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◆会報第56号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“わが心の風景”㉙◆
◆《講演会》中世大山崎の商業活動◆
◆シリーズ:“御園神社考~その2”②◆
◆シリーズ:“物語はどのように生まれたか”⑥完◆
◆シリーズ:“自転車で巡る名所案内”③◆
◆流れ橋存続の意見表明◆
◆シリーズ:“石清水八幡宮の歴史Q&A”⑦◆
◆磯田道史氏の講演に学ぶ◆
◆『歴史たんけん八幡』の発行◆


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by y-rekitan | 2014-11-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第56号より-01 女郎花塚

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わが心の風景・・・(29)
悲恋を伝える女郎花塚
所在地 八幡女郎花

f0300125_11571972.jpg 松花堂庭園の西隅にある小さな五輪石塔は女郎花塚と呼ばれていて、叶わぬ恋の悲しみが今に伝えられています。
 平安時代の初期、小野頼風という人がいて、京の女と深い契りを結んでいましたが、やがて京での勤めを終えて頼風は八幡に帰ってしまいました。女は音信不通の頼風を尋ねて八幡へとやってくると、頼風が他の女と暮らしていることを知るのです。女は悲嘆のあまり、着ていた山吹重ねの衣を脱ぎ捨て、泪(なみだ)川に身を投げて死んでしまいました。やがて朽ちた衣から女郎花の花が咲き、その花に頼風が近づくと、花は恨んだ風情で頼風を嫌うようになびくのです。「こんなにも私を恨んでいるのか」と頼風は自責の念にかられ、同じように川に身を投げて死んでしまいます。
 人々はこれを哀れんで二人の塚を築き、物語は謡曲に仕立てられて、さらに多くの人々の涙を誘うこととなりました。その後、頼風の塚には「片葉の葦」が生え、女郎花塚に向かって「恋しい恋しい」となびいているそうです。    (絵と文: 小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2014-11-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第56号より-02 中世大山崎

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《講 演 会》
中世大山崎の商業活動について

2014年11月  松花堂美術館講習室にて

福島克彦 (大山崎町歴史資料館館長)

 11月12日(木)、松花堂美術館を会場に、11月例会「標題の講演と交流の集い」が開かれました。歴史教育論をふくむ軽妙洒脱なお話に引き込まれる2時間半でした。そして、史料をもとに具体的にお話され、事実は小説より奇なりを実感する講演会でした。当日配布されたレジュメをもとに、その概要を紹介しますが、今回はできるだけ臨場感を持たせた紹介を試みたいと思います。参加者は33名。

はじめに

 大山崎油売りをめぐって二つの誤解があります。
 その一つは、大山崎には中世より「油座」があったというものです。ところが、鎌倉・室町時代には「油座」という表記がありません。油売りは大山崎神人という身分によって、その特権が守られていたのです。ちなみに、「油座」は豊臣秀吉が初めてそれを使用したことが文書で残っています。
 では「神人」とは何か。大山崎の神人は、離宮八幡宮の神人であるとともに、石清水八幡宮の神人でもありました。油の生産・販売を担っていた人たちですが、たんなる商人ではありません。石清水八幡宮なり離宮八幡宮の神に仕えるという理由で特権を要求する。そして特権を守るために神社に立てこもって(閉籠)、流血も辞さない。神社の側にとってそのような穢れは断じて許されない。それを見越して自らの要求を通そうとするのですから、したたかな存在でもあります。
 大山崎の神人は、名字を名乗り、秦や源、菅原の姓(カバネ)を持つなど身分は高いのが一般的です。そして、離宮八幡の神人であると同時に酒解神社の神職を兼ね、荘園の現地経営にも携わる。また、守護大名の被官でもあるといったように身分を使い分け、自らの暮らしを高めていきました。f0300125_1332586.jpg
 もう一つの誤解は、斎藤道三が大山崎の油売りであったというものです。司馬遼太郎の『国盗り物語』の影響で広がったようですが、岐阜県市編さんにかかる『春日文書』によれば、斎藤道三は美濃出身の武士で、父親が京都出身であったということです。あるいは、道三の父親が商人として油販売に関わっていたのかもしれません。
 以下、油売りに関する史料から、鎌倉・室町時代の大山崎の商業について考えてみたいと思います。

1 『離宮八幡宮文書』という史料

 貞観元年(859)に行教が国家鎮護のため、八幡神を山崎の地に勧請するということで成立したのが離宮八幡宮です。その後、男山にも遷座され石清水八幡宮になりました。それらの記事は『御遷座記録』などに記載されています。
 さて、『離宮八幡宮文書』という史料があります。現在、離宮八幡宮に所蔵されている中世、近世、近代の文書類で、大半が重要文化財です。貞応元年(1222)12月「美濃国司下文」が最古のもので、この頃から文書を収蔵したようです。その数320点強。中世の油販売や祭礼、都市行政、禁制などが収録されており、特に商業史料としては第一級の史料群といえます。

2 油販売の特権を示す史料

 『離宮八幡宮文書』の中で、まず油販売の特権を示す史料を紹介してみましょう。

(1)関所などの通行料を免除する文書
 中世は、交通網、ことに水路におびただしい数の関が設けられ、舟運にたずさわる者は関を通過するたびに関料や津料を支払わされていました。その場で荷を積み上げたり、積み変えたりする場所賃という意味合いもあり、支払わざるを得ない仕組みがあったのです。しかし、舟運関係者としてはできるだけ払わなくて通過したいものです。そこで、権力者の力をもって、通行料を免除する方策を考えたのです。具体的に史料を見てみましょう。

【史料1】足利義詮袖判御教書
   『離宮八幡宮文書』文和元年(1352)
        (足利義詮)
        (花押)

