大切にし、それが今日につながっているということを発見した喜び、これは何にもかえがたい、八幡の誇るべき歴史・文化であると感じ取ったということです。

 最後に、地誌や古地図に男塚、女塚、そして八幡今田に在る頼風塚がどのように記載されているのかを年次を追って表にしました。ご覧ください。(次号に続く)
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by y-rekitan | 2014-10-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第55号より-04 神原の講(秋)

代々つづく神原の「講」 =秋編=

野間口 秀國 (会員)


 10月10日(金)午後1時前、この日行われた講にお誘いいただきました歴探会員の小嶋さん宅を訪れました。隣接する駐車場で暫く待っている間に1台の軽自動車が入ってきました。始めから主題からそれますが、講が始まる雰囲気も感じていただけるかとも思い書かせていただきます。

 車が駐車場に止まると、同世代と思われる一人のおじさん(私もそうですが)が降りてこられ「来ているよ~~~」と、決して大きくは無く、甲高くも無い、しかし良く通る声で近所に到着を知らせ回られる。戻られたおじさんは「もう40年もやっているよ。市内(京都の伏見区)から久御山町や淀を廻って今日は八幡のお客様だ」と問わず語りで教えてくださった。荷台には10種類を超えると思われる魚が積まれており、ほどなく近所の奥様が一人二人と来られ、いつもこうなんだろうな、と思えるような普段着の会話を交わしながら何かしら買われていた。懐かしさを覚えるひと時でした。

 閑話休題。買い物を終えられた一人の奥様も一緒に講の行われる近所のお宅へ伺いました。準備を終えられた奥様が参加者を待っておられ、総勢6名が揃うと始まりました。なお、この講については会報の第36号(2013.03.25)で会員の村山さんが詳しく書かれておりますのでその号をご参考いただき、重複する内容はできるだけ避けたいと思います。

 36号では「十三仏画像」と「涅槃画像」について既に詳しく書かれてあり、これらの画像はこの日も見せていただきました。両画像の掛け軸に加えて、この日は古くから伝わる「鐘」を見せていただきました。鐘は縦横が約40cm、深さ約20cmほどの木箱に収められており、他に「鐘撞き小槌」と「数珠繰り」も収められていました。箱は一見しただけで時の経過を感じられるものです。

 鐘の材質は特定できませんでしたが、鋳造製で鐘の直径は外回り(ツバ部分)が約25cm、内回り(音を出す部分)が約20cm、高さが約4cmくらいでした。手にするとその重さが両手にしっかりと感じられました。小槌が当たって色の変わった中央部分からは、鉄以外の金属(銅や錫か?)も含まれていると思われましたが、鐘は黒光りして錆も全くありませんでした。このことからも今日まで講を守り引き継いでこられた皆さんが、いかに画像や鐘を大切に扱ってこられたかがうかがえる事実と思います。許しをいただき木槌を使って鳴らしてみましたが、鐘独特の小気味良い、しっかりとした濁りの無い音色でした。この音色にしばし鐘が作られた時代のこと思い、その頃と変わらぬ音色なんだろうな、ともう一度鳴らしてみました。f0300125_21364653.jpg

 鐘を収めた木箱の外側には「嘉永四(*1851)年戌歳二月 念佛講中什物」と墨で書かれてあり、箱の中に残る布には「城州綴喜郡八幡茶畑町住 寄附人山本嘉兵衛近頼 講中九人」と、同じく墨で書かれていました。ここに記された「茶畑町」の地名は前述の36号でも触れられていますが、現在の神原の地区にあたるとのことでした。『京都府の地名』平凡社刊(P181)の「八幡市馬場町」の項に茶畑町の名前が見えます。ここに書かれた説明では、「南北に通る大道(オオミチ)沿いの・・・(中略)・・・ 町の中ほどから善法寺家門前までの横町(ヨコチョウ)を茶畑町とも称していた。」とあります。また、同書(P167)には「八幡惣町」の項で「石清水八幡宮の門前町として形成された町場。慶長五(*1600)年の指出帳(注1)によると馬場町・・・(中略)・・・他25町2村が・・・(略)」と書かれています。このような記載より、茶畑町の名前は公的な記録などには表れないが、地元の人たちにそのように呼ばれていた町の名前なのでしょう。