 八幡宮大山崎神人等申す、内殿御燈油荏胡麻(えごま)等諸関津料のこと、
右摂津国兵庫嶋、渡邊、禁野、鵜殿、楠葉、大津、坂本等関務輩、先例に背き、違乱をなす云々、はなはだしかるべからず、早く代々勅裁ならびに正和三年武家御教書に任せ、固く停止せしめるべくの状、下知件の如し、
  文和元年十一月十五日
 「袖判」とは、文書の袖(右側空白部)に花押(サイン)を書いたものです。足利義詮は尊氏の嫡男で室町幕府第2代の将軍です。「八幡宮大山崎神人」は離宮八幡宮の神人であるとともに、石清水八幡宮の神人でもあります。「内殿」は石清水八幡宮を指します。
意訳すれば、以下のようになります。
「石清水八幡宮に献上する御燈油をお運び申し上げるのに、兵庫嶋(神戸市)や渡邊(大阪市)、禁野(枚方市)、鵜殿(高槻市)などの関所の連中が先例に背いて関料・津料を払えといっている。これはけしからんことである。代々の勅裁(天皇からの命)、あるいは正和三年の武家御教書(鎌倉将軍の命)の通り、そういうことは固く停止(ちょうじ)すべきものである」
 ここでおもしろいのは、室町幕府自らの命令であることをストレートにいわず、先例=勅裁(天皇の命令)や鎌倉幕府の命令を持ちだし、そのことで権威づけているということです。室町幕府が出来て間もないころの事情を反映しているのかもしれません。

(2)他の商売敵(かたき)となる商業活動を抑圧するようしむける文書

【史料2】赤松円心書状『離宮八幡宮文書』 
八幡宮大山崎神人等申す、播磨国荏胡麻商買のこと、去んぬる年その沙汰あり、書下をなすのところ、
これを叙用せず、剰(あまつさ)え買い置くところの荏胡麻等、中津川方百姓権守左近二郎・左近三郎以下のため、抑留せられ云々、はなはだもってその謂れなし、所詮抑え置くところの商買物においては、これを返付し、彼百姓等に至っては、不日(ふじつ)召しまいらせらるべきなり、さらに緩怠(かんたい)あるべからず候か、恐々謹言
            (赤松)
 正月卅日       円心(花押)
 (赤松則祐)
 赤松帥律師御房
 意訳すれば以下のようになります。
「八幡宮大山崎の神人が次のようにいっている。播磨国で荏胡麻の商売については、以前文書でもって命じたにもかかわらずそれに従わず、あろうことか、大山崎の神人たちが買い置いたものを中津川の百姓である左近二郎・左近三郎が抑留(不法に自分の手元に置く)という。はなはだもって道理に合わない。これは大山崎の神人たちの商売用の品々なのだからこれを返却させ、これらの百姓達はすぐに召し捕っていただきたい。なおざりにするべきではない。」
 ここでおもしろいのは、差出人が赤松円心で、受け取る側が円心の息子の則祐(のりすけ)であるということです。
 どういうことかといえば、赤松円心は室町幕府の重臣で京都にいることが多かった。だから大山崎の油神人が京都に出向いて幕府の重役である円心に泣きついたわけです。あなたの御子息が統治している播磨の百姓たちが、以前より、荏胡麻を買い取れるのは大山崎の神人だけであるという決まりがあるのにもかかわらずそれを無視して勝手に商いをしている。それだけでなく、私たちの買い取った荏胡麻を横取りしているのです。なんとかして下さい。」 
 訴えられた円心は、(賄賂をもらっていることもあって)大山崎神人のいうことを聞かないといけない。そこで、息子に大山崎の商売敵(しょうばいがたき)を取り締まれと命じたのです。
 もう一つおもしろいのは、これは地方の方々に対して禁止命令がでることの裏返しなのですが、播磨の中津川では、こうした取締りを破って荏胡麻を自由に販売しようとしたことです。禁止されたことをあえて犯す者がいることからたびたび相論が起きる。これは今も昔も同じといってよいでしょう。
 大山崎の神人の活動範囲および荏胡麻集積港があるのは、肥後・伊予・阿波・備前・播磨・摂津・河内・和泉・山城・近江・尾張・美濃と西日本全域に広がっています。ということは、それらの地域で大山崎の油神人と在郷商人とで荏胡麻の販売をめぐっての争いが繰り広げられていたということです。

(3) 大山崎の日使頭祭(ひのとうさい)の役をやってもらうかわりに油販売の特権を譲渡する。

【史料3】室町幕府御教書『離宮八幡宮文書』 応永21年(1414)  
 石清水八幡宮大山崎神人等申す、当宮四月三日神事日使頭役(ひのとうやく)のこと、油商売につき、成吉入道子息を差上せしめるのところ、難渋うんぬん、何様のことか、神事違乱におよぶの上は、厳密にその沙汰いたすべきの旨、あい触れらるべし、もしまた子細あらば、注申せられるべくの由、仰せくださるるところなり、よって執達件のごとし、
                  (細川満元)
  応永廿一年八月九日       沙弥(花押)
  (義範)
  一色兵部少輔殿
 要約すると、 
離宮八幡宮の四月三日の神事である日使頭(ひのとう)祭(さい)を経済的に負担する役を勤める頭役は、油商売を許す引き換えに、成吉入道の子息に指名したのに、しぶっていると聞く。何様のつもりなのか。しっかり勤めるよう命じなさい(以下略)というものです。
「成吉入道」というのは、丹後の武家です。
 ここでいえることは、離宮八幡の大事なお祭りを大山崎から遠く離れた丹後の者も担っているということと、離宮八幡の祭事を引受ける(経済的なスポンサーになる)かわりに、油販売の特権を与えるというギブアンドテイクの関係が見えてくるということです。
 以上三点の史料を吟味することで、次のことがいえます。
大山崎の神人は、朝廷や幕府と強い関わりを持ちながら、彼らの権威にすがって自己主張をしている。
こうした争論が続いている、ということは地方の反発も大きかったということを示している。
大山崎だけでなく、荏胡麻の販売をめぐって地方の動向もわかってくる。地域社会の商業の発達が見えてくる。

3 油をつくる、運ぶ、売る

 ここで、視点をかえて絵画資料から油売りの実態を見てみましょう。 図1から図4は、油神人のもとで働く油売りの姿を当時描かれた絵巻物などから抽出したものです。
どんな共通点があるでしょうか。以下、子ども達との授業を再現するように会場の参加者とやりとりをしました。
「天秤をかついでいるね。おけには何がはいっているの?」
「油だろうな」
「ひしゃくをいくつも持っているのは何故?」
「油を量るのに使うんじゃないかなあ」
「竿や腰に何かぶらさげている。何だろう」
「・・・・・」
「どうも火打石を持っているらしい。油かどうかを疑う客もいたでしょうから、その場で火をつけて証明したのでしょうね。それに現金を扱うのだから財布も持っていたでしょう。」(※)

4 油をつくる人々

【史料4】田端兵衛他請文『松田文書』寛正5年(1464)
丹波国小倉、栗作木本請文のこと、
      中村保人
  壱所    栗作道圓
      中村保人
  壱所    栗作岡源次郎兵衛
      舟橋保人
  壱所    栗作田端兵衛
      中村保人  左兵衛
  壱所    少蔵  道シュン
右此外、新木を立て申すことあるべからず候、次ニ京都へ油ヲ入て売り申すことあるべからず候、もし此旨に背き候わば、日本国中神罰各(おのおの)に罷りこうむるべき者也、殊ニ神方(かみかた)ヲ放し申されるべく候、仍請状件(よってうけじょうくだん)のごとし、
               田畑(略押)
 寛正伍年八月十九日       兵衛 ◯
               栗作
                 道圓 ◯
 上記の史料は、最近みつかったものです。「栗作」とは地名で、もともと丹波のこの地は朝廷に油や栗を奉納する土地であったのです。「木本」とは、油を作る人々や組織のこと。要約すると、
「丹波の小倉、栗作の油を作る者たち(道圓・岡源次郎兵衛・田畑兵衛・少蔵道シュン)の外の者たちが、新たに油をつくることはしない。また、京都に行って油を売ることもしない。そんなことをすれば日本国中の神罰をこうむることになる。以上のことを誓約します。」
ということです。
 ここで、おもしろいのは、「中村(なかむら)保人(ほにん)」「船橋保人」などと書かれていることです。中村保や舟橋保は、実は離宮八幡宮近くの大山崎の地名を指しています。つまり、道圓以下岡源次郎兵衛や田畑兵衛たちは、大山崎の油神人の傘下に収まり、その支配を受けながら油を作っていることを示している史料なのです。
 これを隷属とみなすか否かは意見が別れるところでしょう。都につながる大山崎の油神人と関係を持つことで、丹波の一地方で油生産に関わって暮らしを立てる人々がいたということです。これらの人々がやがて地方の商業を担う中心になることは大いに考えられることです。

 最後に、福島さんは、中世商業の教材化など、関西は歴史教育と地域史の連携が十分でなかったことを反省し、生涯学習や学校教育との連携を進めたいと述べ、今回この講演を引き受けることで、畿内と地方との関わり調べるよい契機となったこと、「事実は小説よりも奇なり」の格言通り、みなさんも史料から具体的な地域の歴史の姿を学びましょうと呼びかけてお話を結ました。  
                              (文責=土井三郎)               
(※)油売りの絵の時には出なかったのですが、講演の後、参加者の間で箒(ほうき)のようなものは何かということが話題になりました。福島さんの軽妙な発問に誘導されたというべきでしょう。ちなみに、『日本国語大辞典』で「油売り」をひくと上記のような絵が紹介され、「油のついた手をふく打ちわらを持っている」と解説されていました。参考までに(編集担当より)

一口感想より
大山崎の商業活動が油神人を中心にして発展していく様子を拝聴いたしました。耳新しい内容で非常に興味をもって聞かせていただきました。と同時に、講師の福島館長が、対象の方々にどう知っていただくか、理解してもらえるかを常に意識して活動されている姿に感動しました。(小林喜美代)
最近の教育現場で、何を教えるかよりどう教えるかばかりが強調されている現状を憂う趣旨の発言は、長年、教職に身を置いていた者として痛感されるものです。教師が歴史を好きにならないで、子どもが好きになる筈がない。わかるから、謎が解けるから面白い。そんな歴史教育を学校現場で追及してほしいし、今現場を離れ生涯学習の場にいて、皆とそれをわかちあいたいと思っている今日この頃です。(土井三郎)

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by y-rekitan | 2014-11-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第56号より-03 御園神社②

シリーズ「御園神社考~その2」・・・②

神武東征伝承と枚岡社の「平国祭(くにむけのまつり)」

 大田 友紀子 (会員) 


枚岡神社の「平国祭」と御園神社の「王の舞」 

 御園神社の秋祭りの神事について調べていた時、天児屋根命(あめのこやねのみこと)が枚岡神社の主祭神であったことを知り、枚岡神社について調べることにしました。その創建は『古事記』で名高い神武東征伝説に関わっています。枚岡神社の創祀の時期は定かではありませんが、社伝によると、大和入りを目指した神武天皇の一団が河内湖沿いの日下(くさか)に上陸しようとした時、その地の豪族、長脛彦(ながすねびこ)に阻(はば)まれました。その窮地を打開するために神武天皇は、生駒山系の神津嶽(かみつだけ)山頂に、自ら天児屋根命と姫御神(ひめみかみ)に国土平定を祈願して祀ったとあり、その時を始まりと伝えています。また、その社格は河内国一の宮であるとのことです(『古社名刹巡拝の旅』20号)。

 枚岡神社の神事には、前記のことがらを起源とする「平国祭」があります。古くから「くにむけのまつり」ともいわれ、現在は矛を用いていますが、矛も武器という点では、「剣」と同じで、昔は剣であったのかもしれません。
 私は、この「平国祭」が中世芸能で演じられる「王の舞」のルーツではないかと思っています。平国祭では、『記紀』に書かれている神々の戦いにおいて、勝利者の神が新しい土地で支配者として行う「国占(し)め」の行為である矛(または剣)を大地に突き刺す所作が演じられています。
f0300125_13595575.jpg 大阪府東大阪市出雲井町に鎮座する枚岡神社で、5月21日に行われている「平国祭」の神事では、天児屋根命を祀る第一殿と斎主命を祀る第三殿の間に置かれた矛を、祝詞(のりと)の奏上ののち、宮司が手に執(と)り禰宜(ねぎ)に授けます。矛を捧げ持った禰宜は三歩前に進み出て、地に向けて矛を突き、そのまま元の位置に下がります。この所作を、斜め左前、次いで斜め右前と三度行ってから宮司に矛を返します。そして、宮司が矛を元の場所に戻した後、小振りの矛を手にした巫女の舞が奉納されて神事は終わります。
 矛を大地に突き刺す所作は、御園では、樫の長い棒を大地に振り下ろす所作に替わっているようです。それから、御園神社の「王の舞」では、天狗面を付けますが、面を付けて舞うことの起源については諸説あって、舞楽から来ているともいわれています。御園では、大人に介添えされた稚児が社殿を二回廻って樫の棒を社殿前の地に突く所作が行われていましたが、このように、枚岡社の祭礼と御薗のそれは少し変化しているように見受けられました。しかし、無形民俗文化財として指定されているように、とても貴重な神事です。
伝わらないことも多い中にあっても、毎年一心に取り組まれている地域の人々の努力には頭が下がります。