 また、上記の通り「講中九人」とありますことから、当時の構成員数は九人であったと思われます。「今では五人になってしもうて・・」と話される小嶋さんの語り口に時代の移り変わりをいやでも感じずにはおられませんでした。五名の皆さん方が「涅槃画像」と「十三仏画像」を交互に1年半毎に担当して春と秋の講を引き継いでおられるとのことでした。永年この地に暮らしてこられた方々とともに秋の穏やかな昼下がりを、昔懐かしい栗饅頭やお茶とともに暖かく過ごせたことはとても貴重な時間でした。

 最後に、暖かく迎えていただき、いろいろと教えていただきましたご出席の皆様に紙上ではございますが厚くお礼申し上げます。いつまでもお健やかに。

 (*) 西暦年は著者記入
 (注1)三省堂 大辞林 weblio辞典より   中世後期,上級権力の
      要請で提出された面積・作人・年貢高などの土地関係書類。
by y-rekitan | 2014-10-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第55号より-05 御園神社①

シリーズ「御園神社考~その1」・・・①
渡来人の里・那羅郷(ならごう)

 大田 友紀子 (会員) 


はじめに

 日本の歴史における「日本人は何処から来たのか」という問いかけは、いつも私の心の中にあります。
京都大学名誉教授の上田正昭氏は、日本列島への集団渡来のうねりを5つの画期で話されています。無論、それは中国大陸の動乱と係わり、敗れた氏族は命がけで海を渡り、新天地を求めて、日本列島に上陸しました。その場所は日本海沿岸の多くの地域に渡っており、高句麗の故地からの人々が新潟県や福井県の海岸沿いに上陸して、「高志国(こしのくに)」を建て、後の沼河比売(あなかわひめ)の伝説などを生み出し、記紀神話にて語られています。
 朝鮮半島での動乱により祖国を出て、対馬・壱岐の島づたいに九州へと辿りついた人々の中には、交易などで親しい関係にあった勢力を頼っての亡命もあったでしょう。その頃にそもそも日本という国は存在していません。あったとしても、それは、同族が造り上げた共同体を主体としたゆるやかな国で、「早い時期の渡来人(弥生人)の子孫のものであり、縄文人の子孫ではないと推定される。」(『犬から探る古代日本人の謎』田名部雄一著)と思われ、奈良時代の初期、九州の豊前(ぶぜん)国(現福岡県・大分県の一部)の戸籍台帳の大宝2年(702)の項では、93パーセントを占める波多氏及びその係累が記載され、八幡の漢字の訓読みを「やはた」とし、「や」は「多くの」、「はた」は「波多」氏で、八幡神は多くの波多氏の氏神であった、とされています。
 波多氏は「後になり、自分のルーツを中国へもって行き、秦の始皇帝のなにやらの子孫だと称するようになり「秦」の字が使われるようになった。」(『秦氏についての諸問題』大和岩雄著) と書かれています。
 大宝元年(701)、粟田朝臣真人(あわたのあそんまひと)が遣唐使として長安の都に行き、「日本」からの使者である、と告げた時に「日本」という国が認知されたのです。長きに渡って「多民族のゆりかご」であった日本列島に、律令国家が誕生したのは、奈良朝初期ですから。
 日本の伝統的な集落は、見上げる向こうに神が住む山があり、その近くを河が流れ、その恵みを受けて水田の開墾に適した土地に、広い道を通じての人の行き来があり、その中心地には春と秋に神を迎えて神祭をする社(やしろ)が鎮座する、そのすべてが揃うと「郷(さと)」と呼ばれます。
 中心となる社での祭祀は、その集落の共同体のつながりを強固にするのみでなく、豊な実りをもたらし、集団生活の営みを約束します。むやみに争うことをしない、お互いに「分」をわきまえて暮す知恵を持ちつつ、日本列島の温暖な気候と程よい湿地が豊かな民俗性を生み出し高めたことなどを、古代の那羅郷の成立に踏まえて、御園神社の歴史を見て行こうと思います。