御薗神社の他の二神について

 御園神社の祭神は、社伝によると、春日大社から勧請されたとあります。その春日大社が創建されたのは、奈良時代です。春日社の社伝では、神護景雲2年(768)、称徳(しょうとく)天皇の勅命を受けた藤原永手(ながて)が、社殿を造営して、鹿島神宮の武甕槌命(たけみかづちのみこと)、香取神宮の経津主命(ふつぬしのみこと)、枚岡社の天児屋根命と比売神を四柱あわせて祀ったのが始まりといわれています。枚岡社の天児屋根命については、神武天皇が東征の途中に祀ったことを書きましたが、鹿島神宮の武甕槌命も、『古事記』『日本書紀』(以後『記』『紀』と略記)の神話に共に姿を表しています。
 武甕槌命は、別名を建布都神(たけふつのかみ)、豊布都神(とよふつのかみ)といい、その誕生は、イザナミ尊が火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を産んだ時に命を落としたことを嘆き悲しんだイザナギ尊が身に帯びていた十券剣(とつかのつるぎ)を抜いて、火之迦具土神の頸(くび)を切った時に、十拳剣の先から滴(したた)り落ちた血から、武甕槌命と五百箇磐石(いおついわひら)(命)が生まれたとあります。そして、その命から、香取神宮の経津主命が生まれています。両神とも武神として名高く、武甕槌命は雷を、経津主命は剣を神格化した神とされています。その後、武甕槌命と経津主命はアマテラスの命令で、共に出雲に赴き、葦原中国の平定を行い、国譲りを成功に導きます。『紀』に記された出雲の国譲り神話では、大国主命がアマテラスに国を譲り、その代わりとして建てられた「天日隅宮(あめのひすみのみや)」が出雲大社の始まりとされています。また、武甕槌命は神武東征の際に、神武天皇に韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を授けて、大和朝廷の成立を助けてもいます。そして、即位後の神武天皇は、物部氏の遠祖宇摩志麻遅命(うましまちのみこと)に命じて建国に貢献した神剣「韴霊(布都御魂(ふつのみたま)・平国之剣(くにむけのつるぎ)とも)」を宮中に奉祀させたとあり、その物部氏と関係する神剣は、現在奈良の布留(ふる)山の北西麓に鎮座する石上神宮のご神体になっています。

 話を戻して、御園神社の祭神の二神の本来の鎮座地である鹿島神宮と香取神宮は、共に神武天皇の御世から関東の地を見守って来たとされて、共に東国支配の要に座す軍神として崇められてきました。そして、平安時代に成立した『延喜式』が「神宮」と呼んだ神社は、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮のみでした。「伊勢」は天皇家の氏神を祀り内宮と下宮とが対になっているように、「鹿島・香取」はペアであり、藤原氏の氏神にされてしまったと、古代史研究家の大和岩雄著『神社と古代王権祭祀』(白水社)にあります。
 記紀では、大和に君臨していた饒速日命(にぎはやひのみこと)が参上し、神宝を献上して恭順を誓ったとされていますが、その饒速日命の娘、伊須気依姫(いすけよりひめ)を妻にすること(婿入り)によって、大和の王となったのではと私は思っています。『記紀』では、連戦に次ぐ連戦に打ち勝って神武天皇が大和を制服したことになっていますが、渡来人が造った国々が連立していたと思われる古代の日本列島の各地では戦いが起ったとしても、程ほどのところで和睦をして、それこそ「矛を収めて」いたのであろうと思われます。2年前の平成24年が「古事記編集1300年」に当たったことで、『記紀』の成立の意図など、いろいろ考えてしまいました。
 『古事記』編纂の目的の一つである神聖な天上界(高天原)と地上の支配者である天皇家を結び付ける物語は、神武天皇の即位と大和王権を助けた諸勢力を、「韴霊(ふたつのみたま)」の剣や、道案内をした八咫烏(やたがらす) (3本足の烏)などに書き替えています。神剣は物部氏の武力を、八咫烏は賀茂氏の始祖建角身命(たけつぬみのみこと)を表していると思われます。そういえば、鹿島神宮の祭神である武甕槌神の別名に「フツ」の音があるので、物部氏との関わりも取り沙汰されてもいます。香取神宮の経津主命は、日本書紀のみに記されていて、枚岡社では斎主命(いわいぬしのみこと)と別名で祀られていて、両神とも剣神の神格を備えてもいます。

f0300125_1462560.jpg 大和王権成立後、日下(『紀』では「草香」と表記)の地には、出雲と同様、大和を譲った物部氏の祖、饒速日を祀る石切劒箭(いしきりつるぎや)神社が創建され、その祭祀者は宇摩志麻遅命の子孫が代々受け継ぐところとなり、今日の社家、木積(こづみ)家が誕生しました。「日下」は、また「日ノ本」ともなり、天皇なる君主神が君臨すべき、「東なる日下」=「日本」となります。「日下」を「クサカ」と書くのは、記だけですが。
 その後、大和朝廷に服属した日向諸県(もろがたの)君(きみ)の一族が日下の地に移り住み、宮中儀式などで舞う諸県(もろかた)舞を伝承していきます。この諸県舞は、戦闘とそれを抑止する所作に「太刀」を用いていて、やがては服従するというように、大和王権との関係を象徴的に示す舞ですが、それがいつしか舞楽の中に取り入れられて行き、中世の芸能の一つ「王の舞」に受け継がれて行ったのかもしれません。

桓武天皇の長岡京遷都と大原野神社

 その他にも多彩なことで知られる「元春日」枚岡神社の神事や祭事については、次回に譲ることとして、長岡京遷都を断行した桓武天皇は、御園神社を創建する時に、大和朝廷の始祖である神武天皇が創祀した枚岡神社から直接祭神を勧請したのではないかと私は思っています。それは枚岡神社に伝わる「平国祭」を執行することで、自ら新王朝の始祖となったことの宣言と、同時に新都、長岡京の守護を祈願してのことだったのかもしれません。というのも、桓武の皇后、藤原乙牟漏(おとむろ)(宇合の嫡男良継の娘、平城・嵯峨両天皇母)が、延暦3年(784)の長岡京への遷都にあたり、すでに奈良・春日社の神霊を勧請して大原野神社が創建されていたからであり、大原野神社は「京春日」と呼ばれています。そして、宝亀9年(778)、枚岡神社では、藤原氏の氏神として繁栄していた春日大社に倣い、春日社から経津主命(枚岡では別名の「斎主命」と表記)・武甕槌命の2神を迎えて4神を祀るようになりました。このように、諸神社の祭神の変遷にも、まだまだ謎がありそうですが、御園神社に春日大社の4神が鎮座することとなり、平城京を守護していた春日社と同様に長岡京を守護する一社となって、加えて新都を支える木津川の水運を見護(みまも)る社ともなりました。 (つづく)
                                  平成26年11月17日
(京都産業大学日本文化研究所上席特別客員研究員)
 

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by y-rekitan | 2014-11-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第56号より-04 物語の生まれ⑥

シリーズ「物語はどのように生まれたか」・・・⑥
女 郎 花 と 頼 風⑥
 ≪最終回≫ 
 土井 三郎 (会員) 

むすびにかえて―余話三題

(1) 下鴨御所音頭に寄せて

 先ごろ、「下鴨御所音頭・紅葉節」なる歌謡をある人から教えてもらいました。京都の下鴨地方に伝わるみやびな民謡ですが、そのなかに「三社めぐり」と題する歌詞があり、その来歴や歌詞全文などを記した冊子を保存会の方から送っていただきました。
「三社」とは、伊勢神宮・春日大社・石清水八幡宮を指し、京から秋の豊作祈願を志して、これらの社を巡拝する行程が歌われています。保存会から送られてきたパンフレットによると、「江戸時代までの下鴨・上賀茂の神社周辺は、どこまでも田畑が広がる農村地帯」であったとのことです。そこに住むお百姓さんたちにとって、神社参拝は大きな楽しみの一つであったようです。歌詞には、本歌の物語・和歌説話にちなむ歌語がちりばめられています。
 石清水八幡宮にかかわる歌詞を紹介してみます。
 今は盛の男山、鳩の峰越し来て見れば、名にし八幡の御社(おんやしろ)、登る山路の七曲り。彼(か)の頼風とおみなえし、くねると詠みし言の葉を、互に之(これ)も石清水。
 「互いに之も石清水」としゃれっ気たっぷりな言い回しですが、注目したいのは、石清水の枕詞に「頼風とおみなえし」の物語が添えられているということです。ことほど左様に石清水ないし八幡といえば「頼風と女郎花」の物語が付き物であったということです。そういえば、前回ふれた江戸時代の地誌のなかで、『出来斎京土産』(1677年刊)は、八幡の名所として、石清水八幡宮と男塚・女塚しかふれていません。要するに、「頼風と女郎花」の物語は、江戸時代の庶民に今以上に広く深く浸透していたということなのでしょう。

(2)松虫

 大阪市の阿倍野区に「松虫」という地名が存在します。松虫中学校をはじめ、交差点や上町線の駅名、バス停名などにも「松虫」の名が使われています。この町名は、謡曲「松虫」で知られる松虫塚が当町域に存在し、道路名の通称になっていたことが由来であるとのことです(阿倍野区の公式HPより)。
 謡曲「松虫」は、摂津の国、阿倍野のあたりに住む酒売りの男が市へやってきて酒宴をする若い男と知り合い、若い男の友が松虫の音に誘われて草むらで死んでしまったことを語り、松虫の音を聞くたびに亡き友を偲ぶという物語です。
 この物語は、平安時代の『古今和歌集』の序文から生まれました。
古今集の序に、歌をうたうことがどのような効果をもたらすのかを説くところで、「男山の昔を思ひ出でて女郎花の一時をくねるにも」の前に「松虫の音に友を偲び」とあるのがそれで、松虫の音を聞き、友を偲ぶにも歌を詠んで慰めるのだとするのです。「松虫」から友を待つ者の心情がほのめかされているようです。つまり、友を待つ孤独な心情も、歌を詠うことで慰められると説くのです。
 そして、鎌倉時代の「古今和歌集序聞書書(ききがきしょ)・三流抄」から具体的な生身の人間が登場し、物語が展開するのです。
「松虫ノ音ニ友ヲ忍ブトハ、昔、大和国ニ有ケルモノ、二人互ニ契リ深シ。津ノ国阿倍野ノ市ヘ連(つれ)テ行。市ニ別レテ、アキナヒスル程ニ(行別レテ)互ニ行方ヲ知ラズ。一人先立テ帰ケルガ、彼ヲ待テ居タリケル程ニ、夜ニ入テカレハ死ケリ。彼市ニ残ル友、彼ヲ待ケレドモ、見エザリケレバ、広キ野ニ出テ尋行ヌ(中略)松虫オオク啼処ヲ見レバ、彼者(かのもの)死テアリ。・・・・」
 「松虫の音に友を偲ぶ」とある古今集・序の一文から摂津国の阿倍野という具体的な地域が設定され、市で酒を売る男とその友との友情と、その友が野原で死ぬというストーリーが語られるのです。
 ここまで述べれば、八幡の「頼風と女郎花」の悲恋の物語と大阪市阿倍野区の「松虫の音(ね)」に誘われて友が死ぬ話が、ともに同じ経緯で生まれ、伝えられてきたことがわかるでしょう。つまり、平安初期に成立した『古今和歌集』序文にある文章がもとになって、鎌倉中期にできた註釈書で具体的な物語が創られ、室町時代にはそれが謡曲に発展し、少なくても江戸時代にはそれを物語る塚(石塔)が名所となって地誌や古図に紹介されるようになったということです。