那羅郷の成立と御園(みその)神社

 御園神社が鎮座するのは、八幡市東部の上奈良地区の集落東方で木津川堤防の南です。f0300125_22154864.jpg参道の前を横切る道はかつての「奈良街道」で、この集落は古くは「那羅郷」と呼ばれていました。『八幡市誌』では「久世(くぜ)郡那羅郷」に比定されています。那羅郷の名は、『日本書紀』欽明天皇26年夏5月の条に「高麗人(略)山背国に置り。今の畝原(うはら)・奈羅・山村の高麗人の祖なり」の「奈羅」とあるのが初見です。古代の山城国の成立にとっての渡来人の功績は偉大で、f0300125_2220583.jpg木津川沿いに住み着いた高麗人の集落は、平安時代の『三代実録』元慶6年(882)12月21日条には、久世郡内の栗前野・美豆野と並んで奈良野が従来からの狩猟禁止を重ねて禁じ、農業を妨げることのないようにとの勅が出されたことが記されています。
 『和名抄』には朝廷御用の菜園として、瓜(うり)・茄子(なす)・大根を栽培して献上していたとあります。今は、野菜の献上はなくなりましたが、この伝統の遺風は、御園神社の秋の例祭を「御園の青物祭(あおものさい)」ともいう別称として残っています。それは現在も地域の人々が「ずいき神輿」を奉納していることからも察しられます。この地が野菜の栽培に適した土壌であったので、古来より当時の朝廷と係わりを持ちますが、そこが木津川水上交通の要衝の地であったこともあり、日々とどけられる献上野菜は平城宮の河港である泉津(現木津川市木津)からは、馬の背に載せ替えられ、奈良坂を越え運ばれて行きました。
 那羅郷の成立に深く関わった木津川は、またの名を「泉川(いずみがわ)」とも言い、崇神天皇の時代に起った「建波迹安王(たけはにやすおう)の反逆」時の記述にその河名の由来が語られています。
 建波迹安王は、孝元天皇の皇子で、母は河内青玉繫(かわちのあおたまかけ)の娘・埴安媛です。崇神天皇の異母兄になります。その妻は吾田姫(あたひめ)といい、その名から九州の隼人との関係も見え隠れしています。その叛乱は、南山城地域一帯に及びました。そして、その決戦地が和訶羅河(わからがわ=木津川)で川を挟んで「挑みあった」とあり、その結果「号(なづ)けて伊杼美(いどみ)と謂(い)ふ」と記されて終ります。その頃の木津川の呼称が「和訶羅」であったことが判り、『日本書紀』では「輪韓」の字が用いられていて、その字より朝鮮半島との関わりを感じさせられます。「大きく湾曲した河」の意味です。
 南山城の地に居住していた古代氏族の動向により、あっけなく叛乱は収束したようです。その勝利で、大和政権は南山城の地を押さえることに成功したと思われます。その時、那羅郷の人々はどのように対処したのでしょうか。大勢を見て一時的にせよ、朝廷側に付いたのかもしれませんが、その少し先に、有智(うち)郷(現内里の集落)があり、隼人族の祖先神といわれている彦火々出見命(ひこほほでのみこと)を祀る内神社が鎮座しているのは、歴史的にみると、とても面白いと思います。
 日本的な集落の姿を那羅郷に当てはめると、男山丘陵・木津川・水田地帯・奈良街道・御園神社となりますが、末社として、「木(=貴)船」社が祀られていることがとても重要だと思えます。
 平成19年に京都府指定文化財に御園神社の本殿が指定されて、同23年に本殿の彩色復元が行われた時に、貴船社も同時に彩色をほどこされているのです。末社にもいろいろあって、「地主神はその土地をもともと領有してきた神である。ところが、その土地に中央の大神が祀られるようになると、地主神はその座を大神に譲り、末社として仕えるようになった場合もある。」(「日本の神道文化研究会主宰 三橋健氏」)といわれています。那羅郷が成立してしばらくして祀られた社の神は、木船社であったのかも知れません。
 高麗からの渡来人の里であった頃は、無論、その人たちが奉祭する神が祀られていたことでしょう。そして、その地に移り住んできた賀茂氏の一族が支配するようになり、京都北部に栄えた賀茂氏の氏神である   賀茂社の祭神の母神・玉依姫(たまよりひめ)である木船の神が祀られるようになったのかも。ちなみに、玉依姫とは、玉は霊(たま)、「依」は依り付く、神霊が依り付く巫女王(みこおう)の意味を持つ名であるとされています。
 その神の祭祀を行う賀茂氏も謎の氏族といわれ、出自がはっきりしません。『新撰姓氏録』によれば、賀茂川上流に移る直前まで、山城の国の岡田の賀茂(木津川市加茂町)に居住していたといい、そこには岡田鴨神社が鎮座しています。さらに、それ以前は大和の葛城地方に本貫地を持っていたとされ、そこで葛城襲津彦が新羅から連れてきた秦氏と接点を持ったのでは、といわれています。
 また、秦氏は婚姻関係で藤原氏とも繋がっていて、桓武天皇の2度に渉る遷都を影で支えたのは秦氏であるとされ、長岡京の造都を推進した藤原種継(たねつぐ)の母は秦氏の娘です。種継は藤原不比等(ふびと)の三男宇合(うまかい)の孫にあたり、桓武擁立に尽くした藤原百川(ももかわ)の甥です。式家に恩顧を感じた桓武天皇の随一の寵臣でしたが、暗殺されます。その死によって長岡京は廃され、平安京へと都が遷って行くのです。長岡京の守護を兼ねて、御園神社に春日三神が祀られますが、桓武天皇の勅命を受けた藤原継縄(つぐなわ)には、祭神の勧請についてはその胸に期すところがあったように思われます。
  (京都産業大学日本文化研究所上席特別客員研究員)
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by y-rekitan | 2014-10-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第55号より-06 八幡宮Q&A⑥