(3)いつを昔の男山

 谷崎潤一郎の小説『蘆刈』に、男山を背にした夕刻の橋本を眺める印象的なシーンがあります。
 谷崎自身を思わせる「わたし」が、ふらりと水無瀬(みなせ)にやってきて、微醺(びくん)をふくんだまま帰るのが惜しいと思い、渡し舟で対岸にある橋本に向かおうとします。但し、橋本へは中洲で船を乗り換えないといけません。その中洲で船が来るのを待ちながら対岸を眺めるのです。
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 「淀川両岸の絵本に出てゐる橋本の図を見ると月が男山のうしろの空にかヽつてゐてをとこやま峰さしのぼる月かげにあらはれわたるよどの川舟といふ景樹の歌と、新月やいつをむかしの男山といふ基角の句とが添へてある。わたしの乗った船が洲に漕ぎ寄せたとき男山はあだかもその絵にあるやうにまんまるな月を背中にして鬱蒼とした木々の繁みがびろうどのやうなつやを含み、まだ何処やらに夕ばえの色が残ってゐる中空に暗く濃く黒ずみわたつてゐた。」

 ここにいう「淀川両岸の絵本」とは、文久元年(1861)に刊行された『淀川両岸一覧』にある「橋本」の図で、男山にかかる月と橋本の街の灯が絶妙な対比を見せる風景画です。
橋本の夜景からは三味線や鼓の音、女の嬌声や酔客のだみ声が聞こえてくるかのようですが、風景画の上部に掲げられる其角(きかく)の句が印象深いものです。
新月やいつを昔の男山
 今見るこの月は、いつも昔からこのように光輝いているということだ、と訳せますが、読者諸氏にはおなじみの『古今和歌集』仮名序にある「男山の昔をおもひて女郎花の一時をくねるにも歌をいひてぞなぐさめける」を想起するというものです。すると、其角が新月に寄せて懐旧の念にふける様を詠んだとも解せるものです。
 ちなみに、芭蕉十哲のひとりに数えられる其角ですが、晩年になると蕉風とは作風がやや異なり、軽妙で洒脱な俳諧を志したとのことです。また、「いつを昔」というフレーズに愛着をもったらしく、自身の俳書のタイトルに「いつを昔」を付したといわれます。  
<完>
            
【おもな参考文献】
『『駒札 百三十三番を立てる』(謡曲史保存会)
『古今和歌集』(岩波書店、新日本文学大系)
『謡曲百番』(岩波書店、新日本文学大系)
『謡曲集』(新潮日本古典集成)
『和歌大辞典』(明治書院)
『中世古今集註釈書解題』(片桐洋一著・赤尾照文堂)
『京都府の地名』(平凡社)
『藻鹽草』(大阪俳文学研究会編・和泉書院)
『新修 京都叢書』(臨川書店)
第6・第7・第10・第11・第13・第14巻
『京都府立大学文化遺産叢書 第3集』
『京都府立大学文化遺産叢書 第4集』
『男山考古録』(藤原尚次編著、石清水八幡宮)

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by y-rekitan | 2014-11-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第56号より-05 歴史サイクリング③

シリーズ「自転車で巡る名所案内」・・・③
歴史探訪サイクリング(Bコース)
―2回目―

 村山 勉 (会員) 

 11月16日(日)、秋空の好天気の下、八幡東部(Bコース)の歴史探訪サイクリングが行われました。レンタル自転車利用が3名、自家用が5名です。さざなみ公園で、自己紹介、趣旨説明、コース確認した後、3班にグループ編成して出発。わたしにとって、このイベントは日ごろの運動不足を解消する意味があります。
八幡の歴史を探究する会が作成した「八幡の歴史カルタ」に出てくる現地は何処にあるのか。どんな風になっているのだろうか。いつも見慣れた「東高野街道」「石清水八幡宮」「善法律寺」「神応寺」さんばかりでなく、もっと外にも、名所旧跡があるのではないか。そんな所を探ってみたい。そんな思いを実現する名所案内です。
Bコースは前回、7月6日に第1回目があり、今回が2回目となります。因みにBコースのルートをご案内しておきます。八幡市駅前→①相槌神社→②泰勝寺→③金剛律寺跡④城州八幡山案内絵図→大谷川防賀川合流地点→⑤戸津八幡宮→⑥内神社→⑦内里の旧家→⑧蜻蛉尻橋→⑨内里八丁遺跡→⑩御薗神社→⑪石田神社→四季彩館→⑫流れ橋→⑬伊佐家→木津川サイクリングロード→⑭川口天満宮→⑮薬園寺→⑯安居橋・N家住宅→⑰頼朝の松⑱絹屋殿⑲高良神社⑳頓宮→㉑石清水八幡宮五輪塔→八幡市駅前です。
時間の制約もあり、各所での説明は十分なものではなかったかも知れませんが、「ガイドブック」を後で読んで頂く事にし、その風景・たたづまい・雰囲気を楽しんで頂きました。
 4ヶ月前に行った時と異なった事がありました。③④は図書館工事中で見学できず、代わりに頼風塚(男塚)・片葉の葦を見学。「巡検道」石碑より南約100mの道路傍に「寝物語古跡國分橋」の三宅碑を発見しました。
 昼食の流れ橋では、橋桁が流されておりました(4年連続、架橋からでは21回)。
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 石田神社(もと牛頭天王祠と称)境内の石灯籠に「牛頭天王」の文字を発見。また、安居橋では、11月9日に見学させてもらったばかりの、国の登録有形文化財(平成24年8月)のN家住宅の話がありました。f0300125_957084.jpg
 今回のガイドブックには「城州八幡山案内絵図」と石田神社の「奉納算額」の写真も添付されました。算額奉納は伊佐家第10代当主伊佐政徽(いさまさよし)が18歳の時、京都の村井中漸から免許皆伝を許された記念に奉納したもので、5問あります。その問題も判明しておりますが、第5問を紹介します。
 第5問=「今、上中下農の一戸毎の鶏税を求める。上農311戸、中農739戸、下農3513戸で、納める税は全体で44384羽である。上農は下農より1戸で21羽多く納める。上中下農の1戸毎の鶏税はいくらか」(古文を現代文に直してあります。)
 街中から八幡東部に出るだけで、雰囲気も変わり、あちこちに見るべきものもあり、八幡市にはいろんな歴史が健在しています。事故もなく、健康的な、楽しい一日を過ごすことが出来ました。又、皆様の参加をお待ちしております。


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by y-rekitan | 2014-11-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第56号より-06 流れ橋存廃

流れ橋存廃の意見表明

―読売新聞・朝刊9/23の記事をみて―

恩村 政雄(会員)


現在、八幡市各地で流れ橋の存続を要望する署名が取り組まれています。また、京都府が改修の方法について広く意見を求めたとのことです。恩村さんが以下に意見具申なさいました。ご本人の了解を得て誌上に再現いたします。

●流れ橋の存廃について
意見の主旨  存続すべきである
その根拠 
流れ橋は、地域自然環境に溶け込んでおり、京都だけでなく日本の原風景を表現しており、景観価値は高い。
流れ橋は、京都映画村施設の一部を構成していると広く周知されている。
流れ場は、映画ファンにとってノスタルジーを感じさせる構造物であり、かつ全国的にも希少な遺産で、京都観光の一翼を担っている。

●修復費用について
メディア報道によると、回復修理に数千万円を要するとあるが、その金額が理解できない。
元々、流れ橋は江戸時代の一般的な橋を表したものであるだけに、頑丈で立派な橋板ではなく、質素な材質の方が訴える力や共感を呼ぶ力は強いと思われる。
例えば、橋板は間伐材(径10-15cm)の丸太を半分に切ったものを橋板として使用し、資材費の節約を図る。 (橋板は上が平面で下が丸面のお椀型形状となる)
間伐材の使用は、同時に山林業界の活性化をも促す効果が生じる。

●流出・破損対策について
橋げた
  • 水切り、流木や枝・ゴミ等の流出物対策として、50メートル又は100メートル上流に、杭を設置し、水流・圧の軽減を図る。
    (形状は嵐山・渡月橋の橋げたを参照する) (杭の距離は景観を考慮する)
  • 同じく、流れ橋の橋げたにも同様の対策を講じる。
橋板
  • 間伐材を2分した材木を1間幅の大きさに束ね、かすがい、ワイヤー等で留めた筏様とする。
  • 橋げたには仮止めとし、流れやすいようにしておく。
  • 橋板流出回収対策としては、1間幅単位ごとに回収用ワイヤーを取り付け、その一端は、別途水中に打ち込んだ杭、または両岸の繋留物に取りつける。
    (ワイヤーの一端を橋げたに取り付けると、端げたの損壊の恐れがあるので厳禁とする)
●通行の法定規制措置について
通行は徒歩通行専用にすべく法定規制措置を講じる。(自転車、バイクは押して歩く)

以上、私の考えを述べさせていただきました。
    
by y-rekitan | 2014-11-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第56号より-07 八幡宮Q&A⑦

シリーズ「石清水八幡宮の歴史Q&A」・・・⑦
第7回

Q: 現在、石清水八幡宮で行われる神事が執行される際に、それを皇室に報告しているものがあると聞いています。どんなものがあるのですか。

A: 勅祭「石清水祭Jが終了した際に、 宮内庁にその旨を打電しております。昭和の末年頃までは、9月15日夜、だいたい午後8時過ぎになりますが、八幡大神の神霊が三座とも山上の御本殿に入御されたのを確認してから、当日の社務所宿直者が宮内庁掌典長宛「至急報」として、「石清水祭滞りなく終了すJと打電していました。
 天皇陛下は、石清水祭が終わるまで御公務の姿勢を保たれ、無事終了したという報告をお受けになって、ようやくお休みになられたと漏れ承っております。但し、平成の御代になってからは、至急電報というサービスがなくなり、夜間配達が不可能となったため、翌16日の午前中に打電するようになっています。
 他にも、宮内庁に報告しているものに選座祭があります。最近では、平成21年4月25日・26日に行われた「平成の大修造J本殿選座祭における「遷座之儀」および「奉幣之儀jに際して、報告が行われましたo この時は神社本庁の指導により、電報ではなくファクシミリが初めて用いられ、4月26日午前10時斎行の奉幣之儀が終了した時点で、宮内庁掌典長宛、直接FAXにて終了を奉告いたしました。
                    (回答者: 石清水八幡宮禰宜、西中道氏)


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by y-rekitan | 2014-11-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第56号より-08 磯田氏の講演

磯田道史氏の講演に学ぶ

野間口 秀國 (会員)


 この9月下旬にTVで放映された「武士の家計簿」を観ながらこの度の磯田道史氏の講演のことを考えておりました。早めにチケットを求め先輩のA氏に薦められた同名の本にも目を通して当日の会場に足を運びました。
 講演に先立つ舞台には八幡市のゆるキャラ「タケちゃん・ノコちゃん」を初め京田辺市の「一休さん」他、近隣の町のゆるキャラが複数出演して会場はまさにゆるーい楽しい雰囲気に包まれました。講演の内容もまずゆるキャラからでした。氏は2000年頃前の卑弥呼の時代から、嘴の付いたお面をかぶり、羽根の付いた衣装をまとった女占い師(シャーマン)はその始まりではないだろうかと話されました。

 続いて「石清水八幡宮にどなたが祀られているのか」の話では、比売大神に関連して、現在の福岡県宗像市が当時は海を挟んだ大陸との往来を可能にする唯一の窓口であったことや稲作にも必要であった鉄の輸入がその原材料では無く中間製品(インゴット・塊)であったことなどが興味深く聞けました。また、鬼門(北東の位置や方角)の謂れが中国の北京であることも初めて知りました。