シリーズ「石清水八幡宮の歴史Q&A」・・・⑥
第6回

Q: 石清水八幡宮の境内で栽培されたヤマアイが、染料として皇室に献上されていると聞いています。事実ですか。他に、どんな物が献上されているのですか。

A: ヤマアイは、正しくは「山靛(やまあい)」と書きます。一般に知られている藍染(あいぞめ)の藍(あい)は、濃い青=藍色の染料として用いられますが、山靛の靛(あい)は、「青摺(あおずり)の衣」という言葉からもうかがわれるように、葉の汁をそのまま布に摺りつけ、淡い緑色に着色させるもので、染色の方法としては最も古く素朴な形を留めています。因みに、藍と山靛はまったく系統の異なる草で、藍染の藍(タデアイ)はタデ科の一年草、山靛はトウダイグサ科の多年草です。f0300125_12415818.jpg
 天皇御即位の大祀である大嘗祭(だいじょうさい)の奉仕者は、袍の上に小忌衣(おみごろも)という白い上着を着用しますが、この衣に模様を摺りつける着色料として、男山の山靛が宮中に献上されるのです。大正、昭和の御代始めに際しても、今上陛下の御時にも当宮から山靛が献上されています。
 また、毎年の献上品としては、男山の真竹(まだけ)があります。大嘗祭の際もそうですが、毎年11月23日に行われる新嘗祭(にいなめさい)に間に合うよう、9月中頃までに数本を伐採し、長さ太さなどを吟味し良質のものを厳選して梱包し、宮内庁にお送りしています。
 宮内庁では掌典職(しょうてんしょく)という部署が男山の竹を受け取り、これを割って細くし、柏の葉で作る丸い小皿(枚手:ひらで)や方形の小箱(窪手:くぼて)の骨組として用いたり、さらに薄く削って、骨組に纏わせた柏葉を編み込む紐として用いたりします。皇居内にある賢所(けんしょ)という聖域でその細工をするのですが、私も25年ほど前、石清水八幡宮から派遣され、そこでお手伝いをさせていただきました。 
                   (回答者:石清水八幡宮禰宜、西中道氏)


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by y-rekitan | 2014-10-28 07:35 | Comments(0)

◆会報第55号より-end

 
この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2014-10-28 01:00 | Comments(0)