 氏の引き出しはとても多く、次々とその引き出しを開けて楽しくて興味を引く話が続きました。それぞれを紙面で書くことは難しいですが、それらは、戦の起きた場所やその特徴、明智光秀の戦略と敗戦の理由、弓矢の戦では兜の天井に神の降りる孔があっが鉄砲を使う戦では孔が無くなったこと、豊臣秀吉が八幡様になれなかった理由、八幡が歴史の交差点であり自由世界(アジール)であったこと、謡曲「女郎花」にて詠われた和歌の解釈、八幡宮の神人のこと、嵐山の渡月橋の設計者のこと等々です。

 また、徳川家康の側室は3期に分かれること、鷹狩りや戦地になぜ2名を連れて行ったのか、お亀の方が上品で教養のあった女性であったことなどは家康の性格を知るうえでも分かりやすい内容でした。八幡の歴史を学ぶ者としてそれぞれの内容が興味あるものでしたが、私にとって印象に残った話は、徳川家康は朝廷と神社が結託することを恐れて大名を置かず、小さく分割して朱印状にて八幡を非領国とし周辺大名に見張らせたことです。また、鳥羽伏見の戦いにおける薩摩・長州の戦いのポイントも印象に残った話に加えたいと思います。
 歴史を多面的に学ぶことの必要性やその楽しさを教えていただいた磯田道史氏の講演でした。
by y-rekitan | 2014-11-28 05:00 | Comments(0)

◆会報第56号より-09 『歴史たんけん八幡』

シリーズ:『歴史たんけん八幡』の発行に向けて・・・①

『歴史たんけん八幡』の発行にむけて

同編集委員会事務局
 


 本年度の歴探の活動方針の一つに出版事業があります。そこで、年度当初から毎月一回「編集会議」を開いてきました。メンバーは、歴探の会員を中心に、これまで八幡の歴史や文化の活動を担ってきた方々にも入って頂き、編集の趣旨や内容を練り上げ、執筆者も確定してきました。

出版の意義および趣旨
八幡の小学生(高学年)と中学生に、郷土の歴史をわかりやすく平易に伝える本を届ける。あわせて、「歴史と文化が息づく八幡」を市民内外にアピールする。
教科書のような羅列的・網羅的な記述を避け、物語的な記述にするなど読みやすさを追求する。そのためにもビジュアルな編集に心がける。
謎が残るテーマについては、様々な説を示して安易に結論づけない。
全体の整合性をふまえ、執筆者の記述をもとに、編集委員会の責任で加筆・訂正するなど文章表記を検討する。
研究者や専門家の意見を聞くなどして、研究の成果や到達点をふまえたものにする。
編集委員会は、学校現場の教師をふくめ、執筆者と編集に携わるにふさわしい方を選んで構成する。

 この秋には、八幡市役所に赴き、佐野副市長や谷口教育長に面談し協力を要請しました。副市長も教育長も趣旨に賛同し、資料の提供などに協力する旨確約していただきました。次に、石清水八幡宮に田中宮司を、そして松花堂美術館に石橋館長を訪ね、出版の趣旨をお話し、やはり貴重な資料を提供して頂くことや執筆にも協力してもらうことを了承していただきました。

主な内容
  原始古代の八幡     
 (先史時代の八幡、八幡の古墳、廃寺は語る)
  八幡神と男山遷座    
 (八幡神はどんな神か、石清水八幡宮の成立、放生会の歴史ほか)
 
  町の成り立ちと神人の活躍
 (市はどこに立ったか 中世の町と座、神人とは何かほか)
  元寇と叡尊のいのり   
 (元寇、石清水五輪塔、『徒然草』の話、山上のにぎわいほか) 
  南北朝の争乱と八幡   
 (後醍醐天皇と八幡、「八幡合戦」、室町幕府と善法律寺ほか)
  天下人と八幡      
 (織田信長と八幡、豊臣秀吉と神應寺、お亀の方と正法寺ほか)
 
  松花堂昭乗の人と芸術  
 (昭乗の一生、寛永の三筆と昭乗、昭乗の交友関係ほか)
  淀屋と八幡       
 (淀屋はどのように力を蓄えてきたか、淀屋と神應寺ほか)
  八幡八景        
 (八景とは何か、八幡八景と柏村直條、八幡八景連歌発句絵巻)
  河川と歩んだ八幡    
 (淀川水系の水運と渡し船、蜻蛉尻川の堤切事件、木津川の付替えほか)
  江戸時代の村の暮らし  
 (庄屋の日記から、村の年中行事や掟、綿と茶、美濃山の開発ほか)
  鳥羽伏見の戦いと八幡  
 (橋本の陣屋と楠葉砲台、八幡大神の大住遷座、八幡炎上ほか)
  近代化と八幡      
 (神仏分離政策と石清水、学校の始まり、町村合併、鉄道の開通ほか)
  戦争と八幡       
 (学童疎開、八幡の竹の供出ほか)
  高度経済成長と八幡   
 (男山団地のたんじょう、昭和の水害、一号線の開通ほか)
 ほかにも、コラムとして、「川口天満宮と内神社」「御薗神社とずいき祭り」「高良神社と太鼓祭り」「男山を離れた仏堂と堂宇」「二宮忠八と飛行神社」「エジソンと八幡の竹」「橋本の町並から」などを予定しています。また、「八幡の歴史人物事典」として40人程の歴史上の人物をとりあげ、八幡の歴史の奥深さを知ってもらいたいと思っています。
 なお、監修者として國學院大學の鍛代敏雄先生にお願いしましたところ、快く引き受けていただきました。そして、挿絵は、小山嘉巳さんに提供していただくことになりました。

 最後に、編集委員会を代表して、編集委員長の伊佐錠治さんからのメッセージをお伝えします。編集から刊行、普及にいたるまで「編集(制作)委員会」が責任もって取り組みたいと考えています。

 この度、編集委員の皆様のご推挙により委員長と言う大役をお引き受けすることになりました。
 歴史・伝統と言う文化はその都市のレベルの高さを示すと言われています。豊かな八幡を培うには子供たちが郷土の歴史を理解することが大切な一歩と思っています。子供たちが興味を持って読んでくれる本を出版するため努力いたしますが、大円鏡智とは縁遠い身であり、『歴史たんけん八幡』が誕生するには会員は勿論のこと、皆様方のご支援が必須でございます。よろしくお願い申し上げます。
                             伊佐 錠治  

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この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2014-11-28 04:00 | Comments(0)